「毛利」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 毛利とは

2023-02-20

anond:20230220155548

毛利守氏は出馬要請されて断ったという話。

で、たしか女性宇宙飛行士出馬して落選したのがいたような……

2023-02-13

anond:20230213024720

例えば、徳川家康は、目の上のたんこぶの豊臣家を滅ぼした直後に、

武家諸法度皇室と一切関係をもってはならない。)

禁中法度並びに公家諸法度(天皇公家自由に行動するな。)

を発布しています

天皇陛下の一の武将将軍)として、世の中をまとめる方法選択した家康ですが、

天皇を中心として反乱を起こされるリスクを恐れて、がちがちに固めています

しかし、天皇を倒すことは選択しなかったようです。

余談ですが、武家諸法度例外を認めた毛利藩(長州藩)によって、

明治維新は動いていきます

あなたが、内閣総理大臣になった時に、

①「天皇の一の子分の俺についてこい!」

②「天皇はじゃまだから倒した、俺についてこい!」のどちらを選ぶのか知りませんが、

いままでの権力者は、①に「正当性」を感じる方が多いのだと思います

2023-02-10

anond:20230210155521

一番有名なのはコナンでしょ

普段毛利探偵事務所のなんでもない殺人事件解決をしながらも

一貫したストーリーとして黒の組織を追いかけるというメインストリーが続いていく

ただ黒の組織あんだけデカそうな組織のわりにメイン所属人間しょうもない犯罪をどんどんやるので

推理もの』の領域は何とか守ろうとしている感じがして俺は結構好き

2023-02-08

さまざまな桶狭間

桶狭間の戦い

桶狭間度:★★★★★

海道一の弓取りと謳われた今川義元大軍を、小勢の織田信長が打ち破った戦い。「桶狭間は谷だった」「いや山だった」「奇襲だった」「いや正面攻撃だった」など、その実態については今なお盛んに議論される。また、勝利した織田信長がこれをきっかけに勢力を拡大し、のちには天下人となっていったこから、「小大名が敵の大軍を破り、その後の飛躍に繋げた戦い」のことを「〇〇の桶狭間」と言うようになった。

奥州桶狭間人取橋の戦い

桶狭間度:★☆☆☆☆

父親を殺された伊達政宗が、その弔い合戦として畠山氏の二本松城を攻めたところ、相手方の救援として駆けつけた佐竹氏・蘆名氏などの連合軍と戦いになった。兵力差四倍以上の相手に正面決戦を強いられることとなった伊達方はほぼ敗勢だったが、勝利目前の佐竹軍が急に撤退したため尻すぼみに合戦終結した。壊滅必至だった伊達軍がそれを免れたという点では「勝ちに等しい引き分け」と見ることもできる。その後、巻き返した伊達政宗二本松城を落とし、蘆名氏を滅ぼして南奥州覇を唱えることとなる。

関東桶狭間河越夜戦

桶狭間度:★★★★☆

泥沼の争いを繰り広げていた古河公方山内上杉・扇谷上杉らの関東勢が、勢力を急伸させた北条氏を恐れて連合し、北条方の要所・河越城大軍で包囲した。それに呼応した今川義元も西から挙兵して挟撃の形となり、家督を継いだばかりの北条氏康は早くも絶体絶命の危機を迎えた。しかし手早く今川と和睦した氏康は、大軍に驕った連合軍に夜襲を仕掛けて撃破した。この戦いで古河公方山内上杉・扇谷上はいずれも滅亡・没落し、関東北条氏を中心として動くようになった。

甲斐桶狭間飯田河原の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

甲斐に侵攻した今川大軍を、武田信玄の父・武田信虎が迎え撃った戦い。荒川沿いの飯田河原戦場に選んだ信虎は、数で上回る今川軍を地の利を活かして撃退、ひと月後に上条河原で再戦したがそれも打ち破り、敵の大将を討ち取った。一連の戦いにより武威を示した武田信虎は、敵対していた穴山氏などを服属させ、甲斐統一を成し遂げた。

近江桶狭間野良田の戦い

桶狭間度:★★☆☆☆

北近江浅井氏は、越前朝倉氏と南近江六角氏という大勢力に挟まれ、当時は六角氏に従属する立場だった。父親隠居させて浅井家の若き当主となった浅井長政は、すぐさま六角からの離反を表明した。それに対し、六角氏は当主六角承禎自らが大軍を率いて攻め寄せたが、浅井長政は半数以下の兵力で迎え撃って勝利した。弱い立場だった浅井氏はこの勝利により戦国大名としての地位を固め、敗れた六角氏はお家騒動などもあり衰退していくことになる。

