はてなキーワード: 宮沢賢治とは
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ただ輪るピングドラムは完全ネタバレしていくともう少しいろんな事象を混ぜている。
視聴者層が若かったのではないか。今年開かれた原画イベントに行くと当時十代後半だった層が殆どだったので…多分見終わってから調べた層が殆どではないかと。
しかし2021年になってしまい、新規視聴者が増えても、時代背景からの作品理解がどんどん難しくなっていて、当時のブログや考察もなかなかたどり着きにくいなと感じている。
一応ピンドラ考察代表例としてだされている「ピンドラがモチーフにしたもの」についていくつか触れておくので、全くわからなかった人はこのあたりをヒントにしたらいいと思う。
■95というモチーフ
1995年のことだ。バブルは崩壊したが残り香がある時期。世間は2022年のように混沌としている。当時の混沌から勢力を拡大したのがオウムとする意見が主流だ。
モデルの事件として地下鉄サリン事件、は勿論なのだが、この年にはその前に「阪神淡路大震災」が起こっている。
村上春樹の「かえるくん、東京を救う」が劇中に出てくるが、これは短編集「地震のあとで」に収録されているその震災の話だ。
同じく村上春樹の「アンダーグラウンド」というサリン事件被害者インタビューの本がある。
この2冊は作品構造とも密接に関わっているので、考察するには要チェックだ。
作中で出てくるキーワードだ。
これは神戸児童連続殺傷事件(1997年)の犯人が出した犯行声明に書かれていたキーワードだ。
この件に関しては同監督作品の「ユリ熊嵐」の方が直球で投げていたかも。
■カレー
98年に起きた和歌山毒物カレー事件について思わせるシーンがいくつかある。
アニメ冒頭から語られる話であり、ピンドラを考察するならまずこれを読めというものでもある。
登場人物の名前から、関係性、台詞などアニメの構成自体のベースにあるものだ。
ただもう一つ踏み込むと、宮沢賢治が宗教観で父親と対立していたこと、岩手に「ユートピア」を作ろうとしていたこと、病弱な妹を溺愛していたことなど、彼の人生も重なる部分があるので調べてみてほしい。「自己犠牲」についても同じくだ。
聖書などを匂わせる描写もあるが、それも宮沢賢治の独特な宗教ルーツから連想したと思われる。
幾原監督の根本的な怒りの部分がここにある思われる。1964年生まれの監督なので、そのあたりを踏まえてみるともっと考察が生まれるはずだ。むしろその世代に語ってほしいとさえ思う。
■南極物語
銀河鉄道の夜と並行してこのストーリーが組み込まれている。こちらも登場人物に名前に注目してみてほしい。
■リンゴの受け渡し
この辺は有名な考察なのだが今から視聴する人がこの考察にたどり着けるか心配なので、一応触れておく。検索したら出てきます。最終回後にどうぞ。
まあまだ考察は山ほどある作品だが、このあたりを検索していけば他の考察も目にするだろう。youtubeとかにもあがってたりするので。
本作の見方で個人的におすすめなのは「分からなければ一旦ネット上で溢れている考察を鵜呑みにして見直すこと」で、その上で「それは違うんじゃないかなー」ってなっていくから…
やっぱ「生存戦略ー!ハイレグ!」で釣られて気軽に見れる作品ではないなという印象はずっとあります。導入すげー軽いんだけどな。怖いんだよなそこが。愛の話で片付けちゃうと宗教っぽいよね。総括すると愛の話なんだけどね。
あと総集編の新録パートがまたどう転ぶのか難しくて、そのへんも考察を待っている。この記事見るのはこのアニメのファンだろうから「それは違うよ」という意見ならどうぞ語ってほしい。議論こそピンドラだ。
2011年に発表された幾原邦彦監督の深夜アニメ「輪るピングドラム」について、どうしても触れなくてはならないタイミングになってしまった。
この作品を知っていたら理解してもらえるだろうが、基本的にネタバレ厳禁アニメなので、なかなか触れにくい部分が多い作品だ。
純粋に良作アニメとしてみたいだとか、来週公開の後編までネタバレを踏みたくない人は以下読まなくていい。
