「自己評価」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 自己評価とは

2020-08-11

こんな時期だけどパート始めます

大学卒業してから3年ほど働いていなかったのですが、

パートとして働いてみようと思います

そのタイミングがこのコロナ禍で、しか接客業のため、

わざわざ感染リスクが高いことをするのも、とは思いましたが、

勢いで応募してしまいました。

応募したら応募したで、

辞めとけば良かったんじゃないかと、

気持ちが揺れ動きます

日中面接です。

面接は、はじめてで結構不安です。

もし、ダメなら勝手に落とされる訳ですから

自己評価を信じず、全て委ねていこうという感じです。

2020-08-06

anond:20200806035943

自己評価をどうにかしても他者評価が変わるわけじゃないんだから

加害者予備軍が本物の加害者になるだけだな

anond:20200805093400

上に同じくそんなに苦労してないと思うな

リベラルは「距離感を見誤り相手へのリスペクトが欠けたアプローチは加害」だと思ってるだろうけど好意を表明することを加害とは思ってないでしょ

てかそれしないと恋愛は始まらないんだし

要するに、思想は頭の片隅に置きつつ実戦は色々とうまくやるっていうめちゃくちゃ難しい話だよね

「俺みたいな人間好意を持ったり近付いたりすること自体が加害」って自己評価どうにかしないと何ともならないんじゃない?

2020-08-05

anond:20200805112118

そこまでしても「すり寄ってきそうなものだ」くらいに留めてるってことは、自分の魅力がその程度だって分かってる証拠だな。

自分のことが分かってて偉いぞ。

でもまだ自己評価高いぞ、おそらくすり寄ってこないぞ。

2020-08-02

普通の人でいいのに」の感想 マッチングアプリに罪は無いのか?

読み切り普通の人でいいのに!

https://comic-days.com/episode/13933686331667252531

頭の上にミカンをのぜる

https://www.tyoshiki.com/entry/2020/07/31/204512

冬野梅子『普通の人でいいのに!』私はこう読んだ

https://deztec.hateblo.jp/entry/2020/08/01/162746

 

これらたいへんよい感想文なんだけど

個人的にはマッチングアプリという要素に対する話が足りていなくてモヤモヤした

 

これもバズったよね

マッチングアプリで会った人だろ!」

http://www.moae.jp/comic/seinoprize_matchingappdeattahito

 

普通の人でいいのに」の方ではアプリの話はサラッと流される程度だったけど

主人公が「普通の人」「普通出会い」を求めたきっかけがアプリじゃない普通出会い」を求めたからというのは言及されてる

 

ここらへん共感できたんだけどどうなんだろ

マッチングアプリでは、他人比較し、自分比較される状況が作られる

他人比較する目はかなり厳しいが、そういう人が自分に靡かないことを知って自分レベルを否応なく自覚してしまうわけだ

良いなと思う人は自分釣り合わないし、釣り合う人は興味がない

そんな中でどこまで妥協するかみたいな話になってしま

市場相場が出来てしまうんだ

美男美女を除けば、大抵の人なんてキツイ状況なんじゃないだろうか?

 

こういうのって実は学校・進学・新卒採用あたりにすごく似てるんだよね

似たような条件の人が一斉に同じことをすることで発生する市場形成

勝者以外はああいうの嫌いだと思うんだけど

 

他方で「普通出会い」というのはランダム要素が強い

社会というのはもっと色んな人が居て、整理されていない

すると「もっといい人がいるかも知れない」とはアプリに比べてなりにくいし、自己評価されてる気にもならない

 

あと、こういうのは選択肢が多いほどにドツボにハマるのではないだろうか?

ある商品を買うときに、2,3種類から選ぶのであれば素直に買えるのに、ネットショッピングなどで100種類の中から選ぼうとすると迷ってしまって結局買えないみたいなこと無いだろうか?

