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「難しい言葉を使うくせに」ネットに蔓延する“現代アート嫌い”、理由は「特権意識」なのか
https://bunshun.jp/articles/-/39498
なんでこんな論旨になっちゃうのかな。
現代アート(というかアート全般)の面白さはわりとシンプルなのに、当事者にはあまりにも自明で言葉にしない部分が多いから部外者には説明不足と感じるように思う。
そんなわけで、これさえ抑えれば現代アートが楽しめるというポイントを書いていく。
逆張りで一見どう見ても落書きにしか見えないというのもあるけど、後述の能書き次第でそれさえもかっこよく見える。
その複雑な模様を作ったのは実はこういう方法でした、というアイデアに感心するやつ。
ダサTシャツで例えるとショットガンで穴をあけたりとか、薬品でダメージ与えたりとか。
CGでやるようなことを、とんでもない手間をかけて手描きしたとかも一種の真似できない手法。
一見なんでもないものに見えるけど、実はこういう経緯がある素材を使ってますとか
こういう別のジャンルから引用してきたとか、由来を知って思いを馳せるやつ。
ダサTシャツで例えるとニルヴァーナの〇〇年ツアーTシャツとか、タフさゆえに米軍で採用されてるやつの本物とか。
同好のマニアが見ると盛り上がるやつ。
そんで、これらの3点のどれかにアート史における新規性があれば評価される。
そこは文脈を知らないと価値を見極められないけど、好きか嫌いか自分にとって面白いかどうかに文脈はさほどいらない。
手法やストーリーについて、実は作家はものすごくいろいろ考えているのにそれが言葉になっていないものが多いと感じる。
10センチ角くらいのキャプションの中の文章ではとても書ききれないし、あまり語ってもかっこよくないと思ってる人も多いかも。
だから図録やインタビュー記事から読み取ることになるんだけど、作品以外の情報を摂取しないと楽しめない作品というのもどうかと思う。
ここまで書いて飽きたのでこんな感じ。
笑うところ、絶対にこっちをばかにしている感じで笑っていると思うし、
人の食べてる料理に勝手にタバスコかけるし、ヘラヘラして酔っぱらってるのかと思ったらちゃんと記憶あって後から聞いたら全然記憶ないところもムカつくし、あの時許したのなんだよって思うし、
末っ子だから褒めるとヘラヘラしててちょろいし、バカだなと思うし、あの時頼んだからあげもデカ過ぎて最悪だった、お願いしたら何だかんだ聞いてくれるところも嫌だし。私お金ないのに朝まで一緒にいてくれてごめんね。
聞くなよ、なんだよムカつくな、
大体絵が上手すぎるしずっと嫌いだ何一つ文句がなくて魅力があって人から好かれる愛される絵を描ける、本人は一人での作業が好きなくせに、なんだよムカつくな、ずっと絵描いてろ、もっと沢山の人に褒められてろ神の作業止めるの憚られて特に原稿前連絡できないところもムカつく、腹が立つ
悔しい、私もそんな絵が描きたいけど私の絵には魅力がないし、真似すればするほど劣化版なのに、意識し出すと止まらない、あんな絵が描きたいわ私だって、自分の事卑下するのなんなの💢ってなるけど、たまにかわいいから特別賞許すね。
絵が上手くなりたいなあ、あんなに写実的にかわいくデフォルメ出来たらな、別になお前の絵を見るまではそんな事思ったことなかったのに、ムカつくな、なんなんだよ、くそ。別に絵が上手くなったとてお前より努力したとてお前より魅力的な絵を描けないのよ私は、ムカつくな。
私なんかとしゃべんないでほしい、神の癖に、もっと楽しくしててほしい、私おもんない女だよ、あなたの地雷を沢山踏むよ、考え方が違うから、嫌だと言ってたこともやっぱりしちゃうよ、考え方が違うんだもん。
何から何まで、気が会わないよね、別にわたしはあなたの事知らなきゃ今でも写実デフォルメなんて興味ないし描こうともしないしそもそも魅力を感じてこなかったのに、別に今なら他のも分かるけど、見えかたが変わったから、
それを何だ興味ないとか、細かい写実のが好きとか、新しいものの方がいいだろ、楽しいだろ、まあ分かるけど。
ムカつく、ムカつく、ムカつく、私は会ってからどんどん変わってる気がするのに、そっちは全然そのまんまじゃん、何だよムカつく、ムカつく。
今まで別に他人の意見を否定しないかわりに、私の考え方も変えないのが私の生き方だったのに!!別にそれでいいと思ってたのに何だよ何だよ何だよ!!
