はてなキーワード: 俳句とは
はてななんでこれ消したんや!!! 誰直也さんとも言ってないやんけ
1番(右) | 五反田のデリヘル嬢に本番強要した挙句不倫関係に突入する。 |
2番(二) | 自分が技術顧問を務める会社の悪口を言う。 |
3番(一) | 年収2500万円、はてなの株で少なくとも1億円以上の資産があるにも関わらず、ブラックリスト入りしている嫁が浪費家のせいで金がない。そのせいで慰謝料が払えず離婚ができない。 |
4番(指) | 不倫相手に無修正ハメ撮り動画をネットに公開される。 |
5番(左) | あんなブログを公開されたにも関わらず、その5日後には不倫相手に会ってセックスする。 |
6番(中) | 不倫相手のLINEだけ通知オフ(仲がこじれる前)。 |
7番(三) | 手作りチョコをもらっておきながら「既製品の方が美味しい」。 |
8番(捕) | 不倫相手を雨の中40分間も放置した挙句に逆ギレ。メニューを放り投げて「腹減ってんだろ、好きに頼めよ。俺は食欲ない」。 |
9番(遊) | エレベーターでキスしたり不倫相手のパンツに手を入れたりする。雑居ビルの階段の途中で手マンする。ビルの階段の陰になったところでフェラさせる。 |
投手 | 無免許運転で箱根の温泉までドライブしてセックスする。 |
投手2 | 不倫相手に「妊娠したら責任取る」と言って中出しておきながら妊娠したら中絶させる。しかも中絶費用を払わないどころか謝罪もしない。さらに「4月になったらもう一度子供を作ろう」と言って、後に反故にする。 |
中継ぎ | 秒速アウトプット(早漏)過ぎて外出しできてない。不倫相手曰く「みこすり半という表現がまさに正しい」。それを棚に上げて「俺外に出したと思う」と無茶な言い逃れをする。 |
抑え | 助けを求めて叫ぶ不倫相手をアスファルトの上を引きずって交番に放り込む。 |
代打 | 不倫相手を雨の中40分間も放置した挙句に逆ギレ。メニューを放り投げて「腹減ってんだろ、好きに頼めよ。俺は食欲ない」。 |
代走 | 「別れる時は1,000万払う」と言っておきながら当然のごとく反故にする。 |
監督 | 「おまんこに、じゅぽじゅぽちんちん、こすりたい」(俳句) |
新聞サイトを見てて最近どうも波紋広げすぎじゃね?と思ったので、「波紋 site:各社ドメイン」でググって件数を比較してみた。
圧倒的。別記事リンクを拾っているであろうとは言えもう検索結果からぴちゃんぴちゃん音がするレベルで波紋である。山吹色か。山吹色なのか。検索結果の上位を拾うと、
朝日に限った事ではないが「…が波紋」と体言止めで波紋を食らうケースが目立った。天声人語の入試採用件数を誇る前に国語の先生を困らせてないか。
たまたまトランプ氏が広げた波紋がワンツーフィニッシュを決めた。その次に美味しんぼの例のアレが来るあたりにスタンスの手堅さを感じる。
イメージ的には朝日寄りなのだがこちらも案外と波紋に頼っていない。減らすか増やすかしてほしい中途半端さがある。
現トップスリーも政治色が薄い。安楽死拡大の問題を波紋で片付けるあたりにセンスを感じる。まぁ、これなら。
偏ると波紋に頼るんじゃないかとここで思い始めた。
検索結果上の見出しが全部長すぎて途中で切れるという不思議な傾向があった。俳句からやり直せ。
偏ってもインテリ集団である。そう簡単にはカジュアルな言葉には逃げないぜという矜持か。
記事的にも古いものが上位を占めている。顔真っ赤にする必要はないけどスタンス上微妙に批判しておきたいものを波紋で片付けてる感。
…。広げるものが違うという事でしょうか。
和歌山県の共生舎で鹿を捕獲・解体するブログエントリがあった。
★山奥ピエールの「山奥ニートだけど小説書いたり俳句詠んだりアナログゲームやったりブログ更新したりで毎日が忙しすぎる」
「鹿が捕まった」
https://megalodon.jp/2017-0606-1950-11/yaba-raiko-shusaku.hatenablog.com/entry/2017/06/06/161301