私は結構あるんだが

もっと良いものがあるかもしれない、この選択は間違いかもしれないと不安になったり

本当はもっと良いものがあるが高いから買えない、という事実が心のなかに残って踏ん切りがつかなかったりする

特に買い替えが難しいものほどそうだ、家具とか車とか、迷うし苦しんでしまい、完璧主義者みたいになっちゃ

 

マッチングアプリというのはこういった

・自ずと自己の魅力の現実を見せつけられる問題学校新卒採用に似てる)

選択肢の多さで迷わせる問題

 

などがあって幸福度より不幸度の方が大きいんじゃないかと予想してる

だって大体の人は嫌いでしょ、ああい競争を促す市場形成

学校就職なんかはそれでも競争を促すことで社会が良くなるという前提があったけど、マッチングアプリっていたずらに市場形成してるだけだよね

しかもその中でのエリートたちはこのシステム使わないからね、絶望感すごい

せっかく社会という大海に出ることで自分評価曖昧になってたのに、突然アレがまた始まったら苦しいに決まってる

 

普通の人でいいのに」の主人公はそこから逃げようとして転げ落ちた感を読み取ったんだけど

アプリそもそも無かったら話が少し変わってくるのでは?

まあそれは90年代みたいな感じになると言う意味で、別の悲哀になってくるんだろうけど

 

ところでじゃあマッチングアプリ運営的にはどうかというと

マッチングアプリって成立せずズルズル使ってもらったほうが得だから無限にこれは続くっぽいよね

かくいう私も何度かそれ関係仕事をしているが、まだまだ市場は伸びているし今後も伸びていくだろうという話だった(って経営者が言ってた。投資家向けの資料からやや眉唾だけど)

まあビジネスなんでそこはしょうがない面もあると思うんだけど

普通の人でいいのに」のブコメとかで主人公を攻める風潮があるのは何か危ない感じがした

この感じは今回に限らず前から思ってたんだけど、世の中結構マッチングアプリに踊らされてない?

2020-07-30

自己肯定と何者か

※基本自分用。ついでに公開という体。

元増田の言うところの分解する手法は大変有効で、社会的事柄のみに限定すれば肯定感は高まる。だけどこの方法では社会の節目が訪れ、概念が180度変わるシーンでは無効化されると思う。例えば玉音放送前と後のショックの大きさについて数多くの証言が残されている。国家というアイデンティティ個人レベル適用していた人は自信がもろく崩れた。海外パスポートを失ったとき辻仁成は、所詮肩書など紙切れに過ぎない。遠く外国において自分は何者でもなかった、と小説の後書きに記した。

自己肯定感を至極真面目に考えると、自己定義からまり自己の発生箇所、範囲、形而上的な自己という精神について絶対に避けられなくなる。デカルトフッサールハイデガーをつらっと見てゆくと、自己とは何かがますますあやふやになってゆく。分子細胞など、SF的な見地でもいいかも知れない。自己という要素は認識意識にまで還元され細切れにされる。

相対的評価は、たとえそれが当時絶対的に見えても絶対性がまるでない。わたしというもの社会性と接続されるあらゆるものから切り離すべきで、そうでないならば、実際のところ自己評価他者評価とは単なる一社会一形態・一時代のマーヤーに過ぎないことが理解できる。自己がマーヤーであるなら他者もマーヤーであり、そこには般若心経的な世界観が広がってゆくばかりだ。空とはなにもないわけではなく、"ある" と錯覚するものが多数の変じ易い要素によって形成され、例えば社会的な成果や経験に見える、といったものらしい。自己に言い換えるなら、自己存在しているという実感は単なる各細胞社会的レッテルや成果を含む)の成り立ちに過ぎない。自己を考え、また認識することはまるで無意味だ。したがって元増田希薄さとはまた違い、自他ともに興味が消失するところに真実があるものと思う(あるというより、ないのだけど)。

