はてなキーワード: うんざりとは
俺って理屈で物事を考えてひとつひとつ積み上げていくタイプではなくて感覚派なんだよ。
ここはグッと攻め込んでこの場所ではギューっと抑えてから反動でビュッと飛ばしていこうとか
そういう感覚なんだよ、全部が全部。
こういう文章を書くときでさえ論理的な思考はしていない。あくまで感覚。
そのフィーリングを狂わせるようなものがあると段々と調子が悪くなってくる。
例えば部屋の中のソファーの位置が、なんか違うな、と感じるとその部屋の中で自分がうまく存在できなくなってしまうんだよな。
あと仕事とかだと誰かがなにかの手順を間違って順番が狂っていたすると
自信を持ってその仕事に対して自分のカラダを没入できなくなるんだよ。
藤本タツキ氏の影響で「私小説風で映画を意識した作風」を描く漫画家志望者が増えたんだけど、
他人のアドバイスを受け入れられないタイプの志望者がなぜか藤本タツキ氏と作品に過剰に自己投影してて、
正直キツい。
読者の視点を意識する能力が全然育ってないのに、自分を投影した主人公が突然叫んで何ページも自分語りする作品を描いてくるんだよ。
「自己投影した人物の異常に細かい自分語り以外は既視感ある表現のツギハギで、漫画として成立してない漫画」自体は志望者の描いちゃうものとして割とよくあるんだけど、
問題はこういう点をオブラートに包んで指摘すると突然キレて「藤本タツキは天才ですよ、アンチですか?」みたいなことを言ってくるんだわ。
いや、藤本タツキ氏の作品とあなたの漫画とは全然違うし、そもそもあなたは藤本タツキじゃないし、お前は一体何を言ってるんだ?状態。
アドバイスされているのは藤本タツキ氏の漫画じゃなくて、あなたの描いてる漫画なんだけど…
どう見ても他の人気作品とそっくりの漫画を描いてきた志望者に「あなたは○○先生じゃないでしょ?」と言って「○○アンチか!」と逆ギレされることはまずない(と思う)けど、
めちゃくちゃ独りよがりな漫画を描いてきた志望者に「読者の視点を意識してね」と言って実は相手が藤本タツキ氏に強い影響を受けていた場合、逆ギレして印籠のように藤本タツキ氏の名前を出してくることがある。
全員そうとは限らないけどヤバいやつは本当にヤバい。なんでこうなるんだ?
藤本タツキ氏の漫画、読者の視点をすごく意識してると思うんだけど…むしろ良い例として出したいくらいだぞ。
そういうのを何人か相手しててうんざりしたあと、藤本タツキ氏に強く影響された志望者は、
「私小説風で映画を意識した作風」=「藤本タツキ風」=「主観的で感情をぶちまけ読者に媚びないのがタツキ風」(?)=「読者の視点は気にしなくていい」(??)=「俺の作品を批判する奴は藤本タツキアンチ」(???)
と考えているんじゃないかと思った。
藤本タツキ氏の漫画は面白いし好きだけど、藤本タツキ氏に影響されて描いた志望者の藤本タツキ風漫画は主観的すぎて意味不明なことが多くてキツい。
ファイアパンチもチェンソーマンもルックバックもさよなら絵里も、読者の視点を無視した作品じゃなかったはずなのに、なんでそうなるの?
