はてなキーワード: 拡張とは
キズナアイの件、だんだん疲れてきたので自分の見解をまとめることにする。
文章化しておかないと区切りがつかなくて永遠に頭の中グルグルしそうなので。
論点は二つあった。
1. は個人的には問題ない。というか、フェミニスト側からは批判してはいけない部分だと思ってる。
2. が今回の主戦場。
年代や階級、普段二次元表現やVR界隈に触れているかによって感覚が違っているようだとは感じた。
批判側の意見としては、男性が講師役・女性が生徒役という枠組みが旧来のジェンダーロールを再現しており、女性を萎縮させるとのこと。
世の中が完全に男女平等になっていれば、たった一つの例に目くじら立てないが現実はそうなっていないという意見を見た。
なんとなく納得できそうなところと、でもなーというところとあり、未だに整理できていない。
このくらいのことで、本当に女性は萎縮してしまうのか?と思ってしまうが、それは自分があまり抑圧を受けずに育ってきたからかもしれないし。
公的な性格が強い媒体ではポリコレに則って多様性に配慮した表現をするべきだ、という理屈はある程度納得できなくはないんだけど、
などなど疑問点や不安な点がいっぱいある。
そもそもそういう表現を公的な場所から狩ろうとすることは、長い目で見るとポリコレに反する表現を絶滅させることに繋がるんじゃないか?という懸念が拭えないわけで。
「ポリコレに反するから隠す。存在自体が許せないのではない、悪ではないが場所をわきまえてやれ」
これが、容易に
「隠されるものは悪いもの。悪いものは細々と裏で楽しむべき→悪いものはなくなるべき」
に変わっていくんではないか?大多数の人は「存在自体が悪い訳ではない」と思ってくれるのか?
多様性に配慮した表現も大好きだけど、多様性クソ食らえ!な表現も大好きなんだよ。
ポリコレ絶対を突き詰めていく先に、多様性クソ食らえ表現が狩られる未来しか見えないんだよな。
本当は楽観的でありたいんだけれども。
でも、ゾーニングは規制だし、ゾーニングのやり方によっては容易に表現の場が失われてしまうこともある。
個人的な理想としては、ある表現をなくして目立たなくするのではなく、自分がいいと思う表現をどんどん作ったり推したりしてそれらの存在感を上げていく方向が建設的でいいと思う。
子どもができたら「これは良くないから見るな!」って言うより、「こっちにはこういうのもあるよ」って接したい。
その上で、親が眉を顰めるようなものに触れてしまうのも当然だしそれは成長の一部だと思う。
親が全部管理なんてできやしねぇしするべきでもないし。
全部ひっくるめて子ども当人の人生で、自分で自分がよいと思うものを選び取れるようになってほしい。
そして今回、一番衝撃だったこと。アカデミックなフェミニズム側がジェンダーロールの再生産を非常に問題視しているという点。今更なんですが。
今回、1.の論点を重要視してるかどうかでフェミニズム側は分かれていたように思う。前述したようにこれをフェミニストと自称する人が問題視するのはどうかと思うので、ここでだいぶフェミニスト側を分類できた。しかし、性的だとはしない/もしくは問題視しない人々でも共通していたのは、あれが旧来のジェンダーロールの再生産であり若い女性を萎縮させる、ということだった。個人的に、アカデミックなフェミニストの中で信頼がおけると思っていた人も、ここは強く問題視しているようでかなり衝撃を受けた。
かつて自分が被ってきた女性差別を生々しく思い出して重ねてしまう傾向が一定の年代以上の人や女性差別が酷かった業界の人には多いということなのかもしれないが、それ以上にフェミニズムの中で長らく重要視された観点っぽい。そこまで確固たる共通見解となっていたというのが驚きというか。それを各種表現にここまで簡単に当てはめることに躊躇がないんだな、と。
