はてなキーワード: 金髪とは
下賤の女の子が姫の身代わりになりゅ
一応せめこませないようにーみたいなのとかはあるけど基本ありがちな少女漫画のテンプレ
審査員が漫画家だからマンガ的な側面から、服のデザインとかまでこって決められてるのがすごいみたいにほめられてたけど、
天真爛漫で図々しくてひっかきまわすくせに、いざとなったらいきなりシュン・・・ってなったり、恋愛脳全開になってぐちゃぐちゃにするせいですげーイライラさせられる
セトとアズどっちとくっつくのか、金髪クールか黒髪クールかって
いわゆるおもしれーやつテンプレでしかなくて新鮮さもないしくそつまんねー
読んで損したわ
amazonレビューみたら1巻にはかろうじてそういう感想もあるけど2巻以降はセトアズ(はぁと)みたいなのばっかでみるにたえんわ
ヒトラーが山荘で金髪の少女と交流しているところを写した心温まる写真、これを証拠に「ヒトラーにも優しい心があった」とツイートするスットコドッコイがいて、それにいいねが何千件もついちゃったりするんですよと授業で紹介したら、受講生がドッと湧いた。
https://twitter.com/tanosensei/status/1537378344656060417
このツイートに対して、「「ヒトラーにも優しい心があった」と主張するだけでスットコドッコイ扱いするなんて許せない!」と喚いている輩がいるが、国語や現代文の勉強からやり直せとしか言いようがないな。
問題とされているのは、ナチ・プロパガンダの産物である写真を「証拠」にヒトラーの「優しい心」を立証しようとするアプローチや知的態度だろうに。
日々の仕事で疲れてメンタルが逝きそうになってる中、疲労に反比例して性欲だけが増しており、エロ同人でも読んで抜くかと思ったところ思っていた以上に感情移入した作品に出会った。
これはレビューでも書くべと思い立ったがFANZAのレビューは1000文字までらしく大幅にオーバーしたのでここに供養がてら記す。拙文たれ流し申し訳ない。
https://www.dmm.co.jp/dc/doujin/-/detail/=/cid=d_216128/#area-link-review
世の中にギャルと致すエロ漫画は多数あれど、その中で本作のどこが抜きん出ているのか、その魅力を説明したいと思う。本作は、エロ漫画としてセックスシーンが多く、ヒロインのキャラも絵も魅力的ではあり実用性は非常に高いが、それが本作の魅力ではない。
本作の一番の魅力、それはエロ漫画としての文脈ではなく、恋愛漫画または青春マンガとしての文脈がメインを担っている点にある。
ヒロインの阿川さんはクラスでも目立つ可愛らしいギャルだ。明るく、気さくで誰とでも打ち解ける雰囲気を持つ。しかし、教師を始め、乞われれば誰とでもヤるという噂も流れている。またモブの容姿と比較すると彼女以外に金髪は見受けられず人当たりのいい性格とは裏腹にやや孤立している様子も見受けられる。
そんな彼女に優しくされ、一目惚れした陰キャである主人公が話の流れから彼女で童貞を捨てさせてもらうというのが大まかな流れである。背景やモブは大雑把に書きつつヒロインの阿川さんは丁寧に描かれ、セックスに至るまでの期待感をコミカルにしかしリアルに描いている。
さて、連載のエロ漫画と同人のエロ漫画の違いはなんだろうか?それは行為の濃淡ではないだろうか?連載のエロ漫画は少ないページの中でその行為を描かなければならないという制約がある。行為に至るまでの過程を丁寧に描くほどリアリティは増し没入感も感じられるが肝心のエロシーンが希薄になってしまう。そのため連載のエロ漫画の大半はエロシーンに配慮した結果どうしてもリアリティが無くなるといった問題が生じる。もちろん、それが一概に悪い訳ではない。ヒロイン自体の、またエロシーン自体の魅力、フェチズムでエロ漫画は十分別の魅せ方が可能であるし、連載を通して複数の話でキャラクターの核心にせまることも可能ではあるからだ。その点同人のエロ漫画に制約は無い。その結果生まれるのがリアリティの差である。本作におけるリアリティとはオナニーが恋愛に至るまでの過程である。
