今回の芦原妃名子先生の件は業界にとっての重大な転換点だと考える。
例えば暴対法を作るきっかけとなった山下事件のようなものである。
実際のところ暴力団ではないので法律規制が動くことは難しいが、改革、ルールづくりが必要だ。
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まず協会を周知させる。
弁護士、独立した編集者、森川ジョージ、里中満智子等で知名度を持って安全なセミナーと認識させる。
ちゃんと顔出ししている有名作家が呼びかけをすることで、流行りのねずみ講みたいな変なセミナーに行く人を防止してほしい。
だから有志がyoutube等でHow to動画を作ってもいいかもね。『ゆっくりしていってね!』とかで。
グッズ化など何においても契約書を用意することを基本とすることを周知する。
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必ず紙の契約書を用意する。
そんなメディア化の際、作者にも守秘義務が課せられるので漏れるのが怖くて協会にも知人にも言えない状況が起きるだろう。
ただ自らの弁護士にならそれは伝えられるはずだ。
そこで漫画家協会やそこの支援をする弁護士がもっと必要である。
メディアミックスまでいく作品、作家は既に売れている場合も多く、今後売れる見込みもある。
顧問弁護士のようになれば、うまく行けば弁護料はしっかり貰えるだろうから良い商売になると思うし、おそらくもう動いている弁護士は多いだろう。
アデ○ーレ法律事務所あたりが「過払い金」から「メディア化契約」でCMしだすかもしれない。
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編集者はインテリではあるが基本オーバーワークなので意外と助かると思う。
「○テレさんそんなこと言っても…先生の弁護士が言ってましてぇ…僕らでは止められませんのでぇ…」で切り抜けられる問題は多いはずだ。
でもまぁ編集者もそのへんの契約文の知識は入れておく風潮にすべきだろう。
資格化、免許化してしまえばいい。資格取ったフリー編集者は商売になりそうだ。
ユーキャンの人気講座になるはずだ。
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しかし契約についてよく知らないタレントや権利者などをはぐらかす風潮がどうもありそうだ(芸能事務所の構造と似ている)
出版社の一部編集者も同罪である。もうそのやり方は通用しない。まず反省しろ。
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製作期間の話だ。
今回の田中さんの製作期間も短いと思ったが、ある新本格ミステリが3ヶ月前に映像化が決まった件を聞いたことがある。
新本格といえば鈍器本だ。シリーズ物だとしたら3ヶ月で読みきるのも大変だったりする。忙しい主演俳優など使ったら絶対読めない。
結果的にキャラやストーリーだけではなくトリックや動機にまで大改変が起きた。
テレビドラマ業界のスケジュールが明らかにおかしいのだ…。自転車操業すぎる。
映画だって企画から上映まで早くても2年くらいかけるが(それでも短いと思うときもある)日本のドラマ業界はいつまでもバブルのスケジュールで働いていやしないか。
働き方改革とかで少しは改善できたのなら、撮影スケジュールをもっと大幅調整しろ、今すぐに。
今すぐじゃないと、急にはできないんだから、いつまでもできない。
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事務所との信頼とかじゃなく探偵使って調査とリスクヘッジしとけ。
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脚本と脚色をはっきりさせろ。
いいじゃないか、オスカーの部門賞みたいでかっこいいだろ。なんか文句あるか?
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これだけじゃない。もっとやることはある。
件の関係者たちは調査という名の過去に向き合っていく時期だろうが…
これ以上悲劇を起こさないために今すぐにできることをしてほしい。
メディアミックスをするなと言ってるんじゃ無い。
改変するなとも言ってない。
無駄に揉める仕組みをやめろって言ってるんだ。
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おそらく何もかもがめんどくさくなった映像業界が、作者死去作品に手を付けだすころだろう。
つまり死だ。
ここでいわれるように「ライバルキャラは●●」なんてきめる商業漫画は
令和は多様性社会だし残ってるのは週刊少年ジャンプの頭の固い編集長んとこだけなんじゃないの
ピクシブコミックはじめとする電書だの、amazonKindleだのみても他はもっと自由な漫画作りしてるとおもう
(一応いっとくと上の商業漫画誌以外にも、アニメだの、芦原妃名子さんが苦慮していた実写テレビドラマあたりには
まだ当然のように女らしければ長髪、子供に親しみやすい丸顔といった基本の記号化はまだまだのこっているので
多様化を前提にして考えると巨乳キャラ嫌いな読者はそもそも掘るところまちがってる可能性もあるし、
b:id:ch1248にはあきれた。マジであきれた。
まずはここ。
「小松氏がこの評を読んだとき、深刻に悩んで後悔し、作品消したり、芦原先生の顛末みたくならないか気になってしまった……。/自分の評の影響は考えた?」
→読むの?
