はてなキーワード: スイッチとは
ゲームみたいにさ、レポートせんとブチ切りしたらまたやり直せるようにしてほしい
どんなに嫌でも時間ってどんどん過ぎていくし、どんなに嫌でも明日がやってくるし、逃げたくても逃げられへんし。
どうしても嫌になって現実逃避したら、逃げたことに対する罪悪感とか、世界から置いてけぼりにされたような孤独感とか、一日中全くの進捗がなかったことに対する焦りとか、現実に耐えきれない自分の弱さとか痛感して逆に精神病んでくる。
ほんまにどうしても今が嫌で、どうしてもリセットしたくなったら、環境変えるっていう手段もあるけど、どうしても変えられない環境もあって、鎖で繋がれてるような息苦しさから逃れることができない。
でも、それも簡単にできない自分が嫌い。
おいこら自分がしてもらうことばっかり考えてんじゃねーぞ
目の前の人間は本当に死なせて良い相手なのか、その不可逆な決断を下す前にすることは本当にもう何もないのか
ちゃんと責任もって判断して、その手で安楽死スイッチを押して、仮に判断が間違ってたら吊し上げも食らう、そういう覚悟があるんだろうな?
①朝あれだけパチスロを打つことで頭が一杯の、頭が茹で上がった、のぼせ上がった状態だったにもかかわらず、
例のゲーセンで2時間弱3rdの練習をし終わった後、スロを打ちたい気持ちが0に近いぐらい減退していたのは、
自分でも驚くべきことだった。練習そのものに没頭して楽しんだことが原因か、それとも小額とはいえお金を使ったことが
原因だったかはわからない。どちらにしても、スロそのものをしない限り消えないと思っていたものが、
少なくとも自分の感覚上では消えたように思えたのは今までにない精神的経験だった。
②3rdの練習。昇竜コマンドの入力(昇竜、百鬼両方)を今までずっと力を抜いて、楽に入力できるようになった。
SAじゃない普通の昇竜コマンドでも、623,421の3点のスイッチを順に丁寧に押していく感覚で入力すれば、楽に、力を抜いて入力できる。
2P側のSAコマンド入力は難なくできた。1p側に関しては、入力失敗がなぜか増えてしまったけど、入力前に一瞬考えてしまう未熟さがなくなり、
③あの例の不細工お姉さん2人組にスロットを打っているところを目撃されてしまった。
まあ逆にあの2人も見られたくないところを見られたと思ったかもしれないし、お互い様。
どちらにせよ、スロを打った俺が悪い。
④3000円負けたけど、別に良い。スロで小遣い増やそうなんていう幻想がとりあえず一時的に消えたから。
3000円だけで済んで逆に良かった。
⑤3rdの練習は、しばらく金の問題で休まざるを得ない。まあいつでも再開できるし、上達を言語化して保存しておけば、
肉体的な上達はすぐに取り戻せるからね。
22歳のある日、私は前から交流のあったおじさん(20歳上)とふたりで居酒屋に行った。
おじさんはお父さんみたいな人で、将来のこととか悩みとかを普段から相談に乗ってもらってた。
だからサシ飲みなんて普通だと思ったし、終電逃したときに「家近いんだけどくる?」って言われた時も善意だと思ってた。
でもこっちはどうしても読みたい漫画があったし迷惑かけまいと思って「満喫いくんでだいじょぶっす!」って言った。
後日、おじさんと何回かドライブに行った。
深夜おじさんとふたりで海を見に行ったり、おしゃれなバーへ行ったりしていたのだ。
ふたりきりとはいえ、おじさんとはいつも通りの会話をしていたので、
「大人の人はこういうつき合い方もするのか」と勝手に納得していた。
でもある日、手をつないできて抱き寄せようとしてきたときに「あれ?なんかちがくね?」ってなって、
唐突におじさんがすごく怖くなった。
この話を友達にすると「気づくの遅せーよ!」「普通に危ないからそれ!」「てかお前もカマトトぶってんじゃねーよ」と言われてしまったのだけれど。
で、わたしが「おじさんはちょっと青春思い出して甘酸っぱくなりたかっただけなんじゃないの?」って言ったら口を揃えて「ねーよ!!!」と。
でさ、そういわれてふと疑問に思ったんだけど。
そもそもその「男は突然襲いかねない生き物だ」っていうのをみんなはどこで学んだのっていう話ですよ。
私だって別に普段から男性ともコミュニケーションとるし、性的な知識だってそこそこある(はず)。
にもかかわらず、スイッチ入ったというか、さぁ今からおっぱじめようぜみたいな空気を掴むことが全然できない。
なんでだ?ドラマか?私がドラマ観ないから知らなかっただけなのか?どうなんだ?