備前桶狭間」明善寺合戦

桶狭間度:★☆☆☆☆

備前大名浦上氏の家臣として頭角を現しつつあった宇喜多直家は、毛利氏従属しながら備前進出しようとした備中三村氏の当主三村家親を、日本史上初となる火縄銃狙撃により暗殺した。怒れる三村氏は、弔い合戦とばかりに宇喜多方の明善寺城を攻め取ったが、宇喜多直家は素早く奪回し、逆にその救援にやってきた三村氏の大軍を待ち構えて打ち破った。この戦いにより影響力を増した宇喜多直家は、のちに主君反旗を翻し、戦国大名として独立することになる。

西国桶狭間有田中井手の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

かの毛利元就の初陣。源氏の名門・武田氏一族で猛将と謳われた武田元繁と、味方の城の救援に向かった毛利吉川連合軍の戦い。寡兵連合軍は劣勢を強いられたが、初戦で運良く敵方武将を討ち取り、それに激怒して自ら前線へ打って出た武田元繁をも討ち死にさせた。この戦いにより、大内氏から独立して勢力を拡大していた武田氏は一転して衰退し、代わって毛利元就歴史の表舞台に躍り出ることとなった。

「海の桶狭間厳島の戦い

桶狭間度:★★★★☆

毛利元就の戦いとしてはこちらのほうが有名だろう。主君大内義隆に謀反し、大内家内を牛耳った陶晴賢だったが、その隙に離反した毛利元就によって安芸を奪われてしまう。大軍を率いる陶晴賢要衝厳島拠点安芸奪回を狙うが、毛利元就は嵐に乗じた奇襲でそれを打ち破り、陶晴賢自害に追い込んだ。この勝利により、毛利元就は逆に大内氏を滅ぼしてその領土併呑し、中国地方覇者となっていくのである

肥前桶狭間今山の戦い

桶狭間度:★★★☆☆

肥前勢力を拡大していた龍造寺隆信に対し、脅威を覚えた北九州覇者大友宗麟大軍を率いて侵攻、数ヶ月に渡って佐賀城を包囲した。援軍の見込みもないなかで龍造寺軍はよく持ちこたえたものの、ついに大友宗麟は弟の大友親貞に総攻撃を命じる。大友親貞は総攻撃前夜に士気を高めるため酒宴を開いたが、それを見た龍造寺家臣の鍋島直茂わずかな手勢を率いて夜襲を仕掛けた。油断していた大友軍は総崩れとなり、大友親貞も討ち取られてしまった。その後、和睦に持ちこんだ龍造寺隆信は、大友氏に従属しながら勢力を拡大し、のちに九州三強の一角に名を連ねることになる。

九州桶狭間木崎原の戦い

桶狭間度:★★★★☆

島津当主島津貴久が亡くなった直後、その隙を突いて隣国伊東氏島津領に侵攻した。伊東方が数千の軍であったのに対し、島津軍勢はその十分の一ほどしかなかったという。だがそれを率いていたのは名将・島津義弘だった。島津軍の頑強な抵抗により、伊東はいったん退却して陣を立て直すことになった。しかし、島津義弘から指示を受けていた農民たちが太鼓を鳴らして伏兵を装うと、伊東軍は慌てて陣から飛び出し、そこで待ち伏せていた島津軍に四方から攻められて壊滅、総大将も討ち取られてしまった。窮地を脱した島津氏は、島津兄弟のもと勢力を拡大し、九州を制覇していくのである

2022-12-04

今年はバブル崩壊があって大変だったネ!

でも明るいニュースも!きんさんぎんさんが100歳の誕生日を迎えたんだよ。

映画では氷の微笑センセーショナルだったヨ!ドキドキしたね。

ディズニーアラジンも良かった!歌もヒットしたよ。

あと、PKOカンボジア派遣賛否両論だったけど、個人的には良かったんじゃないかなァ??

バルセロナオリンピックでは、岩崎恭子さんが金メダル14歳なのにすごいネ!

うそう、毛利さんがスペースシャトル宇宙へ行ったよ。日本人はやっぱりすごいなァ!

貴花田宮沢りえ結婚もオドロキ末永く幸せに!!

