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はてなキーワード: 飲み会とは

2023-01-16

anond:20230115215957

会社飲み会不特定多数の人と居酒屋に行ったとき

自分の隣に座られると「ああ、俺って生きてて大丈夫なんだな」と嬉しくなる

anond:20230116093448

案外そういうの男でもあるじゃん

若い頃は飲み会断れないとか、有給申請しにくいとかさ

その場の期待を裏切れないとか若い頃にはあるもんでしょ。

それが年を取ったら口に出せるというのは良くあること。

こはちょっと考えた方がいいかなと思ったけどなあ

クソフェミ死ねばいいけどね

2023-01-15

営業タイプ人間が苦手

調子良くて、よいしょが上手くて、人にさりげなく探りを入れる。

人のネタ的なエピソードはいつまでも覚えていて、飲み会とかで盛り上げるためにそれをおもしろおかしく脚色する。

年上の人間にやたら媚を売る。あの胡散臭い笑顔...。


営業タイプ人間が苦手。

笑点桂宮治とか得に。まんま当てはまる。


愚痴。関わりたくない。

絶対本音を言いたくない。

乳房縮小術を受けようと思う

長年デカくて悩んでいた胸を小さくする手術を受けるために整形外科カウンセリングを受け、見積もりを取ってきた。インターネットに星の数ほどある整形レポートのなかでも乳房縮小術の症例はとても少ない。あっても整形外科医院サイト内に内容と手術法および画像数枚が簡潔にまとめられている程度。FtM の方のブログも読んだが、そうではないケースで手術をしたという国内症例個人の記録は少なかった。まだ手術を受ける前の内容ではあるが、ここまでの経緯を記録したいと思い筆?をとった。

増田は30女、カップサイズFかG75、既婚、子なし、共働き会社員都内在住、やや低身長、標準体重

胸が大きいと気づいたのは高校に進学し最初の体育の授業でクラスメイトにいじられたことが最初だった。増田の家庭は若干放任毒親気味でブラを買ってもらえなかった。生活に不便だったのでコンビニ振り込みで下着ネット通販したのを覚えている。その後胸は私の意思に反してどんどん巨大化し、部活文化祭等で揃いのユニフォームなどを着用する際に目立つようになった。その間進学から就職、今に至るまで典型的ないじられ方(見せびらかすなとかエロいとか羨ましいとか頭が悪いとか何カップとか)やセクハラをされ続けた。いじられた時、何か言い返すことで胸が大きいことを自慢しているような構図になり嫌なやつだと思われたり、褒めているつもりだと主張する人の前で変な空気になるのが嫌だったか愛想笑いで誤魔化しながら20数年やり過ごした。切になんとかならない体型いじりは社会から無くなって欲しい。

もともと増田モード雰囲気が好きだがその方向性は諦め、下着サイズがないので高額で購入し、日常的にコスプレ用のさらしで胸を潰していた。スポーツや式典は胸周りをガッチリテーピングした。物理的に息苦しい思いをするので、毎度イベントで体調が悪くならないかハラハラした。それでも人に指をさされるこの体型が本当に本当に嫌だった。「私は胸が小さくて悩んでいるのになにを謙遜しているのか」と逆ギレする女性などもいるのだが、お互いコントロールできないことなのだし、別にこちらとしても小さくはできないので、勝手敵対視しないで欲しい。一時、ダイエット美容体重まで減量した際も胸だけが残り絶望感でいっぱいだった。

自分の胸が嫌だという話が長くなってしまったがなんだかんだダボダボの服を着ながら日常生活をやり過ごしていた。そんなある日、海外スポーツ選手がパフォーマンス向上のために乳房縮小術を受けたという記事を読んだ。こんな方法があるのかと、興味本位日本施術ができるのか、金銭的にはいくらでできるかと思いネットで調べた。そこで冒頭に述べた通りFtMの方の体験談、そして施術可能整形外科のページや評判をいくつか見比べ、さっそく二つの院に予約をとった。