そういうわけで、私に「男は狼なのよ、気をつけなさい」って私に教えてくれたのはピンクレディーだけだった。
聞いたばかりの頃は「狼ってなんやねん」といった感じだったが、最近ようやく「男は狼だったのか…!?」という理解度まで到達してきました。
えっと、まぁつまり、当たり前は人によって違うから、きちんと相手をおもって推し量っていけたらいいねみたいな。
それにしてもホントに、みんなどこでそういう男女の空気みたいなの学んできたんだろう。
追記
なんかブックマークすごいことになっててびびったけど、
疑問であった男女の空気感をどこで知るのかについて言及している人が意外と少なくて更にビビった。
多くは「おじさんが悪い」か「お前が悪い」ばかり。うーむ。
「知ってて当たり前、常識」と言われても、その常識はどこから来たのかを考えたかったな、みたいな。
なんだかおじさんにご執心な方が多いので、
なぜおじさんが抱きしめてくるとは思わなかったかを箇条書きしようと思う。
・非常に年上でそういうのはもう無いと思っていた
・私にヘビーな恋話をする女友達がいなかった
・私は昔からまるでモテず、迫ってくる人は痴漢変質者などの明らかな敵のみだった
・私は昔からまるでモテず、これそういう空気かもしれんと思っても
「んんwwブスの自意識過剰が始まりましたなww」と心の声が言う
なにより私が馬鹿で、
「この業種に入りたての若者の意見は参考になるからそれで充分」と笑ったおじさんの言葉をそのまま受け取って、見返りが必要だなんて考えなかったことだろう。
正直、これだけされてしまったのなら疎遠になる前になにかそういうことを1回くらいはすべきなのだろうかと悩むこともあった。
でもそれは、なんか、失礼だと思った。
都合よくごまかすな、と言われても仕方がないんだけど。
追記による所感としてはそんなところです。
2年前の出来事ですよ!失礼ですね!
http://anond.hatelabo.jp/20151019213445
「努力が足りないのだ」と叱責する者が多いが、まるで見当違いだ。あなたは全然悪くない。ユーモアのつもりであなたを責め、戯れ言に興じる小物たちの言葉など聞く必要はない。
なぜ魔法少女になれないのか。
なぜならそれは、魔法少女になった人間がこの世に存在しないからだ。あなたに絡んでくる者、あるいはあなた自身も、その残酷な事実を受け入れられない。いや、分かっていても分からないふりをして、虚構の世界と夢を守ったフリをして気取っているのだ。しかし、前例がないからといって、イコール魔法少女になることが不可能なわけではない。
あなたがこの世界で最初の魔法少女になればいいのだ。最初の魔法少女なのだから、自分自身がルールなのだ。ただし、「俺は魔法少女だ!」と高らかに宣言したとき、そこにいる観衆の大半が「こいつは本物だわ」と納得しなければならない(もちろん、他者を納得させる必要はないという論もある。しかしここでは取り上げない)。つまり、俺ルールを作り上げてもいいが、他者をも納得させる妥協点を探る必要がある。「魔法」とは何なのか。「少女」とは何なのか。その言葉が規定する可能性をどこまでも掘り下げ、2つの概念を矛盾なく結合させる点を探る。そしてそのプロセスを雄弁に語る必要がある。
困難な作業になる。しかし、不可能ではない。もし行き詰まるようなら、著名なテキストサイトの管理人やネタブロガーを見習うのがいいだろう。
「いや、そんな理屈をこね回してネタで魔法少女になりたいわけじゃないんだよ!」
その気持ちもわかる。だが、あなたの知っている魔法少女もそうやって出来たものではないとどうして言えようか。演出やエフェクトが描き出す「魔法少女感」の裏に、必ず、どうしたら「魔法」で「少女」に「見えるのか」という生みの苦しみがあったはずだ。そうしたネタ出しの初期の姿は歪で陳腐なものだったかもしれない。
何かを生み出す時には、つねに柔軟な発想が求められ、そうして出来たものを貫き通すことが説得力を生む。たとえばあなたの知っている魔法少女の中に、魔法は使わない物理攻撃型の少女はいないだろうか。しかしあなたは彼女を「魔法少女だ」と認識している。あるいは、もはや少女とは言えない体格の魔法少女もいるかもしれない。でも受け入れているだろう。それはどういうことだろうか? 契約をしたから? 体や装備が魔法体だから? 本当にそうだろうか? そういう説明をされる前から、あなたはコンテクストで「この子たちは魔法少女」と確信していたのではないか?
