はてなキーワード: 自律とは
俺の場合は胃腸由来が大きい(勘)から胃腸をまずどうにかしなければならないのだと思う
胃腸の方は機能性ディスペプシアと逆流性食道炎だが、こちらも漢方がとにかく効かず病院行ってなかったが
もう少し根気よくやらなければならないのかも
それにしても自律神経の不調に対してどの病院行っても手も足も出ず、残念な気持ちになった
研究が進んでいないんだろうか
正確には「同人誌を参考にした性犯罪」にまつわる同人側を擁護する人々の言い分に関する雑感、だが。
「同じ同人誌を読んだ人間はゴマンと居るが実際に犯罪を犯したのはこいつだけ!こいつが犯罪の言い訳に同人誌を持ち出しているにすぎない、同人無罪、表現規制反対!」という声が目立つ。
同人誌だから通常の書籍とは流通経路がちょっと違うかもしれないが、人気作家だそうだし沢山の愛好者がいるだろう。愛好と言うほどではないが読んだことがある、という人間はもっといるだろう。
その全員が犯罪に走っているわけではないのだから、同人誌には原因はない。従って警察から何らかの申し入れを受ける謂れはなく、申し入れること自体が表現の自由への不当な弾圧に当たる。
なるほど、と思える。警察が申し入れをしたのは確かにあんまり良いことではなさそうだ。法律家とか、そういう職業の人々には是非法論理を踏まえて行動してもらいたいものである。
だが、同時にこの理屈は大変な欠陥を備えてもいる。つまり、「では今後、同人側はどうしていくか」という観点を欠いているという点である。
はっきり言って、「犯罪を犯したこいつが異常」というトカゲの尻尾切りで済ますなら、もう同人文化もコミケも名実ともにおしまいだと思う。
犯人は「同人誌を読んで欲望が喚起され、犯行に及んだ」と言っているのではなくて(いやそうも言っているのかも知れないが)、「同人誌で表現されていた内容を犯行の手法の参考にした」と言っている。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170613-00010004-saitama-l11
これを「同人文化内では犯罪として具体的な実効性があるような内容の性的表現を広く流通させている」と見る向きがあったとしてもおかしくはない(厳密に言うと「同人文化内でも」=同人に限らず世の中にはそういったものが流通している、というのが事実ではあるが)。
実際に事件を起こして「その手法を参考にした」とのたまう人間が出たという作品を、今後も広く流通させ続けていくのはいかがなものか、何か対策などを考えるべきではないのか、という意見にはある程度の妥当性がある。
最高に穿った見方をすれば、「今回の犯人は同様の手口の余罪が8件もある、たまたまこいつが捕まっただけで実は顕在化してない模倣犯は同人界隈内にもっといっぱいいるのではないか」と考えることも出来なくはない。顕在化してない模倣犯なるものは顕在化してないので実数を数えることは不可能なのだが、そうなると「じゃあ一律規制しましょうか」というのがもっとも実際的でコストがかからない手段だということになりかねない。もしも表現の自由に関する法律がなかったらこの路線一択であったろう。今回の警察の申し入れが「書くな」とはっきり止めるのではなくて「実行すれば犯罪になると注意喚起を促すことを頼んだ」ということだというのを考えると、むしろ警察はかなり気を使っているようにも見える。
で、警察がこれだけ気を使っている中、では「当事者」たる同人界隈はどうするのか、というのが問題なのだが、これが難問極まることもあって一向に解が見えてこない。
個々の表現者としては、表現し続けるのが「正しい」。「音楽がなければ人殺しになっていた」とはあるミュージシャンの言だそうだが、それに近いような、一線を踏み越えるのをこらえるような心境で表現し続けている人間はいないとは言えないし、実際居ていい。
システムとしての「同人文化」はそういった表現者の表現し続ける権利を守る方向に行くのが「良い」。表現の自由は法により保証されているのだから、表現すること自体を阻むべきではない。
カッコつきですら方向性が定まらないのが、それ以外の当事者たちである。つまり同人文化を消費する側の人間だ。
「コミケにお客様はいない」はキャッチフレーズとしては美しいが空洞化して久しい。現実には何万人何十万人何百万人という単位で同人文化を消費する人間がいる。
冒頭で挙げたトカゲの尻尾切りも、実は消費者的態度から出るセリフであって、観点は専ら消費行為が制限されるか否かにあり、表現というものの性質やちからは特に鑑みてはいない。また同人に限らず大抵の消費行為は、他人(の消費行為)に踏み込まない代わりに、自分(の消費行為)にも踏み込まれない状況を是とする(サービスや物品を消費すること自体にはみんなグダグダ言われたくない)ため、そもそも「界隈全体での方向性」なる自発的自律と極めて相性が悪く、法などの強制力のあるルールで縛るのが最も手っ取り早くまた実効性があるという状況を生みやすい。おまけに消費者は概して表現供給者やシステム運用者より多数派であり、単純に「事を起こす」ものの母数層として最も厚い。
…雑感整理のつもりで書いたけど、これ結構詰んでね?このまま行くと法規制一択じゃね?
