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はてなキーワード: ホームシックとは

2016-03-30

監禁少女へのセカンドレイプをやめてくれ

行方不明になっていた少女が戻ってきたと報じられている

まず、戻ってきたことを喜びたいのだが、ネット上じゃこんな反応である

http://hamusoku.com/archives/9214207.html

1人でスーパーにも行けた、とか、宅配便も受け取っていた、とかい情報が出て、

「これって本当に監禁か?」

「単に家出して転がり込んだ男とうまくいかなくなっただけでは?」

とか

これは少女に失礼すぎる論調

冷静になって考えてくれ

18歳未満に選挙権がないのは何故だ?

未成年契約は成人の結ぶ契約と扱いが違うのは何故だ?

18歳以下とセックスすると淫行になるのは何故だ?

12歳以下とセックスすると、同意があっても強姦になるのは何故だ?

心神喪失だと罪に問われないのは何故だ?

これって全部、ちゃんとした判断ができないから

判断力がないから、周囲が保護しなきゃいかんってことだ

まりこれは、人間はどんな年齢でもどんな境遇でも正しく判断が出来る、なんてことはあり得ないことの証明

今回の少女が失踪した真相わからんが、報じられている限り、男が少女を騙して車に乗せたことになっている

これは誘拐

少女に非はない

そして中1だった少女が男と一緒に暮らすことになるわけだ

中1の少女のこと、ホームシックにならないはずもない

帰らなきゃいけないって気分にならないはずもない

それでも親に連絡さえ出来なかったわけで、これはもう、少なくとも誘拐当初は、少女自由を奪う何かがあったのは間違いない

監禁、拘束かもしれないし、恐怖かもしれないし、お金かもしれないし、地理的ものかもしれない

何かはわからないけど、少女が望むように動けたとは到底思えない

少なくとも当初はね


しかし、それ以降、中1の女の子が、若い男と2人だけで暮らすわけだ

ストックホルムシンドロームは有名だけど、少女の状況を思うに、長く暮らしている中で、一度も2人の心が通わなかった、ということは確かにないだろう

少女犯人に対して、好意のようなものを一度も持ったことがない、とも言い切れないだろう

そりゃ長く誰かと一緒にいれば誰だってそうなる

それに、そうしなければおそらく彼女は生きてはいけないのだから

生きるための思考に切り替わっていたっておかしくはない

そういう過程を経て、少女から逃げるという意思が奪われる

当初は恐怖や拘束だったかもしれない

でも、現状平和に生きれているならそれをあえて壊すリスクをおかすこともないと思い出す

帰る場所がどこなのかわからなくなることもあるだろう

そして1人でスーパーにも行けるようにもなるし、宅配便のお兄さんに助けを求めることもなくなる


しかし、これは最初に書いたように状況と年齢から、正常な判断力を奪われて後の思考

これだけは全員に理解しといてもらわなきゃ困る

1人でスーパーに行けたから?それが監禁じゃないと?

彼女が本当に望んでそこに留まったと?

本当にそう思うのか?君たちは?

長い時間2人だけで過ごせば、そりゃちょっとした好意くらいゼロじゃないだろうさ

でもそれが、彼女自由実家で過ごせている状況でも生じた愛情だと思うのか?

