はてなキーワード: 黒柳徹子とは
毎日定時退社だし。
どうだすごいだろ。
別にすごくない?分かる、すごくないよ。
そもそもサラリーマンごときがイキっちゃってね。バカみたいでしょ。
知識も経験もまぁ素人相手に俺TUEEEできる程度にはあるんです。
だから「こいつと仲良くなっといて損はないな」くらい思われて自然なんです。
実際大体みんな仲良くしてくれるしたまに相談も来る。それって良いように使われてるだけじゃないのって思うかも知れないけど自分の知識使って無責任に説明欲満たすだけなので楽しい。
小さい頃は俺のことなんて家族くらいしか相手にしてくれなかったからもう泣いちゃいそう。
でもそんな中でもおるんや、俺に対してそっけない態度取る子。
なんなの?頭悪いんか?もう死ねよカス。言わんけどそんなこと。態度も変えず、罵声も皮肉も当てつけも何にもせんけど。死ねよ。
そう思う。
で本題だけど、有名人も似たような事考えてるんじゃないかなって。
クレンジングCM「水だけでこんなにおちる、素肌が~~(薄化粧顔を映し出す)」
少女マンガ「眼鏡を外したらみんなが驚くほど美人(素顔どうみても手入れしてる)」
etcetc…
そういう仕組みに気づいている人はちゃんとメイクするしメイクした分マシになってるから自信もでる。
メイクは知性。
眉毛ボーボーの人とか女で口ひげ濃いめな人はちょっと知性なさそうとは思う。
それ以上は本当に塗れば塗るほど毛穴が目立ってダメになる肌質の人もいるので
すっぴんのほうが見苦しくない人もいる。
素肌よりマシなら不問にしてあげてる部分がある。
小池知事や黒柳徹子のアイライン+レフ板バリバリも不問というか効果のほうが大きいからプロ意識として称賛したい。
ってわりとまともなこと書いたらほぼ全レス元増田から無視されてるんですがもしかして釣りかめんへらさんだったのだろうか~(棒)
逆にフェミニズム界隈の人はVtuberムーブメントを正しく理解できているのかな。
従来から女性が担ってきた役割から女性を解放して平等公平な世界を作るのが根本解決ではあるけれど、それにはとても長い時間がかかる。
じゃあということで、Vtuberの仮想的な見た目・性別を手に入れることで、手っ取り早く自分を女性としてではなくひとりの人間として扱ってもらえる、というのがVtuberになることの大きな理由のひとつだ。
つまりVtuberは、従来から〇〇が担ってきた役割からの解放という意味がある。
男性、女性、はもちろん、不細工でもナードでも美形でもマッチョでも、現実世界では見た目から期待されるふるまいから逃れることはできない。
その点おっさんが少女Vtuberになることで、マイナススタートではなく最初から普通に興味を持ってもらえる。
普通の女性がアニメ風キャラになることで、美醜や年齢の偏見なしに話を聞いてもらえる。
コスプレもわりとそういう部分があったけど、やっぱり顔立ちやスタイルの影響から逃れることは難しい。
Vtuberであれば、女子アナにも、田原総一郎にも、黒柳徹子にもなれる。
そこから先の話芸は実力だけど、こんなにもフェアに実力で勝負できる世界があることにみんな喜んでいる。
そういうさまざまな役割からの解放の象徴がキズナアイであることを理解していると、あんな雑な論じ方はとてもできないと思うんだけどな。
キズナアイがNHKのウェブサイトにおいてノーベル賞の解説記事に登場しておりましたが、そのことをきっかけに、千田有紀氏などが指摘をし、さまざまな方面から千田の議論に対する批判が寄せられ、さらには社会学そのものに対する批判もされているところです(これらをキズナアイ論争と呼びます)。
ですが、そのざまざまな批判を読んでいると、「これって実はコミュニケーション不足で、伝わっていないんじゃない?」と思うことが多くなりました。いろいろあって社会学を学んだ人間として、それはちょっと悲しいなという思いがあったので、千田氏の問題提起をちょっと分かりやすくお伝えできればと思います。
筆者は、社会学で修士号を得ています。今は大学から離れているのですが、離れてそう長くはありません。専門は千田とも重なる領域(家族やジェンダー)もありますが、教育やメディアでした。
あくまで、千田の問題提起がどのようなものに基づいて行われているのかを解説するもので、その意見の妥当性とかは議論しません。私個人としては、千田の立場に立てば理解でき一理ある議論ではあるが、だからといって、それは多くの人の理解を得る話法ではないし、その背景事情を一切踏まえていないのは、学術的に一定のポジションにある人のする作法としては疑問を感じているというところです。また、千田の学術的貢献はいろいろな批判があるようですが、私は一定程度は評価しています。