セックスとはもちろん快楽を伴う行為であり、互いを求め合う行為でもある。オナニーとの違いは相手がいることだ。そういう意味では、阿川さんがいままで相手にしてきた男(教師、他の同級生)は阿川さんを気づかうというよりかは、阿川さんをオナニーの道具として使い、阿川さんも同様に相手をオナニーの道具とみなしている。阿川さんが興味があるのはセックスであり恋愛ではないからだ。主人公が初めて彼女とセックスをする際、彼女の中で、最初は主人公とのセックスはオナニーの一環であっただろう。主人公の中でも憧れの女性ということはあるがこちらも行為自体がメインであっただろう。しかし、このセックスを通じてオナニーではない、相手のいるセックスとしての良さをふたりが薄っすらと体感したように思う。
セックスでは相手が嫌がるようなことはすべきではない。主人公は生来の臆病さもあるだろうが、一度セックスをした以降、1ヶ月ほど彼女に話しかけられずにいた。これは自分なんぞがまた話しかけても迷惑に思われるのがオチだと気遣い半分、否定されるのが怖いという臆病さが半分であると思う。
その後、友人の後押しもあり、彼女ともう一度話すことになるが、その際、迷惑だと思ったので話しかけられなかった≒オナニーの道具としてではく自分を気遣ってくれていた主人公に対し阿川さんに初めて恋愛感情が湧く。これは、奇しくも、陰キャの自分にも屈託無く話してくれた阿川さんに惚れた主人公と同じ構図であり、これをもってエロ漫画の文脈は完全に恋愛漫画の文脈に置き換わる。この辺り、なぜか、映画エレファントマンのワンシーンで「こんなに美しい人に優しくされたのは初めて…」というシーンが想起された。
以降は互いを求め合うセックスに没頭する二人だが、それ故に失敗し、困難もつきまとう。その困難に立ち向かうシーンでは恋愛漫画から青春マンガもしくは青春映画に鞍替えしたのかと思ったほどだ。若いうちの失敗などどうとでもなる。若さと無謀さで是非とも乗り越えていってほしいと思った。
最後に、自分は童貞ではないが、いつまでも自分が童貞であるかのように感じている。それは、高校時代、大学時代と恋愛と無縁の生活をしていたからではないかと思う。こういう恋愛がしたかった、そして恋愛に当たり前の様に存在するこんなセックスがしたかったと強く思わせてくれる作品だった。私は、セックス≒オナニーがしたいのではない、セックス≒恋愛がしたかったのだ。
日本の文化は「マジ」と「なんちゃって」に分けられると思ってるんだけど
80年代はなんちゃってが優勢だった時代なんだよ。バブルで調子乗っててチャンネーシースーギロッポンとかふざけた時代。
テレビだったら秋元康ととんねるずの時代だよね。真面目が馬鹿にされる時代。
それが90年代はマジ優勢の時代になっていくのよ。正確にいうと91年にバブルがはじけてその残り香がなくなった94年くらいからかな。
そして00年代はまたなんちゃってに戻るみたいに繰り返してるとおもってる。秋葉系の時代と言っていいから「てへぺろ」でもいいかもしれないw
10年代はけっこう「マジ」が復活してる感あったよね。震災の影響あるのかもなぁ。
90年代は「マジ」の時代だから自分で作詞作曲しないと音楽で飯食えなくて、不遇だったのがアイドルのSMAP。
アイドルというジャンル自体が「なんちゃって」になってしまったので、活躍の場がなくアイドル冬の時代なんて言われていた。
だから開き直ってなんちゃってを始めたのがSMAPxSMAPで、なんちゃってが得意なフジテレビでコントのコーナーを取り入れたアイドル番組を始めたのが戦略的だよね。
でも音楽はマジの中心だったから、彼らは従来のジャニーズがやってた王子様的な少女漫画の世界から、リアルな青年をイメージさせたマジに寄せた青いイナズマとかSHAKEで勝負したんだよね
光ゲンジのだれかがSMAPの歌の路線をうらやましがってた話をしてたのを覚えてるよ
とはいえ中居の超絶的歌唱力でやっぱりSMAPはなんちゃって扱いだったけどねw
モーニング娘。もそのマジの時代に生まれたアイドルって感じだよね
ASAYANがそもそも「マジ」なんだけど、でも平家みちよに決まったオーディションの負け組で組まれたっていう流れがなんちゃってだし、いかにもアイドルな売り方だよね
とはいえ00年代みたいに黒髪にしろなんてこともなく、金髪の後藤真希がそうだけどマジ時代に対応したアイドルではあった
だからそのあと出てくる00年代の歌が下手で口パク上等でダンスがゴミなで、握手だのじゃんけんだので優劣を決めるAKBなんかと比べて歌とダンスは抜群にうまかったから、ハロプロオタクはそこが心のよりどころだったよね。
アイドルなのに「アイドルっぽくない」が誉め言葉という変な時代