・深刻に悩んで
→深刻に悩むの?
・後悔し、
→後悔するの?
・作品消したり、
→作品消すの(消せるの?)
→そんなことになるの?本当に?
こんなふうに他人の行動を、「かもしれない」の連続によって、自分の言説に都合がよいように誘導して「最悪のときにこうなるから慎め」って、そんなことを言い出したら、何でもありだよね。
「あなたが現内閣を支持することによって、社会の変革を求める者が、いつまでたっても政権が交代しないことに対する絶望感を募らせ、ついには直接行動をおこして要人を殺害するといった、山上徹也の顛末みたくならないか?自分の影響は考えた?」
とか、
「核兵器の廃絶運動によって、世界から核兵器がなくなると、核の抑止力もなくなって、戦争が増えて、私の息子が徴兵されて戦場へ連れて行かれて殺されるということにならないか?自分の運動の影響は考えた?」
も、何でもありになっちゃうけれど?
人の死をにおわせることによって言論を掣肘するのは、ちょっと卑怯じゃないか?
「小松氏がこの評を読んだとき、深刻に悩んで後悔し、作品消したり、芦原先生の顛末みたくならないか気になってしまった……。」
芦原先生が亡くなられた本当の理由なんてもちろん分からないけれど、私たちに見えている事象としては、芦原先生は最後、
というメッセージを残しているよね。
これを素直に受け止めれば、先生の自死の大きな要因として考えられるのは、先生が脚本家に批判されたからでも、ネットでリンチにあったからでもなく(先生が被害を受けたことの苦痛ではななく)、
先生自身のブログが発火点となって、SNSのユーザーらが脚本家をはじめ関係各位に攻撃を始めて収拾がつかなくなったから(自らが加害の発端となってしまったことへの後悔)だと考えられるよね。
それを今回にあてはめていえば、むしろ心配すべきは、自身のエントリにブックマーカーどもが追随したせいで、結果として小松氏への批判だらけのブックマークページをつくってしまったid:whkrだろう。
一歩譲って、小松氏がブックマークページに並んでいる非難の文章を読んで気に悩むことを心配するとしても、釘を刺すべきはブックマーカーどもだろ。
をもう一度読んだ方がいいと思うよ。
私はid:ch1248をお気に入りにこそ入れていないけれど、私の敬愛する方がid:ch1248をお気に入りに入れているし、私自身もid:ch1248のエントリを何度も読んだことがある。
別に嫌いではなかったし、別にお気に入りに入れてもいいぐらいに思っていた。
ChatGPTで要約しといた
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小学館第一コミック局編集者一同の声明に対する批判的な見解を提供しています。問題の文章は、作家、読者、関係者に宛てたものであり、著作者人格権の問題を時系列や本質から逸らし、小学館自体の責任を隠蔽しようとする意図を持っていると批判されています。文章は内容が曖昧で、著作者人格権に関する認識の不足を後悔するというスタンスを取りながら、その実、本質的な問題から目を逸らし、責任を逃れようとしていると指摘されています。
批判の核心は、小学館がドラマ制作過程において、芦原氏(故人)の意向を適切に伝達・保護することに失敗し、その結果、彼女が心身ともに追い詰められる状況を招いたことにある。小学館の声明は、このような状況を矮小化し、誤解を招くような内容であり、本質的な問題解決に対して何の寄与もしない虚妄に基づいていると非難されています。