じゃあなんだ、どうすればよいのか。

自己他人無頓着になり、興味のみを追えばいいと思う。これは多少齟齬を含んでいて、他者に興味を持てない状態他者に興味を持つというおかしロジックを持っている。言ってしまえば他者に "ある" ものは追いかけなくていい。社会的地位や金、恋人、そういうものではなく(仮にそういうものであったとしても)純粋動物的に欲求するということ。たとえば奇妙な話、金という働きに極度の興味があるなら金集めに奔走してもいい。ただしその場合でも金にまつわる "ある" と錯覚する自己認識を持つ必要性はない。それは自己ではないから。

anond:20200729215624

2020-07-29

自己肯定感を分解する

自己肯定感が高い/低いと言いますが、そもそも自己肯定感ってなんでしょうか。

自己肯定感が低い(とされている)人は生きるのがつらい。自分が失敗してしまったとき、壁にぶつかったとき、不運に見舞われてしまったときに、必要以上に落ち込んでしまう。自分がなにか行動を起こすとき自己肯定感の低さが足かせになり、なかなか行動に移すことができない。そんな自分が嫌になり、どんどん消極的になってしまう。ひょっとすると、予想だにしない幸福が訪れた時でさえ、自己肯定感の低さがあだになり、それを素直に受け取ることができない。あるいは、実際にはそこまで不幸でもない現実自己肯定感の低さとのギャップを埋め合わせるために、ついつい自傷行為自分を傷つける媒体や人に走ってしまう。周りには自己肯定感の低い人が集まり相互作用しあってどんどん不幸になっていく(書いていて嫌になってきました)。結果、生きるのがつらい。

逆に自己肯定感のある(とされている)人は、不幸や失敗にいちいち落ち込まずに、どんどん新しいチャレンジをすることができ、成功体験を積み上げやすい。経済的にも文化的にも幸福な友人や恋人に恵まれ幸せ人生を送ることができる。つまり自己肯定感を高めることができれば、今は不幸な人も幸せになれる。あらゆる問題仕事面、恋愛家族関係がうまくいかないなど)が、自己肯定感問題還元され、幸福必要ソリューションです的な扱われ方をされるケースさえあるかもしれません。

果たして本当にそうでしょうか。例えば、自己肯定感の高い(とされている人)が、日々の暮らし自分自己肯定感の高さを認識することは少ないはず。呼吸をするとき空気存在意識することが無いように、ごく自然存在しているものだと思います。逆に自己肯定感が低い(とされている人)にとっては、四六時中自分を縛り付けている呪縛のようなものかもしれません。そのせいで、個別になんら関連性のない事柄自分の不幸な想像を駆使して結び付けてしまう。文字通り概念に縛られている状態といえるかもしれません。

実際には、自己に対する否定感情は、(人によりその頻度や強度は様々でしょうが)その時の環境や本人の体調に大きく作用され、瞬間的・個別的に発生するものです。単なる推測にすぎないのですが、おそらく瞬間的な自己否定感情が習慣化してしまい、負のスパイラルに陥ってしまっている状態の人=自己肯定感の低いと認識してしまっているのだと思います自己肯定感が低いことを内面化してしまうと、個別事実を冷静に観察できなくなり、本来解決可能問題に対しても自己肯定感の低さを理由に、適切な解決策を考えることができなくなってしまます

(私は精神科でもなんでもないのでいち素人の考えたことに過ぎないという前提のもと)もし、あなた上記のような状態になってしまっているとしたら、取り組むべき課題は「自己肯定感を高める」という抽象的な何かではなく、自己否定感情を覚える個別事柄に対し、以下の順序で対処を試みることなのかもしれません。

1.まずは、自己否定感情を覚えた瞬間を認知する

2.その時の外的要因(人間関係とか仕事とか)と内的要因(体調とか心理状態とか)を把握する

3.上記の瞬間を類型化する

4.その類型ごとに大まかな対処法を考えてみる

5.上記を一つでも良いので実践してみる

6.日常的なセルフコントロール(体調管理精神管理、瞑運菜眠など)を実践してみる

詳しくは知りませんが、上記一般的精神診療などで用いられる認知行動療法と同じようなもので、特に目新しさはありません。長々書いてきて、結局xevraさんと同じ結論かよ