お前が言うと考え方が違ってもちょっと考え方を変えてみようかなって自分のなかに取り入れようと思えたの、始めてだったんだよ、知ってる恋と違うから今までのが恋じゃなかったらどうしてくれるんだ。
言いたいことまだまだ沢山あるし
一緒に色んなとこ行って考え方の違いを楽しみたいけどそういうのあんま興味無さそうなのもムカつく、
もっとオシャレな服着てほしい、もっとかっこいいの似合うだろおまえ、何、勝手に見繕うぞこの、
何だよこのこのこの~~~~~!!
今までだったら好きの全てはそれで良かったのに!!
何かしたい支えてえ~~~夢でいいから一緒に寝てゴロゴロしてみたい、ムカつくムカつくムカつく!!
早く結婚でもなんでもしてほしい、私は年も下だしお金も将来もないし最悪に最悪だし精神不安定だし、最悪最悪最悪。未来が不安がなんなの、私そう言われてもなんも出来ないと思うだけじゃん、思わなくていいんだけど、早く結婚しなよとしか言えないじゃん、私がお金持ちのスーパーリーマンだったら良かったけどな、そしたらおまえと出会ってないけど、
まだまだ嫌いなところ本気でムカつくところ嫌なところあるだろうけどそんなんは知らなくてもいいし、そもそも知れないんです、バカバカバカ
バ~~~~~カ!
お前が嫌いだ!
終わり終わり!
定期的に炎上する現代アート作品といえば、問題提起型作品である
最近注目を集めたものを例に挙げるとバンクシーであったり、盗めるアート展であったり、
みんなで考えよう型アートであり、これについては喧々諤々主にSNS上で議論が百出する
なぜかと言えば、提起された問題設定が正しいとか間違ってるとか、
作家が思考を社会にアウトソーシングしているからだ。端的に言って作家の頭が悪いのである。
ちゃんと考えられないので、みんなで考えて作品論を練り上げてください。と言ってるのだ。2流の仕事である。
1流のアーティストは他人には頼らない。実作の手を動かすことはアウトソーシングするかもしれないが、
作品の核となる思想は自分一人の力で練り上げてしまうのである。
アンディウォーホルやヨゼフボイスを見ればわかる。
いつぞやの暗闇アートの時バカ真面目に並んでいたギャラリーに比べ、軍隊アリのように強くなっていて痛快だった。
折角なんだから、あのギャラリーの戸とか柱とかネオンサインとか、全部剥いじゃえば良かったのにな…。
いくら「コンセプトを盗みました〜(ドヤ)」しようが「メルカリで売られることは織り込み済みですから!」と強がろうが、人の勢いに押されて開始を巻いちゃった時点でもうダサダサ。
そんな管理側のよわよわ加減や空気読まず美人画出品したトンチキなアーティスト(真面目に出してて笑えた)、逆に勝手に空気読んで唐松模様のコスプレして盗み逃すバカみたいな人(バカ)、そして謎に顔を売る加賀美健、「盗めるアートってキャッチーですごいけどモヤモヤする〜だってああいうの前からあったし話題作りパフォじゃん〜」って誰もがわかりきったことを「好きなことは趣味」レベルの進次郎話法でいっちょ噛みする角尾舞(*1)…とまさに日本の現代アート界隈の屋台骨の貧弱さやバカ真面目さ、そして加賀美さんのカビ菌みたいなバイタリティが鮮明に浮かび上がってる(*2)。
この人は「アルファベットのIはすっとまっすぐで、まるで数字の1みたい」みたいな全く中身のないものと中身のないものの組み合わせを中身のあるように見せるのがいつしかプチ権威を持ってしまい、魔発達してしまってて、真に受けてる人も増え始めてつらい・・・
加賀美さんみたいなメンタリティの人って、本来開始前になだれ込んだ人の側に近くって、「付箋に文字書いてアートかよw」とか言って相手にするだけカビみたいに伝染するんだから、相手にしちゃダメでしょ!っていつも思う。でもまぁ相手にしちゃうよね!