なお、アカデミックの作法は基本呼び捨てですので、ここでも、基本千田として書かせていただきます。
キズナアイ論争のはじまりは、千田の投稿記事です。https://news.yahoo.co.jp/byline/sendayuki/20181003-00099158/]
ちなみに、現在(10月13日)、追記もなされており、社会学者にはそれなりに分かる文章にはなっているのですが、一般の人はなおのこと分かりづらいことになっています。後に公表された、『「表現の自由」はどのように守られるべきなのか? 再びキズナアイ騒動に寄せて』記事による補足を踏まえて、まず、千田の議論の要点をまとめてみましょう。
(1) キズナアイはNHKの解説記事において「相づち」をする役割となっている
(2) 「相づち」をする役割は、従来から女性が担ってきた役割である
(3) 従ってキズナアイの解説記事における役割は、従来の女性が担ってきた役割を担っていることになる
(4) そのことは、理系と呼ばれる分野で活躍する女性などに対して、好ましい状況を生むようなものになっていないのではないか
というところに整理できるかと思います。
社会学、特にジェンダーやフェミニズムを学んだ人だと、この4つの間を頭の中でこうかな?と繋ぐわけですが、普通の人はフェミニズムを体系立って勉強するわけでもないと思うので、「はて?」となるわけです。更にいえば、一つ一つの要点が「え?!」という感じになるかと思います。
千田の議論を理解するためには、とりあえず(1)は正しいものとして引き受けておいてください。そこが正しくないとなると、そもそも議論の前提が崩れてしまい、議論はそもそも成立しなくなってしまうので、ご理解ください。
千田議論を理解するためには、いくつかの知識が必要となります。一つは、千田の専門でもあるフェミニズム、もう一つは会話分析というものです。順に簡単に紹介しておきましょう。
社会学は、社会を対象とした学問です。といえば、早いのですがそれではよく分かりませんよね。社会学は、社会がどのように成り立っているのか、つまり、社会の秩序はどのような形で形成されているのかを探求する学問です。例えば、古典的な社会学、特に日本の戦後の社会学では「農村」が特に注目されました。農村における人々のネットワークや、家族の在り方、そういうものに関心を持っているのが社会学です。
フェミニズムを正確に定義することは困難ですが、フェミニズムを雑にまとめると、「女性の地位を向上させようとする取り組みであったりそれを支える理論」というような言い方ができると思います。歴史的には大きく2つのターニングポイントがあったとされています。それが「第1波フェミニズム」と「第2波フェミニズム」です。
第1波フェミニズムは、1900年代ごろ、19世紀から20世紀へ移りゆくタイミングに起こりました。西欧諸国で主に婦人参政権を獲得する運動が中心に展開され、1920年代にはイギリスやアメリカで実現をすることとなります。(ちなみに、日本はというと戦後に婦人参政権が認められるようになるのですが、新婦人協会や青鞜社の運動は同時代の運動です。)
第2波フェミニズムは、1960年代頃、社会運動が盛んになった時期に、女性らしさへの問い直しが運動として行われます。代表例ではキリスト教社会では長らくタブーとされていた中絶の合法化が挙げられます。また、この時代には女性が自らの自由に性を語るということが積極的になされるようになります。
いずれにせよ、その理論的根底には、女性は男性と同等の状況にないという認識に立っているということがあります。
第1波フェミニズムで焦点化されたのは、法律や社会制度というものでした。第2波フェミニズムはというと、法的制度は平等であっても、職場ではお茶くみに甘んじてしまっているし、男性と同じように性を語ることはできないというような、日常の性差別に特に焦点を当てていくようになるわけです。
現代は第2波フェミニズムの延長線上にあります。#Metoo運動を始めとして、第3波フェミニズムがやってきているというような主張も時折みるのですが、第2波フェミニズムより後のフェミニズムの運動について、多くの社会学者が納得しているような分類はまだ確立していないのが現状です。
