はてなキーワード: 輪廻転生とは
以前は声優推しだったが、推しの引退や新たな推しの担当しているコンテンツに飽きてしまい、じわじわと声優オタク界から離れてしまった。
流れ着いた先はここ数年話題となっているVTuber業界。あえて個人名は出さないが歌に惹かれたり、話に惹かれたり、ゲームスキルに惹かれたり……
私は運よく現地のチケットが当たり、さらに発券してみるとステージの間近の座席に座ることができた。
私は声優推しの頃からライブに行く人物であったが、今回初めてVTuberのライブに参戦することになった。
元々配信等で歌唱力に定評のあった人物であり、当日の生歌にとても期待をしていたし、不安もしていなかった。
メタい話にはなるが、VTuberがステージ上にどのように表れるのか、バンドメンバーや観客とどのようにコミュニケーションを取っていくか……等々、技術的な演出面もとても興味があった。
当日は歌こそ主眼ではあったものの、上記の技術的な面も垣間見ようと思いながら現地に向かった。
そしていざ本番、ステージ上の高画質・大型スクリーン上には圧倒的な歌唱力を披露する推しの姿があった。
まさに圧巻の歌唱力であり、生歌と生演奏、声が出せないとはいえ盛り上がった会場の雰囲気も相まり、この世界の全てに感謝したくなるほどの感動を覚えることができた。
本番も終わり、終演放送も入り、いざ会場を後にしようという頃には、「VTuber?まぁ軽く推してる感じかなぁ~」という気持ちは「○○さん最高、私の最推しですわ」という強い”推し”の気持ちに変わっていた。
その後当日参加していた他のVTuberを含め、複数の感想配信を聞いていく上で、この気持ちにある考えが混じってきてしまう。
私は「VTuberというキャラクター」を推しているのか?それとも「VTuberを演じる中の人」を推しているのか?
という考えである。
VTuberには「担当声優」や「中の人」というのは基本的に存在しないし、無いものは公表されない(一部例外アリ)。
おおよそその存在を醸し出すことはあれど、明言はされないものである。
しかし私が元々いた声優オタ界隈は、基本的に”キャラクター”を演じている”声優”、つまり”中の人”を推している界隈であった。
声優さんが演じるキャラクター自体が好きなこともあったが、根本には”推し声優”そのものを推す心があった。
そのため演者の名前は公表されるし、お渡し会等のリアルイベントも頻繁に開催されていた。
この「中の人」を意識し「中の人そのもの」を推す界隈にいたこともあり、私は上記の考えに至ってしまった。
また、私の専門は情報工学であり、「VTuber」という存在を形作る技術はほぼすべて頭の中に入っている。
つまり、どのようなスタッフが、どのように協力をして、どのようなソフト・ハードを用いて、どのような行動を取ればVTuberとなるのか、ということがおおよそ分かってしまうのである。
かくいう私も自らソフトウェアを自作しており(未出未完)、VTuberになってみようかな?と考える程度には、「中の人」について理解をしている。
表立って話すことは滅多になくなった「中の人」論であるが、「完全な無」から「声が出て動きもできるキャラクター」を生成する技術が無い現代では、「キャラクター」には確実に「演者」が存在する。
明日になって唐突に技術的特異点にでも到達しない限り、「中の人」は切っても切れない存在である。
また、大きな事務所に所属しているVTuberは、だいたいの人物は以前に生配信・動画投稿を行っていた人物である。要するにVTuberになる前に活動していた「前世」が存在する。
「中の人」はバーチャルでない前世から輪廻転生し、VTuberになっているのである。
ここまで話しておいて、「いや!推しの○○ちゃんは中の人とか前世とかないから! ○○ちゃんは今画面上にいる○○ちゃんだけだから!!」という純粋強火オタクはいるだろうか。
正直、様々なコンテンツを疑ったり背景を考えることなく、ストレートに受け取れる人物を、私は尊敬するし、もはやそうなりたいレベルである。
