はてなキーワード: アニメーターとは
というようなブコメが貞本義行らの炎上に対してついているけど、個人的には彼等こそ現代において「技術的に上手い絵」を追究する真のアーティストであると思う。
文脈がどうの、政治的なメッセージがどうの、というのは彼等からすると追究すべき技能〈アート〉から逃げた半端者でしかない。
コンプレックスではなくむしろ技能者としての圧倒的な自負こそが彼等をトリエンナーレに対する批判に駆り立てているのだと思う。どんなに高尚なメッセージが込められようが技術的にみるべきものがなければそれはゴミなのである。
彼等にとって言論において全く不器用であることはむしろストイックさの表れたいえる。
だからなんだっていうと、とにかく絵が上手いのが取り柄の人達に人間的立派さを求めても不毛なだけだし反省させて謝らせようったって無駄だよ~という話である。
篠原?とかって人は政治的表現の手法において貞本氏より上等かも知れないが、絵の魅力は足下にも及ばないので、なんら貞本氏にダメージを与えることはできないのではないかと思う。
1)
いや、専門家の批評・論評も、素人の「このアニメつまんね」の一言も、どちらも作品に対する評価だよね、というだけの話で。
もちろん議論していただくのは構いませんし、一方で別に議論しなければならないわけでもない、プリミティブな感想で済ますのだってアリでしょう?と。
2)
teebeeteeさんは「手法」「技術」「様式」あるいは「文化」のような言葉が妥当である様に仰いますが、「いつものやり方」といった意味を持たせたい場合、(「手法」ではなく)「風習」という語彙の選択は、それほど無茶苦茶な事でもないでしょう。また、例えば「慣習」であればteebeeteeさん的にOKだったのだろうか?という事も気になります。辞書的には、あまり意味の差はないようですが。
それと、嫌韓の人たちが使っている言葉なので、「かの国」は問題のある言葉である…の様な考え方は、とても真っ当な思考だとは言えません。完全に順序が逆転しています。
恐らく、貞本氏のツイートには『“かの国のプロパガンダ風習”っておかしいよね』の意味が含まれているとは思いますが、では例えば『A氏のスキップって変ちくりんだよね』と言った時、それはA氏という人物全てを否定した事になるのでしょうか?と。
敵愾心について。その内容、またはもたらす影響力の大きさによって、思想・表現が「絶対悪」にされる事こそが「価値観の自由競争(市場)」に反する、正に「表現の不自由」ですよね。『「表現」はどの様な「影響」を与えてもよい』というのは最早、前提レベルです。
teebeeteeさんがその様にお考えかどうかは分かりませんが、『「とある表現」は悪影響がある』みたいな考え方の時点で、思考が捻転してると気付くべきです。それを「悪」と設定するのも、「別のとある思想」以上のものではないのですから。せめて『私にとって都合が悪い影響がある』と言うべきでしょう。
もちろん、あくまでteebeeteeさんの中では「悪い事」だ、という限りにおいては、特に言う事はありませんが。同様に、人道なんてものも(ぶっちゃけ武士道だの騎士道だのみたいな存在ですし)、普遍的な規範として掲げず、teebeeteeさん個人それとしているに留まるならば、やはり特にこちらから言う事はありません。
3)
まず貞本氏の『現代アートに求められるのは、面白さ!美しさ!驚き!心地よさ!だ』という考え方があり、それに対してブコメで『貞本氏は現代アートへの理解が浅い』といった様な批判がある、というのを踏まえての話です。
つまり(teebeeteeさんも貞本氏の「現代アートに求められる」の事をあまり一般的ではない、と仰っていたが)、『「もっとアートに親しんでほしい」的なイベント』としては、むしろ貞本氏の様な理解こそが本流であって、「不自由展」のようなものの方が異端ではないの?という話です(別に異端だから即、展覧会から排除せよという話ではない…もちろん不人気ゆえに淘汰される事はあると思うが)。
4)
という事は、例えば「このアニメつまんね。もっとxxxな感じだったらよかったのに。」といったものは「独善」だ、という事ですか?だとしたら、それはやはり極々正当な「独善」ですよね。
先に述べた通り、貞本氏のツイートに「潰す(中止・撤回させる)」といった意味は見受けられません。また「運動」(抗議活動)によって中止・撤回させよう!…といったものでもありません(そもそも現時点でそれをする意味はないが)。
“自分の興味や許容範囲を芸術祭に押し付けていいのは、正規に専任された芸術監督だけ”というのもおかしいです。むしろ逆に、すべての人が正当な需要の発露として“押し付け”てよいはずです。
北海道物産展(別に北海道じゃなくてもいいけど)のラインナップは、確かにバイヤーさんが「キュレーション」したものかもしれませんが、だからといって客や客予備軍が『あの店は良かったし、あの店はイマイチだった、もっとこんな感じの展になって欲しい』『この程度の品揃えでは行きたくならない、xxxとかあればいいのに』と、その需要を発露してはならないなんて事はないでしょう?まぁ、あれらの場合はもっとダイレクトに売上が物語ってしまいますけれども。
またそれが、店頭で、あるいはSNS等で「この店は相応しくない!閉店すべし!」といった抗議活動を行う事とも全く違う、という話も理解できますよね?
