はてなキーワード: ポスターとは
おじさんが沢山写ってるポスターの話じゃないの?
これね
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/mainichi.jp/articles/20240821/k00/00m/010/174000c
女性政治家ばかりが並んだポスターに「おばさんの詰め合わせ」と言ったら炎上するだろ?
だから、「おじさんの詰め合わせ」も許されない。
…この論法。
「男性の体臭苦手」が言ったらダメなのは、男に「女性の体臭が苦手」って言われる辛さを考えると理解できるはず。
…この論法。
女性ばかりが並んだ選挙ポスターも、女性の体臭が苦手と言われる状況も、架空だ。
ミラーリング先が、あり得ないんですよ。
…ミラーリング先にあり得ない状況を設定して反論不可能にする論法が、流行しつつある。
[B! 差別] 「男性差別」「ハラスメント」トラウデン直美、総裁選ポスターを「おじさんの詰め合わせ」と評し批判殺到(SmartFLASH) - Yahoo!ニュース
結局、表現の自由なんてどうでもよかったんだな。
ポスターや広告の表現が女性蔑視だ女性差別だと批判されれば、批判するなあれは表現の自由だ表現の自由を守れと抗議して、批判に対応して業者が引っ込めればキャンセルカルチャーだとまた抗議してたのに。
今や「おじさんの詰め合わせ」と言う表現に男性差別だの大合唱。その嬉しそうなこと。その程度の表現を叩く事で溜飲を下げる姿に心底がっかりした。ここはそれぐらいいいんじゃね、それ表現の自由を抑圧してるよねって言うのが筋じゃなかったのか?それを言わないなら今まで散々批判してきたのはなんだったんだ?自分達が批判してきた行為を当然のようにやり返すのか?そうであるならこれからは言葉狩り表現狩りの応酬になるだけじゃないのか。
また、これくらいはいいとは思うけどなどと逃げ道を残しつつ仕方ないだろ今までやってきたんだからと容認するような奴、こういう奴こそ一番タチが悪い。これこそ表現の自由なんて関係ない女性が悪いって言いたいだけだということの見事な信仰告白じゃないか。
結局自分達の好きなものが女性に批判された、攻撃された、お気持ちが侵害された事に腹を立てていただけだった。それに復讐したかっただけで表現の自由なんて関係なかった。
本当にがっかりした。
「男性差別」「ハラスメント」トラウデン直美、総裁選ポスターを「おじさんの詰め合わせ」と評し批判殺到
https://news.yahoo.co.jp/articles/8532b4f9ab7667ec6272b47e62179315654e676c
「彼女はこのポスターについて『おじさんの詰め合わせ』と苦言を呈したのです。たしかに歴代総裁の“おじさん”だらけですが、さらにそれをお菓子のように“詰め合わせ”と表現したことで、ネット上では視聴者が様々な反応を見せています」(週刊誌記者)
Xではこの発言に
《おじさんの詰め合わせわろた》
《トラウデン直美、最高》などと面白がる声もあるが、どうも少数派の模様……。
《ハラスメントではないのか?何様なの?とても嫌悪感を感じる》
《これ、「おばさんの詰め合わせ」とか政治家が言ったら大騒ぎだと思うが。なぜ自分だけ許されると思うのか》
《年齢から実際に見たことはなくても読んだり聞いたりしていれば、こんな情ないコメントにはならないだろうに》
例の女子アナキャンセルで覚醒した弱者男性連合、今度はトラウデン直美を燃やす
完全にやってることがツイフェミなんよ
男の体臭くっさでキャンセルされた女子アナは「女性からの批判はほぼない」と証言してるからマジで弱者男性が発狂してるだけという
〇〇駅。快速列車の止まらない、□□□□から×××湖の方向に30分の駅だ。
×××湖をレンタルサイクルで観光しようと予定していた私は、雨の予報に出鼻をくじかれ、仕方なく歩いて散策しここへたどり着いた。
〇〇駅の待合室で心地よいけだるさを感じる。
目をつむり椅子に掛けていると背後の窓から風が髪をなで、脇を通り抜けてゆく。
交通ICに対応していない古びた待合室はふとすれば過去の一時を切り抜いたような感覚が起きる。
待合室には多言語のQRコードのついたポスターが申し訳程度に張られ、ここは現代だとささやかな主張をしている。
窓枠には「ご自由にどうぞ」と駅ノートなるものが立てかけられている。
5月に設置されたばかりのようだ。
過去に現代を吹き込む方法が過去然としているのがまた趣があり、情をくすぐられる。
