はてなキーワード: 理想像とは
そりゃ原作がウンコが主人公だろうと人気になったアニメ映画版の時点で白人様が大好きなお転婆白人女がお転婆海鮮物達とお転婆物語してるかも?で人気なんだから、そのマーメイド像をごちゃつかせるようなことしたら『ポリコレしね』なるよね
『私はマーメイドよ!』っていう“お、泳ぎの得意な美人の白人女性だと思ってるのかな”って思わせられてたものを
“お、自分が半魚人みたいなツラだって理解しててえらいな”に変える作品なんやから半魚人ヅラもアジア人もインドネシアの人も見たくはないわね。アジア人は肌を白く見せることを美しいことだとしてるから、『お前は黄色人種なんだからwwwどんだけ肌白くしようとしても白Tにションベンかけたのと同じレベルよwww』って本場の白人にやられるのは屈辱以外の何者でもないわね。
いくら原作が“いやほんまそこらへんの阿婆擦れとの物語なんすわ”ってなってても、原作準拠とかどうでもいいし、あの目が離れてる感出てるのもより屈辱的だわね。
いくら女優の元々のツラがそうだったとしても、“お、半魚人の物語か、やっぱ人魚って魚みたいなツラしなきゃいけないんスねぇ”ってなるやないの。
全世界のドブス相手に『あなたも白人女性の姫様になれるよ〜』って夢を見せるからディズニー映画の需要があるんじゃないの。
『お前らアジア人がどれだけ頑張ってもこうwww』なら黙って中国映画観るよ、韓国映画も見るよ。
お前ら白人の会社なんだから白人らしく白人の美人出して白人の美人による世界中の白人美人に憧れるブサイクの為の物語を作れよ。
そこに金払ってんだよ、あのブサイクどもは。
ポリティカルコレクトとかどうでもいいのよ。
お前らの手で戦争は女の顔をしていないだの、小公女だの、窓側のトットちゃんだのをディズニープリンセス化お転婆白人女性によるラブコメ化させて見たいのがお前らのファン層なの。
ピーピー泣いてる黒人はBLMだのフランス暴動だので浴びて火傷するぐらい見てるから要らんし
面白黒人が面白装置を面白イジリして面白爆発してハハーッって言ってフェードアウトしろ。
というか、それがお前ら白人の思う面白なんだから、無理に配慮すんな。
アジア人もインディアンも、アフリカンもみんな見抜いてるのよ。
アホのヨーロピアンが金儲けのために言った言葉に騙されんなバカ、そして本質まで騙されきれてないから目が離れたアジア人を魚人にしちまうんだよ、新しい形のディズニープリンセスです!とかしちゃうんだよ。
ガキは憧れねえよ、オスガキに「おいモアナ」だの「おいリトルマーメイド」だの言われた時にピーピー泣く姿また見せてえのか。
現実の人間は逞しいから理想像ぐらいはちゃんとしてて欲しいんだよ。
私はブサイクアジア人だけど、整形でもなんでもしてリトルマーメイドになるわ!って思うからいろんな業界に金が払われるの。
私はブサイクアジア人だし、リトルマーメイドもブサイクアジア人だから海に還るわ、最短距離。になるのは道理だろうが。
何も産まねえ作品作りやがって。
ディズニープリンセスの格を下げやがって。
こんなディズニーなら金出さない、って世界的に解答されてるんだもんね。
割とそういう傾向強くないですか?うちもそうなんですが。
これは普通に考えると生存バイアスで、子供がいなくて仲の良くない夫婦はあっさり離婚していくので時間が経つほど仲のいい夫婦だけが残っていくというものだと思う。「子は鎹」と言うように、子供がいたら多少夫婦関係が悪い程度ではそうそう離婚なんてできないだろう。
少子化の世の中で完結出生児数も減ってきているとはいえ、いまでも大多数の夫婦は子供を持っている。だから統計的な傾向として、世の中の平均的な夫婦関係の像は、子供のいない夫婦の関係性よりも「うっすらと仲が良くない」方に偏っていると思う。その結果として、社会の規範意識や仕組みや言説やエンタメやその他もろもろは「夫婦とはうっすらと仲が良くないもの」という前提で作られているように感じるんですよね(仲の良い夫婦の話は「非現実的な理想像」として提供されているように思う)。そりゃボリュームゾーンがそういう人たちなのであれば、その人たちに刺さるように仕組みやビジネスを作った方が得なので当然でしょう。
