はてなキーワード: アニメーターとは
京アニがアニメをやめるというのは「暴力と戦う」というお題目ができた以上やめるという選択肢はないのかもしれないでしょうが、
チーフアニメーターも亡くされたりしていてどうやって再建するのかというビジョンが全く思い浮かびません。
八田社長も高齢ですし、マイナスからのスタートをかじ取りする社長は外部から招へいということも考えないとなりません。
亡くなった方に保証金として1億円渡すとしても34億円。高度障害のある人を含めたら被害者補填だけで50億円はくだらないでしょう。
さらに、そこから会社再建の資金は同じくらいのお金と10年以上の時間がかかるかもしれません。
はっきり言って、ヤシガニとかMUSASHIレベルのものを京アニ作品と言って見せられるくらいならいっそ廃業してくれた方がと思います。
あの惨事から復帰したというだけで、どんなにひどいもの出されても批判できない空気の中で見せられるなんて、
まるで24時間テレビで自我がほとんどないレベルの重度障害者のダンスを見せられるようなもので想像するだけでつらいものがあります。
時間がたつにつれて、動ける人は生活のために京都や業界を離れざるを得なくなるでしょう。
店員が全員正社員で、しっかりした福利厚生を店員に施している牛丼屋があったら、たとえその牛丼屋の味が並であったとしても「すごい会社」ではあるだろう。
京アニも同じ。アニメーション自体の品質が高いという評価が多いが、たとえその評価が違っていたとしても、他のアニメ会社のアニメーターがアルバイトであるのに、京アニは全員正社員として雇用しながら、しっかり利益あげて経営していた。なので、アニメの品質評価に納得がいかなくても、経営の点だけみても「すごい会社」ではあるんじゃないか?
半分くらい詐欺なんじゃね?って思う。
詐欺やるんならこんないいチャンスないもん。
亡くなったのは34人だけど、入院中の人の中からわらわら退職者でると思うよ。
無傷だったのが7人とかそんなだったし。
アニメーターって職種が、長期休職が許されて、復職してからも身体に無理がない範囲でゆっくり復帰、なんてことが許されるとは思えないし。
精神的にもキツいでしょ。
それに、精神的に弱気になった人間がクリエイティブな作品作るのって無理じゃね?
誰の心も傷つけない、誰の心にも刺さらない作品しか書けないでしょ。
京アニって名前と、過去の作品の権利関係と、従業員もセットでどこかに買ってもらったほうがいいと思うよ。
マジで。
アニメーターとか演出家に興味がなく、作品にだけ興味がある一般のヲタからすれば、
その中で働く無名のスタッフ達それぞれの画風やら作風やらの違いなど判別できるわけないので、
ぼんやりとした京アニらしさが戻ってくれば、それで京アニは復活したことになる。
一方でそれぞれのスタッフの名前と画風作風が一致するような人間からすれば、
いくら似たような画風、テイストの作品が作られたところで、その間の微差がわかってしまう。
前者にとってはアニメクリエーターは「技術者」だが、後者にとっては一人一人が「作家」。
作家性は唯一無二。その人以外には手にすることが出来ない。
後者から前者を見ると、まるで技術だけを評価し、その裏にいる人間を人として見ていないように思えてしまう。
一方で前者から後者を見ると、生き残った人には「技術」を再現できないと馬鹿にしているように見えるし、
逆に「技術」が失われたことを嘆いているように見え、非人間的だと思ってしまう。
でも悲しみが大きいのは後者。当たり前だ。名前を知っている分より近しい存在と感じているからだ。
多くのヲタの京アニへの悲しみが、やまゆり園への悲しみより大きいのと同じだ。
まあだからといって自分より悲しみの少ない人を攻撃していいものではない、
自分の立場や他人の評価を無意識的に意識しているのではともやもやを感じるのも分かる。
京アニだけはああなってはいけなかった。本当に自分にとってはクリティカルだった。
ずっと、聲の形が嫌いだった。一番最初の読み切りがwebにアップロードされたその日から、ずっと憎しみをためていた。
