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2023-01-23

https://anond.hatelabo.jp/20230122095913

筒井康隆が書いているのが、女は多数の男に犯されると体が汚れるが、男は多数の女を犯しても自身は汚れない。

から男はどんどん浮気してたくさんの女に子供を孕ませるのが良いが、女は逆に、多数の男に犯されないように自分を守らなければならない。

矛と盾の関係であって、たくさんの相手を貫ける矛が優秀だし、たくさんの矛から身を守れる盾が優秀なわけだ。

から男はどんどん女を犯せばいいし、女は男に犯されないようにどんどん自分を守るのが吉だということだ。

2023-01-12

反差別界隈、夢アノン

https://twitter.com/echonewsjp/status/1613365642278895618

ホントクズだ。

音無ほむら(2次元美形ジャーナリスト

@echonewsjp

https://twitter.com/yuukim/status/1612574021996146688?s=20&t=T5eUlYWfl40dMBPxdXu7gw

ゆめにゃんさあ

シリーズキモいおじさん見ても、ハラスメントの脅威と言葉狩りしか感じないわ!

昭和だと、筒井康隆がブチ切れて断筆宣言したような状況が世間全般蔓延中、てのが正しい評価

キモいおじさんでなに学ぶんだよ?

志村けんのバカ殿様の方がためになるわ!

引用ツイー

yuuki

@yuukim

1月10日

なんかもう、ここまでいくと腹立たしさを通り越して呆れてしまうな。

ポリコレうざい、何でもハラスメント、あれもこれも差別か、これじゃ部下も叱れない、女性冗談も言えない、みたいな真面目に考える気のない定番のおじさん。

シリーズ キモいおじさん で学ぶといいのでは。 twitter.com/zkurishi/statu…

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午前11:41 · 2023年1月12日

2023-01-09

[]アザラシとかアシカとか海の哺乳類の見分け方

アシカとかアザラシとか(鰭脚類)

寒い海にいて、水中生活適応していて、身体流線形

四肢ヒレみたいになっている。

鰭脚類は目なのか科なのか、そもそも分類群としてそもそも認めていいのかで揉めている。

分類は次の通り。



見分け方


ジュゴンとかマナティとか(海牛目

水中生活適応して前脚が鰭になっている。後ろ脚は退化し胴体に隠れてしまっている。鰭脚類を見た目が似ているが象に近い仲間。どっちも暖かい地域浅海に生えるアマモなどの海草類を主なエサとする。

見分け方


余談

あしかポケモンパウワウあしかポケモン(!)のジュゴン進化するのはかなり無理がある。ただ、テッポウオオクタンになるのはもう脊椎動物でさえなくなっているので気にしてもしょうがない。

ラッコとかカワウソとか

食肉目イタチラッコ属の生き物。ぼのぼのラッコだが、実はラッコアニメみたいに直立しては動けない。北太平洋寒い海に暮らす。陸上に上がることはまれ。歩けないのはそれも理由

体毛は哺乳類一密生している。過剰な塩分を排泄するために、カワウソの二倍の大きさの腎臓を持つ。

よく似ているカワウソ食肉目イタチカワウソ亜科で、陸上でも水中でも生きることができる。

ビーバーは齧歯目ビーバービーバー属で、全く違う種類の生き物。

その他のイタチの仲間は挙げるのは面倒なので筒井康隆「虚航船団」参照。

見分け方


余談

ミジュマルラッコポケモンフタチマルダイケンキはより鰭脚類的なデザイン

クジラとかイルカとか

基本的に大きさでクジラいるかを呼び分けている。

実際、系統を見るとこうなる。

要するに、イルカという名前の生き物があちこちに別れている。

見分け方


余談

イルカ英語dolphinで、これは古代ギリシア語のδελφίς(delphís)に由来する。さらにさかのぼるとδελφύς (delphús)「子宮」にたどり着く。