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後、納得したというより、やはり「風習」の解釈は考えすぎだと思うが、teebeeteeさんが「風習」という言葉にそのような意味を見出したため、そう感じる事になったという事については、あくまでteebeeteeさんの内側の話であり、こちらから文句を言う筋合いはない、teebeeteeさんの勝手である、という話ですね。
一方で、これはteebeeteeさんに向かって言うわけではないのですが、感想が「事実化」する、という現象には気を付けたほうがよいでしょう。
例えば、『貞本義行は差別主義者だ(と思う)』という自身の内側で熟成された感想でしかなかったものが、https://b.hatena.ne.jp/entry/4672773449994362818では既にいくつかのコメントにおいて「事実化」しており、『差別主義者が言い訳している』という見方しか出来なくなっている様子が観測できます。
また、
中韓アニメーターは所詮下請け扱いでまともなクリエイターとして見ていないんでしょう。そうでなければ「かの国の」などと国民全体を侮蔑するような表現は使わないはずです。— aschheimm (@aschheimm) August 9, 2019
貞本義行氏の件のツイートのどこに悪意を感じるか貞本さんのツイートはBBCの特集で話題の「犬笛」表現に加え、女性蔑視、ルッキズムやI have black friends論法も同時に使ってるので、差別主義者の典型表現がふんだんに詰まった文章になってるんですよね。2019/08/10 06:36
も紛うことなき「事実化」ですが、まずこの「犬笛」判定が「エスパー」と紙一重である事には注意された方がよいですし、また「犬笛」か「エスパー」かに関わらず、記述されていないそれを責めるという事は、つまり内心への糾弾である…という事くらいは認識された方が賢明でしょう。
【辛い描写が出てくるので閲覧ご注意ください】
京アニの事件があった。あれから、友人に連絡が取れない。既読のつかないライン、夢に出てくる彼の顔、10分置きに被害者リストと検索をかけている。
多くの人が、今日アニのために祈っている。多くの人が、募金箱にお金を入れる。多くの人が、「生きて真相解明を、生きて罰を」と望んでいる。多くの人が失われてしまった京アニの財産を悼み、多くの人が有名な監督の安否を気遣う。それは当然のことで、現実的なことで、そしてとても尊いことだと思う。
そのうえで、僕はこの文章を綴る。
なお僕はこの事件のずっと前に、人を焼死というかたちで失くしている。最後の吐息を、苦しむ様を、肌を、僕は知っている。それがどれほど凄惨なものであるかを、知りたくもないのに、僕は知っている。
僕は彼が好きだった。彼が夢を叶えるためのあの場所に、どれほど頑張ってたどり着いたか、どれほどの夢を見ていたかを僕は知っていたし、彼の仕事への姿勢を、僕はとても尊敬していた。一緒に作り上げてきたものがとても素晴らしいものであったことを、僕は誇りに思っている。
こんなことを言うと怒られるかもしれない。でも、僕は、彼が「著名な人間」ではなくても彼を愛していたし、彼が彼の仕事をしていなくても彼のことが大好きだった。
多くのアニメーターさんの命が失われた。文化の消失であり、文明への許せない反逆だ。
多くの人が僕と同じように苦しんでいる。34人の方々の、怪我をされた方々の近しい人たちが、みんな苦しんでいる。直接に関わりのなかった人も、心を寄せ、その無事を祈っている。だから僕は、決して僕が僕と分かる場所で、この言葉を吐きだすことはしない。だってそれは、「35人の方々の、怪我をされた方々の」近しい人への暴言になるかもしれないからだ。
でも、ここでだけ言わせてほしい。
文化や資料の損失、それに思いが至らないくらい、僕はただ、個人でしかない、僕の友人のことが、ただ心配している。その無事を祈っている。
有名な監督の安否を心配する声が流れるなかで、僕はただ、「一個人」であった、まだ名前も出ていない彼の安否を願って夜をすごしている。優秀な技術者だったから、彼を、彼たちを、彼女たちを心配しているわけじゃない。名付けられないスタッフひとりひとりに、その無事を祈る人間がいる。そのことを、どうかだれかひとりにでも知ってほしい。