民家の向こうの山の上から雲とも霧ともわからぬ靄がゆっくりと降りてくる。
そのゆっくりとした様はまさに、ゆったりとした過去の時間の流れのようだった。
わずかに流れ込んだ現代の情報の細かで速い波が大きく雄大な過去に溶けていくようである。
忙しない現代と対照的な街はずれで温泉にでも入ろうかとスマートフォンを手にする。
温泉地らしい△△△△の周辺をGoogle Mapで見ていると、その店を見つけた。
駅表にちらほら温泉や郵便局、薬局などがあり、駅の裏側へ行って少し歩くと川沿いにこのヘルスがある。
妙な立地が酔狂心を呼ぶ。
これはもう行くしかない。いささかのリスクを感じたが、この気持ちになればもはやリスクは特上寿司に添えられたわさびでしかなかった。
△△△△駅を出て目的地へ向かう。
駅周辺は足湯や、和風庭園を模した石畳に木造の屋根が張られた道があり、観光地然としていた。
わずかにぽつぽつと人はおり、気分転換に丁度いい閑静さをもたらしてくれる。
道路が一本で脇に建物はちらほらあるが、人が歩くのは見えず、ますます風俗店に似つかわしくない。
もう少し歩き、ついに目的地に到着する。
築50年ほどの建物の狭い扉を期待を胸にくぐる。
古い銭湯にあるような靴のロッカーに靴を入れ中に入ると、店番をする男性に現在空いている嬢は一人だと告げられる。
一応どんな嬢かプロフィールを見ると、37歳ぽっちゃり系とすべての躊躇わせる要素が揃っていたが、ここまできたのだ。
一度大外れはどのようなものか経験してみたいと思っていたがついにそのときが来たのだろう。
思いもよらないところで訪れたそれを受け入れることで、また一つ新しい世界が見えるだろう。
彼女に対面した第一の感想は、「俺のおかんまあまあ美人だな」だった。
なぜ母が思い浮かんだかというと、彼女と同年代でまた、異性でありながら異性としてみることができない女性という点で彼女と一致しているからだろう。
脳内に母の顔を思い浮かべ、補正を加えながら若返らせていくと、まあまあな美人にすることが一応できる。
目の前の彼女は無理だった。よくて下の上だろう。
ソープではなくヘルスなのが幸いした。手で適当に刺激してもらい出して帰ればいいのだ。
小さいころお母さんに便器にちんちんの照射を合わせてもらったようなつもりで、代わりに出すものを出していくだけだ。
かつてソープがヘルスとして再オープンしたらしい店内で風呂に入り、湯加減を聞かれる。
見た目の第一印象が強すぎて意識の外にあったが、ここで彼女が心地の良い明るい声をしていることに気づいた。
おそらく若いころから美人ではなく水商売で苦労したであろう彼女。
いろいろな努力をしてきたのだろう。
老いとともに多くの積み重ねてきたものが崩れていく中、まだ老いきることなく残された心地の良い発声に何とも言えぬ人生の重みのようなものを感じた。
マットに移動し、ことが始まる。
彼女に対する一種の敬意のようなものは感じはしたものの、相変わらず性的興奮の対象とはならず、機械的な刺激により果てた。
おそらく、中途半端な外れだと性欲に頭を麻痺させて突っ走るがゆえに、それがなくなったときの自分は何をしているのだろうという冷静な後悔が押し寄せるのだろう。
私は性的興奮などせず、じっと彼女の人生の重みについて考えながら機械的刺激により射精した。
賢者タイムへ至るまでもなく、そのプロセスがすでに賢者の悟りを開くそれだったのである。
困難なことを遂げた達成感を胸に少し雑談をする。
それにしても東京というのは遠い。
老いながら、少しづつ都心から離れていきたどり着いたのがこのさびれた川沿いのヘルスというわけだ。
少し話がとぎれもういいかなと思ったところで、荷物を渡され丁度良く帰る形となる。
せめて客の嫌な思いを増やさないようにという気の利き方がそれを感じさせる。
玄関まで見送られ外へ出る。
背中に例の心地よい声がかけられる。
大外れとしての距離感を保ちながらも、もしかしたらあるかもしれないわずかな再指名の可能性のための痛々しい努力だ。
風雨にさらされボロボロになった羽を必死に動かし飛ぼうとする蝶のようだ。
地元の人であろう軽トラックに出てきたところを見られ、少し恥ずかしい気持ちになるが、すぐに恥ずかしく感じたことそのものをまた恥ずかしく感じる。
自分のおかれた状況で一生懸命生きている彼女に申し訳ないような気分がした。
出ると入ってきたときには溢れる欲求で見えていなかった周りの建物が目に入る。
朽ちたかつてフィリピンパブだった建物に、もはや何の店だったのかもわからないガラス張りの建物。
