はてなキーワード: サッカー部とは
インターネットから匿名性が失われていく現象には何か名前はついてるだろうか。
昔より誰が言ったかが重視されるようになって、「面白い人」が言ったことは面白くて、「おしゃれな人」が勧めるものはおしゃれだ。
おいおいおいとそんなのお前らが嫌いだった小学校、中学校のころと一緒じゃねえか。
思い出せよ声がでかいだけの野球部のギャグでみんなが笑い、前髪が長いだけのサッカー部が女の子にちやほやされたときの感情を。
だんだん俺たちのインターネットがそうなっていってるんだよ、危機感持てよ。
思い出せよ、お前らがつけた秀逸なあだ名を野球部が我が物顔で言って大爆笑をかっさらっていった時の感情を、俺は見てたぞお前らがヘラヘラして自分の胸の感情を殺していってるところを。
今のインターネットはそれだよ。名もなきぽまえらが作って築き上げていったインターネットは企業とアフィリエイターに金とか影響力みたいなもんでかっさわれちまったんだ。
残念ながらこの思いが届くのはもうすでにごく少数の人間だけなんだろう。
みんな立ち上がれ、俺たちのインターネットを取り戻そう。
俺たちにできるのは匿名性が守られ続けている増田に面白い文章をバンバン投稿して、薄汚れちまったインターネットの目を覚ますことだ。
巷では田嶋会長がクソだから、ハリルホジッチ解任に納得できないから、実質電通サッカー部だから、ケイスケホンダがいるから、とかいろいろ言われてるけども
応援する・しないってそんなに理詰めで決めているものなのだろうか?
最近でいえば、20年来のベイスターズファンを去年やめた。ひどいプレーを繰り返す某選手が固定されつづけているのを見て、応援する気がなくなってしまった。
そのときは、もうファンはやめようなんて決意した記憶はない。なんとなく、いつの間にか離れていた。
今思えば、「僕だったらこうやるのに」という僕の考えと監督・選手の思考が著しく乖離していると感じたから、ファンでなくなったのだと思う。
ところで、なにがしかの属性を持ったモノは、一定の応援をされるという世の中の相場がある。
たとえば「日本代表」、たとえば「善戦マン」「シルバーコレクター」。弱い立場の人に同情する判官贔屓もその一種だろう。
それらが応援されるのは、その応援対象と自分との間になにがしかの関わりが感じられるというのが一番の理由だと思うのだ。愛国心があるから日本代表を応援するのではなく、なんとなく他人とは思えないから応援する。そういうものだと思うのだ。
結局、何かを応援するというのは、自分の魂の小さなひとカケラが「そこ」にあると錯覚して、魂の共振を錯覚して、「そこ」にいる自分自身を応援しているということなのだと思う。
そう考えると、今のサッカー日本代表を応援できないと言う人たちの理由もすっきりする。
彼らにとって、サッカー協会周辺のゴタゴタに左右されまくっているあのチームは、もはや"Their Team"であって、"My Team"とは感じられなくなっているのだろう。
高校に入学したばかりの頃、毎日が楽しかった。関西でそこそこ有名な進学校に受かり、高等教育を受けなかった親が泣いて喜んでくれたことが誇らしかったのを覚えている。
部活は小学校から続けてきたこともあり、サッカー部に迷わず入った。中々ハードな高校の部活にも少しずつ慣れ、試合にも出れるようになってきた秋頃から、じわじわと部活の同級生の態度が変わってきた。
部活が終わると皆で日課のように立ち寄っていたコンビニも、皆俺を置いていくようになった。急いで着替えて走って追いかけると例のコンビニの前に皆いて、少したむろして解散すると、いつも同じ電車で帰っていた同級生は俺と話そうともせず、スタスタと先に歩いて行ってしまうようになった。最初は話しかければ素っ気なくも会話があったが、気づいた時にはすっかりスルーをされるようになっていた。休み時間に話しかけても部活の同級生は俺の言葉に反応をしなくなった。自分でもいよいよこれは無視されている、と気付いた。