さらに、文章は芦原氏の言葉を捻じ曲げ、著作者人格権の問題にすり替えることで、小学館の責任を隠蔽しようとする不誠実さを示しており、このような姿勢が非常に問題であると強調されています。また、芦原氏への言及が、批判を避けるための手段として利用されていることも指摘されており、このような行為が非常に不適切であると批判されています。
最後に、この問題は小学館だけのものではなく、メディア化の過程における構造的な問題、テレビ局の体質的な問題、SNSの問題など、さまざまな複雑な要因が絡み合っていることが指摘されています。それにもかかわらず、小学館がこの悲劇を防げた可能性があるにも関わらず、問題を避け、責任を回避しようとした姿勢は批判されるべきであると結論づけられています。
面倒なので前段は省く。タイトルを見て「アレのことか」と分からない人はスルーしてほしい。
https://petitcomic.com/news240208/
この文章が一読して耐え難いほどに醜悪な理由を書く。以下、上記URLの文章について「本テキスト」と呼称する。
本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。だから気持ち悪い。
本テキストはそもそも内容が水のようにうすくあいまいだ。それでもなお、執筆者たちの「主張」を読み取ることはできる。
前半が「著作者人格権」について。後半が「小学館はドラマ制作サイドに芦原氏の意向を伝えていたこと」について。
順番に見る。
本テキストでは、まず「著作者人格権」について触れる。その後、「著作者人格権を守ろうとしたこと」を芦原氏が「恐らくめちゃくちゃうざかったと思います…。」と自己評価していたことを明らかにする。そして「私たち編集者がついていながら、このようなことを感じさせたことが悔やまれてなりません」と続く。
ポイントは、執筆者が「何を悔いているのか」だ。本テキストにおいて執筆者が「後悔」を明確に示しているのは、このくだりだけだ。これは非常に重要なことだ。
要約するとこうなる。
「著作者人格権という権利を周知させることができなかったために芦原氏に不要な自責の念を抱かせた。著作者人格権についての認識を広げることが再発防止の「核」になる」
この後に、「これだけが原因だったと単純化はしない」としつつも、あえて本文中に「核」なる単語を使用している以上、ここには明瞭な主張がある。
それは「本件がこのような悲劇に見舞われたのは芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったからだ。その認識を与えることができなかったことを悔いている」というものだ。
暗に「芦原氏は「恐らくめちゃくちゃうざ」いことを自分がしてしまった、という自責の念によって自ら命を絶った」と結論していることになる。
……なんだか、我々とはずいぶん違う世界観をお持ちのように見える。これまでの経緯を振り返って、こう結論するのは相当に無茶なのではないか。
彼女が本当に「ドラマに口を出してしまったこと」を自責した結果として死を選んだのであれば、1月26日以降の騒動はなんだったんだ? 彼女の死に、あの騒動は関係なかったということにならないか? なぜなら「ドラマへの口出し(=著作者人格権の行使)」は、12月時点で終わっていたのだから。
そんなわけねえだろ。馬鹿か。
ここには明らかに問題のすり替えがある。「著作者人格権をめぐる認識」に焦点を逸らし、本質的な問題から目をそらそうとすると極めて醜悪な論理の欺瞞があるのだ。
明らかに本件は「芦原氏が著作者人格権についてしっかり認識していなかったから」起きたことではない。
一連の騒動を振り返って「芦原氏が著作者人格権について深く認識していれば本質的に問題は起きなかった」と思う人だけが、本テキストに同意することができるだろう。
そんなやつ、どこにいんの?
