はてなキーワード: 健全とは
特定されないように、すこしフィクションを交えながら備忘録として書く。
ウチの会社は、社員が多忙すぎてみんな全然トイレに行けず、排泄の我慢に起因する病気や漏らし事故が頻発していた。この問題に取り組もうとした経営陣は、社員のトイレ休憩を促進するために新しい査定システムを導入した。
勤務中にトイレに行った回数が査定に影響し、トイレ休憩が増えるほど査定が上がるという仕組みだ。
これにより、社員たちは以前よりも頻繁にトイレに行くようになった。結果として、排泄に起因する病気や漏らし事故の発生件数は著しく減少した。
だが、問題は別の形で現れた。トイレ休憩に費やされる時間が増えたため、従業員の業務効率が著しく落ちた。終業時間の大部分をトイレに費やすようになったから、業務が遅延し、生産性が低下したのだ。
残念ながら、業務効率の低下が深刻な問題となり、うちの会社はつい先日倒産してしまった。社長はこの経験を教訓とし、将来的に会社を再興する際には、勤務中のトイレ休憩を制限することを決意したらしい。
トイレ休憩と業務効率のバランスは組織の健全な運営にとって重要な要素だ。将来の会社経営においては、効果的なトイレ休憩の管理が求められるだろう。
新築ファミリー向けでドバッと分譲されるタイプのマンションって住民が同じような年代の同じような人たちだらけになって、一様に高齢化してゴーストタウン化していくんだよなあ。
脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律
https://www.mlit.go.jp/jutakukentiku/house/mokuzou.mokusoku.html
脱炭素社会の実現に資する等のための建築物等における木材の利用の促進に関する法律
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=422AC0000000036
第一条 この法律は、木材の利用を促進することが地球温暖化の防止、循環型社会の形成、森林の有する国土の保全、水源の涵かん養その他の多面的機能の発揮及び山村その他の地域の経済の活性化に貢献すること等に鑑み、建築物等における木材の利用を促進するため、木材の利用の促進に関し、基本理念を定め、国及び地方公共団体の責務等を明らかにし、並びに建築物における木材の利用の促進に関する基本方針等の策定、建築物における木材の利用の促進及び建築用木材の適切かつ安定的な供給の確保に関する措置等について定めるとともに、木材利用促進本部を設置することにより、木材の適切かつ安定的な供給及び利用の確保を通じた林業及び木材産業の持続的かつ健全な発展を図り、もって森林の適正な整備及び木材の自給率の向上に寄与するとともに、脱炭素社会(地球温暖化対策の推進に関する法律(平成十年法律第百十七号)第二条の二に規定する脱炭素社会をいう。第三条第一項において同じ。)の実現に資することを目的とする。
これは素人の感想なのだがいくら木材を内部で多用しても外側の見た目が木材っぽくなければ宣伝効果も景観効果もないのではないだろうか?
逆に木材ではなくとも木材のような着色をすることで木材の見た目の宣伝だけにはなるのではないかと。
技術革新のお陰か、木造のビルや木材の防火壁(のようなもの)も登場している。
どんどん木造を増やしてほしい。
スタンドやアルターやMPLSのような「内包する世界観を具現化させた力の自然発生」がなくなり、「自身の世界観を能力により表現」するものが増えたように思う。
これは結構な違いがあって、前者の場合はありがた迷惑というか初期は本当にただの迷惑でしかないことが多い。
また、能力の有り様についても前者はアンコントローラブルな自身の内面の表出として初期は自由にならないことが多いが、後者は最初から使い手の支配下に置かれている。
制御不能な衝動や価値観との付き合い方を学んでいくことが前者の物語には含まれるが、後者の場合は自分が自分をどう値踏みして扱うかの一部として能力が存在する。
なんというか、計算づくなんだよな。
どうしょうもない世界にどうしようもなく今あるように生まれ落ちた事実と主人公を戦わせようって意思なんてないんだ。
でも俺が漫画やラノベでみたいの、どうやって世界と折り合いをつけるかより前に。まずは自分とどう折り合いをつけるか、自分が自分のままでありながらもどうなりたいのかを探す話なんだよ。
別にあなたたちに意地悪したいわけじゃないんだ、と言っておきたい。
運営公式Twitterのリプライや引用欄を覗く限りではそう思っているプレイヤーもわりと少なくないように思えるので、誰が読むかもわからないこの場所にひっそりと内情を書く。