その横の看板は古臭い文句で何十年も前から性の街の魅力を男たちに語り掛けているのだろう。今はもう一軒のみとなった性の街の。
かつて温泉街の横で栄えた小さな夜の遊び場は、ほとんど消滅していた。リトルグレイを除いて。
古くなりきえゆくものの最後に残った店の看板が照らされ光っていた。
〇〇の宿に向かう前に温泉へ寄る。
★★湯の大きい古い建物に入ると、風呂への廊下に隣接して居間があるような奇妙なまどりで、ちゃぶ台をはさんでサザエさんを見ながらくつろぐ老婆に出迎えられた。
マスクをせずに300円を要求する様はまるでここでは違う時間が流れているんだといわんばかりであった。
同じ東京に住み、年齢とともに現代から過去の場所へ流されてきた彼女と過去へ憧れ迷い込んだ私は出会った。
石丸伸二はポスター代を踏み倒し、名誉毀損をおこなった人である。
https://www.sankei.com/article/20240703-YFVEJOMLYJIAJKSPUG35JH2BJU/
https://www.47news.jp/11167261.html
ゆえに、石丸伸二を支持することは、名誉毀損を行い、ポスター代を踏み倒す人物を支持することである。
名誉毀損を行い、ポスター代を踏み倒す人物は「悪」である。(普遍的な倫理である)
しかも、石丸伸二は、裁判で負けた後ポスター業者の名前を晒す行為を行なっている。
https://x.com/shinji_ishimaru/status/1734934269355844063
石丸伸二は、
「例のポスターの話ですよ。一部のみを切り取って公開した意図は、全部は公開しきれないので、必要なところだけを開示しただけですね。誹謗中傷しているのは予想外の出来事でしたか?うーん難しいですね。やっちゃいけないことはいけないだけで、どこまでそれに対して僕が責任を負うのか、負えるのかというとこういう活動をしてる限り、制御できない部分ってありますよね。ただ僕の立場から言うのは、どうでも良くないですか。またね、切り抜きに使われるかなと思って、あえて言ってみるんですけど、だって完全な民事の訴訟ですよ。別にどっちが悪い云々でもなくて、単に契約がうまくいってなくて、両者の合意が取れなかった、それだけなんですね。だから当然先方を攻めるのはアレですし、僕に対してなんやかんや言うのも、どこからその元気が湧いてくるんだろうなと思います。」
https://www.youtube.com/watch?v=b_k7ddbyJus
と弁明している。
X上で
「そもそも、公費負担が相場でないならば、選挙公営制度の根幹を揺るがす事態です。 もっとも、#公費負担 は #選挙 に絡む利権として問題視されているので、世間の関心が集まるのは何よりも良いことだと感じます。 」
と発言しながら、
「どうでも良くないですか。」
と石丸伸二は言っている。
これを「そのまま」受け取ると、石丸氏は「選挙公営制度の根幹を揺るがす事態(公費負担が相場でないこと)」を「どうでも良くないですか。」と言っていると言うことになる。(これも論理の問題である。)
選挙公営制度の根幹を揺るがすことは、民主主義を揺るがすことである。
故に、ここから導かれることは、石丸伸二は、「民主主義をどうでも良い」と言っていると言うことである。
故に、石丸信者は、「民主主義をどうでも良い」と言っている人を支持していると言うことである。
ズレてんだよなあ本当に
お前は交通標語を作って交通安全ポスター貼れば交通事故が無くなるとか信じてるタイプ
そもそも表現の自由戦士っぽいこと言ってる人たちがどこまで突き詰めた考えなのかってのはどうなんだろうな
同じく表現の自由を大切にしている立場として、一部の人たちが「表現の自由戦士」と呼ばれることに疑問を感じていました。
どうして、同じ目標を持っているはずの人たちが互いに対立しなければならないのか、と考えていたのです。
これは「仲良くしろ」という意味ではなく、意見の違いが生まれること自体が不思議であり、少し愚かに感じていました。
しかし、夏のコミケでの盛り上がりを見て、私の考えが少し変わりました。
特に、コミケ会場近くで行われたヴィーガンデモに対する批判を見て、その気持ちが強まりました。
これまでもデモに対する批判は見かけていましたが、今回の批判は少し違いました。
”サークル申し込みして、なぜ人はヴィーガンになるべきなのかの本を出せ!自然完全配慮のコスプレをして歩け!”
