はてなキーワード: 竹熊健太郎とは
http://anond.hatelabo.jp/20151002140110
しっきーとひとでとまぬけには退場してもらったよ……。
ここからはお前らの出番だぞ。
紹介してもらった作品を載せていくからどんどん書いていってくれ。
わたしは慎吾
六田登「F」
石塚真一「岳」
蛭田達也「コータローまかりとおる!」
うめ「大東京トイボックス」
榎本俊二「えの素」
志村貴子サク人
秘蜜
http://anond.hatelabo.jp/20151002174637
これはいずれも名作揃いですね。ありがたいです。ただ、今回の趣旨にはあわないかもしれませんね。
わたしは慎吾
六田登「F」
石塚真一「岳」
蛭田達也「コータローまかりとおる!」
うめ「大東京トイボックス」
榎本俊二「えの素」
はい、いずれも名作ですね。通常の意味での殿堂入りには全く何の異存もありません。
ですが、この中でベスト100記事作成の際に除外すべきと考えるのはドラゴンボールだけでした。
わかりますか? 今は本当の名作を選んでるわけじゃないんです。
ベスト100でもう重複してるのをみたくないリストの話をしてるんです。
私が防ぎたいのは、今後ベスト100記事が作成された時に、記事作成者が
「安牌」のような形で誰も文句がでなさそうな知名度の高い作品を安牌で入れるという行為です。
このリストの他の作品は、知らない人がいるかもしれないので、ベスト100に入ってても特に誰も文句は言わないでしょう。
一般的な殿堂入りという言葉のまま理解して「名作」を勧めてくださっても、今回は使えません
ですが、これらのリストは大変ありがたいです。
まさに名作揃いだと思うからです。
あなたが提供してくださった名作リストは、除外リスト作成作業が終わった後にありがたく活用させていただきます。 ありがとうございました。
今の時点で外国人向けの漫画史の短めの教科書を書くから10本前後選ぶ、位に広い範囲からしっかり絞り込んで欲しい。以下、私的超殿堂。
わたしは慎吾
その次くらいに入れてほしいもので、挙がってないやつ
六田登「F」
石塚真一「岳」
蛭田達也「コータローまかりとおる!」
うめ「大東京トイボックス」
榎本俊二「えの素」
新世紀エヴァンゲリオン (原案あり、かつアニメに勝ててない時点で、漫画としてはいまいちかと)
プラネテス (画作りや人物造形がイマイチなのと、ストーリーのまとまりが無い気が。宇宙モノならMoonlight Mileを推したい。これは好みの問題かも)
はじめの一歩 (終わるべき時に終われなかった残念代表としてなら)
今日から俺は (これも長すぎるのと、天こなのほうが完成度高いかと)
うっかり戦隊に出ているイケメン俳優にはまってしまったのは去年の春のことだった。人生で特撮に触れたことは殆ど無くて、弟に付き合って流し見していたくらいなのでそれは自分にとってすごく衝撃的な体験だった。
元々ジャニヲタだったので憎悪を伴う閉鎖的なコミュニティには慣れていたつもりだったけど、それにしても特撮ヲタの村社会はひどかった。2chに平気で「俳優の追っかけで来てる女どもが鬱陶しい」とか書いてある。
正直「特撮ヲタ」の皆さんってお金を払ったり、ヒーローショーやイベントに足を運んだりしているとは余り思えない。こちらとしては、曲がりなりにも(俳優目当てとはいえ)ヒーローショー等に100回以上足を運んだし、地方公演にもわざわざ行って動員になった。ブルーレイも全巻購入、雑誌も全て買ってアンケートハガキも出しているし、プレミアムバンダイから出ている衣装やアクセサリー系のアイテムを「特撮ヲタ」の皆さんは果たして買うのだろうか。ニンニンジャーの青の子の衣装なんて全部揃えたら5万円以上するらしいと聞いた。買えるものなら買ってみてほしい。
戦隊を1年間追っかけたけれど、結局スーパー戦隊の1年1年を支えているのはその年度ごとについている俳優のファンだと感じた。もちろんメインターゲットであり主要購買層であるのはマジョリティである子供とその親なんだろうけども。
イケメン特撮は女の見る特撮でどうのこうの - LOVE! HEROES!
http://maki555.blog88.fc2.com/blog-entry-2088.html
このブログに詳しいが、編集家の竹熊健太郎氏がこのような発言をしている。このような発言をしている点からみて、恐らく氏は相当な「特撮ファン」なのだろう。
「女性が見る特撮は、私にとっては特撮とは呼べないのですよ。若手イケメン俳優が出る特撮は、その時点でイケメンドラマであって、「似て非なる何か」なのです。特撮ドラマの「主役」はあくまでミニチュアであり着ぐるみであり、光線やメカ、破壊と爆発でなければならんのです。漢の世界なのです。」
言い分は非常によくわかる。確かにこちらが重点的に見ているのはミニチュアや着ぐるみや光線やメカや破壊や爆発ではない。漢の世界かどうかも正直どうでもいい。
ただ、この文脈においてまるで女性ファンが特撮そのものを軽視し、思考停止してイケメンのみに反応しているような言い方をしているのは少々お門違いかなと感じる。周囲の俳優ファンは作品のストーリー性に深く感動、共感しているし、その中にはヒーローショーに通い詰めるうちにスーツアクターの魅力に気づいて俳優の出演しないショーにも足を運ぶようになった人もいた。俳優も結局出演する作品がなければ俳優をやれないわけだから、決して俳優ファンは作品や特撮というコンテンツを軽視しているわけではない。
しかし現実的に、ミニチュアや光線や爆発を重視する「彼ら」はブルーレイを全巻買ってくれたり、水道橋まで足を運んでヒーローショー40分に2400円を払ってくれたりするのだろうか。
結局特撮は正義や希望を謳っているけれど、結局のところ商業に支配される商品だということにこの1年間で気づいた。アコギなこともするし、制作元であるT社もスポンサーであるB社の意向が最優先だ。
特撮ファンは、特撮が正義や希望を謳ってはいるものの外側は商業で出来ていることを理解できていないのだろうか。大人なのだからその辺りを理解してもらえるとありがたい。
毎週ダラダラとテレビ放送を視聴し、2chに感想を書き込んでいるだけではT社やB社にとって一銭の利益にもなっていない。
確かに舞台挨拶をはしごし、映画を鑑賞せずに途中退場や途中入場などする態度が批判されることはままある。このような行為についての是非は分かれるだろうし、作品に対して失礼だという特撮ファンの意見も頭ごなしに否定するつもりはない。けれど関連雑誌やパンフレット、ブルーレイ等を購入し多少なりとも作品に貢献しているし、そもそも映画が見やすい中央列から後方列の席に座ることはあまり無いのだから、爆発や光線が好きな特撮ファンの皆さんは映画鑑賞時に見やすい席が取れて逆に良いのではないだろうかとすら思ってしまう。
