はてなキーワード: ポスターとは
カード会社の外圧で初めて性的消費をゾーニングできそうなんだよね、日本は。
今だって、自主的に鍵をかける等の検索避けをしようとしないし。
あれだけ言われたのに。
はっきり言って情けない。
コンビニではセンシティブな雑誌に独自でシュリンクをかけてたよね。
本を売る側の権利者が合法的に「ポスターにシールを貼った」、ということ。
お店側の自主的な配慮が、今のゾーニング完遂の足掛かりになったんだ。
だから本当は、やれば出来るはず。
nippon.com版の方が先に書かれたので、nippon.com版→内田ブログ版の順に掲載。
適宜改行等を加えた。
nippon.com版
https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/
http://blog.tatsuru.com/2024/07/12_0846.html
(01)
nippon.com版
今回の都知事選では、「選挙は民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的な認識が今の日本からは失われつつあるようだ。
今回の都知事選では、選挙は民主主義の根幹を為す営みであるという認識がかなり深刻な崩れ方をしているという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する代議員を選ぶ貴重な機会であるという認識が日本からは失われつつあるようだ。
(02)
nippon.com版
知事選の当選者は1人に限られるのに「NHKから国民を守る党(NHK党)」が関連団体を含め24人の候補を擁立した。そして24人分の掲示板の枠に同一のポスターを貼るなど“掲示板ジャック”をした。NHK党は、一定額を寄付した人にポスターを張る権利を譲渡する行為にも及んだ。掲示板には選挙と関係ない人物や動物の写真、サイトに誘導する2次元バーコードなども張り出された。NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつな写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった。政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。
(無し)
(03)
nippon.com版
(無し)
投票する人たちは「自分たちに利益をもたらす政策を実現してくれる人」を選ぶのではなく、「自分と同じ部族の属する人」に投票しているように私には見えた。自分と「ケミストリー」が似ている人間であるなら、その幼児性や性格の歪みも「込み」で受け入れようとしている。だから、仮に投票の結果、自分の生活が苦しくなっても、世の中がより住みにくくなっても、それは「自分の属する部族」が政治権力を行使したことの帰結だから、別に文句はない。
自分自身にとってこの社会がより住みよくなることよりも「自分のような人間たちから成る部族」が権力や財貨を得ることの方が優先する。これが「アイデンティティー・ポリティクス」の実態である。
自分が幼児的で、利己的で、偏狭で、攻撃的な人間だと思ったら、かつてならそれは「成熟」へのインセンティブになった。「もっとちゃんとした大人になろう」と思った。でも、今は違う。今は「そういう自分がけっこう好き」だとカミングアウトすることの方が人間的で、端的に「よいこと」だとされる時代なのだ。
正直言って、私には意味がわからない。この人たちはそんなに自分が好きなのか。そんなに同じ自分のままでいたいのか。私は同じ人間のままでいるなんてまっぴらである。息苦しいし、不自由だし、何より退屈で仕方がない。「自分自身に釘付けにされていること」をエマニュエル・レヴィナスは考えられる限り最も苦痛な体験だと書いていた。私もまったくそうだと思う。そもそも「自分が自分でしかあり得ないことの不快」を推力として、生物はここまで進化してきたのではないのだろうか。単細胞生物が単細胞生物であることに自足していたら話はそこで「おしまい」である。だから、アイデンティティーに固執する人たちを見ていると、私は奇妙な生き物を見ているような気になる。なぜ「そんなに自分自身でいたい」のか。自分であることにうんざりすることがないのだろうか?いや、ほんとに。率直にそう訊きたいのだ。
選挙の話をしているところだった。
今回の都知事選では、選挙を単なる売名や金儲けに利用しようとする候補者が多数登場した。
(04)
nippon.com版
公職選挙法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的に振る舞うはずだ」という仮定の下に設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
公選法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的にふるまうはずだ」という仮定のもとに設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、目端のきいた人間なら誰でも簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄することは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。
(05)
nippon.com版
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍晋三氏、菅義偉氏、岸田文雄氏の3代の首相による自民党政権の立法府軽視が原因であると私は考えている。
だが、選挙がこれだけ軽視されるに至ったのは2012年以後の安倍、菅、岸田三代の自民党政権の立法府軽視が一因だと私は考えている。
(06)
nippon.com版
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、自民党政権は行政府を立法府より上位に置くことにひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党が激しく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権は極めて熱心だった。
日本国憲法では立法府が「国権の最高機関」とされているが、安倍政権以来、行政府を立法府より上位に置くことに自民党政権はひとかたならぬ努力をしてきた。その結果、国政の根幹にかかわる重要な事案がしばしば国会審議を経ずに閣議だけで決定され、野党がはげしく反対する法案は強行採決された。国会審議は実質的には意味を持たない「形式的なセレモニー」であるように見せかけることに自民党政権はきわめて熱心だった。
(07)
nippon.com版
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩(も)らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