あり得ないだろうそれは

から監禁途中にいかに少女自由に過ごせたかのような情報が出ても、

いかに少女犯人好意的だったかのような報道が出ても、

それが正常な判断ができる状況で起きたことじゃないということだけは知っておいて欲しい


それを忘れて、少女が望んだ家出だろ?って空気を作るのは完璧に間違えている

それはあってはならないことだ

彼女は、途中の心理状況がどうであったにせよ、帰る場所を最終的にちゃんと理解して、生き抜いて帰ってきた

それが全ての真実物語っている

男と過ごした2年が、どれだけ彼女にとって不本意なものだったか

それだけが、信じるに値する事実だと俺は思っている

2015-11-07

[]2015/11/07

昼寝だけど。

夢の中で実家に歩いてたどり着きそうになったところで目が覚めた。

起きて実家じゃないことで一瞬混乱した。

ホームシックかよと。

疲れてるせいだろうな

2015-10-19

http://anond.hatelabo.jp/20151014032742

俺もホームシックにならないし、子どもときにうれしかったのは共働きの親が家にいない時間帯だった

今も年に2回帰るか帰らないかだけど、驚くほど懐かしさを感じないんだよな

しろ既視感すら感じる

また帰ってきたのかー久しぶりなのに全然変わんねーな・・・みたいな

体感時間が早くなってるからかもだけど

ホームシックの紛らわし方のコツ

http://anond.hatelabo.jp/20151014032742

ここまでひどいことはなかったけどひとりでいるのが好きだったので弱かったけど

多少はホームシックにはなった。

そのときにやっていたこと。

目をつぶり、今住んでいる場所から頭のなかで外に出る。

近所に住んでいるとはいえまったく用のない路地や行く必要のない

ところはいっぱいあるはず。

そこに入り込んでみる。

そこを実家の同じような場所とつなげる。

まりそこにいけば実家にすぐに帰ることができると自己暗示をかけるわけだ。

なんていうかドラえもんどこでもドアチックな。

コツは似たような雰囲気場所リンクさせること。

あと見通しの悪いところ。

http://anond.hatelabo.jp/20151014032742

出張旅行で数日、留守にしたときに、 今の”家”に早く帰りたいと思ったら、それがホームシックのようなもの

居心地の良い住処に対してしかホームシックは起こらないし、

病的なほどのホームシックは稀だよ。つか、それは病気

2015-10-14

ホームシックの謎

ホームシックというものを感じたことがない。

世間一人暮らしというのは、そのうちに実家が恋しくなり、極端な例では連休があると実家に帰るらしいが、

私は全くそんな気持ちになれなかった。

家にいた頃からして、一番気楽なのは親が外出し、家に誰もいない時間だった。

好きな時に、好きなことを、好きなようにできる。

その終わりを告げる、車のブレーキ音を聞くのが、たまらなく嫌だった。

親との会話は苦痛だった。ちょっと気に食わないとすぐ怒る。

しかし会話に参加しなきゃしないで怒鳴るので、とにかく話を合わせなければならなかった。

親は野球が好きだったが、テレビで観ている間もやはりよく怒った。ひいきのチームが勝っても負けても怒鳴ってばかりいた。

個人的には野球に興味はなく、むしろ大嫌いだったが、困ったことに雑談によく出てくる。

から新聞を読んで、テレビを観て、いかにも興味のあるふりをしなければならなかった。

昔読んだ漫画で、バイト先の喫茶店相撲好きのヤクザが来るので必死相撲勉強したという話があったが、

まさにあんな感じである

正直言うと、たまに電話がかかってくるのも面倒だが、こちらは気楽だ。なんといっても顔色を伺わなくていい。

万一怒鳴ってくるようなら、いつでも適当理由つけて切れる。そう思うと、逆に向こうを思いやる余裕すら生まれた。

野球にはもう触れていないので、話には全くついていけなくなったが、適当に聞き流してごまかした。

離れて暮らしている分にはよい関係でいられた。

世間の毒親や虐待に比べれば、こんなものはぬるいレベルしかない。

しかしそれでも、いまだにホームシック意味理解できずにいる。

2015-05-23

http://anond.hatelabo.jp/20150523172235

いきなり僕の星に連れて行ったらホームシックになりそうだね君は

からまずは金星に連れて行ってあげる

2015-02-02

ホームシック

出張で一人海外にいる。今日でちょうど2週間が経った。

新卒入社後数年の自分にとって、これが初めての海外出張

日本帰国するのはもう少し先の予定だが、今とても自宅が恋しい。

もともと海外志向など皆無であった。

海外赴任どころか、国内転勤でさえ出来れば敬遠したいと思っていた自分である

(その可能性を承知した上で総合職として就職したのはもちろんだけど)、

結婚をし一生を共にできると思えた信頼出来るパートナーを得たことや、

その他、仕事を続けていく中での内面や外部環境の変化によって

会社の都合で(会社の金で)、自分の知らない土地に住めるなんてラッキーじゃん!」

と思えるまでにマインドチェンジされた僕の考えは、今回の出張で脆くも崩れ去った。

家の中では靴を脱いで過ごしたい。使い慣れたお布団に包まって眠りたい。

変な虫もう出てこないで。水道水は飲めないの?おいしいおやつにホカホカごはん。。

結局の所、自分は内向き志向ということで何も変わっていなかったわけだ。

メディア若者海外離れが叫ばれている昨今ではあるが

(真偽のほどは定かではない)、それでも、すでに日本を飛び出している者、

世界中を旅する日本人は多からず私の周りに存在する。

もちろんの彼らもホームシックに陥ることはあるだろうけど、

慣れない土地で生き抜くタフさは一体どうやって手に入れられるのだろうか。

自分にはやっぱり厳しいかなと思いながら、妻の写真を横目に一人眠る

2014-12-09

ホームシックにならない理由

ひとりぐらししてだいぶたつけどホームシックにならないしろくに帰省もしてない。

理由を考えてみたけど、夢でしょっちゅう家族に会ってるからだと思う。

家族の夢ばっか見るってことは逆に実はホームシックにかかってるからとも言えるのかもしれないけど。

2014-09-26

いよいよ引越しも迫ってきて、荷造りとかしてるわけだけど、本当に気に入っていた街だったか

自分でも驚くくらい寂しい。

引越し当日はわけの分からないセンチメンタルに駆られて泣いてしまうような気がしている。

実家のある町よりも、この街で一人暮らしで過ごした時間の方が、自分としては好きだ。

10代前半の頃にも親元を離れての生活を2年間していたけれど一度たりともホームシックにはならなかった。

学生の頃に下宿していた町を離れる時も今回のような寂しさは全く無かった。

多分、この土地に住んでいた年月が、色んなものが凝縮されていたからなんだろう。

沢山悩んだし、泣いたし、怒ったし、悲しんだし、苦しんだし、笑ったし、迷走したし、遊んだし、決意もした。

そんな日々があったからこれから生活に繋がったんだけれど、後悔もしていないけれど、

少しチクリと胸に刺さるような、愛おしいような、懐かしいような、そんな日々だった。

ありがとう

あと数日、宜しく。

2014-08-14

サッカー海外組 ユース年代まとめ


よく出るユース年代海外


海外

玉乃淳    アトレティコ・マドリードY→(トップが降格、EU外枠ルールの関係帰国)→ヴェルディユース→ヴェルディ、徳島

        横浜FC徳島草津引退→カナダで語学勉強帰国時に「Foot!」出演など

高野一也  エスパニョールY→(ホームシックで帰国)→清水Y、大学進学後バルサキャンプの通訳指導。『サッカーキング』、『ワールドサッカーキング』など

篠田悠輔  エスパニョールY→(腰を痛め帰国)→清水Y、富士常葉大学 

松永祥平  シャルケ04Ⅱ(ドイツ4部)→浦和水戸甲府入団テスト不合格愛媛入団半年解雇→ペルシブ・バンドン→グレシック・ユナイテッド(インドネシア)

・沓澤曙    プリマスY(イングランドFL1部)→流通経済大 [読み:くつざわ あきら]

宮川類     アトレティコ・マドリード・カデーテ(U14-15)→同地域の他クラブ(16歳~19歳のチーム)→日本帰国、流経柏高に編入

・金城クリストファー達樹 (JFAアカデミー福島→)フォルトゥナ・デュッセルドルフU-19→福岡



海外未遂組

田中裕人  リーズ・ユナイテッドJYのオファー蹴る→ガンバY、関西大→磐田

比嘉厚平  バルセロナのオファー蹴る→U-19カタール国際で中国人破壊される→柏U-15,18,トップ昇格→秋田山形



海外

富田平    (JFAアカデミー福島→)シャルケU-17→シャルケU-19→オーバーハウゼンU19→清水練習参加→オッフェンバッハⅡ(ドイツ5部)