==========================

xevra 2020/07/27

運動瞑想睡眠野菜を徹底してる人は自己肯定感と言う言葉のもの意味が分からない。自分自分肯定否定もない。ダメな所も良い所もあるただの人間だ。下らない概念に振り回される意味が分からない

==========================

と言われるのも少し不満なので、一つ私の話をしようと思います

私はもともと自分自己肯定感の高い人だと思っていたのですが、最近自信がなくなってきました。というのも、そもそも自分他人人生に興味・関心が薄く、そのためか、強く共感したり、感動するとか、ましてや人を好き/嫌いになるとか、(物心ついて四半世紀が経ちますが)これまであんまりピンときていなかったんですね。それって自己肯定感が高いのではなく、単に自己/他己に対する関心を失っているだけではないかと思ったのです。

その意味では自分を好き/嫌いになれる人というのは(一切の皮肉抜きで)向上心のある人なんだなと思いますし、他人人生に深く共感できるというのは羨ましくもあります。もしかしたら、三人兄弟末っ子でまあまあ放置されて育ったこともあるかもしれません。自分を嫌いになることだって、裏を返せば自己愛が豊かな証拠だと思うのです。例えば、人が問題に直面した時に自己否定感情を覚える現象は、私から見れば、(自己愛が豊か/理想が高いが故に)自分が劣った人間だということを直視できず、現実理想ギャップを埋めるために、自己評価を下げることで帳尻を合わせるという、一種防衛反応のように感じます

壁にぶち当たった時に、自己理由を求めるのは自分を大切にする心が備わっているからです。私のような自分他人いまいち興味の持てない人間は、環境他者自分の行動をシステマチックに整理して対策を考えますふわふわ物事自己問題を離れ、幽体離脱し、神の視点から考えている感じ。故にあまり落ち込んだりしないので、切り替えが早いとか仕事が早いといわれることもありますが、(反面無自覚に人を傷つける言葉を使ってしまうこともしばしば)本当に良い仕事、人の心を動かす言葉を紡ぐことはできないのではないか、と最近思います

なのでもし、あなた自己肯定感の低い人間だと自分認識してしまっているとしたら、自分を嫌いになれることは素晴らしい才能で、自己愛と共感力の豊かな人間であること。自己肯定感の低いという概念内面化せずに、目先の現象を都度観察し、一つ一つ対処を考え潰していくことができれば、とても感情豊で理想の高い人生をおくれるはず。そんなふうに私は考えています

ビアンになって婦人健診が平気になった話

そういえば、自分レズビアン寄りのバイだと気づくまでは、むしろ自分のことをバキバキノンケだと思っていた。

なぜなら、女性健診の相手女医さんだとものすごく苦痛だったから。性器乳房女医一方的に触れられるのが屈辱的に感じていた。男性医師に対して、この感情を感じたことはない。その時は、自分が度を越えたノンケから女性性的な部分を触れられるのが嫌なのだと思っていた。

3年前に、とある趣味社会人サークルに入って知り合った6つ下の女の子と親しくなった。

わたしは、基本的理屈っぽくて尊大にふるまう癖にウジウジしていて辛気臭い人間という自己評価なのだが、年下から姉御肌と評され男女問わずよく親しくしてもらう。

そんな中で知り合った彼女は、わりにサバサバしていて、小柄で、童顔で、かわいらしい女の子だった。

サークルに顔を出した時の彼女は、部屋を見回してわたしを見つけた瞬間ぱあっと笑顔になって駆け寄ってきた。

飲み会ではよく「増田さーんここあいてますよー!」といって隣に誘ってくれた。

最初、「なついてくれてる」のではなく、単純に先輩後輩的な仲だから媚びたりおべっか並べたりおだてられたりしているだけだと思っていた。

しかし、ある時に飲み回の二次会で行ったバーボックス席に2人きりになったときに、メチャクチャ酔っぱらった彼女から恋愛感情で好きだということを告げられた。

ちょっとびっくりした後、「うれしい」と感じている自分さらにびっくりしたのを覚えている。そして、そんな気持ち泥酔して噴出するまで抱えこんでいた彼女がめちゃくちゃに意地らしく見え、愛しく感じて、断る気は起きなかった。