この頃から世の中の景色が一変した。あれだけ毎日通うのが誇らしく、楽しかった校舎も見るだけで気分が沈むようになった。それでも通学の自転車の時間は一瞬で過ぎ、家を出て次の瞬間には学校の前に着いているように感じることがよくあった。
同級生と会うのが怖くなり、学校も休みがちになった。胃が痛くなったり、身体が鉛のように重くなった。
世の中には殴られたりカツアゲされたり、物を隠されたり、もっと卑劣ないじめをされる人が沢山いることは知っているが、人からこんなにもあからさまに嫌われることが生まれて初めてで、辛かった。
なんとか部活に出た日は、それでも練習が終わるとひとりぼっちになるのが嫌で、真っ先に着替えて日課のコンビニに置いていかれないようにもした。無視されることに変わりはなかったし、思考回路がもう萎縮していた。
もうこんな生活は続けられないと思い、小学校から続けていた大好きなサッカーを辞めようと思った。顧問に部活を辞めたいと切り出すと、
と突き放された。
「部活辞めてどうするんだ、どうせ髪染めて煙草でも吸うようになるんだろう」
と言われた。この時顧問は部内の1年生に何が起きているか、把握していなかった。
中々主将に切り出せず、1ヶ月経ってようやく辞めたい旨伝えることができた。この1ヶ月毎日「言わなきゃ」と頭に渦巻き、それでも言い出せず、意識が朦朧としていた。
そのあと駆け足で顧問に
「主将に言いました、もういいですか」
と言った。顧問は
「そうか、元気でな」
とあっけらかんとしていた。
体調は少しずつ回復し、学校でも違う方面の友達と付き合うようになった。今まで怯えて過ごしていたことが嘘のように思えるようにまでなり、日常を一応は取り戻すことができた。
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辛い思い出だが、何故こんな目に遭ったのか、20年近く経った今でも考えることがある。この件、自分に原因があったと思っている。
原因は、自分の話ばかりしていたこと。人の話に自分の話をすぐに被せていたこと。どんな話題にも返しは「俺はー」だったこと。これに尽きると思う。理由もなく嫌われた訳ではないのだ。高校1年生といえど面倒くさい奴と思われたのだろう。
しかし、集団で無視はきつい。どうか嫌いな人にもそういう罰は与えないでほしい。一生のトラウマになってしまうこともある。俺が今もし部活で一緒だった彼らに道端で会ったら、間違いなく物陰に隠れると思う。
そして、理由は様々あれど、部活を辞めることは決して恥ではないと思う。長い人生で部活辞めたことなんてほんの些細なことです。本当に些細なこと。
部活を辞めてしまった学生の皆さん、どうか負い目を感じずに興味の持てることを探したり、一生懸命勉強したりして楽しく過ごしてください。
原田マハさんの「生きるぼくら」を読み始めた。主人公は、高校でいじめられて中退して引きこもりになった24歳。
その、いじめの話を読んでいると、自分が中学時代に受けていたいじめを思い出して、気分が沈んで黒い気持ちになってきたので書き出してみることにした。
読んでも教訓はないし、得るものもないことだけ注記しておく。
自分は、地方の市街地にある公立中学校に通っていた。そこで、クラスメイト2人からいじめられたのだった。
1人は、近所の、小学校からの遊び友達で、粗野な面もありつつ話も発想もおもしろく、遊びを発明したりとクラスの中心人物。もてていたと思う。スポーツ推薦で私立高校に進んだけれど怪我をして中退した。高校以降は部活の試合などで数回しか会っていない。
ペーパーテストはできなかったけれど、いまでも、頭のよさや自信を尊敬している。中学校ではいっしょに登校していて、登校中にお菓子をわけてくれるのが楽しみだった。