一方、古英語ではmereswinと呼ぶ。Mereは「海」、‎ 「swīn」は「豚」※であり、奇しくも日本語の「海豚」と一致する。

※今でも豚インフルエンザのことを「swine flu」という。

ドイツ語でも「swine」。

参考

Wikipedia

Wiktionary

https://chigai-allguide.com/cw0272/

https://ito-ds.com/ito_zukan/kujira_iruka/ito_zukankujira.html

2023-01-04

カズオ・イシグロ大体読んだけど好きかわからなくなった

わたしを離さないで」(2005)

臓器移植のために育てられた人間の子どもから大人になるまでの記憶を綴る。

かに美しい小説だ。子供から大人になるにつれて、見える世界は広がっていく。たとえそれがどれほど酷なものであろうとも、子供たちはそれを受け入れねばならない。語り手は振り返り、ひとつ出来事を大切に手の中で壊れやすい卵を計るように並べている。

読者も少しずつ、まるで語り手と一緒に育っていったかのように、事の真相を知らされていく。細やかな、性格を端的に示すエピソードミルフィーユのように繊細に重ね、誰もが持つ幼いころの記憶登場人物シンクロさせる手際は見事と言っていい。主役三人の性格の違いとそれによっておこる対立の見事さは、この小説SFというよりも性格劇に分類したくなるほどだ。夢中になってはまる本とは違うけれど、読む価値はとてもある。

しかしながら、感情描写文章リズムがうますぎるあまり、根幹のSF的設定が、ふと荒っぽい夾雑物にまで見えてきてしまう瞬間がないでもない。細密な建造物を支える、太すぎる柱にたとえればいいのだろうか。

そもそも臓器移植のためだったら、人間を育てるんじゃなくて臓器だけ培養すればいい。

どうも舞台となっている世界技術水準や、テクノロジー社会に与えるインパクトの細部の詰め方が幾分甘い。

日の名残り」(1989)

かつて仕えた主人が第二次世界大戦中に対独協力者で、それを理由戦後に没落したため、その屋敷を買った米国人に仕えることになった執事の話だ。カズオ・イシグロ本領である、決定的な本音事実意図的にあるいは無意識に隠したまま語り続ける居心地の悪さ、気持ちの悪さがいかんなく発揮されている。

熟読すると面白いが、何があったかは作中では基本的には明確に語られているのもいい。

かつてはほのかな思いを寄せていた同僚であった女中からも、今となっては過去の人とみなされており、最後自分人生って何だったんだという悔恨にさいなまれるシーンは最高だ。

かつての美しいイギリス風土と、失われた執事美徳悪徳について。感情に蓋をしがちで、行動原理自分の「したいこと」ではなく「なさなければならないこと」になっているひとにおすすめしたい。面白かったので英国メイド執事の本を何冊か読んだ。

遠い山なみの光」(1982)

長崎出身現在イギリスの片田舎に住む悦子(語り手)の所へ娘のニキがロンドンから訪ねてくるところから始まる。ニキが言及する悦子の生涯を、ニキからのまた聞きや、写真の印象だけから詩にしようとする詩人が出てくるのだけれども、なんだか作者自身創作する自分のことを批判的に見ている姿が透けてみえる。全体として、シングルマザーとしての苦しみが複数語られている。

これは褒め言葉としていうのだけれど、読んでいてずっと不穏な感覚をぬぐうことができず、いいようのない気持ちの悪さがある。たぶんその正体は登場人物の会話が互いの自己主張に終わっていて、基本的相手の話を全然聞いていないところにあるのだろう。会話の形をしているのに、対話になっていない。むしろ並行する独白だ。映画脚本のお手本的でもある。

最初のうちは、この違和感終戦直後日本人ならこんなあからさまな会話なんてしないだろうからにも思われた。しかし、明治文豪の名作だって、会話が人工的であることも少なくはない。ただ、この作品ほどのひどい噛み合わなさはまれな気がする。少なくともあちらでは噛み合わせようという努力はしている。

台詞説明したり議論したりする手法は、大抵は粗削りというか不器用な印象を与えるので好まないのだが、この場合コミュニケーション不全というか、相互理解の失敗の雰囲気をよく伝えていて、効果的だった。

浮世の画家」(1986)