しかしそのように受け取るには、私は様々なことを知りすぎてしまったのである。
知ってしまった以上後戻りすることはできず、VTuberを推すときには、常に”前世”のことについて考えてしまう。
配信画面の向こう側、配信用スマホの向こう側には、私たち視聴者と何も変わらない、血の通った人間がいることを想像してしまう。
あの歌声を持つ推しは、前世で振るわなかったからここにいるのだろうか。
前世で振るわなかったのに今更話題になって、悲しんだりはしないのだろうか。
VTuberで売れても自分の顔や名前は一切売れないことに辛さはないだろうか。
その答えを得ることは一切できないと分かりながら、活動の裏にある悲しみを想像してしまっている自分がいる。
知れたところで何かできる行動はないのだろうが。
推しに対して辛さを抱えるならば、推さなければいい話だという意見もあるだろう。
しかしオタクというものは、一度推し始めたら生半可な辛さでは推しの炎は消えないのである。
それが中の人を推していようが、バーチャルなキャラクターを推していようが、表面上の”推し方”には、恐らく変わりはないのである。
私の不安や思いとは裏腹に、今日も推しは生配信をし、コメ欄の皆と笑いあっている。
恐らく中と外どちらを推しているか、という問いに答えは出ないだろう。
無能故に職場に居づらくなってジョブホッパーしてて確信したわ、俺ガチの無能だわ。勤続年数が長くなればなるほど仕事に慣れるはずが、長くなればなるほどボロが出る。
無能の定義から始まるとお前らああだこうだうるせえから、過去にお前らが見たどうしようもない無能思い出してくれ。それが俺だ。「無能な自覚あるだけまし、本物の無能は無能な自覚もない」とか言うけど、無能は無能なんだよぶっ殺すぞ。無能な自覚がある無能なだけなんだよ。
働かないで社会のリソース食いつぶすのは辛いからさ、本音言うと無能だから死にたいんだわ。
好きで無能やってるわけじゃないし、無能故に周りに迷惑かけるのが辛すぎんだわ。
朝弱いから21時には寝るようにしてるけど、それでも朝辛いし、朝のこの絶望的な気持ちで目が覚めて目覚ましの横に安楽死出来るボタンがあったら迷いなくそのボタンを俺は押すと思う。
趣味もねえし、休みの日とか仕事に脅えてずっと寝てるよ。上司に「何が楽しくて生きてんだ?」って言われてハッとしたよね。俺、生きてて楽しい事なんてねえわ。生き甲斐なんてねえよ。社会に脅えながら生きてるよ。
人が喋ってること理解するのにも時間かかるし、理解したつもりでも的はずれな理解したりするし、人の口頭指示が音として処理されて頭の中に情報が何一つ入ってこない事があるし(声は聞こえるし、なんなら復唱も出来るけど頭に入らなくて右から左に流れていく感じ。わかる?)、転職してもした先が怖いよ。生まれた星間違えたのか?
働き続ければマシになるとかいうけど、あれね、嘘だわ。働き続ければ続ける程無能は惨めな気持ちになるし、自信なんて砕かれた破片すら残らないし、生きてる価値が無いことに嫌な程気付かされんの。あとさ、入社当時からずっと気にかけてくれ人に愛想尽かされんの、あれマジでつれえわ。目の前が真っ白になって周りの音が遠くに聞こえて耳鳴りすんのな。動悸の音だけはすげえ近くに聞こえんの。「壊れた大脳は元には戻らない」ってどっかのbotが言ってたけど、あれマジだわ。もともと壊れてたのかな?もう、わかんねえわ。
俺さ、チャットとかなら何度も読み返せるからギリギリ意思疎通できんのね。でもチャットでやりとりする仕事って、IT系でしょ?slackとかいうの使うんだよな?いいよなそういうの、言った言わないとか怖すぎて、口語指示に怯えなくて済むし、俺一人だけ真っ青な顔でメモとらなくて済むんだよな、良いよな。
でもさ、もう三十路手前の分数の割り算で小学生時代躓いてた無能がプログラミングの勉強してIT関係に就職するのなんて無理なんだよ。progateすら続かなかったわ。何かと励ましてくれる人はいてもさ、一緒に働く人の身になったら、俺みたいな覇気がなくて、コミュニケーション下手くそで、物覚えも悪い産廃、絶対一緒に働きたくねえもん。ボトルネック確実だもんな。