理想を言えば「社会的包括」概念に習って、一線越えてようが越えてまいが「同類」「仲間」と見なすという、まさに「コミケにお客様はいない」に回帰するみたいな方向性とかあるんだけど無理だろこれ。無理ゲーだろ。みんなそういうコスト負いたがらねーだろうし実際負えないだろう。だって絶対誰も思わねーだろ「今回の犯人を誰かがどっかで止められたはず、その誰かに自分はなれたかもしれない」って。このしっぽカッターぶりだと。
もぅマヂ無理…眠ぃ…寝ょ…どうしたらいいんだか、おしえてえらい人。
職場が初めての大部屋(60人くらい)で、
それで真ん中の机の一つが自分の席なんだけど、
この半年間、目の前と左右に常に人がいるのと、
大部屋で常にガヤガヤしているのもあってか、
全く集中できない…。
常に見られている感じがすると言うか、
緊張しすぎて、身体ガチガチになったり、自律神経おかしくなったり?
してるのか机に座ってるだけで疲れると言うか、
ぐったりしてしまう…。
大体50%くらい常に力を使い続けないといけないから、
話もしっかり聞けないし、判断力鈍るし、
やるべき事をちゃんとやるだけで精いっぱい。
とにかく居るだけで物凄い消耗してしまう。。
1人の部屋にたまにいける時があるんだけど、その時は
めちゃくちゃ集中できる。
周りは目の前とか左右に人がいて、よく普通に作業が出来るな…って思う。
全く集中できない。
最近はもう頭がぼーっとしてきて、
せめて机にパーテーションが欲しいんだけど、そんなの無理だろうし、、
こんな所で働き続けるの、結構苦しい。
同じような人いないだろうか。
上記の通り。
けものフレンズ自体をどう考えてもいいのだが、まるでイナゴのように流行に乗っかり、「コーサツ」(考察にもならない与太話なのでこう書く)しまくっては湧き上がる、まるで言葉は悪いがウジ虫のような連中に自律を語る資格などあるのだろうか。自律とは自分で、自分らしく生きることだ。そもそもけものフレンズなんかが出る以前にきちんと自律している人間であればけものフレンズで盛り上がったりはしないはずだ。あくまで静かに、自分の好きなものを見るはず。もちろんその中にけものフレンズが、そのようなスタンスであるのならばあってもいいと思う。
しかし「みんなが見ているから」「応援を頼まれたから」という理由でけものフレンズを見始めた奴らに、自律も、その前提として必要な自我もないだろう。そしてそういうやつらは「見る気しない」というものに対してえらく強くあたる。
まるでこれってファシズムと同じではないだろうか。
筒井康隆が「禁煙ファシズム」ということばを広めたが、僕は「けものファシズム」と名付けたい。
ちなみにここには「まどかファシズム」、「ポケモンファシズム」なんて流行語を入れてもいいかもしれない。
とにかくあまり乗る気になれない人、面白いと思えない人々をつぶしにかかるのだ。
そんな輩が「フレンズにはいろんな…」だったか、そういったことを言うのは戯言という以外言葉がない。
ただ単に笑えない。
またそんな奴らはきっと作品を愛さないだろうし、数年後「懐かしい」といって流行にはまった自分自身を懐かしむのだろう。
はっきり言ってそういうやつらに愛される作品が哀れで仕方ない。
そしてそういうやつらの語る多様性、自律、といったテーマには薄っぺらさを感じるし、そんなファンに憐憫すら感じる。
この病気はまぁ自律神経失調症の一種なんだけど、その中でも結構厄介なんだよね、治療法がなかったり、患者が少ないからあんまり注目されてなかったりだとか。
この文章を書いている時点でお察しの通り僕もこの病気にかかってるんだけどすごい厄介なもの。
症状は、朝起きれない(体調が悪いから)、起立状態で気持ち悪くなる、気を失って倒れる、動機めまいがするなどたくさんある。