そうして交際関係となり、彼女サークル活動のない時にも会うようになったのだった。

そうは言っても、実はわたしは当時アラサーで、彼女大学生だった。

いくら女同士だとしてもどうにも犯罪くさい。

それに、わたし自身どこかで親戚の幼子のおままごとに付き合うような気持でいたことは否めない。

彼女男性経験がないということは付き合う前から聞いていた。女性を好きになったのはわたしが初めてだとも。

そういうわけで、彼女好意を疑うわけではないが、どの程度真に受けるべきか判断に迷っていたのだ。

大学生のうちだとまだ恋に恋していたり、憧れを恋愛とはき違えたりするものなんじゃないの?

そのうちやっぱり「男が好き」とか言い始めてもおかしくない。とはマジでずっと思っていた。

だいたい、元から友人関係だったのもあってか、交際関係となってからも2人の付き合い方はこれまでと変化なかった。また、何か変化を起こすべきは彼女のほうだと、大人げないが思っていた。この関係性は彼女好意ありきだった。彼女好意の形に応じて、わたしもしてやれることや差し出せるものがあれば、できる限り応えたいと思っているのみだった。

この時ほど、「男と女なら簡単なのに」と思ったことはない。

余談だが、当時私は8年ほど交際していた男性と別れて1~2年くらいだった。別れて数か月はいわゆる婚活恋活的なことに精を出していたのだが、やはりわたし性格そういうことに向いていないと自覚させられただけだった。このままいくと一生結婚できないかもしれないと思った。いや、それはそれで良いのだが、「わたしは一生誰ともパートナー関係になれないかもしれない」ということに関しては、やや悲観していた。猫でも飼おうかしら、と本気で思っていた。そんな時だったから、彼女との関係性がどう運ぶかに関しては、純粋好奇心をもって臨んでいた。

閑話休題

わたし理学部科学科を修めていた人間で、自分で言うのもなんだがステレオタイプそのままのあまり女らしくないタイプの女だ。学生時代の友人付合いと言えば、一人暮らしの奴のアパート麻雀しながらいいちこタバコなめるばかりだった。

彼女外国語学部英語学科わたしが見てる限り、いつも何が可愛いわからん流行りの服を着て、いつもメイクばっちり。イケている。そして、普段友人と何してすごしてるのかなぞ、知りたくもない。

いつも彼女からデートの誘いを受けていて申し訳ないなとは思っていたのだが、わたしはどこに誘っていいのかわからなかった。それに、わたし流行とかお洒落に全く興味がないタチなので、やはりどうしても若くてイケてる彼女の隣に立って休日モール街を歩くことには気後れを感じていた。

そんなある日、彼女から水族館に誘われた。これまでデートといいつつ友人ともやるような近場ウロつきしかしてなかった中、水族館とはめちゃくちゃデートっぽい。と少しテンションが上がった。そもそも水族館は好きだ。