もう1人は、サッカー部の肩幅の大きい人間。愛嬌があっておもしろい人間だった。いじめ問題が解決した1年くらい後の出来事ではあるけれど、一番印象に残っているのは、家庭科の性教育の班発表で避妊についてコンドームの実物をくばったりしたこと。そのときに彼が言っていた、コンドームは失敗する可能性も少なくないから、コンドームをつかってかつ外で射精することが重要、と言っていた教えはいまでも記憶にある。
彼らからは、直接打撃的ないじめを受けたわけではない。恐喝されたわけでもない。言葉ではなにか言われたかもしれないけれど、人格を否定するほどではなかった気もする。「生きるぼくら」で主人公が受けていた体に見えないところに暴行されたり、母の弁当をぶちまけられたりというほどではない。
一番、くやしかったのは、羽交い絞めにされて学ランのズボンに、黒板消しをなすりつけられたこと、何度かあった気がする。柔道技をかけられて、力の差でなにもできなかったこともある。ほかのことはあまり記憶が明瞭ではない。
悔しさか悲しさか情けなさかで泣いていたのを覚えている。殺意めいたものも感じていたと思う。
いじめ自体は、親や先生が動いて、わりとすぐに収束した。今思うと、相手の家に乗り込んだ父はほんとすごかったし、母には心配をかけたし、先生も相手と1対1で話し合いをしてくれてちゃんとしていた。
いじめがあったことがどう親や先生に伝わったかは、そのころまったく気にできなかった。自分が30歳近くになったころ、母が地元の印鑑屋さんで自分の実印をつくってくれたのだけれど、そこの印鑑屋の息子が自分の同級生で、先生にいじめが起きていることを伝えてくれたということを聞いた。そのころは自分の殻に閉じこもっていたのか、彼の名前や顔も思い出せなくて、申し訳なく思っている。ほんとうに感謝しています。地元に住むことはなさそうだけれど友だちになりたい。
いま、冷静に考えると、いじめ自体もなよなよしていて腹立たしい自分に対するちょっかいがエスカレートしたもので悪意はなく(だからこそいじめはやっかいではある)、自分に人格が確立されていれば言葉で跳ね返せた、とは思うのだけれど、難しい。積極的に近寄りたいとは思わないけれど、恨んではいないし、いまならあの頃はいろいろあったね、と話ができる気もする。たぶんだけれど、2人とも、このあとはいじめを止める側に回っている気がする。
そして、冒頭で黒い気持ちになったというのは、いじめられたことそのものではなく、いまもサッカー部の彼に対して抱いてしまう暴力の衝動。
太ももにシャープペンを突き刺して、二度とサッカーできないようにするところを想像したり。事故とみせかけて階段でもたれこんで突き落とすのを考えてしまったりしてしまう。いじめられた当時から同じことを考えていたのか、そのあと繰り返し想像して強くなっているのかは混同してわからないけれど、10年たった今でも、いじめを想起するたびにこれらの暴力的な衝動をイメージしてしまう。そして、そうすることで心を慰めてしまっている自分を発見して暗い気分になる。いつか克服できるだろうか。
でも、もうすこしいじめが続いていたら、そういう想像を実現させていたと思う。そして、相手も自分も破滅していただろう。
行動に移すまえに、いじめを止めてくれた親や先生、名前も忘れた友人に感謝している。いじめた相手には複雑な気持ちを持っているけれど、どこかで幸せに生活していてほしい。自分はこれからもその衝動を抱いて生きるだろうけれど、行動には移さないと思う。
元民進党候補者である青地まみ氏の「パブリックエネミー」騒動について、少々遅くなってしまったが、少しこの問題に便乗して自分の思うところを色々書いてみたい。
まず「パブリックエネミー」という言葉であるが、前都議選で民進党から出馬して落選した青地まみ氏が「オタクをパブリックエネミーとして認定したい」という内容のツイッターを書いたことで、ここ数日ほど炎上したらしい。青地氏が民進党から立候補して落選した経緯から、民進党や立憲民主党にも批判の矛先が向けられているとのこと。