安倍元首相は「私は立法府の長である」という言い間違いを繰り返し口にした。これはおそらく「議席の過半数を占める政党の総裁は自由に立法ができる」という彼自身の実感を洩らしたものであろう。だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。
(08)
nippon.com版
現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
現行憲法下で独裁制を実現するために、さしあたり最も有効なのは「立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーに過ぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
(09)
nippon.com版
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「普通の市民以下かも知れない」という印象を扶植することに並々ならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。
だからこそ、自民党はこの12年間、国会議員は(自党の議員を含めて)知性的にも倫理的にも「ふつうの市民以下かも知れない」という印象を扶植することになみなみならぬ努力をしてきたのである。そして、それに成功した。知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることにはみごとな成功を収めた。
(10)
nippon.com版
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。
(11)
nippon.com版
NHK党は、暴露系ユーチューバーで有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員を国会に送り込むなど、国会の威信、国会議員の権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである。
(無し)
(12)
nippon.com版
今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を忠実に踏まえている。
今回の都知事選で二位につけた石丸伸二候補は安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を彼は忠実に踏まえている。
(13)
nippon.com版
日本維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
維新の会も「独裁志向」では変わらない。「議員の数を減らせ」という提言は「無駄なコストをカットする」合理的な政策のように聞こえるが、実際には「さまざまな政治的立場の代表者が議会で議論するのは時間の無駄だ。首長に全権委任しろ」という意味でしかない。
(14)
nippon.com版
自民党派閥の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
自民党の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。
(15)
nippon.com版
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革を目指すだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕(むしば)まれてへたり込んでしまうだろう。そして、どうやら日本人の相当数は、この事件のニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように見える。
このメッセージを「警告」として受けとった人は「今のままではいけない」と思って政治改革をめざすだろうが、このメッセージを「現状報告」として受けとった人は「民主政は終わった」という虚無感に蝕まれるだけだろう。そして、日本人の相当数は、このニュースを「世の中とはそういうものだ」という諦念と共に受け止めたように私には見える。
(16)
nippon.com版
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用が極めて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政は簡単に衆愚政に堕す。だから、民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治的成熟を求める政体は民主政の他にはない。
英国の首相チャーチルはかつて「民主政は最悪の政治形態だ。ただし、過去の他のすべての政治形態を除いては」と語った。なぜ民主政は「最悪」なのか。それは運用がきわめて困難な政体だからである。民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。 Permalink | 記事への反応(1) | 18:42
広告費を払い駅構内に掲示するポスターと、無許可で貼る違法シールは等価である
そうでも思ってないと出てこないよね
単純にポスター張る金払ってるのは最初の人なので、表現の自由とは別の理由で上書きシール剥がすだけで終わりです。
タダで張れるとこならズラしてまた張るか、同じように上から張り直すだけです
シールを貼るのが誰か明確になってないから増田の意図が伝わってないと思う。
「ポスターを貼った主体が批判を受けて自主的にシールで隠した」なら撤去するのと同じこと。
「ポスターを問題視するフェミがシールで隠した」なら、すでに多数の指摘がある通り器物破損なので表現の自由以前の問題でアウト。
要するに、フェミニストも表現の自由を大切にしてるからに他ならないよ。
切り分けられやすいけど、オタク、腐女子、そしてフェミニスト、表現の自由戦士、それらは別々のジョブじゃあなくて。
腐女子としてジャンルの推しに熱を上げつつ、一介のツイフェミの者としてTLを消化して、同時にセンシティブな表現が炎上を招かないか? と自分を省みることで表現の自由を守護ってる、そんな人もいます。
例えば、性的に問題があるとフェミニストから指摘があって、炎上するポスターに、
通常通り、公共空間に貼られたポスターだろうと、表現の自由がある、と反論しようと思ったら、
それは自動的にポスターの上に貼られたシールを擁護することになってしまう。
ポスターを擁護し、しかしシールを貼る表現の自由は否定しなければならなくなる。
✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎---✂︎
いや、 現行法おじさん と 受忍限度おじさん 、君らは表現の自由戦士ではないだろ・・・。
しかもそれぞれ、
「私たちのクレームも現行法で許されてる」「男にとって都合のいい受忍限度を男が決める不平等」
でワンターンキルされてしまう。
以下詳述。
そもそもフェミさんたちの理論的背景って明らかに社会主義だろ?