いままで胸が大きくて悩んでいると人に言うと「贅沢な悩み」だと一蹴されてきたので、受診するのはとても緊張した。顔面を含めそもそも整形自体初めてだった。全国展開の整形外科でも乳房縮小術はレアケースなので執刀医が少ないらしく、一つは自宅から40分もかかる院だった。

真剣に悩んでいることを整形外科医とスタッフに打ち明けたところ、ちゃんと話を聞いてくれて、正直涙が出そうなくらい嬉しかった(高額な施術を控える客だからかもしれないが…)。

どちらの院もだいたい同じ流れで、医師女性スタッフの二人体制

・どのぐらいサイズダウンを目指すか

妊娠出産への影響

・ダウンタイム

受診スケジュール

・手術痕

金額

について説明を受けた。

まず胸を小さくする方法は、脂肪吸引もしくは乳腺切除、また著しく胸が垂れている場合釣り上げ術というもの適用するのが主流だそうだ。増田のケースは乳腺が発達してしまっている胸のタイプで、脂肪吸引だけでは理想サイズダウンは望めないため、乳腺切除が必要だと分かった。ダイエットしても胸が小さくならないということが受診によってわかり納得感があった。

また、胸の中身を出して小さくしても乳首位置や皮膚がそのままだと見た目がおかしいので、周辺の整形手術を行う必要がある。施術は乳輪の下から縦に皮膚を切り裂き、胸の外周を半周切り取って乳腺切除をするため、そこそこ大掛かりな手術となるとのことだった。多少の傷跡が残ること、完成までのダウンタイム回復が早くても半年ほどかかることも伝えられた。

結論、経産婦ではない場合は乳腺切除は後戻りできないのでよく考えてから決めてくださいとのことでカウンセリングは終了した。やはり出産前に施術を受ける人は少なく、子育てを終えた人がアンチエイジングとして釣り上げ術と同時に縮小術を受けるケースがほとんどらしい。個人的にはそこまで子供が欲しいわけではないし、さらに胸が大きくなった自分妊娠中や授乳姿を想像するのもやや気分が悪くなるが、ちょうど30代に差し掛かる年齢ということもあり、別にセックスレスというわけでもないので、やはり後戻りできない施術とダウンタイム6ヶ月を考えるとやや怯んでいる。

病気ではないので、健康保険適用されないため支払いは全額自由診療の料金になる。いくつかの院で見積もりをもらったところ、麻酔代などを含め日帰り手術130〜150万円前後相場で、脂肪吸引のみで済む人だと80〜100万円弱ほどになるらしい。都内なのと、ある程度名の知れている整形外科を中心に見積もりをとったからこの金額になるのかもしれないので、地方個人院や美容先進国韓国ではどうなのかはまだわからない。またモニターといって、症例写真提供すると2〜3割ほど金額から引かれるようだった。100万超の手術費用の捻出は私にとって大金だが、20数年間胸がデカいことに起因する嫌な出来事を考えると、金さえあればこんな思いをしなくて済んだのかと思う。その期間、無駄飲み会などに多額を費やしたであろうことを反省するし、なんなら若くて回復が早くスケジュールに余裕のあった学生時代施術を受ければ進学就職でいちいち嫌な思いをしなくて済んだのだろうか。

ここまでなんとなく、カウンセリングを受けてきたことを夫に話せていない。増田夫は体型などになにかを言ってきたことは今まで一度もなく、財布も別だし、増田の行動にもあまり干渉しないタイプだ。決意はだいたい固まっているのだが、まずは夫にどう切り出そうと考えながら、整形外科からもらった見積書とパンフレットをこっそりカバンから出して眺めている。

自分の持ち物である身体の整形手術なのに、まだ予定のない子供(≒妊娠出産)とパートナーのことが頭によぎるなんて、一体この胸は誰のものなんだろうか。

2023-01-14

これさあ。

なんで「旧帝の友達いない学生」は性別指定してないのに、「早慶美女」は性別を女に限定してるの?