(ファイアパンチは若干怪しいが)
志望者がプロになるためのハードルである「過剰に自己投影した人物を描かない」「読者の視点を意識する」「第三者のアドバイスを受けて軌道修正する」を越えられない人は昔から居たけど、
その自己正当化のための武器として藤本タツキ氏を持ち出す人が増えた印象。
なぜかそういう人物ほど過剰に藤本タツキ氏に自己投影してるけど、
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/kafkaesque1924/status/1543144934387384323
このエントリ見てるとレドマツは本人が言い出したものだから蔑称じゃないってコメントが複数出てくる。
これって支那はChinaに漢字をあてたものだから蔑称じゃないっていうネトウヨの言説の生き写しですっげえ気持ち悪い。
支那という単語は侮蔑的に扱われてきたという歴史的経緯があるから元来の意味はそうであっても現在では侮蔑後であり使用は不適切である、がリベラル界隈の通説で私もその通りだと思う。
にもかかわらず、レドマツという単語を使用して赤松健を侮蔑的に扱う反赤松健の方々(反自民でリベラルな方々と思われる)はネトウヨそっくりの言い訳をして赤松健をレドマツと侮蔑的に呼ぶことにちょっとは疑問を覚えてほしい。
対消滅してほしいとはホントに対消滅したら日本が消し飛んでまうんで言わんが、足して2で割っていい感じに薄まってほしいで。ホンマに・・・
「四国の水がめ」早明浦ダム 貯水率 平年比50ポイント以上低い | NHK
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220628/k10013692201000.html
高知 早明浦ダム 貯水率低下で取水制限 香川へ供給50%削減 | NHK
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20220702/k10013698611000.html
・「うどん茹ですぎやろ」「うどんは海水で茹でるしかなさそう。」「うどんゆでれないねえ」「またうどん茹でてんのか」
初夏から秋にかけての渇水の起きやすい時期の香川用水のほとんどの水はかんがい向けの農業用水(11.3m³/s)で、水道用水よりずっと多い(3.87m³/s)
https://www.pref.kagawa.lg.jp/tochikai/shiryoukan/about.html
・「てか何で自県でダム用意しないんだろう?」
と思ったんだが、よく考えると赤松に入れると自動的に所属政党に票が入るんだよなあ……
赤松が政党内の名簿で上位になることで、他の奴らが変わりに落ちるかも知れないって期待はある
じゃあどこに投票するかって話なんだがカウンターウェイトだけを期待してライバル政党に入れてしまうのも悲劇再来な匂いしかないわけで
問題は信頼に値する公約を掲げている政党が限りなく0に近くてN党や女性天皇のシンプルコンセプト政党ですら公約の信憑性が怪しいこと
こうして産まれた浮遊票をかき集めるコンセプトのごぼうの党に下手に投票すると政治はパフォーマンスだという国になりそうでウンザリする
とはいえ完全に票を捨てるというのも嫌なのである程度の力を持ってるところに入れたい
となると始まるのが消去法だ
ひとまず選挙公報を見ていくと入れてはいけない候補者が見えてくる
まず分かりやすいのが過激な表現を多用することでインパクトを持たせている候補者
政党を隠しているのではなく限られたスペースの中でインパクトを持たせるために情報量を絞っているのだとしてもそれで政党を絞って良い情報と認識した時点でアウトだろう
だいぶ数が減ってくる
問題は比例だ
いざとなったら泡沫に入れれば票のシュレッダー化での妥協ぐらいは出来る個別選挙区の候補者と違って比例の緊張感は高い
レドマツ・ごぼうを除外した先のロジックを応用していくと見事に入れる先の候補がなくなってしまう
個人として応援したい政治家を探そうとした所でレドマツロジックを応用すればそれは単に特定の政党の議席を伸ばすだけに終わることがわかる
これは厳しい……
投票率が下がるのもわかる……
うんざりしてくる……
辛い……
苦しい……
この国の選挙は悲しみに濡れすぎている……
もうレドマツでいいか……