https://togetter.com/li/2416923
この状況を見て、私は確かに一理あると感じる一方で、なぜコミケでやることを強制されなければならないのだろうか?と疑問に思いました。
その瞬間、色々な考えが解けていくような感覚を覚え、「エウレカ!」と腑に落ちる瞬間を感じました。
批判をしていた人が普段から表現の自由を主張しているかは分かりませんが、この瞬間、「表現の自由戦士」という言葉が持つ意味が少し理解できたように思いました。
自分が慣れ親しんだ領域では表現の自由を大切にするが、それ以外の主張や方法に対しては無意識に排除してしまう感覚。
それが、「表現の自由戦士」と揶揄される人たちに特徴的な傾向として捉えられているかもしれない、と感じたのです。
一度そういう概念を取り込んでしまうと急に過去の諸々が輪郭を帯びてリンクしてきます。その後、他のまとめを読むと、
グロいものを見せるな、警察に通報した、公共の場だというのがわからないのかといった非難が出ているのを見かけました。
https://togetter.com/li/2416758
これが一般的な意見なのかどうかは分かりませんが、これを読んで、どうしても「宇崎ちゃん」献血ポスターに向けられた非難を思い出さざるを得ませんでした。
「宇崎ちゃん」献血ポスターに対しても、公共の場における表現についての批判があったことを思い返しました。
ヴィーガンデモでの批判と「宇崎ちゃん」献血ポスターへの批判は、表現に対する反応という点で似ていると感じました。
こうして考えが巡る中で、
「嫌なものを見させられない権利」を主張して宇崎ちゃんとか叩いた人たちはコミケでのヴィーガンぽい連中の行為を批判してくれるのだろうか
https://togetter.com/li/2417081
というまとめが作られていることに気づきました。
なるほど、こうやって自分の主張ではなく他人の主張に対するカウンターというスタンスになるのですね。
これらの思考の流れの中で、私は何か重要なことに気づいてしまったような感覚を覚えました。しかし、同時にその気づきが少し怖くも感じられました。
ネットで真実とか、Qアノンとか神真都Q会とか、あるいはそれに近いのかもしれないと考えると背筋が寒くなります。
最後に、これはあくまで私の気づきを共有したものであり、ヴィーガンが正しいとか、批判者が間違っているとか、そういうことを主張したいわけではありません。また、「コミケでやれ」という意見がネタやノリであったことも理解しています。
・のうりんポスターは確かにエロいけど、これくらい別によくない
・温泉むすめのサイトにある「スカートめくり設定」で表象のPOPにケチつけるのはキチガイ
↑ ↓
・大阪駅の雀魂は微妙なラインで、駅に貼るなら調整すべきとも言えた
これをぜんぶ、ひょーげんのじゆー、で括るから話が出来ないんだよな
エルフ先生の小水とかスプラッタポスターを受容しないと人工知能学会誌の表紙を肯定できないとか
頭オカシイ
根拠も調査も何もなしに「屠殺画像のほうが宇崎ちゃんポスターより過激!」ほんとアホしかいないわ
宇崎ちゃんポスターごときで動物屠殺の写真と同レベルのダメージを受ける人ってどれくらいいるの?「エログロ画像」と過剰に一般化して糞味噌一緒にせずに、個々の案件で判断したい話
ツイフェミはいつも「私は動物屠殺の写真でものすごく精神的ダメージを受けたから、他の人たちもみんなダメージを受けるはず!」という自分のお気持ちを "どれくらいいるの?" なんてふわっとしたワードで誤魔化す手法使ってるけど、ツイフェミ以外の人にはもうバレてるんだわ
それを隠蔽しようとするのは女にブルカを被せるアホなイスラム教徒と同じ、過激な嫌悪から生まれる奇習
インド人や香港人は市場で鶏を殺しているがなんともない(牛殺しや豚殺しをやらないのは残酷とかではなく、狭い市場で大型動物は手に負えないというだけ。豚公開解体ショーは普通にやってる)
図書館にBL本購入させて、公共型セクハラだと叩かれたら、「男性による腐女子差別だー!」とか喚いてた腐女子フェミどもが、全く同じ文言使って、たかがポスター一枚をネットリンチさせてキャンセルカルチャーしたことを蒸し返して何がしたいの?