これから先さ、無能として煙たがられながら、毎日胃を痛めて、周りに脅えながら働くわけじゃん。今はまだ20代だけど、このまま歳をとっていくわけじゃん。想像しただけでもう地獄だよね。
親が生きてる間は生きていようと思ったけど、三十路手前になると流石に自信無くなってきたわ。
年始に親が「孫がいたら」みたいな話をさ、楽しそうにすんのね。俺さ、親に変に期待させるの余りにも辛すぎてさ、結婚できる気もする気もないし、生きてていっぱいいっぱいなの打ち明けちゃったんだよ。そしたら、親がさ、「そうか、いま結婚しない人多いしね。珍しくないよ」って優しいトーンでいうわけ。それ以降親が孫の話一切しなくなってさ、なんかそれが尚更申し訳なくて胸を締め付けんだよね。親には孫の顔見せらんなくて申し訳ないからさ、なるべく家にお金入れるようにした。親の為にお金使うようにした。あと自殺する時とか、事故死した時に備えて、公証役場に遺書出してきたわ。微々たる資産は全部親に渡して欲しいってね。親がそんな事望んでなくて、俺に生きて欲しいって思ってるのはわかってるんだけど、親の思いを汲める余裕がいよいよ無くなってきたわ。
生きてて辛いことばっかだったな、生きててよかった事って、あったのかな。覚えてねえなあ。安楽死制度はやく出来ればいいのにな。輪廻転生があるなら、来世は水草とか、そのへんがいいな。
サウナ行ってみりゃいいじゃん。ソープ行けばいいじゃん。筋トレすればいいじゃん。一時的な快楽を断続的につなげてみろよ。
(つーか、殺を伏字にすんじゃねーよ。使うのが怖いんだったら別の表現考えろ!文才あるのにもったいねーぞお前!)
なんで「生きる事そのものが悪であり不幸だと思っていることや「人生を修正するモチベも体力もない」ことに抗うことを止めたんだよ!
ヒトが単純に幸福を目指そうとする社会や、同じ問題過ちを繰り返さないための学習というものを社会が行えていない。
その様をこの先ずっと見せられるのかと恐れてから我が家にテレビを置かなくなった。
私より知性的で賢いであろう大人たちが自分の立場と金のためにこどものような喧嘩を繰り返すのを見続けなければいけないのは地獄だ。
その類を見たくねーんだったらよ、テレビを置かなくなる前にパソコンやスマホを捨てろよ!それができてない時点でお前は自分が持っていると思っている信念を自分で否定してるんだよ。
あと、このはてな匿名に追記をしたってことは、この文章がバズったことに何らかの気持ちが動いてんだろ?
「あ、あれ、、けっこうバズってんじゃーん!ほーら、俺の思った通りだ。世の中なんて、案外こんなもんなんだよ」って思ってんだろ?
それを喜べよ。
それが素晴らしいんだよ。そういうたぐいの幸せを提供する機能がパソコンやテレビにあるんだよ。
あと、一個で全部世界が変わるとか思ってんだろ?「運命の女性に会ったらこの世界がパーっと輝くようになった!」みてーなことを本気で思ってるんじゃねーだろうな?
おまえ、31だから俺と同い年のオタクだろ?琴浦さんが相手の変態男と出会ったシーン覚えてるだろ?獣フレンズより前のアニメだから見てるだろ?
あんな感じで世界が変わるような体験を自分以外の幸せそうに生きている人間はしていると思ってんだろ?
あんなことあるわけがねーから!それぞれ一つ一つクソくだらない幸せをかき集めて何とか生きてるんだよ。
座右の銘を「おもしろきこともなき世を面白く」にしている奴らはな、自分の人生を面白くするために必死にもがいてんだよ。
そういうやつをしょーもないとか思うんじゃねーよ!
勝手にそう思ってろ!お前がパンをマズそうに食ったって食わなくたって飢え死にしている奴は飢え死にしてるんだよ。
飢え死にを防ぐために必死になっているやつがいるんだよ。そいつらの行動にお前の食事なんて関係ないんだよ!
お前の罪悪感は無意味なんだよ。
あー、分かった。お前が自分の行動や将来や世界を憂いて動けなくなっている間に、俺はお前を踏み台にして有名になってやるよ。お前はな、加害者じゃなくて被害者だからな!