多くの人が京アニのために募金をし、その再建を祈り、願い、思いをはせている。とても尊いことだと思う。多くの人が「お金では何も戻らない、でも何かせずにはいられない」と考えて、お金を入れている。僕ももちろん入れた。
だけど、多くの人が言っているように、京アニが復活しても、そこには34人の姿はない。
これは決して、「募金をするのが無駄だ」とか「偽善だ」とかじゃない。入れている人達の多くが、戻ってこないことを承知で、それでも自分にできることを探して、大切なお金を入れている。それが前を向くための力になることも知っている。
だからこれはただのやるせなさとどうしようもなさと無念さで言うのだけれど、人の命はお金では買えない。戻ってこない。決して。それにどうやって折り合いをつけたらいいのだろう。
今まで何度もこの言葉を聞いた。僕はそれをわかっているつもりだった。でも、全然わかっていなかった。被災地に、犯罪被害者の方々に届けと入れてきた多くの募金は、それでも僕にとっては「他人事」だったことに気づく。本当にごめんなさい。
選挙のこともほかの芸能ニュースも、申し訳ないけれど、僕にはどうでもいい。だって彼らは生きている。選挙には行ったけれど、世の中のあらゆる動きは、僕にとってはどうでもいい。それらにもとても大切な意味があるということを、今の僕は「知って」はいても、どうしてもクリアには「感じ」られないのだ。
犯人について
犯人の話も出ている。よく見るのは
1.犯人の背景の話
2.生きて償え、生きて真相を語れ
3.これから二度とそんなことが起きないようにするために、対策が必要
という3つだと思う。
1については正直、どうでもいい。犯人の背景にどのようなものがあろうと、その男が全き加害者で、京アニの人達が全き被害者であることは間違いがないからだ。精神障害があった? 苦しんでいた? それがなんだというのか。それによって差別がうんぬん、という話すらどうでもいい。
その男の背景に思いを馳せてその男を許そうとすると考える人がいたとして、そしてそれが今回の件のご家族なのだとしたら、僕はそのご家族の勇気に敬意を表したいと思う。
そうでなければ黙ってろ。その男の背景を持ってその男を擁護する人には、夢を希望を奪われ、苦悶と壮絶な痛みのなかでもがき苦しみ、喉がやけて息ができなくなって、「なぜ」の声も届かないまま死んでいく己の家族を見ても言えるのかと聞きたい。
こういうことを言うと、「仮定の話をしても無意味だ」と言う人もいるだろう。だが、「仮定の話」を考えることができないのであれば、その人は想像力と共感力の欠けた化け物なのだと僕は思う。
2はよく見る意見だし、僕にも分かる部分がある。僕と同じ立場の人でも、このように望んでいる人もいるだろう。ただ、それでも、僕はあくまで僕だけの考えで言いたい。今まで一度も言わなかった言葉で、僕ははっきりとこう言いたい。「死ねばいいのに」ではなくて、心の底から言いたい。
「どうか、死んでいてくれ」。
「刑罰を受けなければならない」「神格化されてはならない」「真相を究明しなければならない」という意見は本当にその通りなのだけれど、僕はあの男がたとえ生きていたとしても、僕たちが望むような刑罰も、僕たちが望むような真相も、齎されることはないと思っている。
日本は法治国家だ。だから僕は、その男が拷問によって死ぬべきだとは決して言わないし、その男の家族に累が及んではいけないと考える。だが、そうである以上、あの男に下されるのはたとえ死刑判決であっても安寧に満ちた「首吊り」という終わり方に過ぎないのだろうし、そしてそれが実行されるのは何十年も後のことになるだろう。
真相などない。狂人に真相などない。そしてたとえ真相が語られたとしても、亡くなった方が生きて帰るわけじゃない。亡くなった方は声をあげることもできずに命を引き取ったのに、なぜあの男にだけ法廷で声を挙げる権利が許されるというのか。なぜ、自らの、けったくその悪い最低最悪の言葉を、「真相」という言葉で語ることが許されるのか。死刑廃止論とかそういう議論に使われるのもごめんだ。私怨で構わない。
死んでくれ。死んでいてくれ。死んでいてくれ。どうか、死んでいてくれ。