前者も「友達いない女」にするか、後者美男美女にして揃えようよ。

ていうか多分前者は暗に男のつもりで言ってるよね?そういうとこなんだよ。

https://twitter.com/hhharuka0623/status/1613890823640485888

「遥華🌹

@hhharuka0623

旧帝の友達いない学生が1ヶ月必死に集めた情報早慶美女は先輩との飲み会一回(しかも奢り)で手に入れちゃうんだから就活で差がつくのは当たり前だよね」

2023-01-13

自分が接したコロナ禍の学生はむしろ意欲たっぷりだったけどな

仕事もそうだしなんか「飲み会とか交流会とかやらないんですか?」とか聞いてきて

飲み会ないコロナ禍最高!!ってなってたうちのメンバーは震えたわ

職場飲み会で元気にはしゃいで初対面とも仲良く話してたけど週明け月曜日にその人と廊下ですれ違っても会話できない人

自分の事ですが……

コミュ障自覚あるけど、他人に言うと「なわけない!」って言われる

話して良い環境に置いてくれれば話せる。というか自分ではそれを作れない。

妹が女友達と話してる輪に無理やり入ってきた時だけ饒舌に語るこどおじと似たようなもん

2023-01-12

疫病の蔓延に対して最強なのは一人暮らしかつ引きこもりである

・同居家族がいる場合日常生活を送る上で濃厚接触は避けられない、感染リスク

・小さな子供感染リスク認知できないため、感染リスクを避ける行動を取らない、感染リスク

・外出すると、すれ違い感染リスクを避けることができない、感染リスク

大勢飲み会言わずと知れた感染リスク行動である感染リスク

 

以上より、表題結論に到達する。

anond:20230112180041

飲み会作法教わる家庭の方がよっぽど育ち悪いよな

anond:20230112152407

飲みないなら遠慮して飲み会断るよね

誘わないのはいじめみたいだから飲む側も一応誘ってるだけなのに真に受けちゃあかん

飲み会で一気させられる

酒が飲めないと言うも一緒の飲めと渡されて

ジンジャエールコーラをあわせて10杯飲まされた

たっぷたぷ

anond:20230112092110

飲み会とかで子供にこういう躾をしてるとか教育やらのことを延々と語ってるおっさん

本人は、家族を背負った男のかっこいい人生哲学のつもりなんだろうけど、聞かされるほうのことも考えてほしいわ。

他人の子供にそこまで興味ある人なんていないだろ。

今日、30歳になるオタ。

俺も、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、千葉県船橋あたりで生活していた。千葉県カスだ。東京まで微妙距離のせいで、逆にオシャレを履き違えているやつらだらけ。茨城ゴミ共もいるおかげで、余計に田舎者ムードは高まっていた。特に地元船橋民が嫌いだった俺は、三国志大戦などをやるためにわざわざ津田沼エースまで行っていた。今思うと津田沼津田沼ゴミみたいな街だったが、船橋よりはマシというところだろうか。あと、俺はオタなので秋葉原微妙に遠いのが嫌だった。総務線で一本とはいえ微妙に遠い。かといって千葉のオタショップはやはり、品揃えの面で大きく劣る。飲食店は何一つとしてとりえのない、個性のない「退屈な街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があったのか覚えていない。競馬場はあって、薄汚いおっさんが娘の給食費無駄にするために通ってきていた。市立船橋高校スポーツが盛んで、イキリ散らした民度の低いカスみたいなスポーツマンたちが船橋不快な街に育て上げていた。あと、船橋高校のゴミもももっと渋幕とかに行けばいいのに頭いいような面してイキリ散らしながら歩いていた。自然豊かといいつつそれは小室かい飛び地の話で、友達がそのへんの団地に住んでいたのだが、子供心に「こんななにもねえ田舎に住んで何が楽しいんだか」と考えつつ、スマブラをやりに行っていた。俺も競馬場に通うおっさんたちと同じ、人生無駄にするのが好きな人間だったと言えるだろう。

