はてなキーワード: 歴任とは
過去に、何回かStartupWeekendに参加し、またはオーガナイザーを幾たびも経験しました。
StartupWeekendは素晴らしいイベントで、楽しいです。みなさんに素晴らしさを伝えたいです。
私も過去何回も出て、経験を積み、各種イベントで色々な人と出会って楽しいです。
その楽しさを広げたいと思って、オーガナイザーやスタッフまでなりましたが、
悲しいことに、裏方のオーガナイザーの一部の人は、自分の「利権」「既得権」のごとく、
新規にイベントを立ててやろうとする人には「圧力」をかけてくる人がいるんです。
StartupWeekendでの「首都圏」でと、ごまかします。
圧力をかけてくる人は、一部・・・というよりずばり「その人」です。言うとばれてしまうので、いいません。
圧力をかけてくる「その人」は表向き、「正論」で攻撃してきて、NPO法人内部では緩やかな組織なのに、変に「コミュニティー」という実態のない世界を笠に着て、自分の影響力を誇示しようとする人です。
「その人」は会社の代表にもなっていて、自分の会社の事業に専念すればいいのに、なぜかこのStartupWeekend界隈に出没して、変な影響力をだそうと躍起です。
見てて滑稽ですが、初めての参加者たちがみると「へーこの人はすごい」という感じです。
「その人」の功績は、素晴らしいです。
過去に、有名な会社での場所確保から、スポンサー獲得、各種審査員、コーチまでの獲得まで、「その人」はすべて一人で行えます。
裏方では、相手の自尊心や名誉などを平気でつぶしにかかります。
この「その人」がしゃべらせたら正論・正攻法で来ます。まずはつぶされます。
「あなたのやり方・発言は、オーガナイザー全体で問題になります。いやなっています。」
確かに。真摯な人は、私に直接言ってくれますが、「その人」の発言力が大きいばかりに「どの程度全体で問題になっているのか」わかりません。明確にしないんですね。
単に、私が「ルール無視」レベルで場を荒らしているのか、「私が強引なまでに民主的なルールを無視した暴挙に出ているのか」。
もともとオーガナイザー間はゆるやかな組織感です。決めることも緩やかです。
きっちりとした組織固めしていないために、「オーガナイザー全体」とは、StartupWeekend全体での「正統性」得ていない感があるんです。
(正統性:きちんとした各コミュティーでも組織が大きくなったら、「コミュニティー規則」ぐらい明確したいです。)
発言の強さで、「オーガナイザー全体」の総意が決まっていませんか?
「その人」は、その発言の強さが強大。
「その人」を知る人は、適当に相槌をうつか、知らぬ存ぜぬで無視します。
逆にオープンな場にすべきところがクローズドな場になっている印象です。
StartupWeekendのブランド力は、今年に入って開催数とともに、増えてきました。
私は、StartupWeekendが大好きで、このイベントを世の中に広めたいと思いました。
しかし「その人」がいる限りは、私はつぶされることでしょう。
スタッフ・オーガナイザーとしては、金輪際一緒に仕事したくない人です。
だってそんなオーガナイザー間で、気を使って仕事するなんてしたくないし。
オーガナイザーやスタッフがやりたいことにも、この「その人」はしゃしゃり出て、ヘンに関わろうする。
まだ呼んでいない段階なのに「コミュニティーの同意」うんぬんと言ってくる。
StartupWeekend各地でコミュニティーがあるのは、分かります。大切です。
各地域でのコミュニティーは「多様性」があってこそ、コミュニティーであり楽しさがあります。
StartupWeekendの「首都圏」で、その多様性は大切です。
「その人」さん。名前明かしませんが、しゃしゃり出てこないでください。
正論・正攻法で、反論がないからと言って自分の意見が正しいと思わないでください。
自分の影響力を行使したいために、実態のない「コミュニティー」論を展開するのはやめてください。
あなたの功績は、誰もが認めます。歴任のオーガナイザーですらできなかった、スポンサーを招きました。偉いです。
イベント開催後は、おしまい。そこまでなんです。「エコシステム」ならしゃしゃり出てこないで、本業のしゃちょー業をやってください。
謙虚さをだしつつ、自分の影響力を虎視眈々と狙っている姿は、丸見えです。
私はこの匿名日記を使って、「その人」を攻撃しました。確かに卑怯です。しかしこれは私だけで済む話し。
「その人」が虎視眈々と狙ってる姿は、日本の歴史に出てくる「藤原家」そのものです。
StartupWeekendを乗っ取るような気配さえします。恐ろしいですね。
(天皇家=StartupWeekendのたとえ)
そんなStartupWeekendの裏方オーガナイザーには辟易しました。疲れました。
私は裏方のオーガナイザー・スタッフ関係からは一切手を引き、イベント参加のみに集中します。
最初で最後の愚痴と、StartupWeekendの「首都圏」界隈がより楽しい裏方になればいいかなーと思っての書き込みでした。
http://www.asahi.com/articles/DA3S11251769.html
ワールドカップはおろか、サッカーに関する記事のなかでこれほどまでに無知蒙昧、盲目、的外れのくせに上から目線な記事は初めて読んだ。
全文を読む為には登録しなきゃいけないところをみると炎上商法か?