あくまで自分が見てきたタイトルに限って、かつかなり詳細を省いた話なので、例外も多分にあることを覚えておいてほしい。
スマホゲーの運営に携わっていると、新しい女性キャラをリリースする度に「また女か」「男キャラを冷遇するな」「女ファンを切り捨てるつもりか」と憤慨する意見が直接的に届く。
事実、多くのタイトルではリリースされるキャラの男女比に偏りがある。たとえば5回のアップデートのうち、4回が女性キャラで残り1回が男性、というような場合だ。
けれど、これは別に女性プレイヤーを軽んじているわけでも、ましてや嫌がらせをしているわけでもない。
純粋に、ユーザーの男女比から見た売り上げの最効率を取るしかない状況だというだけだ。
仮にプレイヤーの男女比が男7女3なら女7男3の割合で、それよりも偏っているならさらに極端な比率で、リリースされるキャラの男女比は決定される。
もちろん男が好きな男ユーザーや女が好きな女ユーザーも存在するが、それでも概ねプレイヤーの男女比率を反転させた形でキャラの実装を行っていれば取りっぱぐれが少ないのだ。
運営を継続させるためには各期の予算をクリアする必要があり、商材はそこから逆算して決められる。そこに特定層への悪意や軽視があるわけではないことをまず知ってほしい。
では、この実装の偏りを覆して望む通り男女半々のリリースを実現するにはどうすればいいか。
ひとつは、男性キャラがリリースされた場合の課金総額を上げることである。しかし、たとえば3割の女性ユーザーだけで7割の男性ユーザーに勝る額を叩き出すのはあまり現実的ではないかもしれない。
さらに向かい風として、男性キャラのリリース頻度が低い場合、ターゲットとなる女性ユーザーは無償通貨を貯めがちである。
結果的にそれまで貯めた無償通貨だけでガチャを終わらせてしまうので、実際の課金額は男女比から算出される額を下回ることのほうが多い。
だから、現状を変えたいなら課金してくれとはこちらも単純に言いづらい。
ただ、目当てのキャラが実装された時に多少でも財布の紐を緩めてくれるのなら、それ以上に比率が偏ることはなくなると思う。
プレイヤーそのものの母数を増やす、あるいは女性ユーザーの比率を増やすことだ。あくまでこれまで見てきたタイトルの話ではあるが、女性プレイヤーはSNSでの発信力が男性に比べて強い傾向がある。
ふせったーに長文で感想を書くアカウントや、ファンアートを書くアカウントの割合で言えばプレイヤーの男女比と逆転しているように思う。
こうしたバイラルがプラスの方向に働けば、無理な課金に走らずともリリースキャラの男女比をズラしていくことも不可能ではないかもしれない。実際、いくつかの大型タイトルではそうしたファン層が無視できない規模になっているはずだ。
一方でどれほど労力をかけても結果に繋がりづらいのは、冒頭で挙げたような運営へのクレームだ。
たとえ少数の人間が高い熱量で運営にヘイトを向け続けたとしても、その熱量を受けて売上の見込めない施策へ踏み切る可能性は低い。
「これ以上女性キャラを出したらプレイヤーのヘイトが溜まるから男性キャラを実装しよう」という決断よりは、「前回の男性キャラのリリースが高い反響を得ていたから今回も男性キャラを実装しよう」という決断の方がよほど現実的だ。
だからこそ、もし本当に心からリリースキャラの男性比率を引き上げたいと思っているのなら、熱量を向けるべきは運営公式でなく、たとえば周囲の未プレイの友人などであることに気づいてもらえると嬉しい。
と、ここまで書いてはみたが自分はこれを書いてどうしたかったのだろうか。
何かを変えたかったというよりは、あまりに一部のプレイヤーの声が届きすぎて疲れてしまったのかもしれない。
クレームが届くことそのものよりも、そのクレームに対して現実的な手段を取りづらい状況であることのほうが辛い。
だからこそ、今後もしポジティブな方向に動くプレイヤーが少しでも増えるようなら運営としても全力で応えたい。
もちろん、すべてのプレイヤーに「自身の望む環境のために努力しろ」なんてことを言うつもりは毛頭ない。
個人的には、好きなキャラの実装頻度が低くてもその間に無償通貨を貯め、のんびりゲームを楽しむのも十分健全な付き合い方じゃないかと思う。
それぞれのペースで、それでももしプレイ環境を変えたいならなるべく結果に繋がりやすい手段を選んで、長く遊んでもらえたら幸いである。
iPhoneからAndroidに戻ることはもう考えられないくらいにロックインされてしまったけど、
あれだよね、今までどんな手を使ってでもマスターまで言ってた人たちのひがみだよな
特に配信者にとっては、今までマスター取って粋ってあーだこーだ言ってたのが言えなくなるわけだし
あと飯の種であるマスターという称号が簡単に取られてしまったら、不安になるよな
