はてなキーワード: 登板とは
ポイントカードって結局アプリにしろカードのにしろ作っても掲示するの面倒くさくならない?
だってさ、
支払いiDとかにしてカード出してポイントのアプリやらカードやらまた出すこの手間があるじゃない。
その手間が手間って面倒くさくってもういいやポインツ!ってなるのよ。
まあポイントの必勝法はコツコツ作戦だってのは分かるんだけど、
あまりにも何度もお財布からカードを出したり直したりするのは面倒だわ。
そうは思わない?
だったらさー
自動的にポインツも付くテクノロジーって考えた方が得策なんじゃないの?ってぐらいこれカードの出し入れ超絶面倒くさいのよね。
わざわざ面倒くさいことしてまでポイントの会社に情報提供してまでもそれなんてポスシステム?って言いたいところよ。
まあポインツが1円単位ってこともあるかもしれないけど、
金利を考えるとポインツ1パーセントつーのは高金利ってことの考えにもなるけど
なんかもうちょっとポイント還元が10円単位だったら私も頑張ってポインツ活動しよっかなーって思う矢先なのよ。
でもさー
あまりにも発達しすぎた文明は挙げ句の果てにポイントカードを出すのが面倒くさくなった人類しか生まないのよ。
セルフ的なレジ的なものである程度そのスピードはお客さん側に委ねられる反面、
ポイントカードどれにしやすか?ってチョイスの選択はまだ申請しなくては行けなかったりするじゃない、
はい!ディーポイントカード出します!とかティーポイントカード出します!とか
そこもお客さんが払うタイプのセミレジだと支払い方法まで自分で選択してできるじゃない。
じゃあ何のポイント貯めますか?ってポイントカードのブランドのボタンも一斉に並べて押せるようにしておいた方がテクノロジーでまとめられないのかしら?って思うわ。
支払いは限りなく手ぶらで出来るようになったのに、
そこがボトルネックというか。
ワンブランド先ポイントカードチェック方式がとりあえず私がポイイ活していける唯一の頑張りどころだわ。
でもたぶんポインツの達人はそこの面倒くさいところも楽しんでポイントためるのに楽しんでいるのよね、
きっと。
でもさ、
支払時にディーポイントカード出して1ヶ月パスタ割引パス出してiD出してって
これ何回出すの?って
ジャンケンでもこのぐらいアイコにならないわよ!って思うぐらいこれでもかって出すじゃない。
3回もよ。
3回も出すの面倒くさくなっちゃったので、
まあこのパスタ割引パスの割引パワーは無視できないぐらいデカいからこれは出した方がコストが安く抑えられるという経済学を私は学んだわ。
レジの支払いはお客さん側で行えるのに、
ポイントカードやらの読み込みは店員さんの手を借りなければならないわけで、
なんかオールマイティーみたいなトランプのジョーカーなワイルドカード的な1つ読み込めば全部のブランドのポイントサービスに対応する番号があったら便利なのにね。
そんでさ、
マイナンバーカードに紐付けるポイントサービスもどれを使うか優先順位を付けておけば、
それも解決するくね?って思うのよ。
そうね、
ポイントカードを一括にしてまとめられるサービスがでたら便利なのかも知れないわ。
現状のままだと、
なんだかポイントのために使う私たちのリソースというか体力が見合わない気がするのよね。
考えすぎかしら。
でも何に使えるかよく分かってないチキンマイルを貯めるのはなぜか楽しいのよね。
あれ貯まるけど何に使えるのかしら?
謎だけど貯めるのは楽しいわ。
うふふ。
新しいメニューが出る時はたくさん出て買い切れない時があるんだけど
ホッツ白湯ウォーラーにレモンアンドハチミツを気持ち入れてほんのり甘く。
ジンジャーでもいいんじゃーね?ってぐらい
スライスしたジンジャーハチミツホッツウォーラーでも今度してみようかしらね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
週末初め今日も忙しそうなので、
先に書いて済ませて置ければって思う反面、
またお粥作りに精がでるわよ。
お粥という優しいものの相反するもののパンチの利いた具材って事で私が考えた最強のお粥の具材は
牛筋だって事に気が付いて、
だいたいはおおよそのことを考えても
誰かしらもう同じこをを考えているものなのよ。
牛筋お粥を人類初の発明として私がお粥歴になお馳せ参じる予定だったんだけど
惜しくも残の念が残ることになったわ。
実際でも牛筋お粥って牛筋の処理が大変そうなので、
また圧力鍋の強火力で瞬殺よ。
そうしたらトロトロのウマウマの牛筋お粥ができあがるに決まってるわ。
あと、
試行錯誤を繰り返すためには一度に出来上がるお粥の量が多すぎるので、
少量を作って試行錯誤できるようにしたいところよ。
でさ、
料理人の人って研究して試しに色々作ってみてると思うんだけど、
あれって失敗作とかいまいちだったりとかで
作っても食べずにさようならってしてたりしているのかしら?