今作はオウ厶(をモデルとした)信者の子どもたち。つまり二世である三兄妹が主人公であり、彼らの親は地下鉄サリン事件(らしき事件)を起こした実行犯であったのだ。(ここまでが劇場版前編の内容)
とんでもない作品だ。少女漫画風の絵に耽美要素と行き過ぎのギャグを混ぜ込み、詩的な感情描写を丁寧に描いて、ピクトグラムのモブたちが背景にうつしだされ、視聴者を中盤まで騙し、後半の答え合わせから伏線を一気に回収する。
村上春樹や宮沢賢治をモチーフにしてるので好きな人は見てほしい。
説明すると不思議だが、ベテラン監督がやるものだからしっかりまとまっていたのだ。後にも先にもこんなアニメが無い(同監督作品を除いて)
この時期と切っても切れないのが東日本大震災。ピンドラは震災の影響でキャッチコピーや脚本を「書き換えた」らしい。
その後まあ円盤が謎に延期したりはあったが、深夜アニメがここまで一般化してなかったので、知る人ぞ知る系に落ち着いたと思う。(再放送のたび話題にはなっている)
それから7年後。
・2018年7月6日、オウム真理教教祖の松本智津夫の死刑が執行される。
その翌年、十周年としてピンドラの劇場版企画があがる。クラウドファンディングで一億円以上集まる。
コロナで色々ずれ込んだのか?
11周年の今年、新シーンを含んだ総集編が劇場公開されることになった。
・2022年4月29日 劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [前編]君の列車は生存戦略 公開
悲しいことに公開前4月13日、ロシア軍がウクライナにサリンを撒いたとの報道が出る。
そして……。
・2022年7月22日劇場版 RE:cycle of the PENGUINDRUM [後編]僕は君を愛してる
安倍氏暗殺の犯人はカルト宗教の二世だ。家庭は崩壊していた。三人兄妹らしい。
アニメの三兄妹のうち一人は病気の妹を救う金のために組織と縁を切れずにいた。そしてラスト、テロに加担する。
タイミングは完全に偶然だと思う。でもあの事件以来ずっと考えている。ピンドラの監督はオウムの「世代」が抱えた闇をその子世代に向けて作った。
きっと今回の事件は監督が想像できたように、いつか違う形でも運命として起きていた問題であり、救わなければならない対象を見過ごしてきた結果でもあるのではないかと。
おそらく劇場公開時期までだろうが各種配信サービスに現在ピンドラがアマプラなどで全話配信されている。興味を持った人は元気なときに見てみたらいいと思う。
最近、後編の公開を危惧する声があがっている。みんな見たいという声であり、上映はやめたほうがという意見はない。
今こそ向き合うべきだと思う。
宮沢賢治の本を読むとわかるよ
清廉なこころのあり方と幻想的な描写、というイメージで語られることが多い作家だと思うが、まだあまり作品を読んだことがない人で、このぐらいの理解でいたら、損をしていると言いたい。
宮沢賢治の良さは他にも、観察眼を突き詰めると対象への愛情とともに冷徹さを伴う好例のような、少し寒気がするほど容赦のない描写や、人を食っているとしか思えない異様な会話劇があって、これはサンドウィッチマンの文字起こしされた漫才を読んでいるのと同じくらい笑える。みんな読んだらいいと思う(『気のいい火山弾』『毒もみのすきな署長さん』がおすすめ)。
…
さて『ツェねずみ』だ。
これも宮沢賢治の短編で、ある種の人間とそれが引き起こす不幸のことを、他の文芸作品では触れた経験がないぐらい明らかにしており、衝撃だった。
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ツェねずみは要領が悪い一方で欲が深く、性格がねじ曲がっているので、誰かから親切を受けても、「もっと自分のためになるように優しくすることもできたのに、それを怠った」という考え方をするため、みんなから死ぬほど嫌われていた。
本来なら恩を受けた時点でプラス(という表現もアレだが)のはずが、工夫次第でもっとプラスにできたはずのことを、そうしなかったので実質マイナス、というのがツェねずみのロジックだ。
ツェねずみが自分の理屈をどう考えているのかは書かれていない。