・古山瑛翔  (JFAアカデミー福島→)ボルドー(ユースでプレーもプロ契約できず)→トゥールーズ、ディジョンとも契約できず→ディジョンBチーム

・湊幸輝    ブレシア(ユース)(将来的な獲得を視野に、15歳がメドか?)→不明

内田将志  サラマンカ(スペイン2部)、ペニャロールB(ウルグアイ)、ラージョ・マハダオンダ(スペイン4部グループ7)等所属の噂→その後、消息不明

古川頌久  ブレシアB(ユース)→川崎ユース→ナシオナル・モンテビデオB(ウルグアイ)

久保建英  バルセロナ・アレビンC→アレビンA

伊藤遼哉  グラスホッパー →バイエルンU15

・タルハニ在哉 エスパニョール・アレビンB

中井卓也  レアル・マドリード・アレビンB

・野中望    (JFAアカデミー福島→)ボナーSC(ドイツ5部)→SCブリュール(ドイツ5部)→ベルギッシュ・グラートバッハ(ドイツ4部)→?

佐藤令治  (JFAアカデミー福島→)モレリアU-20(メキシコ)→トップデビュー

・亀倉龍輝  ポルト(U19?)→ポルティモネンセ(ポルトガル2部) ※代理人テオ・コンスタンティンの息子


特に有望なの

シャルケ伊藤

ドルトムント丸岡(セカンドチーム)

トットナムのサイゴダード

フライブルク木下(セカンドチーム)

バルサ久保

2014-03-15

http://anond.hatelabo.jp/20140315224757

数年前、家を出て一人で暮らし始めた。
自分の好きな様に生活をしていても誰からも文句を言われない生活がここまで快適とは思わなかった。
よく一人暮らしは急に寂しくなることがあるなどと言われるけど、そんな感情はただの一瞬も感じたことがない。
部屋は汚いし、生活レベルは落ちているけど、この開放感は何者にも代えがたいものだと思う。

自分一人暮らしして同じ感想だった。もう7年位一人暮らししてるけど、今まで一度もいわゆるホームシックは感じないし、それどころか実家に帰りたくない。

学生時代同級生でやたら実家に帰りたがる奴がいて不思議だった。

確かに飯はただで食えるし、家の事もやってもらえる、生きていくための金の心配もしなくていい。それだけ見たら何も不自由がないどころか恵まれてるくらいなんだよ。

だけど、それでも一人のほうが気楽で楽しい保護されてる代わりに、独立した意思を持つ存在として扱われないから

でもそう言うと世間的には「親不孝者」なのがつらいよな。

2014-03-10

共依存の娘の方

今朝は母と軽い言い争いをした。

母はなんでも我慢する。

言わないで、我慢して震えてる。

私はそれが嫌だ。

辛そうな疲れたかんじで、少しも笑ってない笑顔で「ウン…わかった。わかったよ。もういい。」っていう。

その姿を見るたびに腹立たしい。自分に酔ってやがる。

はいつもいつも「あなたのため」といって、自分犠牲にして何か世話を焼きたがる。

私が勉強で1位になったり受験合格したときは、私よりも泣いて大喜びしてくれた。

でも勉強しろとあまりにも煩く、満点取らなかったらクラス高得点でも怒られたし、禁止事項も多く、人を見下す発言が多い。

そしてよく「お前は母の半身で大切だ。愛してる。お前の人生はお前のものだけど、母の人生でもあるんだよ」とニコニコして言う。

から私も母に甘えて抱きついてニコニコしながら、内心いつだってビクビクしている。

まったくなんてことを言うんだ。ものすごいプレッシャーだ。

精神的束縛だ。

こんなの、居ない父(居たとしても[愛情]が欠落してるような人間)へのさみしさを私で紛らわせてるだけじゃないか!

しかしそれは私も同じなんだ。慢性的孤独感と空虚感、罪悪感、焦燥感、自信のなさをどうにか紛らわせたくて、母に異常に擦り寄り甘えるのだ。

甘えるほどにこの負の感情はどうせ更にループするんだけどね。

共依存

まったくもって、共依存

わたしたちの共依存には、同居してた父方の祖母の話も必要かな。

この人は最低に性格が悪く、非道で意地悪なことばかりする。

祖母は習字教室先生をしていて、私は幼稚園ときから家の一角に通っていた。

ここでは、家の子からといって随分逆贔屓された。贔屓の逆。

書いた字を見てもらうため順番に並ぶのだが私は「家の子から」と順番を後回しにされ、私だけ毎週「クズ・おばかで落ち着きがない子・のろまむすめ」などと皆の前で罵られていた。

この人、外ではとても上品そうでいい顔をする。そして典型的な悪の姑。父が不在の家で、母はいつもこの人に虐められてた。たとえば、母が風呂に入ってる時故意にお湯を止められたりとかね。

しかも祖母はアルツハイマーになり性格のクソさ&介護のクソさが日々激化していった。

母の気丈に振る舞う姿をずっと近くで見てて、糞ババアから私が守らなきゃって思った。

ちなみにボケ防止という名目で既にボケ始めてからも数年は習字教室運営は続行された。年々減る生徒。ボケる祖母。タゲられる頻度が増す私。

泣いて辞めたいと毎週母に訴え、忘れもしない、結局2年後の小6冬、罵りに耐えきれず書初練習を途中で放棄したことにより私の習字という苦行は終わった。

私は素直で明るいピュア優等生というのがポリシーであったが小5くらいには祖母に対して怒りで満ちていてた。第5日曜のオツベルの象な感じ。

学生ときには痴呆の進んだ頭の回転の早い祖母と激しく罵り合うことが頻繁にあった。本気で殺したいと思うほどに憎く、汚らわしく思っていた。

そんな感情を抱く自分も同じくらい穢らわしくて、もうピュアには戻れないんだろうなって悲しくてよく泣いた。

このとき通っていた進学校勉強に私は全く着いていけなくて、アイデンティティが砕けまくりで、唯一の癒し部活を禁止されたりして、遅刻を繰り返して、ゲームに没頭して、自分を諦めていて、勉強しなさいという母に祖母と喧嘩するのと同じテンションで言い返するようになっていた。