情けないかつての画家の話。老い第一線を退いた後も、自分はまだ影響力があると思いこんではいたが、世間自分存在などすっかり忘れている。自分のしてきたことなど、大したことではなかったのではないか、それどころか完全な誤りだったのでは。歴史によってそう裁かれることに怯えている。老人にとって、今までのお前の人生は何だったのか、と問うことほど残酷なことはあるまい。

そのくせ、隠しようのない自己満足防衛がどこまでも続いており、かつては地位のあった老人はどこまでのその虚飾から自由になれない。計算したうえでのことかどうかわからないが、この翻訳日本経済新聞の「私の履歴書」の文体そっくりだと思ってしまうのは、私のやっかみであろうか。

やはりカズオ・イシグロ真骨頂は情けのない自己弁護にある。

充たされざる者」(1995)

よく、入り組んだ官僚機構カフカ的というけれども、どっちかといえばこの作品みたいなのがカフカ的な気がする。過去というか記憶曖昧で、自分そもそも何をしたいのかわからず、その場の判断だけで物語全体が動いており、映画なんかでは必須の究極の目的・ゴールも曖昧だ。「夜想曲集」所収の旅する芸術家あるある話がベースになった作品と同じにおいがする(この短篇集は切り口の優れた良き英国短編集といった趣だ)。

すべての事件が宙ぶらりんのままにされて進み、星新一ショートショートでその場限りの対応しかしない軽薄な男を主役としたこんな作品があった覚えがあったことを思い出したが、読んだときにはどうしてもタイトルが思い出せなかった。それは結局「未来そっぷ」に収録された「熱中」であるとわかるんだが、一番満たされていないのはきっと読者だ。

カズオ・イシグロテーマひとつコミュニケーション不全が前面に出ているだけでなく、筒井康隆虚人たち」を思わせるような、自分が何者であるかわかっていないのにさほど気にしていない空疎さがあり、何かを風刺しただけではないのだろうが、それはまだ読み取れず。

奇妙だ。自分他人記憶の壁が溶けて無くなってしまったみたいな語りであり、語り手は身内だと感じるとちょっとしたことですぐに激昂したりすすり泣いたりして、いったいどういう人物なのかとらえどころがない。すべてが宙づりで半端なまま物語が終わる。語り手はどの街を訪れても、延々と同じことを繰り返すのだろうか。

わたしたちが孤児だったころ」(2000)

両親に置いていかれたのはなぜか、そして母はどこに行ったのか。著者の中では一番残酷な話かもしれない。物理的な暴力よりもその結末が。地獄の寝取らせ小説であり、真理に近づこうとして全員が不幸になる。それでも、なお、愛そうと試みたし、愛されてはいたのだ。

息子が親父と同じ道ならぬ愛という過ちを犯しかけるのは残酷ユーモアがあふれているようでいて、ある種の試練であったのだろう。試練に打ち勝ったからと言って直接幸福になるわけではないのが皮肉でいい。

追記】目の前に日本軍軍艦が停泊してるのにのんきにパーティーしている租界の人々って嫌なリアリティがあった。

忘れられた巨人」(2015)

忘却テーマだが、P・K・ディックのようにアイデンティティ曖昧になっていく離人感よりも倫理的な面を問うているようだ。つまり戦争責任とか政治的意図的隠蔽とか。

国家組織的に目を背ける行為と、個人がつらい過去を忘れることによって救われることの両方が描かれている。ファンタジーもある程度は書けるのがすごい一方で、見たくないものを見ようとしない描写や、自分のことばかりで会話が成り立たない場面は健在。

ファンタジーにしては「危険度」とか「スタミナ」の訳文がちょっといかなとも思ったけれども(別に嫌だと感じるレベルではない)、これは現代日本語としては普通に受け入れられてるのかな。

あと、サクソン人の穴を掘った(ホビットみたいな)家の描写があるんだけれど、これって実際にそうだったのかな? サクソン人の家とググっても出てこなかった。

ちなみにル・グインはこの作品を好まないらしく、ウィキペディアには両者の対話引用されている。

のしようとしたことには敬意を払いますが、私には効き目がありませんでした。うまくいくはずがありません。どの作家文学ジャンルの表層だけをうまく使えません。その深みはなおさらです。そのジャンルと同一化することを恐れるほど軽蔑している限りは。読んでいて痛ましく感じられました。まるで、高いロープから落下しながら聴衆にこんな風に叫んでいるみたいでした。「私は綱渡り芸人と呼んでもらえるのかな?」と。