パブリックエネミーとは、公的な敵だと社会全体で認定する行為である。
炎上自体に関しては、日本の野党らしくありふれた光景であり、特に目新しさはない。リベラルな価値観を共有しているはずの人間が、オタク全般のことを「萌え豚」という蔑称で書いたらしく、そのオタクを社会の敵認定してやりたいという趣旨のツイートをした。
まあ日本のリベラルは、口では平和だ人権だと高潔な思想を掲げていても、実際は偽リベラルのレイシストに過ぎないといういつもの平常運転です、本当にありがとうございましたというだけの話。
本題はここからであるが、なぜオタク全般は、社会から(特に女性たちから)目の敵にされやすいのだろうか、ということ。パブリックエネミー認定とは「公的な敵」とみなすということであり、上記の青地氏には多数の批判も集中したが、青地氏を擁護するツイートも多かったとのこと。
賛否両論があるにせよ、オタクの存在を忌々しく思っている一定数の人間が世の中には明確に存在しているということでもあるよね。
オタクが社会から嫌われやすい属性集団だと思われやすいのは、やはり犯罪集団みたいなものだと思われているからだろうか。確かに、宮崎勤事件などオタクの中で重大犯罪を犯した一部の人間がいることも事実であるし、それは受け止めるべきだろう。
しかし、社会全体でみた場合はオタクは性犯罪を犯しやすい属性ではないはずである。一番性犯罪を犯しやすいのは、オタクとは正反対の野球部やサッカー部などの運動系の人間ではないのか。
例えば福田元事務次官やTOKIOの山口元メンバー、女性問題で辞任した米山新潟県知事の三者はオタクとは正反対の人種である。
それでもオタク全般が性犯罪者予備軍として扱われてしまう一番の理由は、オタクが扱っている創作物の性表現がストレートすぎるからではないか。
美人や可愛い女だけしか出てこなくて、ブスな女はオタク世界から排除されているのは、テレビや映画などのメインストリーム文化と共通であるが、やっぱり表現がストレート過ぎるのである。
だから、女性たち(特にリベラルの女性たち)に敵視されやすい素地がある。
今の社会は、女性たちから敵視されると社会的生命を失いやすい状況になっている。私達は知らずのうちに、そんな社会の中を生きている。
特に、この20年間の間にセクハラやコンプラの法整備などは進んだ。それ時代は社会が良くなることでもあるから歓迎すべきだろう。
男全般を痴漢予備軍だと見なす女性専用車両や、女性の申告によるセクハラは認定されやすいことなど、思いつこうと思えばいくらでも思いつく。
そんな社会風潮という根拠があるからこそ、オタク全般を「パブリックエネミー」に認定しようという政治的主張も生まれてしまうのではないか。
「オタクは女性の敵だから、社会の敵認定したい」ともっともらしい事を言っているけど、それはナチスドイツやボリシェビキのユダヤ人虐殺と同じ構図だからね。
昔から運動はそんなに得意じゃないタイプで、とにかく学校の体育は嫌いだった。
サッカー部や野球部のイケている方々に、何となく、うっすらとバカにされ続けているような被害関係念慮を抱えながら過ごした学生時代は、ずっと僕のモヤモヤの種火として燻っていた。
選んだスポーツの特性もあるんだろうけど、心拍数が急激にアップダウンするためなのか、これがとにかく、とても楽しい。スカッとする。
やたらと自己肯定感が上がる感じがある。
達成感というか、
「僕は頑張っている!」
「僕は頑張れる!」
「頑張れる僕はエライ!」
「エライ僕は頑張れる!」
と好循環がヤバい。
嬉しかった。
ただ、それと同時に、この湧き上がる身体感覚と精神状態を感じながら、確かに、少しだけ「運動をしていない人をバカにしたいような気持ちも少しだけわかってしまった自分」にさっき気がついてしまった。
ギョッとした。
怖い。
あるとすれば人の数だけ死後の世界はある。
生物学者のユクスキュルが提唱した『環世界』という概念をご存知でしょうか?
