はてなキーワード: 屁理屈とは
先日、外食した時に、魚料理をひとくち食べて、首を傾げ始めた。
それなりに良いレストランだったので、何か問題があったのではないかと、店員さんが来てくれた。
「いえ、おいしいです」と妻。
店員さんが離れた後、なんで首を傾げてたのかを尋ねると、
「何の魚なのかな、と思って」だそうだ。
まずかったのならともかく、美味しかったのにその態度は失礼だよ、と諭すと、
こっちは客でお金を払っているのだから、どう食べようと自由だ、
会話の内容に首を傾げたのかもしれないのに、いちいち気にするのがお節介だ、
生きてれば首くらい傾げる
とごね始めた。
なお、普段の妻はこのような考えは持っておらず、言い負かされそうになるとキレて屁理屈を言い出す。
キレられると面倒なので、この話題は早々に切り上げた。
でも、今になって、自分の捉え方がおかしいのか、気になってきた。
飲食店で お客さんが首を傾げていたら、
似非科学というのはいつの時代もなくならないものだ。パッと思いつく例だけでも、血液型性格診断、ゲーム脳、環境ホルモン、水素水、マイナスイオン、等々、枚挙に暇がない。多くはマスコミによって支持され、テレビ番組で特集が組まれ、その科学的根拠があいまいにも拘らず世間に流布されて浸透する。テレビ番組などはあたかもその説を「検証」しているかのような映像を作り、怪しい肩書の専門家のコメントを添える。視聴者の多くはなんとなく「科学的に証明されている説なんだ」と信じ込み、疑問を持つことなく受け入れてしまう。一億総白痴化社会の完成である。最近はネット上で多くの意見を比べて読むことができるので、情報収集能力の高い人たちはそこまで騙されやすくないとは思うが、未だテレビや新聞が主な情報源である人たちにとっては、上述の似非科学が今でも信じていることが多い。特に血液型性格診断などは、宗教のように信じ込んでしまっている人も相当数いるだろう。
私も子供の頃はこれらの似非化学に騙されやすい人間だった。最近はほとんど見ないが、昔はテレビが娯楽の中心だったこともあり、夕食時などはよく見ていたものである。特に、捏造問題で打ち切られた「発掘あるある大事典」などは、親が好きだったこともあって毎週見ていた。その中で血液型性格診断の特集を何度か行っていたことは、今でも何となく覚えている。番組の中で「数名の幼稚園児を血液型別に分類してその行動を観察する」という検証が行われており、ものの見事にその血液型の特徴が行動として現れていた。見ていた私は「やっぱり血液型と性格には関係があるんだなー」とぼんやりと納得していたが、今になって思い返してみれば数名の幼稚園児の行動で結論を出すのは早急すぎるし、番組が「○型かつ××な性格」の幼稚園児を数名集めることなど造作もないことだし、そもそも集められた幼稚園児の血液型が本当に表示通りだと証明する根拠は何も無い。極めつけはあの「あるある」である。そういえば「あるある」はマイナスイオンの特集も何度かやっていた記憶がある。まあ、放送内容の真偽を検証するのは今となっては不可能に近いことだからやめておくにしても、心理学会において血液型性格判断の真偽は何度も検証されており、いずれも関連性を肯定するものがないことから、かの理論が出鱈目であることは疑いようがないだろう。
しかし、科学的価値は小指の爪の垢ほどもない血液型性格診断であるが、この似非化学が私に教えてくれたことが二つある。それは「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」ということと「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」ということだ。付け足すなら、当時私はまだ純粋なティーンエイジャーだったので、「大人は平気でうそをつく」ということも学んだと言えよう。