ル・グインには私の本が好きか嫌いかを決める資格がありますが、私に関する限りは誤ったほうの肩を持っているようです。私は(註:作中では不可解で不気味な存在として現れた)妖精や竜の側に立っています

シグロ氏のご意見をうかがえてうれしく思います。同氏の「私の作品ファンタジーだと人々は思うでしょうか?」という質問に対する、私の明らかな早急な返答に傷つけるような内容があったことをお詫びします。

クララとお日さま」(2021)

人工知能太陽光病気回復させる効果があると思い込むことで起きる珍妙な話だ。

どう考えても不合理で奇妙な信念に従い、偶然によって祈りが叶えられる話で、しか最後はただゴミ捨て場で朽ちていく。これは無神論者による宗教パロディではないか? と勘ぐってしまう。無神論者からすれば、いかなるかたちであれ神を信じる人々は、誤った信念にすがり、存在しない相手効果のない祈りをささげる哀れな人々だ。

カズオ・イシグロSFは、SF主食人間からすると、不合理か古い知識に基づくように感じられる設定が多く感動すべきシーンもそこが気になってしまう。

たとえば、明らかに危険能力向上処置子どもにするような社会は、現代から相当な価値観の変遷があったはずだし、かなりの時間を経ていないと起こりえないだろうが、長い時間経過に伴うテクノロジーの発達については述べられていない。スマホさえ出てこない。

カズオ・イシグロSF設定がときどきザルなのはリアリティレベル小説よりSF風の映画テレビドラマくらいにまで下げていて(下手をすれば寓話絵本レベルまで)、それは脚本家でもあったからなんじゃないかって考えたんだけど、そこまでたくさん脚本を書いていたかまではわからなかった。

かに技術的細部に立ち入らないので古くなりにくい一方で、そこが物足りなく感じられる。新しい技術だけをポンと現代に放り込んだ感じで、今と地続きな感じがして生活感があるのはいいけれど、技術によって完全に変容してしまった人類の心性がもっと欲しいと感じる。未来を描く意味はそこにあるんじゃないだろうか。

だいたい、フレーム問題解決というか一般常識インストールされてないスタンドアローン親友ロボットなんて危険すぎるだろう。誰もアップデートされないスマホなんて使っていない。SFはどこまでリアリティのある技術を出すべきかという問題もないではないが、短編ならともかく長編でこのネタをこれをやるのは、平均的理系知識を持つ読者にとってはかなりしんどい

結論

以上。読んだ順。

私が好きなのはカズオ・イシグロではなく「日の名残り」だった。

追記

わたしを離さないで」だけ既読、似た感想。この小説SFというより寓話に近いと思う(増田も書いてた)。ドナー人権周りの描写も臓器を貰う側の葛藤も削ぎ落とし、搾取される者の命の輝きのみに焦点を絞ってる感じ

こちらのブコメがとても素敵だったので引用させていただきました。不都合がありましたらお知らせください。

2022-12-13

anond:20221213111150

筒井康隆の「虚航船団」はそういう話だったような(文房具側とカワウソ側で戦争のことを書いている)

冷静と情熱のあいだ」は、江國香織が女サイド、辻仁成が男サイドから書いた恋愛ものだよね

日本で作られる第二次世界大戦モノは日本目線作品が多いけど、それと同時に Band of brothers 太平洋戦争編(ザ・パシフィック)を見ると両方目線がわかって面白い