配信者を心の拠り所にして、頑張ってた人たちにとっても、今までの努力を全否定されたと感じるのだろう
プロゲーマーっていう言葉が独り歩きしてなんとも居心地が悪い。
ゲームを一生懸命やること=プロになるっていう図式になってしまっているせいで、プロにならないなら遊んでるだけという評価を受けやすくなっている。
野球だってサッカーだって、別に全員がプロになるためにやっているわけではなくて、勝つためにはどうしたらいいかってことを考えながら仲間と切磋琢磨していくことに価値がある。
それはesportsだって同じこと。
それなのに野球やサッカーは良いものだと評価されて、ゲームだけ遊んでいると思われるのはおかしい。
それを考えると、プロという存在以外に、一生懸命に取り組んでいる人間をアスリートとして評価するところから始めたほうが健全なのではないかと思う。
将来的には国体とか甲子園とかそういう規模で学生同士が競い合えるような状況が作られるのが理想的。
人に聞かれたときに、「プロを目指している」と「アスリートを目指している」では意味も響きも全然変わってくる。
今だって自称することは簡単だけど、そのための地盤が全然できていないのが現実。
ゲームが一企業の製品でしかないのは仕方ないけど、学校の部活動では無償提供するとか、メーカーだってやりようがあるはず。
現実的に、今のプロだって一握りの賞金を奪い合いながらあとは配信とスポンサードで食べているようなもので、やっていることは実質youtuberでしかない。
世の中にはプロスポーツがなくてもアスリートとして十分に生活できている人がいるわけで、そういう人をプロとは呼ばないのだからesportsだってそういう人たちのことはアスリートと呼んでほしい。
この長文を書いている間にツイート主が自ら問題点に気付いたようなのですが、一応書いたので載せます。
公に相応しい言葉を使われた「夢をかなえるゾウ」の批評論文は普通に読みたい。
勢いに任せて書いていたら思いの外長文乱文になってしまった。歴史については細部に誤りがあるかもしれません。ご容赦ください。
発端と一連のツイート↓
https://twitter.com/dfuz4/status/1672629861524062213?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672958086733250562?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672973973825650689?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
https://twitter.com/dfuz4/status/1672965101517955073?s=46&t=RfgMyrvtZQTMi53tj0NN1A
長いので要点まとめをしました。
この時点で既に長いですが、この下に本文があります。
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2.「公」における良書主義について
公による良書主義は、先の大戦で見られた悲惨な言論統制、思想弾圧に繋がる。
民主主義においては、全ての本、全ての人、全ての思想信条は法の下に平等に扱われるべきとされる。
また歴史的に見ても、本と人間(思想・信条)は密接に紐づいており、
公の姿勢としてその部分が守られているため、
特定の本を否定することで人格を否定されたと考える人が現れてもおかしくはない。
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3.「私」における良書主義について
公の立場からしても、本来良書・悪書の判断は個人に委ねられるべきとされている。
ただし、文字通り一人一派であり、そうでなくてはならないため、
当然、他人からも私人の立場から私人の言葉で反論される場合がある。これもまた自由であり、自然かつ健全である。
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4.「公」と「私」の混同
マッチングアプリを使っている1ツイッタラーは「私」の立場である。
前述の通り、私人の立場で、私人の言葉を使ったことが発端だが、
途中から研究者、批評・研究という公の立場を持ち出しているため、区別がついていないと思われる。
公の立場には公に相応しい言葉があり、当然集まる意見にもそれが反映される。
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余談.「全ての本は素晴らしい」と考えている人はいるのか?