病名のとおり体の調節ができないんだよね。
医者ではないしガキだからあんまり詳しいことは言えないんだけど自律神経には交感神経と副交感神経がある。これは知っている人も多いと思う。
活発にしているときは交感神経が有利に働き、寝ているときなど休息をとっているときには副交感神経が有利に働く。
これが普通なんだけど僕の場合はどんな時でも交感神経が有利に働いているんだよね。座っている状態から立つと心拍数が70から120まで上がってしまって常に走っている状態のような感じになってしまう。
だから動くにもしんどいしなにより神経が集中している胃に負担がかかり常に吐き気がする。
そしてなによりもこの病気の大変なところはサボリ癖と勘違いされてしまうところである。この病気になってから4年たつが両親には未だにサボりたいからでしょ?と勘違いされている。
それでもなんとか頑張って高校受験を終え、今は大学受験を控えているがとうとう体が壊れてしまった。
なにもできないままベッドの上で一日スマホを眺めて終わり、1.5あった視力も今は0.8まで下がってしまった。
電車で一時間ほどかかる病院にも通院していたが、先日匙を投げるてしまった。
僕には将来の夢があり、そのために今まで勉強を頑張ってきた、けどこのままじゃニートで終わってしまう。
もし自分がこうなったり自分の子供がこうなったりしたときは、まず、こういう病気があるっていうことをちゃんと認知してほしい。
根性論なんかでどうにかなる病気じゃないし、逆にそれはその人を苦しめてしまうと思う。
どんな病気もそうだけどまずは肯定してあげることがその人の気も楽になるし、一番治るのに近い道なんじゃないかなって思う。
そしてこの症状がある人は自律神経失調症なんじゃないかって疑ってほしい。体壊してからじゃ遅いよ、ホントに。
文章書くのって大変だね、結構書いたつもりだったけどまだこれっぽっちなんだな。
これを機にこういう病気があるんだなって知っている人たちが増えていくといいな。
一重がコンプレックスがゆえに鬱になりやすい、とかそういう話ではないです。
そして、ここでの一重とは、単に二重まぶたではないと言うことではなく、
まぶたを持ち上げる力が弱くて、目の開きが悪い病気です。
何もやる気がしないし、体調悪すぎるし、ぼーっとするし、正直自分で鬱は甘えだと思っていましたが、とにかく体が動きませんでした。ですが、目の手術をしてから、嘘みたいに首の熱や疲労感、眠気が消え、体が軽くなりました。特に顔なんかは、手術してから気づいたのですが、常にあご1つ分くらい上にあげてました。(そりゃ首痛めます)
その鬱は体から来ているものの可能性があるよ!ということを伝えたくて、
自分と同様の悩みを持っている人がいたらそれを知ってほしくて、こんなエントリを書きました。気になった方はまず、ここでは割愛しますが、眼瞼下垂や自律神経失調症について調べてみて下さい。
余談です。
鬱というと、精神的なものについて言及していることが多いですが、今回上げたような身体から来ているものも実は多いんじゃないかと思うのです。
そもそも、ストレスを受けて怒り状態になった時や、緊張で不安になった時には、筋肉が強張ります。こうして慢性的に筋肉に負荷がかかった状態が、精神にもたらす影響というのは、看過できないものだと思います。
「楽しいから笑うんじゃなくて、笑うから楽しくなる」なんてことはよく言われますけど、鬱だから気だるいんじゃなくて、気だるいから鬱になる、という一面もあるのかな、と。自分は、今後も、身体が精神に及ぼす影響と、鬱(鬱屈した感情)への身体的アプローチについて考えていきたいと思ってます。
長くなりましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。
同様のことに悩む人の目に、少しでも多く触れてほしいと思ったので、増田に書きました。よろしければ、拡散などしていだだけると嬉しいです。
それはしんどそうですね。
普通にしてるつもりなのに笑われて、
あなたのせいじゃないのに傷ついて、
頑張るほど空回りして、
もう疲れちゃったでしょう。
人間(特に女子)は、仲間内で団結するために、共通の敵を作ったりもします。
時にはその犠牲になったこともあったでしょう。もしあなたが女性なら特に。
「手首切る」「ご飯抜く」みたいな
でも、暇さえあれば自分を責めて傷つけているでしょ。
「あー…うん、えっと…(薄ら笑い)」みたいな反応。
そういうのをものすごくマイナスに捉えて、いつまでも気にしている。
そんな気がします。
話聞いてもらえただけでスッキリする類の悩みではないと思うし
そもそも私には何もできないけれど
他のエントリを見て思い出したので。
田舎だったので小学校→中学校は少人数でほぼ同じメンバーということもあり、特に悪く言われずに育った。
(公立なのに女子校?と思われるかもしれないが、私の住んでいた県はある程度の偏差値以上の公立高校は大抵男女別学なのだ)
しかしそこまでの進学校でもないため、自主自律という気風ではなく校則が厳しかった。
1年生の3月、卒業式のリハーサル後にそのまま体育館に残された。
「お前、その髪の毛どうした」。
生まれつきだと説明するも信じてもらえず、私はわんわんと泣いてしまった。
その時は私があまりに泣くから「いや、退学になるとかじゃないから…まあ本当に地毛なら仕方ない」と解放された。
その半年後、2年生の夏。
月に1度の頭髪検査(パーマしてないか、ピアスしてないかチェック)の後にひとり残された。
先日とは違う、女性のめちゃくちゃ怖い体育教師に髪の色を詰められる。
生まれつきなんですが、と話すと
「生まれつきかどうか、真実は関係ない。その頭でうちの制服を着て歩いていたら、外部の人は〇〇高はそういう学校なのねと判断する」と冷たく言われた。
ええ…と思いながら、震える声で「エクステやストレートパーマをしている子もいますが、その子たちは生まれつきのように見えるから規則違反であっても何も言われないんですね」とこぼしてしまった。
失言だった。
「じゃあその友達の名前を言ってごらん!あんたが告げ口したって言わないから!」と捲し立てた。
私は答えられず、泣いているうちに授業時間になってしまい、なし崩しに保健室に行かされた。
私の成績は学年トップだったし、生徒会だってやっていた。それでも他の先生達は何も言ってくれなかった。
流石にその件は父親が来校し、担任と話して「生まれつきの赤毛」ということで処理された。
学年にもうひとり生まれつき茶色い子がいたが、その子は「色々言われるの面倒だから」と黒く染めていた。
1学年下にヨーロッパ系のハーフの子がいて、入学した時は栗色だった髪の毛も
信じられないことにいつのまにか黒くなっていた。
私はそれに倣えなかった。
父の抗議のおかげで「指導」がなくなっても、ふつふつとした憤りを抱えて受験勉強していた。
エゴがなければ、宇宙は一体であること、現実世界はひとつであること、つまり一如(真如)の現実が見える
けれども、ヒトは、異常に生存本能が発達することで生き延びてきた異常な動物であるから、殆どの者はエゴが発達しており、現実が見えない。例えば、生き延びるために痛覚などの感覚が心身ともにあり、感覚のあるところを自分の一部だと認識するという、一種のエゴがある。卑近な(身近な)ところほど重視し、敬遠なところは「カンケーない」と思う。そういう卑しく愚かな性質がヒトにはあり、ほぼ全ての者は、この性質を自覚することを得ず、自律して自立することを怠る。よって、この自縄自縛の呪縛から解脱することを得ない