このことは、表現を受け取る側の人間も、相当に柔軟になりうるという事を示している。それは人間の美しいあり方でもある。柔軟になるだけのコンテクストを共有していない人間からみれば、その発信者も受信者も「宗教くさい」と蔑視されることもあるだろう。しかし、そのような美しくない眼差しを考慮する必要はない。あなたと、受け手が信じてさえいれば、そこには何だって降臨し得るのだ。実際、あなたは創作上の魔法少女という存在を、彼女らが与えてくれた感動と社会的ムーブメントを、虚像だとは思っていないだろう。そこに「ある」と信じることで物は生み出され、定義される。それは儚くも尊い、人間の壮大な営みの一部だ。魔法少女なんてものはその極致のようなもの。それに素直に憧れることができたなら、もう一歩先に進む人がいてもいいはずだ。
……ここまでの内容を消化し昇華するだけでも、魔法少女になれる可能性は十分あるだろう。だが依然として困難を感じている人も多いことと思う。それは、「魔法」というものに対して説得力を出すことが難しいためだ。
あらかじめ潰しておくと、「少女(見た目)」についてはどうとでもなる。仮に、あなたが男性だったとしても、いまは「男の娘」なんて言葉があるくらいに、男子が女子と見られるためのノウハウや文化の蓄積がある。あなたが青少年とはかけ離れた年齢だったとしても、歳をごまかすテクニックはそれ以上に長年の蓄積がある。なんなら手術という手もある。その上、それらが完璧でなくても、受け手の柔軟さを上手に喚起してやれば受け入れられるはずだ。あとは自分自身が自らの姿を受け容れるだけの精神性を築き上げればすむ。
だが魔法はすこし性質が異なる。魔法というものはこの世に存在していない。いや、ありふれていないと言ったほうが正しい。馴染みのない概念は、当然ながら受け入れるのが難しくなる。創作上の魔法を受け入れているのは、「これは創作だから」というモード切替スイッチが人々の頭についているからだ。とはいえ、現実世界にも「魔人」「魔法使い」と称されるような人間は存在する。スポーツ選手などが思い浮かぶだろう。しかし彼らは「魔」や「魔法を使える」存在ではなく、同じ人類だ。比喩的表現。つまり、同じ時代に生きている人類とは思えないほどの所業をやってのけることが「魔法」なのだ。「高度に発達した科学は魔法と区別がつかない」という言葉を引用するまでもなく、我々は魔法という言葉に魔法性を過剰に感じすぎているせいで、自ら「魔法」の枠を狭めがちなのだ。創作上の魔法は、ファンタジーと分類されることが多いが、細かい原理を説明していないだけの超科学が常識的に利用されている世界と捉えれば、SFと同列である。
とは言ったものの、我々のような凡人が、人々の目を欺くような超科学、最先端技術を操れるわけではなかろう。習得しやすいのはマジックような技巧の類だ。現実世界ではマジシャンが一番「魔法使い」の称号に近いところにいる。なので、順当に考えれば、「マジック少女」から「魔法少女」に昇華させる線が現実的に思える――ところがここで問題が起こる。我々の知っている魔法少女は、マジック少女のすごい版ではないのだ。人のために働く、助ける、守る、攻撃する、あるいは駆けつける、着替える、契約する、それらのタイミングで魔法が行使されるのが普通だ。なのでベースの行動をそのあたりに設定する必要がある。その際の「普通のやり方」を「魔法みたいにすごいやり方」に変えることが、魔法少女の必要条件だといえるだろう。ただ、これだけでは、「早着替えをマジックと映像技術で魅せるパフォーマー」程度どまりだろう。
