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はてなキーワード: 晩年とは

2024-01-03

anond:20240103194038

静岡家康晩年を過ごした場所でありとてもいいと思うが、災害リスクを考えると厳しいか

2023-12-08

anond:20231208034542

あんたみたいなこと言ってた俺の最初上司晩年がそんな感じやったで

2023-12-01

anond:20231130232928

それ、故 志村けん が上手かったよね

「あっ!いま頭みたでしょ!?

「いまハゲてるって言ったよね!?

楽器できない(けどマニアックリスナー体質)のと薄毛に劣等感めちゃ抱いてた

晩年()は三味線を習ってビートたけしタップダンスさせるくらいの腕前にはなってたけど

2023-11-20

創価とかもそうだが、晩年社会還元して "いいこと" をすれば、

それまでの悪事を洗浄できるっていう詐欺師御用達スキームあるよな

2023-11-19

かつて人文系博士号は功成り名を遂げた大学者がもらう勲章のようなものだった

最近中東イスラム研究者池内恵氏が博士号を持っていないことが、X上で話題になっていた。やたらに博士号を持っている側を持ち上げたり、あるいは逆に博士号重要ではない、実績を見よ、と反論していたりするのが目に付く。

だが、博士号に関しては議論の前提が違う。かつて、そもそも日本の人文系博士号レジェンド級に希少であり、真っ当な研究者でも取得できないのが普通だったのだから90年代以前の人文系研究者の大部分は、博士課程で博士号を取得することはできないと認識していただろう。

その様相が変わって学位取得が適正化されたのは、池内氏が学部生、院生として過ごした90年代から2000年代にかけてのことだ。池内氏はその変化の恩恵?を授かれなかった狭間最後世代なのだと思う。

その点に触れている投稿がなかったので、メモしておこうと思う。

文系博士号の取得について認識齟齬が生じる原因は大きく二つだ。

現在では人文系博士号運用理系運用に近づいた。だが世代や文理の違いによって事実が見えなくなっている人が多いのだと思う。

90年代前半くらいの状況

90年代中盤当時、大学院について調べていると謎の単語単位取得退学」に出会った。博士課程に進学し修了したとして、しかし残念ながら学位もらえず、ということはある。ここまでは当然だろう。不思議だったのは、単位取得退学という言葉がまるで学位のような扱いだったことだ。プロフィール欄に堂々と書くようなものか?と思った。

調べるとどうやら人文系博士号を取得するのは非常にマレだということだった。それゆえに単位取得退学学位のように通用していたということである

ざっくりと状況を把握するには、下の 3.4.2日本博士号取得者 (1)日本の分野別博士号取得者 あたりを見てほしい。

[科学技術指標2021・html版 | 科学技術学術政策研究所 ](https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2021/RM311_34.html)

実態としての運用はどうだったか。その雰囲気はこの辺のWikipedia記事に詳しい。

[単位取得満期退学](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%98%E4%BD%8D%E5%8F%96%E5%BE%97%E6%BA%80%E6%9C%9F%E9%80%80%E5%AD%A6#%E4%BA%BA%E6%96%87%E3%83%BB%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B3%BB%E3%81%AE%E7%89%B9%E8%89%B2)

1989年以前の東京大学大学院人文科学研究科では、大学院生にとって課程博士論文は書かないことが原則で書くことは例外であったという」

少なくとも90年代以前では、人文系研究者キャリアの初期に博士号は困難であったというより、ほぼ不可能だったみて構わない。かつて人文系博士号キャリア晩年差し掛かってそれまでの功績を評価してもらうもの。今のように博士課程を修了した時点でキャリアの出発点となるような資格のようなものではなかったのだ。

時代の転換

この状況は1990年代に入ると徐々に変化する。

[23博士学位授与数の推移と授与率:文部科学省](https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/attach/1407428.htm)によると、博士授与率は、

平成3年度(1991年度)に人文系4.7%、工学系78.1%だったものが、平成13年度(2001)年度では、人文系23%、工学系では88.6%と変化する。まだ差はあるものの確実に変化している。