「グロ注意!」
https://megalodon.jp/2017-0606-2004-43/neetnoippo.hateblo.jp/entry/20170606/1496721713
こういったのって、山奥ではあたりまえに行われているか、
http://www.pref.wakayama.lg.jp/prefg/070300/071400/documents/shikakanrihokaku.pdf
旅行写真でも卒業写真でもなんでもいいけど、自分にとっては大事な一瞬をとらえた写真って、知らない人が見たら「なにこれ?」ってなるでしょ。でも撮った本人はその一枚でもあのときのことを思い出せるから、わぁーいいなあってなる。そんなふうに物語そのものではなく物語の痕跡から全体像をを想像して味わうのが詩歌の楽しみ方のひとつだから、詩は本来、書いた本人にしか分からないのが普通なんだよ。
だから詩はあなたにも書けるし、けれどもその詩は他の誰かには全く理解してもらえないかもしれない。あなたにとっては切実な場面でも、「なにこれ?」ってなっちゃう。
だったら他人が他人の詩歌をどう評価できるんだっていうと、みんなまず物語以外の部分をかみしめてるみたい。言葉って意味だけじゃなくて音や文字もあって、たとえば漢字がいっぱい並んでたら理屈抜きで「うわ、めんどくさ!」ってなったりするし、ミラバケッソとかヒノノニトンとか意味関係なく音として気持ちよくて頭に残っちゃうことって結構あると思うの(卑怯なCM多いでしょ)。写真でも、単純にきれいなものが写ってたら誰がいつどこで撮ったか以前に「わーきれい!」ってなるでしょ、文字だってうつくしい言葉がきれいに並んでたらそう思えるかもしれない。写真だとモチーフが左右対称に並んで写ってたらそれだけで気持ちいいように、定型句でも575の音数に合ってたらそれだけで気持ちいいとか。この辺が、作品それ自体の内側へと入り込んでいく楽しみ方の例。
逆に作品の外側に目を向けると楽しいこともある。写真なら、たとえば撮った人や撮った場所に注目してみるとか。普通の写真でも、自分の知ってる人、好きな人が撮った写真だって聞いたらそれだけで「どんな気持ちで撮ったんだろう」って想像したくなってこない? あとさ、ライオンが大口あけてる写真とかだと「この人どうやって撮ったんだよ、撮った直後に殺されたりしてないだろうな」とか想像して怖くなったりもしそうでしょ? 他にも、京都タワーを手で支えてるような構図だったりしたら「ピサの斜塔かよww 京都タワーじゃかっこつかないでしょうがwww」なんて元ネタと比べて楽しむとか、それ自体では補えない情報量が実はそこかしこに見つかったりするものなの。
そうやって自分で必要な情報量を探していく、補っていくっていう探偵じみたプロセスも詩歌の楽しみだと思うし、これって実は小説でも他の芸術分野でもおんなじだよね。さらに言うと、いろんな作品(詩歌や小説に限らず)を見ていくと、自分を泣かせる笑わせるために必要な情報量ってじつはそれほど多くない、このツボさえ抑えてれば自分は大体泣けるっていうポイントが抽出できたりする。物語全体じゃなくって特定の要素があれば人間は勝手に想像できちゃうし、人からもらうより自分で作った方が味付けも変えられておいしいのは料理と一緒。でもそうやってツボを探していくと、面白いことに、その自分だけのツボって実は他の人も泣かせてしまったりする。自分のためだけに作ったものが何故か他の誰かまで撃ち抜いてしまったりする。
究極的に個人的なものは、実は最大限に普遍的でもあるんだ。その普遍性だけを切り取って残そうとする挑戦が、詩歌を作る苦しみであり楽しみなのだと、わたしは思う。
あとは渡邊十絲子の『今を生きるための現代詩』って新書がすげーオススメなので一読されたし。自分も詩歌詳しくないけど、わからないなりに楽しくなるよ!