そして当日。待ち合わせた駅に姿を現した彼女はいつもと違っていた。

普段だったら絶対着ないだろう薄紫地にエーデルワイス柄の女の子らしいワンピース。その上にレースっぽいカーディガン羽織って、足元は華奢なサンダルだった。

めちゃくちゃかわいかった。コッテコテデートコーデだということはさすがのわたしも気づいた。

「いつも増田さんわたしの服イジってくるから今日はわかりやすく可愛くしてきましたw」

そう言って笑う彼女を見て、世の男は彼女からこんな接待を受けているのか羨ましいなぁと見当違いなことを思った。

水族館へは新幹線で向かった。一緒に電車に乗るのも初めてで、隣の座席に座る彼女ワンピースからのぞく白い膝がとてもきれいで感動した。

彼女普段ほとんど足を出さないなということにその時気づいた。

水族館では目玉展示物の餌やりが行われていた。わたしはこれが大好きで、ここに来るたびに動画撮影していたのだが、この日ばかりは彼女写真を撮ってばかりだった。

「いつもそういう格好すればいいじゃない」と言ったら「本当はこういう格好は好きじゃない、デートから着ただけ」と言われて身勝手ながら非常に残念な気持ちになると同時に、即ちわたしのために好きでも無い格好をしてくれたと言っても過言ではないのだなと思い至った。

暗い館内でサンゴ礁を眺める彼女の細い方がレースカーディガンに透けていた。

揺れるワンピースの裾がこんなに魅力的なものだとこの時初めて知った。

水槽アクリルに這わせていた彼女の手を指先でつんつんすると、彼女不思議そうな目でわたしの手を見ていたので、手のひらを上にして差し出すと、彼女はいつもみたいにぱあっと笑顔になって握ってくれた。そこからは手をつないで見て回った。今まで、恋人と手をつなぐことをこんなに幸せに思ったことはなかった。

周りから見て、わたしたちは恋人同士に見えるだろうか。それとも、ただの仲良し女二人組にしか見えないだろうか。恋人に見えていたらいいなと思った。

そうだ、この可愛い生き物は、わたし恋人なんだ。と思った瞬間、頭に血が上ったみたいな感じを受けた。つまり、その細い肩を馴れ馴れしく抱く権利も、何ならスカートの裾の内側に手を伸ばす権利も、わたしはすでに持っているのだと、気づいたから。

この時からわたし彼女関係はおままごとではなくなった。

来月で交際し始めてから満3年となる。わたしは30になり、彼女就職2年目を迎え、そろそろ一緒に住もうかどうしようかという話をしている。

そんな中で気づいたのだが、わたしゴリゴリのボイタチだった。

そして、いくら可愛い彼女相手でも、リバられそうになると一気にテンションが下がってしまう。

この萎え方覚えがあるな~と思ったら、婦人健診で感じる不快感がこれと同系統なのだった。

まりわたしは「バキバキノンケから婦人健診で女医に診察されるとつらい」のではなく、「ゴリゴリのタチだから婦人健診で女医の前で俎上マグロを演じねばならぬのが不服」が正しいのだった。

不快の正体に気づいてからは、以前ほど婦人健診に対して恐怖心を抱かずに済んでいる。

恋人のことが好きだけど、申し訳ない気持ちでいっぱいになる

23年間生きてきて初めて彼氏ができた。もうすぐ2年経つ。

自分で言うのもなんだけど、外見はそんな悪くないけど性格はクソヤバイ自信がある。

そんな悪くないも化粧とファッションで取り繕ってそんな悪くないだけど。

からなんだか彼氏申し訳ない気持ちになる。

性格八方美人メンヘラオタクコミュ障末っ子気質受け身、口悪いで最悪。頭の回転も良くない。

頑張ってメンヘラ受け身の要素は出さないようにしてるけどまあ正直バレてると思う。それでも付き合ってくれてる。

彼氏は本当に性格がいい。

人の悪口言わない、自分仕事愚痴らない、誇りを持ってる、頭もいい。女性のことを見下さない、女性らしさを強要しない、対等な人間としてみてくれてるように感じる。過度なレディーファーストはしないけど、すごく繊細に気を遣ってくれてる思う。

