その登場人物一人一人を見てみれば、
作者の造形の気合いや、世間での知名度や、フアンの人気には、当然大きな差がある(登場人物が多ければなおさらのことである)。
私のような、マイナーな人物のフアンはしばしば同志に飢えている。
なぜマイナーな人物にそこまで熱狂できるのか、それは自分にもよくわからない。
いわゆるフィーリングの一致なのであろうか。
もしくは想像と解釈がその広がりをもとめて要請する、作品における描写の少なさ、かきこみの粗さがあるからだろうか。
ただまあ、それは今は措くとして、
とにかく影の薄い人物はファンもつきにくいので輪をかけてマイナーのままになる。
況んや美形でなく悪い描かれ方がされている者をや。
熱弁を奮わずとも、私の好きなものとしてその人物をともに好いてくれる友達は、いる。
しかし、その好感には、明らかに私が介在したことによる補正がかかっている。
私は私の必死さに絆されたわけではない見ず知らずの人がその人物を好いていてくれるのを欲しているのである。
検索対象を世界にまで拡張したところで、そう簡単には同志は見つからない。
しかし、
時として、同志は、私の目の前にその姿を、あるいはその愛好の痕跡を現すのである。
その身に積もるあらゆるマイナスのこと、
満員電車の疲れとか、両足の靴擦れの痛みとか、まだ火曜の夜であることとかを忘れて、脳内でドバドバと噴出している何かを喩へではなくして如実に感じとる。
往々にして、奇跡のその人自身とは、言葉を交わしたりすることは不可能なことが多いが、
それでも私はお宝を大切に握りしめて、
少なくとも一週間はピークからの緩やかな滑空を楽しみながら生きていくことができる。
さながらその場にへたりこんで、
といったところである。
朝に死すとも可なり、などとは、
今の私にはとても曰えない。
私が、奇跡に面するたびに思うのは、
(これはややこの話の流れでは唐突だが、)発信することは大切ということと、
もう少し生きさせてください。
同人板に帰ってください