アイドル不遇だから、芸能事務所が新人の女の子売りづらくなった。それで発明したのが女優の卵という謎のジャンル。
広末涼子が代表例で、そういう人材はしれーっと音楽も出してアイドル的な売り方もする。この手法は今でも続いてるよね。
アイドルが好きだと言ったら馬鹿にされたマジの時代に、思春期男子に「アイドルじゃねーから」といいやすく消費しやすくしたのが女優の卵だったり女子アナなんだよね。
音楽は「マジ」の中心地みたいな感じだったから作曲はできないけどせめて作詞はやらせろみたいなかんじでマジ売りを事務所におしつけられて
マジ時代に対応したよくわからんエセアーティスト売りのアーティスト増えて、歌姫なんていうジャンルが生まれたり、裸足で歌いだしたり、あの時代のマジ対応はよくわからんこと多いw
だから椎名林檎みたいなガチな人材が業界人からも勘違いされて「きみもそうなんでしょ?」みたいな扱い受けてたの笑うよね
松本人志はテレビのお笑いに「マジ」を持ち込んだ人だよね(談志とか上岡龍太郎とかもいるんだけど)
90年代はお笑い芸人が芸能界のヒエラルキーでトップになった時代といえるんだけど、間違いなくダウンタウンの影響だよね
ビートたけしは映画業界ではマジをやってたけど、テレビじゃ「なんちゃって」のキャラでコマネチコマネチってやってたからその辺が微妙だった
(余談だけど、彼がプロデュースした伝説の糞ゲーたけしの挑戦状は「こんなげーむにまじになってどうするの」なのが偶然とはいえおもしろい)
お笑い芸人は「なんちゃって」を生業にする職業で、昔はいろもんなんて言われてたが、松本人志はそれをひっくり返しマジをお笑いで商売にした人といえる
それでお笑いとアーティストの芸能界マジヒエラルキー競争が始まったんだけど
HEYHEYHEYとか、うたばんとかお笑い芸人がMCやり始めて
浜ちゃんに叩かれた!うれしい!浜ちゃんにたたかれると売れるってジンクスがあるんです~なんて言って
お笑い芸人に媚びるアーティストみたいな構図が普通になって、あれでアーティストがお笑いの下になったのを感じたよね
M-1がウケてるのは「マジ」だからだよね。あの時だけ、日本の笑いはかっこいい「マジ」が許される。
ただ初期のM-1はテツトモみたいなのも交じってたことね。それで談志に漫才じゃないとか言われてwあれってマジじゃないってことよね。
そんでM-1終わってフジテレビで始まったTHE MANZAIで審査員に秋元康がいてずっこけたねw
さすがなんちゃってのフジテレビですね。そしてTHE MANZAIが失敗するのも当然よな。
それでサブカル野郎はAKIRAとか攻殻機動隊は別腹とかいう扱いをしてたよね
メイドをコンテンツにする秋葉原はなんちゃって文化の中心と言っていいんじゃないかな
「ご主人様~、萌え萌えキュン!」なんてなんちゃってにもほどがある
そこに秋元康のようななんちゃってでメシ食ってた人間が注目してAKB48始めたのは当然だよね
セガってだせーよなとかいって自虐させたり湯川専務のように実際の専務をCMに使うなんて典型的なんちゃって戦略だけど
秋元って90年代のマジに対応できなくてさ、いつまでたっても80年代のなんちゃってな空気でスゲーダサかったイメージ
それが秋葉と00年代のネット文化で復活してしまったのは俺の中で苦々しく思うことの一つ
宝塚歌劇団がマジを提供し続けているなって思ったことあって、コナンと宝塚って結構似てるんだよね。
ジャンルは全く違うけど、マジというトーンが似てる気がするんだよね
「マジ」は「スタイリッシュ」「キザ」「見栄」「キメる」「気取る」「媚びない」でもいいよね
スーツびしっと着て、テンションがパリッと張って、キザで気取ってるのが好きなんだなって思ったよね
アニメコンテンツのなかでコナン、AKIRA、攻殻機動隊、カウボーイビバップはマジの立ち位置だったけど
秋葉系オタクはカウボーイビバップをオサレアニメって嫌ってたよね
あとブリーチに至っては、作者の久保さんまでネタにしてオサレオサレって馬鹿にしてた
00年代の秋葉のオタクたちはネットで冷笑でひろゆきみたいなキャラあこがれて、マジなものをなんでも馬鹿にしてた
秋葉がそうだったから2ちゃんねるみたいになったのか、2ちゃんねるがそうだから秋葉がそうなったのかしらないけど
とにかくマジをきらってなんちゃってでミニひろゆきみたいな他人を馬鹿にするような、中二病や黒歴史という言葉をやたら好んで他人を攻撃するやつらばかりだった