どーだ!これで俺が有名になったら、お前は俺の踏み台なんだよ。お前が肯定する神はな「俺のnoteの宣伝材料」としてお前を作ったんだよ。「創った」って字の方がいいのか?どっちでもいいけどよ。
「自分が30円引きのヤマザキパンを旨そうに食ったところ」というお前至上最高の、そしてこれからも越えられることのない”名言”は俺のnoteを宣伝するために"神"がお前に書かせたんだよ。
お前が生まれ変わっても俺の生まれ変わりが作ったnoteの宣伝材料という運命をちゃんと全うしろよ!
死が怖くなくなってきた
は?でも、痛いの嫌だろ?それは”神様”が死を怖く感じてもらうために作ったシステムなんだよ、多分。
一番ムカつくのがこれだわ!おまえ、31だろ?最低でも21歳で彼女いるんじゃねーかよ!ふざけんじゃねーよ!
ここに関しては僻みしかねーわ。ふざけんな!
お前が思っているようなことを俺は22,3くらいの時に思ってたわ。俺はお前より10年早いんだよ。
だが、俺がソープで童貞捨てたのは26だから下手すりゃお前より10年遅いな。
最後までよんだならわかるだろうけど、お前は俺より文才があるんだよ。
何でお前に会って俺にはないんだよ。
なんでそんな奴が達観してこんなところでこんな文章書いてるんだよ
ふざけんなよ。
絵も描けないし音楽もできない。
それなのになんでお前の方が文才があるんだよ。
ふざけんなよ。
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のバハムートが死んだ。
バハムートの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
バハムートは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
生きている間はあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、それをよくよく触ってみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじバハムートだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いやもしかしたら元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がバハムートにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
バハムートにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、その日は寒かったから、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、1週間前に掃除をしなかったら今日死ぬことはなかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとバハムートは成仏できないらしい。そしてバハムートの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、実際自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってずっと美味しいものを食べてくれたらいいなと思うし、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にバハムートが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、バハムートに限らずそれは犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってバハムートの名を呼ぶし、バハムートの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とバハムートの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
知恵袋みたいにアンサーが欲しいわけでもなく、でも自分の思いを誰にも知られないのが寂しくて誰か一人でも自分の気持ちを知ってもらえたら楽になれるかもしれないと思ってここに書く。
2歳6カ月のハムスターが死んだ。
ハムスターの平均寿命は2歳〜2歳半だといわれているので寿命を全うしたといわれればそうだし、良くこれまで生きてくれたと思う。