コスプレ系喫茶とか、そういうイベントの時の話じゃなくて、日常生活でゴスロリ系ファッションしてる方の話ね。
俺は仕事で接客やってるんだけど、ゴスロリ系ファッションのひとへの接客に苦労してる。
着物系とか現代アート的ファッションの方は何の苦労もないんだよ。一般ファッションの人たちとほとんど変わらないし、こちらも経験量が多いから、それなりに振舞える。
しかしゴスロリ系の方となると、皆目わからない。団体さんとかを案内してきたが、いずれもなんか、こう、とらえどころがなくて正解がわからないまま煙に巻かれた感じで接客が終了してしまう。
愛想悪いってわけじゃないくて、反応が薄いんだよ。おもてなし業務の中で、例えばお食事は洋食にしますか和食にしますかみたいな質問をするときが必ずあるじゃない。そういう時、反応が「~~……------…」という感じで、ぼんやりとしちゃっていうか、ふわ~っと質問が宙に散るというか。聞き方が悪かったかなとか、和食はないだろ空気読めという圧力なのか、分からないわけだよ。でもゴスロリを身にまとっているとはいえ和食は食べたいときもあるよね?中には和人形的な方もおられるわけで、「やはり洋食でございますね」とか勝手に進めちゃいかんわけで。じゃあ大正浪漫系統は和なのか洋なのかとかさ。
ゴスロリ系と書いたけど、ロリータ系ゴスロリではなく、ゴス系ゴスロリかな。特にわからないのは。配色黒多めというか、そういう感じの。怖い系。
リピートしてくれるゴス系の方もいらっしゃるので、こちらの接客に致命的な問題があったわけではないのかなぁと予想はしてるんだけど、やっぱり質問が宙に舞うわけだよ。「今回もご利用ありがとうございます」と言っていいものなのか。どうなんだろう。読めない。それがゴス系のスタイルなのだろうか。
前回は洋食(たとえの話ね)だったから、やはり今回も洋食?とか、いや、逆に和食か?とか、今回はお人形さんも同伴なので、料理に何か気を付けるべきことはあるか?椅子は増やすべきか?とか、いろいろとこう…知りたいわけだよ。あるいはさっとメモ用紙と羽ペンを差し出すべきなのか。そもそも質問をするなということなのか。
これが着物系とか先生系とかカミサマ系とかヤンキー系とかアゲアゲ系とかお勤めご苦労様でした系なら、割と対応の仕方は経験として持っているんだけど、ゴスロリ系は経験値がない。
仕事の誇りは持ってるつもりなんで、別にゴスロリだから「うひょー、なんか変なのが来た」とかは全く思わないんだけどね。
とにかく、ゴスロリ(特にゴス系)のひとへの対応のしかたというか、空気の読み方を知りたい。NGな行動はあるのかとか。
ゴス系の方が来店されると「やったるで!」という気持ちになるんだけど、その緊張感までもがふわ~っと霧散していく感じなんだよ。
国立新美術館の「古典×現代2020」に行ったんだけど、現代美術ってつまんねえなといまさら。
菅木志雄
宣伝動画で「来る人は美術館に石ころがあると考えませんから」なんて言っているけど、感覚が半世紀くらい遅れてんじゃないのこの人。いまどき美術館に石ころがあった程度で、なんも思わんわな。それとも現代美術ファンは、美術館に石ころがあったらびっくりするの? そんなんだったら、徳川美術館で水石「夢の浮橋」見たら、腰抜かしてしまいそうだな。まして国立新美術館は美術館ではなくて、美術館を詐称する展示場なんだが。
いい写真だと思うよ。インスタで流れてきたら迷わずいいねを押すだろうね。その程度。
棚田康司
円空と並べて展示してつらくなかったのかな? 作品の持つ力の差が歴然と感じたが。まあ、本人やファンが満足ならいいけど。
皮緞帳は粗大ごみにしか見えんかったというのは置いておくにしても、刀剣とのスケールの差が大きくて「組み合わせた壮大なインスタレーション」と感じ取るのは難しいな。現代美術ファンは器用だ。なお刀剣展示の照明ダメじゃね。刃文見える?