私が初めて血液型性格診断を反証する意見に触れたのは、中学二年生のことだったと記憶している。当時別段読書が好きでもない(むしろ嫌い)だった私が、たまたま休み時間に図書館に立ち寄り、ふと目に留まった一冊の本を手に取ったのがきっかけだった。それは村上宣寛という方の著書『「心理テスト」はウソでした。受けたみんなが馬鹿を見た』(2005、日経ビジネス)という本である。新作であったこの本は本棚の上に表紙が見えるように立てられており、そのセンセーショナルなタイトルに興味を惹かれたのを覚えている。
10年以上前に読んだものであるためにうろ覚えな部分もあるが、本の内容は大きく2つに分かれていた。前半が血液型性格診断への反論、後半はまた別の心理テストへの反論が主であった(後半の内容は忘れた)。本文の中で、今日の血液型性格診断の源流である能見正比古氏の著書をけちょんけちょんに貶し、また血液型性格診断のような「占い」を人に信じ込ませるための心理テクニックである「バーナム効果」についても詳しく説明があったと記憶している。
当然、本の内容は著者の考えであり、本の内容が絶対的事実であるとは(今となっては)思わない。しかしこの本の内容は、血液型性格診断が科学的根拠のある学説だと何となく思い込んでいた私にとっては、とても衝撃的な物であった。血液型性格診断そのものというより、これまで固定観念的に信じ込んでいた常識が、脆くも崩れ去った瞬間で、まさしく目から鱗であった。活字嫌いな私が、数日図書館に通って本を読んだのは、(マンガ喫茶を除けば)後にも先にもこの時だけであろう。「借りて読めよ」と言われるかもしれないが、当時の学校図書館のルールで、新作は借りれなかったのである。
新しい知識を得たら人に言いふらしたくなるのが能のないアホウドリの常である。当時は全盛期こそ過ぎたものの、血液型性格診断は世間一般に根付いており、それを否定する論調は(少なくとも大手メディアでは)ほとんど存在していなかった。要するに「他の誰も知らないことを自分だけが知っている」ような状況だったのだ。腕のケガだと偽って毎日手に包帯を巻いて通学していたリアル中二病の私にとって、これほどドヤれる材料は無い。とは言え、何の脈絡もなく血液型性格診断の話をするのも変である。友人との会話の中で血液型の話が出てくるのを待ち、出てきた瞬間にこれでもかと否定する。それによって「頭が良い奴」と思われて皆からちやほやされる。正に完璧な計画だった。
ところが、実際に反論してみたところ、いずれもあまり芳しくない結果に終わってしまった。どや顔で血液型性格診断を否定しても、「でも何となく合ってる気がするし…」と、決まって歯切れの悪い反応しか返って来ないのである。挙句教師からも「屁理屈ばっかりこねるな」と言われる始末。今となってはどちらが屁理屈なんだと思わざるを得ないが、確かに思い返してみれば、血液型の話でわいわい盛り上がっている時に、キモいデブがどや顔で否定して来たら、場が白けてしまうのは明白だろう。要するに私の敗因は、イケメンではなかったことである。
冗談はさておくにしても、それ以降、私は血液型性格診断の話が出てきた時、余程仲の良い間柄でなければ、ニコニコして受け流すようにした。まさに2017年現在でも血液型性格診断肯定論者の方が言うところの、「否定する奴はモテない」という説を支持する対応であった。情けないとは思うが、当時ただでさえ友達が少なく、これ以上周りから孤立するようなことは避けたかった私を責めることなど出来るだろうか。ちなみに今は目上の人でなければそれとなく否定している。相変わらずチキンであった。まあ、事実は事実として、TPOに合った会話合わせというのは必要だと思っている。
そこで私が学んだことが、先の「人間は客観的事実よりも自分が信じたいものを信じる」「何かを信じ込んでいる人間を説得しようという試みは大抵徒労に終わる」の二つだ。血液型性格診断を信じている人に、上述の心理学会の話や、バーナム効果の話をしても、決まって返ってくる言葉は「でも何となく当たってる気がする」「私の周りでは当たっている」と言ったものだ。査読のある学術誌に投稿された数千人規模の調査結果よりも、自分の身の周りの数名の事例を優先するのである。当然その事例には得てして強い確証バイアスが掛かっているのだが、本人はそれに気付くことができない。「客観的事実よりも自分が信じたいことを信じる」典型例である。