上野千鶴子の理論などを理解する上で重要なキーワードが、マルクス主義フェミニズムです。そういう立場だと、だから上野千鶴子はそういう立場なのね、と理解できます。千田議論もとりあえず、マルクス主義フェミニズムで解釈すると、理解がしやすくなると思いますので、こちらを説明します。
(フェミニズムにはさまざまな立場があります。ラディカル・フェミニズムやリベラル・フェミニズム等です。フェミニズムも一枚岩ではないと、理解しておくと良いでしょう。)
マルクス主義フェミニズムとは、先ほど、フェミニズムが女性は男性と同等の状況にないという認識に立っていると説明しましたが、そのような社会状況を生み出しているのは、今日の資本主義社会システムなのであるといいます。で、これを理解するためには家父長制というキーワードを理解しないといけないのですが、本題より長い解説になるので、そこら辺は上野千鶴子の『家父長制と資本制』をとりあえず参照してください。
(上野理論を厳密に言うと、上野は、従前のマルクス主義フェミニズムは教条的であるということで、それを乗り越える必要があると、主張をしています。)
シンプルにいってしまいますと、そのシステム(資本制)の成立と密接に性差別を生む家父長制制度が続くため、性差別は再生産(半分マルクス主義用語ではありますが)されていくということになります。
会話分析というのは読んで字のごとく、会話を分析するというものです。まずは、社会学で会話分析がなぜ重要になってくるのかをエスノメソドロジーというワードを使って説明したいと思います。そもそも、社会学は社会秩序はいかにして可能かを明らかにする学問です。そこで出てくる問いの一つにこの社会で生活を営む人びとがやっていることを、研究者はどのように理解できるのかという問題です。
この問題に答えたのが、ガーフィンゲルという人です。ガーフィンゲルはエスノメソドロジーという手法を提唱しました。エスノメソドロジーというのは、日常で生活している人々が言動をどのように理解し、成立させているのかを、日常で生活している人々の視点に立って記述するという手法です。
エスノメソドロジーは、私たちの当たり前が、いかに「うまいこと」成立しているのかを見せてくれます。例えば次のような実験は非常に有名です。
A 「いや、元気かどうかってことだよ。」
B 「元気かどうかって? どういうこと?」
こんな調子で話されると、本当に調子がおかしくなりそうですが、こういう実験をします。ここで浮かび上がってくるのは「調子」という言葉が、体調や近況を意味しており、それをお互い分かっているという「期待」をもって、Aは会話をしているということです。このような形で、秩序が形成されており、それらは記述可能な形で示すことができるとするというのがエスノメソドロジーです。
会話分析の多くはこのエスノメソドロジーの考え方を踏まえて行われます。つまり、先ほどの会話のスクリプトのようなものを読んで、そのなかで、AとBはどのような「期待」をそれぞれ持っており、そこにどのような秩序があるのか? ということを考えているわけです。
冒頭で、千田議論を強引に4点にまとめました。ここまでの道具を用意すればある程度説明ができます。それぞれの項目ごとにみていきましょう。
そもそも、実在の人物は「先生役」とNHKのサイトでも記載がありますように、ここで想定されているのは「先生」と「生徒」というコミュニケーションです。したがって「生徒役」となるキズナアイは基本的に「相づち」をする役割に当然のことながらなるでしょう。そもそも「生徒」の方が詳しいというのなら、「先生」が「生徒」の役割を担うことになるはずですし、「先生」と「生徒」という形で双方「期待」をもっていることは分かります。別にこれが、男子生徒であろうと、まあこういう会話になるだろうなという感じではありますよね。
これは、先ほどのフェミニズムの議論が役に立ちます。お茶くみとかの補助業務に当たっていたということは、先の説明でもしましたが、今日でも、「相づち」をする役割は、女性となっていることが多いです。例えば、新春の、一体誰がみるのかよく分からない県知事が語る!みたいな番組がありますが、あのとき大抵女性アナウンサーが話を聞いたりしていないでしょうか。このとき、女性アナウンサーは、多くは男性である知事に対して、その発言がしやすいようさまざまな配慮をしながら、質問を重ねていきます。