これから二度とそんなことが起きないようにするために、対策が必要
3の意見もよく見る。たしかに正しい話だし、二度と同じことが繰り返されてはならない。再発があってはならない。
でも、この言葉を語る人に、反論ではなくて、ただ本当に純粋に聞きたいのだ。
「セーフティーネットや孤独を感じる人へのフォロー、世界が裕福になったとして、本当に『狂人』が現れないと思いますか?」と。
孤独が人を狂わせることはたしかにある。セーフティーネットがあれば防げていた事件もあるだろうし、実際に防がれたこともあると思う。そういう意味では、これは有効だ。
だけれど、どのようなきめ細やかなネットであっても、そこから漏れる人は必ず出てくる。ネットに引っかかっていたとしても、犯罪を起こす人間はいる。
今回の事件は、「社会が悪かったから」起こったんじゃない。社会がよくなっても、事件を起こす人間はいなくならない。
それに、亡くなった人は、「次の事件が起こらない布石になるために」死んだわけじゃない。このような発言をする人も、決してこんな意味で言っているのではないと推測はできる。
歌の歌詞ではないけれど「意味のない悲しみはないと思う」と僕も願いたいし、今までずっとそう思って生きてきた。そしてそうすることが、この痛ましい事件から立ち直る方法のひとつだとしても、それでも僕は、「対策」から外れる人間がいることも知っているし、このような事件がまったく起こらなくなるわけではないと知っている。
「今回の事件から学ぶ」「二度と同じ思いをしない世界へ」これはたしかに意味のあることだ。
だけれど、「今」亡くなった人は、二度とかえってこない。
その言葉をネットに流す意味を、「今」亡くなった人がいた・その人を愛しく思う人達がいるネットに流す意味を、どうかお願いだから考えてほしい。
残された人のこと
未来を夢を希望を一方的に奪われた犠牲者の悲しみを、僕は決して「分かる」なんて言えない。言える筈がない。僕が思いを馳せられるとしたら、「残された人のこと」だけだ。
楽しく語り合った時間、一緒にとった写真、ともに作り上げた作品。それらはすべて優しくて面白い思い出の筈なのに、一番つらい記憶と重なることの残酷さを僕は思う。思い出となるものが、一番苦しい記憶に重なって、そしてそれは決してなくなることはない。思い出が鮮やかであれば鮮やかであるほど、夢と希望と命を奪われた愛する人の胸を苦しみを思い出してしまう。
僕は人の死を何度も見てきた。だけれど、「だれかに、理不尽に、奪われた命」は、また違う意味を持つ。命の尊さやご家族の苦しみに優劣や軽重はない。それはわかったうえで(僕自身も、それの経験者だ)言う。故意に、だれかの手によって、理不尽に、身勝手に、苦しみを持って愛する人を奪われたことの慟哭は、その人と紡いだ楽しい記憶さえ蹂躙してしまうものだと。
もうひとつ。
僕は彼と、随分「大人」になってから知り合った。子どもの頃からの付き合いとは異なり、多分彼の交友関係もまた、彼の家族はそれほど明確に把握はしていなかったと思う。
だから、彼の名前が公式で発表されない限り、僕は彼の安否を直接的に知る方法はほとんどない。あらゆる方法で連絡をとったけれど、ご家族がそれを目にして、そしてご返信をされない限りは(当たり前のことだけれど、それを強制するわけではないです)、僕は彼の本当の安否を状態を、知ることができないのだ。
これはとても難しい問題だと思う。「被害者の名前を公開するな」という気持ちはもちろんあるだろうし、それは責められるべきではない。被害者のプライバシーは守られるべきだ。だから僕は、僕のところに連絡がなくても、それを批判はしない。
ただ、心配なだけだ。ただ、安否が知りたいだけだ。そして、「それがしれない環境」をどう打破していいのか分からず、毎日夜を過ごすことしかできないでいる。
これからのこと
「本当に友人だったらこんなことを書ける精神状態じゃないはずだ」「事件にカコつけてみてもらいたいだけ」「自分に酔っている」と思う人もいるかもしれない(たとえ匿名であっても)。ただ僕は彼のプライバシーを書く気はないし、また僕も「僕」としてここに綴るつもりもない。酔っていると言うのならそうなんだろう、こんなつらい話、いつもの精神状態で、いつもの語り言葉で話せるわけがない。ただ、書いていて、吐き出して、それでいい。僕は僕自身が落ち着かないということで、これを書いているだけだ。