そのころアメリカはテンション張ってるものが好きだからオサレなもの、キザなものが好きでまっとうに評価してたよね、さすがハードボイルドの母国って感じ
最近アメリカで日本のシティポップが評価されてるらしいけど、あれもテンション張ってるキザでオシャレなコンテンツだからアメリカ人が好きなのは納得
アメリカ人はエルビスプレスリー、マイケルジャクソンとかブルーノマーズがそうだけど、伝統でも今でもずっとマジを真面目にやる国なんだよね。
日本人みたいに恥ずかしがってなんちゃってに逃げないし、他人をオサレとかいって馬鹿にしない。
ソニーがこの方向でそれ以前までの小学生に向けていたゲーム業界をファミ通などと組んでイメージの変革を起こそうとしていたよね
ソニー参入までは、ゲームを作る人は今でいう歌のお兄さんみたいな特集のされ方だった。「みんな新作まっててね~」みたいな感じだったけど
暗い部屋で間接照明をあてて「ゲームクリエイター」って肩書で、中高学生のあこがれの職業みたいにしていったのはソニーだよね
ソニーのゲーム事業は母体がソニーミュージックだからアーティスト的プロデュースのノウハウがあったんだろうね
マジをつかったゲームクリエイターのブランディングは見事にはまったよね。
それに対抗しようとしたセガはなぜか秋元に頼ってなんちゃってやってセガってだせーよなとかなんちゃってをやりはじめた
秋元のチェキっ子とかいうアイドル番組のスポンサーになってそらセガつぶれるわって当時思ったよ
セガって渋谷の兄ちゃんたちに愛されてたのよ。秋葉っていうよりかは渋谷系だったよね
そんなセガが秋元のなんちゃってに取り込まれ、そしてアイドルのスポンサーするとか終わってたよね
あのころのセガは方向性を見失ってて、サクラ大戦なんかもそうだけど、セガってこんなゲーム作る会社だっけ?っておもったよね
そのあとの話だけど、10年代のセガは初音ミクとか、バーチャロンととある魔術の禁書目録のコラボみたいに誰が得するんだみたいなことやり始めたり、とにかく秋葉系にすり寄っていくよね
90年代のマジなセガを知ってるから、セガサターンを白くしたり、ドリームキャストは最初から本体カラー白だし
あとゲーム業界のマジの代表格だったFFがFF10になって秋葉系オタクのなんちゃって文化に毒された結果が10-2
あれでまじでスクエニは死んだなって思ったし実際ゲームオタクからは相手にされなくなったよね。
そうなんだよ
逃げ恥もドラマやってた時には現象がどうのロスがどうのと、まあやかましい奴が多かったもんだけど
あれ身もフタもない言い方したら
「人生詰んだ女だけど非モテ(の割にはやたらハイスペな)男で妥協したるわ」ってだけの話だからね
ガッキーじゃなかったらみくりとかマジでひたすら「小賢しい」だけだし、星野源じゃなかったらお前らムズキュン(笑)なんてしてねえって
しかもそこに意識高い系社会派ちゃん要素をあんなバンバン詰め込むんだから笑っちゃうわ
例えばキモオタがここに一匹いたとしよう
一昔前の典型的美少女動物園アニメやゲームなんかで、「金髪のギャルとかいかにも爆乳ばぼーんなキャラとかそういうのは苦手だから、図書室で本読んでる系の黒髪地味キャラがいいです」
とか言ってる奴がいたらちょっと笑いそうになるだろ?
もちろん地味設定全然関係なく容姿は普通に美少女だし、しかもだいたいそういうのに限って、金髪ばぼーんの次かその次ぐらいには巨乳と来たもんだ
「そういうのが好き」ってだけなら俺は何も言わんのよ
でも自分が好きなものを持ち上げたいからって社会派面まで始めたら、そりゃいろんなとこからツッコミ入るに決まってんだろ
あまりにバカバカしくてしょうがないので、男向けだと鍵作品をダシに家族論ぶっちゃうアホ、彼らを最後にああいうのは死滅した
ところが女受けしたコンテンツ界隈っていうのは、この令和の今になっても、全く同じようなアホがゴロゴロしてる
鬼滅やゴールデンカムイですらうんざりするほどそういうの見たろ?
逃げ恥に至っては作ってる側までどんどん社会派バカに迎合していって、そこへハフポストにwezzyといつもの面々まで乗っかって、もうバカの一大エコーチェンバーみたいになってしまった
たぶん女って全般的にそういうとこあるんだろうね
そういう性癖
だからてめえが飽きた途端に今度は欠点あげつらって、まるで社会悪みたいに糾弾しちゃうわけだ
それで何もかも説明できる