田根剛
中では唯一作品を展示していなかった。仏像展示の演出のお仕事。動く照明と録音された声明だけのインスタントでチープな演出。本物の宗教儀式が、さまざまな工夫を凝らして神秘性を演出しようと努力しているのに比べれば、子供だましみたいなものだ。
おもしろいパロディではある。こっちはツイッター映えか。アニメーションは途中までしか見てないから何とも言えない。
印象うすい
さすがに力のある作品で見応えがある。ただ、「針のない時計は〇〇(忘れた。時間の超越とかそんなんだった気がする)を意味します」みたいな作品解説を読んで、深いなあなんて思わなきゃならないとしたら、俺には現代美術は無理だ。
古典の方は見応えあるよ。念のため。
【追記】
「古典×現代2020」について、古典側も含めて、もう少し詳しく書いてみる。
仙厓の作品は掛軸1つ。円相図といって単なる○が書かれている。○には悟りや真理、仏性、宇宙全体などと宗教的・歴史的にいろいろな含意があるようだ。添えられた賛がいい。「これくふて御茶まひれ(これ食ってお茶を召し上がれ)」。
洒脱だねえ。かっこいい。この作品初めて見たんだけど、賛を読んで、ふわっと心が軽くなるような感じがして、ああいい作品を見たなあと。
それに比べて菅の作品。それっぽい思わせぶり以上の何かだとは思えないな。解説聞いたら納得や感動するの、これ?
川内の写真は数が多くて辟易した。いちいちつきあってられんわというのが1番の感想。前回インスタ云々と書いたけど、でかく引き伸ばした写真とかもあり、それはそれででかい会場で展示する意味はあるのかもしれない。ただちゃんと選抜してくれ。花鳥画の方は6幅なんだよ。
花鳥画の方で目を引いたのは、森蘭斎筆/梁田象水賛の牡丹図(神戸市立博物館蔵)。背景に大きく描かれた太湖石は伝統的な描法。手前の牡丹は西洋画の影響をうかがわせる陰影がついている。でありながらうまく調和していると思う。おもしろい。賛は読めんかった。誰か教えて。
棚田の作品には全然目が行かなかったんだよなあ。円空いいなと思ってただけだった。荒々しさというか生々しさというか、そういうのがいいよね。というわけで、棚田作については何も言えない。
いちおう言っておくと、もともと円空あんま好きじゃなかったし、今回で好きになったというわけでもない。それでも円空ばっか見てたのだ。
mitimasu 冷たいドブをさらって原石を見つけるのが楽しくないなら向いてない/刀剣は手に取って角度を変え光の当て方を変え…という見方ができない以上、どこの展示もそんなもんだと思うけど?国立新が特にひどいのか知らんが
刀剣の展示は、1つ1つに小さなスポットライトが当たっていて、それを刃文のところに乗せるように見ると刃文が浮かび上がるようになっているのよ。そして横にスライドしながら刃文を見ていくと。刀剣博物館でも東博でもなんでも、刀剣展示ってのはそういうもの。
今回の展示ではそのスポットライトがなかったはず。だから見えない。
ひょっとしたら俺が見落としていただけなのかもしれない。また、刃文の見えない展示もありだよねってことなのかもしれない。いずれにせよ、日本刀にそれほど興味ないからなんでもいいんだけど。
会場内で配られていた「アートのとびら×作品リスト」なるガイドブックに、別の機会での皮緞帳の展示の写真が載っていて、それで見るとこの作品なかなかよさげなんだよなあ。ライティングが異なる。あと中央にぶら下がって振り子のように揺れていた首がないのがいいのかな。
そのガイドブックには、「同じ部屋に展示されているのは、美術品としてケースに入れられている刀剣です。刀剣はかつては武器、または切る道具でもありました」とある。これ書いた人って、刀剣の展示を見て、自分の体が切られるようなぞくぞくする感覚を味わったことがないのか。もうちょっと古典の作品としっかり向き合おうよって思う。
前回子供だましだと書いたけど、ツイッターみると評価高いのよね。意外だ。
他の作家と違って、この人は作品を制作せず、仏像の展示演出を手掛けている。演出手法は光と音で、具体的に言えば動き変化する照明と録音された声明だ。