そこでは、主役はあくまで知事です。アナウンサーが主役となって、知事をいじめていくというような内容になっていないでしょう。これが、でも、田原総一朗との対談だったらどうでしょう。一気に様相が変わってきますよね。また、地元財界と知事の対談だったらどうでしょう。そこに「相づち」はあっても、「相づち」をする役割を知事の対談者は決して担っていないと思います。会話の主体になっているわけですね。地元財界の人が女性でも、この場合だと「相づち」の役割はまあしないかと。
ここでポイントになるのは、知事が一方的に語るというような形式を取る時には、女性アナウンサーがその役割を担うことになり、他方、双方共にしゃべる場合には、女性の活躍機会が途端に減ってしまうというということです。これは、私たちのイメージレベルでも大体共通しているのではないでしょうか。(もちろん、個別具体で違う話も多く、徹子の部屋の黒柳徹子をどう評価するかは難しいところですが。)
もちろん、これは、女性が知事と同等の立場や役割を担っている機会が開かれていないから、そのようにならざるを得ないという側面も当然ありますが、男性アナウンサーがそうそうなっていないということは、一つこのことを証明するものであるとも言えます。
(「相づち」をする役割も高度な役割であるということは決して忘れないでください。)
ここで、議論はもどってきて、キズナアイは「生徒」役ではありますが、「先生」の発言を引き出すという意味で「相づち」をするということで、記事のトップにも出てくる主役のはずが、補助的な業務を担わされていることになります。このとき、キズナアイを女性と見なすと、これまで女性が置かれていた立場、女性が積極的に前に出られる環境に制度上はなっているにもかかわらず、結局はそうはなっていないという状況と重なる部分はあるでしょう。
再び、徹子の部屋の黒柳徹子をイメージすると良いかも知れません。徹子の部屋における黒柳徹子は独特の立ち位置で、徹子の部屋を見て黒柳徹子は単に「相づち」をうつ役割だけではない、ということが理解できるでしょう。なんなら、黒柳徹子の方が目立っていたりします。対談の形式が、黒柳徹子がお客様を招いて話をしてもらうというホスト側であるためであり、従属的な関係になっていないというところに、このキズナアイ対談と徹子の部屋の決定的違いがあるのだろうと思います。
そうして比べてみると、キズナアイは女性の役割を再生産するということになったというわけです。これは、性別役割分業を進めていくものであり、女性にとって活躍の機会が減ってしまうというのがフェミニストたちの主張と結びつけて考えることが可能なのです。
この時、女性は従たる役割を担わされるわけで、その期待が持たれます。そうなると、女性は、主たる役割を担える存在なのにもかかわらず、その期待から、従たる役割を担い続けなければならない、そういった状況にはまってしまうのです。そして、そうした悪循環から脱却しなければならない、というのがフェミニズムの基本的な主張です。
このような女性観で考えられると、女性にとって好ましい立場ではないという千田の主張はそう的外れなものではないということは理解できるでしょう。
千田は議論をするという状況を作り出したことでは成功していると評価できますが、その議論の中で、自らの論理の妥当性を提示し納得してもらえたかというとそうではないと思います。後の対応によるところも多いのですが、それは、実は最初のきっかけともなった記事の一番最後の文章であると私は考えます。
なお10月3日、9時の時点で、スマートフォンから見ると、キズナアイはバストショットしか見えない(パソコンでは、へそなどの下半身が見える)。
この一文が最後にあることで、キズナアイの見た目(容姿)を問題にしたいのか、と思ってしまう人も多いと思います。千田氏は、後の議論でも、キズナアイの役割に焦点を当てており、容姿を問題にしていないといっているのですが、冒頭の太田氏の議論とあいまって、多くの人が混乱したと推察します。そもそもキズナアイってあくまでAIであって性別を超越した存在なはずなのに、性別二元論に回収されちゃうのって、なんだかなと。
さらにいえば、表現の問題に回収してしまったのがかなり難しい問題にしています。表現の問題にすると、結局妥当な表現は何かということに行き着き、その線引きは複雑になってしまい、誰も理解できなくなるため、神々の審判でも仰がなければ、なんとも言えないと思います。
本人が個人的に自説を語るのは「自由」の範疇だが、それを公共空間に置いたらどんな意味をもつのか、少しは配慮すべきだったのでは?