宮沢賢治がここに意識的に言及していないのかはわからないが、明示されていないことが実に効果的だと思う。俺は、「最初は自分でもムチャな理屈だと思っていたが、言い続けているうちに世の中がこれで渡れることがわかったので、次第に正気を失ってきた」と読む。
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そんな中で、唯一ツェねずみに優しく接するものがいた。「鼠捕り機」だ。
宮沢賢治の作品では、物体でも機械でも平気で人格を持って話し始めてしまう。木の柱だとかバケツだとか、そういうものだ。
他の物体がツェねずみに嫌気がさして付き合いをやめていく中、鼠捕り機だけはツェねずみと仲良くしようとする。
その理由は、鼠捕り機が(宮沢賢治の時代でさえ)人間社会にはもう不要、という扱いになっており、邪魔者とみなされていたので、鼠捕り機も他に親しく付き合える相手がいなかったからだ。
鼠捕り機は自分に仕掛けられた魚の頭やハンペンを、あえて罠の扉を閉めないことで、ツェねずみと交流を持つ。本来的には殺される者と殺す者という構造であったはずが、ねずみの強欲(と狂気)、鼠捕り機の孤独によって、いびつな友好が成立する。
…
悲劇は、ツェねずみの尊大さに制限がかからなかったこと、そして、鼠捕り機の忍耐が特別優れていたわけではなく、通常の寛大さしかもたなかったことで生まれる。
ツェねずみは、相手が機械の本分を放棄して食べ物を与えてくれているという、ある種の奇跡が自分に起きていることに気づかない。この幸運をどん欲に消費し、さらに良い物を鼠捕り機に求める。相手をののしることさえする。
あるとき、鼠捕り機はののしられて一瞬われを忘れ、罠の扉をおろしてしまう。ツェねずみは閉じ込められ、お互いは本来の、殺される者と殺す者の関係に戻る。
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鼠を殺さない鼠捕り機、という存在は非常に奇妙だ。まともに生きにくい変わり者であると同時に、現代社会風で言えば「意識が高い」「キャラクターが立っている」という考え方も、できなくはない。
ただ、自分が変わっていることを自覚して、それを生きる上での背骨にしてやっていこうとすると破滅が起きる。
変わり者は、自分が変人だと知ると、まるでこれが一種の才能と考えたくなりがちだが(個性が重視されるはずの現代ではなおさら?)、実際は関係がない。世の中的には本当はなんの意味もないことだ。
なので、「変わり者として生きていこう」という目標は基本的に破綻するさだめにある。
社会からは、なんでもいいから普通にやってくれ、と要求されるし、より強大な理由としては、変わり者自身の中にもちゃんと「普通」の部分があるからだ(鼠捕り機でいう罠としての本分)。
社会と自らの内側の本性によって、人間は結局、まともに生きていかざるを得ない。鼠捕り機でいえば、優しかろうが意識が高かろうが、罠は罠らしく獲物を殺して生きていくしかない、ということだ。
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対象が親しい人間でも漠然とした世の中全体でもいいが、基本的に自我というのは、幸運をあり得ないものとして感謝するのをおこたりがちで、むしろそれを平時のベースとして、さらに豊かなものを求めようとする。
要求する相手が生身の人間だろうと、社会という概念だろうと、いずれにしてもこんなことはいつまでも続かないので、いつか破綻を迎える。
自分の望むものが度を過ぎていたので客観的には不幸でもなんでもないが、こういう「幸福を幸福として認識できないバグ」が心理に埋め込まれていることが、別の意味で「不幸」ではあるかもしれない。
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おそろしいような気がすることとして、ねずみと鼠捕り機のカップリングは、ある種の人間関係として、友人・恋人・家族同士の間で、思いのほかこの世で多く起きているような気がする。
たぶん社会のあちこちで、「自分には特別な才能があるから少し変わった生き方でもやっていけるし、罠としての本分を超克して目の前のねずみと生きていける」と錯覚した鼠捕り機と、「まあこれぐらいは相手に要求しても飲むだろう」と思い込んだねずみが、ある日双方のブレーキとアクセルをぶっ壊して悲劇を生んでいる。