個人的にはうなずける部分もあるが、女性差別のみを特に重要視して男性に対するジェンダー的な抑圧を無視する傾向がある気がするし、私が育ってきた中では幸運にもひどい女性差別を受けては来なかったこと、そして自分はジェンダーロールの再生産になりそうな作品もそうでない作品も両方楽しんで育ってきたことなどから、そこまで切迫感を持つことができない。私とそういう人たちとの間に断絶がある。
女性差別って私が想像する以上に酷いものがまだまだあると思うし解消に向けて動くべきだし動きたいんだけど、私は上記の理由からこの方向の活動にはどうしても同意できないな…。この方向で頑張ることによって、そういう酷い女性差別が改善していくとは思えない。
ちなみにVtuberやVR界隈に対しては、既存のジェンダー観でははかれない技術革新がもたらした今までとは違うジェンダー観が存在すると思っている。キズナアイも見た目は女性だがAIという設定で性別はない。ガワと中の人の性別が違うなんてざらにあるし、自分が望めばなりたい性別やセクシュアリティになれる・それを当たり前のように受け入れてもらえるという土壌がすごくいいと思っている。
あまりVtuber界隈詳しくなくて今回初めていろいろ調べてみた程度なのであまり語れないんだけど。バ美肉とかは、すごい革新的すぎて興味持っている。みんなもっとチャレンジしてジェンダーの壁を軽率に越えるべき。
参考:おじさんを美少女化したテクノロジー 先端心理学が語る「VRの世界」
https://withnews.jp/article/f0180401000qq000000000000000W00g10701qq000017020A
1~2の派生で、千田氏の炎上から社会学などの研究成果評価システムにまで話が発展したのは大変興味深かった。
というあたりか。それぞれの分野に合ったシステムがあって、外野から簡単に口出せるものではないと思うが、若手の方々がより良い方向を目指して試行錯誤されているらしい、ということは分かった感じ。
つまりお前はグリーン先生とエレン・ベーカーのみをもってしか論拠にしないと言ってるわけだけど
そうなるとお前の最初の主張で「萌え絵」という属性で範囲拡張した論理と矛盾するんだよね
つかニーソとか雪女とか恒常的にエロ二次祭り状態、長期的に見ればそれ以上なものに関してはどう説明すんのかなw
本当にお前が反論したかったのなら、pepeとか著作人格権に抵触するもっと切実な実例を取り上げてこの大衆社会問題の本質に迫るという王道か
自論の補強として、萌え絵と非萌え絵の二次エロ祭り期待値とでも言うべきものを統計調査するという暇人かつ信頼性のない数字つくるっていう
糞みたいな逃げ道の二択だったんだよ
ノーベル賞解説でキズナアイを中心とした問題がチグハグしてると感じた。
その理由は一般的大多数の人間(フェミニスト含む)が美男美女が好き
という前提をどこか忘れているのではないかと思う。
①元々人間には嗜好の合うものと触れていたいという感情があると思う。
②それともう一つが、性的強調はやりすぎると好から外れて不快と感じる人がいること。
萌え絵ポスターはセーフとする人も多かったけど、アウトの人も多かった。
仮にBL系ポスターを作ったとしてもアウトになってしまうと思う。
この2つが話の前提。
※個人的には萌え絵もBLももっとやれ、自由を楽しもう派なので
男性は女性の服装から生き方まで、男性の好みの強制していた時期がある。
やれ肌を露出するなとか、やれお淑やかに生きろとか、やれ社会進出しなくてもいいとか。
それに女性が対抗して、もっと自由な生き方をさせろ!という流れだと思う。
それが今では、女性性を強調した服を着た女性をNHKに載せるな
という話を(一部の)女性側が言っている。
半世紀前は女性性を制限するなと言っていたが、今回の問題で女性性を制限しろと言っている。これは面白い。
キズナアイのような女性がNHKに出れることは大きな一歩と思っていた。が違っていたらしい。
また不自由な世界(肌の露出、髪型、口調、性格、生き方など制限されているような世界)に戻したくないと思う。
話を戻して
今のところは概ね好意的に認められているので社会的にセーフらしい。