いずれにせよ、2000年前後は、「博士課程を修了して真っ当な評価を得れば博士号を取得できる」という普通の状況に至るまでの長い変化の途中の時期だった。

現在

博士号を取得する人の数は増え続けている。ただご存知の通り、その活躍先が十分あるとは言えない状況だ。

このことで企業側の受け入れ姿勢批判する向きもあると思うが、それは間違っていると思う。かつての日本博士号(人文系)の授与が異常だったのであり、企業はそれに適応しただけだろう。変な運用を続けていた大学責任がある。企業の変化にはまだ時間がかかるだろう。

以上が、博士号取得に関しての時代状況の説明だ。

博士号価値

現在特に文系に関して博士号は多く取得されるようになったが、だからと言って価値が軽くなったという話ではない。

ただ時代が違ってしまうと、まるで別のものになっていることは押さえておきたい。別の分野の研究ともなると尚更比較するのは困難だ。

(課程博士論文博士など取得プロセスの違いもある)

私自身は結局アカデミアとは無縁のキャリアになったので、個別研究室の中のことを知る由もないが、おそらく池内氏が博士課程に在籍していた2000年前後博士号の扱いの転換期だったはずだ。その当時は学位を取得することは不可能ではなかったが当然でもなかった時代だと言える。

まして、仄聞するに、池内氏は学会因習悪弊に対して相当の武闘派であったようだから、そう簡単学位を取得できる状況だったとは思えない(これは憶測だが)。

池内氏の中東イスラムの分野の研究における業績は既に輝かしいし、一般向けの著書や寄稿も数多い。加えて組織設立運営、後進の育成など、並みの胆力ではこれだけのことはできない。

現在、この世界情勢のもとで池内氏の解説発言は、信頼のおける言説としてますます重要になっていると思う。

当人にとっては博士号の話など大きなお世話で、拘泥もしていないと思う。

ただ、一般の人が博士の扱いの変遷について知らず、この話題によって氏への信頼に一点でも曇りを生じそうな人がいるなら、それは違うとは伝えておきたい。

晩年ブーメラン返ってくるの可哀想すぎる

心配いからねとか♪負けないでとか最期ブーメラン返ってくるの可哀想すぎんか?

2023-11-11

anond:20231111110517

ワイ:久我重明について教えてください

Claude:久我重明(くが しげあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

1536年、讃岐国国人領主久我通久の子として誕生

三好長慶に仕え、三好三人衆の一人として各地を転戦。

長慶の死後は三好政権下で実力者となる。畠山高政対立して畠山氏を滅亡に追い込む。

1582年の本能寺の変後、羽柴秀吉に臣従。四国攻めに参加。

秀吉九州征伐にも従軍し、大友氏を降伏させるのに貢献した。

晩年讃岐一国を安堵されたが、文禄の役出兵の際、朝鮮に渡ることな病死

織田信長による三好政崩壊後も四国大名として存続できたため、戦国大名の中でも生き残りを図る political survivor評価されている。

2023-11-07

anond:20231107175028

ほぼ全ての女がそうだけど、男と女の違いは穴があるかどうかにある

男は自分の足で立って生きることが課せられてるのだから、女と比較して慰みをえても意味がない

比較するのなら同じ役割の同性で、女と比較するのは逃げる言い訳作りにすぎない

そしてその業は晩年自分がたった1人で全て背負うことになる

2023-11-05

anond:20231104060526

強者社会に不満がない→現時点ではいわゆる勝ち組

強者社会に不満あり→認知の歪み(周りから見たら勝ち組なのに満たされないってことは、コンプレックス強すぎるとか、嫁さんがクソ野郎とか、幸せになれない要素が何かある)から理解者もなかなか得られず晩年不幸になる