小学校の時は色んな道徳教育を受けた覚えがあるが、ある日、うちの親戚のおっさんが登壇して「阪神淡路大震災記憶」を語っていた。俺は幼心に、いや、お前関西住んでたっけ?と思ったが、無事に講演は終わり、無意味感想文などを書いた。のちに親戚の集まりで、おじさんは講演会の人が来れなくなったので代打で登壇したと聞かされた。「わかりゃしねえよ」とのことだったが、まあどうでもよかったのでそんなもんか、と思い今日まで忘れていた。俺と震災には深い結びつきがあったと言えるだろう。

高校生にもなると、俺は自由だった。エスカレーター式の東京学校入学していたので、誰も受験勉強なんかはしていなかったのである。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。そう。割れ厨であるエロゲ音楽無料あるいは格安で手に入れてくれることは後輩の俺達にもすぐに知れ渡った。サブスクの走りみたいなものだ。ちなみに、その先輩は生徒会長だったので、なんか体育祭で頑張った的なスピーチをしていたことを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

震災当時、俺は秋葉原にいた。試験も終わり、余裕綽々でカードショップ萌え萌えスリーブを買い漁りに行っていたのである。その時、震災が起きた。スリーブはあたり一面に散らばり、混乱の中、店員さんに言われ、店の外に出た。駅に行くと、そこには人が沢山いた。だがしかし電車は動いていなくて、そこで東北で大震災があった、という情報を聞いた。

震災なんてものはどうでもよかった。ただ、俺の心配は家に帰れるかどうかだった。録画していなかったのだ。その日、放送される「まどか☆マギカ」を。深夜だしリアタイ視聴余裕という慢心があったのだ。しかも、当時は確かものすごく盛り上がる10話の放送を控えていた時で、まどかを見られるかどうか、というのは俺の死活問題であった。あと、まどマギとか略すやつは当時のオタ仲間の間ではにわかの象徴だった。

さらなるハプニングが俺に起きた。ゲームのやりすぎで俺のガラケーは充電がなかったのだ。その上、萌えスリーブを買いすぎていたせいで、財布には100円の金もなかった。コンビニで充電器も買えやしない。もちろんクレカキャッシュカードなんて持ってなかった。電車が動く気配はない。俺は、仕方無く歩いて帰ることにした。ぞろぞろと、他の帰宅難民秋葉オタクたちと共に。

途中で、公衆電話を見つけたので、並んで家族に無事である旨を伝えた。だが、当時オタバレを嫌っていた俺はプライドから、録画を頼むことはできなかった。まどかマギカくらいで何を、と今の世代は思うかもしれないが、当時はまだオタ差別は著しく、まどかマギカなどという萌えアニメを見ていることがカミングアウトできなかったのだ。

数駅くらい、歩いたところで俺の体力は尽きた。帰るのがダルくなったと言ってもいい。周りの人間たちから漏れ聞こえる被害状況を聞くに、心のどこかで動くと思っていた電車も、動かないことがわかってきたからだ。俺は近くのスーパーでなけなしの金でバナナを買って、フードコートの水を飲んで飢えと乾きを満たした。まどかマギカの10話が見られるかが心配で、その次にそもそも今日、どこに泊まるんだ?という思いがあった。

ということで、俺は近くの駅のポッポ屋さんに聞いて、避難所小学校を紹介してもらった。たどり着いたのは、夕方ごろだろうか。そこには、俺と同じ帰宅難民リーマンが何人かいた。俺が一番若くて、寝床マットレスを運んだり、先生たちの手伝いをした。教室備え付けのテレビで、炎に燃える気仙沼を見て「関係ねえな、明日仕事行かなきゃ」と語っていた、リーマンのおじさんの茫漠とした表情をよく覚えている。夕飯は乾パンだった。