もう何度も言われたことだろうけど、あの作品の、“ヒロインが完全に慈悲深く邪念の無い天使であるが故に成立するシナリオ”、それが本当に大嫌いだった。
耳の聞こえないヒロインが天使であるが故に成立する感動。初めて読んだ時に、頭が理解するよりも先に拒否反応が出ていたし、声を出してかぶりを振った。
障害者を聖人に仕立て上げることによって“健常者”に対して感動を産むシナリオ、それが本当に嫌いだった。
障害者は健常者の感動の道具じゃない。障害者も、健常者と同じ、人間なんだ。同じステージに立っている、同じ生き物なんだ。なのに、健常者がマジョリティであり、そちらをターゲットにした方が“売れる”というただそれだけの理由で主人公を健常者として設定し、障害者を健常者にとって都合のいい操り人形にした編集、作家、その作品、そしてそれに陳腐な感動の涙を流した読者全員が、本当に嫌いだったし、だけどその嫌悪感が圧倒的にマイノリティであるという事実が本当に悔しかった。
聲の形が大嫌いだった。
聲の形が京アニでアニメ化された時、自分はほとんど嫌悪感からその事実に目を背けていた。
youtubeとか、まとめサイトでサムネイルだけはちらりと見えてはいたが、クリックすることはなかった。クソみたいな漫画のクソみたいな焼き直しだと思っていたから。京アニのきれいな作画にのみ裏打ちされた身の丈に合わない虚構の評価を精々貪るがいい、なんてずっと思っていた。
やがてブームが去った。聲の形の話題を出すマジョリティは数を減らし、やがてほとんど語られなくなった。それに比例するように自分の心のざわざわも減っていった。
これで平安になると思った。やっとそう思うことができた。実際、しばらく自分の心は穏やかだった。聲の形のことはすっきり忘れて、自分自身の本来の生活に戻っていった。
なのに、燃えた。
燃えて、その瞬間的な衝撃が時間とともに和らいでいったあと、思ったのは聲の形のことだった。
聲の形の、悲劇性のともなった障害者が物語のメインとして登場するにも関わらず、結局はすべて健常者の視点で世界が説明され、健常者のカタルシスを得るかたちで幕を閉じるあのシナリオが、本当に大嫌いだった。
でも、わかっていた。その主張は、どこかの著名かつ善良な障害者が、「でも、自分は好きですけどね、聲の形」なんて発言すればすぐにガラガラと崩れ去るものだということが。なぜなら、当事者の意見だから。外野がいくらわめき散らしても所詮外野で、話のど真ん中にいる人間の言葉には勝てないし、そもそもその言葉そのものが真理じみてしまうから、勝つ勝てない以前の問題になってしまう。それくらい、当事者の言葉は強い。
京アニがああなって、京アニに一種の人格じみたような物が形成されたように思う。
京アニを構成する人々の声、とかじゃなくて、京都アニメーションという会社そのものが、あれを期にひとつの生き物のようなオーラを発散しはじめたような気がする。皆、事件の“被害者そのもの”のことを気にかけるよりも、その人たちが失われることによって京アニにどれだけの“損害”が出ているかのほうばかり気にしている気がするからだ。エリートアニメーターがどうだ、監督がどうだ、アニメの資料がどうだ、京アニの歴史がどうだ、そんなことばかり話題にあがり、“被害者そのもの”を気にかけているのはその人たちの親類ばかりだ。人々の存在そのものが希薄になっている。だから相対的に、そういう意味において、京都アニメーションは被害者の誰よりも人間らしい。
聲の形は障害者を身内に抱え込むことに成功し、箔がついた。今後、京アニがどうなったとしても、その箔は一生はがれないだろう。とんでもない悪に身を染めていました、なんて事実が出てこない限り。
だから今後京アニ作品は、少なくとも評価が下がることは無い。悲劇性のともなった障害者を目の前にすると人間は冷静な判断をすることができないからだ。そしてそれは聲の形のヒロインを見て涙を流した圧倒的多数の読者たちと同じだ。
国内最高峰のアニメーターが殺されたからひどい事件なのでなく、単純に人の命を一方的に奪う行為は許されざる事件だ。