そんなわけで、今年1992年は、良いことも沢山あったし、日本未来は明るいネ!

みなさんも良いお年を!!

2022-11-06

家康江戸に移ったのは天正18年(1590年)のことだった。家康はすぐに大きな城を築こうとはせず、まずインフラ整備に着手した。海水が入り込む低湿地帯であった江戸を耕作に適した地に変えていく。なかでも大規模な工事となったのが、文禄3年(1594年)に開始した「利根川東遷」である。当時の利根川江戸を流れていて、しばしば大洪水を起こしていた。そこで利根川の流れを銚子に注ぐように変える治水工事を行ったのである工事がすべて完了したのは承応3年(1654年)、四代将軍・家綱の時代だった。60年におよぶ大事である。この工事のおかげで、新田開発も飛躍的に進み、関東平野日本最大の穀倉地帯となった。

徳川家康江戸城の拡張に着手するのは、征夷大将軍となった慶長8年(1603年)である江戸本拠を構えてから、すでに10年以上の歳月がたっている。家康はこの時機を待っていたのかもしれない。将軍ともなれば、自分の好きなように城を築けるからである江戸城は全国の大名に協力を要請する天下普請(てんかぶしん)によって建造された。加藤清正藤堂高虎といった築城の名手をはじめ、すぐれた築城技術をもった前田細川池田毛利黒田など名だたる大名たちが参加した。この工事は三代将軍の家光の代まで続くことになる。

天下普請による築城費用人材も資材もすべて大名たちの持ち出しであり、経済的に大きな負担となった。徳川に刃向かう可能性のある豊臣恩顧の大名たちの力を削ぐうえでも有効な策であり、この築城方法はのちの名古屋城にも踏襲されるのである

2022-08-03

日本語片仮名英語の l と r の区別をつけない

そうすると乳母車pram)に乗せられている舶来人幼児は、プラムボーイ → 桃太郎翻訳しうる

では犬や猿や雉は毛利家(長州)、島津家薩摩)、皇家で、鬼は徳川幕府だったかもしれない

ベビーカーボーイ仮説)

2022-07-20

ジャンプサンデーの表紙コラボは激アツだけどなんで安室さんがコナン代表面してんの?

25年ルフィ相棒やってるゾロに並ぶのがなんでぽっと出のガン黒金髪なの?今調べたら初登場75巻だって。お前誰だよ。

まだ服部とか怪盗キッドの方が納得出来たわ。蘭(とナミ)でも可。別に少年探偵団でもいいし阿笠博士でもいいし毛利おっちゃんでもいいしなんなら新一でも良かった。

勝手に国を恋人にした男と比べたらジンおじさんとか京極さん赤井秀一新井先生の方がはるかにマシ。

安室さん、あんコナンの何?

2022-07-10

anond:20220710155524

実際は家康の天下への周到な計画と苦労は、それだけで長い物語になる

とにかく総合的に苦労を惜しまない75年だったと思う

秀吉は軍略と調略の天才スピード感がすごく、毛利を4年で落としたのはほぼ秀吉だけの手柄

内政力は朝鮮出兵などで疲弊させたり問題があった

信長は圧倒的なカリスマ恐怖政治をもった将の将であり戦国を終わらせた祖であるのは間違いない

秦の始皇帝のような役割だったとみてよい

2022-04-16

毛利元蹴ってキックの申し子じゃね?

毛利(けり)

蹴(けり)

2022-04-15

NFTで管理された動画って、ダウンロードして再エンコードしたらバイト列が変わって、唯一性が保持されなそうだけど、なんでそんなにありがたがられてるの?

画像にしたって、NFTで管理された絵に1x1の透明なピクセルを追加して放流すれば、それはデータとしては異なるけど、「アート」としては同じものなんじゃないの?

アンダーソン・毛利・友常法律事務所外国法共同事業パートナー弁護士長瀬威志氏によると、法律上、NFTを購入したからといってその作品著作権所有権を取得したということにはならないとされています

また、NFTに紐づいているアートなどの作品画像自体は誰でもコピーして問題ありません。金融規制上の位置づけや、法的性質についてNFTはまだ問題点を多く残しています

NFTとは?用語解説ポイント・事例まで徹底解説

https://www.techfirm.co.jp/blog/nft

2022-03-25

anond:20220324130319

制度設計的には、公爵五摂家徳川将軍家に限られるはずだったので、「それくらいなら覚えられるだろう」と言う考えだった。つまり「こうしゃく」と発音した際、上につくのが、近衛、鷹司、九条一条二条徳川でなければ、侯爵です、ということだ。徳川御三家侯爵だったから、そこはちょっとややこしいけど、そもそも御三家は、尾張様とか水戸様と呼ばれることが多かったので。