弱者社会に不満あり→ジョーカー予備軍

弱者社会に不満なし→諸々諦めたおっさんか、清貧を貫く物好き 

幸せなんて、自分次第でどうとでもなるけどなぁ。仕事終わりにビール飲んで幸せって人生なら、月々5000円くらいで幸せ生活が手に入るんだぜ。

2023-10-24

どんな酷い公演でも何も言わないことにしている

山崎まさよしライブ燃えているようで、その他玉置やら、さだが名前に出ているけど、自分とある歌手を見に行って酷い公演を見たことがある。

無気力MC覇気がない、歌うのをやめてしまう、アンコールもない。

当然叩く人がいたし自分も金返せよーとは思ったが、口直しに居酒屋行って飲み明かして忘れることにしたので、別にそのあと炎上に加担したりはしてない。

数日後、週刊誌ライブ直前に歌手の父が死去したことをすっぱ抜いた。

しろよくライブをしたなと思った。そしてなにも言わなくてよかったと心底思った。

1度向けた怒りというのは収めがたいもので、その事実を知ってもなおプロならちゃんとすべきだったとブログに書いている人が居た。

が、自分はそうは思わない。相手人間だ。完璧ではない。

実際このとき週刊誌暴露たから本人からも当時のことについて説明があったが、観客にはしりえないことばかりなんだろう。

エルヴィスという映画を見ると彼のステージ舞台裏を知ることができる。晩年色々言われたプレスリーだが、裏でこんなことが起こってたなんて知ると気の毒すぎて当時の客を憎んでしまう。

客には何も見えてない。そう思ったから何も言わないことにした。

ミーハーライブは好きなので「さっさと巻きで終わらせよう」とか言ってる人も見たことあるし、旧ツイッターで延々観客の悪口を言ってたり、スタッフミスを責め切れ散らかす人も見たことがある。明らかこいつさっきまで薬やってただろ、あれ薬切れか?って人もいた。全員有名人だ。

それでもなにも言わない。

ライブってことはそういう人間の波を観察するものかもしれないと思うようになった。歌手は基本良くも悪くも感情が豊かなので。

特別な公演、いい思い出として消化してしまうようにしている。

それでファンが離れても自分にはどうでもいいことであって、もちろん怒る人がいなくなると社会的秩序が消えてしまうので居るべきなのだろうが、少数でもそれを楽しむやつがいても良いのではないかと考えている。

まあとにかくネットで思ったことをすぐ書くというのはバズりはすれど後悔する可能性が高いので、いい大人なら一旦落ち着いてほしいもである

2023-10-20

Claudeに久我重明について訊いてみた

逆に感心したわ。

ワイ:久我重明について教えてください

Claude:久我重明(くが しげあき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将です。

1536年、讃岐国国人領主久我通久の子として誕生

三好長慶に仕え、三好三人衆の一人として各地を転戦。

長慶の死後は三好政権下で実力者となる。畠山高政対立して畠山氏を滅亡に追い込む。

1582年の本能寺の変後、羽柴秀吉に臣従。四国攻めに参加。

秀吉九州征伐にも従軍し、大友氏を降伏させるのに貢献した。

晩年讃岐一国を安堵されたが、文禄の役出兵の際、朝鮮に渡ることな病死

織田信長による三好政崩壊後も四国大名として存続できたため、戦国大名の中でも生き残りを図る political survivor評価されている。

2023-10-18

心に刻む風景

俺が死んだら、俺の生まれ故郷学生時代を過ごした街、挫折を味わった場所、何かを成し遂げた場所晩年の地(故郷最後に俺の銅像が映る)が5回に分けて「心に刻む風景」で放送される予定だったんだよな。

でも心に刻む風景放送が終了。

もう俺の生き甲斐が無くなったから何も頑張れない。何かを成し遂げる必要なんかも無くなった。あーあ。

2023-10-11

サブスク?忙しくて見る暇ないからいらないよ

理由としてはアリだけど

サブスク映画等を楽しむ余裕もない人生って楽しいの?