同じ空間を認識していても、その認識者の認識機能の差異によって、脳や心に創り上げられる世界は千差万別で、
同じ空間を認識し・生きながらにして、全く異なる世界を認識し・生きているという考え方です。
つまり言ってしまえばこの現世だって、人の数だけ異なる世界があるのです。
まして恐らく、あの世では現世の五感とは異なる認識機能によって観測するのだろうから、現世以上に環世界の差異が大きい可能性も大。
加えて、教祖があの世で観測した世界を教義に記す能力と、教祖があの世の世界が複数あることを観測する能力はまた別ですから、
例えば「あの世には野球部があったぞー!」という教義は真実でも、その教義に従っていれば将来その野球部に入部できるのは真実だとしても、
あの世には野球部以外にサッカー部もあるという事実を認識できたか…というのはまた別の話で、だからと言って野球部の教義は嘘にはならない。
実際以上に科学で判明している事を過大評価した科学的事実云々ではなく、科学技術信仰のような人の信仰自体は自由ですので。
この世に影響を与えてないものが、人の魂(コア)を動かす、ってところ。
先の環世界的な話でもあるのだけれど、例えば、人の認識機能は3次元な訳ですが、超弦理論などでは実際には10次元だそうです。
そして、蟻の認識機能はこのうち2次元だけとも評されるように、人間の認識機能もこのうち3次元だけで、
(嘘か真か、盲目の数学である者ポントリャーギンは「5次元図形を視覚的に思い浮かべることができた」なんて話もありますし)
実はあの世というのはこの世の4次元目以降にすぐそこに存在し、別に魂が動かされるとかそんな大層な話ではなく、
脳による認識機能が失われて初めて認識できる環世界にあの世があると考えれば、何も矛盾しないのではないのでしょうか。
それこそ、その認識機能が特異的に鋭敏な人がいたら、その人が教祖としてそうやって微かに観測できた世界を教義に残した…
なんて仮定すれば、先の複数ある死後の世界を一つと錯覚した件も含めて、諸々矛盾しないことになると思います。
…因みに言うまでもないとは思いますが、私も個人的な宗教観などは貴方に近いです。が、ここはあくまで論理的な思考実験としての話ですのでw
要は「死後の世界や宗教の教義を簡単に否定できる程の認識能力や材料を私達は持ち合わせているのか」って話です。
では、その時喋った私は一体誰なんでしょうか?
面白いですね。凄く興味深いですね。
ただ、麻酔は確か飛行機の飛行原理と同じく、科学的にはその原理が解明されていない事柄ですから、断定的なことはやっぱり不明でしょうね。
単純に済ますのであれば記憶を失った酔っぱらいと同じ状態なのかもしれません。
なるほど!お付き合い頂き感謝!
これは確かにその通りだね。
ただし、あくまで「天国的なもの」と「地獄的なもの」の矛盾であって、「あの世」そのものの矛盾ではないかな。
加えて、死後の世界は大学のサークルみたいに、その魂の在り方に合わせて多様な天国や地獄の集合体みたいなものがある
「野球の方が面白いだろ!」と「サッカーの方が面白いだろ!」という人達が激突しても、
やっぱり脳が消えたら消えたままになるとおもう。
そうだね。ぶっちゃけ個人的にもその可能性の方が高いとは思う。
でも、断言はできない。科学的には「わからない」が正解で、「ない」と断言するのは「ある」と断言する信仰と同レベルだとも思う。
例えば、天体望遠鏡で観測できる遥か彼方のアンドロメダ銀河とかは、地球からはとても関与・影響はできないけれど、
人間の認識メカニズムや現状の科学が確かならば、確かに存在はすると考えられている訳だよね?
この世に関与や影響がないことに何の問題が?関与できない世界のことが何故教義として残っているのかっていう矛盾?
いつも明るい八木くんは、
無理やり紙をたべさせられても
「うめぇーーー」といって、みんなを笑わせていました。
写真を撮ることになりました。
四つん這いになった八木くんにテストの答案用紙を食べさせているところを
撮ってもらおうとしたが、八木くんが突然
「なんで、オレが紙をくわなきゃいけねーんだよ!!」とマジギレしました。
みんなは「だってお前八木だろ?いつものように紙を食べろよ!?」
と思いました。
「いつもいつも紙をくわさせやがって!!ふざけるな」
八木くんはどんどん怒りを増幅して、さらに怒りました。そしてどこかへ消えました。
みんなは、ようやく「ああ、八木くんは紙を食べるのは嫌だったんだ」と気が付きました。
誰かが「やっぱりあいつはヤギだったんだじゃーねか」とふざけて言いました。