左派系野党が「減税」を掲げていることについて、正直うんざりしている。自分はゴリゴリの護憲派左翼なので、これまでもこれからも自民に投票することは絶対にないが、「減税」を掲げる野党勢力が大きく勝ってほしくないのが正直な気持ちだ。
たとえば、もし消費減税を掲げる野党勢力が選挙で大勝利して、減税しないと国会が収拾つかなくなった場合を想像してほしい。それを実行するのは左派系野党ではない。あくまで「消費減税するなら社会保障を3割削るぞ」と明言している自公政権(及びネオリベの維新)である。「社会保障費の膨張」に危機感を持つ財務省も、大ナタを振るうきっかけができて大喜びのはずだ。
このように左派系野党が大勝利して減税がめでたく実現した場合、社会保障は立て直すのも困難なまでにボロボロになってしまう。年金や医療が減るだけではなく、岸田首相が掲げる介護士や保育士の賃上げ政策も頓挫するだろう。減税で瞬間的に消費は増えるかもしれないが、長期的には将来不安で消費の慢性的な冷え込みをもたらすことになる。
もちろん野党は減税の財源を社会保障の削減に求めることには反対している。しかし他方で、野党の選挙の看板としては、「社会保障の維持と充実」ではなく「減税」が優先されている。減税を看板に選挙を戦っている以上、減税の生贄が社会保障になることに無責任であってはならないだろう。マックス・ウェーバーの『職業としての政治』でも読んでほしい。
誰も本当のところを言わないので俺が言ってやる。
>元々、ネットネタとしての京都人いじりは大概うんざりしてたんだよね
あれはネタでやっているのではない。皆本気で京都人を嫌っている。理由は元増田を読めば明らかで、あれだけ陰湿で閉鎖的で差別的な府民性にもかかわらず、本人達には反省どころか自覚すらない。他府県民の魂の叫びとも言える京都disりを、ネットネタの一言で流してしまう傲慢さ。他府県民にはそういう態度が耐えられない。
こう書いても反論が来るだろう。「俺の周りの他府県民はそんなことないよ」と。大きな間違いである。皆腹の底では京都を、京都人を嫌っている。皆大人なのであからさまには出さないようにしているだけである(このあたりの常識も京都人にはないので、明示的に嫌われなければ好かれていると平気で勘違いする)。元増田からもわかるとおり、自分達には嫌われる要素は何一つないと本気で信じている。
俺が知る限り、京都を悪く思わない人間は2種類しかいない。生まれながらの京都人と、今まで京都と一切の関わりがなかった人間だけである。
ブコメで主語がでかいというご指摘を幾つか戴いているが、正直なところ、そういうコメントをする方は、今までの人生において京都人との関わりがなかったのだろうと思う。その僥倖がこれからも続くことを心より願うばかり。
一応書いておくが、俺を叩いて京都人の味方をしたところで奴らは感謝など一切しない。下々の者が自分達の為に何かするのは当たり前だと思っている。自由、平等、人権といった概念が生まれる遥か以前から、京都は都として栄えてきた。そこに住まう者が他の地域の人間を差別するのは、彼らには息をするより自然なことであり、それが何百年も続いているが故に、自分達が嫌われている自覚すら持てないのである。
もっと人が書いたものを理解できる力を身に着けてから言及しようか。
さすがに頭の悪い言及をいちいちされるとね、このクソ暑い日々にうんざりするほど不愉快なんだよね。
人間として活動しているのなら、最低限の読解力は身につけて欲しいな。
元々、ネットネタとしての京都人いじりは大概うんざりしてたんだよね。もちろん、県民ネタはある種テンプレ化したやり取りを楽しむって側面もあるから一概に悪いとは言えないけど、ネット上の京都人ミームは特に性格上の「悪い点」にフォーカスして弄るのが多すぎる。年配のごくごく一部でやる人がいるかもしれない(俺は遭遇したことないけども)ぶぶ漬け伝説やら、やっぱり一度も聞いたことがないピアノ上手ならはったなあとか。それでもネタならいいんだけど、花街関連のツイートでついでとばかりに京都人叩きまで始める「性格悪い」ツイートを多数見てで吐き気がする。京都人に差別的な発言を平気でする人がどの口で人権を語れるのか。ちなみに、本題じゃないけど、舞妓さんとどうこうは大抵の京都人は興味もないし体験もしたこともなかろう(俺も別に特に興味なかった)ってのが正直な実感。さすがに高級キャバクラ的な側面はあるよねってくらいのことは皆肌感で知ってるし、だからこそ行く人も多くないから実態もあんまり知らないのだけど。