魔法少女たるには、「魔法」的存在である事の他にもう一つ欠かせない要素がある。ヒロイックであることだ。すなわち、何かの使命をおびている。何かを背負って、何かに突き動かされている。別に世界を救うレベルでなくもいい。ご当地ゆるキャラ並の小さな使命感でもいいから、何がしかのパッションが滲み出る象徴的なキャラだと認識されなければならない。
さて、私の陳腐な魔法少女論はここまで。あとは「自分の頭で考えよう」。長年夢見てきたあなたの中には、きっと何らかの「魔法」の種火と、小さな使命感の欠片があることだろう。あと生まれ持った体と。それらの調理法を考えるだけの話だ。理想の魔法少女像との乖離は、きっとあとから埋まってくる。最後に叱咤の一言で締めくくろうと思う。
「努力が足りないのだ」
忘れてる学生も多いと思うけど、村立増田大学(北海道)は祝日も授業日ぞな。
ところが、それを知らずに休むやつ、知ってたけど忘れて休むやつ、わかってて休むやつがわんさかいるので、講堂は毎回すっからかんぞなもし。
普通の大学でまともな神経を持っている教授なら、こういう日の講義をおまけみたいな扱いにして出席すらとらないことも多いぞなよね。
が、増大はまともな大学でなく、教授陣もまともではない。慈悲を期待するほうがバカぞな。
史学科の orangestar 教授にいたっては「この日にむしろ重要な事をやります」といったスタンス。
可愛い顔したぼっちゃんのくせに、心は筋金入りの村ウォッチャーぞな。こわいぞなもし〜。
ここに講義に出席してなかったやつらのためのアンチョコを用意したぞな。試験にでるらしい。
録音書き起こしなんで、誤字脱字あるかも。
……増田テクストに取り組む基本的な規則は、読者が暗黙のうちに元増田と「虚構の約束」を結ぶことですが、kanose はこれを「不信の停止」と呼んでいました。
読者は自分に向かって語られていることが架空の話であると知りながら、それでもなお元増田が嘘をついているとは考えないことが必要なのです。単純には、シロクマが言ったように、元増田は真実を述べている「ふりをしている」のです。わたしたちは虚構の約束を受け入れ、元増田は本当に脱糞したのだというふりをします。
自分の書いた二本の記事が数百のブクマカの手元に届くという経験をしたおかげで、わたしは、異例ともいえる現象に精通することになりました。一般に数十ユーザーズ(この数は内容によって異なるでしょうが)までは、虚構の約束をきちんと理解している村民に巡りあうものです。それ以降、とくに百ユーザーズを超えてしまえば炎上危険地帯、つまり読者が虚構の約束に通じている保証のない領域に確実に突入するのです。……
わざと音を立てて物を置いたり、壁を蹴る、スイッチを無駄に強く押す等のあれ
他所から怒りを持ってこられた時にも、これで起こっているアピールする上司がいるのだが