逆に言えば、そのような格好を女性がしてもセーフということだ。
多分昔ならアウトだと思う。
それで終わる話なのだがどうにも
そういう話になってない。
見て見ぬふりをしてるからじゃないのかと思う。
男性の美女を突き進めた形の一つが萌え絵だし(萌え絵は女性性を強調したりする)
女性の美男子を突き進めた形の一つがBLだと思う。(BLは男性性を強調したりする)
なので美男美女を求めると萌え絵っぽいのが社会にでるのは必然だし
BLも然りである。
※繰り返しになるが今回の件はやり過ぎてないとの判定。
フェミニストの人たちは前提の②で不快と思う人として登場しつつ
まずは認めてあげてほしいと思いました。
人間は男女どっちかに属しているから、ジェンダー論の取り扱う戦場から逃げ場がないんだよ。オタク論ならオタクじゃないと自認してる人は無関係だと離脱できるし何ならオタクをやめることによってその論争から逃げてもいい。でもジェンダー論は無理。耳をふさいでもいいけれど、知らないどこからか撃たれて実社会でダメージを負う可能性すらある。
究極的には、男も女も、言ってるのは「もうこれ以上私たちから奪うな、責めるな、いじめるな」なんだよ。
増田では「フェミは強欲でどんどん自分たちの利権を拡張しようとしてる」みたいな批判が良くなされる。それそのものの真偽は横において、真だろうが偽だろうがそれとは無関係に、フェミは(そして女の多くは)「もう十分わたしらは被害者なんで、歴史的に見てやられてきたんで、これ以上要求しないでくれませんかね」っていう被害者意識がベースなわけよ。
んでもって、それは男性側も大差ないわけ。現代社会においてメイン労働力として期待されてる割にはそれに対して精神的な反対給付がないって言う被害者意識を持ってる。重ねていうけれど、本当にそれって被害なのかどうなのか? 本当に差別受けてるの? 受けてるとしてどっちが多いの? ってのとこれは別の話ね。お互い貧乏くじをひかされたと思ってる。内面で真実だって話。
まあぶっちゃけ、日本社会に余裕が無いってのが一番大きいと思うよ。メディアの逆望遠鏡効果みたいなので、自分の不幸が際限なく拡大されて見えるんだよ。みんなもう限界ギリギリに疲れているでしょ。これ以上社会的義務や奉仕を要求されたら倒れちゃう。なんせ俺たち日本人は勝手に自分たちでハードル上げて血反吐吐くのが大好きな民族だから、いつでも限界なのよ。
ジェンダーに限らず、ありとあらゆる場所や局面で、自分の所属するXXXは不遇であるってみんなが叫んでる状況だ。非正規とか、ルッキズムとか、マイナーな趣味のマイナーさとか、都会居住/地方居住とか、世代別とか、学歴とか。それらのうちどれが正当な嘆きかなんてのはあんまり関係ない。内面では真実なので叫びはやまない。
あとはもう声の大きさと、その問題でどれだけ多くを巻き込んで炎上できるかどうかってのだけが重要なんだよ。男女って枠組みはその最大規模ってだけ。
便乗して萌えキャラをdisった社会学者やフェミニストも炎上した。
こうした「自称フェミvsオタク」のプロレスはネット(とくにTwitter)では定期的に開催されている。
俺は20回以上コミケにサークル参加している程度のオタクで、観測範囲が偏っているからかもしれないが、事あるごとにプロレスに参戦しては、自称フェミを熱心に叩いているオタクを日常的に見かける。
俺も、いわゆる二次元規制が強くなれば精神的に辛くなる側の人間だが、最近のプロレスの有様を見ていると、不毛というか、もっと他にやることあるんじゃないか?と思うようになってきた。
なぜって、プロレスに出てくる自称フェミの大多数は、取り付く島もないようなバカばかりじゃないか。少なくともプロレスに参戦しているオタクは、自称フェミを「取り付く島もないようなバカ」と認識しているからこそ叩いている。俺にはそう見える。
なぜスルーしない?ネットではないリアルの場で同じことを言ってくるおばさん(おじさんでもいいが)がいたら、「あーはいはい」とスルーするだろう?