以下、興味ある方向けに全文をコピペします。こんなクソ記事読むために登録なんて誰がするか、誰がさせるかクソ朝日。
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サッカーのワールドカップ(W杯)ブラジル大会が終了した。熱戦続きだったが、「なぜ、開催国ブラジルはドイツに7点も奪われたのか」「なぜ、日本代表はまったく精彩を欠いていたのか」など、さまざまな謎も残った。映画評論と共に、斬新な視点からのスポーツ評論でも知られる蓮實重彦さんに、謎解きをお願いした。
――今回のW杯、特に決勝トーナメントに入ってからは、一部の試合を除き、なかなか点の入らない展開が目立ちました。素人が見てもワクワクするような試合をもっとやって欲しかった、という思いもあります。
「国民や国の期待を背負うと、どれほどスポーツがスポーツ以外のものに変化していくか。それを見せつけられた何とも陰惨なW杯でした。サッカーとは本来『ゲーム』であり、運動することの爽快感や驚きが原点のはずですが、W杯は命懸けの『真剣勝負』に見えてしまう。お互いもう少しリラックスしなければ、やっている選手もおもしろいはずがないし、見ている側も楽しめない」
「『ゲーム』ではなくなるからです。ましてや負けないための真剣勝負など、見ていて興奮するはずもない。前回2010年の南アフリカW杯で、日本代表の岡田武史監督は大会直前、徹底的に防御を重視した『負けないサッカー』へと泥縄的に方針転換しました。確かにそれで1次リーグは突破できましたが、『1点でも奪おう』というサッカー本来の精神からは、ほど遠いコンセプトだった。今回3位になったオランダ代表は、まあ前線にファンペルシーやロッベンがいるからでしょうが、5バックというさらに防御重視の戦術で、まるで『岡田ジャパンのなれの果て』のようにさえ見えました」
「勝ち上がるのを最優先すれば、どうしても『岡田化』が進む。今後はさらに防御重視の傾向が強まるでしょう。しかし、サッカーはどちらかが防御に徹すると、ゲーム自体が成立しなくなる。日本―ギリシャ戦はその典型です。運動の快さを放棄してまで、国が期待する勝利にこだわる。そんな『スポーツの死』には付き合いたくない。W杯はそろそろ限界だ、とつくづく思いました」
「国を背負うとどこか血生臭さも出てきます。その一例が、コロンビアの選手がブラジルのネイマールの背中にひざを入れ、骨折させた場面です。故意かどうかという問題ではなく、国のために死にものぐるいでプレーすると、ああいうことが起きてしまう。他にもずいぶん負傷して血を流している選手がいました。観客の皆さんは、あの血生臭さにもう慣れてしまったのでしょうが」
「ザッケローニ監督は、日本のサッカーのためにある程度までうまくやったと思います。岡田監督とは違い、前々代表監督のイビチャ・オシムが作った流れを壊さなかった。私はオシムが率いていた時代のジェフ市原(現・千葉)の、攻守にわたり選手たちがダイナミックに動くプレーを見て、日本でもサッカーが見られるんだという喜びを感じました。ザッケローニにも『みんなが走り、気持ちよくサッカーをしないと意味がない』という姿勢があった」
「問題はそれを十分に実現できなかった選手の方です。私は前回の日本代表について、岡田監督の急な戦術変更にもかかわらず、選手たちの『運動する知性』が想像以上に高かった、と評しました。選手たちが無言のうちに素晴らしい連係を達成したり、味方をも欺くようなはっとさせる動きを発想したりする知性のことです。前回は、松井大輔からそういうトリッキーな動き方を感じたのですが、今回はみんながまじめすぎた。少なくとも大久保は、もっと不まじめでもよかったのではないか。市原でオシムに鍛えられた前代表・阿部勇樹のように、『失点のリスクをつぶす責任はオレが負うから、君たちは好きにやれ』という人もいなかった。知的な面では退化していた、と言わざるを得ない。それでも、岡田サッカーで勝つよりも、ああいう負け方の方が日本の未来にはよいことだと思います」
――本田の「目標は優勝」という言葉とは、かけ離れた結果でした。
「本田の発言の真意は分かりませんが、多分『そうでも言わなければやってられない』という思いがあったのではないか。『オレたちはどこまで伸びられるのか』ということを意識的に試そうとしている選手が、彼以外にはあまり見あたらなかった。そんな仲間たちを鼓舞しなくてはいけない、と思ったのでしょう。ただ、本田自身も、勝利へのこだわりが動きの柔軟さを奪っていたような気がします。それでも1点を取り、1点をアシストした。彼が日本代表の最低限の名誉を守りました」
――誰もが国を背負い、勝利にこだわりすぎたW杯だった、と。
「サッカーの魅力は『うそのように思いがけないことが、ピッチで起こる瞬間を目撃すること』ですが、今回それを味わわせてくれたのは、オランダ―スペイン戦におけるファンペルシーのヘディングシュートだけでした。決勝戦でのドイツ・ゲッツェのシュートは確かにみごとでしたが、ああいう場面で輝くのは真のスターでなくてはならず、まだスター予備軍のゲッツェが決めても、私たちを驚かせることはできません」
「1カ月も大会を続けていれば、その間に必ず愉快でおちゃめな選手が出てくるものですが、今回はそれも不在でした。唯一、相手選手にかみついたウルグアイのスアレスには一種のかわいげを感じましたが、おちゃめと言えるかどうか。02年の日韓W杯で、ブラジルのロナウドが前髪だけ三角形にそり残した奇抜な髪形でプレーし、優勝トロフィーをさらってしまった。そういう『変な人がおちゃめをしながら勝つ』という楽しさもなく、みんなが必要以上に本気になってしまった」
「一方で『見たことを一刻も早く忘れたい』という瞬間が多すぎました。世界最高GKの1人、スペインのカシリャスはオランダ戦で5失点した。彼があんなによれよれで崩れてしまう、という場面は決して見たくなかった。ポルトガルの対ドイツ戦での惨敗にも目を背けたくなりましたが、極め付きはやはり準決勝のドイツ―ブラジル戦です」
――ブラジルが7失点。目を疑いました。
「あれはもうサッカーではない。ドイツが7点も取ってしまったことは、果たして成功なのか。もちろん、勝利したという点では成功なのですが、『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては、醜い失敗だったとしか思えません。誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはいけない。どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持ちになっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない」
「サッカーから運動の喜びを奪うW杯という枠組みが、選手たちの精神とゲームそのものを、いかに異様なものにしてしまっているか。それを象徴する試合でした。サッカーは死んだ、と思いました。前回のW杯でも、国を背負うことの問題は至る所に現れていましたが、それでも決勝、準決勝は緊張感のあるいい試合でした。それが今回のW杯では、なくなった。次回のW杯まで私が生きているかどうか分かりませんが、確実なのは『もう、徹夜をしてまでは絶対に見ない』ということです」
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「実は今回のW杯では、二十数年ぶりに心から応援するチームがありました。ボスニア・ヘルツェゴビナ代表です。1914年に同国の首都サラエボで起きたオーストリア皇太子暗殺事件が、第1次世界大戦の引き金になった。それから100年。20年近く前まで殺し合っていた三つの民族が、オシムの尽力で一つのチームを作り、W杯に参加した。これはもう、応援するしかない」
「最初の対アルゼンチン戦で、敗れはしましたが、イビシェビッチがチーム初得点を決めた時には、わがことのように泣きましたね。最後のイラン戦で初勝利した時にはまさに『オシム流サッカー』という感じの躍動感にあふれた闘いぶりで、その華々しさにまたも涙しました。この年になって真夜中に何をやっているんだろう、とも思いましたが」
――蓮實さんは、スポーツの世界に、スポーツ外の浪花節的な物語を持ち込むことを嫌っていたのではなかったですか。
「いや、これは私個人ではなく、人類の問題なのです。サラエボ事件100年ですよ! そこから来ている代表が民族対立を乗り越え、W杯で初勝利した。その奇跡を、日本と関係の深いオシムが実現させたことを、心から祝福するべきなのです。そしてボスニア・ヘルツェゴビナがオシム流のサッカーをさらに継承し、将来のW杯で魅力あふれる運動感をピッチに行き渡らせる。これは私のロマンチックな願望です。そうなれば、W杯をまた熱心に見ることになるかもしれませんね」
(聞き手・太田啓之、金重秀幸)
*
はすみしげひこ 1936年生まれ。東京大教授、教養学部長、総長を歴任。著書「『ボヴァリー夫人』論」「表層批評宣言」「スポーツ批評宣言」など多数。
かつて制限選挙だったころ、税金を一定以上支払うことが選挙権を持つための条件だった。
そうした人たちは勿論資本を持っている人々だ。ただし、たんなる資本を持っているだけではなかった。
産業や教育に要職を歴任したり、地域の役員だったりする。学校つくったりとか、舟運を整備したりとか、産業組合を結成したりとか。
そしてそうした役割に耐えうるだけの知識や教養を持っていたし、あるいは持ちうる環境にあった。
ひるがえって現代ではどうだろうか。現代では長い間の闘争によって成人の普通選挙が実現している。
かつての選挙権を持つ人は、社会の様々な動向に携わるからこそ政治への関心を持っていた。自分の活動と政治が近いところにあったのだと思う。
だが凡百の私たちは。
トップ2社(仮にA社、B社)と3位以下が離れていた業界で、3位のC社に20年ほど前に入社。
当時の利益幅だと、C社の利益なんか、A社B社の半分にも満たなかった。
しかし、C社のワンマン経営者の手腕もあり、C社は高収益体質を磨き上げ、
2011年度決算では、C社は売上高ではA社B社の7割程度だが、
純利益ではA社、B社に肉薄している。
で、2012年度決算予想では、C社は「目立たないように」A社B社の
「2012年度決算では、ほぼ間違いなく、C社が利益額業界首位になる」と予測されている。
もちろんC社も上場企業だから、利益極大化のインセンティブはあるのだが、
ホンネのところでは、
「A社B社に、もうちょっと頑張って貰って、
利益首位の座をA社なりB社なりが保って欲しい」と考えている節がある。
なぜ某社は利益1位に「ホンネの部分」でなりたくないのか?
「業界のオピニオンリーダー」として、しばしトップは日経紙面で発言している。
また、日経が主催し、業界と役所が参加するようなシンポジウム、セミナーには、
そして、監督官庁が主催する政府審議会には、A社B社のトップもしくは幹部級(常務取締役●●本部長)
とかが列席している。
永年、「業界のオピニオンリーダー」を自認していたA社B社は、
トップがそういう「公的な場」に出ていくことに慣れているし、
広報部だか秘書室だか、そういう場でトップがスピーチするためのゴーストライター部署がある。
また、トップがそういう場にしばし行くために、社用車とか接待クラブの類も充実している。
しかし、「業界のオピニオンリーダー」の地位に就いたことがないC社の場合、
トップがそういう「公の場」でスピーチしようにも、バックスタッフを用意していない。
あるいは、トップが公的会合(業界の会合、役所系の会合)にしばし呼ばれても、
そういう「業界の付き合い、役所の付き合いが大嫌い」という点にある。
「業界団体にも顔を出せ」「政府の審議会にも協力しろ」「政治家とも付き合え」となっていく。
正直、C社トップは、そういう煩わしいことが大嫌いなのである。
世の中には、とかく「業界トップの座にいたい、それで要職を歴任して、あわよくば勲章を貰いたい」という
経営者もいて、そういう人の中には「粉飾してでも、売上トップを死守する」なんてのもいたりする。
A社B社トップがそういう人物だ、とは決して言わないが、
「売上額の大小はどうでもいい、利益額こそが問題だ」というC社トップから見れば、
「A社やB社は、なんで利益率があんなに低いんだろう?
売上維持のために利益率に目を瞑っているんだろうか?」と不思議に思えているらしい。
なんかとりとめのない文章になってしまったが、要は
大阪府の松井一郎知事は28日、飲食店チェーンを展開するワタミの渡辺美樹会長が、府特別顧問に就任することを明らかにした。教育に関するアドバイザー役として、大阪市特別顧問にも就く予定という。
渡辺氏は神奈川県教育委員や政府の教育再生会議委員を歴任。松井氏と橋下徹大阪市長は20日、渡辺氏にアドバイザー就任を要請していた。府市統合本部での教育基本条例案の議論にも参加する予定で、松井氏は「すごい議論になりそうで楽しみ」などと述べた。
http://www.asahi.com/national/update/1228/OSK201112280061.html
適応傷害で自殺するほど働かせて労働災害も最終的に認定されることになるブラック企業ワタミの経営者が、教育のアドバイザーだあ?
下痢ピーでお腹イターイって政権投げ捨てた安倍晋三の真似して、ワタミの過労教育を大阪府民の子どもたちに洗脳させても、大阪府民は喜ばないだろうよ。一部の連中を除いては、な。
「過労も労災認定も認めない」という立場をワタミの渡邊会長が堅持し、労災認定をあくまでも拒否し続けるというのなら、認めない事実で批判される筋合いはないという渡邊会長の主張は、スジは通る。
だけど、ワタミの渡邊会長は、「法令遵守を約束する」と表明し、報道事実は違うと言っていた会社表明を公的に削除したので、会社としての責任の存在があったことを会社は認めたに等しい。
行政から労働災害を出したと公式ブラック認定され、その認定に反論しない会社の経営者が、どうして子どもの教育のアドバイザー役などできるのか、まったくわからない。
ブラック企業の経営者を重用したがる大阪府の松井一郎知事や橋下徹大阪市長には、人事を扱うだけの能力も識見も無いと言わざるを得ない。
という具合に、自分以外の人たちに迷惑をかけることを恐れて、というか批判を回避して政治的ポジションをつかみたいという大人の事情もあって、ワタミの渡邊会長は過労死認定でゴネ続けていたのだろうけれど、従業員殺しておいてさすがにそれはムシが良すぎるのではないだろうか。
このたびの東日本大震災で、東北から関東の一部まで大被害を受けましたが、我が社も陸前高田の坂井宏所長御夫妻とそのご子息および、各店の所長の御家族五人、YCスタッフ一〇人がお亡くなりになりました。深く哀悼の意をささげます。また、YC店舗は全壊六戸、半壊・一部損壊一七戸という被害を受けました。
今回の震災の被害対策については、政府の対応は誠に非能率で憤慨するところ大でありますが、グループ本社及び傘下各本社は、宮本副社長販売担当のもと、労力的にも、資金的にも迅速に対応し、その報告を聞いていささか心を癒されました。今後とも被災地YCの復興に全力をあげるつもりであります。また政府の被災地全体にわたる救済、復興の不手際については、紙面で厳しく批判し、督促してまいります。
さて、震災後の五月二十六日に、読売新聞が週刊新潮の無責任なデマについて提訴した名誉毀損訴訟に対して賠償金の支払いを命ずる判決が出て、全面勝訴しました。
この新潮報道では、二〇〇九年六月十一日号で、「新聞業界最大のタブー"押し紙を斬る"」というタイトルで、「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに捨てられていた」と断定しております。判決では「読売新聞においては"押し紙"が存在すると推察することもできない」として、新潮報道が全面否定されました。
新聞が二割、三割、五割以上もの紙を配らずに捨てるというような不合理な無駄をしていれば、用紙代、印刷代、輸送費及び人件費の消耗で直ちに倒産しているでしょう。
過去十年間の読売新聞の決算報告をもとに数字を申し上げれば、この十年不況で日本経済が停滞し、また新聞外のメディア、特に電子メディアの普及等もあり、販売部数が減少したことは事実であります。
しかし、二〇〇二年三月期と、二〇一一年三月期の十年間の読売新聞の収支を申し上げると、販売収入は二六四九億円から96.61%の二五六〇億円に減少、その落ち込み幅は3.39%に過ぎません。その間のABC部数は一〇一五・二万部から98.74%の一〇〇二・四万部に減少、落ち込み幅は十年不況の中で僅か1.26%であります。