こうしたエゴは、元来は生存に必要であったから得た所謂「進化」であるが、ヒトのエゴは異常であり、すなわち例えば戦争を起こしてでもカネやモノを得ようとし、あまつさえその戦争にわざわざ大義名分まで付けて自己正当化しようとさえする。エゴの権化である
そもそもは為政者、ノブレス、古代ギリシアなどの俗に謂われる「市民」という特権層は、このように己のエゴを相対化し自己客観視をする才能をもつ特別な人々であるはずで、そうでなければならなかった。しかし実際にはそうした本来の姿は忘れ去られ、世襲と腐敗で自らエゴに堕ち、社会構造維持と既得権益保守に汲々とする詰まらない無智愚鈍が支配する人類社会になって久しい
政治家が愚かなのは国民のレベルに拠るので仕方ないとして、官僚はもう少しまともであってほしかったんだけど、矜恃は失われて、ギリギリの忖度を争う自民のご機嫌取り競争組織になってしまっているのかな。
民進党がいいとは全く思ってないんだけど、アメリカくらいの頻度で政権交代が発生しないと(政治家による実効性ある政府監視ができないと)、官僚組織はもう自律できないように見える。
人類の大半がデータとして<太陽系>の中で走るようになってから大分経ったけど
解消されると思われた格差問題は新たなステージに突入してしまった。
<太陽系>の処理能力も無限じゃないからトークンを支払って処理時間を買わないといけない。
俺みたいに貧乏で大規模な研究や探査が出来ない奴は処理時間が買えず、またその間に差を空けられてしまう。
最近はもうインフレ状態で俺が1日過ごす間に上級市民様は1年は活動してる感じらしい。
<太陽系>も拡張はしてるけどそれに貢献している市民に優先的に処理時間が割り当てられるしな。
これだけ速度に違いがあるともう追いつくのは不可能だろう。
ところで忘れてたくらい大昔にりゅうこつ座に探査プローブを飛ばした時のトークンがさっき入ったんだけど
何日か前に播種?された自律探査原子?のエサになって助かったってさ。
1日で何年経ってるんだ...ヤバすぎるだろ。
尻尾の付け根、あるいは首を触って温めてあげるだけです。
温めていればワンちゃんネコちゃんはやがてリラックスして寝てしまいます。
寝てしまったら起きるまでそっとして置いてあげましょう。
尻尾の付け根(仙骨)、首(延髄)からはリラックスしたときの自律神経の副交感神経が出ています。副交感神経が出ると内臓の血流が良くなり免疫が活性化します。※どちらを刺激しても免疫活性化、血流増大しますが仙骨は排泄、生殖系。延髄は消化器系が活性化します。
触って温めてあげると言ったのは気功です。気は修行を積んだ気功師でなくても程度の差はあれ誰からでも出ています。
気で副交感神経を刺激するんですね。
「スピーディーな『せかいかん』」って「世界観」ではなく「世界感」でないの?
いや「世界感」なんて言葉はないが、その言葉を言っていた人の感覚として、「観」ではなく「感」の意味で話してるんでしょう。
と、ここまで書いてググったら、平野啓一郎が「世界感」について書いてたw
http://keiichirohirano.hatenablog.com/entry/20101220/1292828554
それに対して、「世界感」(造語です)とは、作品が自律した一つの「世界」として受け止められる感覚のことです。その意味では、思想と言うよりは、表現上の問題です。
「世界観」は面白いのに「世界感」に乏しい、というのは、考えていること、持っているイメージは面白いのに、表現として、それが固有の「世界」であると感じられるほど完成されていない、ということです。