(https://twitter.com/chitaponta/status/1051615591004438529])
ここ数日のうちで、年齢に関する嘆き?のような増田をいくつか見かけた。
若くて元気でハツラツとした美貌は確かに誇るべき価値だけれども、歳を取っていくと、それとは引き換えに別の価値を得ることになるんだが、歳を取ることに嫌悪している人というのは、そういう価値に気付けずに生きてきなのかなーって思う。
コツコツと真面目にやってきて社内で評価されること、パートナーと人生設計を描くこと、黒柳徹子のようにエクササイズを怠らず美と健康を保つこと。
それぞれがそれぞれの場所で真面目に生きていればそこに何かの価値が生まれる。それは他者が判断するものではなく、自分自身で「私はこれでいいんだ」という自信。
ババア、バス、老害、そんな風にしか年長者を見られない環境ならば、きっと自分の行く末もそうだろうと怯えるしかないね。
お手本になる年長者が周囲にいるといいね。
チャキチャキとよく喋りよく動くジェットコースターみたいな徹子さんと、親愛なる人を亡くしたあとの孤独感とか消失感をまとった雰囲気とのギャップが格別だった。
次に見たのは駆け込み女と駆け出し男だった。
声の出し方がふわふわしてるけど、この人にしか出せない雰囲気があるよなあ〜と見入った。
その次はカルテット。
す、すずめ〜!!!!すずめ、、、ば、ばか〜!!お前自分のために幸せになっ…すずめ〜!!!
蕎麦屋のシーンとコンビニ前でまきさんに「行かないで」って言うとこ最高だった。
今は監獄のお姫さま見てる。
アニメキャラで申し訳ないけど、デレマスの高垣楓みたいな雰囲気の人が好きなので
追記
みなさん貴重なご意見本当にありがとうございます。
@kash06 楓さんとは、また絶妙なるふわぁっとクール。若い頃の黒柳徹子? ……あ、笑った時の満島ひかり!(MONDO GROSSO「ラビリンス」のMVを見よ!!
後半はわからないけどこれだ!!!ってなりましたふわぁっとクール!!!ふわぁっとクールだ!!!
確かに求めている雰囲気はふわぁっとだけじゃないんですよ!!その中にあるクール?というかなんというか
一緒に居ても…こう…疲れないイメージのでもふわぁっとしすぎない?というか
ゆゆ式の縁ちゃんやブレイブソード×ブレイズソウルのCMのゆるゆる~って言うおっぱい大きい人みたいなゆるふわ感ではないんですよ
ふわぁっとクール、求めていたのはこれかもしれない!!
追記2
ぶっちゃけこれなんですよね「ゆるふわパーマ ショート」とかでググったら
ああ、ああ~!!ああ~~~!!!なるほどなるほど!!!ああ、ああ~~~~!!!なるほどーーーー!!!!!ってなりますもん。
それに加えて見た目とギャップがない感じの性格…というか雰囲気が好きなんですよね
で、それを他人に説明するために芸能人とか有名人の具体例がほしいんです
あとゆるふわっぽい人から母性を引いたような人がタイプなんじゃない?ということに気づきました。
みなさんありがとうございます。
星屑が海に落ちて貝になったよ。
さすがに最近は
テレビ放送のすべてがぜんぶ生放送だと思ってる人はいないわよね。
まあ、世界ふしぎ発見!では
縦書きに徹子だけに徹底的に徹するでお馴染みの
黒柳さーん!マッチでーす!
ってダイノジさんが
ファンの人に、
黒柳さーん!マッチでーす!
あれ、この時間帯に今それやってたっけ?
って思ったらレコーダーの録画のでした。
今は画質綺麗にそのまま本放送ばりに綺麗に録画できるので、
ほんといい時代よね。
昔はどう頑張っても明らかに画質がヘボまってます本当にありがとうございました、って感じだったし、
標準モードはなんとか綺麗だけど、
あのさ、
ふと思ったんだけど、
お家のHDDレコーダーもクラウド化したら無限になるんじゃない?
朝まで寝ないテレビ的に
うふふ。
あ、でも、
今のテクノロジーなら
時代はパーシャルだわ。
私の大好きなフレーズ
バブを抱きしめながら入浴した時の救えなかった感が、バブみと言うなら
食べるとき崩れて欲しくないおにぎりがはかなくも崩れてしまう感、
でも、そうはならなかった、ならなかったんだよ、をくずれみと言ってもいいくらいね。
あやまるわ、
おにぎりに罪がないと言うことを。
たまに、おこわおにぎりって言うのもあってそれも大好きなのよね。
それはくずれみがないわ。
美味しいし、もちっとしてて。
いつも疑問に思いながら通り過ぎて
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!