いない。
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5.今回のまとめ
「私」の立場で発信したのであれば、他人の「私」の意見も受け入れるべき。
反論を受けてから「公」の立場を持ち出すのは、「公」に相応しくないという点で悪手である。
研究者であるならば、嫌いなどの私情を挟まない冷静で平等な視点で、相応しい言葉で論理的に批評しなければならない。
あくまでも私人としての意見であるならば、自らのためにも研究者の立場を途中で持ち出したりせず、最後まで私人の意見に留めたほうが無難。
個人的には発端のツイートの内容はあくまで私的な意見であり、さして騒ぐようなものではないと思う。が、意見を言いたくなる人がいてもおかしくない。
ただし、途中で研究者という公的な立場を持ち出したことで、認識として危険だと思ったためコレを書こうと思った。
ツイ主に敵意はない。出来れば本人に届いてほしいが、読みづらい文章で申し訳ない。本を愛する気持ちは勿論自分もそうなので、よくわかる。
ここから本文
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本人がこの視点の区別がついていないことが、一番の問題なのではないかと思う。
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2.「公」における良書主義について
まず前提として、日本には古く戦前に「良書主義」という考え方がある。
コレはざっくり言うと、
"世の中には(ツイ主の言葉を借りれば)「しょうもない」「薄っぺらい」=悪書が存在し、それらは教育および教養において価値を持たない。歴史的・文学的に意味を持った良書のみに価値がある。"という考え方である。
ただしコレは、例え「公」の立場が定めたものだとしても、突き詰めていけば、ツイ主も表明しているようにどこかの個人「私」の主観に基づくものである。
そのため「公」とされる場所においては、近年ではこの考え方が否定されている。
"絶歌問題"と言えば大々的にニュースにもなり、記憶にある方も多いと思う。
大筋は以下。
①「こういった内容の図書を図書館が置いて良いものか」と市民からクレームが入った
②クレームを受けた一部図書館が該当の図書を閉架=職員の出納が必要な場所に置いたり、除籍とした
論点としては、
・公的な自治体である図書館が、特定の出版物を市民の目に入らないように検閲・排除するのは正しいのか
・それは言論弾圧に繋がり、思想信条の自由に反するのではないか
議論の中、多くの図書館ではこの絶歌を特別扱いせず、他の一般図書と同じように取り扱った。つまり開架=誰でも手に取れる場所に置いた。
"本の評価は、読んだ各個人「私」に委ねられる。図書館「公」において、すべての本(すべての人間、すべての思想信条)は平等である"
民主主義に端を発する図書館の歴史を学んだ者であれば、この姿勢には拍手を送るだろう。
「公」においては、良書も悪書もあってはならない。
図書館ひいては司書職の人間が私的な判断で、特定の本への接続を薦めることまた同様に妨げることは越権行為であり絶対的なタブーである。(※2)
また、この対応からも分かるように、本というものは個人の思想・信条・人格と密接に紐付けられて考えられている。
一冊の本は一つの思想であり、一つの信条であり、一個の人である。
第二次対戦前夜のドイツの焚書に対するハイネの言葉である「本を焼く者は、いずれ人間も焼くようになる」からもそれがよく分かる。
「公」の場において、特定の本を特例として扱い肯定・否定することは、その本に書かれた思想およびその思想に同調する人を肯定・否定していることになる。
だからこそ、良書主義は言論統制や思想弾圧に繋がるとして廃れていった。
ただし、繰り返すが、コレは「公」における話である。
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3.「私」における良書主義について
前述の通り、評価は「私」に委ねられる。
司書職の人間に、職務外で好きな本・嫌いな本を聞けば全員がその両方を答えるだろう。コレは「私」の範疇であるため自由である。
本人も表明しているように、発端となるツイートした時点での立場は明確に「私」である。
マッチングアプリをしている私人としての発言でしかない。自由である。
そしてそこに、たくさんの「私」の反対意見が集まった。コレもまた自由であり、自然である。
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4.「公」と「私」の混同
問題はその後だ。
自然の摂理で発生した反対意見に不満を覚えたツイート主は、「批評」「研究」という言葉を持ち出して、文学研究をしている学生という立場から発言を始めた。
研究者は言わずもがな公の存在である。学生であっても、指導教員がおり、大学には国から補助金が出ている。
批評や研究はもちろん存在するが、公には公に相応しい言葉がある。
しょうもない、薄っぺらい、大嫌いという言葉で語られた批評は存在しない。(文芸商業誌にならあるかもしれないが、当然「私」である)
研究者は、特定の作者・文書を研究対象に選んだからといって、選ばなかった文書を見下しているかといえばそうではない。
(内心の「私」の部分ではそうであったとしても、それを「公」である研究の中で露悪的に表現することはない)
公に相応しい言葉を使って正しく批評していれば、反論であっても同じように公に相応しい言葉を使った建設的な意見が来ていただろう。
「個人としての発信なら問題ないが、研究者としての発信なら相応しい言葉ではない」
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余談.「全ての本が素晴らしい」と思っている人はいるのか?