2022-12-10

さっき上司と昼飯食いながらテレビ見てたら

なんでも鑑定団井伊直弼の茶碗が出てたんだけど、

オレ「井伊直弼って何やった人でしたっけ?」

上司フットボール…じゃない、桜田門外で暗殺された人」

ってやりとりがあって、その場はスルーしてたんだが気になって今ググってみたところ

大江健三郎小説桜田門外の変を絡めたテーマの『万延元年のフットボール』て本があるんだね

学があるなあ、ただのオタクかと思ってたよw

追記

帰りしなに昼のフットボールはなんだったんすか?と上司に聞いたところ、

井伊直弼で真っ先に思いうかんだのが 筒井康隆の『万延元年のラグビー』、

それもとりみき漫画版だったらしい。

ブコメの人たちの指摘どおり、あんまりフットボール関係ない)

「でも大江健三郎筒井康隆もいっぱい読んでるよ」とブーストモード小一時間語りそうな勢いだったので、

そこはスルーして早々に帰宅してきた

2022-10-24

anond:20221024085739

多くの人間が忘れとるが戦後昭和後期には

明治まれ」を「老害」とイコール意味に使う用法があったんじゃ

少なくとも筒井康隆小説には出てくる

きっと江戸時代平安時代人間

「これだから元禄まれは~」とか

「これだから延暦まれは~」とか言ってたはず

2022-10-09

anond:20221009120250

筒井康隆が『ビアンカ』でなく真剣にこーゆー調子で書いてくれてたら、とおもったが何十年も前に自分ボツにしてそう

2022-09-26

anond:20220926033844

言語道断横断歩道」とか{故郷は遠きにあって思うもの、近くば寄って目にも見よ」とか?

筒井康隆エッセイにそう云うのが半世紀前のSF作家の間で流行ったとかいう話があった)

2022-09-10

筒井康隆みたいな

めちゃ小さい事をここまで広げられるなんてすげえ、みたいな作家っていない?

2022-07-21

anond:20220721112732

筒井康隆ジイジ(笑)が盛んにやっとって調子にノッてAppleCMに出たらまだ生きとった中島らもに「演技どヘタクソ(笑)」て言われてそれでも懲りずに何回目かの実写版の「時かけ」に寺の和尚役で出演したやつなー

(老大家いはく、ロールプレイを演ることは精神的な病を癒やす効果もある、とかなんとか持ち上げとったような)

2022-06-18

anond:20220618215026

こういう方向への「理解」が度を超すと、筒井康隆問題外科」になる

2022-06-07

から小人がいなくなる

子供が寝てる姿を見てて、大きくなったなと思った。

末っ子なのでいつまでも幼いイメージだったが彼も来年中学生だ。

先日、図書館で借りてきた「変な家」を居間に置いてたら、

つのまにか読んだみたいで、めっちゃ面白かったと言われてびっくりした。

もう大人の本を読めるんだなと。

でもよく考えたら、自分小学生のころに筒井康隆大藪春彦読んでた。

子供の成長は喜ばしいことではあるけど、

やっぱり寂しい。

2022-05-04

表現規制をする女性たちって昔は「PTA」じゃなかったっけ?

昭和フェミニスト

筒井康隆短編集「くたばれPTA」には表題作「くたばれPTA(昭和41年)」と「女権国家の繫栄と崩壊昭和45年)」がある。

女権国家の方はミサンドリーを拗らせた女性革命を起こし、女性中心の社会を作る話だ。

一方くたばれPTAの方はSF作家教育上不健全漫画ということで出版規制される話である

どちらもフェミニストPTA否定的かつ攻撃的で、インターネットが当時あったら叩かれるだろうなぁといった内容だ。(当時もバッシング受けたのかな?)

さてさて、私が気になったのは現在フェミニストの主戦場「不健全表現を控えるべき」というのはPTAの役目じゃなかったっけ?ということ。

昔のフェミニスト女性地位向上、社会進出あたりのことを主戦場にして戦っていたようである

女権国家においても権力に見栄と権力に執着する女性という書き方でフェミニスト表現していた。

筒井氏はフェミニスト当事者ではないため、認識不適切という批判は受け付ける。ただ小説としてデフォルメした際に強調した点が権力の話だったというのは一考に値する)