いったい何がしたいんだ子供じゃあるまいし
正直鬱陶しい
なんとこれ一つで落下防止と片手持ちとスタンドの役割を一気に解決してくれる。
どうやら先駆け的なブランドが2つばかりあるみたいだけど、自分が買ったのは無名メーカーで800円くらいのやつ。
リングの底が平らになっていて安定感もいい。
iPhone6plusとGalaxy note edgeの2台もちなんだけど、それぞれ付ける位置を左右に少しずらすと捗る。
裏から見て、中心より2cmほど左に貼る。
つまり画面が上向きになった時、右手方向に近い位置ということ。
iPhoneとは逆で、中心より2cmほど右に貼る。
つまり画面が上向きになった時、左手方向に近い位置ということ。
何故かと言うと、右手片手持ちをした場合、頻繁に使う戻るボタンがiPhoneは画面の左上で、androidは右下にスイッチとしてあるから。
つまりリングを右に寄せてつければ右手で画面左側に、左に寄せてつければ左手で画面右側に指が回り込みやすくなるということ。
左右逆の手にした場合は、そもそも近い位置にボタンがあるのでリングが遠くても問題がない。
ついでに言えば、横向きスタンドとして置いた時、位置の違いがあればひっくり返すだけで角度調整ができるようになる。
尚、縦位置はほぼ真ん中か、少し上くらいがいい。
なぜなら、縦向きスタンドとして使おうとした時、少し斜めになってちょうどいいし、横向きスタンドとして使った場合にも中心に近いほうが画面に触った時に転びづらいから。
さらに、スタンドを畳んでいたとしても、多少重心に差があった方が安定して寝転んでくれます。
ちなみに左右のずれを2cm程度までにしたのも、縦向きスタンドで使うときの安定を良くするため。
それ以上離してしまうと、画面を触った時にコケやすくなってしまう。
まとめると、上下は中心よりやや上くらい。
★下の子が公文に「肉」の落書きしてたから、「お前、これじゃギャートルズの肉じゃないか」とからかったら、
「ギャートルズ」という(彼からすれば)生まれて初めて聞いた単語の語感が、彼の「スイッチ」に入ったらしく、バカ受けして大笑いしてた。
調子に乗って、YouTubeのギャートルズオープニング動画を見せたら爆笑してた
たぶん、今どきの子供向にギャートルズをテレビ放送したら(再放送でもいい)、大受けするかも。
以前「ど根性ガエル実写版は子供向けにした方が良かった」と投稿したが、それとと同じ
★今の子供向けアニメって、戦隊系とかはそれなりにあるが、「ギャグマンガ系」って、流れてるのか?
妖怪ウォッチは、「ギャグアニメ」のカテゴリーからはいささか外していると思うので、皆無?
強いて言えばクレヨンしんちゃん位か?
ヤッターマンはそれに近いんだろうが、復活に失敗した、、
★ポケモンとか妖怪ウォッチみたいな「ゲーム連動」「コレクター系」の方が、
★更に書くと、ドリフターズみたいな、「シンプルに子供が喜ぶようなコント番組」が、完全に一掃されちゃったよね?
その結果、今どきの子供は、せいぜい妖怪ウォッチしかテレビを見ない、極めて「健全」な子供に育ちましたとさ
★今どき大量量産されてる「雛壇芸人バラエティ番組」って、幼稚園とか小学校低学年が見て、果して面白いのか?