玉子焼き焼き職人もきっと今までたくさんの練習用の玉子を失ってきたはずよ。
だから、
お粥を作ってもドブに捨てるようなことは避けたいわよね。
たぶん内容をよく分かってないんだけど、
それと一緒よ。
私は無駄にせずにしようと、
大谷翔平選手のフォーシームをツーシームに変えた投げ方の球種を一緒の考え方よ。
でもなんだか、
たくさん作らないと美味しく出来ないような気がして、
きっと貧乏性なのよ。
1度にたくさん作ってしまう方が量産採算ベースにのっかるってもんじゃない。
とりあえず、
世の中に出回っているお粥レシィピ本を見ないタイプのノールックお粥で
お粥作りがいいのは、
作って片付けるものがお鍋だけってのが一番の最大のメリットであるのよね。
細かい部品をいちいち組み立てて洗ってまた組み立ててって言う、
例えば炊飯器だとか、
すでにめんどく臭いわ。
鍋なら1つで済むじゃない。
試行錯誤にも花が咲くってもんよ。
うふふ。
あっさり食べられるサクッとした軽い感じが良いわ。
これは早くたくさん残っている
やむなくよ。
なんかまた暑さぶり返してきてるので、
ぜひ気を付けたいものよ。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
かなしー時ー!
チキン南蛮弁当のチキン南蛮が半分以上衣だけの肉のない塊だったときー!
かなしー時ー!
チキン南蛮弁当のチキン南蛮が謎のモチモチした衣だけのフェイクチキン南蛮だったときー!
もうさ!
私にも投球制限して欲しいぐらい、
結構マジ忙しいんだけど、
って言うのはいつもここ最近話しまくりまくりすてぃーなんだけど。
そんでよ!
今日の配給される日替わり弁当のおかずは何かな!って楽しみにしていることの一つじゃない!
なのによ!
やったー!今日はボリューミーなチキン南蛮弁当の日替わりだー!って
半分以上がモチモチした衣だけの鶏肉が包まれていない衣だけのフェイク偽物チキン南蛮だったのよ!
マジあり得ない!って
思うほどなんかションテン下げられるわ!って
チャッカマンスティックファイヤーマックスライドオンエクストリームぷんぷんタイム!だわ
こんなふざけたチキン南蛮で
こっちのションテン下げ荒れても逆あげみざわなので
こないだは鮭のムニエルが最高に美味しくて
この半分以上衣の塊だけのフェイクチキン南蛮にはガッカリだわ。
でも負けてられないので、
やるしかないのよ!
もうずっとあの奴隷たちがぐるぐる回しているハンドルの付いた歯車をずっと回し続けていなければならないサダメなのよ。
まあ怒っても仕方ないので、
みんなのチキン南蛮を分けてくれ!
うふふ。
ションテン上げたく!
これでションテン爆上がりよ。
お昼にはまったくがっかりだわ。
でもこの苦境を乗り越えてこそ真のチキン南蛮に出会えるってことかもしれないし、
これもまた運命なんだわ。
ここはウンメイって読んで欲しいけど!
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
ロッテ・佐々木朗希投手(20)が24日のオリックス戦(京セラ)に先発登板し、2回の投球中に白井一行球審がマウンドへ歩み寄る場面があった。
ストライクボールの判定に不満そうな態度を見せた佐々木朗に対し、注意をしに向かったとみられるが、この場面について、NPB元審判部副部長の五十嵐洋一氏は「白井くんらしいなと思いましたよ。彼はまじめで熱いところがありますから。ただ、何かあるとパワハラだとか言われるいまの時代だとどうなのか…」。
五十嵐氏は続けて「私が現役でやっていたころなんて、しょっちゅうありましたよ。ボール判定を不満に思い、私のほうを振り向いた捕手に対して『前向いてやれ!』と一喝したり、やじを飛ばしてきたベンチに『文句たれんとやっとけ!』と注意したこともありました。あんまり頭にきたときには『次にど真ん中投げてきてもボールにしてやろう』と思ったこともあります。どんな状況でも冷静、正確に判定しなければいけないのが審判ですが、そこは私たちも人間です。私たちの先輩審判たちの時代には『(判定で)プロの厳しさを教えてやったぜ』なんて話も聞いたことがありますし、白井くんにはそんな昔ならではの審判気質が残っているのかもしれませんね」。
ナニコレ?