もちろん、京都人だって人間だから、性格悪い人もいい人もいるし、婉曲に言う人もストレートに言う人もいる。地域や生まれによってドロドロした内面を持っている人だっている。でも、それは日本人全体で色々な人がいるのと同じ話でしかない。なんでこう京都人を特別攻撃したがる怨念深い人がいるのか。京都人が~とネットで叩いている人の方が「よっぽど」地域差別主義者で陰険で性格悪いじゃんかと思う。
京都が好きな京都っ子の一人として言いたいんだけど、京都に居て「嫌味な人」に出会ったのなら、それは「その人が嫌味」なのであって、別に京都人が総じて嫌味なわけでもない。逆に素直に言ってくれる人に出会っても「京都人「でも」こういう人がいるんだ」じゃなくて、単にその人が素直なだけなんだよ。地域バイアスというか、ネット上の真偽定かならぬ情報が広まって都市伝説を一部事実と思っちゃう人がいるのは仕方ないけど、自分たちが地域で人を差別するという陰湿なことをしているのはそろそろ気づいて欲しい。
その上で、あえて「京都人」なるものを語るなら、一つにはいわゆる洛中・洛外みたいな区別はある。ただ、昔(肌感では70 overくらいでそう思ってる人はたまにいる)ならいざ知らず、現代っ子(俺は30台だけど)だと、北は北大路通、南は八条通(京都駅)まで(東西は人によって見解が異なると思う)、それより北とか南になると「単に風景が違う」からなんとなく「別の区画」って認知してるだけ(同高出身の友人と以前に語ったんだけど、思春期に洛中とか洛外とかいう意識はなかったけど、「風景が違う」ことは同じように認識してた)。あとは市内中心部(たとえば二条駅近く)とかはアクセスがいいから「便利だなー」って意味で「羨ましいなー」みたいな会話が繰り広げられることはあるけど、基本的にはそれだけ。地域でマウント取り合ってるとかそういう深読みしてる人もネットにいるんだなと思うけど、それはその人が日常的にマウント取りあってる性格悪い人なんじゃないかと思う。
京都市以外は京都と認めないみたいなお話もあれは外の人から見た偏見であって、単純に「市内」と「それ以外の京都府」だと風景が違い過ぎるから同じに見られないというだけ。東京都でわかりやすいように言うと、23区とそれ以外をなんとなく地理感覚として区別するだけの話かな。たとえば、宇治は行政区画上は「京都府」だけど一度も行ったことがなくて、そこにある風景が肌感としてわからない。宇治出身の人に、「宇治てどんなとこです」と聞いたら「過疎化してますねー」とかえってきたことがあるんだけど「なるほど、宇治は過疎化してるのかー」と思うだけで、そもそも宇治の風景を知らないから語りようがないんよ。これが、市外の人からすると「見下されてる」という思い込みにつながるんだろうなとも感じるけど。
あとまあ、日本有数の観光地だけあって、コロナ禍前は観光客多すぎてうんざりみたいな地元話はあるけど、こういうのもどこにでもある話よね。でも、別にそれは陰湿であるとかそういう話ではなくて、地元で観光業に関わる人でなければ、人増えすぎて日常生活が阻害されるからしんどいってだけの話でしかないんよ。
洛中に住んでるとかドヤ顔でいう人は(リアルではまず見ないけど)どうもネットの一部には棲息してるのは確かだけど、リアルでそんな時代錯誤なふるまいを取る人に遭遇したら間違いなく仲間内では「やな感じの人だよねー」って話になるよ。結局、京都人といっても現代日本に住んでるし、しかも比較的都市部だから大枠では現代日本人だし、嫌味な人に遭遇したらそら嫌味だなって感想にしかならない。
もう一つだけ、京都人、特にいわゆる洛中区画に居る人の特殊性が一つあって。いわゆる洛中って地域として超狭いから、そこに住んでるだけで「お互い結構ご近所にいる」って感覚なのよね。だから、その地域にある地名とかは一発でお互いに通じるし、京都の外でその辺の人に会ったら「ご近所さんだな」という感覚にもなる。だから、その地域にいる人ならすぐ通じる話とかあって内輪で盛り上がる習性は少なからずあるのは間違いない。この辺とかも、外から見ると「洛中出身の人が外の人にマウント取ってる」みたいな感覚になるのかもしれないけど、もう端的に言って誤解。もしマウント取ってる人がいたら、やっぱり「あの人やな感じよねー」となるだけよ。