これは、似非化学に限らず社会の中のあらゆる現象に対して言えることである。例えば昨今、「若者の○○離れ」という言葉をよく耳にする。○○の中には、テレビ、新聞、車、バイク、酒、読書など、ありとあらゆるものが入り得る。そして、その原因は大抵若者に帰着させることが多い。「最近の若者は人との関係が希薄だから酒を飲みながらのコミュニケーションをしないのだ」とか、「世間や政治に対して無関心だからテレビや新聞を見ないのだ」とか、とりあえず若者を悪者にするような結論が多いが、決して「社会の変化によってニーズも変容し、製品価値が相対的に下がった、すなわち製品自体が時代の変化に追いつけなくなったのだ」といったような、自らに責任を帰着させることは決して言わない。やはり自分が信じたいことしか信じていないのである。
また、血液型性格診断を信じている人の共通点として、否定しようとすればするほど攻撃的になって反論するというものがある。先の中学生の時の教師がその典型例だろう。理論的な反論が出来なくなると「屁理屈をこねるな」と論点をずらして逃げるのである。「否定する奴はモテない」というのも同様で、血液型性格診断の真偽について反論しているのに、「モテるモテない」の話にすり替え、さらに相手を「お前は場の空気の読めないモテない人間だ」と罵倒しているのである。そうなってしまうと、もはや冷静な会話は成り立たない。こちらがいくら事実を述べても、返って来るのは罵倒だけであり、最終的に相手が逃げてしまうのである。そこに残るのは無駄な時間の浪費と徒労感だけで、何ら生産性のない労力を費やされることになる。
こちらもやはり社会全般で言えることだ。例えば「若者の犯罪はゲームやアニメによる影響だ」などの持論を展開する人に、「若年層の犯罪率は年々下がり続けており、反対にゲームやアニメの市場は伸び続けている。」と反論しても、恐らくその後は謂れなき若者批判と罵倒くらいしか返って来ないだろう。論理的な反論を受け入れられない人間にとっては、実は事実などどうでも良く、会話を勝ち負けを決める手段としてしか考えていない。そして自分が負けるのが嫌だから、最後は子供のような罵倒に終始し、逃げてしまうのである。こういった手合いは、「自分の非を素直に認められない」ことも共通点と言えるだろう。人間であれば誰しも少なからず負けず嫌いな側面は持っているが、この手の人間は特にその傾向が強い(と何の統計的データもなく私の主観でそう思っている)。
似非科学のような嘘を信じ込んでいる人は、宗教の信者に近い。もちろん宗教を否定している訳ではない。宗教というものは、「事実か否かを証明する術がない」にもかかわらず、「否定は許されない」というのが特徴である。これ自体は別に悪いことではなく、「鰯の頭も信心から」と言うように、それを信じることによって本人の精神的支えとなるのであれば、それで良いと個人的には思っている。客観的に証明できなかったとしても、個人の中で信じていれば問題はないのである。ただし行き過ぎると他者に対する不寛容に繋がり、戦争や弾圧に容易に発展してしまうため、注意は必要である。仏陀とキリストと「顔を描いてはいけないあの人」の誰が一番偉いかというような論争は、決して行ってはならないのである(仏陀とキリストが同じアパートの一室で生活しているマンガはあるが)。
「宗教」と「似非科学」の明確な違いは、前者は「事実かどうかわからない(事実であることに重きを置いていない)」のに対し、後者はそれが「明確な嘘」だということである。明確な嘘を流布すれば、社会に対して損害が生まれる。血液型性格診断であれば、近年問題になっている「ブラハラ」なる差別を生じる。ゲーム脳であれば、本来何も悪くないゲーム会社が風評被害を受ける。水素水であれば、医学的根拠のないただの水を健康に良いと信じ込んで高額な値段で買わされる消費者が現れる。そして、損をする人の裏側では、他者を騙して得をする悪人も存在しているのである。大抵は嘘っぱちの本を書いた奴とその取り巻きだ。