あと話聞くとめちゃくちゃ育ちがいい。実際に育ちの良さが滲み出てるし。親戚も兄弟彼氏いい大学に出ている。とっても大切に家族に育てられたんだろうなって思う。

デートするといっぱいお話ししてくれる。つまらない話も聞いてくれるし、私の知的レベル合わせていっぱい話してくれる。

いっつもラストオーダーいっぱいまでお酒飲んでご飯食べて、店員さんに追い出される。

楽しいと思ってくれてるんだろうなって思う。

だけど彼氏はこんな私といて何になるんだろうって申し訳なくなる。

彼氏はめちゃくちゃ向上心も強くて実際すごい勉強してて、そんな時間割いてていいのかなって思う。

育ちの違いが凄すぎて、結婚はできないだろうなと思うから、時が経つにつれ彼氏人生時間無駄にしてないかなって思う。

不毛なんじゃないかな。なんで付き合ってくれてんのかな。よくわかんないな。

彼氏には直接言わないけど、多分彼氏がいなかったら今すぐ自殺してたろうなって思う。

この人の人生に後味の悪い記憶を残したくないか自殺しないけど、別れたら多分気づかれないように死んじゃうかも。

それぐらい自己評価も低い。外見取り繕ってなんとか自尊心保ってる。

なんか結婚一種のゴールだけど、結婚しないなら悲しいゴールしかないのかなあ。

ずっとこの時間があったらいいのになって思う。

そんなことないからいつか終わりが来るんだろうな。悲しいな。

でもこの人と付き合ったそのことだけで死ぬにしても死なないにしても、これから誰とも寄り添うことがなくても幸せ記憶にできる気がするなあ。

みんなそういう風に生きてるのかなあ。すごいなあ。

anond:20200728235050

「こんなやつより俺のほうが技術あるじゃん、なんで頭下げなきゃならんのよ」

ここがだいたい自己評価過剰なだけだし

よしんば相手より技術あるとしても3日で代替人員呼べるレベルなのよね

2020-07-28

自己評価自己肯定感簡単に高める方法

現役JDがいるデリヘル電話しろ

出来れば慶應とか青学あたりが引ければ最高だ

「なんでこんなかわいい子が 慶應行ってるかわいい子が高卒KKOである俺の毛むくじゃらなアナルを舐めているのだ」

という衝撃で自己肯定感はとてつもなく高まる たかまれタカマルっていうくらいに高まる

相場は90分25000円くらいか 但し効力も90分間しかない

90分後にはあれだけ高まっていた自己肯定感が、「平日昼間っからデリヘル呼ぶとか終わってんなー」という罪悪感に押し流され

一気に自己肯定感が低まるので注意してくれたまえ

anond:20200728115851

増田の言いたいことはなんとなくわかるぞ

 

本心から 自分以外の評価が 1 以上 で 自分自身の評価が 0 で なら、

自分以外” は 常に 正しく、“自分自身” は 常に 間違っている(もしくは判断出来る能力がない)となるはずだから

他人に厳しいのは、自己評価の低い人の特徴では無いのではないだろうかってことだろ?

  

でもここでいう自己評価というのは、0 か 1 かではなく、

健全コミュニケーションを取りやす状態にあるかとういう話な

 

たとえば、自分以外は醜くない状態醜形恐怖症の人にも

XXをしないとダメ、あの人はXXしていないかダメ が実際ある

そしてそれが原因で日常生活トラブルや困難になる

 

仮に、自己評価主観ノイズを完全排除して数値化できる仕組みがあったとする

そしてその自己評価が超低かったとしても、当人日常生活で困難を覚えてなければ

他人と楽しくコミュニケーション取れていれば何も問題ない

 

本人や周囲が困難を覚えているかどうかだけが気にすべきポイントだよ

自己評価が低い者は簡単に他者へ死ねという

無能自分が生きていて良いという確信が無いからだ

もちろん生きていて良いに決まっている

 

言葉に過敏、あるいは道徳心が強く、“死ね” などの強い言葉を使わない人も

「ムカつく」「許せない」「ムカつく自分自身が許せない」と言いがち

 