夜。少し冷静になって。俺は件の割れ厨の先輩のことを思い出した。学校近くの公衆電話からまどかマギカの録画を頼むために、俺は駆けた。「大丈夫だよ増田くん。MBS版はもう放送されてるからね。違法うpされたデータ回すよ」。先輩は、相変わらず元気そうだった。俺は大いに安心して、また気仙沼火事を見に学校に戻って、ちょっとまた先生たちを手伝い、制服のブレザーをかけて、教室で眠った。

翌日、なんとか帰宅したが、普通にまどかマギカは10話以降放送延期になった。あ、あと親戚が2人ほど死んだ。例の阪神淡路スピーチをした親類もそこには含まれていた。

そして大人になったある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東北出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。親戚や家族が死んだこと、放射線関係差別されたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は東京から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。俺も被災者から分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。歩いて駅まで帰ったんやぞ、まどかマギカのために。と嘘をつくと、彼は気まずそうに「なんやアンタ」と呟いた。

彼は俺より少し年下だったから、もしかしたらまどかマギカのことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。劇場版から入ったにわかかもしれないし。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

俺は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った千葉ゴミクズだったと信じている。そもそも秋葉原から遠くなければ、俺も簡単帰宅してまどかマギカの録画云々なんて悩まなくてよかったし、千葉のオタショップの品揃えさえ充実していればよかったのだ。

俺も、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、Z世代氷河期世代両方から馬鹿にされる「最悪の世代」だと言われている。確かに地震は俺にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まあ今になるとまどかマギカとか大した作品じゃねえな、と冷静な評価を下すこともできる。でも、震災の時にふと過ったあの感情を、たまに思い出したり思いださなかったりするのだ。リーマンってなんで震災翌日も働くねん、という。

まああれだ。震災は一時のスリルというエンタメとしては面白かったが、アニメ放送延期からわかるように日常生活に大きな影響を与えるのは間違いない。

そして、俺は思うのだ。

震災さえなければ、もしかしたらまどかマギカの叛逆篇の続きも出てた未来もあったのかもしれない、と。

とはいえ、おかげでシン・ゴジラやすずめの戸締まりといった名作も生まれたのだから、イーブンといったところではないか…と。

2023-01-11

今日、30歳になった

私は、1993年1月に生まれた。1歳から大学までは、神戸市生活していた。神戸はとてもいい場所だ。街の中心部である三宮はおしゃれな街で、大阪駅までも直通で30分。中華街で有名な豚まんを食べ、旧居留地優雅建築を抜ければ、港から海を見渡せる。中心部から少し足を伸ばせば、B級グルメを出す飲食店が立ち並ぶ下町長田六甲山の麓に日本屈指の酒蔵を擁する灘などにも行ける。どの地域個性にあふれた「退屈しない街」だ。この街で人生3分の2を過ごせたことを、私は幸せに思っている。

私が住んでいた地域には大学があった。このキャンパス自然豊かなことで知られていて、敷地内に公園や池があったので、私は物心ついたときから時々家族とこの大学内を散歩していた。子どもだった私は漠然と、大きくなったら私もこんな学校勉強するのかな、なんて思っていたものだ。

私が小学校にあがる前のある日、父とふたり大学の中を歩いていた。ふと父が「父さんは今日こっちの道に行きたいんだ」と言って、普段は入らない芝生の中へ私を連れて行った。杉の木立の中には、小さな茶色の碑があった。父はその石碑の前で足を止め、静かに手を合わせた。「これは何なの?」と尋ねると、父はこの石碑が、阪神淡路大震災で命を落とした学生たちを追悼するための慰霊碑だと教えてくれた。銘板に刻まれ名前の中には、地元教員をしていた父の教え子がいるという。父は何十年も教員として勤務していたが、彼が家庭内で教え子の話をすることはほとんどなかったので、少し驚いた。