誰がどう見たって本件は多岐にわたる複雑な問題が絡み合って、最悪の結末を迎えてしまった事件だろう。わかりやすい「核」なんてものがあるはずがない。
にもかかわらず、スケープゴートのように「著作者人格権」を持ち出して「核」として据えるのは、故人に対してあまりにも不誠実すぎないか。
素直に考えれば「何のための文章か」という問いに、ここで一度答えが出る。「作家、読者、関係者に「著作者人格権」を正しく認識してもらい、悲劇の再現を食い止める」だ。
つまりね、このテキストは「経緯説明」も「調査報告」も何もかもすっ飛ばして「とにかく「著作者人格権」を知ってもらえれば再発防止につながる!」という、何の根拠もない虚妄によって書かれているのだ。
ごくごくごくごく普通に時系列を追うだけで「著作者人格権をめぐる認識」が事件の本質ではないことは明らかなのに、だ。繰り返すが、論理的に考えてここが「核」なら1月以降の騒動は自殺に関係がないことになる。
ああ、めちゃくちゃ気持ち悪い。
なにが「事態を単純化させる気はない」だ。ここで行われているのは「単純化」などということではない。もっと悪い、明らかに事実関係と時系列を無視した、問題のミスリードだ。
そして、ミスリードした先にある「著作者人格権」を取り上げ、「本質に問題解決に対して寄与しない」とわかっていつつ、ここが再発防止の核であると述べる。
ここには「事態の再発を防ごう」なんていう真摯な態度は欠片も見られない。あるいのは「そういうことにしたい」という卑劣な思惑だけだ。
そうするともう少し穿った見方をしたくなる。
つまり「本件を「著作者人格権の問題」にすり替える」ことが、本テキストの目的だったのではないか、ということだ。
この「著作者人格権」にまつわるテキストの不誠実さだけでも、十分以上に気持ちが悪い。しかしもっとおぞましいのはこの先だ。
要約するとこうなる。
「ドラマに対する芦原氏の意向は、小学館がドラマ制作サイドに伝えていた。芦原氏は納得のいくまで脚本を修正した。ドラマは芦原氏の意向が反映されたものである」
本テキストを読めばわかるが、これに関する一連のセンテンス、どこか誇らしげでさえある。
正気で書いているのだろうか? 芦原氏の「言葉」を軽んじているのは、ドラマ制作サイドなのか編集サイドなのかわからなくなる。
芦原氏の意向は、よく知られている通り「原作に忠実なドラマ化」である。これが小学館からドラマ制作サイドに伝わっていたとしよう。その後どうなった?
(https://piyonote.com/ashiharahinako-twitter/#google_vignette)
ところが、毎回、漫画を大きく改編したプロットや脚本が提出されていました(略)粘りに粘って加筆修正し、やっとの思いでほぼ原作通りの1~7話の脚本の完成にこぎつけましたが…。
加筆修正の繰り返しとなって、その頃には私も相当疲弊していました。
(略)8~10話となりましたが、ここでも当初の条件は守られず、私が準備したものを大幅に改変した脚本が8~10話まとめて提出されました。
何とか皆さんにご満足いただける9話、10話の脚本にしたかったのですが…。素人の私が見よう見まねで書かせて頂いたので、私の力不足が露呈する形となり反省しきりです。(中略)原稿の〆切とも重なり、相当短い時間で脚本を執筆しなければならない状況となり、推敲を重ねられなかったことも悔いてます。
これは芦原氏が「小学館と時系列に添って事実関係を確認し、文章の内容も小学館と確認して書かれた」文章だ。
原作者である先生にご納得いただけるまで脚本を修正していただき
馬鹿じゃねえのか。芦原氏は「推敲を重ねられなかったこと」を「悔いて」いたのだ。「加筆修正の繰り返しとなって相当疲弊して」いたのだ。
その文章を確認しておきながら、舌の根も乾かぬうちに「ご納得いただけるまで脚本を修正していただ」いたとのたまう。本当に血の通った人間のすることか? ご納得いただけるまで脚本を修正するという作業がどれほど心身に負担をかけることか、わからない編者者でもないだろう。それを何を誇らしげに「わたしたちに落ち度はありません」と言わんばかりの態度で書いているんだ?