「そういう自称フェミが勢いづくことで実害がある」という意見もあるだろう。確かに碧志摩メグでは市を動かしてしまったが、自称フェミがそこまでの権力を持つに至ったのは、事あるごとにプロレスに引きずり出して叩いてきたオタクの存在があったからじゃないか?いちいちバズらせて彼ら彼女らを世間様に露出させなければ、どこの界隈にも一定割合でいる「取るに足らないバカ」で済んでいたはずなのに。
この問題の根底には、現代ネット空間の「バカを叩かずにはいられない空気」があると思う。
誰もがネットで人間関係を構築し、世間の中で一定のポジションを獲得するのに必死だ。必死にならざるを得ない。社会的生命にかかわる帰属欲求。駆り立てられる承認欲求。それ自体は古今東西人間の性だが、ネットはその興味の範囲を全世界に拡張した。人間は、ネットから得られる莫大な情報量と引き換えに、人間関係ストレスの増大を引き受けた。そのストレスを簡単に解消し、かつ帰属欲求や承認欲求も満たせる。そのもっともコスパの良い手段が「バカを叩くこと」なのではないか。この手段が定番になってしまえば、お付き合いでバカを叩かなくてはならなくなる。円滑な人間関係維持のために。
今こそ、古から伝わるネットユーザーの知恵を再評価しなければならない。
…もう、手遅れなのだろうか?
叩いてもいいと思うけど、それの妥当性ってどれだけ保証されているのかな。
「キズナアイ大好き!」「あのグラビアアイドルの巨乳大好き!」という個人的な嗜好をTwitterで言う人に対して「それは差別であり搾取です」というリプライを飛ばす人は、その批判が果たして妥当なのだろうか。
発表された表現に対しての「大好き」ならば、それは単純なる賛辞であり、その賛辞自体が問題なのだと「無根拠に」非難しているという不当性があるのではないか。
表現自体が差別であり女性に対する抑圧を促しているというのであれば、それ自体「表現することが抑圧」だと言えるという言葉に反論しないといけない。
もう出尽くしてるし難癖に難癖を返している状態で分断と憎悪の拡張をしている状況なので、そんなことしたって本当にどうしようもないけど。
まあ、エロさについてキワッキワな表現に対する欲望発露に対して書いてるんだと思うけど、ブロックすれば?
不意に入り込んでくる「不快な表現」って必ずしもマンガ・アニメ・ゲーム・アイドル・AVといったものだけではないのだと思うけど、なぜそこだけ突出して攻撃するのか。
個人的な事を言うと、政治とか刑事事件に対してテキトーで感情だけの話をされると不愉快で傷つくのでそういうの全部Twitterやはてなは全削除して欲しい。醜いじゃんああいうの。
意見をいっぱい言える人っているけど、実際のところほとんどが計算結果と計算過程でしかないと思う
言いたいことは1つでいい
面白かった
→ どの要素が
→ 他の映画と比べて
→ この映画は○○だ
例えばその結果、「映画が面白かった、特にストーリーが泣けた」
だとすると、今度は「ストーリー」と「泣けた」に対して付加情報を付けてやればいい
「映画が面白かった、特にストーリーが泣けた。最後までハラハラさせて、どんでん返しで大団円する様で久しぶりに泣けた」
これをずっと繰り返していくと長文になる
要素は「映画」「面白かった」と書いたが、実はそこに「自分」や「相手」という隠れ要素がある
例えば「この映画は『世間』では酷評されているが、『自分』にとっては面白かった」
「引き出しを持つ」っていうのは外の世界に対して知識を持つこともそうだが、自分について理解し語れるのも引き出しになる
例えば俺はサッカーについてまるで分からないんだが、「自分はサッカーがよくわからない」で長文を書けると思う
この作業は常に自問自答なので、頭の良さも必要になるが、コツを掴めば慣れる
・言いたいことを1個決める
・言いたいことを自問自答して拡張する
・自分に対して引き出しを持つ
これで困ることはない
慣れたら言いたいことを3つに増やしたり、自分の「常々言いたいこと=信念」を固めたり、拡張の方法に癖を付けたりすると個性が出る
この文章をみた時に本当に愕然とした。そりゃいろんな意見があると思う。evil になるなとは言わない。でも、それを阻害してるの、お前なんじゃないの?なんでそんなにドヤ顔で言えるの?って疑問が、どうしても頭から離れない。なんで Google はこの人たちを許してるの、なんで、なんでなんだろう...