小学校にあがると、音楽の授業で「しあわせはこべるように」という歌を習った。この曲は阪神淡路大震災のことを歌っており、神戸市内の小学校では震災学習の一貫として習うのだ。たぶん、1995年以降に神戸市勉強した人間なら、誰もが諳んじて歌える一曲だろう。小学校でも中学校でも、毎年1月17日には黙とうを捧げ、校長先生お話を聞いた。ある年の学校新聞1月号に、同級生とその妹のことが書かれていたことも覚えている。2学年下に在籍していた彼の妹は、まさに阪神淡路大震災の混乱の中、1月17日、被災直後に生まれたという話だった。

高校生にもなると、「しあわせはこべるように」を合唱する授業はなくなった。進学校だったので受験勉強は忙しく、みんな志望校に入るため必死だった。そんな中で、一学年上の先輩にとても頭の良い人がいた。先輩は部活でも目立っていて、関西の超有名大学への現役合格を果たしたことはすぐに後輩の私たちにも知れ渡った。卒業式の日に卒業生代表挨拶担当したその先輩は、両親を阪神淡路大震災によって亡くしたことをみんなの前で話してくれた。10年以上が経った今でも、あのスピーチを鮮明に覚えている。その次の年に起きたのが、東日本大震災だった。

高校卒業すると、私は自分実家から一番近い大学に進学した。それは、子どもの頃から家族散歩していたあの学校だった。私の学部はかつて父と散歩したキャンパスからは少し離れていたのだが、それでも時々あの慰霊碑を見に行くことがあった。いつのまにか、私は父の教え子だったという誰かより1歳年上になり、成人を迎えた。成人式の会場に向かう途中のタクシーでふと「私たち、本当はもっとたかもしれないな」と思った。

大学卒業して上京すると、色々な地域出身のさまざまな年齢の人と関わりあうようになった。地元神戸なんです、と言うと、ほとんどの人が「おしゃれなところだね」なんて言ってくれるので鼻が高かった。しかし時々、50代くらいの人と話すと「震災の時、もう生まれてた?」と聞かれることがあった。生まれてたけど2歳になりたてで記憶はないんです、と返すとだいたいそこで話は終わるのだが、ごく稀に「実は僕は当時大阪に住んでいて…」と、当時の記憶を話してくれる人もいた。

ある時、友達に誘われて行った飲み会で、誰からともなく東日本大震災の話になった。その飲み会には東京出身者が多かったので、彼らは当日の様子を思い出して話していた。乗っていた電車が止まったこと。復帰のめどが立たず、線路を歩いて帰ったこと。その時、自分の前を歩いていたお姉さんが泣いていたこと。

その会話の中で、参加者のひとりが「〇〇さん(私)は関西から、こういうの想像できないかもしれないけど…」という言葉を発した。私も被災者だから分かるよ、と返すと、彼は「何言ってるんですか」と少し笑った。阪神淡路の時に2歳だったよ、と告げると彼は気まずそうに「そっか、そっちか」と呟いた。

彼は私より少し年下だったから、もしかしたら阪神淡路大震災のことをリアルタイムでは知らないのかもしれない。小学校社会教科書にはきっと地震のことも載っていたはずだけど、自分高校生の時に体験した東日本大震災の方が記憶としてはハッキリしているに違いない。彼のことを個人的に責めようとは思わないが、そうか、忘れられているのか、という虚しさが心に残った。

私は今、違う場所暮らしているけれど、今でも自分が育った神戸はとてもいい場所だと信じている。街の中心部である三宮駅前には、かつて「神戸阪急ビル」という名のビルがあった。この辺りは震災で大きな被害を受けてめちゃくちゃになったという。街のランドマークだったというビルは取り壊され、それからずっと低層のビルが駅舎に繋がっていた。このビル2021年高層ビルとして生まれ変わり、震災前の姿を模した外観でリニューアルオープンした。私より年上の世代は新しいビルを見て「元の神戸の姿だ」と喜んでいたが、私には正直良く分からなかった。私が毎日のように遊んだ三宮は「仮の姿」だったのか!それでも、西洋風のモダン茶色ファサードは、「私の好きな神戸」の姿に近いような気がしていいなと思った。