すてきな紹介記事→ http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20130531/1369926781
自分の文章読み返したら「ツボ」の例を泣ける笑えるに限定しすぎたのが失敗だった。「泣ける」が分かりやすい例だっただけで“面白い”のツボって千差万別だからね。
でも自分なりのツボはすべての書き手が持ってるだろうし、それを分かってくれる人も必ずいるんだよ、なぜか。・・・いや、よき受け手と出会えるかどうか、そもそも作り手がそのツボを自分の表現で押さえることができるかどうかは別として。
青木淳悟でも木下古栗でも岡田利規や小笠原鳥類や橘上でも誰でもいいんだけど、たとえ共感を得やすいツボに反感を持ってたとしても、その人には別のツボがあるし、人間の表現である限り普遍性を完全に排することもできない・・・とわたしは思う。
だってすべての表現はコミュニケーションだから。読者としての自分自身とすらコミュニケーションしない表現なんて、ヘンリー・ダーガーでも無理なんじゃない?
わーいやったー! ありがとうございます、せっかくなのでその先の本もいちおう置いときますね!
入り口としては『今を~』がすばらしいけれど、もしそれで現代詩自体に興味がわいたら新書館から刊行されてる『現代詩の鑑賞101』がとってもいいです。やさしい解説つきで101篇も読めばだれか一人くらいは推し詩人も見つかりそうでしょう? つまんないのはどんどん飛ばそう。
歴史の流れが知りたければ野村喜和夫の『現代詩作マニュアル』がなかなか手っ取り早いけど、ごめんなさい、なんかスノッブくさくて個人的にはちょっと・・・。
もっと深く勉強したい人は現代詩手帖の特集版『戦後60年“詩と批評”総展望』などをどうぞ。谷川俊太郎が「やっぱ売れ専をバカにしないで売れる詩をちゃんと作んなきゃダメだろ、ジャック・プレヴェール見習えよおまえら」とか言っててわろた。
ちなみにわたしの推しは入沢康夫と渋沢孝輔です。入沢翁、ツイッターはじめててびっくりした。俳句や短歌の話は、ごめんなさいぜんぜん分かりません。だれかオススメおしえて。
他人の詠んだ句を楽しむには、少ない情報から想像することが必要になるけれど、
本来の俳句の楽しみは詠む側にあり、それは大量の情報を如何に短い句で表現するか?
豊富な語彙と、その言葉と言葉をどう繋げるか?の言葉選びのセンスを磨いて
ようやく良い句が詠めるようになり、良い句が詠めるようになると、初めて他人の詠んだ句の素晴らしさが分かる。
やっぱりわかった気になるのはよくないと思う
ダウンタウンの浜田が夜の7時からやってる番組で俳句のコーナーが人気らしくたまに見たりしている
短すぎて分からない
伝わらない
短い言葉から連想して自分の頭のなかでその情景を作り出すようだ
短歌は文字数で言えば俳句よりも長いので情報量は多いのだろうけど
やっぱりわからない
詩はその二つに比べるなら文字数が増えることが多いので
詩もきっと自分の中で想像したり言葉のリズムや言葉遊びを楽しんだりするのだろう
自分は想像することが嫌いなのかと言えばそんなこともないと思う
自分だったらあの場面はこうするとか
新しい登場人物を考えたりとか
こういうバックグラウンドがあったりとか
ここで一つ思いついたのが
情報量の差だ
「小説」は、文学のうち「散文で書かれた虚構の物語」のものを指します。
「散文」の対義語は「韻文」です。詩のように同じ響きの言葉を繰り返したり、短歌や俳句みたいに決まった形があるものを、韻文と呼びます。逆に言えば、散文はそういった決まりのない、いわゆる普通の文章を指すことになります。
散文で書かれた文学としては、他にも随筆や評論などがありますが、それらと違って小説は、基本的に虚構が書かれています(「事実をもとにした小説」とかもありますけど…)。
その小説の中で、娯楽性よりも芸術性を重視した作品を「純文学」と呼びます。一般に、石原慎太郎や村上春樹、村上龍などは、純文学の作家とされています。
純文学と対になるのは「大衆文学」であり、芸術性よりも娯楽性を重視した作品となっています。たとえば、東野圭吾や伊坂幸太郎、湊かなえなどは大衆文学の作家ということになります。