でもやっぱり1日でも長く生きて欲しかった。
もちろん、ゆったりとした変化は感じ取っていて、例えば回し車で遊ぶ時間は前よりも少なくなったし、起きている時間も前よりは少なくなった。
ハムは別荘を所有していて、時々放してやった、飼ったことがある人は分かると思うのだが一度放すと中々出てきたがらない。
お家に戻すときにエサを囮にして別荘から呼び出すのだが、前は一直線にエサに飛びついていたのに、最近は時々エサとは別の方向に向かうこともあって、目が悪くなったか、もしくは脳の病気になっているのかもしれないな、と思うこともあった。
でもそれでも、食欲はモリモリだし、下痢をしたこともあったけど今はそれも治って、歳の割には元気でその日もいつものように別荘出せコール(ケージをガジガジ)をしていた。
それで時間が経っていつものようにエサを囮に呼び出しても全然出てこなくて、探ってみたら、別荘に行き着く寸前のところで固まっていた。
死んでいるとすぐに思った。こんなところで寝るはずがない。
触れるのが怖かった。冷たくなってしまったハムに触れてしまうのがとても怖かった。
生きている間こそあまりじっくりと触れることはしなかったけれど、冷たくなったハムを抱いてみると背中の右側が明らかに左側よりぼこっとしていて、腫瘍ができていたのかもしれないな、と思った。
しかし、知恵袋に書いてあるような、くるくる回ったり、歩きづらそうにしていたり、食欲がなかったり、そんなことは一切なく、元気なじじハムだった。
2歳6ヶ月まで生きたことは、普通に考えれば、長生きしたね、と言ってもらえる歳だと思う。
直前まで本当に元気で、いや元気じゃなかったのかもしれないけど、でもケージをかじる余裕はあって、今日もいつも通りの日常がハムスターにも私にもあると信じていたと思う。
もっと分かりやすく何か症状が出ていたら、それなりに身構えることができたのかもしれない。余命宣告でもされていたら、もっと、何かができていたのかもしれない。
そんなこともなく、コロッと逝ってしまった。別荘の前で倒れていたから、ケージから放してすぐのことだったと思う。食いしばったような歯で片目は半開きで横たわっていたから、恐らく苦しんで死んでしまったのだと思うけれど、死ぬ間際までそれなりに元気でいてくれたことは良かったとは思う。
そんな風に、予兆なく逝ってしまうのと、別れを予期しながら徐々に逝ってしまうのとどっちがいいんだろうね。
ハムにとってはいつ死んでもおかしくない年齢とはいえ、やっぱり1日でも長く生かしてあげたかった。
もし、その日その時間にケージから出さなかったら死ななかったのかもしれない、ちょっと早いけど暖房でもつけていれば死ななかったのかもしれない、考えたくないけれど、その日のおやつにははが鮭をあげなかったら死ななかったのかもしれない (でも最後の晩餐が美味しそうに食べていた鮭で良かった) 。
それ以前に、病が原因で死んだとしても、何が分岐点で今日死んだのか、分からないから辛い。
まだ、ケージは片付けていない。いつでも戻ってきていいんだよ、居場所はここにあるよ、寂しくないよ、って思っていることを伝えたいから。親から何か言われない限りは四十九日まではそのままにしておきたい。
でも、知恵袋によると、遺品をそのままにしておくとハムは成仏できないらしい。そしてハムの魂は遺品に宿るわけではなく私たちの心の中に宿っているらしい。
そういう、成仏とか魂の話は、尖った言い方をすると生きている側のエゴであって、死んだ側には魂もクソもなく、死骸が腐敗して土に還るだけだと思うのだが、いざ自分が大切にしていた人や動物が死んでしまうと、しっかり成仏して天国に行ってこいよ、天国でずっと美味しいものを食べてくれよ、天国に飽きたら輪廻転生してこいよ、と願ってしまう。
残念ながら、成仏しようが魂が生まれ変わろうが、私の家にハムが戻ってくることはもう二度とないわけで、それはとても悲しい。しかし、ハムに限らずそれはお家の犬にも鳥にも親にも私にも必ずいつかはやってくることで、死は何も特別なことではない。そう分かってはいても、やはり死は悲しい。
私は今でもケージに向かってハムの名を呼ぶし、ハムの匂いを嗅ぎに別荘を覗くこともある。私とハムの日常は変化し続けながらも、まだそこにある。
こないだ、増田見てたら「私は悟った」みたいなことを言っていた人がいた。
単純に、非常に失礼だが、「馬鹿だな」と思った。
悪いけど、悟るなんてことはない。悟りを開くとか、生きて仏になるとか、そんな人はいない。