だからこそ似非化学は撲滅しなければならないし、似非化学の考案者やそれを流布するメディアは批判されなければならない。日本は表現の自由が保障されているから何を言おうと自由であるが、それはあくまで公序良俗に反しないことが前提であり、嘘によって不正な利益を得るのは詐欺である。表現に対して批判を行う自由もあるのだから、客観的に見て明らかに事実と異なる論説に対しては、毅然とした態度で批判すべきである。
そして、一般消費者である我々は、常にその情報が事実であるか否かを見極める努力が求められる。媒体を問わず、メディアは平気で嘘をつく。他人に言われたままのことを信じる人間は、その情報が誤りであった場合に他人に責任を求めがちである。何が正しいか自分で判断し、自分の責任において選択する力こそが、情報化社会を生き抜くために必要なスキルと言えるのではないだろうか。
例えばさっき「再投稿は甘え」という増田を見た。「甘え」が良くない意味で使われているのだなということはわかる。「鬱は甘え」とかの「甘え」と同じだろう。この「甘え」は人を非難するとこに使われるのだと思っているが、例えば「鬱になるのは悪いことだ」とか「再投稿するのは悪いことだ」というのはニュアンスが違う気がする。もっと限定的な意味合いがあるはずだと思う。単に「悪い」と言っているのとは違うはず。
「言い訳」に関しても「そんなの言い訳だ」といえば、言い訳をした人を非難する言い方だと思うが、辞書に載っている意味どおりに「弁明」と解釈すると、非難にならない。どうも、「その弁明は適切ではない」と言いたいのではないかという気がするけど、そういう時は「言い訳になってない」という言葉が使われる気がする。
子供の頃こういうことを親に聞こうと思ったことがあるような気がするけど、「屁理屈はやめなさい」と言われている情景が頭をよぎった。
誰か教えて。
久々にダークナイト見たんだけど「ビギンズで『殺さないけど助けないよ』って屁理屈かましてそれを良しとしたのがテーマ上ジョーカーの命すら救わなきゃいけない事と整合性取れなくなってる」ってのと
「この世界中のクリエイターに影響を与えたラストシーンの後に待ってるのはライジングのニートみたいなブルースなんだな」って部分以外は最高に緻密な映画だったのでダークナイト以外要らない感あるな
少し前に
なんて言ってた人がいますけど
あなたも1回考え直せと言いたい。
活躍できねーじゃねーか。
活躍しなくていいです。
だってお母さんでしょ?
どうして欲張るの?
どうしてひとりだった時のように
働けると思ってるの?
お母さんにもなりたい。
でも仕事でこれまで通り成果も出したい。
欲張りだとは思いませんか。
働くなとは言わないけど
これまで通りは無理です。
お母さんはあなただけ。
目の当たりにする私達としては
そこまでして手に入れなくてはいけない
疑問に思います。
わが子が初めて歩く瞬間よりも
仕事が大切なのでしょうか?
屁理屈に思われるだろうけど
世の中には色んな事情で
感じることはできません。
じゃあその人たちに少し譲っても
いいんじゃないかな。
あってか、本当に仕事をしなくては
食べていけないような家庭は
平均より少しいい生活がしたい
そんなお母さんが多いです。
仕事しているので
ないと自信を持って言えます。
母親、家庭の力には及ばないと
痛感するのです。
それでも、
取り続ける母親たち。
週に5日みっちり働いて
平日休みの1日くらい
リフレッシュ休暇取りたいと
毎週毎週リフレッシュして、
リフレッシュするのでしょうか
ありませんが、
気を遣い、疲れます。
辞めたくなります。
人に死ねだなんていう前に
自分自身を振り返るべきなのでは。
保育士としては失格かもしれませんが
乳児保育に反対です。
それくらいでちょうどいいのでは
ないでしょうか?