令和のフェミニスト

対して今のフェミニスト表現規制が主な活動のように見受けられる。

最近活動でも目立っているのは新聞広告に関する表現への批判献血でのキャラクター利用などだ。

フェミニスト昭和フェミニストより、昭和PTAの方が近いのではないか

ここで「PTA漫画ゲームといったもの全般に不健全としたが、フェミニスト女性性的搾取した媒体のみを不健全定義しているため異なる」といわれるかもしれない。

しかし、不健全定義事態によって異なる。

明治自体においては小説は不健全コンテンツであったが、昭和平成では高尚な芸術だ。

漫画ゲーム昭和には不健全だったが、受け入れられた令和では日本代表するカルチャーになっている。

そして未だに不健全の枠にとどまっているコンテンツが「エロ」または拡大解釈によってエロ解釈された「萌え」ということになる。

フェミニストPTA思想の違い

フェミニストPTAも両方女性だし、思想が似ていても当然じゃないかと言われると思うが、建前上はそうではない。

PTA家族(主に子供)の健全な営みを行うための主張として表現規制を訴えている。

近い思想青少年健全育成条例などで、こちらを支持している石原都知事右派人間だ。

まり国家社会のために不適切コンテンツ抑制するというのがPTA的な表現規制の建前である

一方フェミニズム女性社会的な抑圧から解放するための左派的な側面が強い思想だ。

どちらかというと真逆であるという思想が、いつも間にかすり替わっている。

表現規制派の活動

ややこしいので、以下では昔PTA表現規制をしていた人と現在フェミニストとして表現規制をしている人を「表現規制派」と呼ぶことにする。

まり何が言いたいのかというと、表現規制派の人たちは「健全育成」や「フェミニズム」という思想に基づいて表現規制をしているのではなく、

表現規制」という思想社会に実現するために「PTA」や「フェミニズム」といった建前を利用しているのではないだろうか。

こうすると現在表現規制派の人たちが全くフェミニストらしい活動をしていないのに説明がつく。

ウクライナでの強姦を取り上げず温泉娘に憤り、映画監督性的搾取に目を反らしつつ新聞広告を敵とする。

表現規制派にとっては表現規制が最も大切な主義であり、フェミニズムは建前を尤もらしくするための道具なのだ

というわけでフェミニズムを叩いても、論理的矛盾をついても、ゴールポストは動かされる。

表現規制派は女性のためでも社会のためでもなく、表現規制のために表現規制を行っている。

なぜ表現規制をしているのかというところまでは個人問題なので分からないが、

自分が好ましくないと思う表現があったときに、多かれ少なかれ人は不愉快になる。

その不愉快社会正義見出しバッシングするかしないかの違いである。

表現規制派がフェミニストを名乗るまで

ではなぜ表現規制派がPTAからフェミニストにかわっていったのだろうか。

これに関しては全く不明だが、おそらく「PTAになれなかった層を取り込むため」ではないだろうか。

未婚率が上昇している。昔は誰でも結婚出来た時代だが、今はそうではなくなった。

PTAになれるのは結婚し、子供がいる女性だけだ。

このハードルを越えられなかった表現規制派の女性親和性が高かったのがフェミニズムだ。

フェミニズムはもとより結婚をしない女性を救うような思想だった。

地位向上で女性が一人でも生きていければ、結婚出産もしなくても幸福になれると考えられるからだ。

そこでPTAになれなかった女性たちが表現規制を行うためにフェミニズムと結び付けた。

フェミニズムは誰でも参加可能なのでPTAよりも参加しやすい。

よって現在思想がちぐはぐのフェミニズムが生まれしまったと考えられる。


表現規制に関してはフェミニズムを叩いても仕方がない

こうして表現規制派が無理筋批判をした際、フェミニズムが叩かれるようになった。

しかし、これはあまり無意味なような気がしないでもない。

昔は悪の権化だったPTAは、今では面倒な無賃労働としてママさんからしか文句を言われていない。

このままフェミニズムの印象が悪くなって社会的な発言力を失った場合

表現規制派がフェミニズムから出ていって、また新たな宿主を乗っ取って批判を繰り返すようになる。

表現規制派は特定思想を持つ者ではないので、現在寄生している思想や団体を批判するより、

疑似科学陰謀論に対する免疫のようにリテラシーを高めて対処をしなければならない。

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