「芸術」「娯楽」という言葉もなかなか曖昧で、明確な線引きはできないものですから、「何となく雰囲気でそうなっている」くらいに思ってください。ちなみに、「芥川賞」は純文学の賞、「直木賞」は大衆文学の賞となります。
以上から分かるように、「ライトノベル以外の小説」を示す意図で「小説」「文学」「純文学」といった呼称を使うのは誤りです。「ライトノベル以外の小説」を指す言葉としては、あくまで便宜的なものですが「一般小説」「一般文芸」などがあります。
さて「ライトノベル」の話になりますが、ライトノベルが「娯楽性を重視した小説」であることは間違いありません。つまり分類としては大衆文学に含まれることになるでしょう。
ひと昔前は、ライトノベルを定義するにあたって「イラストが付いている少年少女向けの小説」としておけば、ひとまず間違いはありませんでした(実はイラストのないライトノベルもけっこう出ているんですけどね)。
しかし、近年のライトノベルは積極的にその範囲を広げ、さまざまなジャンルを取り込んでいます。ライトノベル出身の作家が一般文芸で活躍することも増えてきました。
ライトノベルと一般文芸の中間を狙った、いわゆる「ライト文芸」のレーベルも多数創刊されています。それらの対象年齢は20代〜40代あたりで、とても「少年少女」とは言えません。
イラストについても、いまでは幅広い作品に付くようになり、それをライトノベルだけの特徴とみなす風潮も薄れつつあります。そもそも「挿絵付きの小説」自体は、古くから当たり前に存在するわけですから、イラストの有無だけで区別しようというのがナンセンスなのかもしれませんね。
そういったわけで、いま「ライトノベル」と「ライトノベル以外」の垣根は急速に消失しつつあり、同時に明確な「違い」も無くなってきています。
「イラストが付いている少年少女向けの小説」から、「イラストが付いている」と「少年少女向けの」を抜けば、あとは「小説」しか残らない道理です。
http://next.rikunabi.com/journal/entry/20161206_M1
あたりまえだが、生活している環境とか職種・業種・職位によってその要・不要も変わってくるだろう。
わたしも元々はメールは「簡潔」に「箇条書き」で「結論ははじめ」に書いてきた。
社内や下請け・取引の長いクライアントであればそう困ることも無いだろう。
皇族をはじめ、各国の王族、VIP相手にレターを書くことが多くなった。
メールだけではなく直筆のことも多い。
(メールですますこともあるが、これは侍史宛の実務内容になる)
増田諸氏の中には、所謂「偉い人」相手であっても、すらすらと書ける人もいると思うが、
なかなか書ける人はいないだろう。私は今でも苦手だ。
当然、紙の選択にはじまり、インクはもちろん、封蝋まで気を使っているが、
一番気を使うのは、書き出しである。
平凡な時候の挨拶では、相手も大事にされていないと感じるだろう。
いつも悩んで時間がかかっていたが、先輩から「歳時記」が便利だと教わった。
大型書店や図書館でみかけて、ぺらぺらとめくった人も多いと思う。
これは、事項の挨拶にも使えるし、書き出しにも使える。
初冬の候、いよいよご壮健のこととお喜び申し上げます。
これではつまらない。
やまどりの声を聞くことがなくなり、本格的な冬がやってまいりました。
これだけで、送付した人が平地やマンションではなく、冬に近い山に住んでいることが分かる。
とまぁ、とかく面倒でもあるが、
(外向きの用事であれば)メールも自分で工夫してみるもオモシロイだろう。
ペン先に確度を付けており、文字に強弱が付けやすい工夫がしている。
これからはじめてレターを書く、クリスマスカードや年賀状に使いたい人がいれば、
55度(若竹)を使うといいだろう。
最近のラノベタイトル、というかなろう系のタイトルはちょっとした設定やあらすじをそのまんま表現してるのが多くなってきてますね
あれって俳句みたいなワビサビを感じるんですよね
タイトルの10~20文字程度でオドロキと納得感とちょっとした妄想を広げる余地を表現するもの、と思ったらものすごい表現手段だと思いませんか