俳優ファンは当該作品が終了すれば特撮から離れていってしまうので、そういう観点でも特撮ファンが俳優ファンを嫌うというのは理に適っているかもしれない。
だが俳優ファンの中にもいわゆる「DD」(誰でも大好き)は存在し、イケメンが見られれば誰でもいい、誰でもいいとは言わずともそこそこ好みのタイプなら良いという層は一定いる。
スーパー戦隊作品に出演する俳優は得てして駆け出し、もしくはキャリアが比較的短いいわゆる「若手」であることが多く、戦隊作品をやっている段階ではファンが少ない為小規模なイベントで楽しい思いをできることも多い。その後松坂桃李などのように世間一般にも名が知られるメジャー俳優になる可能性もある為、青田買いしていたという形になり自己満足できることもある。
戦隊作品に出演する俳優は毎年ヒーローショーなどで頻繁な顔出しを行うため、非常に俳優に会える機会が多い。逆に戦隊作品が終了すると一気に会える機会が減ってしまうため、作品終了と同時に手軽に会いに行けるようになる次年度の戦隊俳優へと乗り換えてしまうケースもとても多い。「ずっとこれからも◯◯くんのファンだよね」と誓い合っていたのに半年後には違う俳優のファンになっていたりしてなかなか世知辛いジャンルでもある。
そのような事実を鑑みると、俳優ファンの中でも一定層はずっとT社にお金を落とし続けているということになる。
これではいつまで経っても光線や爆発が作品の中心に据えられることはなく、毎年毎年イケメンがアクションをしたりイケメンが変身したりするイケメンだらけのヒューマンドラマが繰り広げられるばかりではないのだろうか。
特撮ファンはまず、T社から見て自分たちの意見の比重が非常に低いことを自覚すべきではないのかと思う。そして特撮作品に意見するならまだ良いが、俳優ファンにまで苦言を呈するのは辞めてもらいたい。
個人的な話をすると、俳優ファンとして戦隊作品を1年間追っているうちに特撮ファンのことが嫌いになり、最終的には特撮というジャンル自体のことも嫌いになってしまった。もう新しく特撮作品を見ることはないだろうし、特撮のイベントに足を運んだりもしないと思う。
スーパー戦隊も仮面ライダーも、4クールドラマとしてとても面白いシリーズだと思う。でも特撮はもう「文化」になってしまっている。例えば毎年毎年、俳優の演技を棒読みだ、どこが酷い、等とこき下ろしたりする行為が既に毎年恒例の文化として扱われている。これはすごく嫌だ。
郷に入っては郷に従えと言われればそれまでだけど、彼らはいわゆる排他的でマニアックなネタで盛り上がることを良しとする「オタク」そのものなんだと思う。ならば仲間内だけで盛り上がっていてほしい。俳優のことにまで口を出さないでほしい、というのが正直な意見だ。彼らが、自分たちのことを「あるべき特ヲタの姿はこうだ」と思っている限り特撮ファンの裾野は決して広がらないと思う。
俳優ファンは細かい人間関係で排他的な部分はあるものの、いろいろな応援のし方が許容されているし、それに俳優が好きならば誰でも俳優ファンだ、と自分は思う。特撮ファンは違う。俳優が好きで特撮を視聴している場合、それは決して「特撮ファン」ではないと言うのだ。あくまでも俳優ファンの域を出ない、と。
自分たちでハードルを高くしすぎると、どんどん閉鎖的になって自分の首を絞めることになるし、閉鎖的になりすぎた故に現状の「特撮」が「特撮ファン」のものでなくなっていることに本当は気づいているのかもしれない。俳優ファンの自分視点では悪あがきをしているようにしか見えなかった。
われているのだろうか?(タイトル入りきらなかった)
http://toshinoukyouko.hatenablog.com/entry/2013/02/05/013220
それにしても、と僕は思う。
日本には、アニメに関する批評が存在しない。批評家が存在しないだけでなく、批評の場そのものが存在しない。
(「庵野秀明はいかにして八十年代日本アニメを終わらせたか」東浩紀)
東浩紀が上のように記したのは1996年で、それから17年が経った今日におけるアニメ批評のややうんざりするくらいの百家争鳴、玉石混交を伴う興隆ぶりは周知の通りだが、然るに未だに日本には、アニメ作画に関する批評が存在しない、という一抹の事実には素朴に驚かされる。とはいうものの、作画について語るという文化自体が、せいぜいここ十年くらいの間に醸成されてきた、というこれまた意外に思われる史実と突き合わせてみれば、それほど驚くべきことでもないのかも知れない。
中略
ゼロ年代のアニメを含むサブカルチャー批評史と作画史は並行して進みつつも交わることはついになかった。大塚英志や斎藤環や東浩紀やその取り巻きはアニメ作画を完全に無視したし、作画オタクも東浩紀界隈を完全に、気持ちいいくらいに無視した。例えば伊藤剛は2005年に「テヅカ・イズ・デッド」を上梓して、漫画批評の側から手塚治虫神話の精算を図った。ところが一方で、アニメ作画の側ではほとんど同時期にウェブ系アニメーターを介して一種の手塚治虫への回帰が見られていた。
本当になんでだろうね。
作画系に強い氷川竜介ですら、作画マニア的な"紹介"に留めて批評の域には持って行こうとしない節がある。「20年目のザンボット3」でも、金田伊功だけで1章割いてかなり詳細にデータやら作画の個性やら文章を連ねても結局は「金田作画、たまんねえ」で終わる内容だったりする。それはそれで悪いことでは決して無いけど。
小黒祐一郎は?小黒は編集者であって評論家ではない、しかしアニメ制作者にその辺を積極的に語らせようとはしている。
旧アニメスタイル第1号のロングインタビュー「庵野秀明のアニメスタイル」はその結集だ。
アニメと作画の密集した関係性をあそこまで徹底的に語った記事は未だかつて存在しなかったしこれからも無いと思う。間違いなく論の域に達していた。
語ったのは庵野秀明本人だが、ここまで語らせたのは小黒祐一郎の手腕によるものだろう。これが竹熊健太郎とかその辺だったら絶対に聞き出せなかったと言い切ってもいい。
それでなくとも旧アニメスタイル1号、2号はアニメと作画の関係性をがっつり語ってみようぜ!!というエネルギーに満ちあふれていた本だった(アプローチには異論反論ある人もいるだろうけど)。
これは当時作画オタが絶滅しかかってた事を危惧して・・・というよりも、「昔みたいな作画おたくもいなくなっちゃったし、そろそろここらで語ってみるか!」みたいなノリだった、という気がするんだけど・・・。
今は当時より作画オタ(というかニワカ含めて俺も作画をかじってみたいよ的な奴)が増えた状況なので、リニューアル後のアニメスタイルは作画オタ啓蒙寄りな本になっちゃったと思うな。
なんつーか。作画オタなんて下らねえ→したがって作画を論じる事も下らねえ→作画語りは作画オタだけでやってろ、その辺で「たまんね」ってホザいてろカス。
という空気は形成されつつあると思う。
関連記事
http://webneo.org/archives/4818
今このサイトが話題ですが真っ赤なウソです。田井肇さんは大嘘つきです。
嘘というのは言いすぎですが真実を隠してる。
実はアニメ映画は子供向けなので低価格、低画質でプリントされていたんです。
例えばケロロ軍曹はとても見れたもんじゃない画質で上映されてきました。
もちろん宮崎アニメは別格なのでそういった映画は高品質でプリントされましたけどね。
ようするにフィルム時代は「これはIMAGICAでプリント」「これは低価格で東京現像所」と格差があったんです。
デジタルになれば画質の差が無くなり1800円に見合った画質で楽しめます。ま、フィルム画質の格差は
アニメにかぎらずありましたけどね。パイレーツ・オブ・カビリアンワールド・エンドなんてわざわざ高品質プリントされてるから
丁寧に扱えとファックスが送られてきたし。
あと若者が低予算でデジタル撮影してもそのまま上映できるのでメリットだらけのはずなんですよ。
ようするにこの田井肇さんは昔の映画が上映できなくてプンプンしてるだけの老害です。
お前ウザいし話がややこしくなるからマジで黙っとけ糞が。若手監督は全員デジタルで万々歳だっつーの。
追記:http://togetter.com/li/391159 ←どうやらここでとっくに突っ込みが入れられていましたね。
竹熊健太郎がTwitterでひどいツイートを繰り返している。
例:
漫画がらみではいい仕事をしていてフォロワーが2万人もいるぶん、悪影響も大きい。
そのことを指摘されると「ではアンフォローしてください」とくる。
「気に入らないならフォローを外せ」は@NHK_PRもよく言っている。彼女の言い分はよくわかる。ツイートが気に入る・気に入らないという話は結局個人の好みに還元できるから。
しかし竹熊のは気に入る・気に入らないとは違う話なんだよなー。そこがなぜわからないのか。
前提となる知識が間違ったまま、不安を煽るようなことは書かないでほしいんだよ。地震の直後デマにだまされたくせに、自分がデマまがいの不安の発信源になっている自覚がない。
その悪影響はこちらがフォローを外せばなくなることじゃない。だからたちが悪いんだ。
「楽しんでもらえたら、自分の存在が許されるんではないかっていう、
無用なものではなくてというふうな抑圧が自分の中にあるから。」
「自分の好きなものを描いてるわけじゃない」
「"ありそうでなかった" 物、
実現してしまえば "なんだ普通じゃん" というものを創るのが極めて大切。」
「なまじ特技があるとそれを活かそうとするから、世間が狭くなる。
時代にあったことをいつもしていなさい。」
「僕らは"作品"ではなく"商品"を作っている」
「エヴァは哲学じゃなく衒学(げんがく)的、(知ったかぶり)なんです。」
「僕にとっては、それ(現実に引き戻すこと)も"サービス"なんですよ。
お客さんにとっては良い事だと思うんで。」
イノベーションとは
http://anond.hatelabo.jp/20100127001517
さらにヴァージョンアップさせるとこうなる。
この時期になると大学生向けに読むべき100冊みたいなリストが出回る。
あんなリストを真に受ける人も少ないだろうが……はっきり言って悲しくなるくらいお粗末だ。
ずらっと並べられた古典名著。あまりに埃の被ったラインナップにがっかりする。
こういった学問には「原書病」とでも言うべき、くだらない風習が根強く残っている。
原典や本文を極度に重視するのは不健全だ。それ自体は面白いとしても、その後発展と整理を経て洗練されている。
歴史的興味以外であえて出発点に戻る価値はすごく小さい。そんなところに本当の「教養」は存在しない。
難解で時代遅れな文章と格闘したって、趣味以上のものにはならないし、考える力は湧いてこない。絶対誤読するし。
そこで本当に頭を強くしたい人が読むべき書籍リストというものを作った。
これは単なる学問という空気に浸ってみたい人が読むものじゃなくて、日常に根ざした本物の力を分けてくれるものだ。
この100冊さえ読めば考える素材に困らないだけでなく、コミュニケーションの強者にもなれる。
飲み会で古臭い古典の話をしたって煙たがれるだけだが、この100冊をネタにすればそんなことにはならないし、
黙考はずいぶんと深くなるし、ブログのネタに応用すれば必ず一目置かれる。
選んだのは現代的で網羅的、そして極めて平易なもの。どの分野にも精通できるように色んなジャンルのものを配置した。
この100冊を大学生活のうちに読み切れば、必ずや一生の財産になるだろう。
ここに挙げられた本が、現代最新型にアップデートされた真の「教養」だ!
『逃走論』 浅田彰
『アメリカン・コミックス大全』 小野耕世
『よいこの君主論』 架神恭介
『おまえが若者を語るな!』 後藤和智
『シミュレーショニズム』 椹木野衣
『箆棒な人々』 竹熊健太郎
『新しい「マイケル・ジャクソン」の教科書』 西寺郷太
『教科書には載らないニッポンのインターネットの歴史教科書』 ばるぼら
ええっとね、バブル景気頃から変わってきたんだけど、それ以前は「こだわる」ってネガティブな意味で使われていたのね。「そんなつまんないことにこだわるんじゃないよ」という感じに。
バブル景気にグルメブームが始まって、「素材にこだわる」というフレーズが多用され、妥協しない、自分がよいと思ったものをとことん主張する姿勢がポジティブに感じられるようになって世の中変わったんだけど、
宮崎駿ってその昔の価値観で考えれば、心方面の障害者として扱われているはずなのね。
ダメだと思ったらとことんダメなんだもの。そしてそれを縦横に言える環境を作ることに成功して。
売れているから周囲が認めて、ワガママや一方的な物言いに従っているけど、アニメやマンガを作っている人達、宮崎さんを除く全員が心の中で
「あんな破綻したストーリーが、なぜあそこまで受け入れられるんだ?でもそれでも面白いんだよな」
と不思議な気持ちになっております。
(竹熊健太郎さんがそれらを書いています。破綻していると指摘されたところを説明できればおk)
増田の不運は、自分の好きなものを見つけられていないことだね。
好きなものを見つけると、その世界の中で認められる関係が築けるものなんだけど、何かなかった?
DENPA!!!行って来ました。
ここ5,6年で一番いいpartyでした。
掛け値なしに楽しい!!!
昼間っからやってるのも健康的(←こう書いて「おっさんに優しくて」と読む)で◎。
内容、客層、ロケーション、料金すべてに満足できる、レベルの高いイベント。
ここまで"熱い"のは昨今ではかなり珍しい。マジおすすめ。ちょっとでも興味のある人は、一刻も早く行くべき。
とまぁ、ここまで書いて小休止。
自分は↓これ書いた人。
http://anond.hatelabo.jp/20081223011009
自分語り(補)
http://anond.hatelabo.jp/20081223215937
自分語り(転)
「良いイベントだなー。こんな良いイベント久しぶりだー」と強く思ったのですが、
どうも悶々とするものがあり、それをこの2日間考えてました。
んで、marquee ( vol.70「次世代ファンタジー特集」に電刃の特集あり) とかユリイカ増刊号『初音ミク』とか買って
まだわからなくて悶々としてたんですが、主催者の"点と線"さんのブログを見つけてちょっとわかった気になったのでコメントします。
以下はアリバイとして書き残したい文章。もしかしたら読む人によっては不快に感じるかもしれません。
でも、申し訳ないけど気分を害すような文章をアップします。
(なので過去の『自分語り』で不快に思った人は読まないで下さい。)
冒頭の佐々木渉氏へのインタビュー『生みの親が語る初音ミクとアングラカルチャー』が抜群に面白い。
これだけで1,200円出す価値があります。今現在、初音ミク関連の資料として最も価値のあるものじゃないでしょうか)
きちんと書いてる暇がないので。
では先に進みましょう。
//////memo//////
[前提]
自分語り133 - DENPA!!! 「超ライトオタク」 言説
http://www.technorch.com/2008/12/133---denpa.html
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html
慟哭 (3)
http://web.soshisha.com/archives/otaku/2006_1019.php
栃内新,左巻健男 編『新しい高校生物の教科書』講談社ブルーバックス,71頁より
[目次]
1.「慟哭 (3)」を読んで
3.人類知に帰ろう
4.あなたはどう思ってるの?
6.参照元
------
1.「慟哭 (3)」を読んで
慟哭 (3)
「あー、デュシャンか。理解理解納得納得」って感じです。
こう言ったら失礼(ネタバレ)かもしれないけど、電刃はデュシャン - ウォーホール - 村上隆のラインの音楽・ファッションverなのねと。
この流れだとたしかに「○○論」は確かに意味を成さないっす。「意味を成さないように働く機構」という罠・舞台装置だから。
(便器語ってもしょうがないし。まぁ、人類史上もっとも「すごい」便器なんだけどw)
次のエポックメイキングな事象はアキバのホコテン復活の時かもーとか妄想しちゃいました。
(補)
レディ・メイド
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%89
「泉」に関する個人的な解釈は、「心のヒダへの"effect"を芸術とするなら、
便器にサインして展示会に出しても芸術作品として"アリ"なんじゃね?」と提案している作品。
デュシャンは「美術を"effect"とするなら、『美しい』でも『怒り』でも『恐怖』でも何でもいいじゃん」と
「美術(芸術)」を「拡大解釈」できる素地を作っためっちゃ偉大な人。
(それまでは「真善美」を追求するファインアートが主流だった)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88
ウォーホールは「キャンベル缶も芸術作品じゃね?」と言った人。
(余談ですけど、村上隆は美術史的「文脈」をきちんと押さえてるから海外で評価が高い。
美術史をちゃんと踏まえ、理論として一貫しており、装置として実際に働くから「海外の美術界」では評価されています)
ガイジン「あー、そうかもそうかも!!」
(電刃は村上隆と違って商売っ気が今のところなさそうに見えるから、反発(というか"やっかみ")も少ないかもしれないですね。)
(ニコニコではちょっとあるみたいだけど)
(補の補)
電刃は「オタク等々を拡大解釈させる"装置"である」と言いたいだけ。
電刃を「芸術作品だ」とは言ってない。「芸術作品」という評価は「解釈が拡大する運動性」において無意味。
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
はてな民に対しては「気持ち悪い」かもしれませんが、
ホントは「パラレルワールドで幸せそう?に学校に行くシンジ(を描いた庵野監督)」が正解じゃないですか?
(「気持ち悪い」は悪い意味ではない。↓参照)
映画エヴァンゲリオンの最後、「気持ち悪い」ってどういう意味?
http://news4vip.livedoor.biz/archives/50801624.html
俺は電刃行って目の前ですんげぇかわいい長門がぴょこぴょこジャンプしながら踊ってて、
それ見ながらガン踊りできる幸せに絶頂を迎えそうになったけどなー。
「現実」を住みやすくする手立ては、陳腐な言葉(≠「仲良く」)の中にすでにあるのになぁと。
「アメリカヲチしようぜ!!」でいいような気がする。オバマ的な意味で。
(別にEUヲチでも構わない。もちろん)
3.人類知に帰ろう
http://blog.dropsnap.jp/tentosen/2008/12/post-23.html より
正直なところ、その違いって、テクノウチ君の考察のように参加者が共通してポジティブかどうかじゃないかなとw
それで終わりじゃ駄目なの?むしろw。
(中略)
僕や参加者がそうだと言ってるんだからそれでいいじゃないと思うんだけども、
それでも解釈(知的経験の枠)の媒介を人は要求する社会学の囚人なので、
僕なりにそれ用の答を探求してみたんですが、もとよりそんなつもりはないので嘘はつけないなあというどうしようもない始末。
庵野監督が『気持ち悪い』でEVAを終わらせた心境から遠くはないです。
(関係ないけど社会学部だった僕の卒論は「社会学は永遠に社会そのものを追い越せない」というものでした)
(中略)
これは大変ありがたいことですが、DENPAはアカデミックな言説に幽閉されるよりも、ただ好きなものを好きという幼児的で野蛮で原始的な本能に基づいているのも事実です。それもコンプレックスをいだかず堂々と。
僕らは学論の探求ではなくエンターテインメントの探求をしている。
不恰好でも感動はほんものだ。
そのシンプルな行為がこんなにもやりにくく、珍しがられる時代になってしまったんだなあ
と感慨深くなりました。
marquee(vol.70)「次世代ファンタジー特集」より
文字打ちが大変なので割愛。
「アート(引用者注:「学問」という意味も多分に含まれてる)はどこに行き着くために問い続けてるかわからない」というインタビュアーの質問に対し
点と線さんが社会学のフレームで世の中をすっきり見れるように、
若い子にもその手段をゲットできるような仕組みを作ってあげたいなーと思ってみたり。
年下の子に「学問楽しいよー。いや、むしろキモチイイとすら言える!!」としか俺はまだ言えてないけど。
(カウンターカルチャーであるはずの「学問」が、「幽閉」する機構として働く日本の異常性がアレなんだよなぁ)
学生運動とか創価学会とかオウムとかプロザックとかと変わんない気がします。
最近は「死なない程度の失敗ならおk(死なない程度に納めよう)」という考えの人多し)
鶴見済ですら
http://tsurumitext.seesaa.net/category/3920016-1.html
と言ってるのだから、たとえ手詰まりでも「ポジティブであればいい」とは言わない方がいいんじゃないかなーと思ってみたり。
まぁ、アメリカとかEUは全然手詰まりに見えないので、「手詰まり」こそが共同幻想な気がしますが。
(個人的にはバンクシーみたいな手法が好き。愛しつつコケにする系。音楽だとBUBBLE-Bさんとか)
バンクシー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%BC
BUBBLE-B / アムロケット
4.あなたはどう思ってるの?
オタクって何?
オシャレって何?
疑問に疑問でお返しします。
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「面白い」とか「なかなかのもの」とか言ってくれた人ありがとう。
全レスすると「キモイ」とか言われちゃうので、指摘してくれたコメにのみ応答。
clonicle 言っていることはまっとうだが、「ジャンクフード」(=人によっては取るに足らない虚像)だと発言することでテクノウチを決断主義者に仕立て上げるのは悪質
「決断主義」って言葉の意味を調べましたが、よくわからなかったです。
fuldagap「「ジャンクな物でも『おいしい』と感じる人が大半になったよ』って書いてあるだけだよ?」が微妙に誤読な気も。「化学調味料うめえ」じゃないかなーとか。総じて現役/引退オタクの自己正当化合戦に見える
そうです。たしかに「化学調味料うめえ」なのですが、
化調まで抽象化しちゃうとかえって伝わりにくいかなーと思い「ジャンクブート」にしました。
(「化調」に対応するのが「ビート」だけになっちゃうので。音楽的広がりが欲しかったので「ジャンクフード」と表現しました)
fuldagap 「全員「アツイ」から、濃淡は金・環境・時間の差でしかなかった」ってのは「アツ」くない人が見えにくかった時代がゆえの偽史だと思うなあ
「『おたく』とアイデンティファイされるようなファナティックな人々」が母集団ですから。
y_arim ぼくの知る限り、昔だってヌルいひとはいた。だけど時間の経過とともに彼らは「卒業」し、一貫して熱かったひとのみが生き残った。すると「昔は誰もが熱かった」という言説が生まれる。「元ヌルオタ」をどう語るか?
(『タイム・マシン』のエロイ的な意味で)幸せで「語り」に対してモチベがない人々に無理に語らせなくていいのでは?
ジャンプの発行部数見れば、「いた」ことはわかりますから。
mkd5 オタク 「おたく」のうち岡田氏の守備範囲が「オタク」となったってことかなあ/「(淡から濃に行かない奴は、そもそも「おたく」と呼ばれていない)」これがヌルオタなのでは
「ヌルおた」は言語矛盾を引き起こしますが、「ヌルオタ」は新語なので好きに定義しちゃってください。
『竹熊健太郎氏との対話(1)』での解説が一番しっくり来るのかなぁ。
「おたく全般」にまで広げちゃっていいのかどうかはまだ自分として決めてないです。
6.参照元
は文字数制限を避けるために↓こっちに移動。
http://anond.hatelabo.jp/20090115000935
おまけ
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1756156
フック
(追記)
ああ、そうかそうか。書きたいこと書き殴ってたらレポ忘れてた。
"DENPA!!!"に行ってきたよ。
http://d.hatena.ne.jp/inumash/20090113/p1
お三方とそう変わらない印象。
3Fではアニソン流してカラオケノリでオイオイって感じ。2Fと3Fの交流はぼちぼち。曲や3Fの込み具合次第かな。
ロンドンナイトは行ったことないけど、普通のライブとか新宿で昔やってたグルービー・ロックキャラバンとかと相似。
僕は2Fで「普通に」踊って楽しんでました。
テクノウチさんの時間は、3Fのお客さんが大挙していらっしゃいましてまったく踊れなかったので、僕的には一番…w
NHKの方(ETVのカメラマンさん)は「アンディー」かなーっとちょびっとヲチしてました。
(こっそり追記)
metamix きちんとオーガナイズされてる良イベントだっていうのは分かったけど、
その先があるのかどうかをもっと知りたい/クラブピーポーには文化考証なんてどうでもいいんですよ。
要はその現場があるかどうかだから。
「その先」「現場」ってのがどんなものをイメージしてるかにもよるなぁ。
「Dir en grey」なのか「RYUKYUDISKO」なのか「初音ミク/ニコニコ」なのか「third summer of love」なのか。
「超ライトオタク」や「越境」云々は主催者も意図してない(?)「バズワードでのプロレス」(@inumashさん)なんで、
どの層がたくさん「ひっかかる/ひっかかってる」かにもよるかと。
(まぁ、お客がみんな「かっこいい/かわいい」と書かれているってことは、
ちょっとキモ目の"いわゆる"「おたく/オタク」はあまりいないってことでもあるような気がするのはきっと気のせい。)
(昔に比べて非寛容な人が減っただけのような気がするのもきっと気のせい。)
【佐々木渉】 三年くらいしたら「初音ミク?そんなのもあったね」で良いんですよ。(中略)
まあウチも営利団体なのでもしかしたらヴァージョン・アップ版とか出すかもしれませんけど(笑)。
ただ、引くタイミングは考えないといけませんね。初音ミクにまで泥を塗って、
グダグダと退いていくようなやり方は、やっぱり不味いので。
ユーザーさんからも「『ぷよぷよ』を作った会社(株式会社コンパイル)が辿った末路を、よく調べておいて下さい」という
(独り言)
なんか面白いものをみつけたので改変してみる。
はじめに:はてなでの噂によると、10年前の12月、あるアニメが放送中止になったとき、上のリンク先と同じようなことを
ダイアリーで書いた人がいるそうです。
アニメ版ポケットモンスターについて、mixi日記で書き散らした内容をそのままコピペ。誠実さが常に美徳であるとは限らないのだが。
テレビ東京にて今後の放送中止。理由はおそらく、昨日のポケモンショック(パカパカで癲癇起こして子供が救急車で搬送されたアレ)の影響で自粛。
ええもう、快哉を叫びましたよ真夜中に。以下dis。
Twitterでぶち切れたこともあったけど、あの作品自体もファンも死ぬほど嫌いだ。サトシの行動が思春期男子のそれとしては実にわかりやすいポケモンゲットだぜであることは認めよう。存在が意識を規定する、という謂いのとおりでさ。それはいい、人間性についてのひとつの身も蓋もない認識だ。問題は、「これが理解できない、ポケモンを「ガキジャリ向け」と定義して楽しめないヤツは中二病」といういつもの優越感ゲームの空気が醸成されつつあること。少女革命ウテナのメンヘルなアンシーの身の振り方と同じで、不快なネタであるのは確かなのに、不快感を表明することで自動的に人格蔑視の対象になるという糞厭らしい構造なのである。それが気に入らない。
かてて加えて、たいした覚悟もなく動物死にをネタにしている露悪趣味。この作品のウリは何か? ポケモンと呼ばれる動物が闘って相手を傷付け合うオチ以外に有り得ない。みんなイワークのしめつけるやピカチュウのじゅうまんボルトや、どくばりで刺されたりするのが見たいだけである。反論は認めない。竹熊健太郎先生も仰っているではないか、モンスターバトルまんがのウリは「人殺し」だが本質を突きつけると人は不安になるから「パートナーモンスターとの絆や信頼関係」などというテーマをでっち上げるのだと。俺はそんな欺瞞はさっくり無視して人殺しを楽しむのだが(それは小学生のころ、ベトナム戦争の写真集を一日中図書館で眺めていた――それも毎週――ときから変わらない)、世のファンども(これは前述の、サトシに理解を示してあの狭い液晶の中で今日も151匹ゲットにはげむ連中よりもっと広義のファンを指す)、どうせ血が見たいだけなのをなにやら糊塗して、ピカチュウがかわいいだのカスミかわいいだの、キャラ萌えも含めてネタとしての消費に汲々としている。こんなもんにマジになるヤツは痛いキモオタ、と言わんばかりにだ。
はっきり言わせて頂く、君らのその舐めくさった態度は「これは燃えアニメだから!」「燃えと萌えを両立してるんだ!」などと言い訳しつつ、飛べ!イサミのイサミだののイサミのおかあさんだのに萌えるイサミ厨とまったく変わらない。ちなみにここでのイサミ厨とは、オタクにとっての宮崎勤程度の意味である。下劣極まりない。堂々と宣言したらどうか、俺はポケモンが血まみれになって死ぬのが見たい糞野郎ですと。それができねえってんなら最初からこんな悪趣味なモノ消費しようとするんじゃねえよヘタレ共が。
ついでに、作品内容にかかわらず、とりあえずネタとして片付けようとする最近のヌルオタどもの風潮も許しがたい。それは作品に真正面から向き合おうとしない、受け手として不誠実な行為である(スキゾキッズは屑だ)。まあ所詮恐竜惑星を萌えの元ネタとしてしか受容できなかった連中ですからな、知性なぞ初手から期待してませんがさすがに目障りだ。その一方で、少女革命ウテナ最終回の粋を理解できずに感動させろと吹き上がる。軒先に吊るして回りたいぜまったく。まずは「こんなアニメにマジになってどうするの」とたけしメソッドを使う連中を殲滅するのが先だが(俺の前で金輪際この台詞は吐かないこと)。
と・い・う・わ・け・で、清々した、という言葉がこれほど相応しい結末もない。願わくば今後も一切放送されず、このまま闇に葬られんことを。できればファン共々な。
あああと、虚構と現実を一緒にするな、とほざいている連中にはいい薬になったと思うよ。切り分けられるわけねえだろが。バトロワに影響されて立てこもり事件起こしたやつとか、フライトシミュレータ好きが嵩じてハイジャック事件起こしたやつとか、忘れたとは言わせんぞ。俺だって「僕らのウォーゲーム」観に行った映画館から出たあと、「俺もデジタルワールドに行けたらナァ!!」とデジヴァイス探して回りたかったんだ。
ちなみにTwitterでぶち切れたときのログは以下のとおり。
Yuu Arimura y_arim ポケモンのこと考えるだけで本当に吐き気を覚えるようになった。どうしたらいいんだ。 05:42 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim ポケモン(さらにはポケモンバトルを厭わない態度を取るサトシ)に対する態度のとり方が優越感ゲームのネタになっている気がするのは俺の被害妄想だろうか? 不快感の表明が即キモオタ扱いに直結するのが、少女革命ウテナのメンヘルなアンシーの身の振り方に対するそれと同じ構造だ。心底不愉快。 ... 06:00 AM September 12, 2007 from web
y_arim 作品は玩具やメソッド宣伝アニメにも関わらずさもキッズアニメであるかのような体裁をとり、ファンはさもキッズアニメを見ているかのごとく受容する。ピカチュウがかわいいとかな。はっきり言わせていただくが、これは燃えアニメだから! と言い訳して萌えるイサミ厨とおんなじだよ、きみら。醜悪だ。 ... 06:21 AM September 12, 2007 from web