それは単に、仏教思想というか古代の仏教思想の説いたことを誤って理解してしまったがためにそんな解釈を生んでしまったのだろうと思っている。
根本的に誤っているのは、原始仏教が生まれた背景をものの見事にみんな無視するからである。
考え方がまるで逆で、当時の世間に流布していた思想からの脱却を、悟りを開いたとか、覚ったとか、多分そんな風に言ったのであろう。
要するに「輪廻転生」に象徴される、人は定まった運命の中でしか生きられないという、あの現代にも続くインドカースト的な考え方からの脱却に他ならなかっだ。
一切は空なりとは、つまり、輪廻転生であるとか、そんな迷妄な考え方・思想には実体などない、そういう意味なのである。
そんなの言ってたら、永久に人は苦しみから逃れられないと言っているようなものじゃないか、とゴータマは覚ったのである。これこそがほんとの悟り・覚りなのだ。
だから、釈迦牟尼世尊の超絶的な苦行の話が逸話として出てくるのである、そうした苦行には意味がないのである。
ところが、馬鹿で無知な民衆は、あの四苦、すなわち生老病死の「生」を「生きる苦しみ」と解釈してしまったのである。あるいは一切皆苦という言葉をこの世には苦しみしかない、などと全くの誤解をしてしまったのだ。
生老病死は、これは「死」は別なのである。これは四つではなく三つの苦しみ説く言葉であり、生・老・病の三つとも解決不能な苦しみのことを例としてあげたのである。
この言葉は、人は、生まれてはすぐ死に、病んではすぐ死に、老いてはすぐ死ぬ、ということを意味する。
考えてみたらわかる。原始仏教は今から2500年前の劣悪環境のインドで生じた思想である。人は生まれたら大半がすぐ死んだのである。乳児死亡率は今とは比較にならない。病んだって、その多くは治療方法すらなく死んでしまうし、老いたって病院や介護など期待できる世の中ではなかったのだ。
ブッダ達が言ったのは、古代インド思想の輪廻転生などのそれ以前の問題として、解決不能の苦しみ(生老病死)があるってみんな知ってるじゃないか、だったらせめて解決可能な苦しみをどうにか解決していこうではないか、というコロンブス的な発想の大転換だったのである。
このように考えれば、仏教はアホほど簡単なことしか言っていないことがわかる。
一切皆苦とは、修行者らに対するテーマのようなものである。現実の問題のみを解決していこうという超現実志向を表す言葉である。
一切皆空とは、この世には実体みたいな、どうにも出来ないものなどないと見よ、という極めて強い教えなのである。
諸行無常とは、輪廻転生みたいな、永久に変わらぬ事柄などない、という希望を与える言葉なのである。
諸法無我とは、神のような存在の意思に頼るのではなく、物事に対する法を見出し、その法に従って問題を解決していこうじゃないかという、当たり前のことなのである。
みんな世の中に出て、例えば大人は仕事という問題解決にあたっているはずであろう。
例え、どうにもならん問題があっても、ストレス発散くらいするはずだ。
少なくとも人権主義思想は、すべての人にとって平等な社会の実現の根本的思想になっている。
そして、私たちは、法律であったり、科学であれば法則であったり、マナーだったり、様々なルールだったり、あらゆる物事に対して法を実際に使っている。
つまり、とっくの昔に、仏教など不要の社会になってしまっているのだ。
私たちにとって、仏教は本当に単なる当たり前のことを言っていただけなのである、2500年も前に、だ。
だから、悟った・覚ったとか無意味なことを言っても何の意味もないのである。
頭に浮かんだ言葉を1200文字ほど書き続けるのがモーニングページ。
前回は敢えなく二日で中断した。
こうして書き始めたいまも頭の中から謎の抵抗勢力が湧いてきて、
やめろ、眠ろう、コーヒー飲もう、スマホみるべきだ!などのメッセージを送ってきている。
地球から月へ向かって発射したロケットは重力圏から脱出するときが一番エネルギーを使うというが、正にそれだ。
習慣という名の引力は強い。
勿論パイロットも貧弱だ。
ただ、月は輝いていてとても美しいから幾度となく挑戦をしてしまうのだ。
少しだけ頭が軽くなってきた。
取っ掛りの5分を超えればなんとかなるものだ。
やるべき事はいつだって、目の前のことに取り組むということに他ならない。
頭を使い、手を動かす。
やる気なしモードになってしまうと、かつて封印したゲームを引っ張り出してきて
2,3日嵌ってしまう。
自暴自棄になる。
こんなことをしていてはダメだとやる気をだそうとする。
そして、三日坊主。
やる気の輪廻転生。