ここに事実を捻じ曲げる意図がまったくないとでも言うのだろうか。
そもそも「意向を伝える」ことは伝書鳩のように「言いましたよ」ということではあるまい。なるべく芦原氏に負担がかからないように交渉を詰めて、芦原氏が心身を疲弊させながら手ずから「修正」をしなくてもいいように、ドラマ制作サイドに「条件の履行」を求めるのが「意向を伝える」ことではないのか。ガキの使いじゃねえんだ。「ちゃんと言いましたよ」で責任を逃れるビジンスシーンがどこにある。
明らかにドラマ制作サイドに芦原氏の意向が「伝わっていなかった」から、彼女は修正を繰り返し、自らを追い詰めなければならないことになったんだろう。そこに「伝わるまで伝えなかった」小学館の責任はないのか?
無論、担当編集者やメディア担当者が「仕事をしていなかった」というつもりはない。担当者が誰よりも働いただろうし、想像するだに困難な局面の連続だっただろう。いまの心痛はいかばかりか。結果は最悪なものになってしまったが、それは決して現場の担当者たちを非難していい理由にはならない。
繰り返すが、現場の担当者個人の責任を追及せよと言いたいのではない。むしろ、それは決してやってはならないことだ。しかしまた同時に「頑張ったから」「努力したから」「不運としか言いようがなかったから」という事実は、決して責任を消滅させる理由にもならないのだ。
小学館に責任はある。絶対的にあるのだ。それは「著作者人格権にまつわる認識を周知徹底できなかった」ことなどではない。芦原氏の意向をドラマ制作サイドに理解させることができずに、結果的にドラマ制作過程において芦原氏を心身ともに追い詰める結果を招いたことについて、責任があるのだ。
にもかかわらず、そうした自らの責任にまったく目を閉ざし、ひたすら問題を矮小化させ、ミスリードしようとする意図が、行間に充満している。
それこそが本テキストが歴史的に気持ち悪い理由のひとつだろう。
書くまでもないことを最後に書く。
ここまで確認してきたように、本テキストは「作家の皆様 読者の皆様 関係者の皆様へ」あてた、「本事件を、時系列からも本質ではないことが自明である「著作者人格権」の問題へミスリードすること、および当の芦原氏本人の言葉を捻じ曲げてまで、本来存在するはずの小学館の責任を隠蔽すること」を目的としたものである。
その最後に付された言葉が、芦原氏への「寂しいです、先生。」だったことは、瞠目すべきだろう。人間どこまでも恥知らずになれるらしい。
この一文が本当に気持ち悪いのは、SNSで言われるように「TPOにそぐわぬポエティックなもの」だからではない。
欺瞞と自己保身のために芦原氏の言葉さえ踏みにじって醜悪なレトリックを駆使した挙句、そもそも本テキストの「宛先」でさえない芦原氏を「文章の結び」のためだけに泉下から引きずり出し、まるで批判除けのお守りのように利用してしまう、学館第一コミック局編集者一同の浅ましい精神性が悪魔濃縮されているからだ。
本件の内幕はおそらく当事者たちにすらもう分からなくなるくらい複雑化していることだろう。
小学館を悪者にして幕引きをすればいいという性質のものでもない。巷間指摘されているように、メディア化における構造的な問題、TV局の体質的な問題、悪意を増幅させるSNSというシステムの問題、他にも種々様々な問題が複雑に絡み合っているはずだ。
それでも、この悲劇を防げたプレイヤーの一人であるはずの小学館が、「ことなかれ主義の上層部」「責任回避の編集局」という内実を露呈していることは、必ず批判されなければならない。
騙されてはならない。
芦原妃名子さんの自殺で大騒ぎしたおかげで自殺が増えそうなのが確定的だよ
https://x.com/BitYoutube/status/1755889735153967277
私は死のうと考えています。中国籍の男性に、あるVTUBER事務所「H」を2022年に売却しましたが、この男性から脅迫と、2000万以上を未払い、そして4000万の泣き寝入りを強要されています
https://twitter.com/BitYoutube/status/1755903661480476821
もし私の小さい命で、少しでもこういった手口がある事が世間に知れ渡り、今後の被害が減るのであれば、それもいいかな、と考えてます。
あーあ。お前らが自殺によって社会的影響力を与えると希死念慮があるやつに学習させて、一歩踏み出すきっかけ与えちゃってるじゃん。
芦原先生がドラマ制作陣に対して「自分の意向が伝えられていると勘違いしていた」という可能性は?