で、社会主義国家とかってさ、歴史の教科書とか見てもわかると思うんだけど、「文化戦略」「文化闘争」みたいなのめっちゃやるじゃん。
なんか一目見て「プロパガンダだな~~」って思うようなポスター作ったりとか。
わかりづらければ北朝鮮の「コンギョ」とか思い出してみてもいい。あれもプロパガンダ音楽じゃん。
こういう事例見てわかるように、社会主義にとって文化ってのは「ある思想をどれだけ効率的に大衆に伝えられるか?」が重要なポイントなんだよな。
そう考えればフェミさんたちが表現におけるポリコレを重視する理由もよくわかる。
「この作品はジェンダーについて(フェミさんにとって)正しい描写をして、その思想を織り込んでいるから100点」
「この作品は政治的に正しくない思想(右翼思想とか)が織り込まれているから-100点」
みたいなジャッジになるわけさ。
それを細分化すればキャラ造形だったり、キャラの発言だったり、そういうとこまで「いかに正しい思想が織り込まれているか?」で評価する。
一方でオタクは物語それ自体を面白いか面白くないかでジャッジする。
物語として面白いか面白くないか?というのは、その作品における論理性が高いかで判断される(と俺は思う)。
「この作品は冒頭におけるAというシーンを結末においてA'として描いており、その変化の過程がスペクタクルでわくわくさせられるから100点」
「この作品のBというキャラの発言がブレすぎていて意味不明なので-100点」
みたいなジャッジになるわけ。
そら噛み合わないよねw
結局、フェミさんってか左翼、リベラルは文化を舐めてかかってるから思想の広告塔としての価値しか見出していない。
だから広告塔としての価値がない作品は表現規制しようが焼こうがお構いなしなわけ。
もう少し忍耐強い人のために実例を出すと、黒人になったリトルマーメイドあったろ?あれは
フェミさん・・・「これまで白人が演じていたリトルマーメイドをブラックパワーで上書きした。これは人種(アメリカの黒人に限定される)差別はよくないという思想を適切に伝えているから100点!」
オタク・・・「そもそもこれまで白人で赤い髪として描かれてきたアリエルを黒人にするには相応の理由が必要では?これまでの『リトルマーメイド』という作品が積み重ねた定型を崩す意味が無いように見えるから-100点」
となるわけ。もう立ってる土台が違い過ぎるでしょ
もちろんオタクに単なる差別主義者もいるだろうけど、それは本論では割愛な。言い出すとキリないし。
最近作られた指輪物語のアマゾン限定かなんかのドラマで黒人ばっかりがいい役に起用された話。
あれも
フェミさん・・・「黒人も政治的リーダーになることができるしそうあるべきという正しい政治思想を伝える機能があるから100点」
オタク・・・「あれは作中時間的に前日譚で、以前作られた指輪物語に接続する。そうすると、以前作られた指輪物語には黒人があまり出てこないが、そこの論理性はどうなるのか?前日譚から本編時間までの間に黒人キャラの子孫は絶滅させられたのか?作品時空を考えていないから-100点」
となるわけだ。
こうやって実例を示してきたからもうわかると思うけど、この件に関してはフェミさんっていうか左翼・リベラルが感覚を改めるべきなんだよね。
多分これなんて読まれないだろうから大口叩くけど、フェミさん・左翼・リベラルは文化を舐め腐るのをやめてくれ。
ま、そんなことわかるようなヤツならリベラルなんかやってねぇか。
石丸氏が自身の選挙ポスター制作費を未払いしていた問題で、最高裁が上告を棄却して敗訴が確定した。
これについて、表面的な「裁判敗訴」のみで批判している人も多数見かけるが、
この問題は「石丸氏の契約締結・履行能力」が問われる非常に重い問題に思われる。
事の経緯は、安芸高田市長選で石丸氏が選挙ポスター制作を依頼した印刷業者間との契約内容のトラブル。
石丸氏は「公費」での制作を依頼し、それを印刷業者が承諾したが、肝心の「公費」の金額が明示されていなかった。
印刷業者が制作後に代金(106万円)を請求したところ、「公費」で賄える金額(34万円)から超過していることが判明。
残額(72万円)が未払いとなっていた、とのこと。