そのうち着信音が流れただけでも搾取とか言ってくるんだろうね。
そういう屁理屈を仮に通すとしても「女が戦ったりするアニメばかりが増えて、男が戦う姿をほとんど見なくなった」は虚偽だったな。
家では女が強い(屁理屈)
40年以上前のキャラがモチーフなので現代の作品とは言いがたい。
生身で戦うのは女
見てないので保留
男女とも戦う。戦闘員男女比2:1
アシガールと記憶が混濁してるのだが、女の子がその武将たちをむしろ助けようとしてなかったろうか。
男女とも戦う。戦闘員男女比7:4
男の子強い
高校生の頃から生理が重くて、生理痛も酷かった。でも当時からそれが普通だと思ってたからかれこれ5〜6年間ずっと放置してたんだけど、この間酷い腹痛で倒れて、婦人科で検査した結果卵巣に5cmを超える腫瘍が見つかった。現在は薬を処方してもらって症状を抑えつつ腫瘍が良性か悪性かの結果待ち。
だけど正直かなりあやしいみたいで、手術はほぼ免れないと思っておいてくださいとも言われてる。それと私はまだ20代っていうのもあって可能性は現時点で一割程度らしいんだけど、万が一癌とかの深刻なものだった場合、私が希望するなら卵巣を温存したまま切る方法より再発の恐れが少なく完治がより見込める全摘出も選択肢に入れられる…とも言われた。
上でも書いた通り私は高校生の頃からひどい痛みに苦しんできたこともあって、自分が少しでも楽になれるなら再発の可能性のある温存は選ばないで迷わず全摘出を希望したいと思ってるんだけど、親と祖母から滅茶苦茶反対されてる。
それぞれの反対意見
親
・子供を産めない人生なんて可哀想、お母さんになれない女性はきっと不幸
・若さゆえの呑気な考えのために将来を棒に振ってほしくない。いつか絶対に後悔するから止めてほしい
・家のために子供を産むのは長女の義務。それを放棄するなんて親不孝、恥知らず。
・お前は何のために女として生まれたのか考えろ。石女なんて女失格、妻失格。私は自分の孫がここまで自覚が足りないと知って恥ずかしい。
・社会の為、国の為に子供を産むのは女性の義務。それを果たす為なら少し辛いぐらい我慢できないのか。私が若い頃は女性なら普通の考えだった。家族の前でそんな我儘を言えるお前はおかしい。
ばっかじゃねーの?????
親のはまあ、痛さとか知らないなら普通はそう思うのかもね、とも考えられないこともないけど祖母の考えは流石に腹が立つとかを通り越して気持ち悪いわ。私はあれか。子供産む機械か何かか。血縁とか家がそんなに大事か。国の為に産めよ殖やせよって躍起になってるけど私はいつ国の家畜になったんだ糞ったれ。自分の命を縮めてでも国や社会の為に子供作る事がそんなに偉いか。そんなに立派か。馬鹿馬鹿しい。そんな時代遅れのつまらん思想に私を巻き込むな。押し付けんな。
それに、私としては全摘出しても後悔しない自信はあるつもり。私は男性が苦手だから、結婚や出産なんか経験しなくても何だかんだ楽しい人生を送れそうな気がする。私はそんなつまらないものより友達が一番大切だと思ってるし、それが私の価値観なんだからたとえ親でも家族でも正しいとか正しくないとか言うのは全く以って無意味な事だと思ってる。そもそも言われる筋合いなくない?とも。でも祖母にはそれがわからないっぽい。祖母がというか、向こうの言い分を信じるならあの世代の方にはまず理解できない事みたい。事あるごとに話し合いをしてるけど、なんというか言葉の通じない、宇宙人とかを相手に話している気分。
ゆーて昔から祖母に反発したり違う考えを主張すると例えどんなに筋を通して話したつもりでも屁理屈と見なされ馬鹿なやつだと笑われるか、なんだその態度は!叩き直してやる!とか言って殴られたり風呂場に押し込まれ冷水をかけられたりするのが常で、祖母を特に怒らせた時は親族が集まる場で尾鰭はひれつけて誇張した私がいかに悪い振る舞いをしたかの話を吹聴されて針の筵になりながら年長者達から集団で説教、祖母のとこに頭を下げに行かされるって流れが普通だったから今更祖母の反対を押し切る方法とか親族、特に年長の人達の批判を黙らせる方法なんか知らない。そんなん持ってない。
まあ、どんなに話し合っても意味がなさそうだったらたとえ深刻な状態のものであっても諦めて周りのお望み通り温存してもらう事にするし、最悪癌化とか悪化したらしたで別に死んでもいいかとは思ってる。どうも自分の孫が命を落とすことより卵巣取って石女になる事の方がよっぽど後悔するみたいだから、そりゃあさぞ悔いなく看取って下さることだろうと思うんで。