私は今日、30歳になった。平成初期に生まれ私たちは、阪神淡路大震災記憶とともに生きる「最後世代」だと言われている。確かに地震は私にとってすごく身近な問題であり続けてきた。だけどこれまでの人生別に24時間365日「亡くなった方々のぶんも、毎日を大切に生きていこう」と思いながら過ごしてきたわけじゃない。忙しい日常を生きていると、震災のことを全然考えない日がほとんどだし、まだ2歳になりたてだったから当日の記憶もまばらだ。でも、成人式の時にふと過ったあの感情を、誕生日のたびに思い出すのだ。阪神淡路大震災がなければ、私たち、本当はもっとたかもしれない。地元同級生は、実はもっと多かったのかもしれない。自分人生のどこかのフェイズで、あの時いなくなった誰かが私の大切な人になっていたかもしれない。

記憶も年をとる。誤解を恐れずに言うと、阪神淡路大震災のことは、これからどんどん忘れられていくだろう。神戸と縁のない人たちにとっては、もうすでに阪神淡路大震災のことは別の災害記憶に塗り替えられているかもしれない。はっきり言って、これはどうしようもない、誰が悪いわけでもない、日本に住んでいる限りは、大きな地震が定期的に起きることは避けられないのだから。でも、少なくとも私は― 傷ついた神戸の街に育ち、ゆっくりとその傷が治っていく中で青春を過ごした私は、これから阪神淡路大震災を忘れることはない。「最後世代」という言葉は、「私たちは本当はもっといたのかもしれない」とリアルに思える「最後世代」だということなのだろう、と今は思っている。30歳になった今日も、またふと考えた。私と一緒に年をとってくれる誰かが、本当はもっといたのかもしれない。

anond:20230111035759

夫のコロナへの考えが元増田と違う。

元増田リスク絶対取らない派。夫はある程度なら何しても感染率一緒やろ派。

よって付き合いも大事から飲み会に行った。

飲み会約束元増田から強要強硬してないか約束時夫はしっかり納得してたか?

訪問前1週間の生活飲み会以外は普通に仕事とか買い物してないか

買い物とかの外出と飲み会リスクあんまり違わないと思ってるのが夫かな。

実家訪問とは切り離して、コロナ予防に関するすり合わせを夫婦ですべきと思うわ。

最後にそこまでコロナ気にするならzoomとかテレビ電話挨拶って手もある

anond:20230111035759

普通に飲み会に行きたかった。もしくは誘いについつい乗ってしまった。

終わり

解説してほしい

30代女。夫の言葉真意がわからず、思考が近そうなはてなの民の意見を聞いて参考にしたい。

年末双方の実家に暮れの挨拶+食事に行った

双方親ともに持病あり。夫と自分コロナを運ぶ可能性を極力下げるため、職場の会食や飲み会などがない期間が一週間ほど続いた後、それぞれ来訪することにした

自分(嫁側)の実家に行くのは夫側より一週間ほど後になった

その間夫は職場の飲みに誘われる可能性があったが、コロナ観点から断ってもらう約束をして、嫁側の実家に行く日を決めた

嫁側への挨拶の前日に自分(嫁)のみ前乗りし、夫は当日に来てもらった

嫁側への挨拶も済み帰宅問題はこのあと起きた。


自分が前乗りしていた夜どう過ごしていたかを夫に聞いた所「先輩と飲んだ」と発言

前述の飲み会を断る約束はどうしたのかと聞くと「忘れていた」と言われた。


お互いにコロナになるとまずい親がいる状況で「会いに行くと決めた以上、数日前から飲み会や会食を避けた方が良い」事実は忘れようもないと思うが、それを忘れて飲みに行った彼は、どの時点の何を忘れたのだろうか。

なお、その飲みに行っていたであろう時間に「明日何時に着けばいい?」と連絡が来ていたので、挨拶の日を忘れていたわけではない。

夫とは結婚後数年経つが良好な関係を保っており、口ぶり的にも悪気はなさそうで、それゆえに 無意識に嫁と義両親を蔑ろにして気づかない夫とどう接したらいいのか分からず、途方に暮れている。