この頃から、我慢する母にも怒りを感じ始めた。

母は日増しに疲れていった。

なぜ?なぜこの人はただ耐えるのか。

何度も聞いたけど「耐えるが勝ち」みたいな答えでよくわからない。だってそんなに不幸そうな顔するのに。イライラする。私のせいだ。守りたかったこの人を傷つけてるのは私自身なんだ。

でも母はひたすら耐えてひたすら傷つく。なんでよ?痛いって言ってよ。

私は「辛いなら言って。力になりたい。」といつもいうのに、母は「うん」といいながら全然言ってこない。

悔しい。

私は一体なんなのだ

イライラする。そうこうしてるうちに、さらヒートアップしてしまう。止まれない。私には止まれない。耐えたくない。母みたいになりたくない!感情が爆発させる。母にも感情を爆発してもらいたいという希望も込めながら。

母は私を怯えるようになった。

はいつも怯えて生きてるというのに。

鬱のような。でも鬱じゃないような。

大学1年で一人暮らしとき、ある日突然涙が止まらなくなって動けなくて、本格的にメンヘラの仲間入りを果たした。

ホームシックだと思う。共依存が抜けないんだ。自立しようなんで思ったことを1度もなかったもん。

薬も飲んだし過食したし不眠したし過眠したし引きこもったし大学もたくさんサボった。鬱とか非定型うつだとか色々考えたけどどれもしっくりこなかった。

アダルトチルドレンだけは当てはまった。親にも言った。伝わらなかった。全く伝わらなかった。

へーそう。だから何?親のせいにしたいならすれば?って言われた。

信じてなくて、どうでも良さげだった。鬱とかACとか相談するたび、朝の星座占いぐらいに信じてなくて、聞き耳もたれなかった。

もう何をいってもダメだ。だめなんだ。

もう私が親から離れるべきなんだ。

ここ最近一番死にたくなったのは、母のためにUターン就職して、ブラックなとこで心身共に疲れて結局すぐ退職して近所の雑用バイトを始めたとき「べつに地元に拘らずに東京一人暮らしで働いてもいいじゃん?」といけしゃあしゃあと言われたことだ。居てくれたほうがいいって言ってたくせに。

もうぼく疲れたパトラッシュ。もう3時じゃん疲れるわけだ。

人差し指痺れそう。iPhoneすごく熱を持ってるじゃん。

何言いたいか分からなくなったよ。

いいや、とくになにか主張したいんじゃない。

ただ、言いたかっただけなんだよね。

性格悪いよね。こどもだよね。でもこれが私なんだよ。

なにもかも味気なく感じる。ジェットコースターとか乗るときだけ、マジに心が動くってかんじかな。

悲しいな。

2013-10-08

これもホームシック

法事だとか結婚式だとか、地元の方であるたび交通費なんてみみっちいもの気にしてる自分が情けなくなってきた。

今いるとこでそういうことあっても平気で断るのにな。地元の方が大事なのかな。たまにしか会わないからそう思うのかな。

実家、とまでは言わないけど、地元に戻りたいな。

2013-09-24

某国に戻りたい

アジアの某国に住むこと2年半。その国は日本とは似ても似つかない。たいていの日本人は住み慣れず音を上げるが、いったん慣れてしまうとその独特のあじわいの虜となり、今度は日本に住むことができなくなる。

半年前に日本に戻ってきたものの、毎日、その国を思い出す。この感情、完全に「ホームシック」だ。外国ホームシックを感じるっておかしいだろうけど。

客観的には日本はいい国だと思う。だが、もうその国に慣れてしまった身体では、日本日本ぽいところがいちいち鼻につく。日本では「ほんと、そんなことはどうでもいいんだよ」ということが多く、それでいて肝心な部分が私には足りないのだ。

まあでも、今回の経験外国に慣れずに日本に舞い戻ってくる日本人たちの気持ちが本当によくわかったよ。いまの私がまさにそうだから。矢印は反対方向を向いているけどね。

2013-07-01

台湾の子かわいい

新しくうちの会社台湾人女の子が入ってきた。

福岡に少し行ったことはあるらしいが、

これから1年くらい日本にいるそうだ。

台湾にいるとき日本語をきっちり勉強したらしく、台湾語中国語日本語ペラペラ

ホームシック」とかそういう単語は知らなかったけど、普段の会話にはまったく支障はない。

増田さん、きいてください!この間、鎌倉に行ってきたんですよ!」

「へえ、そうなんだ。大仏とか見たの?」

ハイ、見ましたー!大仏サン・・・あっ」

突然目を輝かせながら

「ワタシ、気づいたことがあるんです!きいてください!」

と言い出した。

大仏サンは、正面から見ると凛凛しい姿ですが、後ろから見てみたんです!