立体物の屋内展示で照明が固定されているということに以前から不満がある。屋外ならば太陽の位置で影の付き方が変わって見え方が違ってくるからね。たとえば上野の国立西洋美術館に行く楽しみの1つが、今日はロダンの地獄の門がどんな表情を見せてくれるのだろうかということだったりする。
だから今回の田根の試みのうち、照明を変化させる、動かすという点自体は評価したい。ただその変化のさせ方や動かし方については、もう少し考えがあってもよかったのかもしれないと感じた。
正面下方から照明を当てる瞬間があるけど、これはいい、というか正しい。お堂に安置された仏像は、下の方に置かれたロウソクの火に下から照らされる。だから仏師もそれで映えるように仏像を作っているはずだから。しかし、仏像の周囲にいくつかのピンライトがあって、それが上下に等速度直線運動してるってのはどうなのって思った。
まあ、しかし照明の方はまだいい。音の演出の方はちょっとひどいのではないか。録音された声明をスピーカーで流しているんだけど、音響についての工夫がまったくないのね。仏像に向かって右手、部屋の奥の方にスピーカーがあってそこから流れているんだなってのがわかる。どこからともなく聞こえてきて展示室内を包み込むような感じに聞こえるとかそういうの全くないの。音響について完全になめてる。
さらに言うと、仏像の展示位置が低いと思う。立って見ると正対するほどの高さ。一般に仏像は高い位置に据えて、仰ぎ見るもの。その下からの角度で見て映えるように造られているはず。この仏像の一番映える角度がどのあたりかは知らない。しかし今回正面から見て違和感を覚えたから、下からの方がいいと推測する。そういった点、たぶんこの人なにも考えてない。
出品しているのが大きく2種類で、うち1つがアニメーション。これは半分くらいしか見てない。なにも惹かれるところがなかった。
もう1つは、冨嶽三十六景のパロディ「ちょっと可笑しなほぼ三十六景」で、いくつかの作品を元ネタの北斎作と並べて展示していた。
北斎の冨嶽三十六景は三十六景といいつつ、追加があって全部で46図ある。一方パロディ版が全部でいくつあるのかしらないけれど、きっちり36ではないからなのか「ほぼ」とついている。三十六景といいつつ平気で10枚追加したあげく、三十六景のまますました顔をしているところの江戸っぽさ(前近代っぽさ)と、きっちりでないので気になって「ほぼ」とつけてしまう現代っぽさの対比が興味深い。
それはさておき、このパロディけっこういいのだ。うまくて唸らせるし、おもしろくて笑わせる。
でもね、「和紙にインクジェットプリンタ」なんだよ。実物見る意味なんて全くないからね。前回「ツイッター映え」と書いたのはそういう意味も含んでいる。なんつーか、いろいろ退化してるね。
伝統×現代アートという切り口から、伝統的な作品の「もの」性を再発見していく展覧会だと思いました たとえば皆川明×尾形乾山の展示を見て、私は初めて乾山の器の「素材」を認識しました そうか、これは焼き物だったんだ!という新鮮な驚きがありました
ちょっとびっくりしたよね。乾山見て焼き物だとわからないような〇〇〇がありがたがってるのが現代美術ってことなのかな。
このコラボレーションは2種類に分けることができて、1つは独立ケースに乾山作が収められており、その上に大きく平たい円筒状の布(皆川作)がぶら下がっているというもの。6セットあった。これは両作を同時に視野に納めるのが難しく、あまりうまくいっていないように思えた。
もう1つは、小さな様々な端切れが継ぎ接ぎされた数メートルはあるかという布の上に、ところどころ乾山作の陶器陶片が置いてあるというもの。ごちゃごちゃしたものの上だと乾山は映えないなというのが感想だけど、皆川明、というかそのブランド「ミナ ペルホネン」は明らかに自分がターゲットではない(というかそもそも初めて聞いた)ので、これが素敵だという人がいるなら、その感想についてどうこう言うつもりはない。