江川氏は94年スタートの前身番組「スポーツうるぐす」でメインキャスターを務め、2010年から「Going」に11年8カ月出演。この日の放送では「江川卒業SP」と題して、番組での江川氏のMCぶりや、試合解説で選手の様子や変化を見極めて結果を当てる「予言解説」を展開してきたことなどが特集された。
巨人原辰徳監督(63)からはビデオメッセージが届き、これまでの労をねぎらわれるとともに、「まだまだ江川さんは体も知力もお若いでしょうから、少し時間があるんであれば、実弾飛び交うジャイアンツのところに降りてコーチ、あるいは監督という形でやってもらえる可能性も、ちょっと増えたのではないかと思っています。先輩、ご苦労さまでした」と、今後の監督業も期待された。
MCのくりぃむしちゅー上田晋也(51)もこのVTRを受け「我々としても、江川監督って言うのを見てみたいというのは長年思っているんですけど。そういう方向性というのはいかがでしょう」と問いかけると、江川氏は「ほぼないですね」と回答。上田が「え~やりましょうよ」と食い下がると「ないと思いますよ」と淡々と続けた。
上田はあきらめず「ひょっとしたら原監督から『ちょっと江川さん、お願いします』って、臨時コーチとかあるかもしれませんよ」と粘ると、江川氏は「そうですね、臨時であれば、やらないですね」とクールな返答で笑いを誘った。ただ、最後は上田が「やってくださいよ、日本中に見たい人がいっぱいいますから。その日を楽しみにしたいと思います」と言うと、江川氏はまとめるように「はい」と回答。今後の監督就任を“完全否定”はしなかった。
終盤には、今年まで巨人の場内アナウンスを担当した山中美和子さんの「9番ピッチャー江川、背番号30」のアナウンスに送られてあいさつ。江川氏は視聴者やスタッフに感謝の言葉を述べると、「私はもう少しマウンドに登ってみたいと思っています。ありがとうございました」と、意味深なコメントで締めた。
選手としての特徴
江川の球速は高校時代に既にピークを迎えていたとも言われ、当時スピードガンはまだ無かったが、150km/hを超えていたのではないかと推定されている[49](プロ入り後の最速は154km/h[50])。スピードガンが各球場に導入された頃、江川のストレートの球速が135km/h前後と表示される記録映像が残っている。これについて掛布雅之、西本聖、槙原寛己など多数の人物が異口同音に「江川の球速が140km/hを下回ることはありえない」と証言、当時のスピードガンは精度が低く、数値の正確さには疑問があると指摘している。特に掛布は「最低でも150キロ、好調時は155キロ以上出ていただろう」と述べている。2021年12月4日のGoing!Sports&Newsにおいて、江川自身が最も速かったとする1981年の中塚政幸に投じたストレートの球速を分析したところ、158km/hと算出された[51]。
江川が投じる速球の威力の高さは、投手としては指が短めだったこともその理由とされる。指が短めだったことは、スピンをかけるには有利だったが、フォークボールなどの変化球を投げるのには適さなかった。そのため、プロ入りまで変化球はカーブしか投げられなかった。掛布や高木豊の弁によると江川は手首の関節が非常に柔らかく、打席から見るとリリースの寸前まで手のひらが見えたという。この柔軟かつ強靭な手首によりボールに強烈なバックスピンを与え、江川独特の伸びのあるストレートが生まれたのではないかと高木は解説している。このことを掛布は「スピンが効いた独特のストレート」と評した[52]。
1980年代では、スピンが効いたストレートは「球質が軽い」「長打を打たれやすい」などと呼ばれ軽視もされていた。 しかし2000年代に入り流体力学を使った解析により、バックスピン数が高いストレートは普通の直球よりも沈まず、打ちにくい球であることが判明した。 江川の浮き上がるようなストレートはこの効果によるものと考えられている。
《なお、2021年のMLBでは、回転数が高いボールの効果があり過ぎるため、指に粘着物質を付ける投手が激増したことから、取り締まりに至る事態になっている。》
1985年頃から投げ始めた「相手の腰を引かせるスライダー系のボール」、コシヒカリが話題になり、本当にコシヒカリが贈られてきたエピソードがある。このことに味をしめた江川は、今度はメロンを貰おうと「相手のマスク(顔)をメロメロにしてしまう顔の前を通すボール」、マスクメロンを開発している[19]。現役時代のライバルだった掛布雅之は、「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれる」唯一の投手だったと述べている[53]。
阪神のランディ・バースが55本塁打や7試合連続本塁打などで王貞治の記録に迫ったとき、逃げ腰の巨人投手陣の中にあって勝負を挑んだのは既述の通りだが、バースが2年連続三冠王を獲得した1985年と1986年において、1985年は被本塁打0、1986年の被本塁打も7試合連続となった本塁打と連続試合打点記録更新中の最後の試合(13試合目)で打たれた2本だけであった。江川の引退時、バースは江川を「日本、アメリカを通じて今まで対戦した中で最高の投手」と讃えている[54]。
9回を完投するため、中心打者には「最高出力」まで上げ、下位打線の選手にはコントロール重視とするなど、メリハリをつけていた[55]。9回に全力の投球で三者三振を取ることを「やっぱり打てない」という印象を与えるという点で重視し、そのために7回・8回は少し力を落としたと述べている[55]。現役時代にチームメイトだった篠塚和典は「江川さんにはギアがある」と表現しており、「試合の中でここぞという時、特に主力打者と対戦する時はトップギアに入れた。あの大きな体が更に一回り大きく見えた」と述懐している。
江川は与死球が極めて少なく、これは高校時代、自らが頭部死球を受けた経験から厳しく内角を攻めることにためらいを見せたためと語っている[56]。江川自身は、捕手が構えたままのギリギリのコースに投げることができたため、わざと打者の体の近くには投げることはしなかったとも述べている[57]。また与四球も少ない。江川の場合、豪速球で圧倒できた全盛期の与四球が非常に少ないのが目立っている。江川はボール球を投げること自体が嫌いだったと述べており、当時の巨人ではカウント2ストライクノーボールからヒットを打たれると罰金を取られたため、捕手からの懇願でその場合は仕方なくボール球を投げていたという[58]。一般的に速球派投手はコントロールが悪いことが多いが、江川はそれにあてはまらず、コントロール面も卓越したものであったことが伺える。
被本塁打が多く、「一発病」といわれた投手の1人であり、本塁打を打たれた際、マウンド上で両手を腰に当てながら首を捻るシーンがよく見られた。1982年はリーグ最多の36本塁打を打たれた。9イニングあたりの被本塁打は通算で1.23本である[59]。
上記の通り、デビューした対阪神戦では敗戦投手になったが、その後は阪神キラーとなり、対阪神戦通算36勝(18敗)を挙げた。これは通算135勝の1/4強を占める。逆に小林繁は阪神に移籍した1979年こそ対巨人戦8勝0敗と意地を見せたが、その後は引退までの4シーズンで対巨人戦5勝15敗と対照的な結果になった。入団2年目の1980年8月16日、対阪神戦(後楽園球場)での小林繁との初対決では、打撃でも小林から決勝適時打を放つ活躍で、3失点完投勝利を収めている[60]。のちに、「プロ野球でやっていく中で絶対に負けられない試合は数試合しかないだろうが、その中の一つがその試合だと思って試合に臨んだ」と懐述している。
打撃の優れた投手としても知られているが、初安打はデビューから36打席目だった[† 28]。プロ入り最初の打席で、阪神の山本和行が初球に投げたストレートがあまり速くなかったため、「プロってこんなレベルか」と思っていたところ、そのあと「打ちごろ」と見て振った球をいずれも空振りして三振を喫した。江川はそれがフォークボールであったと気づき、「これはやばいぞ。プロはこんな高いレベルなのか」と思ったと回想している[61]。
少年時代の写真に笑顔で写っているものはない。それは父親から「写真は真顔でとられろ」と言われたからである[62]。