そもそも、大人がみても面白くもないのだが
雛壇芸人バラエティって、「この雛壇芸人のキャラクターは、こういう奴だ」みたいな予備知識を要求される。
ツイッターのフォロワーがいい年下息子と母親で手をつないで歩いていたキッショとみたので
20世紀の終わりごろ、母が死んだ。
俺は19歳で馬鹿な浪人生で、母親に何もしてやれないガキのまま母が死んだ。
母親は腎臓の病気で、俺が高2のときに病気がわかり、そこから入退院を繰り返しながら
最後は病院で、意識が混濁して話も出来ないままの日が2週間くらい続いてから死んだ。
母はだいたい病気が分かった時にはそんなに長く生きられないってのわかってたみたいで、
暇があれば俺と街に出た。どうでもいいような服を買ってやりたかったみたいだけど、
俺は富士見ファンタジア文庫がほしかったから本当は現金がよかった。
妙に高いんだけど、どこか田舎くさいブルゾンとかまだ捨てられないで残ってる。中年太りで着れないけど。
病気だからしかたないけど、周りから見たらそんな病気にみえないよっていう人もいるたいで
腹が立った。
腹が立ったけど、俺もなんかそう思った。自分以外のしんどさが想像つかなかった。
道で俺と歩くとき、結構しんどいみたいで、でかけるのがつらいならやめればいいとしたり顔でいう俺を
こらといいながらも連れまわした。
帰りの地下鉄、7番出口からでるときが一番しんどそうで、俺は母の手をひいたりしてた。
いまだに実家帰っても7番出口は使えない。
父さんはのんきな地方公務員だったのに、母さんのために仕事の多い部署に異動して残業たくさんして
でも、それなりに中流だったから、あんまり金で苦労してなくて、自分が働いて家を出るまでは父さんの苦労とか
稼いでたすごさがわからなかったなあ。母さん病気だからもっと早く帰れと思ってた。
理解するのがいつも俺は遅すぎる。
年々母の声を忘れそうになる。子供の頃の記憶じゃなかったのに、
母さんの手を引いた買い物行程
恥ずかしかったよ母さん、そりゃ。
物心付いた時には栗をいじっていた。
いじってないと眠れなくて、気が遠くなる感じとともに眠りにつくものだと思っていた。
単に苛々する行為だった。
それが一転した。
暇だったのでエーブイを見て朝から夜まで乳頭をいじっていたら何かにスイッチが入った。
乳頭が気持ち良すぎる。
30になるまでこんな気持ちいいことに気付かずに生きてきてしまったのか。
なんなのこの気の遠くなる感じは。
体中が痺れる感じは。
自分で触ってもこんな気持いのに。
誰かに朝から夜までいじってほしい。
私は20年このスイッチのどれが廊下でどれが階段なのか覚えられずにいる。
両方一度につけて両方一度に消している。それがもっともストレスがない。
とべとべはばたけ紅孔雀
それがあだ名になるにいたったけっこう長めのストーリーがあるのだが
それも何回か尋ねているけど、聞くなり忘れてしまうのでいまだに覚えてない。
ただ、なんとなれば顔も名前も今や全く覚えてない彼女のあだ名が「はばたけ」ということだけ記憶に残っている。
それと同じでここのことを増田というのはまったく覚えられずにいる。
ネットでよく見かける「増田」って一体何なんだ!? :教えて君.net
http://www.oshiete-kun.net/archives/2008/10/post_194.html
ああなるほど。でも、たぶんまた忘れる。
30日スクワット15日目
今日は150回。本当にやる気なかったので15×10セット。 酒を飲みながらやったので特に何もない。汗を凄いかいた。
30日プランク15日目
落語家の師匠がテレビに出たいと悩んでいる弟子に対してこんな話をした。
1つ目は、美味い飯を食ったり、趣味に興じたり・・・自分だけで押せて幸せになれるスイッチ。
2つ目は、他人にほめられたり、他人に押してもらわない限り幸せと感じられねぇスイッチだ。
自分で押せるスイッチの喜びはささやかでわずかだが自分の好きなときに押せる。
とめどなく押してほしいと思うしやみつきになる。
押してもらえないと不安や不満が湧き出てくるし自信もなくなってくる。
次第にスイッチを押してもらうためならなんでもしたいと思うようになる。