乾山の作品では「色絵石垣文角皿」(京都国立博物館蔵)がお気に入り。モダンな味わいがある。かわいくてすてきだ。
この展覧会に行った理由は蕭白。蕭白が4作出てたら行かざるを得ないよね。で、行ってみたら現代美術作品がつまらなくて、ひどい言い方だけど抱き合わせ商法にあったような気分になったわけ。
新出の游鯉図の眼がリアリティあって見事だった。群仙図屏風(東京藝術大学蔵)が、個人的に蕭白と言えばこうのって作品で大好き。
宣伝動画のなかで横尾は、人間の本質・魂の表現が蕭白の作品の中にこめられた重要なメッセージで、現代人が見失ったものだみたいなことを言っているんだけど、これ賛同する人ってどれだけいるんだろ。まったくピンとこない。
行ったよ。特に第1部はすてきだなと思う絵が多かった。ただ基本的に個展っていまいちよね。いろんな人の作品が見れた方が楽しいな。そのなかに数点ドイグがあったら、より魅力を感じたかもしれない。個人詩集よりアンソロジー読んだ方が楽しいし、好きな詩がより映えるよねみたいな感じ。個展だとその作家をどのように位置づければいいかもわかりづらいし。いまああいった絵を描きつつ評価されているというのは、いったいどういうことなんだろ。
yama_bousi 現代美術で自分が好きな人は、淺井裕介氏、高松和樹氏、蔡國強氏、ちょっと古いのではキースへリング、藤城清治氏、あとドールの世界とか凄いなあ、と思う。現代美術とは違うがぴろぴと氏は大好き。
10年前に投票できるようになってから選挙権を行使しなかったことはないが、毎回投票日の朝に候補者一覧をみて誰に入れるか決めてる。
選挙活動中の発言は耳触りがいいだけで信用できないし、掲げている公約とか所属の党とか応援してる政治家とか、出身や履歴とかしかみてない。
当日の朝に、出身校をみるに弱者への共感が弱そうだとか、福祉によりすぎてて現実的でないとか、ただの街の狂人枠だとかを感じ取って決めてる。
人が誰に多く入れそうだというのも考えるけど、深く考えすぎてもわからないから、基本的にはその場の直感だけが頼りだ。
どの候補もダメそうなのでバランスをとるために対抗馬っぽい人を選ぶこともあるし、
どの候補もダメそうなので比較的マシそうなメインストリームの人に入れることもある。
そんな感じだから、投票した人が誰だったか、夜の20時にNHKが自民党大勝利! のクソデカテロップを表示したらもうどうでもよくなるし、
夜に用事があったときは結果すら見ないでそのまま日常に戻る場合もある。
政治的信念がないまま選挙に行ってるので、単に若年層の投票率を上げる統計の一項目に貢献するだけの行為になっていることは否めない。
政見放送が話題になって知った口ではあるけれども、あれを見たときにこの人は現代アートであるなあと思った。
政治を舞台に芸術活動(?)をするというと、おそらく多くの善良な市民が眉をしかめるだろうが、
自分は芸術という行為が市民という概念よりも先行する場合がありうると思っている、
というか先行できないとすれば芸術というものを想定する必要がないと思う人間であるので、
政治の世界を舞台に芸術活動すること・できることは知的にも社会的にも人間的にも重要な行いのひとつであると思う。
また、後藤輝樹のあれが芸術であるとするのをよく思わない芸術畑の人もいると思うが、それに関しては反論しないけれども、しかし芸術だと感じたのだからしかたない。
マック赤坂とかN国党とかを芸術とは感じなかったが、後藤輝樹には感じたんだからしかたない。
後藤輝樹の活動にたいしてどのように支持することがベストなのかを考えた。
彼が芸術活動を行う場は政見放送であり、それをするのに必要な活動費は供託金なのだから、
供託金が返還されるよう応援の一票を注ぐことが、最良の活動サポートの仕方となるだろう。
果たして前回の後藤輝樹はそこまでの得票を得ずに終わっていたのだが、投票先を覚えている唯一の候補者となった。
今回も、他候補者がどれもパッとせず、後藤輝樹の活動の精彩さが失われておらず、絶対に当選はしないという前提が揺るがなさそうな空気であれば、