ちなみに、個人的なエピソードを語ると、俺はチェーン店より個人経営の飲食店が好きでよく行くんだけど、基本的には美味しかったら、素直に「このカレーとっても美味しかったです。また来ますね」みたいに褒めた方が喜ばれるし、嫌味に取る人なんぞ遭遇したことがない。というか、そう素直に褒めるだけで、次から顔覚えてて挨拶してくれるいい店主が多いくらい。一方、京都市内ってとにかく狭いから周りに迷惑かけないようにマナーに敏感な人は(これは偏見じゃなくて)多くて、周囲の人に迷惑をかけないように張り紙してる人とか多いけどね。地方都市の割に「狭いところに多くの人が住んでいる」故に神経質だったり繊細な人が多いのは京都人に多い気質かもしれない。
京都人を差別的に見ている人に、「京都人といっても普通の現代日本人だよ」という感じが少しでも届けばと思ってちょっと書いてみることにした。
追記:
洛中洛外の差別意識を自覚してないとか、宇治を差別してるとかいう人がいて、なんで普通に読んでくれないんだろうなと悲しくなるよ。
東京(墨田区)に一時期住んでたから、別の地域でわかるように書くと、亀戸と錦糸町は駅としては隣接してるけど駅付近の雰囲気は違うなーと思ったことはあるわけだ。たとえば、亀戸はやっぱ年配の方が多い気がするなーとか、遊べるところは少なめだなとか、街としてはおとなしめだなとか。一方、錦糸町はより栄えてて、駅北は家族連れ多くて全然雰囲気違うなーとか。そういう感覚で「いわゆる」洛中と洛外の雰囲気の違いはあるなと感じるというお話。亀戸の人はどうだとか錦糸町の人はどうだとか論じたらダメだけど、街としての違いを論じたら差別とかいうのは暴論もいいとこでしょうに。
ワイも岸田嫌いやないけどコロナ鎖国とかロシア制裁とかでやるべき時はやれるタイプで優柔不断な印象はないやで
野党側はウクライナがあって外交安保は争点化したくないしコロナ感染者や失業者は煽れる水準になくて
キシダインフレくらいしか叩けるネタないからネガキャンやりにくいんやろうなという気がするやで
「アベノミクスで雇用が増えたのは海外経済のおかげ」とか言っておきながら海外のせいでインフレになっても政権叩きにつなげるから見ててうんざりするやで
あと数量ベースで輸出が増えてないとかインバウンドの効果小さいとか言いつつ「アベノミクスで雇用が増えたのは海外経済のおかげ」というのも同時に主張したりして論理的整合性皆無な批判が多い印象やで
ここ数年で作られた映画では追加されたシーンなのかよく見かけるけど、苦手だな……
それが良いと思う人もいるんだろうけど
僕の人生は基本的に悪夢によって規定されていると言ってもいい。そのような悪夢が初めて自分を襲ったのは四歳だか五歳だかの未就学児だった時期である。
この悪夢について僕は詳細を語るつもりはない。
それは明確に僕にとっての呪いであり、そして僕の人生を根本的に規定している夢だからである。
このような夢を安易に語ることによって、これまで僕が人生を運営していく上で必要としてきたシステム――要するに倫理――に悪影響が出ないとも限らない。僕はこの悪夢を基本的に墓場まで持っていくつもりである。もし、僕がこの悪夢を誰かに語るとすれば、それは僕が誰かに呪いを移し替えたいという、純粋な悪意によって衝き動かされる時に限られるだろう。
そのようにして、四歳だか五歳だかの時に、記憶に残る上では人生で初めての悪夢に見舞われ、僕の人生はある種決定付けられた。
悪夢とは――端的に落とし穴である。それは闇夜の落とし穴であり、夜になれば我々は必ず眠りに就かなくてはならず、つまり、闇夜の中を目印無しに歩かなくてはならなくなる。無事に夜明けまで辿り着ける場合もあれば、真っ逆さまに穴の中に転落することもある。それが我々にとっての――少なくとも僕が五歳だの六歳だった時の――悪夢だった。そのような悪夢を避けることは、基本的にはできない。偶発的に穴には落ちる。歩く限りで、そしてそこが闇夜である限りで、また、その闇夜の道に無数の穴が掘られている限りで――必ず我々は穴に落ちることになるのである。すなわち、悪夢を見ることになるのである。マーフィーの法則を持ち出すまでもなく、それが僕にとっての悪夢というものの在り方だった。