そこでウケるためならなんでもやりたいと思うようになる。
自分の全てを売り払ってでも、とにかくスイッチを押してほしい!!ってな。
気がつくと大事なモノを失ってるかもしんねぇ」
「ど、どうすればそうならないんで済むんです?」
「分けるんだよ、お客さんに出すものと出さないものを。出すものが"芸"だ。
舞台に上がり続けたきゃ、ちゃんと"芸"を磨くこった」
しばらく疎遠だった従姉妹からようやく送られてきたメールは結婚の報告だった。
ぼくは従姉妹のことが本当に好きだったのだ。
2つ年下の従姉妹とは小さい頃によく遊んでいた。姉妹である母親どうしが祖父の会社で手伝いをしていたためいつもお互い連れられて来ていたのだ。
まだ幼い時の話ではあるが、親戚同士で旅行に行けばいつも二人で手をつないで歩いていたし寝る時ですら同じ布団に入っていた。
長女である従姉妹は兄が欲しくて、末っ子であるぼくは妹が欲しかった。そんな思いが一致したためか二入は本当の兄弟のように仲が良かった。いや兄弟以上だったかもしれない。
長女らしく優しいおっとりとした性格は、従姉妹をいつもにこやかな笑顔にさせていた。
兄弟の顔色ばかりみていた末っ子のぼくにしてみれば、ぼくの行動を無条件に笑顔で受け入れてくれる従姉妹は、隣にいてくれるだけで安らぎをもたらしてくれる存在だった。
ぼくはそんな従姉妹のことがいつのまにか本当に好きになってしまっていたのだ。
祖父が会社をたたんでしまったことで顔を合わす機会は減ってしまったが、小学生になっても休みになればお互いの家を行き来し、母親同士の仲が良かったこともあり旅行なんかもよく一緒に行ったものだった。
そんなある日、久々に親戚同士が集まることになった。
鬼になったぼくはちょうど目の前いた従姉妹の身体を抱えるように捕まえたのだ。
その時ぼくの両の手飛び込んできたのはわずかながらも確かな胸の膨らみだった。
従姉妹は戸惑うぼくの手からそそくさとぬけ出すと、そのまま鬼ごっこをやめて離れていってしまった。
その日を境に従姉妹は親戚の集まりから遠ざかるようになり、中学校に上がる頃には全くと言っていいほど顔を出さなくなっていた。
それからも会う機会を探してはいたものの、本当に理由を見つけることができなかった。
ただ会いたい。それだけでよかったのかも知れない。しかし、従姉妹という関係がそれを許してはくれないような気がしたのだ。
その後は人並みに女性ともお付き合いをしたが、従姉妹よりも魅力的と思える女性には出会うことはなかった。
忘れられないまま、それでいて会う理由もないままにいつの間に時間だけが過ぎ、ぼくは実に30も後半を迎えるまでの歳になってしまった。
いつまでも結婚しようとしないぼくに母親はしびれを切らせ会えば小言を並べてくる。
そうこうしている間に、とうとう母親の知人の紹介でとある女性とお見合いをすることが決められていた。
会ってみて驚いたのは、その女性はなんとなくではあるが従姉妹の面影を持ち合わせていたことだった。
その頃、従姉妹もまだ結婚をしないままだった。だが、散々に悩んだ結果、ぼくはその女性との結婚を選んだ。
結婚後すぐに子供にも恵まれ、人並みに幸せを噛み締めていた頃に悲しい知らせが舞い込んできた。
伯父である従姉妹の父親が病に倒れたのだという。しかも残念ながらその病は回復の見込みがないものだった。
母親とともに駆けつけた病室には、ぽつんと従姉妹は座っていた。
看病で疲れたためかすこしやつれて見えたが、すっかり一人の女性に成長した従姉妹はただただ美しかった。
そんな従姉妹は、ぼくに気づくと悲しさを見せまいと力なく笑ってみせたのだった。
その笑顔があまりに綺麗で、従姉妹に対して抑えていた感情の堰が音を立てて壊れていくのがわかった。
やはりぼくが好きなのは従姉妹だった。その気持に蓋をして得た幸せが間違えであることに気づいてしまったのだ。
しかし今更それをどうすることもできない。新しい命を前に、それが望まれていなかったものだなんて言えるわけがないのだ。
程なくして伯父さんが他界した知らせが届いた。
葬儀に顔は出したものの、ぼくは従姉妹に合わせる顔など持ち合わせているはずもなく、言葉を交わすことはなかった。