そのような社会で我々のように仲の良い夫婦をやっていると、それだけで何となく肩身が狭いというか場違い感というか、居心地の悪い感じになってしまう。なんかやっぱり「あるべき姿」じゃないんだなあという思いを日々感じながら生きている。世の中に広く提供されているものがいちいち刺さらないのだから当然だよね。この社会はnot for youですよというメッセージを継続的に受け取ることになる。
だから世の中はダメなんだとか、我々に刺さるものを提供しろとか、そういうことは全く思わないんだけど、居心地悪いな〜とそれだけの話です。
黒人女優を起用したリトルマーメイドが性懲りも無く物議を醸している。
米国では某ネズミの会社を筆頭として、数年前から多種多様な人種を起用した映画作品の展開が続いており、しばしばファンの間で話題になっているが、中でも既存キャラクターの人種を変える今回のようなパターンでは特に炎上や揶揄が起きやすい。
しかもそういった取組がその人種から支持を得られているかというとそう単純な話でもないようで、ゼンデイヤの「私は白人ウケの良い黒人」発言にあるように、見た目上で人種の置き換えを行なったところで、民族性は無視されている、ゆえにポリコレとしては片手落ちであるというメンドクサイ議論もあちらでは巻き起こっているらしい。(まぁハリウッド映画で散々コレジャナイ日本人を見ているので気持ちは分からんでもない)
ブラックパンサーが大ヒットしたように、最初からエスニシティを前面に押し出したキャラクターないしヒーローを新たに打ち出せばいいようにも思えるが、どういうわけかアメリカという国はキャラクターコンテンツの新陳代謝が悪く、ディズニーのようなクラシックからアメコミのようなサブカルまで、何十年も同じキャラを擦るという特性がある。(というかブラックパンサーも60年台から擦られ続けている)
加えて、さまざまなインタビューを見るに、どうもあちらの女性には「◯◯姫になれなかった」ルサンチマンがあるらしい。リトルマーメイドで言えば、肌の色ゆえにアリエルになることを諦めた少女達がいるというわけだ。それは確かに良いことではないが、そもそもプリンセスという古い類型に囚われる必要もないのではないか、という方向性の議論は寡聞にして知らない。なぜならアメリカのコンテンツは古典があまりにも強すぎて、新しいキャラクターが生まれてもヒットするのはごく限られた一部しかなく、よって過去に目を向けるしかないわけである。
①古典が強すぎる環境、②プリンセス•ルサンチマンという2つの要素が組み合わさることにより、「じゃあ人気のある既存キャラクターの人種を変えよう!」という判断を下しているのが今のアメリカにおけるエンタメジャイアント達なわけであるが、これは結局のところ古典を別な方向から強化しているだけで、今この時の自分達を肯定するメッセージとは似て非なるモノだ。
ようするに現在主流のポリコレというやつは同じ理想像の再生産をしているだけであり、全ての人種でリトルマーメイドの映画を作れないように持続性がないのである。
小学生のときの学校での性教育で、精子が卵子にたどり着いて・・・ってのを習ったときに、母親に「どうやってたどり着くの?空中とか泳いでいくの?」と訊いたら「そんなふざけたことを訊くな!!!」といきなり怒鳴られて泣いた。
ジャンプとかで裸とか水着の女性が出てくるものがあったときは遠慮なく捨てられた。
TVとかでもまあ似たようなもん。
チャンネルを変える前に「性を売り物にしてる」と罵倒しまくってた。
金ちゃんの仮装大賞もけなしてたなあ。バニーガールが出てくるから。
まあ俺もええかげんおっさんだから理性では「別に性は悪いことじゃない」というのはわかる。
でも無意識下というのか、考え方の根底に性は汚い唾棄すべきものという考えもこびりついてる。
世間だって性はタブー扱いしてるだろ、という言い訳も武器にしたくなる。
色恋沙汰や性欲なんかどうでもいい、という男がかっこいいと今でも思ってる。
それが俺の理想像になってる。
恋愛はした。セックスもしようとしたけど、駄目だった。勃たなかった。
もはやアレが恋愛だったのかどうか、その時の気持ちももう完全に忘れたけど。
恋愛、セックスをしたいと同時に、それらをしたくないというジレンマがいい年こいてもずっと続いてる。
そういうのと縁がなさそうなものばかり読んだり観たりしてる。
そういうのが皆無な作品は少ない。
でも一線を超えて朝を迎える、とかいうやつを見るとマジで凹む。
最初はギャグコメディだと思ってたのにそういう展開になると裏切られた気分になる。
こうやって凹んでる自分に凹む。
この手の話の本質は、情報が伝達されるようになったことが原因なんだよ。 村の中で情報が閉じていた時代は井の中の蛙で生きられた。 いまはネットにつながった瞬間から、果てしなく他人の情報が入ってきて、他人と自分を比べることを無限に強迫される。 つながればつながるほど、人々の中で作られる理想像は高くなりつづけ、完璧で潔癖な育児や結婚像だけが独り歩きをし、だれもが幸せにならなくなってる。 救いは、そのことに気が付くことなんだよ。 いいか、ネットにつながればつながるほど、自尊心は奪われ、自他の境界はあいまいになり、自分が誰だかわからなくなっていく。情報の大海でおぼれていることに気が付かなければ救いはこない。 koguma.vc
これ書いたのが本当に富山の価値観に染まった女の可能性はあるが、「富山にいる(割と年配の)既婚者男」と考えるとすんなり納得できる部分は多い
なぜなら、この人はとにかく気味が悪くなるほどに”男にとって都合のいい女”すぎるから
・男の番にならず子供も作らない女は「子供みたいに自分のことばかり考えてる女」で、嫌なことがあっても発言権はないという価値観
・しかし子供1人を育てるのはたかが知れている(片手間でできるレベルのこと)で、家事はスイッチ押す程度でできるため働いてないのは怠けている「遊び人」
・家事は平等、しかし役割分担するのではなく「早く帰宅できた方が家事をする」ため、日常的に帰宅が遅くなる男は家事をしなくても仕方ないと言い訳可能
・「女が正社員で働くことが当たり前の風潮」恐らく自分の稼ぎが芳しくないため、女にも収入が高く安定した正社員で働いてほしいという願望
・出産リスクは全て「少ない可能性」なので女は目を向けるべきではない(男にとって不都合なのでそこに目を向けないでほしい)
※低〜中程度のうつなんで、それによるネガティブ思考も多分含まれる。
生きる意味が感じられない。
と、言うよりは世の中に対する違和感が強い。
なぜ、お金をそんなに人は求める。本来は必要な分だけあれば良い。より多くお金を動かす為に、広告は感情を煽り、SNSは依存を生ませる。不幸な人を増やして金を生むな。
愛だ恋だ、そんな綺麗なものはない。
身内の愚痴話
父とのコミュニケーションはいつも父からの一方的な説教に終始する。
以前は納得がいかないときは意見をしていたがそれが聞き入れられないと分かったとき、こちらの意志を相手に伝えることを諦めた。
それでも父は説教に終始する。
廊下でのすれ違いざま、食事中、こちらへの説教が話の内容すべてを占めている。
振り返ると以前は自分も他人とのコミュニケーションは何かへの批判や説教に終始していた。
実家を離れ時間が経ち、相手の感情や考えを踏まえた会話をするよう心掛けるようになった。
そう心掛けるようになったのは、人間関係が変わり父などの家族以外との人間とコミュニケーションをとるようになったのが原因だと思っている。
いまでもたまに説教のクセが出そうになるので気を付けている。
時と場に応じて人を喜ばせたり楽しませるコミュニケーションができるのが自分の理想だ。
(自分は何か学びや利益を得ようとしたり疑問を納得・理解しようとするようなコミュニケーションをしてしまう。相手はそんな会話を欲していないタイミングもあると思う。)
それから実家に戻ったが、やはり父のコミュニケーションは変わっていなかった。
正確には実家に戻ってから父のコミュニケーションが一方的であることを認識した。
これは様々な人と交流することで得られた気付きだと思う。実家を出て良かったことの一つだと思う。
兄弟は実家には戻っていない。分からなかった戻ってこない理由のひとつが分かったような気がする。
父の一方的なコミュニケーションは父自身を幸せにしているのだろうか。
もちろん尻を叩いてもらっているありがたみの側面もあると思う。
(1)anond:20221023223518からの続き
いくら視覚的な識別手段が機能しない状況下で重要な働きをするとはいっても、これらの三感覚によって人間は、本当に相手のことを知ること、理解することが果たして出来るであろうか? 例えば、聴覚によってパートナーの本性を知ることが、人間に出来るであろうか? 正直に言えば、私はそうは思えない。
例えば、和漢朗詠集などに収められている和歌に次のようなものがある。
「いつはりの 無き世なりせば 如何ばかり 人の言の葉 嬉しからまし(もしも、この世界に嘘[ウソ]というものが存在しなかったならば、どれほど素直に、想い人の口にした言葉を喜ぶことが出来ることか)」
二人きりの閨(ねや)で同衾して、耳元で甘い愛の言葉を囁かれても、それでもなお。これは、そういう歌ではないかと、私には思える。あるいは逆に、愛の言葉を幾ら紡いでも、想い人がこの歌のようなことを言って信じてくれない。そういう人の役割を演じて詠まれたとも考えられる。
このように、視覚が働こうが働くまいが、嗅覚・聴覚・触覚が働こうが働くまいが、それらの感覚によって得た情報から築き上げるパートナー像は、畢竟、想像の産物であって、実像とは異なるところがある。したがって、引用した箇所に示した小松和彦の言葉「想像力による夢幻の世界における営み」という記述は、現実を的確に表現した、極めて正しいものであると言える。
ただし、そのような現実を突きつけられた時に抱く感慨が、男と女との間で大きく異なるのではないだろうか。
視覚的な情報を強く志向する男という種族は、その視覚の働かない状況下で、代替手段として精一杯に駆使した嗅覚・聴覚・触覚によって得た情報を元に、必死で作り上げたパートナー像という理解が、単なる想像の産物に過ぎないと言われたら、大きな心理的ショックを受ける人が大多数なのではないだろうか。
それとは対照的に(と言っても私は女性ではないから、あくまでも私の[それこそ]想像に過ぎないのであるが)、女性の多くは、昔の人でも現代人でも、仮に「視覚によってであろうと、嗅覚・聴覚・触覚によってであろうと、あなたの得たパートナー像とは、あなたの想像の産物に過ぎませんよ」と言われたとしても、案外あっさりと「そうでしょうね」と言って受け止めることが出来る人も少なくないのではないか。そのように私には思える。
もし仮にそうなのだとしたらの話ではあるが、それは「覗き見の禁忌」の本質として小松和彦も指摘した、あの「『本来の女性の姿』を晒すことの禁忌」によって、多くの女性が日常的に、好むと好まざるとにかかわらず、化粧その他の余所行き用の装いを強いられる経験、すなわち「今現在(明かりの存在する状況下≒現世)の我々が互いに見ている/見せている姿は、そもそも仮の姿である」という経験を積んでいるからではないだろうか。だから、上で述べたような「想像力による夢幻の世界における営み」と言われても、女性の心の中では男性のようには齟齬や混乱を生じ難いのではないだろうか。
もしかしたら「虫愛づる姫君」の中で言われる「鬼と女とは人に見えぬぞよき」という言葉は「本当の自分を他人に見せること/知らせることが許されないのは、辛いことである」という抑圧の面と同時に「本当の自分を他人に見せずに/知られずに済むのは良いことである」という解放の面をも併せ持つ、アンビバレントな言葉なのではないだろうか。
『鬼滅の刃』の作者である吾峠呼世晴は、女性作家であると推測されている。だから、ここで私が言うような「嗅覚・聴覚・触覚により相手(人間)の本性を看破・把握する[できる]というのは、畢竟、幻想に過ぎない」ということも「女は本当の自分を隠さざるを得ないように強いられている」という現実も、先刻承知の上で作品を執筆したものと思われる。
『鬼滅の刃』の主要な女性キャラクターには、胡蝶しのぶ、栗花落カナヲ、甘露寺蜜璃のような「本当の自分を他人に見せられない/見せられなかった」という女性たちが登場する。その中でも、胡蝶しのぶの印象深い場面として、竈門炭治郎の鋭敏な嗅覚によって「何か怒ってます?」という言葉を掛けられ、彼女の心の裡に秘めていた鬼に対する強い怒りと、その元となった深い哀しみの感情が察知されるという場面がある。この描写には「虫愛づる姫君」の「人に見えぬぞよき」という言葉に類似する、女性のアンビバレンスが込められているように私には思われる。亡き姉の生前の笑顔溢れる姿を理想像として、それを模倣して演じているとはいえ、胡蝶しのぶには、甘露寺蜜璃や栗花落カナヲとは異なり「本当の自分」を隠すべき強い理由は、さほどないようにも思えるが、しかし、それでも何らかの理由で思いを隠したかったのであろう。その上で、他人から隠したいという思いと他人に知って欲しいという二つのアンビバレントな思いを、胡蝶しのぶは抱いていたのではないだろうか。炭治郎に本当の感情を察知された時の胡蝶しのぶの表情には、そのアンビバレンスが顕れているように見えたと言ったら言い過ぎだろうか。そんな胡蝶しのぶに似た女性は、現実の世界にも多数存在するように思われる。