『セクシー田中さん』第7巻冒頭には、2023年8月31日付で先生のメッセージが掲載されています。「原作の完結前に映像化されることに対してどのように向き合ったのか」について、こう言及されています。
〈まだまだ連載半ばの作品なので、賛否両論あると思いますが キャラやあらすじ等、原作から大きく逸れたと私が感じた箇所はしっかり修正させて頂いている〉
〈物語終盤の原作にはまだないオリジナルの展開や、そこに向かう為の必要なアレンジについては、あらすじからセリフに至るまで全て私が書かせて頂いてます。恐らく8話以降に収録されるはず。〉
時系列が——…この順番になってる事自体が証拠なのよ。よく考えてみてほしい…
こういう順番になってる事が、
の十分に簡潔な根拠になってる。
ドラマ化にあたって条件を出して、その条件を履行して関わることになった結果苦しみ、締め切りにも追われて疲弊し、出来上がったものも不評で、最後は自ら命を絶ってしまった。
「自己責任」と言うわけじゃないけど本来やらなくていい事をやった、自らが招いてしまった状況ではあるんだよ。
(だからこそつらい)
これはドラマ制作側視点からすれば、こちらの領域に原作者が自分から入ってきて、自分の決めた事で苦しんで命を絶ってしまい、その責任を取れと言われてる状態。
「自分の発言が結果的に信頼していた編集への攻撃に繋がったことにショックを受けた」みたいな物語を想像することもできますね。
SNS上では原作者以外の関係者はほぼ全員攻撃されてましたし。
「本来なら、脚本家がインスタで原作者の著作者人格権を毀損する投稿をした直後に小学館が抗議し、日テレが弊社の見解ではないと遺憾の意を表明し、脚本家が頭を下げて終わりなはずだったのに。未だに小学館は抗議しないし日テレは黙ってるし脚本家は逃げ出すし、原作者はもういないし。なんなんだこれ。」
https://x.com/sorachiakira/status/1755550581429805466?s=20
漫画家の芦原妃名子さんの死去をめぐり、X民、ツイッター民は働いたことがないのだろうかと思えるほど、1つひとつのありえないロジックをもとに積み上げれた意見が、幅広く共感されているという正義感の迷走状態にうんざりしている。
脚本家の相沢友子さんに日テレが、真実を伝えたら仕事を引き受けてもらえなさそうな面倒くさそうな契約だったら、詳細を伝えると思うのだろうか?これからモチベーションを上げていい仕事をしてもらわなければいけない相手に。脚本家は、芦原さんの条件を知らずに、脚本を書き進めたのだろうと思われる。
そして、脚本家の動きをめぐり、小学館が日テレに苦言を言うと思うのだろうか?