そうしたら!背中に小さい窓がついていて、開いていたんです。

その姿が、ちっちゃな羽が生えてるみたいで、とってもカワイかったんです!」

くその発想はなかった。ひたすら可愛い

30歳?とか聞いたが全くそういうふうには見えない…かわいい

「あんなに図体でかくてでかいのにねぇ」

ハイ!ちっちゃな羽です!」

大船観音様の中とかめっちゃくせぇよなどと言い出す空気ではなかったのでにこにこと送り出した。

次の夏祭りと冬の雪(降らないから観たことがないらしい)が楽しみらしい。癒されるわ。

2012-03-17

http://anond.hatelabo.jp/20120317044901

前にだけどさ、奈良の子会社にいて、

東京の人は突っ込んでくれない!」ってうるさかったんだけど

こういうことかーと思った

しかしやっぱうざかったw

他の地方の人はそんなこと言わんもん

一種のホームシックだったのかな

しかししつこかったw


自己レス

から推測するにその子

「アホかおまえ、ここは東京じゃ、誰もお前のボケに突っ込んでられんわ」

「いやーやっぱり冷たいわー東京人

「お前がアホなだけや」

「失礼しましたー」

みたいな会話をしたかったのか

・・・・理解はできるがなんか疲れたw

2011-09-27

帰りたい場所別にみる、日本の「帰りたい 帰れない」

全国2,000万人のサビ残企業戦士のみなさま、こんばんわ。

今日仕事もないのにバリバリ残業してますか?

やけくそで「光の射す方へ」向かって、I can fly!なんてしてはいけませんよ。

 

さて、そんなみなさまの「帰りたい 帰れない」の思いを

日本楽曲から探してみました。

日本人魂の叫びを覗いていきましょう。

 

過去」に帰りたい

いきなり最初から、ど真ん中ストレート

帰りたくても帰れない代名詞が「過去」でございます

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
勇次長渕剛1985年過去若気の至り家出した
新しいスタート岡村孝子1991年過去人生の門出を前に意気込む
郷愁斉藤和義1997年過去帰省が終わって、また普段の生活に戻らないといけない
Gates of heavenDo As Infinity2003年過去クスリがやめられない
手のひら re-birthMCU2006年過去自分探し
鼓動GLAY2007年過去大人になるのって哀しい
矛盾だらけのWedding SongGiFT2008年過去子供の頃好きだった女性が他の男と結婚した
燻-くゆる-ナイトメア2006年穢れなきセピア過去汚れる前に初期衝動を思いだせ(初心を忘れたくない)

ビジュアル系バンドは汚れたくないんですねぇ。

ピュアだったあの頃……帰りたいですね。

 

「あの人の胸」に帰りたい

終わった恋は取り返しがつきません。

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
落葉の駅八代亜紀-恋人何も言わず恋人の元を飛びだして
風立ちぬ松田聖子1981年恋人恋人と別れてセンチメンタル
無言坂香西かおり1993年恋人恋人浮気したので家出した
涙の海峡松原のぶえ1996年恋人北国の冬は人肌恋しい
山吹色の木の下でタオルズ2005年恋人過去いつもの風景に、昔を思い出した

松田聖子の「風立ちぬ」はカヴァー曲にリンクしました)

八代亜紀の「落葉の駅」なんて、

松任谷由実の「ルージュの伝言」って感じですね。

男が自分の為にあたふたしているのをみると

女性自分が愛されていることを知るみたいですよ。

めんどくさいですねぇ。

でも、おじさんはそういうのキライじゃないよ。

 

故郷」に帰りたい

日本歌謡曲における「北国」「津軽「海峡」の頻度は異常でございます

集団就職、出稼ぎ、懐かしいですね(ぇ

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
津軽岩木淳-故郷やけ酒してホームシック
帰りたい帰れない加藤登紀子1970年故郷から手紙ホームシック
望郷しぐれ山本譲二1986年故郷実家からの小包でホームシック
カントリー・ロード本名陽子1996年故郷もう故郷に帰れない
上野和田青児1999年故郷上野発北国行きの電車
夢千里キム・ヨンジャ2002年故郷海を荒れてたかホームシック
津軽慕情山本謙司2004年故郷酒飲んでホームシック
リンゴのふる里へ和田青児2005年故郷雲が北に流れていたのでホームシック
ひだまり石野田奈津代2009年故郷上京して大変だけど私は元気です
帰りたい千田裕之2010年故郷過去ふと思いだしてホームシック
東京シャボン玉天童よしみ2011年故郷上京したけど思い通りいかない四畳半生活
バイ マイ タウンHOW MERRY MARRY2011年故郷上京して大変だけど負けないよ

昔はたまに来る手紙だったのが、

今は携帯電話インターネット24時間故郷とつながる時代。

そんな中でも、最近の若い人の歌は、

上京したての初々しさが伝わってきていいですね。

ひだまり石野田奈津代)」は、いずれ「東京シャボン玉天童よしみ)」状態になるのも、

鉄板」というやつでございますね。

頑張れ、若い人!

 

自分の家」に帰りたい

企業戦士のみなさま、いよいよ本命

我が家に帰りたい」でございます

どのように歌われているのでしょうか。

ひとつひとつ吟味していきましょう。

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
大迷惑ユニコーン1989年マイホーム買ったら転勤を命じられたでござる

オリジナルユニコーンなので訂正)

あるあるwww

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
の子守唄リサ2009年子どもが家にいるのに水商売自分

シングルマザーは大変やでー!

 

曲名アーティスト発売年帰りたい場所概要歌詞
Tell me why?Lil'B2009年デートしてるのに恋人に冷たくあしらわれた

デートやめて家に帰っちゃえよwww

簡単に「泪」という女の武器を使うから

DV男ばっかり引き寄せちゃうんだよ!

時代はツンデレクーデレ

 

なるほど、「帰りたい 帰れない」は様々ですね。

では、みなさま、よい残業ライフを!