僕は彼からの連絡を待つ。それ以外にできることはない。ただ、そうはわかっていても、僕は何度も被害者名を調べる。身勝手なことだ。ほかのご家族やご友人だって同じ気持ちでいるのに、僕はその「被害者名」のなかに彼がいないことを願って、ずっと調べているのだから。
ただ知りたい。彼がどうしているのか。彼が今何をしているのか。「覚悟を決めなさい」と言われたけれど、それでも彼の無事を祈り、僕は彼の連絡を待っている。
京アニを、なかにいた人を愛していた人たちの「心配」「何かできることを」の気持ちを、この吐露によって傷つけてしまったとしたらごめんなさい。「心配」「祈ること」「自分達ができること」をやりとげる人達に、心から敬意を表します。僕はまだ、現地にいけません。心が追い付きません。まだ安寧を祈るところにまでたどり着けていません。僕自身の未熟さゆえの話です。「安らかな旅路を」とさえ、まだ祈ることもできない。あまりにもむごい事件だったから。
僕はこの事件を、政治的な解釈と結びつけたくはないし、陰謀論も知りたくありません。ほかの犯罪や事故との比較もいりません。僕がこの事件に、今まで接してきた事件のどれよりも深くショックを受けているのは、社会的道義や主義主張などの話ではなく、ただただ身勝手に、僕個人として、僕の友人が心配だからです。僕は僕の怒りを憤りをやるせなさを、社会的道義や社会的倫理観に代えることはしません。犯人の背景や思想もどうでもいいです。ただ友人の無事を祈ります。
僕は仕事をします。彼は僕の仕事のやり方を好きだと言ってくれていたから。だけれど、日常に戻れない人にも僕は寄り添いたいし、寄り添われたいと思います。
「被害者のなかに、実際の知人・友人・家族がいる人」と、「京アニという会社を、なかのスタッフを画面を通して心から愛していた人」と、「痛ましい事故に心を寄せ、自分ができる限りのことをしようとしている人」との間には、たしかにどうしても、どうしても、どうしたって越えることのない、仕切りはあると思います。あります。
その仕切りがあっても、だれもが祈り、願い、心を馳せることの尊さは、決して変わりません。喜びは分け合うことができても、悲しみは分け合うことはできない。でもそれでも、僕は人が持つ人の可塑性を、人の持つ人への愛情を信じたいと思います。その可塑性が亡くなった人にはもうないのだとしても。残された人間にしか感じられないものだとしても。
(また、これはあくまで「人間」を対象としているので、人間ではないあの男に対しての言葉ではありません)
読んでくれてありがとう。
同僚のアニメーターあげつらって「まだ生きてる」とかの二次被害やるぞこいつ
事実で悪気もないとしても絶対やっちゃいけないことを平気でやる
あとで知りませんでしたって謝ればいいとおもってる
悲惨の事件、前代未聞、単独殺傷事件での死者数過去最多…なので、多分どうやって考えればいいか分からなくなっている部分がある。
一つの事件を一つの視点で考えることは、どんな犯罪においても違うとは思うのだが、
事が事だけに混乱しているメディアや書き込みが目立っているような感覚を持つ。
なので一つ一つを整理していくべきだ。冷静に。犠牲者に悲しみを持って。
まず最初に、大勢の人間の命が失われたことについて考えなくてはならない。
これが同じ人間としてまず考えるべきことであり、これが考えられない人に以下を考える資格は無いとすら思う。
なんの罪の無い人たちが、殺されてしまった。いまだに入院している人もいる。怪我人も多い。
居合わせた74人のうち無傷だったのは6人だけ。
我々はまず、悲しまなくてはならない。
そして、彼らの今後に想いを馳せる。そのために必要なものはなにか、協力できないかと考える。
集められた資金は、まずは彼らのために使われるべきだろう。
次に文化的価値についてであると考える。いや本当は防災意識なのかもしれない。しかしいつだって感情が先なので、これは後回しにしよう。
日本は文化を持って戦争に負けても自尊心を保ってきた。アニメは文化だ。
多くの日本人は文化価値の重大さにして理解しているからこそ、アニメーターに価値を見出している。