それが一人で二人であろうと、交通事故か放火か刺殺か関係なく、命を奪われると言うのは理不尽で許されないことだ。
しかしSNSで見ていると、前述の通り「実績と未来がある若者が多数殺された、許せない」と言う声が圧倒的だ。
それは「殺されても良い生命の種類と数」を無意識に想定していることと同じだ。
それについて指摘したら袋叩きにあい発言の削除にまで追い込まれた。
専業主婦だろうが、正規社員だろうが、非正規だろうが、毎日を積み重ねて生きている。
それを謂われなく奪われる事自体が許せないと言いたいのだが、それは逆に「実績と未来がある若者」が殺されることを肯定しているように取られるらしい。
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もう一つ違和感があると言えば、犯人に関する情報が出されていなかった時、在日、ないし半島の出身者であると断定する向きも多かった。
それだけ一連の騒動で反感が溜まっているのは分かるが、その後、被害の大きさが明らかになるにつれ、犯人を残酷な方法で殺せと言う声も大きくなってきた。また例え心神喪失で責任能力がなくても極刑に処すべきだと言う声もまたよく見かける。
事件の凄惨さを理由に法を超えた処罰を望むのは、まさに情緒を憲法の上に置く国民情緒法に支配されている韓国のやり方なのだが、韓国に反感を持ちながら、その韓国と同じ国民情緒法で犯人をさばけと言う声にも違和感を覚えた。
先進国として、法治国家として、その国民として、法に従って法に基づいて裁かれるべきだと思うのだが、やはりこの考え方も袋叩きにあった。
自分も韓国は反吐が出るほど嫌いだ。盧武鉉時代からの熱心なアンチだ。だからこそ正義と情緒で人をさばく韓国のやり方には絶対に同意できない。
粛々と法にのみ従って犯人は裁かれるべきだし、心神喪失として責任能力がないと判断されれば不起訴になるべきだ。そしてセーフティーネットによって守られるべきだろう。遡及法を作ってまで厳罰に処す等もってのほかだ。
法が間違っているというのであればそれこそ選挙を通じて、凶悪犯罪に対する刑罰を変えることを掲げる議員を国会に送ればいい。
ただそれもどうしても理解されないらしい。
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今回の事件を許されない殺人事件として扱い、しかし特別な事件として扱われるべきではない。
裁きは現行法に基づき公平に行われるべきだ。
末端のアニメーターです。
今回の事件は京都アニメーションだけでなく、業界全体に本当に大きな事件です。
しばらく傷は癒えることはないだろうし、深い傷跡としてずっと残ると思います。
アニメーターはフリーランスが多く、会社に所属してる人もいますが、
基本的にはあちこちの会社に席を移して仕事しています。だから業界全体でひとつの会社みたいと言われている。
京アニは基本社員ですが、ゆくゆくはフリーランスになる人も多いです。
きちんとした人材育成の基に教育されたその方々は、各会社の作品作りに大きく貢献しています。
今現在他所で活躍している京アニと関わりと会った方々の心のダメージも計り知れません。
何より同じ志を持った沢山の人達がこんなにも無残な形で亡くなってしまったこと、
本当にショックです。
私達には何もできない。
この事をずっと受け止めきれない。
どこの局でもいいけど、地上波のゴールデンタイムに京アニの過去の作品を放送するべきだと思う。
それくらい大きな事件だし、普段アニメを見ない人に京アニがどれだけ素晴らしい作品を作っているのか、そしてどれだけ大きなものを失ってしまったのかを理解してもらう必要がある。
それに、普段アニメを見ない人が見てファンになれば、グッズが売れて京アニにもお金が入る。いくらテレビがオワコンだと言ったって、地上波のゴールデンなんてかなりの数の人が見ている。今回の事件で注目度も高いだろうし、ちょっと見てみようかなって人も結構いるはず。視聴率も取れるし、賛同してくれるスポンサーも多いのでは?