そのような思いを抱いて生きざるを得ない女性たちに対する、救済の思いを込めて、嗅覚により心の本音を察知するという描写を『鬼滅の刃』の作者・吾峠呼世晴は生み出したのではないだろうか。
それは虚構に過ぎないかもしれないが、それでも「この世界と人よ、斯くあれよかし」という、慈しみを込めた虚構である。
そして、そのような虚構には捨て得ない価値があると、私は思う。何故なら「過酷な現実を知っても、それでもなお」という、表現者としての覚悟のようなものを感じるからである。
(了)
(2022/10/25追記)香り・嗅覚による本性の察知・看破または偽装について論じるならば、珠世様の血鬼術にも言及するべきであった。完全に失念しており、これは初歩的なミスである。お恥ずかしい限りである。
厳密には、「外見の美醜を判断せずに生きることはできない」が正しい。おそらく、人類の99.999%は、生きている内に心の内で他人を美醜で判断する。数字に根拠はない。99%かもしれないし、もっと低いかも。ルッキズムを批判してる人でさえ、それは多分否定しようがない。なお、これはルッキズムと異なる概念だとまず押さえてほしい。
すっげえ素朴な話、鼻毛切らないやつとか髪の毛の寝癖ひどくて頭のフォルムがおかしいやつ見て「なんだこいつ?」って思うの避けられないと思うんだよね。なぜなら、ルッキズムの根っこにある「美しいものがいい」の裏には「嫌いなのは醜いもの」がある筈で、それはおおよそ「醜いものは嫌い」と同質だから。完全に同じとは言わないが、嫌いと醜い、鶏と卵なので。
問題はさ、「みんな美しくあるべき」はうーんって思っても、「みんな醜くなるのは避けるべき」ってさ、すっげえ素朴な感情として「まあ、そうね」ってなっちゃうところ。
ルッキズムの一番ひどいパターンの、「美しさの理想像に合致しない存在は社会的に不利益を被る」みたいなやつ、これはまあ否定すべきなんだけど。この否定って極論「美しくないとされるような見た目をしてるやつは良くない」って価値観を反面で肯定しないといけないんだよ。
これさ、すっげえ難しくね?
前者はまだ否定できるんだよ、社会的には。社会的に不利益を与える規範は絶対によくない。デモ後者は無理。美醜における醜って、不衛生と漸近することが多いんだよ。髪の毛ぼさぼさって風呂入ってないってことじゃん。服が汚れてるって洗ってないってことじゃん。そういうのは生理的嫌悪感を惹起する。
生理的嫌悪感を許容できるかっていうと、理性的な頭では許容すべきってのは言えるかもしれないが、生理的な部分では無理じゃん。それを否定しきれない部分で、究極的にはルッキズムの根っこにある価値観からは逃れられないと思うんだよね。もちろん思考実験として「鼻毛ボーボボOKであるべき」は言えるけど、もっと生活に根ざした価値観としてOKって言えるかってことよ。
なお、この問題は男女関係なく発生しているからな。どっちも男女両方で発生してる問題だ。ただ、その不利益を被りやすいのは圧倒的に女性ってのは間違いない。この増田投稿してるのは男性だけど、男性の中でも何かしらある。自分はおそらく中の中から中の下、くらいだと思う見た目的には。女性の場合は「美しくあるべき」って+側への規範が、男性の場合は「醜くならないようにすべき(清潔であるべき)」って-側への規範が強いんじゃねえかなって思ってる。
だから、増田の意見としちゃ、社会制度としてはルッキズムは否定しなきゃいけない(見た目による差別は罰則を設けるなどの制度を設けるべき)、その反面でルッキズムを人間の感性からは除去できないんじゃないかなってところです。
じゃあどうすればいいかって? そんなのわからん。ただ、過度なルッキズムの否定はおそらく「生理的嫌悪感の許容」に少しずつ近づく(ように見える)ので、筋がよくないってのは前提に議論されねばならないと増田は思う。
(出てきそうな反論に先に返しておくと、国や文化が違えばルッキズムの尺度変わるって話はされても困るからな。アフリカのある部族じゃ男性は服着ない女性ではなく服着る女性に興奮するらしいんだけど、じゃあその例出されて反論されても、お前じゃあ女性は服着ないでもOKであるべきって友人知人家族の前で言えるのかって話よ。言える人もいるかもしれんが社会的にはおそらく狂人なんよ。もうちょい生活に根ざした反論を頼む)