儲けて使う暇もなしか

そして晩年病院代に消えていくと

個室で入院できるからいいのかな

尿瓶換えてくれる看護師は大部屋も個室も一緒だけどね

2023-10-09

anond:20231009091544

自宅で68歳無職男性が死亡しているのが確認されました。死因はテクノブレイクと思われます

男性一人暮らし生活は荒廃しており、晩年増田に入り浸っていたと見られています

2023-10-05

anond:20231004135345

  • 父親は寂しい晩年を過ごすだろう
  • 子どもたちは自立して後、家に近寄らないと思う
  • 母親がどんだけ父親の面倒を見るだろうね?

2023-09-22

anond:20230922142744

自分10代の頃からのふるい友人が3人だけ

社会人になってからの友人は一人もいない

気の使わない友人がこの年になってもこの人数いるだけで恵まれているように感じる

他の交友関係はほぼ皆無だし、する気にもならない

何か人と会う機会があっても、あらたな友人・知人を作る気にならないし、

そうなりそうな場の気配があると、むしろ距離をとって連絡先の交換などになるべくならないようにしている

なんだろうね、「ふるい友人」のような関係性をあらたに築ければ、それは望ましいのかもだけど、

そのために必要なもろもろの労力をいまさら取る気にはならないということなのかな

別に友人なんていなくても何ら問題ないし...とは基本的には思うけど、

老後に付き合える友人が何人もいたら、晩年の過ごし方の様子は違うものになるのかなぁというのは少し思う

2023-09-15

anond:20230915150148

布おむつのほうが不快感が大なので、おむつ離れもしやすそうなイメージがある。

女性生理ナプキン比較想像やすいと思う。

私は色々あって生理晩年布ナプキンだったけど、あれって基本我慢なのよ、漏らさな我慢

じわった時の不快感ものすごいので漏らしちゃった~みたいな感じですぐ変えてた。

でもそれって自宅ですぐそばトイレがなんて環境からできたことで、勤めてたら無理だったと思う。

2023-09-06

つの間にかソフマップってめちゃくちゃ少なくなってね……

https://www.sofmap.com/tenpo/

去年、プラッツ近鉄時代から20年くらい世話になってる京都駅ソフマップが閉店した。京都駅周辺で初めて出店したデジタルモノに強い家電量販店からなんやかんやで重宝したわ。ここでパソコンも2回買ったし、大学帰り、会社帰りでよくゲームも買った。

まあ、晩年はそのプラッツ近鉄跡にできたヨドバシに行くことの方が多かったけどね……。

やっぱり最後テナントを構えてたイオンモール京都は、京都駅から微妙に遠く、休みの日にイオンモールに行ったときについでに寄る店で、仕事帰りに寄る店という感じではなかったのが大きい。せめてアバンティ京都のままなら寄ることも多かっただろうけど。

ちなみにソフマップが出店されてた頃のアバンティ京都ティーンズ向けファッションビルとしての色合いが強く、本来の客層とソフマップに寄る客層が完全に分かれてたのが面白かったりする。そんな、アバンティアニメイトが出店されたり、ドンキが出店されたりしてだいぶ空気も変わってしまったが。

ソフマップ京都店の思い出話はさておき、なんか最近ソフマップメチャクチャ少なくなってないか……?

梅田ソフマップはなくなったし、日本橋ではジョーシンと張り合うように出店されまくってたのに、今じゃ大型店が1つあるだけ。昔は京都四条河原町にも出店されてたりもしたが……。

店舗リストを見てても、ビックカメラに間借りして出店されてるケースも多いし、なんでこんなに減っちゃったんだろ。みんなパソコンを買わなくなって、デジタル家電だけで食ってくのはしんどくなったんかねぇ。

2023-09-04

anond:20230904011921

君生きを見ればわかるけど宮さんはあくまブルジョワジー視点からしか物は描けないんだよ

じゃりんこみたいなガキには共感できないの

でも、ブルジョワの持つ傲慢観点ムスカのような男を下品として描くし、

からこそブサイクなおばあさんやハンセン病患者も善いものとして描くことができるわけ。

ハウルの汚い城や貧乏そうなメイとサツキの家さえ、趣味の良い美しい場所として描けるわけ

食事のシーンだって千尋の両親が暴食してる様だってそこまで醜く演出していない

そして声優の声は性を売りにし、それを求める下品な人たちの象徴のようで嫌だというわけ

悪意のある下品さは彼は描けないし、庶民も描けないわけ

晩年はもうそれを開き直ってるね

2023-09-03

anond:20230903230418

というよりアレだ、老人が

「俺たちは可哀想だ! 敬え! ゼニ寄越せ!!!