グッズを買ったり募金をするのもいいけど、それよりも京アニの作品をもっと広めて、1人でも多くファンを増やすことこそ、京アニのためになるんじゃないんだろうか。
京アニの作品を子どもからお年寄りまで多くの人に見てもらって、日本中の誰もが京アニの作品について語れる社会を作ることこそが、京アニを壊そうとした犯人への最大の復讐になると思う。
そして、こんなアニメを作りたいとアニメーターを志す人が増えれば、今回亡くなった方々も少しは浮かばれるはず。
犯人は絶対に許さない。だからこそ、京アニ作品の素晴らしさをより多くの人に知ってほしい。
犯人への憎悪を叫んでるヒマがあったら、京アニの素晴らしさについて語るべき。
そして、そのためにもテレビ局は地上波ゴールデンで京アニの名作を放送するべき。
個人的には『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』がいいかな。来年には劇場版も公開されるし。
あと、1週間前に立川シネマシティの極上音響上映で見たばかりで熱が冷めやらないから、『響け!ユーフォニアム』もやってほしい。
『中二病でも恋がしたい!』は好きだけど、ゴールデン向きじゃないよな。
信者が作画至上主義で他のアニメを貶すし、意識高い系で鼻についた
だから放火で大変らしいと聞いただけの時は、これで京アニが失速したらウザい信者も懲りるかな、とか思ってしまった。すまない
でも火事の映像を見て、死者が出ていること、さらに増えていることを知って肝が冷えていった
あれだけのアニメーションを作るために、どれだけの労力と時間と情熱が注がれてるかは想像できる。
アニメーター1人を一人前に育てるために、作品1つを仕上げるために、それを事業として会社を経営していくためにどんな苦労があったかは想像できる。
それが死者34人、スタジオ1つが全焼。犯人の動機は小説をパクられたから?
今まで費やされたもの、亡くなった社員達が築いてきた人生、磨き上げてきた才能と技術
そしてこれから作られるはずだったもの、それを世界中の人が見て感動して、感性に影響を受けて新たに生まれたかもしれない可能性
宮崎駿だって最初は1人のアニメーターだった、未来の巨匠を失ったかもしれないというのは誇張じゃない
それが何もかも全部、灰燼に帰してしまったのがやりきれない
京アニの会社理念は「人を大切にし、人づくりが作品作り」だった、らしい
人の心を打つ美しいものを創れば世の中を良くできる、そう思っていたと言いたげに
そういう理想みたいなのは、俺も思った頃があった。良い作品に触れて幸せになる人が増えれば、心が豊かになれば皆もっと優しくなれるだろうと
んなこたぁないと、どうしようもない奴らばかりで自分と家族を守っていくだけで精一杯だと割り切ったつもりだった
でも火災現場を見て、理想や善意も心無い人間に踏み躙られてしまう現実の無情さを改めて突きつけられて、まいった、堪えた
俺もアニメに現実逃避してたんだろうな。ああいう創作の世界は現実からは侵されない、色褪せない夢のようだと信じてたのが、真っ黒な焼け跡を見て覚めた
もう京アニのアニメを昔と同じ気持ちでは見れない、という話も分かる
アニメ界の911なんて表現も大袈裟だとは思わない。見慣れた景色が前と同じに見えない感覚は911や311の時と同じだ
こんなことがあっても社会や日常は続くし、一番堪えてるアニメ業界の人達も立ち止まらずに作り続けるしかないんだろうけど、ほんと、あんまりだろ・・・
アニメーター、男性アイドル、女性アイドル、お笑い芸人、力士たち(アスリート、漫画家、俳優、ミュージシャン)をそれぞれ助ける方法がないものか…。
本人の暴力沙汰や薬物投与、反社会的交流、強制性交、飲酒運転といった自業自得なら助けることが不可能だったりするだろうけど、渦中の人物本人の責任ではないケースも散見される。
能力もあり元気を皆に授けてくれる人が、異常な出来事の中で力を奪われ、中には命まで絶たれる人も出てきている状況がやるせない。
報道機関各位にお願い。
京都アニメーション放火を取り上げる際に、「どうせアニオタの仕業だ」「アニオタは理解不能」「アニオタとアニメ会社の閉ざされた世界での事件」「ゲームやアニメ好きは犯罪者予備軍」「近所のアニオタは要警戒」みたいな論理展開は厳に謹んで頂きたいと思います。— 永山久徳 (@h_nagayama) July 18, 2019