2011-04-13

普通に兄とセックスしてた

社会人になって数年、仕事が忙しくなり、職場理不尽な事が増え、それが精神的な余裕の無さに繋がって彼に距離を置かれ、それがさらに心の余裕を…というスパイラルの果てに破局。

異性と肌を合わせる事が数少ない癒しの手段だった自分にとって、パートナー不在状態は、ゲームで言う所の体力が少しずつ減っていく状態も同然だった。もちろん他のストレス解消法も色々と試してみたものの、セックスと同等の効果を感じられるものには結局巡り会えず、週末は一人でひたすら呑んでタクシーで深夜帰宅してばかりだった。

そんなある週末の深夜、自分でもよく覚えてないが運転手に実家の住所を告げていたらしく、気が付くとx万円のタクシー代を立て替えてくれた兄に抱きかかえられて部屋に運ばれていた。それが拙かった。季節は残暑も厳しい頃。Tシャツハーフパンツ姿の兄に「おんぶ」された時、その密着感と体温から猛烈、いや激烈な感覚が体を駆け巡った。「これだあああ!!!!」と。「ここにいるじゃん!!!!」と。

で、その夜のうちに兄と関係を持った。

「こうでもしないと自分ダメになってしまう」「私のためだと思って」「誰にもしゃべらなければいい。死ぬまで秘密にするから」「一回だけでいいから」「入れなくていい。ただ抱き合うだけでいいから」と、泣きじゃくる私に兄が折れる頃には夜が明けていた。人倫に反する事だという自覚は微塵も無かった。シャワーも「カラスの行水」同然に済ませ、兄のTシャツトランクスをはぎ取り、ひたすら兄との密着感を貪った。

入れなくていいという言葉で無理矢理妥協させた兄ではあったが、そんな約束最初から守る気など自分には全くなかった。兄は割と本気で抵抗したが、半分本気半分演技の涙でねじ伏せた。

数ヶ月ぶりのセックスはただただ気持ちよかった。勿論自慰はやってたけど、物の数に入らない位によかった。「脳味噌が痺れる」というのはまさにこれの事かと。途中で何回ヨダレを兄のTシャツでぬぐった事か。

事後、兄は私の頭を撫でていた。どんな顔をしていたかは、何となく見れなかった。

ちなみに実家で兄と同居している両親(というか、兄「が」両親と同居しているのだが)は一階の寝室で寝入っており、二階の兄の部屋とは比較的離れていたので気づかれずに済んだ。

私は同じ二階の元の自分の部屋へ行き、押し入れに仕舞われた布団を引っ張り出して裸のままひっくり返った。しばらくして、兄が私の服とバッグを持ってきてくれた。

両親には、「仕事が行き詰まって精神的にきつくなってホームシックになった」と説明した。実際そうだったし、ひたすら仕事愚痴をこぼし続けたので、両親も疑わなかった。父は一人娘の突然の帰郷に気をよくして「今日も泊まっていけ」と言ってくれた。二日目の夜は、兄は早々に寝てしまっていた。それが兄なりの拒絶の意志表示なのだと私は察した

日曜の夕方、兄が車で最寄りの駅まで送ってくれた。道中、私たちは一言も喋らなかった。駅に着いて、「まあ、無理すんなよ」と兄が言うと、私は「ごめん、ありがと」と言い残して帰路に就いた。少なくともこのときまでは、自分はこの一度きりで終わらせるつもりではいた。

兄とのセックスの効果は絶大だった。自分ミスは激減し、相手のミスを許す余裕も生まれた。何より、兄との行為を反芻しながら自宅です自慰が、その効果をより長く持たせてくれた。夜もぐっすり眠れるようになり、肌の荒れも目に見えて解消していった。

が、それが永久に続くわけでもなく、2ヶ月も経つ頃にはその効果は薄れつつあった。これは拙い。また「補給」しないと。そう思った時には既に携帯で兄に電話していた。

そして、何だかんだでなし崩し的に、兄と一ヶ月に一、二度セックスするようになった。両親にばれるわけにもいかず、また私のアパートの住民達にも、兄を彼氏だと認識されたりしたら万が一の場合も考えられるので、ムラッと来た時はアパート実家の中間の駅に兄を呼び出し最寄りのホテル直行、そして数時間後に別れる、という流れだった。勿論ホテル代その他諸々の費用は全部私持ちで(兄は自分が出すと言っていたが私が拒んだ)。

今冷静に振り返ってみても、相当に人の道を踏み外してるなとしみじみ思う。あの頃は自分が気持ちよくなる事しか考えてなかった。兄に対しても、あれでも一応男なんだから別に損はしてないはずだと自分勝手に思い込んでいた。セックス自体も完全に受け身で、兄に何かをしてあげようという発想すら無かった。

けれど旦那(になる人)とつきあい始めて、本気で結婚を考え始めた頃になって、「ああ、私はこの人に絶対に言えない秘密を抱えて一生過ごすのか」とか「私をこんなに信頼してくれているこの人を、自分は一生だまし続けて生きていかなければならないのか」という事に気づいてしまい、また兄にも同じ業を背負わせてしまった事を深く後悔し、何となくそれ以後自分で兄を遠ざけてしまった。自分結婚式でも目を合わせずじまい。実の兄の体を求める度胸はあったくせに、謝罪する勇気は私にはなかった。今思えば最低な卑怯者だな。

そうやって実家自体とも疎遠になった頃、兄から結婚式の招待状が届いた。届いたその日の夜、兄の携帯から電話が鳴った。思わず電話に出た。兄は陽気な声で「お、元気?」と。私はその場で泣き出し、何度も謝った。兄は「お前も旦那とうまくやれてるみたいだし、俺もようやく人並みに落ち着けるし、お前が苦しむ事はもう何も無いだろ」と言ってくれた。

別に落ちも何も無い。兄との関係は今も旦那には黙ったままだし、兄との肉体関係もそれ以後全く無い。ただ、あのとき兄が自分を受け入れてくれたからこそ、今の自分があるんだろう。匿名で吐き出せる程度にはなれたのでここに書く。