「下ネタという概念が存在しない退屈な世界」とか「俺、ツインテールになります。」とかはすごく良くできていると思います
エロゲですが「とある女戦士の集団面接」とか「JKとオーク兵団」はド肝を抜かれました
長嶋有の「愛のようだ」を読んだ。
作中で言及されている通り、登場人物が"ちゃんと疲れる"ロードムービーだった。
その手口は「水曜どうでしょう」に似ている。
どこで読んだか忘れたが「水曜どうでしょう」の面白さを分析した文章で、
「あれは出演者の"疲れて何をやっても面白い状態"に視聴者を巻き込むことで成立している」
的なものを読んだことがあるが、それを思い出した。
「水曜どうでしょう」ばりの徒労と混乱とハイテンションを経て、"疲れているから面白い"、ではなく、"疲れているから感じ入る"。
作中一番の盛り上がり。第四話のラスト、「愛のようだ」という詩的(俳句的)でストレートで派手なタイトルの言葉を、
語り手の友人がそのまま呟くという凄い場面。
ここは語り手も読者も、道中で疲れているからこそ、「愛のようだ」と、感じ入るのだ。
ところで、この作品の帯には
という、なかなか凄いコピーが載っていたが、なるほど作者の「感動的な恋愛小説をちゃんと書こう」という気概を感じる作品だった。
つまり、主人公(=語り手)に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話なのだ。
「世界の中心で愛を叫ぶ」であり「ノルウェイの森」なのだ。
こうやって書くと何だか馬鹿にしているような感じになってしまうが、
何と言うか、本当に「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」をちゃんと書いているのだ。
作家が「主人公に好きな人がいるけれど死んでしまって悲しい話」を書くことが
その恥ずかしさから逃げることなく、と同時に読者が引いてしまわないよう配慮して、
手続きを踏んで、抑制の効いた方法で、その「悲しさ」がきちんと書かれていた。
とてもかっこいいと思う。
前述の友人が「愛のようだ」と呟く場面は、とても感動的でポジティブで素敵な場面だった。
が、そこで語り手はあくまで第三者で、言ってみれば読者と似たような立ち位置だった。
友人が愛のようであることに気付く場面に(第三者的に)立ち会ったその余韻が残るエピローグで、
それは、映画の「ニュー・シネマ・パラダイス」を彷彿とさせるような、チャーミングで切ないメッセージなのだが、
そこで語り手に訪れる悲しさは、とことん「当事者になれなかった悲しさ」なんだと思う。
それと、この小説を語る上で外せないのが、全編通して大量に登場する固有名詞だ。
漫画、アニメ、テレビCM、映画、J-POP(歌謡曲? その辺の区分けがよくわからない)といった
サブカルチャー、ポップカルチャー(この辺の適切な総称もよくわからない)からの引用がべらぼうに多い。
作者は、以前からエッセイで小説内の固有名詞の使い方について論じたりしているし、
というか、そんな前情報がなくても一目見て明らかなくらい大量の固有名詞を意図的、意識的に使っている。
これが、例えばキン肉マンを知っている人に「ほら、キン肉マンだよ」とサービスするための符牒じゃないことは明らかで、
じゃあ何のための引用なのかと言ったら、キン肉マン自体を書きたいわけではなくて、
「会話の中ですぐに"そういうの"を引用する人(達)」を書きたかったんだと思う。(当たり前か)
世の中やら自分やらを見て把握して語るときに、ごく自然と漫画の登場人物やポップスの歌詞と
それは、ふざけているわけでも遊んでいるわけでもなくて、その方が断然実感があるからだ。
フィーバー状態の伊勢神宮に願掛けに行く、っていうふざけたような言い方なんかも、
切実な思いを実感のこもった正直な言葉で表した美しい祈りの言葉なのだ。
長嶋有が描くそういう言語感覚は、読んでいて楽しいし、時にとてもぐっとくる。
最後に、この小説は長嶋有にしては珍しくとてもマッチョな小説だったと思う。
「この人のこと女だと思ってたわ」作家で上位にくる長嶋有だが、
「愛のようだ」に関しては、知らない人が読んでも男の人が書いた小説だと思うんじゃなかろうか。