天皇家に極めて近い五摂家徳川将軍家に与えられた爵位公爵であったので、これの英訳Duke ではなく Prince である宮家Prince で、本来宮家よりも摂家の方が格上なので、宮家水準に合わせた結果だ。

直前に島津久光をなだめるために島津宗家島津久光家が公爵になって、バランスとるために毛利公爵になって、それでおかしなことになってしまった。

その後、伊藤や山県、大山などの成り上がりまで、公爵になったかおかしなことになった。伊藤Prince ってのはさすがに無理があるだろう。慶喜家や水戸家が公爵になるならばまだしも。

2022-03-24

anond:20220324110507

・生きているとわかったら黒の組織がまた殺しに来るのでバレるわけにはいかない

事件ジャンジャン舞い込んでくればそのうち黒の組織がらみの事件出会可能性がある

 

上記2点を合わせて

毛利小五郎名探偵に仕立て上げよう

 

という流れになったはず

 

最近毛利探偵事務所とは関係ない流れでばっかり黒の組織とやりあってるから

当初の設定があん意味なくなってきてるのはある

2022-02-01

毛利元就アフリカ人

実はかの有名な毛利元就アフリカケニアより渡来した屈強な黒人でとりわけ頭が良く語学堪能ということもありすぐに日本生活に馴染んだと言う。

その知才と抜群の運動神経から繰り出される右ストレートは万を超える百戦錬磨武士たちの顎を砕いたのであった。

趣味としてコーヒーがよく知られており、当時の武将の中でも抜きん出て磁器にはこだわっていたと言う。

晩年故郷ケニアに帰り親を失ったチーターの子供たちを二足歩行とすることで人間社会に順応させようとした「毛利塾」の運営に腐心していたことは周知の事実であるところだ。

2021-12-27

anond:20211216111446

河尻みたいに征服した武田領の仕置をしているのが、河尻、毛利、森、遠山かな?

水野、団、斉藤坂井信忠に付き従っていた

武田滅亡からまだ日が経っていない(4ヶ月)んだよね・・・

尾張衆:

河尻秀隆、甲斐に据えられる

池田恒興(当時は遊撃隊あつかいか)、摂津支配

毛利長秀、伊那領を統治

塚本小大膳、?

浅井政貞、天正9年(1581年)5月24日死去?

水野忠重、二条城にいたが生還

団忠正二条城信忠と一緒に戦い討死

丹羽氏次、?変後は信雄家臣になる

美濃衆:

森長可信濃海津城領主

斎藤五郎二条城信忠と一緒に戦い討死

坂井越中守、二条城信忠と一緒に戦い討死

佐藤秀方、天正6年(1578年)には、越中戦線派遣された(月岡野の戦い)。 そのまま北陸にいた模様

遠山友忠、東濃にいた模様

2021-12-14

anond:20211214112549

中国大返しが無いというのが、

秀吉が(毛利をだまして素早く講和して)普通の速度で戻ってくる」ということだゾ。

2021-12-13

anond:20211212125107

中国大返しがなければ、秀吉は通常の速度で明智征伐に向かうこととなり、

同時期に出兵していた勝家・家康と合わせて三方面同時侵攻のような形になる。

清洲会議ではその三者論功行賞となり、史実よりも秀吉発言力は弱くなって、勝家は筆頭家老としての地位を維持する。

家康甲斐攻めは無くなっているはずなので、甲斐北条のものとなっている。

その家康領地割譲しようにも、織田本拠地である尾張美濃を与えるわけにもいかず、

最終的に「家康甲斐を得るために織田家が力を貸す」ということになる。

まり織田家の次の目標北条攻めということとなり、地理的問題からその方面軍は勝家が中心となる。

秀吉毛利長宗我部への抑えとして残され、力を温存できる一方で、

共同で北条と戰う家康と勝家の関係は深まり秀吉VS勝家・家康という構図になっていく。

北条戦が長引くなか、満を持して秀吉挙兵、京・近江を押さえ、美濃へと進出していく。

柴田徳川連合軍も急いで引き返し、両軍は関ヶ原で激突する。

面白いな。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん