はてなキーワード: へったくれとは
人類、特に十歳未満の男性において、「ちんこ」及びそれに類いする単語(ちんちん、ちんぽ、おちんこ等)は、多くの場合笑いの対象であり、
現にネット文化において下ネタに反応し七色に光る鳥を「TINTINparrot」と呼称する、ワクチンを二回摂取する事を「ワクワクチンチン」と呼称する等、大いに笑いの文化として親しまれている
しかし、一方の「まんこ」については、笑いの対象として見る事は非常に稀である
多くの場面でジョークとして親しまれる「ちんこ」と同じように「まんこ」を使用しても、得られるのは失笑が良い所で、多くの場合は不評、ブーイングを受ける事となる
とはいえ、そんな事は諸兄もご存知だろう。しかし、何故「まんこ」は「ちんこ」程の社会的地位を築けていないのだろうか? その問いをすぐに答えられる人間というのは十人中五人もいないだろう
なので、持論で恐縮ではあるが、今回は二つの理由をお教えしたい
いきなりで申し訳ないが、そもそも「まんこ」そのものの形に「面白い」という印象を受けさせるのは難しいのだ
「ちんこ」は面白い。体からびょんと生えている謎の肉の棒。そしてそこから小便が放出される機能としてのおかしみ。それが面白さに繋がっているのだ
だが、「まんこ」とは穴である。もちろん穴にしてもミミズ千匹とかそういった形の面白さはあるかもしれない
しかしそれを表面に出せるだろうか? 文字通り目に見えて分かりやすい面白さがあまりないのである
もちろん、体に何故か穴が空いているというおかしみはあるかもしれない。でもそれを言ったら耳も口も尻穴も一緒だ
「ユニーク」という単語は時に「面白い」という意味で使用されるが、他に「一意」という意味がある。「ちんこ」は「体から生えている肉棒」という一意性があるが、「まんこ」にはその一意性がなく、確たる地位を築くのは難しい
仮に「まんこ」が面白いとしても、それは「まんこ」の中に「ちんこ」を入れる事の意味を知る人間にしか面白くないだろう
男児でも分かる面白さが「まんこ」にはない。それがこの理由である
「まんこ」は機会損失をしている。いやそうならざるを得ないのだ
男性はもちろん、所有する女性すらも「まんこ」と向き合う機会が少ない
「ちんこ」は所有者たる男性とのスキンシップを欠かさない。小便器に放尿する際は、まず確実に「ちんこ」と素手で触る機会を得る
更には、これが公衆トイレである場合、他人の「ちんこ」を見る機会も同時に得るのだ
単純接触効果。「ちんこ」は積極的に男性とのコミュニケーションを取っている
しかし、「まんこ」は違う。女性トイレといえば個室であり、他人の「まんこ」など見た事のない女性が大半だろう
そして、自分自身の「まんこ」に接する機会すら殆どない。用を足すのに「まんこ」に手を添える必要もないし、入浴の際に洗うにしても泡のたっぷりついたボディタオルで表面を擦るくらいだろう
男性諸君は、自分の「ちんこ」を見ずに成人を迎えただろうか? いや、ない
「まんこ」は鏡という道具を用いて意識的に見なければその姿を明かさない。つまり意識しなければ「まんこ」と無縁の生活を送る事になるのだ
あなたにとって、「プルムイプルムイ」は面白いだろうか? 十中八九答えは「何それ」だ。見た事も触った事もない存在に面白いもへったくれもないのだ
このようにして、人類が「まんこ」に触れる機会は驚くほど少ない。もしあなたがそんな事はないと主張するのであれば、それはあなたが「まんこ」を愛する女性であるか、非常に恵まれた男性であるか、である
(ここに指を一本立ててにこやかな笑顔を浮かべるスーツ姿の女性の画像を貼る)
大量に血液出てたり、はては拷問の末に殺すとかそういうんじゃないんだよ
あとおっぱい出したりレイプしちゃたりとか、そういうんでもないんだよ
ぶん殴ってわからせてやってから、涙目で震えているところに、指切り落とすとか骨折させるとかそれくらいのが良いと思います
後精神壊れるのとかも何が良いのかよくわからない。いきなりドカーンと再起不能な大きなダメージ与えていて情緒もへったくれもありません。
っていうか再起不能とかほぼ殺人だからな。リョナとはちがくなーい?リョナられても、最後の希望がちらついて「正気を手放せない」という絶望を味わいたいのです。
つまりリョナ作品っていうか、味わい深いリョナシーンがある作品かも。
痛がる姿とか苦しむ姿もいいですけど、それだけではなんか興ざめする。
直接ぶん殴ったり拷問するとかそういうシーンもう良いんだわ。弱み握ってエッチなことやらされるかも〜とか思ってるところに、自分で自分の指を切り落とさせられるとか、そういう程度のが読みたいです。
痛みや苦しみ暴力を前に怖気づいて怖がっている様子をもっと丁寧に描写してほしい
最初は気丈に振る舞っていても畳み掛けられる暴力、インフレーションへの恐怖に屈する様を愉しみたい
リョナで検索かけるとオーバーキルしてたりエロ作品が多くて、ちょっと違うんだよなぁってなる
逆に言うと暴力とかが伴わなくても、吐き気をもよおすような絶望を感じられるシチュエーションは好物なので、自分が求めてるのがリョナじゃないって可能性はある
絶望を描くってのはそのもの物語を丁寧に書かないと表現するのが難しいから、必然的に絶対数が少ないとか?
ただの鬱作品やエログロには興味がありません。最初から計画されて丁寧に積み上げてから、地獄の底へ突き落とされるような絶望を味わいたい
なんなら最後は助かってハッピーエンドでもいいくらい。一般小説というには暴力表現がしつこくてやりすぎてて、成人向け作品というにはエログロが足りないくらいのやつ読みたい
病名が被ることは別に気にしないが社会の中での生きづらさというのは確かに存在する。
これの嫌なところは、試験とか能力検査ではあまり引っかからない点。例えば俺はSPIとかは比較的高めにとれる。公務員試験とかの一般教養も苦手科目を集中的にやれば、地方クラスは結構突破しちゃう。クレペリンは何度もやったせいか一般人に擬態可能だった。
ただ日頃から感じているのは「極端な先送り癖」「一つのことへの強い執着、執着がなくなった際の虚脱状態」「他者とのコミュニケーションが常にどこかおかしい」「だろう癖」などがある。当然仕事はうまくいかない。人より優れている部分はどこかにあるのだろう。だけど基本的な事務作業があまり得意ではないしミスも当然多い。確認のし忘れや「だろう」で済ませてしまうことで問題になることは多々ある。相手が確認したはずだろうから〆切まで何も言われなければそのままにしてしまったり、自分がしたいことしかできなかったり。怒られてもそれは改善しない。
思えば小学生時代から挙動がおかしかった。精神年齢は常に他の人より3つは下。
小学生のとき、バイクのプラモを部活動で作っていたことがある。そういう自由な部活だった。だけど結局1年かかってもバイクは完成しなかった。説明書も読んで家でも試行錯誤していたのに。いまならわかるけど、手先が不器用と言うより根本的な作り方を理解していなかったんだろう。接着剤の使い方や部品の管理が全く出来ていなかった。単純なことに気を配れない。自分がそうだと思ったこと以外が目に入っていない。
あらゆる場面で、説明を受けているのに何も理解せずに自分勝手で場当たり的な行動をして、他の人が間違いを教えてくれていた。健康診断では胸部エックス線の撮影のやり方がわからず一人だけ別行動をしていた。郵便の仕組みを学ぶ授業では自分で勝手に手順を変えようとしていた。どの学年においても人の話を聞いて行動した記憶が薄い。常に自分がやりたいことを自分の判断で行っていた。
中学生はThe挙動不審。はからずも部長になったときは本当に酷い状態だった。周りからの信頼を無くして逃げるように部を去った。図書委員にしても他校との定例会で大いびきで寝ていたり、文化祭では異様に張り切ってしまい周りをドン引きさせていた。学年からの評価は「将来大物になりそう」だった。
常にどうしようもない人生である。人より羞恥心が薄いというか客観で自分を捉えられないせいか、他者とのコミュニケーションはいつもおかしい。大人になってもコミュニティ内でのトラブルメーカーである。正論で人を攻撃し、逆に攻撃もされる。追い出され逃げ出したコミュニティは数知れない。
そんな感じがいまも続いている。これは正直どうしようもない。一時期は薬を処方して貰っていたが大した効果はなかった。診断が間違っていたのかもわからない。
こんな推敲もへったくれもない文章書いているのは、徹夜あけの気分を紛らわすためなんだけどね。
俺はこの先、どうしたらいいんだろうか。
KKOとまではいきませんが、とっくに成人しているのにいまだ交際歴ゼロの人間ですから、恋愛弱者としては上等かと思います。
自分で言うのもなんですが、顔の造形の悪さには自信があります。
性格の悪さにも同様に自信がありますが、性格が悪いゆえに仕事をする上で取り繕える程度には困っていませんし
それも自称でしかないので、実態がどうなのか、それで生活が本当に上手くいってるのかはご想像におまかせします。
弱者男性に随分と憎しみを向けられていたようですが、真摯に文章を読ませていただきました。
読んでいるうちに、以下の2点が頭に浮かびました。
・「理解のある彼くん」をあげつらって批判していたのは弱者男性だけに限った話ではない
・そもそも「理解のある彼くん」持ちは非難されても仕方のないことをしでかしている
今回は「望むところだ」ということで、後者を重視して書いてみます。
あくまで、「理解のある彼くん」持ちとハンデを持つ女性は完全に同一では無いという見解であり、
以下はハンデを持つ女性全てを批判しているものではありません。
これから記載している内容に反論がありましたら遠慮なくご指摘ください。
「理解のある彼くん」は、何も最初から障害や病気のハンデを持つ女性を攻撃するために産み出された単語では有りません。
それは障害や病気のハンデを持ちながらもそれらに向き合いながら生きている、ということを綴った女性達のエッセイから概念が発見されました。
ネットで複数の作者の漫画の「理解のある彼くん」が登場するページを1枚にした風刺画像を見たことがあるでしょうか?
まるで判を押したように展開が同じなのです。
エッセイということは実体験でしょうから、細かいところは省いたりフェイクを挟んでいる可能性があるとは言えど大筋はノンフィクションでしょう。
「なんだかみんな展開が似たりよったりだぞ??」と気づかれだしました。
この指摘については、何も弱者男性だけから発信されたわけではありません。
女性作家から、カウンター的にエッセイ漫画で指摘されているものでもあります。
この指摘で耳が痛かったならば、弱者男性だけを敵視するのは誤りであると言えるでしょう。
あなたがたが敵に回す範囲、軽蔑すべき範囲は本来もっと広いはずです。
それをすることができない、いや認知しようとしないのは何故でしょうね。
全ての女性が「理解のある彼くん」を得られるとは思っていませんし、
「理解のある彼くん」を得ることが誰であっても簡単だとも思っていません。
すぐキレる、情緒不安定になり周囲に当たり散らす、それらが病気や障害によるもので苦しんでいる――――――。
いかにハンデを抱えて生活することが大変か、という点で綴られていましたが、
「自分」が大変である、という視点のみで描かれていることが多いという感想を持ちました。
綴られているケースのうち、同情すべきものももちろんありましたが、
いくつか幼稚過ぎて理解できない行動も含め、都合よく正当化されているように見えました。
(それだけ的確な判断力を持ち合わせられないぐらいに根深い病気である、というのを私が理解できなかったのかもしれません)
しかしながら、作者は過去のことを反芻しエッセイに仕立ててるうちに、再考して思うところがなかったのかなと考えています。
ウソを書けということでなく、ぼかすなり内省の補足をするなりあるはずです。
上記は私個人の感想ではありますが、エッセイ漫画を通して「女性はハンデ持ちでもイージー」というネット上の共通見解が得られたのは、
私と同じような感想を持った人が多かったのでしょう、と勝手に推察しております。
「理解のある彼くんがいるから」ではなく、「理解のある彼くんだって出来る上に、そもそもこんな認識で生きているから」と思っているのです。
「私が弱者男性故に対象が女性というだけで色眼鏡で見ている」、そう思われるかもしれませんが、
他で消化器系を長く患われている女性作家さんのエッセイではその苦労や辛さに深く同情し、何一つ批判的な感想を抱きませんでしたし、
精神を患われている女性作家さんでも「理解のある彼くん」に疑念を持っていた方のものは
特に前後でも病気を理由にした問題行動の正当化を感じる部分もありませんでしたので、
やっぱり「理解のある彼くん」の登場があるエッセイの作家さん達だけが悪目立ちしているように見えました。
本来、努力し、助け合い、思いやりを持ちつつも懸命に生きるハンデを持った女性たちという
決して揶揄や物笑いの種にすべき存在ではないものについて、これだけマイナスイメージを持たれてしまったのは、ここにあります。
ここでは「理解のある彼くん」に絞って女性の話をしていますが、
もちろん「甘ったれた男性」がいることも否定しませんし、弱者男性の中にそういった部類の人間がいることも承知しております。
ハンデを持った女性のリアルを理解する上で、当事者の知り合いがいるという人もなかなか少ないでしょうし、
そもそも当事者はむやみやたらに打ち明けることは無いでしょう。
自分の病気のことを顔を合わせる周囲の人間にベラベラ喋ることがありますか?
そんな「リアル」で認知されることが少ない状態では、ネットの発信力が強い現代において、
エッセイの「悪い意味で最もキャッチーな部分」によって認識を悪い方向に塗り替えられてしまった、というのが今の状況かと思います。
それでも、結果的に「女性はハンデ持ちでもイージー」という結論で
十把一絡げにして非難の対象になってしまった「まともにハンデと向き合っている女性」への誤った非難があったことは否定しません。
何故止めなかったのか、何故助けてあげなかったのか。何故咎めなかったのか。
でもそれは「過去に助けてくれなかったから、同じように助けなかった」ではないです。
そもそも、「弱者男性を助けなかった理由」でなく「〇〇を助けなかった理由」というべきでしょうか。
ですから、「弱者男性は精神障害者女性をサンドバッグにしてきた」という結論で
漫画や映画とかだとこの世の終わりが近づいてきてるってところで、ついに世界が一つになって危機を脱出した、みたいな展開あるじゃん。
しかし現実を見てみると、コロナで世界中が危機に陥ってる今の状況でも、ワクチンは国ごとの開発だし、どこがコロナの発生源かとかで責任の押し付けあいじゃん。
漫画ならここで、世界統一ワクチンを世界中の権威が集まって開発して各国の工場で生産、迅速に世界中に供給して世界は救われたってところだよ。
まあどこも利益優先だからあり得ないんだけどね、それはわかるけど悲しいね。
こんな世界中が同時に同じようにピンチに陥るなんて二度と無いんじゃないだろうか。それでダメだったんだから、やっぱりあれはフィクションの中だけの話になってしまうんだろうなあ。
社会(この場合は国家と言い換えてもいいと思うが)のゴーイングコンサーンを否定するのはさすがに少数派ではないかな。社会保障もへったくれもなくなるので。