また、俺が自分で感じたように、一人の人間の中にも、ねずみと鼠捕り機の両方が住んで同居している場合がある。宮沢賢治の『ツェねずみ』を、俺は『気のいい火山弾』と同じでサンドウィッチマンとか千鳥の漫才の台本とおなじくらいのつもりで読み始めたが、人間の本性と世界との関わり方の運命的な破滅についておそろしく冷徹に書かれていて感嘆した。すげえと思う。
…
難しいのはねずみと鼠捕り機の関係で、鼠捕り機は自分の忍耐が切れて相手をとって食ってしまう前に相手から距離を置いた方がいいと思うが、人間という存在の希望も美しさも、鼠捕り機が自分の本性を乗り越えたり、周囲から押し付けられた役割を放棄して世の中を意識的にサヴァイヴしていくことで描かれがちだということで、実際それに成功した人は素晴らしいと思うし、この辺は正直どうにもならんのかな、と思っている。
私が中学生の時、放映されていたアニメエヴァンゲリオンでは、ヒロインの一人アスカが男の子に「アンタ馬鹿?」って言い放っていたし、同じクラスの女子は援助交際をしていた。
高校に入るとギリギリルーズソックスが残っていたし(地方だった)その頃の女子高生は最強世代だった。
だけど女子高生の制服を着ている時代が人生で一番痴漢被害が多かった。
世の中のコンテンツはだめな大人の姿であふれていたし、事実援助交際をしていた女子高生にとって大人の男は金づるだっただろう。
20歳を超えた頃には、強い女たちがセックスについて明け透けに語るコンテンツが多かった。
やがて肉食男子草食男子なんて言葉が出てきて、最近の男は情けないなんて言ってる人もいただろう。
でも一方で女性向けファッション誌ではモテスタイルだの愛され女子だの。一生女の子宣言、女子飲み、女子会。
結婚できる女と結婚できない女の違いとはとか、婚活レポ漫画が流行ったり。
30歳になる前にはなんとなく結婚できるような気がしていたのに、そうはならないと気が付いた女性たちが、30までには結婚したい!となっていく。
同性代の「良物件」たちは自分たちより若い女の子や、負け組勝ち組の価値観の中で必死に成果を出した女性とすでに家庭を築いている。
そりゃそうだ。ミレニアル世代の女性は同年代の男の子を平気で傷つけるような言葉を投げたり、売春をしていたり、
女は強くあるべきをこじらせて、競争心をさらけ出して負け組勝ち組言い出す。
それがその世代のすべての女性の姿ではないけど、男性が恋愛に消極的になったり付き合いが結婚に発展しなかったりする理由としては十分じゃないだろうか。
同世代の男性はそういう女性像もインストールしているのだから。
だけど大概の既婚女性は、結婚は大人として身を固めることで、子供を産んで母親になることこそが女の幸せ、ということを悪気なく(時に悪意もありで)押し付けてくる。
私は結婚を考えていた恋人の男性と、30歳で死別した。長い時間をかけてそこから立ち直ってきた。
死別する前に私は職場が原因でうつになっていたので、それが悪化したから本当に長い時間がかかった。
外に出て人と会うこともできるようになって、何人かとデートもしてみたが、私に新しい恋愛はいらない、が出た答えだった。
この事情を、おいそれと人に話す訳にはいかない。内容が重たすぎる上に、この歳で結婚していない、恋人もいないとなると、かわいそうに思われてしまう。
確かに悲しくてつらい経験をしたけれど、今の私は幸せに暮らしている、ということがなかなかわかってもらえない。
今の私は、子供の頃憧れた仕事をこの歳になってやることができている。
環境は大きく変わったけれど、私の価値観はあまり変わっていない。
いつでも手元にあるものを大事にして、幸せを大事に噛みしめること。
できるだけ人を傷つけたり心配させたり悲しませたりしないこと。
私にこの価値観をインストールしてくれたのは、星の王子さまと宮沢賢治。
メインストリームを追えない、同世代のみんなと好みがどこかずれている、人が普通にできていることが自分にはなかなかできない、そんな今までだったけれど、
おかげで人は人、自分は自分という価値観がOSにしっかりインストールできたことは、随分と自分を生きやすくしてくれているのかもしれない。