2023-01-10

会社で2年間同じ部署の先輩から多分好意を抱かれてた。

別の支店に転勤になる、ということでメンバーを変えて何回か飲み会を行った。

そして最後飲み会の日先輩は転勤先に帰るということで初めて私と先輩二人で最後まで残っていた。

その時は別に変なことはなかったのだが、次の日「起きれた?笑笑」みたいなLINEが来て少し違和感を抱いた。その日は暇だったがここで暇なんていうと、飲みに誘われそうだったので「友達と遊んでました」と返信した。

そうしたら「俺は遅刻しました。ところで最終日飲み会延期になったし二人で行きませんか?(意訳)」というLINEが来て確信してしまった。

正直その先輩は全く異性として好みのタイプではなかったので予定があることにしてお断りをした。

私のこと好きだったんだろうな〜と思うとキモくて仕方がない。もう会わないからいいけど電話することがあったらあまりにも無理すぎる。

お酒やめようかと思う

2023年目標としてお酒をやめる、っていうのを掲げようかと思う

今でもお酒は好きだけれど、だんだん飲めなくなってきた

ビール500ml缶を2本も飲むと二日酔いで頭がガンガンする

ワインハーフボトルでもかなりしんどい

アルコール健康には悪いというのはその通りだと思うけど

ストレス発散とかの精神面で良い影響が大きいと思ってた

ただ、美味しさよりも不調になることの憂鬱感が強くなってしまった

そうなるともはやストレスは発散できないし何も良いことがない

少なくとも家飲みは完全に無くして、飲み会もなるべく断る、ぐらいから始めようかと思う

2023-01-09

タワマン飲み会に誘ってくる人に碌な人いない。

いやもうほんとに。

2023-01-08

anond:20230108202333

インスタ360は5年前、RICOH THETAはもう9年前に発売されとりますがな

知ったのはガジェット好きな人ツイッター

ワイはRICOH THETA持ってるし、コロナ前の飲み会写真とったら、なんか雰囲気が伝わってくる感じがしてよかったよ

手に持って撮影すると、自分の手がすげーでかくなるのが気になるぐらい

バカ上司飲み会開こうとしてる

本人はコロナ感染済。

この上司普段から言ってることが理解不能

調べてみたら地元底辺私大出ということが判明。納得。

仕事を語り合いたい

先日プロゴルファー飲み会映像YouTubeで見ていたが、ゴルフの話、つまり仕事の話を熱く語っていた。

私も自分仕事が好きで、仲間と語り合いたいのだが、周りの人と飲み会でそんな話を熱く語ろうもんなら冷めた目で見られる。

なんならせっかくの飲み会から仕事の話はやめてやめて別の話をしようと言われる

はぁー語り合いてえ

2023-01-07

がんもどきを数年食ってない気がする

がんもどきってけっこう好きなんだけど、意外と食う機会がない

自炊メインでやっていて、煮物おでんなんかを作ることがない

社食も日替わりでけっこうバリエーションあんだけど、メインディッシュ味噌汁小鉢構成で、煮物が入り込む余地がない

この前飲み会おでんを食う機会があって、たぶん選択肢がんもどきもあった気がすんだけど、わざわざ頼むもんでもないな、的な思考スルーしてしまった

よく考えたら、全然食ってない 食う機会がない

マジで5年くらい食ってない気がする

親しみがあって、けっこう好きだとすら思ってんのに、全然食ってなかったし、食ってなかったということに気がついてなかった

がんもどきがんもどき食うかあ!

食うかあ!つって、がんもどきを主軸にした献立を組み立てにくいんだよな

つうか、売ってるっけ?がんもどきって

気にしたことがなかった

アブラゲとか売ってるあたりに売ってた気はするんだけど、確信が持てない

とにかく曖昧に生きてんだと思う

あるいは、このくらいがちょうどいいのかも

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