さらにドラえもんやクレヨンしんちゃん、コナンや美味しんぼ、キャッツアイや犬夜叉、初期ジブリ作品など京アニが関わったことのある作品を見たことの無い日本人はいるだろうか。
アニオタでなくとも、その事実に気付いたときにハッとするものがあるだろう。
大きな喪失感はきっとこの辺にあるのだろう。
次に考えるのは防災観点だと思う。京アニが問題だったわけでは無い、と断言する。少なくとも、法律上は問題が無かったのだから。
しかしこういうことが起こるのだ、という前提で今後危機管理を行っていかなければならなくなった。
そうせざるをえないのだ。いつだって最悪を想定して防災は進む。
これで何かが変わらなければ、日本はそれこそ成長が止まった国となるだろう。
特殊な事件だからで終わらせることは出来ない。一度あることは二度ある。だから、考え続けなければならないのだ。
次に考えるのは京アニの再建だ。
しかしこれは再建しようとする人が居続けることが必要だ。事件後すぐ表に出てきていた社長は再建すると言っている。
ただ、事件後間もないことだ。社長の気持ちや状況も汲んであげたい。アニメへのテロ行為に屈するわけにはいかないのだから。
我々はきっと社長の言葉に期待しているが、それは時間がかかることだろうし、気力が続くかどうかも分からないことだ。
今はただ、彼らがしたいことの手助けをするのみだ。あれをしろこれをしろ、という時期ではない。
彼らのためにできることが、京アニの復活に繋がると、信じて待とう。
目を向けなければならないのはいつだって人の気持ちだ。そうでないと人で無くなってしまう、と考える。
被害者やその家族、そして関係者、友人、救助にあたった人達、近隣住民。そしてファン。
この人達のカウンセリングについても考えていかないとならない。
今は警察が100人体制で動いているが、来年は50人も残っているのだろうか。
するべきことはたくさんある。今すぐにすることと、長期的にすることを考えるのが大事だろう。
さて注目されている犯人の動機だが、それを聞いて納得できた人は、危ないと思う。
殺人事件を書く小説シリーズにありがちの言葉だが、殺人鬼の言い分を理解してはいけない、ということだ。
殺人者の動機を延々考えている推理作家たちの結論が多くそこに行きつくのが、なかなか興味深い。
だから正直なところ、聞いても仕方がないと思う。
しかし聞かなくてはならない。そして対話をしなければならないのだろう。
話しもせず死刑を執行することは、結局のところただの殺人鬼と同じになってしまう。
法律は本来国民が決めるものだ。国民の意思で話も聞かずに殺すとなれば、国民が理屈の無い殺人鬼になってしまう。
死刑制度について考えてしまうが…まぁきっとこれは、凶悪犯が出てきたときに逐一考えていくことなのだろう。結論はそれぞれだ。
ただ犯人の動機を聞いたところで、上記に書いたことよりは得られるものが少ないように思う。
正直なところ、その分野の詳しい人や心理学者に研究を委ねるべきなのだろう。
きっとまだ考察すべきことはあるのだろう。
元増田は
当然と望んだ将来が二度と手に入らないという経験がまだないのでは。
楽しみに読んでいた漫画を連載途中だった漫画家が急病で死んでしまったとか。
ある意味幸せだし、あとから京アニ事件の余波をじわじわ感じる日がくるかもしれない。
で、
そうならないように予防的に今すぐ行動してるのかも。
という仮説もたてられる。
ずっと心の痛みを感じてた人のほうが多いとおもう。
そっちがわの人にとってはじわじわはもうはじまっちゃってるってことだ。
アニメーター、アニメ監督は結構頻繁にトークショーとか授賞式とかイベントで
数百人数千人の視聴者にとっての「顔見知り」になっちゃったりするものだし(外国も含めて)、
そうでなくても、なんというか、vtuberの逆なんだよ。
外側のスキンは普通のおじさんおばさんで、煙に巻かれただけのことで死んでしまう弱い人たちでも、
中に好きなキャラクターの好きな仕草、表情、偉大な仕事がひそんでいた。
私達はその目と手をとおした魅力的なキャラクターや美しい世界を、テレビ越しにあたりまえに目にしていた。
ベつのアニメーターに描かせても(似せることはできても)全く同じ仕事はできないかもしれない。
チームワークも同じようにはできないだろう。