一審、二審ともに敗訴していたが、7/5付で最高裁が上告を棄却し、敗訴が確定した。
石丸氏は恐らく軽視しているのであろうが、
この一件は「高々72万円の支払いが確定した民事裁判」で片づけられない、非常に重大な問題に思われる。
そもそも裁判沙汰になった根本的な原因は、印刷業者との契約をしっかり詰められていなかったからである。
無論、契約には双方の合意が必要であるが、先般の裁判で石丸氏が敗訴していることは
契約に際して石丸氏側に問題があった、との司法判断が下ったといえよう。
これが最初に挙げた「石丸氏の契約締結・履行能力」に対する疑念である。
経済学では、組織は「契約の束」と表現されるが、それは自治体にも当てはまる。
例えば、インフラ整備について自治体が業者に発注すれば、そこには契約が発生する。
自治体職員は「任用」であるため労働契約関係では無いという見方もあるが、労働の対価として給与を支給という点においては
そして、これらの契約により成立する自治体の長が知事であり、市区町村長である。
石丸氏の裁判の件で問題となった「契約」は私法契約、自治体の「契約」は公法契約であるため、
同じ「契約」であってもその意味するところは異なることは留意が必要である。
とはいえ、ポスター制作費の契約すらもまとめられない石丸氏に、
数多の契約を締結する自治体の、その首長を任せられるだろうか??
繰り返しになるが、本件敗訴は石丸氏の首長としての能力に関して、
首長として立候補されても絶対に票を投じたくないと思っている。
田舎には文化がないだの、都会にある文化は消費するものに過ぎないだろという論争があるが、私は今回の記事に結構共感した。
映画とか展覧会とかが趣味の人間に田舎は辛い。ウィンタースポーツとか山とか海とかが趣味の人は田舎も楽しめるのかも。
もう一つ、田舎は医療が進んでいない。このことも訴えたくて記事に乗っかってみた。
転勤で田舎(富山の東側の方)に来たのだが車の免許を持っていない。これは免許を持ってないのに転勤を命じた会社と見通しの甘い私の両方悪い。
そのため、映画に行きたくてもそもそもIMAXなど存在しない。もちろんスタバもない。
映画、展覧会をネットで探しだし、または買い物に行こうとしたら、まず日を決めて、天気を調べて、交通ルートを調べて、帰りの時間を調べて、もしものために代替案も検討し帰りの時間を気にしながらやっと出発となる。
そのため、会社帰りにレイトショーやウィンドウショッピング、こんなイベントやっているんだちょっと行ってみよう、今日は疲れたから外食しよう、とかいうことは不可能。
これは車を持っていても難しかったかも。そもそも情報を得る機会がないのだから。
富山は良い車に乗り、結婚して男の子を産み二世帯住宅を建てることが至上であり、閉鎖的で常に体裁を気にする。人の噂と陰口が最上の娯楽である地域も多い(違う富山の方、ごめんなさい)。
私は車もなく独身で他県出身、趣味は読書と映画と展覧会やコンサート、とにかく周りと違いすぎていじめぬかれ、現在は適応障害を発症して地元で療養中である。
地元に戻って驚いた。
人が歩いている。誰も私をじろじろ見ない。
駅に行けばイベントやいろんな社会問題に対する啓発のポスターまで貼ってある。
そしてお店の人が丁寧で情報が正しい。
思えば富山のお店は総じてものが高いし、商売がいい加減だった。店舗数が少なく競争がないからだと思う。
かなり前に富山人は嘘つきだというダイアリーがあったが、この辺に端を発しているのだと推測する。
そして私は今地元で、前述の適応障害のためメンタル系と持病の婦人系の病院にかかっているのだが、診断が的確で早くて本当に驚いた。
富山でなんとなく診断されたいくつかの病名は、地元の医者に即否定され、早々にカウンセリングの予約もできた。
多分田舎は、科によっては医者自体に実地に基づいた知識が少ないのだろう。
メンタルクリニックならそこにかかるという発想がそもそもなく、症例も少ないのだろう。
ちなみに婦人科の方は、富山に行ってすぐ、私が住んでいた市唯一の産婦人科に薬をもらいに行ったところ、その病気自体医者は知らず、一から説明するはめになった。これも衝撃的な思い出である。やれやれ。