被害に遭われたアニメーターの安否を心配するよりも、自分達が犯罪者予備軍と言われるかどうかの方を心配してる事がよくわかるツイートとそれに対する反応(笑)
正直、例えば自分の会社とか他の無名アニメスタジオだったらここまで話題になってない
それはそれで理不尽かもしれないけど
良いもの作って会社もまじめに運営してて、スタッフも真剣に取り組んでるのが皆わかってたから
それを壊すのは頭に来るんだよな
京アニの犯行に対する傍観者の反応に危険なものと嫌悪感を感じたんで書く。
Twitterを見ていると世界でも最高峰のアニメーター33人だとか、日本のアニメ産業の根幹を揺るがす事態だとか、戦後最悪の放火殺人みたいな反応ばっかだ。
確かに彼らの作品は素晴らしいし、多くの人を救ったともいえる。
しかし、それでもこの言い方は間違っている。
経済とか数字上での被害の凄惨さを周知するのはマスコミにでもやらせればいい。
人の死を被害額やら人数の大小で語るのは、人を数でとらえるということ。それでは強制収容所の管理人と同じだ。
お前の親友、恋人、家族、親、子供、だれでもお前に近しい人にお前はそんな言葉をかけるのか。
彼らの業績のすばらしさはもちろん分かってる。だがお前は彼ら一人一人を、作品で価値づけるのか。
私たちは、一人一人の被害者を、33人という均質な集団ではなく、ひとりひとり名前を持つ33の個人が33通りの殺され方をしたと考えるべきだ。
想像力を働かせるんだ。ある名前を持ったひとりの人に、その人の死に、お前が向き合うんだ。大衆を煽る必要はない。お前なりに一人一人と真剣に向き合う、一人一人を真剣に痛むことが大切なはずだろ。
最後に引用して終わる。作者の石原吉郎はシベリアで収容所生活を送った経験を持つ。
望郷と海
ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかにひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなけらばならないものなのだ。
例えば多数のファンを持つ球団であったりアイドル、オタク向けビジネスまでありとあらゆるビジネス形態が対象だ。フォロワーの多い貴方も対象に含まれる。
ファンがつくことで確かに安定した利益が発生する。しかし今回の事件で明らかになったことは「ファンは自分を愛するがゆえ、ちょっとした勘違いでも憤慨し、自分に殺意を向ける可能性がある」という事実だ。
私たちはこの事件を通して、愛は深いほどたやすく憎悪に変わりうることに気づいたのである。
元恋人によるリベンジポルノから、某有名アイドルへの嫌がらせ、著名ブロガー殺害、そして今回の京アニ放火テロまでの流れは「ファンビジネス」への警鐘ではないだろうか?
残念ながら利益がすべての経営者もいる。建物のセキュリティーがいかに完全であっても熱烈なファンを抱えた時点でアウトである。すべてのファンを抱える者にとって、いつ自分が殺されてもおかしくない時代といえないだろうか?
身の安全は自分で守るしかない。誰も助けてはくれないと厳しく考えるべきだと思う。経営者は社員や自信の安全のためにむやみにファンを作らず、極力組織や利害関係から距離をおくべきだ。
自由に暮らし、余計な人間と関わらず、好きなことを誰の目も気にせず満喫する「無敵の人」は案外、最も安全で幸福なのかもしれない。
インスタグラムも「いいね」機能の廃止を検討し、テストを開始した。人がむやみに繋がりすぎる社会の弊害が現れている。
身の安全のために今すぐできることは何だろうか?
・熱愛ファンを作らず、適正温度の人間関係を維持するために、ある程度ファンを減らす「フォロー外し」を行うこと
・自身の愛され要素を改めて棚卸しし、いかに愛されないか方策を練ること
・経営者であれば行き過ぎた「ファンビジネス」「ブランディング」「差別化戦略」は、自社の社員や周りの家族への殺人的暴力になりうるという認識を持つこと。そして、「愛されすぎないファンビジネスのかたち」を模索すること
より根本的な経営上の問題、避けられる問題が隠れていることに少しでも多くの人が気づいて欲しい。
「予定していた新作を出す」だけならそりゃ引き継ぎはいくらでもできるだろうけど、名のあるアニメーターがその先に手がけていたかもしれない作品は永遠に失われたんだよ
今後、宮崎駿や新海誠並みのヒット作を手がけたかもしれないし、彼らが将来スーパーアニメーターを後継として育て上げられたかもしれない
それが永遠に失われた