これはハッキリ言うが、いない。
公の立場では「全ての本は平等」に過ぎない。コレは法の下において、そうでなければならない。
私の立場では「全ての本は平等ではない」。コレは法の下において、また民主主義において、そうでなければならない。
ツイ主にアレコレ言ってる人は全ての本が素晴らしいと思ってそう言っているのではなく、
好きな本を貶された、好きではないけどその言い方はないでしょう、お前の態度が気に食わない、なんとなく鼻につく等等、一個人の「私」の立場からの意見に過ぎない。
また途中から研究者の立場を持ち出したことに対して違和感を覚えたり、それはダメでしょうと思ったり、マウントを取ろうとしていると捉えて不快になった人もいるだろう。
何度も言うが「私」の立場からであれば自由で自然で健全である。
ただし、当然、誹謗中傷や現行の法に触れる発言は自由の範疇外なので、コレについては受け入れる必要はない。(警察に行ってください)
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5.今回の件のまとめ
「私」の立場から「私」の言葉で反論、不快感の表明、揶揄が集まった
(自然な流れ)
これに尽きる。
そして、後から「公」ぶるのは無理があり、「公」の在り方に照らせば悪手だ。
つまり公と私を混ぜるな危険。ということで一度冷静になって考えてほしい。
研究者のポーズを取って「批評という文化に馴染みがない…?」等と煽っているが、それこそ公に相応しい言葉を用いた批評という文化に対して失礼である。
「研究者であろうが、ツイッターで発言している時点で"私"の立場です。だから自由でしょ?」というなら納得できる。しかし、ならば他の人の「私」の意見が集まることも受け入れなければならない。
何度も言うが研究者という「公」の立場を取るのであれば、「私」の好き嫌いを挟むことは相応しくない。
この区別をはっきりさせて、「公」の姿勢を理解していないと、研究者としては危険すぎる。
※1) 公の最たるものには文書館もある。文書館は歴史的・文学的に保存価値があるものが選別され保管されている。そこには「公」=研究者による評価判断が下されている。
ただし、文書館および文書館職員は当然「文書館に所蔵されない本はしょうもない。薄っぺらい。大嫌い」等とは言わない。
あくまでも歴史的文学的な保存価値という一要素を選書基準としているに過ぎないからであり、良書・悪書を選別しているわけではないからである。
また、勿論そういった言葉が「公」に相応しい言葉ではないからである。
※2)近年ではCCC等一般企業の参入、指定管理、業務委託といった制度により、自社や関係各社に利益が上がるような本の取り扱い方をしている図書館もある。しかし本来の図書館の在り方としてはこの限りではない。実際に問題にもなっている。
VTuberのキャラデザ担当のイラストレーターはどうして残忍なことを平気でする人が多いのでしょうかね。
キャラデザ担当が手がけたVTuberのキャラクターの三面図で、腕(特に左腕)を切断したグロ画像を作ったり大っぴらに投稿したりしているユーザーが多いので見るに忍びないです。
キャラデザ担当をパパとかママとか言いますけど、そのキャラデザ担当がしている行為は虐待どころか犯罪に等しい、いやもはや犯罪ですよね。見ていて悲しくなります。
こういう人間は親になっても子供に対していずれそういう行為をするんでしょうね。イラストレーターも堕ちるところまで堕ちてますねこれは…。