それに対し、景気を最も敏感に反映する広告収入は、一五〇六・九億円から53.16%の八〇一・二億円に減少、落ち込み幅は46.84%にも達します。
それにもかかわらず、黒字経営を続けているのは資材、人件費の節減や、製造工程の近代化、合理化による節減と保有株の配当収入、不動産賃貸収入の安定もありますが、最大の原因は販売収入の減少が極めて僅かだったからであります。
週刊新潮の言うように、印刷した新聞の18%も捨てていれば、このような安定した販売収入はあり得ません。
大きく言って、読売新聞の収入構造は、販売6、広告2、不動産賃貸収入、配当収入、巨人軍等の事業収入2の割合です。そのうち二割を占める広告収入が十年不況で半減したのに、堂々たる黒字経営を続けていられるのは、ここにおられるYC所長の皆さまの日常の努力による販売収入の安定でありまして、皆さまの献身的な愛社精神と堅実な経営努力に心から感謝申し上げます。
ちなみに、最近倒産の多発している米国の新聞の広告収入依存度は、七割から八割であり、これは宅配制度の不備によるものです。
さて、原発問題と今後の日本と世界経済の問題について若干言及致します。
現在稼働中の原発もいずれ点検による稼働中止になり、このままでは来年には、日本の全原発が稼働停止になります。もし、日本の電力の29%をまかなってきた原発が動かなくなれば、日本の産業生産は縮小し、かなりの企業が倒産し、失業者が増大し、税収は減り、国家財政は破綻する恐れがあります。
菅首相は、現在9%の再生可能エネルギーを20%とか25%に増大するという夢を語っていますが、彼の言う再生可能エネルギーのうち8%は水力発電です。これを増強しようとすれば、民主党政権の言ってきた「コンクリートから人へ」を逆転させ、ダムを建設しなければなりませんが、それには五年、十年かかるし、また日本にはその適地もなく、コストは巨大になります。
菅首相の言う太陽光、風力発電は、現在全発電量の0.5%くらいで、日本の地理上、適地が少なく、風力発電は海上に巨大な浮体を作って乗せるほかなく、それも巨額な出費をもたらします。
太陽光発電は、理想としては良いのですが、実際に広大なパネルを作ろうとすれば、それも巨費を要し、一朝一夕にできるものではありません。
そうなれば、今問題になっている玄海原発のように、政府が安全を保証する点検済みの原発を再稼働させていく以外には、日本の経済、財政、産業、国民所得を維持する道はありません。
私が枝野官房長官をはじめ、関係政府要人や専門学者達に聞いたところによると、福島第一原発の事故は、地震によるものではなく、大津波によるものだということです。
つまり、地震による揺れで原子炉が破壊されたのではなく、大津波によって原子炉の冷却装置を稼働させる電源と冷却装置をつなぐ配電管が破壊され、冷却装置が止まってしまったこと、また海水を汲み上げるパイプ、そのための発動機の損傷もありました。
海面上一〇メートルの所に作られた第一原発は壊れましたが、一五メートルの高台に作られた女川原発は、津波による被害がなかったので、今すぐにでも稼働できるのです。日本海側、瀬戸内海側の原発は、二〇メートルの津波をかぶる心配はありません。静岡県の浜岡原発も、完全な防潮施設を作れば安全になるでしょう。福島第一では電源を地下に設置してありましたが、浜岡では建屋の屋上に設置してあります。
福島第一の事故で、たくさんの人災的原因が明らかになりました。この経験と知識と高度な日本の技術をもってすれば、耐震性は証明されている日本の原発に対し、さらにどんな津波が来ても、外部電源とつながる炉の冷却装置を損傷しないような防御装置を構築することは可能でしょう。震災後四カ月たっても、こういう措置を稼働中止中の原発に対して取ってこなかった政府は、一体何を考えていたのでしょうか。
ドイツが原発を中止したといっても、ドイツはフランスの原発から電力を輸入しているからできることです。
過剰な原発アレルギーで、日本の電力の三割を止め、節電とか自粛とかを連呼しているのみでは、日本はいずれ産業国家として世界三等国に転落し、貧困や失業に悩まされるのではないでしょうか。
読売新聞社は、この不況の中で、大手町の一等地に三三階の新社屋を建設します。首都直下型地震が来ても安全な耐震性、非常の時の自家発電や、交通途絶対策としての非常食の備蓄等、完壁なビルを無借金で建てます。
私が社長に就任した二年後、借入金はピークで一六四一億円余ありました。社長就任以降今まで五六五四億円設備投資しましたが、現在すでに返済し、数百億円の預金があります。つまり、二十年前に千数百億円借金をしなければ、新規設備投資ができなかったのです。しかし今、大手町に最新の建設技術の全てを取り入れた高層ビルを建てるのに、新たな借金は必要ありません。
現在の我が社の基本的な経営体力は、皆さんの努力による安定した販売力、YCの店力、全従業員の愛社精神が基軸であります。
さらに、読売新聞の主張する税制改革案を含む財政、経済、社会保障、産業政策等が、ポスト菅の内閣によって実現されれば、不況も解消し、広告収入の低落にストップがかかり、増収になり、その成果を皆さんとともに享受できるようになるでしょう。
次に今回の読売グループの人事異動について説明します。すでに新聞等に細かく報道されているので、重点について述べます。
内山前社長は昨年春、令夫人が大きな手術をして以来、術後が思わしくなく、そのショックで本人もいささか精神不安定になり、特に3・11の地震後の社務にはほとんどたずさわらないという状態になり、私宛に、夫人の看護に専念したいとの辞表が提出されました。
内山君は私の永年の忠誠な部下であり、私には万感こもごも至る思いもありましたが、新聞社として緊急非常の事態の中、その辞表を認めました。
老川東京本社社長は定年に達していたので、グループ本社の最高顧問としてグループ全体について指導してもらうこととしました。
私は依然、事実上の最高経営責任者として残りますが、八十五歳という高齢を考え、実務は白石興二郎君に、グループ・東京本社の代表取締役社長を任せることにしました。白石君は、編集局長、論説委員長、メディア戦略局長、社長室長等を歴任、社務の全般に通じており、最適任と思います。また、政策理論家として社外でも評価されている早川準一君にグループ本社の副社長兼副主筆として私を補佐してもらいます。
販売担当の宮本友丘君は東京本社副社長に昇格、私の直轄下で、東西の販売政策を指揮してもらいます。
内山君の病気のこともあるので、八十五歳という最高齢で、事実上の最高経営責任者である私の健康状態について報告しておきます。
今月、慈恵医大病院で、世界的な血管外科の大家として知られる大木隆生先生に、全身の内臓検査をしてもらいました。その検査結果の一部を読みます。
これは大木教授より読売診療所の近藤所長にあてられた報告書です。
「渡辺さんは、息切れなどの症状もなく、極めて健脚です。血液検査については、γ-GTが少々上っている以外、異常はありません。肝機能は極めて正常です。
次に、心電図と脈波検査を行いました。血圧は正常、閉塞性動脈硬化症がなく、脚の血流が良好です。
CT検査の結果、まず脳に関し驚くべきことに脳の萎縮が全く進行しておらず、頭がさえていることが見てとれます。脳動脈瘤、甲状腺、嚢胞や腫瘍もありません。心臓も肥大や大動脈弁石灰化もなく、極めて若々しい状態にあり、六十歳代くらいの若々しさと言えます。肺にはがん、腫瘍も認められません。極めて健康的な肺です。膵臓が唯一の所見のある部位で、萎縮があり、前糖尿病と言えます。腹腔動脈、上腸間膜動脈、および左右の腎動脈に狭窄はありません。
腰椎に高度の変形を認めます。腹部大動脈、腸骨動脈に動脈瘤や狭窄病変などはありません。膀胱に異常はありません。現時点で治療を行う必要はないと思われます。
内臓脂肪が多く、膵臓が萎縮していますので、一層のカロリー制限と定期的な運動を続けられることは膵臓のみならず、高血圧、痛みのある膝関節にとっても良いことです。
最も素晴らしいことは、八十五歳と高齢であるにも関わらず、脳に萎縮が全く見られないことです。人間にとって肝心な脳、心臓、腎臓、肝臓が全て六十歳代と思えるほどの若々しさです。
東京慈恵医科大学外科学教授血管外科 大木隆生 読売診療所 近藤和興先生御侍史」
以上が目下の私の健康状態なので、新社屋の完成する年、つまり米寿までは持ちこたえるでしょう。この世には小生が早く往生することを願っている人も少なくないようですが、その人達は失望されても仕方のないことです。
最後に、ポスト菅の首相が誰になるかを予想することは、巨人の勝敗の予測よりも困難であることを告白してごあいさつと致します。