クロムのwww非表示云々でPersonal Blocklist拡張(Google製)がぶっこわれ、また検索結果に侍エンジニア塾が表示されるようになってしまった— Masashi Okabe (@_masaokb) September 21, 2018
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
侍エンジニア塾のブログ、記事の質低いわりにSEO超強くて鬱陶しいな。— 環 (@fuyu77) September 21, 2018
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
侍エンジニア塾のブログを検索結果から除外したい— たるこす (@tarukosu) September 23, 2018
<script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script>
その登場人物一人一人を見てみれば、
作者の造形の気合いや、世間での知名度や、フアンの人気には、当然大きな差がある(登場人物が多ければなおさらのことである)。
私のような、マイナーな人物のフアンはしばしば同志に飢えている。
なぜマイナーな人物にそこまで熱狂できるのか、それは自分にもよくわからない。
いわゆるフィーリングの一致なのであろうか。
もしくは想像と解釈がその広がりをもとめて要請する、作品における描写の少なさ、かきこみの粗さがあるからだろうか。
ただまあ、それは今は措くとして、
とにかく影の薄い人物はファンもつきにくいので輪をかけてマイナーのままになる。
況んや美形でなく悪い描かれ方がされている者をや。
熱弁を奮わずとも、私の好きなものとしてその人物をともに好いてくれる友達は、いる。
しかし、その好感には、明らかに私が介在したことによる補正がかかっている。
私は私の必死さに絆されたわけではない見ず知らずの人がその人物を好いていてくれるのを欲しているのである。
検索対象を世界にまで拡張したところで、そう簡単には同志は見つからない。
しかし、
時として、同志は、私の目の前にその姿を、あるいはその愛好の痕跡を現すのである。
その身に積もるあらゆるマイナスのこと、
満員電車の疲れとか、両足の靴擦れの痛みとか、まだ火曜の夜であることとかを忘れて、脳内でドバドバと噴出している何かを喩へではなくして如実に感じとる。
往々にして、奇跡のその人自身とは、言葉を交わしたりすることは不可能なことが多いが、
それでも私はお宝を大切に握りしめて、
少なくとも一週間はピークからの緩やかな滑空を楽しみながら生きていくことができる。
さながらその場にへたりこんで、
といったところである。
朝に死すとも可なり、などとは、
今の私にはとても曰えない。
私が、奇跡に面するたびに思うのは、
(これはややこの話の流れでは唐突だが、)発信することは大切ということと、
もう少し生きさせてください。
その代わりにふぇみ?にずむとか女権拡張団体の目が三角の人が彼女たちの意見を代弁してくれる(彼女たちの意見を代弁してくれるとは言ってない)
こういう()の使い方が良く分からないんだけど、どういうときに使われるもんなの?
結局は「やるとはいっていないけどそうだろう」みたいなことに使うの?