いかにしてこの悪夢を避けるべきか――という思考が芽生えたのはいつのことだったか、それは流石に未就学児の時ではなかったと思う。僕はその後も順調に、人生の岐路において悪夢に見舞われ続けた。つまり、積極的にこの悪夢を退けようとする姿勢――僕にとっての倫理的姿勢――を身に着けるのは、もう少し後のこととなる。
六歳だか七歳だかの時には、ランドセルほどのサイズの大きな蛾が、背中にしがみついた状態で、闇夜を歩く夢を見た。そして、その夢の中で僕の手には鎖と鉄球が結ばれており、それを引きずっていた。
以前その夢について増田に書いた時があったのだけれど、それは僕にとっての「カフカ的な重み」であったと増田には記させてもらった。六歳だか七歳だかにして、過負荷(当時のブコメからの引用)を背負うことは、はっきり言えばそれなりにハードなことだった。何でまた僕はこんな幼少期からこんな重みを引きずって歩かなくてはならないのだ? 僕はまともに歩くことさえ困難な状態におかれてしまっているじゃないか、と。
◇
時に美しい夢を見ることもあった。意中の女性を抱き締め、愛を語らう夢。そんな夢から覚めた直後には、朝の静かな空気の中で僕は幸せを噛み締めていた。
とは言え、そのような美しい夢に比して、同数以上の悪夢を見ることに、青年期の僕はうんざりとしていた。その殆どは、僕が所謂゛カフカ的重み”――つまりは゛過負荷”を背負っていることを突き付けようとする悪夢であった。
荷物が重すぎるのである。それを何度となく、僕は僕自身の悪夢によって示されることになった。゛お前はここから逃げられない”と。゛荷物を下ろそうとしたところで、それは無駄なのだ”と。゛お前の背負っている重みを常に直視し続けろ”と。
さて、僕はどうするべきだったのだろう。
勿論、僕のやるべきことは一つだけだった。つまり、荷物が何であるかを見定め、それをできる限りパージしていく――円満に背中から下ろしていく――ということそれだけだった。
僕は自分の重みから解放されなければならなかった。その手順を、一つ一つ確実に踏まなければならなかった。間違ったやり方をしてしまえば、その重みが加速度的に増して、自分の背中を押し潰すことは、僕にとって殆ど自明のことだった。
そう、゛間違えてはならない”のである。
正しいことをし続けなくてはいけなかったのである。何故なら、そこで間違った選択をすれば、僕は更に゛過負荷”に晒されることとなったであろうからである。
この場合の゛正しいこと”とは、繰り返すように、゛過負荷”について正しく理解し、目を逸らさず、誠実にその重みを扱っていくことである。幸か不幸か、僕は自分にとってのおぞましい重みが眼前に提示された際、その重みを瞬き一つせずに眺めてしまうという性向を持っていた。そのような性向はある意味では僕の青年期の情景に影を滲ませることになったが、同時に、その時の僕にとってこの上なく必要な事柄をもたらしたのである。
僕はそこから目を逸らしてはならなかったのだ。
僕が正しいことをしなくてはならない、そのために、全力を注がなくてはならない、そう決意したのは、悪夢の影響だった。自分にとって正しいことをし続けること、自分の素直な気持ちを大切にし、本当に大切なものだけを搔き集め、そうでないものに囚われないようにすること――かかる方法のみを以てしてしか、自分の重みを取り除くことができないことは、僕にとって明らかだったのである。シンプルに言えば、僕は正しいことをし続けなければ死んでしまっていたのである。僕自身の過負荷によって。
◇
僕自身にとっての倫理とはかかるものである。つまり、『死にたくなければ(悪夢の過負荷に押しつぶされたくなければ)、正しいことをし続けろ』というシンプルな命題。それが、僕にとっての倫理だった。
僕は、そのような倫理を個人的な格率として保持し続けた。僕が人生を生き切るためには、自分の夢を敵に回すのではなく、自分の夢に味方になってもらうことが、必要不可欠だったのである。
その後、僕は様々な人生のトラブルに見舞われることとなった。最も最近のトラブルは今年の初めくらいから生起しており、正直なところ正気を保つのに随分苦労しているのだが、しかし、ここまでやってきた努力の成果もあってか、夢だけは常に味方になってくれていた。
朝目覚め、少しだけ悲しい気分になるのだけど、でも、少なくともそれは悪夢の目覚めに比べれば、五千倍はマシなのだ。
◇