y_arim 単なるヘタレのリョナ好きだ、と認めたらどうなんだ? え? 06:22 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim 悪趣味に無自覚な悪趣味野郎、悪趣味を自覚させない悪趣味な創作はまとめてこの世から消えろ。 06:24 AM September 12, 2007 from web
Yuu Arimura y_arim ほんとうに、震えが止まらないほどキモチワルイ。 06:26 AM September 12, 2007 from web
はじめに
秋葉原は現在もっとも注目される街の一つである。IT・ハイテク技術の聖地として、あるいは現在国が推進するソフトウェア・コンテンツの見本市として、またはサブカルチャー文化が生まれる一観光地として、政府である『官』やソフトウェア&ハードウェアを生産する『企業』、そして秋葉原を目指す『個人』の視線がそこに集中し、ひとつのムーブメントを作り出している。
この記事は、秋葉原の歴史については軽く触れる程度にとどめ、主に90年代後半??今後の秋葉原について参照し、今後秋葉原がどういった発展を遂げるかについて将来像を探るものとする。
電気屋街としての秋葉原の歴史は、終戦直後に作られた露天市までさかのぼれる。戦前の秋葉原にも山際電気(現在のヤマギワ電気の前身)なども存在はしたが、当時電気屋の主流であった「電気材料卸商」(電化した工場設備に必要な部品を販売する商店)の中心的な場所ではなかった。戦後、焼け野原になった秋葉原で近隣の電機工業専門学校(現東京電機大学)の学生がラジオを組み立て販売するというアルバイトをしたところ、これが大繁盛。その結果、他の露天商も品物を真空管などラジオ部品の販売に転向、その上電気に詳しい露天商の参入もあり、120軒あった露店のうち約50軒が電器商という、まさに電気屋街の前身ともいえる様相を見せた。
この初期の秋葉原の発展について、近くに工学専門の学校があったという地理的要因のほかに、交通の便のよさというのが上げられるだろう。終戦直後にできた闇市で活況を見せたのは、上野や新橋、渋谷など国鉄の乗降客の多い駅の周辺にできたものだった。秋葉原の国鉄や都電が通るアクセスのよさは、そういった「人の流れの結節点」となって、秋葉原に人を留める要因になったと思われる。
その後、GHQにより道路の拡張工事を行うため、露天撤廃令が施行され、露天商は国鉄秋葉原駅ガード下で営業をはじめることになる。これを秋葉原電気屋街の原型とし、以後日本の高度経済成長とともに、電気屋街は拡大していくことになる。この成長を支えたのは家電だった。人々は豊かな生活を追い求めるため、「三種の神器(テレビ・冷蔵庫・洗濯機)」に代表される電化製品を求め、家電が安い秋葉原に足を運んだ。しかしその人の流れは昭和50年代後半で終わることになる。家庭に普及した自動車で郊外型の家電チェーン店に向かうといったライフスタイルが定着し、それまで主要客層だった家族層が秋葉原に足を向けなくなる。また、昭和60年代のAVブームと高級家電のブームの反動による家電不況などもあり、秋葉原は新規顧客層の開拓と、それに伴う主力商品のシフトを図ることになる――「情報家電」。昭和にはマイコンとよばれ、現在パソコンと呼ばれるマルチメディア機材である。平成6年、電気街の売上においてPC関連商品が家電商品を上回って、名実ともに秋葉原は電脳街となるのである。
秋葉原の主力製品となった情報家電は、アニメやゲームを愛好するオタクたちと親和性が高い。アニメを見るためのTV、エアチェックする為のレコーダー、ゲームだけでなく、ファンとの交流を図るコミュニケーション・ツールとしてのPC――しかしそれだけが、秋葉原を「オタクの聖地」としたのではないと、建築学者である森川嘉一郎は言う。
秋葉原に点在する「まんだらけ」や「海洋堂」、「ゲーマーズ」などの同人誌、アニメグッズ、ガレージキット(フィギュア)専門店はそれまで秋葉原になかったものであり、それらは秋葉原に移転するまで吉祥寺、渋谷、新宿などに点在して存在していた。しかしそんな専門店が97年以降秋葉原に集中するようになった原因を、森川は『趣都の誕生 萌える都市アキハバラ』において、(株)海洋堂の宮脇修一専務のインタビューをヒントにこう記している――アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』のヒットと、それに付随したサブカルチャー・ブームにより未曾有のバブルに沸いたサブカルチャー・ショップが、その勢いに乗り秋葉原への出店を促したのだと。確かにこの時期、東京ビッグサイトで行われたコミックマーケットの入場者数が25万人(95夏 90年からこの人数が横ばい)から35万人(96夏)、40万人(97夏)へと急激に膨張するなど(ちなみにこの後入場者数は横ばいになる)、この時期サブカルチャー文化への大幅な人口流入があったという見方もできるだろう。しかし、アニメやマンガ界隈において、エヴァ以降現在に至るまで、エヴァと比肩し得るヒット作は生まれていないのが現状である。しかしサブカルチャー産業は萎むことなく、拡大し続けているのが現実である。エヴァ現象によってサブカルチャー文化に入ってきた人びとは何を飽きずに摂取し、そこにとどまり続けているのか。まずこのことを明らかにしてから、秋葉原の現状について考えてみたい。
批評家東浩紀によれば90年代以降、アニメの物語よりもそこに登場するキャラクターや設定などの断片を愛好するオタクが増えたと、著書『動物化するポストモダン』で述べている。東浩紀によれば「オタクたちは、物語やメッセージなどほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している」と指摘し、そのことを「キャラ萌え」している(この言葉はやや古くなった感があるが、そのことについては触れないでおく)と表現した。1960年生まれのライターである竹熊健太郎氏も、「オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思」において、まず自身の立場を「(アニメ作品などにおいて)トータルで作品は見るべきだという思いがどうしても強い。」と表明し、「もちろん心の深いところでは、キャラ萌えのような感情はあるんですけどね」としながらも、かれらについて「でもそれを外部に表明するのは、自分はバカですと言ってるのと同じで、とてもできないわけですよ。」と違和感を語っている。しかし、その中で竹熊はこうも語っている。曰く、キャラ萌えという衝動は「アニメブームの頃、中高生のミーハー女子が「シャア素敵??」って黄色い声をあげていたのと同じ」であると。
東はオタクの嗜好が変わった原因を大きな物語の凋落に求め、結果大きな物語に付随する「小さな物語(アニメにおけるキャラクターやロボットなどの一要素)」を単独で摂取するようなオタクが現れた、と前述した著書で述べている。このことについて東はインターネットの世界を例に挙げてうまく説明しており、少々長くなるがここに引用したい。「すべてのウェブページを規定するような隠れた大きな物語は存在しない。(中略)インターネットにはむしろ、一方には符号化された情報の集積があり、他方にはユーザーの読み込みに応じて作られた個々のウェブページがある、という別種の二層構造がある。この二層構造が近代のツリー・モデルと大きく異なるのは、そこで、表層に現れた見せかけ(個々のユーザーが目にするページ)を決定する審級が、深層にではなく表層に、つまり、隠れた情報そのものではなく読み込むユーザーの側にあるという点である。」「ポストモダンのデータベース型世界では、表層は深層だけでは決定されず、その読み込み次第でいくらでも異なった表情を現す。」