コミケでヴィーガンが屠殺の写真を参加者に掲示し「その画像により吐き気を催した」という話
・ひょーげんのじゆー
・これは許容しなくてはならない
・目をそらす自由がある
・嫌なら見なけりゃ良い
滑稽だよね
これ、大阪の雀魂バニーポスターとか、エルフ先生の小水POPを「表現の自由」って場所に仕舞ってしまったから
もう何がどうなろうとそう言うしかなくなった人らが観測できるよ
本来は適当(ちょうどよく合うこと。ふさわしいこと)にお気持ちで調整してさ
ゲームや書籍がやってる自主規制とかで世間様とすり合わせしてさ
法規制って話が盛り上がらないようにしてるわけじゃん
でも、一部の不心得者が、その枠を抜け出してヤラカシた時にさ
ひょーげんのじゆーって
この言及者の滑稽なところは、法を犯してるわけじゃないとか言い出しちゃうところでさ
お前それ言ったら、相手が法規制のロビー活動するだけなんだぞってのが解ってないのよね
で、相手が法規制に動くと、ひょーげんきせー、って大喜びなんだけどさ
いやいやお前らが言ったんだろ?
「法を犯してない」って
ほな、法で縛りまひょってなるだけやん
表現テロやりたい放題で、法規制されてないならナンデモアリな場にしたいわけ?
絶対に、自分の身辺に不快な表現が出たら文句を言うだろう、かっっっるい言動のアカウントがさ
チー牛という言葉、ネットミームは、私も一応知っている。知っているといっても、あの有名な画像と、牛丼店でチーズ牛丼を頼みそうな性格・人格、という、何か表面的なことだけだが。
結局、誰もがチー牛という言葉についてこのレベルの認識でしかないだろ。
なんかよくわからないけど気に入らない言葉でしかないのに、それがいつの間にか「この言葉を使うことは社会的に正しくない」にまで飛躍してしまっている。
チー牛という言葉を否定したいのならば、誰よりもその言葉について考えて、具体的に説明できなければいけないのに、フワッとしたままなんとなく全否定している。
自分の好き嫌いと社会規範がイコールだと思い込んでしまってるんだろ?
こんなもん、アニメの美少女イラストが描かれているポスターを見た瞬間「差別だ!人権侵害だ!」って怒り出す人達と一緒じゃん。
ああいう人達も、アニメのイラストがどのように描かれているか詳しくは知らないけど気に入らないってだけなのに、いつの間にか社会的に正しくないに飛躍してしまっているから訳が分からないんだよ。
何の根拠もないけど自分は正しいと考えている人間と会話なんか成立しないから。
それが出来ないんだったら、嫌いなものは嫌いで終わり。
増田母は裁縫やDIYで物を作ったり絵を描いたりするのが好きな人間だった。
増田自身(娘)は裁縫やDIY的な作業は苦手だったけど絵を描くのは好きな子供だった。
小学生の時は夏休みになるとポスターを描く課題が出されたり、家庭科の授業で縫い物の課題(エプロンとかナップサックとか作るやつ)が出されたりした。
普段の増田母は親のチェックサインがいる宿題の音読シートなんかは「読んだら自分でチェックして」と言い放ち、学校に出す親の署名捺印がいる書類も期限ギリギリまでなかなか対処してくれない放任主義というか面倒くさがりなところがあったのだが、ポスターや縫い物の課題になると全く別の態度になった。
先に書いておくと小学生増田が自分から増田母に「自分の代わりに課題をやってほしい」「手伝ってほしい」と言ったことはない。
ポスターの課題になると「こんな絵にしたらどう?」「ここはこの色にしたらどう?」とあれこれと口を出す。一見提案のように見えるがこれらを拒否すると「もういい!勝手にしろ!」とキレて持っていたペンなどを叩きつけたりして怖かったので小学生増田は言う通りにしていた。
縫い物の場合は増田母は一旦は増田に縫わせるのだが、縫い方にダメ出しをしたりバカにして笑われたりする。この時点で割としんどい。一通りそういうことをしてから増田から取り上げた課題を縫い上げると「綺麗にできたからこれを持っていきなさい」とさもいいことをしたように言われるのである。
ポスターにしろ縫い物にしろ、そんな風に作られた提出物を持っていく時は心苦しかった。自分で作ったとは言えないものを自作のものとして出すのはとても悪いことをしている気分だった。ポスターが佳作だか入選だかになった時や縫い物の出来をクラスメイトに褒められた時は賞状や褒め言葉を笑顔で受け取りながら胸にズシッとした重みを感じていた。
夏休みの季節になって宿題の話を見聞きするとなんとなく思い出す。別に大事ではないけど古傷が痛むってこんな感じなんだろうか。