裕福な少年時代を送っていたわけではないが、父親が財産の管理が上手かったことから、年2回の旅行を行えたり、電化製品をそろえることができるなど、物資には全く不自由しなかったとのこと[63]。
幼い頃に父に背負われて散歩に出かけた際、背負われたまま崖の下を覗かされたことが原因で、極度の高所恐怖症となった。そのため妻が元客室乗務員でありながら飛行機嫌いであり、国内の移動はどんなに時間がかかってもいつも鉄道などを用いている(妻との馴れ初めは、江川が米国開催の日米大学野球選手権大会に出場するため、やむを得ず飛行機に乗っていて青くなっているところを、客室乗務員だった妻が親切にしてくれたことである)。かつて巨人の北海道遠征の取材で東京→盛岡→青森→函館→札幌と一日かけて陸路を乗り継ぎながら出かけたほか、宮崎キャンプの取材でも東京→博多→新八代→鹿児島中央と乗り継ぎ、車で宮崎入りするなど、時間がかかっても陸路移動にこだわっている。現役時はまだ青函トンネルが開通しておらず、チームの北海道遠征時は登板がある場合のみ飛行機を利用したが、自らの登板予定がないときはチームに帯同せず東京に残った(江川が引退した翌年、1988年に青函トンネル開通)。松山でのオールスターゲームを取材したときでも、松山→岡山→東京と乗り継いで帰京したために、翌朝の『ザ・サンデー』のエンディングで江川は既に松山を発ったとのフリップが出ていた(同行した女子アナは松山市内でゆっくり買い物をした後に飛行機で帰京し、江川より先に東京に到着した)。陸路がない沖縄へキャンプ取材する際も、時間に余裕があるときは鹿児島から24時間かけてフェリーで沖縄に移動するほどである。横浜DeNAベイスターズの春季キャンプの取材で沖縄に行った際、このときはさすがに飛行機には乗ったが、中畑清監督に「どうやって来たの? 潜水艦でも乗ってきたの?」といわれてしまい、名球会のハワイでの取材時にも長嶋茂雄から「江川さん、よく飛行機に乗れましたね」といわれたほどである。飛行機嫌いの一因には幼少時代の体験だけでなく、現役時代に発生した日本航空123便墜落事故も影響しているといわれている。この事故で同じ球界関係者である阪神タイガース・中埜肇球団社長も犠牲になっていたため、球界全体にも大きな衝撃を与えていた。
大学時代、後の夫人となる女性と交際していたときにデートと東京六大学の試合の登板予定が重なると、待ち合わせ時間として「試合開始から何時間後」というように時間を指定していたという。夫人によれば、指定した待ち合わせ時間に遅れることはほとんどなく、逆に試合の進行が早すぎると、わざと遊び球を投げて時間調整をしていたほどであった[64]。
現役時代から財テクに精を出し、不動産投機で大失敗して多額の借金を背負う。「投げる不動産王」とも呼ばれた。プロ入り直後には契約金を使って土地を購入したところ、予定納税のことをすっかり失念していたために資金繰りに窮し、結局土地を手放さざるを得なくなる[65]など、投資に関する失敗談も多い。この他、一時は第一不動産(のちのエフ・アール・イー、2007年1月に破産)や、東京ベイホテル東急の運営会社の役員にも名前を連ねていた[66]。なお、同様の呼び名は桑田真澄にもあったが、こちらは本人が直接作った借金ではない。
現役引退の年、自宅に近い横浜市緑区霧が丘に喫茶店「きりんこ」を開店した。元々は巨人で打撃投手をしていた同僚が転職を考えているという話を聞き、その支援目的で当時近所に住んでいた黒澤久雄や羽川豊らと共同で出資したのがオープンのきっかけだったという[67]。しかし、住宅地で回りにほとんど店が無いこと、すぐ隣に老舗の喫茶店があったことなどから、数年で閉店。その後駐車場となっており、建物の遺構の一部が駐車場の壁として残っている。
本人曰く「成金趣味」に結構な金額を費やしている。一時はワインにはまっていたほか、ゴルフ好きが昂じて純銀パターを特注で作らせたこともある[† 29]。それらの贅沢には「ストレス発散」の意味合いもあったという。
テレビでの野球中継において選手を呼び捨てにしている解説者が多い中、江川は基本的に呼び捨てはせず「○○選手」「○○投手」といった呼称を付けている。