ドラマ化するのは年に50ということで、その原作を勝ち取れるかどうかは、苦境すぎる紙媒体の版元はノドから手が出てもほしがっている。それがあるかないかで経営の明暗が分かれるだろう。
今回の最大の問題は、紙媒体だけでは坂を転がり落ちている経営状況の出版社は、試聴者に向かって発信力のあるテレビ局の動向に左右されてしまうという不況構造と、テレビ局のもつ権力性にある。
日テレ側は、原作として使うことで、むしろ原作料を支払ってまで出版社の宣伝に協力をしたのに迷惑をかけられたというスタンスがあるだろうし、小学館側はそれを否定できない、漫画家と原作者の足並みをうまく揃えさせられなかったことをむしろ詫びねばならないような力関係と想像される。
本当醜悪
行き過ぎた資本主義も権威主義も、クールジャパンと言う搾取構造も全部自民が作り出した現状で、
それに対して疑問を挟まずに支持してきたのは壺ウヨカルト脳死儲で、
言い換えれば今回の漫画家を自殺に追い込んだ社会は壺ウヨカルト脳死儲達が作ってきた
それなのに、蓋を開けてみれば自分自身の愚行を反省することもなく、
お前等が自民に信任を与えて作ってきた社会が芦原妃名子先生を自殺に追い込んだんだ
お前等が殺したんだ、この殺人鬼が
今までの経緯のふりかえりと、今回何が起きたかお伝えしますね。
まずは何が起きたか振り返ろう。
※ソースがない、との指摘がありますが、「本人の証言レベル」ですがありますよ。事実ベースです。後で貼っておく。
・原作者はドラマ化にあたり「原作に忠実に描く」条件を出し、日テレと合意
・いざ開始してみると原作から乖離した脚本が毎回提出され、毎回大幅に修正する始末(1話から8話まで)
・原作者と脚本家は最後まで1度も会話せず、間にはチーフプロデューサー1人のみ
・原作死守という条件が一向に守られず、他の脚本家を探す時間も無くなったため、9話と10話は原作者が仕方なく自分で脚本を書いた…が、脚本は素人なので当然不評
・脚本家の元に9話と10話の不出来について視聴者から様々なDMが届くも、脚本家は「9話10話だけ原作者が書いた、私じゃない」とインスタで弁明
・さらに脚本家は「最後は原作者がワガママで書きたがったので、仕方なく協力した」と激怒してポスト
・脚本家のインスタを受け、原作者はブログにて「窓口はプロデューサー1人のみだった。そもそも原作を守る契約が脚本家に伝わってなかったのでは?」と暴露
・暴露ブログについて、ネット上では擁護の声多数
・その後、なぜか原作者は謝罪し、記事を削除してブログも閉鎖
・なぜか原作者「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい」とポスト
・原作者が自殺
・しばらくして2024/02/08、脚本家は「知らされていなかった」、小学館は「日テレには間違いなく伝わっていた」と暴露
https://petitcomic.com/news240208
小学館編集のお気持ち表明記事について批判するつもりはありません。
最後の一文「寂しいです、先生。」についてはXでトレンド入り。「打算的で女性の共感を求める戦略的コメント」などとバッサリ切り捨てた投稿がバズっていましたが、この編集は長きにわたり深い信頼関係があったようなので、救えなかった自分の無力さを嘆き感情を吐露したとしても不思議ではありません。
また、この記事では日テレとのやりとりに関する経緯について説明不足ですが、「編集として」のコメントなので致し方なしかと。
https://www.shogakukan.co.jp/news/476200
組織として検証すると宣言されたのは大きな進歩ですが、結果は公表するということですね?
この2週間何やってたのかわかりませんが、それではみんなで結果の公表を待ちましょう。
第三者検証でないと意味をなさないのですが、一歩前進かと思います。
芦原妃名子先生がが亡くなられてから二週間強、先日(2/5)以下の記事がバスっていました。
■小学館が『セクシー田中さん』に関係する記事を削除したことについて
https://anond.hatelabo.jp/20240205173407
穿った見方をすると、この記事がバズったから「もう精神的に無理です、コメント出させて」と小学館上層部に泣きついたとも推測できます。事実は不明ですが。
衝動的に記事を消すのは不要な疑念を招くことになります。恥ずかしいことがなければ堂々としていればよいのです。
しかし、はてな匿名ブログがバズらなかったら、ひょっとしたらこれらのコメントは出なかった可能性があるのでしょうか。
全部推測ですが、そうだとしたら恐ろしい話です。
え?それってやばくないですか?
終わってない?
今回のコメント表明は、脚本家と小学館が歩調を合わせて公表されています。
つまりタッグを組んだ「日テレに対する徹底抗戦」にも見えるのです。
脚本家は「何も聞いてなかった」と言い、小学館は「日テレにはしっかり伝えていた」と言う。
それに加え「原作者と脚本家の間に入っていたのは日テレの人のみ」だと原作者がブログで暴露していたことを考慮すると、
自ずと「日テレが原作を守るという約束を反故にし、好き放題コントロールしていた」ということになるのですから。
ずっと沈黙を貫くのも流石に無理があるでしょう。
今後の日テレの動向に注目が集まるところです。