それから数年、従姉妹とはまた疎遠だった。それこそ連絡をする理由がなかったのだ。
ぼくは気づいてしまった真実をまた心の底奥深くに埋め戻そうと、必死で家族と向き合っていた。
そんな従姉妹から久々にメールが送られてきた。内容は結婚の報告だった。
ぼくの気持ちを知ってか知らずか、結婚式でカメラマンを頼みたいということらしい。
どこで聞きつけたのか、疎遠だった割にぼくが趣味で写真を撮っていることを知っていたようだ。
もちろん断る理由はなかった。
なぜなら、ウェディングドレスの従姉妹を、誰よりも、それこそ新郎よりも近くで見ることができるのかもしれないのだから。
その後もメールで少しのやり取りをしながら、最終的な打ち合わせは当日に顔を合わせてからということになった。
逃げ出したい気持ちがなかったわけではない。こんなに私情にまみれたままで写真なんて撮っていられるものかという疑問がいつも頭の片隅にはあった。
そうして当日、チャペルの中でホテルの関係者と打ち合わせをしていると、純白のドレスに身を包んだ従姉妹が母親に手を引かれながら入ってくるのがわかった。
挨拶もままならないままに思わずカメラをむけると、従姉妹はあの時のようにまた力なく笑ってみせたのだった。
そうして今ぼくの手元には千を超える写真が手付かずのままにデータとして並んでいる。ただ一枚、その時の笑顔が収めらた写真の調整を終えたところで、他の写真に手を伸ばせずにいたのだ。
従姉妹がこの笑顔を見せたのはこの時限りだった。それ以外の写真には感動の涙と笑顔が溢れているが、それを見るのは、ぼくにはただ辛く感じられてしまった。
式場で初めて新郎を見た時に、ぼくはハンマーで殴られたかのような衝撃を覚えた。
なぜならギョッと思えるのほどに新郎がぼくに似ていたからだ。それも顔や表情だけではない。言葉の選び方や身振り手振りまで、本当に気持ちが悪くなってしまうほどに似ていたのだ。
誤解かも知れない。独りよがりかもしれない。
でもきっと、従姉妹はぼくのことを好きでいてくれたのだ。ぼくが会いに行くのを待っていてくれたのだ。
なのにぼくは、世の中の常識だなんてつまらないことに遠慮して、従姉妹を困らせてしまうかもしれないなんて都合のいい解釈をして、逃げてしまった。
あの時、父親の病室で見せた従姉妹の笑顔は、あきらめを受け入れる笑顔だったのだろう。もう助からない父親の死を少しでも前向きに受け入れるためのスイッチが入る瞬間の笑顔だったのだ。
だとすれば、従姉妹が純白のドレスに身を包んで現れた時に見せた笑顔も同じものだろう。
ぼくへの想いと期待とを、もうあきらめたのだということを教えてくれるための笑顔だったのだ。
なんのことはない。
結局は、ぼくが一番に望むものを手放していたのは他でもないぼく自身だったということだ。
きっとこの写真を従姉妹に渡すことはないだろう。それどころか、他の誰ひとりにだってこの写真を渡すつもりはない。
10年ほど前だろうか。自分がまだ独り身の時に、お酒の勢いを借りて従姉妹の携帯に電話をかけたことがあった。
聞けば流星群を見に遠く離島へのツアーに参加しているとのことだった。
そんなぼくを疎ましくもせず従姉妹は電話に答えてくれたのだった。
「『ブクマが付かない』というのはですね、嘘吐きの言葉なんです。セルクマしないからブクマが付かないんですよ」
「?」
「セルクマしないからブクマが付かないんです。セルクマすればブクマが付きます」
「いやいやいや、順序としては『良い記事だから→ブクマが付く』んですよね?」
「?」
「自分でするんです。うんこ出そうが漏らそうが、とにかく一週間全力でセルクマる」
「一週間」
「そうすればその人はもうブクマが付かないとは口が裂けても言えないでしょう」(ここでリモコンバイブのスイッチを入れる)
「・・・んん??」
「ブクマが付いたって事です。実際に一週間も付いたのだから。『ブクマが付かない』という言葉は嘘だった」
「いや、一週間付いたんじゃなく付けたって事でしょ。うんこが出ても漏らしても」
「しかし現実としてブクマが付いたのですからブクマは付かなくなかった。その後はもう『ブクマが付かない』なんて言葉は言わせません」
「それこそ僕には無理だなあ」