2011-04-05

http://anond.hatelabo.jp/20110405103630

そんなんで田舎の生活や現実まで感じ取るわけねーだろ

俺も親がそういうの熱心で子供のころ散々行ったわホームステイとか

気楽で楽しい&後半ホームシックになっただけ

ようこういうしょーもない反論するわw

2011-03-05

アフリカ在住から一年一ヵ月後。

http://anond.hatelabo.jp/20100209065146

これ書いて、一年一ヶ月たって、今、日本に帰ってきている。

任期が終わろうとしていた昨年の末位から、あの大陸の北のほうは急にうねりを見せ始めた。

http://anond.hatelabo.jp/20100210201337

の方が書いていたように、インターネットSNSが遂に大きな力になって、そして、ある側面では、それを見せ付けたかのようだった。

ジャスミン革命前のチュニスは、本当に短期だけなのだが、滞在したことがある。

とても過ごしやすいところだった。外国人である僕にとっては。

エジプトは、10日間くらい、ナイル沿いを北から南に移動しながら滞在したことがある。

実にエキサイティングだったし、そんなに贅沢をしたつもりも無かったけど、快適な滞在だった。

そういえば、ギザスフィンクスの前で、外国人旅行から盗みを働いたやつがTurist Policeにボコボコに殴られているところに出くわした

快適に過ごせたのは、やはり自分外国人だったからかもしれない。

帰ってくる途中、イスタンブールに数日滞在していた。

可愛らしいお子さんを4人もつれた、リビア人のご家族と一緒に、ボスポラス海峡の船上でつかの間の楽しい時間を過ごしたんだ。あの頃は、まさか一気にこんな事態になるとは露にも思わなかった。

「まだ、リビアには行ったことがないんだ」

というと、誇らしげに、

「どうして来ないんだい?こないだまで君がいた国よりずっといい国だよ!」

と言ってくれた、お父さん。

一生懸命、僕にアラビア語を教えてくれた、お嬢さんと坊や。

元気にしているだろうか。

一年少し前、最初に「アフリカ大陸滞在中」のエントリで書いたように、僕が住んでいた場所は、確かに少々暮らしにくいところではあった。

ジャスミン革命に触発されたデモがあるや、ないや、という話を聞かないでもない。でも、酷い流血の惨事はとりあえず今のところ繋がっていないようだ。

暮らしにくかったのは、僕が外国人だったせいだろう。

やっぱり、色々ある。

同じ大陸だけど、全然違うよな。リビアの件で、「アフリカ傭兵」っていう表現をいろんなメディアで見るけど、あれほど違和感を覚える言葉は他にない。

エジプトの人を十把ひとからげに「エジプト人」と呼ぶ事だってある種乱暴なのに、それってどうよ、と思う。

それはともかく。

帰国にあたって、一緒に仕事した現地人スタッフが、寄せ書きをして送り出してくれた。

結構、厳しいことを言ったりもしたので、まさかこんな事をしてくれるとは思わなかったが、とても嬉しかった。

挨拶を」と言われたけど、感動のあまり何を言ってよいかからなくなった。

「もう、僕は居なくなる。でもプロジェクトはまだ続く。君たちには全部伝えたつもりでいるし、君たち自身でもう全部できる。

 このプロジェクトは君たちの助けをまだまだ必要としている。だから、今まで同様、今まで以上に、協力しあってやって欲しい

たいな事を言ったような気がする。

チュニジアエジプトでは、「何もくれない奴等」をウマい事追い出したようだ。

でも、その後はどうなんだろうか?

あの「革命」、と言われる一連の動きが、「何かをくれる新しい別の人」を求めてのものだったとしたら、その「新しい人」はもしかしたら、ただの「新しい独裁者」に変わるだけかもしれない。