この件について森川も同じくインターネットを紐解き、インターネットにおける「地縁・血縁に因らない趣味や関心の共通性に基づいたコミュニティ=コミュニティ・オブ・インタレスト」が、秋葉原の構造の変化を促した、と記している。つまり、「パソコンを好む人は、アニメの絵柄のようなキャラクターを好み、そうしたキャラクターが登場するアニメやゲーム、ガレージキットも愛好する傾向がある」というオタク趣味の構造が、現在の秋葉原を形成したのだと。しかし私は、この変化を趣味の変化や世代の変化ととらえるのではなく、技術の進化が趣味の構造の変化をもたらしたのだ、と主張したい。
オタクについて、まずかれらについて、サブカルチャー文化を愛好するものたちだと捉えよう。サブカルチャー文化はメインカルチャーにたいするカウンターである為、自ずとその文化を愛好するものはマイノリティとなる。そしてマイノリティである為、常に外部から奇異の視線に晒され(宮崎勤事件を参照されたい)、それに対抗するためオタクたちは様々な我流の理論武装を施し、それによって更にオタクはオタクとして、孤立、タコツボ化を極めた(こういった空気は、ガイナックスの元社長である岡田斗司夫が記した『オタク学入門』(太田出版)を参照されたい)。そしてオタクはまた、サブカルチャーの知識を深めるための仲間を必要とし、オタク仲間に出会える場所を強固に求めた。漫画家の篠房六郎氏は、かれ自身にとっての同志が集う場所であった武蔵野美術大学漫画研究会について、「かつてはクラスの隅っこにいた痛々しい孤独な連中が、自分と同じものの見方を持っている人がいると知って、救われる場所がここだった。」と表現している。
しかし技術の発展が、限られていた場所を無数に生み出すことになる――具体的に言うと、ネットに生まれた「コミュニティ・オブ・インタレスト」である。
秋葉原が「趣都」となった97年以降、PCやインターネット整備網、そして文化は急激に発展し、一般家庭に普及していった。オタクと情報家電の親和性は「2 オタク層の流入??趣都の誕生」の冒頭で述べた通りであり、また、Windows95以前もニフティサーブやパソ通などで、一部のオタクはBBSを通じて他のオタクとのコミュニケーションを図っていた。その後インターネット人口が拡大するにつれ、オタクたちはかつて無い数の「同志」と出会うことになる。現実世界では「距離」によって出会えなかった人々と、モニター越しに交流することができ、どんなにニッチな趣味でも「仲間」を見つけることができるようになったのだ。
「仲間」と「コミュニティ・オブ・インタレスト」を形成できるというのは、前述したような「我流の理論武装」をする必要がなくなったことを現す。なぜなら形成したコミュニティを安定維持するため、構成員の視線は外部より内部に向かうからだ。よって仲間同士、理解しやすく、されやすくするため、お互いにとって理解しやすいものを求めるようになり、その為表層と呼ばれているデータベースを、お互いのコミュニケーションにおいて重要視して使用するようになった。「巫女」や「ツンデレ」など、キャラクターの要素をあたかも服装の組み合わせによる着こなしように消費し、コミュニケーションのための文法とするオタク。作品から好みの要素切り離して楽しむことができるからこそ、エヴァンゲリオン以降ヒット作に恵まれなくとも、オタクたちはサブカルチャー文化を愛好し続けることができたのだ。
秋葉原の今を見つめるブログとして、アキバblog(http://www.akibablog.net/)というサイトがある。このサイトは毎日秋葉原の店先をチェックして、物品の販売価格のほかに、店員が作る個性的なPOPを“ネタ”として紹介することをメインコンテンツにしている。このサイトを眺めていて目に付くのは、店が掲げるPOPに書きこまれた“ネタ”はマスメディアが流布したイメージよりも、インターネットから生まれたジャーゴンである場合が圧倒的に多いということだ。普通の店なら「○○という番組で紹介された??」という文句を掲げるはずのものが、ここではネットのジャーゴンを絡めて、連帯感を出して売られている。また、匿名掲示板群である2ちゃんねるから生まれたキャラクターグッズを売るショップもあり(因みに同じ2ちゃんねるで話題になったのまネコFlashとそのキャラクターがAVEX資本で商品化されたときには非難が集まり、秋葉原発のグッズショップにはなんら実害を及ぼさなかったこの対比は興味深い)、現在の秋葉原はオタク文化というマスではなく、ネットというマスに向けて情報を発信していると言えよう。話題になったドラマ「電車男」も、触れ込みは「オタク発」ではなく「ネット発」とうたわれていたのも思い出させるし、そもそも秋葉原名物となったメイドも、(始まりこそあるアニメのコスプレ喫茶として生まれたものの)オタクたちが共有イメージとして持っていた「メイド」を現実化したものであり、特定のアニメ作品というマスメディアから生まれたものではないことも記しておこう。
高度成長時代、メーカーにとって秋葉原とは、特例的な値引きを許し、かつ消費者の反応をフィードバックさせるための実験場であり、社員の技術者が新製品とともに、専門知識を備えた販売員として小売店へと配備された場所だった。今秋葉原では同じように、ネットから生まれた文化を貪欲に取り込みそれを街の貌とする実験場になっている。インターネットの発展により、個の集合体があたかもマスコミュニケーションのように総体として機能し始めた現在。「趣味の構造が場所を変えた」都市に加え、「既存のマスメディアだけでなく、個々が生んだネットメディアと交流をとる」最先端の都市として、現在の秋葉原は評価されるべきだろう。
参考文献
「週間大衆:昭和54年8月9日号」焼跡のバラック問屋街を『世界のアキハバラ』に高めたガンコ一徹
http://www.shimura-musen.co.jp/home_2/kiji_02.htm
http://www.akiba.or.jp/history/index.html
オタクとは何か? What is OTAKU? | Web草思
http://web.soshisha.com/archives/otaku/index.php
http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/20061029#p1
http://sotokanda.net/his_cafe.html
註:ちなみにメイド喫茶が爆発的に増えたのは、私の記憶によればドラマ「電車男」以降のはずである。
コミックマーケット30’s ファイル 発行:(有)コミケット 発行人:米沢嘉博
カーニヴァル化する社会 講談社 著者:鈴木謙介
動物化するポストモダン 講談社 著者:東浩紀