俺は三日坊主。
あらかわ遊園な。おれは地元じゃないんでどっちでもいいけれど、地元民に「荒川遊園」っていうと「漢字で書くな!」ってガンガージャリーぶっかけられるぞ。
まあそれはいいとして、あらかわ遊園を、なにか有る、無いという施設面で理解しようとするのが言語道断満天星。
あらかわ遊園の本質はアリスの広場におけるイベントなので、施設があるないという話ではないんだよ。
荒川区の少年少女にとってItというか、もっとはっきり言ってしまうとジョン・ウェイン・ゲイシー・ジュニアともいえる「アンパンマンショー」があらかわ遊園の本体だ。
ガンジス+アンパンマン。踏まれてももがれても何度も頭部を変えて蘇るその様は、まさに輪廻転生であり、諸行無常の響きあり(円通寺の鐘)。
鼓膜が5億回破れるほど爆音のアラームで目玉を宇宙にぶっ飛ばしながら起床するも、世界の始まりの日にインダス川の如く飲み続けた酒が細胞の端々まで残りまくっており百度寝する。
3500万個のプレゼントを秒で貰ったような餓鬼共の爆音大爆笑で65535時間ぶりに目が覚めると既に昼前で輪廻転生するほど後悔する。
一生寝転がったまま中国大陸のようにデカいスマホを開き、第一宇宙速度でタイムラインを遡る。
この世全ての称賛と神々の寵愛を一身に受けたクソおちゃっぴぃな猫にいいねを56億回つけたところで腹と背中が対消滅しそうに引き合うほどの空腹を第六感で検知する。
ベッドからマッハで抜け出してゲリラ豪雨をトイレへブチ撒けた矢先に銀河創世期以来洗濯物を溜めていたことに気がつき、マリアナ海溝どころではない深さからぶっこ抜いて片っ端から分子レベルで螺旋回転させる。
絶対零度冷蔵庫から野菜ジュース(無果汁)を取り出してゴジラ並みの肺活量で無限に飲み干す。
その辺(M78星雲)あたりに転がっていた棒状の小麦粉焼成物を胃袋にテレポーテーションし、卓上型電脳機神を超導して三千世界の彼方でオンエアされたアニメをドライアイで眼が粉末になるまで見る。
汚布どもの禊が終焉を迎えたところでドチャクソ大瀑布が降りに降りまくりちらかしており魔神が目覚めそうになるも、灼熱地獄を顕現させH2Oを根絶することで0.01mmだけ耐える。
生まれる前から読み進めていた記録媒体を魂を燃やしながら紐解いてみるも、量子力学的観点から全く中身が観測できない。
3×無量大数ページ読み進めたところでゼウス並みの英断を下し、その日人類が思い出すまで休憩をとる。
デーモンコア並みの不注意で意識を爆散させていたことに気がつくと世界が終わったような灼熱の空模様が馬鹿みたいに迫ってくる。
全地球生物の英知を結集させた結果、生命のスープを2000t飲み干し最強に落ち着く。
1ミクロンの染みもないミルクパズルのような一日が爆速で過ぎていくことを血肉が干からびるほど嘆きながらも無線電脳遊戯をミッションスタートさせこの世の全てを手に入れたお嬢様王になりたくる。
夜の帳が世界の裏側まで降りたのをアカシックレコードからも確認し、飽和文明の前線基地にカチこむ。
太陽どころではない質量を獲得することで禁じられた果実の3000倍の背徳感を味わう。
全ての宇宙、過去と未来の全ての魔女を生まれる前に消し去った時並みの幸福を感じた刹那秒後、五臓六腑がコロニー落としに陥る。
ほぼ炭化するほど灼熱の風呂に末代まで浸かるが、剤がビッグバン以前レベルに皆無であることを遍く細胞が思い出し、ToDoとして大脳新皮質にエクスカリバーで不可逆的に刻み込む。
量子論的に入れ子構造を取りうる可能性世界に形而上の不安を鬼感じながらも永眠する。
昔から死というものが怖い。輪廻転生だとか、楽園に行くとか、何かを信じれば多少はラクになるのかもしれないが、何も確証はない。
・死ぬ間際の苦しみが怖い
一部例外があるかもしれないが、死には痛みが伴うはず。その痛いことや苦しいことが怖い。
・哀しみ
近親者が死んだ時の哀しみはとてもつらい。例えば自分が死んだら家族が永遠と思えるほど長いこと哀しむだろう。それを考えるとつらい。
そんなことを考えてると、ではなぜ人をはじめ、少なくともこの地球では生物の営みがあるのだろうかと考えてしまう。さらには、なぜ宇宙は生まれたのか?そもそもビッグバンって本当に起こったの??
色々考えても、何も答えなんて出ない。
だけど、どう考えても、この宇宙が全てだとは思えない。宇宙の外に無があって、その無が我々を司る。
という、思想をもっているのですが、こんな私のような思想って、何ていうんですかね?あと、どういった分野を研究すれば、道が開そうでしょうか?