追い出したから、「自動的に新しいものをくれる人が現れる」と思っているのだったら、そんな事はありえないよ。

追い出して、壊した所で安心していたら、多分何も変わらない。もしかすると、前よりずっと悪くなるかもしれない。

これからが、一番大変だ。言ってみれば、何も無いところから自分たちの力で色々積み上げていかなきゃいけなくなるんだから

帰国してから、早くも一ヶ月以上経過してしまった。

急に色々頭に思い浮かんだので、何かを主張したいわけでもなく、以上、ちょっと雑駁に書いてみた。

こんなことが頭に浮かぶのは、もしかしたら、ちょっとホームシックなのか?などと言う考えが浮かんでしまい、慌てて頭をぐるぐる振ってみる。

故郷は、遠くにありて思うもの」

とは言うけど、一ヶ月ちょっと再び日本で生活してみて、やっぱり色々この国は過ごしやすいよ。

でも、数ヶ月ほどしたら、今度は一年ほど、また別の国(未定だけど)に行くことになりそうだ。

次に外から日本を眺めるときは、どのように見えるのだろう。

楽しみなようでもあるし、壊れていく故郷を見るかもしれない怖さが無いわけでもないし、なんとも言えない。

2010-11-18

マザコンだったことに気づく

俺のいとこは10人いるけど、一番歳が近いので6歳上、その上が11歳上。

親戚の集まりがあると誰とも話が合わないし、親も相手してくれないし、孤独だった。

だから実家がすごく嫌いだった。たくさんの人が集まる日も嫌いになった。

実家が嫌いで、できるだけ離れていたくて、大学で上京、就職しても地元にはほとんど帰らなかった。

26歳で大学時代から想っていた夢に挑戦するために会社を辞めた。

日々の生活費を抑えるために、実家に戻り、努力した。寝る間も惜しんで。でも、まだ芽が出ない。

親から援助してもらう生活が情けなくて、知り合いの会社で短期間世話になることにした。

そこでまた上京してきてるわけだけど、、、俺どうやらマザコンみたいだわ。

はじめて上京してきたときは気分最高だったけど、今は気分最低。これってホームシックなんだろうな。

さっき母親メールくれたんだよ、寒いから風邪引かないようにねってさ。

あのさ、頼むから心配しないでくれよ、優しくしないでくれよ。

26歳の成人男性風邪引かないようにねはないだろ。

まぁなんとかなるよとか言ってても不安だったりするんだから。

そんなときに優しくされたら、泣いちゃうだろ。離れられなくなるだろ。

26にもなって親から金もらって心配されて。そんなゴミみたいな息子のことは勘当してくれていいよ。

さっきから涙止まらねーんだよ。どうしてくれんだよ。

26歳でまさかのマザコン発覚だからなぁ、、、俺。我ながら痛い。

とか書いてたら落ち着いてきた。ふぅ。明日も頑張ろう。

2010-09-26

初めての一人暮らし

25歳素人童貞彼女いない暦=年齢。手取り20万あるかないか。

会社実家からも十分通える距離だったが、会社の同年代人達に影響されて始めてみようと思った。

それと実家にいる兄弟がうるさくて嫌だった。

普段、あまり親とは会話をしない。

物件勝手に探して、いきなりここに住んでみようと思うと言った。いきなりにも関わらず、承諾してくれた。

父親は家電買うのに必要だからとヤマダ電機ギフト券をくれた。

引越し先は家から車で一時間くらいなので、車で自分の荷物を運んでくれた。

自分免許持っているけど、ペーパードライバーなので、父親任せだった。歳なのに重い荷物ももってくれた。

母親一人暮らしすると言ってから、張り切って洗剤やら生活用品を用意してくれた。アイロン買ってあげると言ってくれたが、悪いので自分で買うと言って断った。

断ったときにすごい残念そうな顔をして「そう…」と言われたので、素直に買ってもらえば良かったと後悔した。

なんでそんなに親切にしてくれるの?しかも無償で。

今も細々した荷物を持ってきたところ。色々整理しようと思って、父親には先に帰ってもらって部屋に一人きりになった。

隣人のコンポ音漏れが聞こえてきて急にさみしくなったのと、申し訳ない気持ちで涙出てきた。泣きながら、2chホームシックスレを見てたらもっと泣けてきた。おかげで、全然整理できてないよ。

住む前からこんな感情になると思わなくて自分でもびっくりしている。自分でも感じていたけど、かなり過保護に育てられたと思う。お父さん、お母さん、ありがとう。

今から実家に帰るので、泣いてたのがばれないように目薬買って行こう。もっと親孝行したいけど、うまく気持ちを表せない。

2010-02-05

「もう目標はない」と燃え尽き症候群に陥った。連続優勝は06年名古屋からの4場所連続以来、2年遠ざかっているが「どうでもいいんだよ」と闘志に火が付くことはなかった。

 炎がともったのは10月だ。きっかけは赤いポストだった。秋巡業中、母校の高知明徳義塾高を訪問した。どうしても行きたかった場所があった。それが校内にある郵便ポストだった。「寂しくてホームシックになるとここに来て手紙モンゴルに送ったんだ。このポストが寂しいオレとふるさとをつなげてくれていると思ってね、がんばれたんだよ」。当時のままと変わらないポストに苦しかった日々をかみしめた。ポスト携帯電話写真を撮って大切に保存している。「あの頃を思い出してやらないとね」

http://hochi.yomiuri.co.jp/sports/sumo/news/20091122-OHT1T00248.htm

2009-11-25

理想化された留学

クリスマスまではクルシミマス

初めて留学する人にとって、クリスマスを迎えるまでは色々な面で苦労が多く、一番大変な時期だと言われている

私も9月から初めての米国留学をしており、まさに「クルシンデ」いる状態だ

ふと、その苦しさというのは、何からできているのか考えてみた

もちろん、言うまでもなく語学力

それに伴い、授業に付いていくのに必死(本当に必死)に勉強をしたり、

言葉の壁のせいでなかなか友達ができなかったり

また、新しい土地での生活に慣れるということも留学生活を苦しくしている原因であるだろう

一般的に、「ホームシック」になる人の原因はこんなところだと思う

しかし、最近もう一つ、留学をつらいものにしている原因が分かった

それは、「理想化された留学像」だ

過去留学経験した人の話を聞くと、もちろん上に挙げたような苦労を色々語ってくれたので、

大体は予想はできた

でも、それと同時に留学でのパーティー三昧の日々や、文化人種を超えた友情、

キャリアアップ自己実現自己発見国際恋愛...など留学楽しい一面ももちろん聞かされていた

facebookを見ても、友達をばか騒ぎをし、すっかりその国に馴染んだ彼らの楽しそうな姿を見る事できた

こうゆう楽しい一面があるからこそ、多くの人が留学に憧れ、そした海を渡るのだと思う

もちろん私もその一人だ

勉強をするというのも、当然ながら目的であるが、

日本ではできない貴重な経験をするものまた目的であった

だが、そうも理想どうりにはいかないのが現実である

目の前には、自分の中で「理想化された留学」とは遥かにかけ離れた現実が広がっていたのだ

いつしかその「理想化された留学」は「留学はこうでなければいけない」という脅迫概念となり、

私は一人勝手に焦っていた

せっかく、アメリカに来たのに、暇さえ有れば勉強

パーティー三昧なんてまずありえないし、パーティーに言っても言葉が分からないから楽しくない

白人金髪アメリカ人の友達に囲まれて過ごすはずが、アジア系、さらには日本人とつるんでばっか

(今思うと自分無意識のうちにレイシスト的な考えを持っていた)

日本でできない経験をしてキャリアアップ自己実現のはずが、日々の生活を生き抜くので精一杯

など、例を挙げたらきりがない

自分自身が作り出した、勝手な「理想化された留学」に自分は振り回されていたんだと気が付いた

留学なんて、人それぞれ違うもの

ある種、「理想化された留学」というのは、留学斡旋会社によって作られた幻想であるとも言えるのかもしれない

HPなど見るといかにも楽しそうな写真経験談が語られている)

理想」は理想でしかなく、「現実」というのはもっと辛く苦しいものなのだ

ただ、暗い一面はみんな語りたがらない(特に企業は)だけ

だから、自分のペースでいいだ

自分に言い聞かせている、留学5ヶ月目の朝でした

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