久し振りにおかゆを炊いた。
ほぼ玄米だけで栄養を摂っていた宮沢賢治の頃とは違い、ごはんのお供はそれほど重要ではない。外食についてくると少し嬉しい、箸休めのような存在だと思っていた。
しかしおかゆの時は違う。ふやかしすぎてお水を足したりしているうちにどんどん増える。半合でもお茶碗で 3, 4 杯ある。そんな相手でも、豆皿に小盛りのお漬け物が戦い抜いてくれる。
はじめから塩味を薄くつけたのでは、こんなにも唾液は出ない。お漬け物という形になっているからこそ、塩味や酸味の存在感が最初から最後まで強く保たれ、お米を麦芽糖に導いてくれる。口内調味の醍醐味だ。
さらさら、ぽりぽり、するする、ぽりぽり。お漬け物をいただくためにおかゆがあるのか、おかいさんのためにお漬け物があるのか、そんなことを考える間もなく夢中になっているうちに空になる。
おかわりをよそい、ふと思い出して、パックされたコンビニ焼き鮭を取り出す。お弁当の定番、冷めていてもバッチ来いのごはんのお供だ。はい優勝。ただ昔と違って薄味なので、旨味を味わうものなのだろう。崩して混ぜ込み、ごまを振る。一口ずつではなく、ずずずとかきこんでみる。あー、うまい。味変というにはあまりに贅沢なバリエーションになった。
再度のおかわり。おなかも落ち着いてきたので、一杯目よりはゆっくりと、お漬け物自体を味わうようにかみしめる。しば漬け、うまいなあ。最後の一口はおかゆだけで。散々ほかの味と混ぜた後だが、いやだからこそか、お米っておいしいな、と思う。
なんとなく味覚がリセットされた気になった。日々の生活の中でおざなりになっていた食事が、また楽しめそうだ。明日は何を食べようかなあ。
これ結局「編集段階で指摘が出て表に出てこなかったかもしれない」っていうくらいの表現なんだよね。本を作ってるとこういう些細なバージョン違いがいくらでも出てくる。誰かが「絶対前のほうがいい」と頑張っても、出版側としては「いやーそれはちょっと…」となだめすかして変えちゃうの。もちろんそんなほんのちょっとのことで大駄作になる可能性はある。でも今回はそこまで大げさなものではない。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/shonenjump_plus/status/1422029631507427331
まるで表現の自由が死んだかのような怒りを表明してる人もいるけど、なんというか、ずいぶん酔ってるなあと思うよ。
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』はいろんなバージョンが比較研究の対象になったりするし、いまは学年誌ごとの『ドラえもん』第一話を読み比べるコミックスもある。本作も後世にはこの些細な変更による作品自体の毀損度合いというか完成度への影響が論じられたりする可能性はあるかもしれないが、せいぜいあまたある封印・改変作品の話題のツマにされる程度であろう。
自意識が肥大化して自国家の都合のいいところとだけ合体してる人、それをネットで開陳してる人ってことでいいんじゃないかなー。
自国家を冷静に見るとアラが見えてくるからそこは見ないし知ろうとしない。自国文化もやたら振りかざすけど詳しくないし、大事にもしないし。
だから短歌を35文字以内などと言ったり、沖縄の基地反対のテントに漢和辞典があったから中国人が絡んでるって言いだしたりするし(百田尚樹)、
「はたらけどはたらけど」を宮沢賢治の歌だと書いちゃったり(高須克弥)、
北方領土のためにロシアと戦争しないのかとのたまって怒られた時の丸山穂高に、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」をもじったエールを送っちゃったり(石井苗子)するんだよ。
日本の伝統的な風景をイメージさせたら田んぼと桜と富士山と鳥居くらいしか出てこないようなタイプ。
肥大した自意識が何に同化するかで名づけは変わってくるんじゃないかなー。それが自国なのがネトウヨだと思ってる。
自意識が肥大化するきっかけはどんな人にもあるし、どんな属性を持っているかではなく「何を拠り所とするか」で決まると思ってるので。