たとえば、これなんか典型的。スゲーいいヤツなのに、周りも自分自身もなぜか許せない

  物が落ちていたら、片付けたり・あるべき場所に戻している

  物を捨てたり・落としたり・棚に戻さない人たちが許せないし、

 他人を許せない自分偽善的で許せないし、

  いちいち気付いてしまう、気になってしま自分自身が許せない

危ないかもしれないし、邪魔かもしれないし、片付けるのは良いことだと思うが、

とにかく自分自身にやたらめったら厳しい

XXXじゃないといいヤツじゃないという非常に厳格なルールがあり、

自分の良いヤツぶりに注目して俺っていいヤツが出来ない

 

そしてその厳格さは他人にも適用されがち

anond:20200728114013

基準がどうこうじゃなくて

自己評価の高低って表現に対する解釈がブレてんだなってのはわかったよ

絶対値イメージで高低言ってる人と

実際の能力自己認識比較で高低言ってる人がいるね

anond:20200728113438

その通りだね

ネット上で藤井棋聖とか大谷とか所謂成功した人たちを叩きまくってる連中がいるけど

あいつらはみんな自己評価低いが故に成功した人たちを妬んで批判してるだけ

自己評価低い」と「他人に異常に厳しい」ってのはいくらでも両立する

anond:20200728113153

そこまで酷い目にあったら他人のせいにしようとするのが人間防衛本能だろ?

仕事で失敗したら全部自分責任とは考えないで「あのとき上司がへんな忠告たから」とかって他人におっかぶせたりするじゃん

他人責任転嫁する=自己評価が高い」なんてことにはどう考えてもならないんだが

anond:20200728112919

そこまでボコボコだったなら、

自己能力が低いからだ、と納得するほかなくなるわけだけど、

そうなったときにもし他人に矛先が向くようなら、それはつまり自分以外に何らかの落ち度がある、と考えてるわけでしょ?

そんなこと考えられるようなら十分自己評価高いよ

anond:20200728112701

就職活動して100社以上からお断りされて仕方なくフリーターだったり契約社員やってるような

人たちの自己評価が高いと本気でおっしゃるのですか?

anond:20200728112430

そういう人は、本心では自己評価は低くなくて、

「周りが悪かったか自分はこういう状態なんだ」「本当は自分もっとすごいんだ」って思ってるだけだと思うよ

anond:20200728112430

それって自己評価の高低の話なのか疑問があるけど

自己評価の高低にあてはめても

本来なら自分もっと上にいけるはずなのに政治家によって不当に貶められているって話だから

自己評価高い寄りじゃない?

anond:20200728112036

そういうのは大体N=1で自分だけをサンプルにして語ってるし

自己評価が低い」とか「自己肯定感が低い」っていうアピール話は

「私はか弱き被害者、そんな私を苦しめる世界やお前らが悪い」みたいなことを言うための変形パターンにすぎない

anond:20200728112036

他人批判できるんだったら自己評価が低いわけがない”

40過ぎて非正規雇用で「氷河期世代自分たちが苦しむのは自民党のせいだ」って小泉とか安倍批判している人たちはどうなの?

自己評価低くてかつ他人批判する人たちはいくらでもいるよ

anond:20200728112036

それはない

他人は常に正しいぐらいで考えていないと

相対的に 自己評価がひくくならない。

たとえばC言語インタプリタです

っていわれても

まぁ最近は増えてきましたね というのが自己評価が低い

自己評価が低い人の特徴、みたいなの読んでたら

たいてい「他人に厳しい・他人批判しがち」みたいなのがあるんだけど、

他人批判できるんだったら自己評価が低いわけがない

自分他人よりすべての能力が低いに決まっているし、他人は必ず自分よりも優れてる

でもそれに従うと、「他人に厳しいという特徴がある」と書く人が居るのがおかしいから、

たぶんあえてそう書くことで狙っているなにかがあるんだろうな

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん