はてなキーワード: 幾何学とは
ワートリのカップで揉めてたけど、あの人物紹介の要って、本編では女子キャラもしっかり描写されてて、男子キャラと同様に思考し、戦い、生活していて人物紹介でも来歴や性格が書かれてるのに、文章の〆がいつも
「○○○な△カップ。」
なところだと思った。「幾何学が産んだIカップ。」とか。こういうのは当たり前だが女子だけ。
作中ではしっかり人物描写しといて、最後は結局まるで本体がおっぱいだった!みたいに落とされる。
女子キャラたちも他の男子たちと同様に仲間だと思ってたのに、おっぱいが喋って戦ってる!と思われてたのか…という落胆、みたいな。
これを男子キャラに置き換えるの難しい。チン長だとなんか違うし。「虫が苦手な9センチ。」…ちゃうなこれは。
似た感覚になるの何か無いか考えてみたが難しいな。男子におっぱい相当の機関が無いし。強いて言えば身長か髪の多さ?それもちょっと違うか。
そこでふと思い出したが、以前「ぬいぐるみにちんが生えた」とかいうやつ。女性が性的関係なしの友人だと思ってた男性が性欲見せるとゲッてなる現象を男性は「男は安全なぬいぐるみじゃねぇ、性欲もある人間だ」と怒ってたやつ。それと似てるかもしれない。人間として対等に接してると思ってたのに違ってショック受ける、ってやつ。
でも感覚は似てるけど対称的だよね。
女性は人と人として性関係なく対等に接してたと思ってたのに男性からは性的おっぱいが喋ってると思われていたショックで、男性は性的関係込みの人間として付き合ってたつもりが性欲のない友人として扱われてたショック。俺たち、私たちは人間なんだぞ、という。どっちもわかるよ。
いまさらだけど、作者の性癖は別にいいんだ。人物像を細かく描写しておいて「…というおっぱいちゃんだったのさ」ってやるのがどストライクなんだろう。ただまあそれでウホッッッ、ってなる人も、ガックリ、ってなる人もいるのは理解されてほしい。
ワートリの話を見ていて思ったけれども。
かつて、紙の本の時代は漫画のカバー裏の領域って、皆が読むものではなかったよね。
マガジンの漫画は全部茶色の幾何学模様でタイトルとか書いてあっただけだし、他の出版社も何も書いてなかった。
ふとめくってみたときに、あれ!?何か書いてある!!って驚く、知る人ぞ知るおまけみたいなものだった。
それが、デジタルのでんししょせきになったことで、ページをめくっていけば誰もが読むものに変化している。
変化しているにも関わらず、紙の時代と同じように熱心なファンだけが読むと思って、そこに書く内容を決めているという点が、
摩擦を生む要因の一つなんじゃないかな。
カバー裏がダメなら、わざわざ見に行かないと見れない、ホームページ上にだけ載せるというのも、
ホームページはむしろ、全世界に公開されているからダメって意見もあるだろうし、
代数学とか整数論は東大生でもかなりやっている、 組合せ論の問題は洗練されたものになってくるほど別に専門知識がなくても独自の検討で
解けてしまうものもある。一方で、平面幾何の問題だけはもうどうにもならない。
まず解いたことがない。基本的に平面幾何の問題は図を描いて説明するだけになるためなんといっても図を描くことが大事だが
補助線を引いたり、色々と難しい。
2006年にペーターショルツが解いた幾何の問題は結論から言えば解けない、 解法2のように独自の考えでベクトルを使ってシコシコ解く方法もあるが
2013年の組み合わせの問題は10人しか満点がいなかった。2011年にリサ=ザウアーマンが解いた幾何の問題は、非常に難しい。
解法1が最もエレガントだが、解法2のミケルの定理を使うのは複雑すぎる。
今日、本屋に行って、平出隆の『猫の客』を買おうとしたら売り切れだった
日本であまり知られていないような気がするのに、世界22か国で翻訳されているという不思議な小説だ
数年前に読んだけど、手放してしまったので、もう一度買って文体とかを見たいなと思ったの
一軒家に住む夫婦のもとにどこからか猫が毎日訪ねてくるという「飼ってない猫についての小説」だった気がする
夫婦が住む一軒家は住宅街にあって、その猫が塀を沿って、路地裏から訪ねてくるルートを幾何学的に説明していたのを覚えている
小説の地の文で風景描写や位置関係を説明するときって大体のことをぼかして書くことが多いけど、『猫の客』は路地の形状を数学の図形問題の説明文みたいに理路整然と詳しく書いてたと思う
「円の中心Oから2㎝離れたところにある点P」とまではいかないけど、誰の頭にも順序だてて考えれば同じ配置図になるように設計された文だった
昔、『猫の客』を読んだ時はその文章のくだりは想像するのが面倒で適当に読み飛ばしたんだけど、今読んだら頭に路地を浮かべることができるもんなんかねえと気になって年末で余裕があるときに試したかったんだ
だけど、売ってなかったから仕方なしに同じ平出隆著の『葉書でドナルド・エヴァンズに』を買って帰った
夭折したドナルド・エヴァンズという芸術家あてに著者がはがきサイズに収まる日記を送り続けるという変わった創りの本だった
既に亡くなっている会ったこともない芸術家宛の一方的な書簡まとめみたいな感じ
僕はドナルド・エヴァンズなんて知らんし、こういう洒落めいた文って大体つまらんもんって期待してなかったんだけど、今半分くらい読んで、かなり楽しめてしまっている
ドナルド・エヴァンズは架空の国の気候や政治を想像しながら切手を水彩画で描いて作品にしてた人なんだってさ
著者は実際にドナルド・エヴァンズの母国たるアメリカを旅しながら、生前親しかった人を訪ねて話を聞いたり、著者自身のドナルド・エヴァンズへの思いをしたためたりしているわけよ
こうやって説明する文を僕なんかが書いても面白くなさそうなのに、読んでるとなんでかわからんけどおもろい
小出しにされるドナルド・エヴァンズという人物の肖像と人生、旅行記としての楽しさ、短文の読みやすさ、ドナルド・エヴァンズをめぐる人々を追うドキュメンタリーみたいな進行がうまく絡み合ってよくまとまっていて、ページをめくる手が進んでしまう
こういう頭のよさそうな人がやっているおしゃれな文を褒めたくないけど、面白いし、どんどんドナルド・エヴァンズが好きになっていくんよ
少年時代に切手収集が共通の趣味だった親友の切手が誰かに盗まれてしまって、ドナルド・エヴァンズが親友のために切手を盗まれた記念の切手を作成してプレゼントしたエピソードとか最高かよって思っちまった
皮肉めいた冗談みたいなプレゼントを気軽に送って笑いあう関係を書かれてもないのに勝手に想像していいな、うらやましいなとか思った
こういうのを洒脱な文って言うんだろうか
なんか『葉書でドナルド・エヴァンズに』が妙に面白くて、平出隆の才能というか文がうらやましくて、増田に書きなぐっちまった
The sacred geometry of chance
The hidden law of a probable outcome
すべてを支配するのは数
I know that the spades are the swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart
が、これは私の真意ではない
He may play the jack of diamonds
He may lay the queen of spades
He may conceal a king in his hand
手にはキングを隠し持ち
While the memory of it fades
記憶は薄れていく
Well, those who speak know nothin'
お前たちは何もわかってはいない
And find out to their cost
そして間違いなく勝負に負けるだろう
Like those who curse their luck in too many places
不運ばかりを嘆いている奴のように
劣等感ほどは無いんだけど、
高校の同級生の天才が東大理1から東大数学科博士を出て、旧帝大で数学のポストについている。
僕は普通に社会人になって、でもコツコツと数学自体は勉強している。
数学のレベルだが、自分は一応は大学レベルの数学は理解している。
代数学は雪江先生とかハーツホーン、幾何学は多様体と数え上げ幾何学、解析はルベーグ、関数解析とか。
佐藤幹夫先生の数学が好き。工学の微妙な数学を数学に昇華してくれてて溜飲が下がるっていうか。
適当な修士とか博士論文をコツコツ読んでるけど、それすら難しい。
普通は数学科の人は25くらいには研究レベルには到達してるんでしょうね。
僕は人より時間がかかるみたいです。
「査読が終了していない」んじゃなくて、そもそも査読っていうのはそういうものなの。
「論文として載せる価値がある」というのは「絶対的に正しい」ことを意味しないの。査読が担保しているのは「論文としての価値」であって、「絶対的な正しさ」ではないの。(もちろん、正しさに対する一定以上の信頼度がなければ「論文としての価値」も認められないけど。)
科学的な正しさというのは、ある瞬間に100%正しいと認められるものではないの。論文が掲載されて、その後の研究者コミュニティによって引用を繰り返され、一人一人の研究者がそれぞれの価値観でもって「この論文は正しいor間違っている」と判断し、サーベイを寄稿したり教科書が執筆されたりすることによって正しさが認められていくものなの。
そもそも論文が掲載されるというのはゴールじゃなくてスタートなの。
君はきっとリーマン面のタイヒミュラー理論も、p進タイヒミュラー理論も知らないでしょ?「宇宙際タイヒミュラー理論」というのは単に数体上のタイヒミュラー理論のことで、細かい技術的なギャップがあるのかないのかは専門外の私にはわからんけども、少なくとも「トンデモ」扱いするバカがいたらそいつは数学者ですらないバカだと一発でわかるよ。
複素数で可能ならp進数でやる。p進数で可能なら数体でやる。というのは数論幾何学の王道中の王道で、パッと見「できそうだな(具体的にどうやるかは知らんけど)」というのが普通の数学者の認識。その応用があるかないかは後から考えることで、ABC予想が解けてるのか解けてないのかは私にはわからんけども、少なくとも理論としては間違いなく面白いものだろうとはわかるし、「俺も一生に一度はこういう論文書きてぇなぁ」と思うよ。
本稿では、和田秀樹氏らが提唱している暗記数学というものについて述べます。
受験数学の方法論には「暗記数学」と「暗記数学以外」の二派があるようですが、これは暗記数学が正しいです。後者の話に耳を傾けるのは時間の無駄です。
まず、読者との認識を合わせるために、暗記数学に関するよくある誤解と、それに対する事実を述べます。
暗記数学は、数学の知識を有機的な繋がりを伴って理解するための勉強法です。公式や解法を覚える勉強法ではありません。「暗記」という語は、「ひらめき」とか「才能」などの対比として用いられているのであり、歴史の年号のような丸暗記を意味するわけではありません。このことは、和田秀樹氏の著書でも繰り返し述べられています。
類似の誤解として、
などがあります。これらは事実に反します。むしろ、大学の理学部や工学部で行わていれる数学教育は暗記数学です。実際、たとえば数学科のセミナーや大学院入試の口頭試問などでは、本稿で述べるような内容が非常に重視されます。また、ほとんどの数学者は暗記数学に賛同しています。たまに自他共に認める「変人」がいて、そういう人が反対しているくらいです。大学教育の関係者でない人が思い込みで異を唱えても、これが事実だとしか言いようがありません。
嘘だと思うならば、岩波書店から出ている「新・数学の学び方」を読んで下さい。著者のほとんどが、本稿に書いてあるように「具体例を考えること」「証明の細部をきちんと補うこと」を推奨しています。この本の著者は全員、国際的に著名な業績のある数学者です。
そもそも、暗記数学は別に和田秀樹氏が最初に生み出したわけではなく、多くの教育機関で昔から行われてきたオーソドックスな勉強法です。和田秀樹氏らは、その実践例のひとつを提案しているに過ぎません。
暗記数学の要点を述べます。これらは別に数学の勉強に限ったことではなく、他の科目の勉強でも、社会に出て自分の考えや調べたことを報告する上でも重要なことです。
一番目は、従来数学で重要なものが「ひらめき」や「才能」だと思われてきたことへのアンチテーゼです。実際には、少なくとも高校数学程度であれば、特別な才能など無くとも多くの人は習得できます。そのための方法論も存在し、昔から多くの教育機関で行われています。逆に、「"才能"を伸ばす勉強法」などと謳われるもので効果があると実証されたものは存在しません。
大学入試に限って言えば、入試問題は大学で研究活動をする上で重要な知識や考え方が身についているのかを問うているのであって、決していたずらな難問を出して「頭の柔らかさ」を試したり、「天才」を見出そうとしているわけではありません。
二番目はいわゆる「解法暗記」です。なぜ実例が重要なのかと言えば、数学に限らず、具体的な経験と結びついていない知識は理解することが極めて困難だからです。たとえば、
などを、初学者が読んで理解することは到底不可能です。数学においても、たとえば二次関数の定義だけからその最大・最小値問題の解法を思いついたり、ベクトルの内積の定義や線形性等の性質だけを習ってそれを幾何学の問題に応用することは、非常に難しいです。したがって、それらの基本的な概念や性質が、具体的な問題の中でどのように活用されるのかを理解する必要があります。
これは、将棋における定跡や手筋に似ています。駒の動かし方を覚えただけで将棋が強くなる人はまず居らず、実戦で勝つには、ルールからは直ちには明らかでない駒の活用法を身につける必要があります。数学において教科書を読んだばかりの段階と言うのは、将棋で言えば駒の動かし方を覚えた段階のようなものです。将棋で勝つために定跡や手筋を身につける必要があるのと同様、数学を理解するためにも豊富な実例を通じて概念や定理の使い方を理解する必要があります。そして、将棋において初心者が独自に定跡を思いつくことがほぼ不可能なのと同様、数学の初学者が有益な実例を見出すことも難しいです。したがって、教科書や入試問題に採用された教育効果の高い題材を通じて、数学概念の意味や論証の仕方などを深く学ぶべきです。
そして、これは受験数学だけでなく、大学以降の数学を学ぶ際にも極めて重要なことです。特に、大学以降の数学は抽象的な概念が中心になるため、ほとんどの大学教員は、学生が具体的な実例を通じて理解できているかを重視します。たとえば、数学科のセミナーや大学院入試の口頭試問などでは、以下のような質問が頻繁になされます。
教科書や解答例の記述で分からない部分は、調べたり他人に聞いたりして、完全に理解すべきです。自分の理解が絶対的に正しいと確信し、それに関して何を聞かれても答えられる状態にならなければいけません。
たとえば、以下のようなことは常に意識し、理解できているかどうか自問すべきです。
ほとんどの人はまず「自分は数学が分かっていない」ということを正確に認識すべきです。これは別に、「数学の非常に深い部分に精通せよ」という意味ではありません。上に書いたような「定義が何で、定理の仮定と結論が何で、文中の主張を導くために何の定理を使ったのか」といったごく当たり前のことを、多くの人が素通りしていると言うことです。
まず、用語や記号の定義が分からないのは論外です。たとえば、極大値と最大値の違いが分かっていないとか、総和記号Σ でn = 2とか3とかの場合に具体的に式を書き下せないのは、理解できていないということなのですから、調べたり他人に聞いたりする必要があります。
また、本文中に直接書いていないことや、「明らか」などと書いてあることについても、どのような性質を用いて導いたのか正確に理解する必要があります。たとえば、
などと書いてあったら、これは
という一般的な定理を暗に使っていることを見抜けなければいけません。上の命題はpが素数でなければ成り立ちません。たとえば、l = 1, m = n = 2として、4l = mnを考えれば、mもnも4で割り切れません。他にも、
は正しいですが、逆は一般的には成り立ちません。nとmが互いに素ならば成り立ちます。それをきちんと証明できるか。できなければ当然、調べたり他人に聞いたりする必要があります。
l'Hôpitalの定理なども、もし使うのであれば、その仮定を満たしていることをきちんと確かめる必要があります。
さらに、単に解法を覚えたり当て嵌めたりするのではなく、「なぜその方法で解けるのか」「どうしてそのような式変形をするのか」という原理や意図を理解しなければいけません。たとえば、「微分で極値が求まる理屈は分からない(或いは、分からないという自覚さえない)が、極値問題だからとりあえず微分してみる」というような勉強は良くありません。
そして、教科書の一節や問題の解答を理解できたと思ったら、本を見ずにそれらを再現してみます。これは「解き方を覚える」と言うことではなく、上に書いたようなことがすべて有機的な繋がりを持って理解できているか確かめると言うことです。
はじめの内はスラスラとは出来ないと思います。そういう時は、覚えていない部分を思い出したり、本を見て覚え直すのではなく、以下のようなことを自分で考えてみます。
こういうことを十分に考えた上で本を読み直せば、ひとつひとつの定義や定理、式変形などの意味が見えてきます。また、問題を解くときは答えを見る前に自分で解答を試みることが好ましいです。その方が、自分が何が分かっていて何が分かっていないのかが明確になるからです。