って騒いでるのと相似形の生き恥を、「ヒトの親」が晒してるのは見るに耐えないんだ。

それが利益につながる、乞食根性でも子供幸せになれる、と信じての主張なんだろうか。

まりにも矜恃がなさすぎると思う。

老人は死に損ないだからこそ恥も外聞もなく必死こいて喚くのは分かる。生き意地の汚さを人生晩年晒すのは動物の本性だろう。

ただ子育て世代がそれを晒すには、まだまだあまりにも若すぎやしないか、と俺は思うのだ。

anond:20230903223222

ググったら予想以上に設定が細かくて草

ソレナンテ・エ・ロゲ(Sorenant et Roage)は1599年4月1日まれフランス評論家である

主に人間の性欲に対する研究を行い、また、学会では批評を行った。

誕生

フランスパリ生まれる。

父親は後にフランス東インド会社となるパリ国営貿易会社本部創始者であり、また、母はルイ11世の服装製作するデザイナーという大富豪の家に生まれる。

幼少期には何にも興味を示さず、養育係やメイド達を困らせたが、13歳の時に友人であるピエール・ダレソレの奨めで同級生であるエマ・ギラクサと付き合う。

それをきっかけに恋愛にのめりこみ、数年のうちに数十人の少女と付き合ったという。

しかし、両親は一人息子が初めて物事に興味を持ったからと屋敷に離れ屋を作り、そこに彼女達を住まわせたと言われている。

なお、後にこれが現代ラブホテルの発端になったという説もある。

女性人権保護の為の批評家への転換

20代前半にして、既に100を超える女性とつき合っていたソレナンテは女を見る目が肥えて、フランス週刊誌「プワソン・ダヴリル」に女性との付き合い方についての1コーナーを担う事になる。

そのコーナーは女性と付き合う為のバイブルとして貴族から平民まで幅広く読まれる事になった。

また、沢山の女性と付き合いながらも、三角関係円満解決したり、アメリカから連れてこられて売春婦にならざるをえなかった女性人権についての批判もしていた。

そんな中、女性人権を守る会(ドロワ・プル・プロテクション・ドゥ・ラ・ファム)の会長マルキ・ド・サドに注目される。

彼は活動当初は男尊女卑社会であった為全く注目されなかったが、徐々に思想が広まり認知されて来ていた。

そんな彼が、ソレナンテに注目したのはある意味必然とも運命悪戯であるとも言えるだろう。

また、サキュバスインキュバス研究をし、それが強姦による妊娠への言い訳であるという批判をしていたザッヘル・マゾッホも彼に注目。

やがて同志となった。

彼らは、女性人権を守る為、それぞれ精力的に活動した。

しかし当然の事ながら、男尊女卑体制を敷いていた貴族から危険分子として注目されてしまう。

●長い幽閉歴と晩年

貴族達の陰謀により彼らは何度も逮捕され、また釈放されては活動を行い逮捕されを繰り返した。

その為、バスティーユ牢獄の監主からは、

「またお前か」

と半ば飽きれられる程の知り合いになり、囚人が寝静まった頃こっそりと酒を飲む仲になっていたという。

そんなソレナンテだったが、貴族陰謀によりついにルイ14世によって処刑が決定され1664年2月30日処刑された。

しかし、彼の行った活動平民を中心に評価され、フランス革命の際に女性達の原動力になったという。



民明書房刊『 いいかげんに性と言いたい偉人伝 』より

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