以上のことは、別に数学の勉強に限った話ではありません。社会に出て自分の考えや調べたことを報告する時などでも同様です。たとえば、近年の労働法や道路交通法の改正について説明することになったとしましょう。その時、そこに出てくる用語の意味が分からないとか、具体的にどういう行為か違法(or合法)になったのか・罰則は何か、と言ったことが説明できなければ、責任ある仕事をしているとは見なされないでしょう。
数学や物理を大人になって学び直したら、「そんなことあるの?」とびっくりした概念を書いていく。
地球儀を切り開いて、平面にしようとしても、2次元の世界地図はできません。
という定理。
3次元⇨2次元への距離を保った変換はできませんということを示しており、これを発展させた弟子のリーマンが、「じゃあ、4次元から3次元とか、もっと高次元でも同じじゃない?」とリーマン幾何学を創出。後の相対性理論(空間が曲がる)の記述へと繋がる。
2位 論理回路
信号機とかのプログラムを電気回路で表現するにはどうすればいいのか?ということの理論。
4ビットの信号(0101みたいなの)だと、16通り応答が必要となる。簡単に考えれば16通りの設計が必要そうだけど、カルノー図を使った簡易化という謎のテクニックにより、なんとかなり簡単に電気回路を設計することができる。
物理では、位置エネルギーとか運動エネルギーとか謎のエネルギーという量が出てくる。
なんと、解析力学では、「謎のエネルギーの方が本質であり、運動とか位置とかはエネルギーから導かれる。エネルギーが先、運動や位置が後」という理論。
4位 再起構文
再起構文というのを書くと、ナルトの「多重影分身」みたいなプログラムが書けたりする。
いまだに原理を理解できていないけど、結果的にそうなってる。不思議すぎる。
なんと、光の半分くらいまでしか画像を読み取ることができない。
光以外にも、エコー(超音波)で体の中を観れるけど、あれは超音波の波長が0.5mmとかなら、0.25mmまでの物しか判別できない。
だから何?と思ったけど、半導体制作で「波長が短い(nm)の光を使って半導体を描くので、この理論を使います」とか、いろんなところでかなり効いてくる理論みたい
6位 5次以上の方程式の解の公式(代数的な表現の)はない。(ガロア理論)
これは証明をぜひ追ってみて欲しい。
実際に、これらの手法が提案されたときは数学的な記述ができなくて、「それ本当に成り立つの?なぜ?」ということで数学者が紛糾。
量子力学とかも物理の不安定な理解が、数学的にどう不安定なのかが納得できる。
「太陽が一番高い日に儀式やりてぇ。なんかご利益ありそうじゃん」
そんで、部下に聞くわけ。
急に聞かれてもわかんないと思うんだよね。
平謝りで許してもらうんだけど、たぶん王様こう聞いたんだと思うんだ。
「じゃあ、一年って何日?夏至の日はわかるじゃん。毎日太陽の高さ測ってある日まではどんどん高くなって、ある日からどんどん低くなるんだから。
そんで、夏至と一年の日数がわかれば、夏至の日から一年の日数足せば次の夏至じゃん。
つうわけで、一年の長さ教えてよ」
急に聞かれてもわかんないわな。
そこはまた平謝りで許してもらって、太陽が夏至の日から次の夏至の日までを数えたんだと思うんだよ。
「一年は365日です」
王様もまあそいつ褒めてやったと思うよ。来る日も来る日も太陽の高さ測ってたわけだし。
で、4年たったら夏至の日がズレるんだわ。
そこで、一年って365日よりちょっと長いことがわかるわけで。
まあ打ち首だわな。
で、4年で一日ズレることがわかってきて、四年に一日ズレるってことは、365日と1/4日くらいが一年?じゃあ365.25日?
かと思いきや、やっぱりズレる。
困るじゃん。
そんで、たぶん思いつくんだわ。
どういうスピードでどういう軌道で回ってるのか気になるじゃん。
地球の公転周期と月の公転周期と、軸が一周ごとにどんだけズレてくかの最小公倍数で日食とか月食がおきるわけだし。
そうすると、太陽のサイズと地球のサイズ、太陽から地球までの距離知りたくなるじゃん。
まずは、そんなかで一番易しそうな地球のサイズから取り掛かるじゃん。
とりあえず円周率いるじゃん。
円周率の求めるのに、とりあえず、幾何学発展させて正多角形つくるじゃん。
そんなこんなで、円周率を下10桁くらい求めたり、地球のサイズがわかったり、一年の長さがわかったりしたんだわ。たぶん。
そうするとだ、毎年種まきの日がわかるじゃん。
それまでは、熟練の農夫の経験で暖かくなったら種を蒔くと、そういう農業だったのが、
「何月何日から何月何日の間で晴れの日に蒔く」
って素人でも種まきの時期がわかるようになったと思うんですよ。