はてなキーワード: 多世界解釈とは
オーストラリアのSF作家グレッグ・イーガンの信者です。この状況が嬉しくてしかたがないです。
私たちは日常で多くの決断をします。それはリアルの人間でもフィクションの登場人物でも同じです。あのとき別の決断をしていたらどうなっていただろうと,夢想することはよくありますが,それは益体もないことです。現実は一つしかありません。私たちは決断をする権利とその結果を享受する義務があるだけです。
ですがもし,あらゆる決断について別の決断をした世界が同等のものとして存在したとしたら。私たちの決断に意味なんてあるんでしょうか。これは決して空論としての問いではありません。現在の物理学で主流の考え方の一つとなっている多世界解釈が正しいのであれば,私たちの生き方に関わる完全にリアルな問題です。
それを提示したのが2002年のイーガンの短編「ひとりっ子(Singleton)」です。彼はその中で一つの答え(意味なんかない)を提示し,その答えにしたがったギミック(意味を回復するための発明)をも提案します。
もちろんイーガンは自らの結論を読者に強要しません。読者は自ら考え,答えを見つけなければいけません。
今回,これと同じ様な状況が一般コミック,しかもラブコメの世界で展開されます。主人公がヒロインの誰を選択するのか。その選択の結果が5通り,同等のものとして実在するとしたならば,その選択に意味なんてあるんでしょうか? 多くの場合,恋愛という概念は唯一性をその価値の根本として要求します。すんなり受け入れられるはずがありません。
かわいい女の子にアナルがあるのかないのか、それは有史から始まる人類の壮大な疑問である。
一方で、その研究は禁忌とされており、秘密裡に研究を行った者はアナル教団により宗教裁判にかけられたり、定かではないが闇に葬られた者もいるそうだ。
近年、その禁忌を破らないよう十分に配慮されたある画期的な思考実験が行われた。
世紀の天才アナル学者とも称されるアナバート・アナルシュタインにより1年の歳月をもって完成されたとされる。
「かわいい女の子にアナルはない」と仮定するならば"かわいい女の子"というものをまず定義しなければならない。
しかし、"かわいい"は主観的な物であり、その評価は人それぞれであろう。
しかし、アナバート・アナルシュタインはそこを一歩進め独自に思考実験を行ったのだ。
アナバート・アナルシュタイン「かわいい女の子にアナルはない?かわいい女の子とは個人の好みで変わる?ならば、女の子にアナルがあったりなかったりすればよいのだ!」
このコペルニクス的転換ともいえる大発見により、相対性アナル理論が唱えられた。
相対性アナル理論、それはアナルの存在には相対性があるという一種の仮説である。
女の子を観測した場合、男として行うのは「かわいい」「普通」「ブス」の3パターンの思考である。
相対性アナル理論によれば、かわいいと思った人をA、普通だと思った人をB、ブスだと思った人をCとすると、
B,Cにとってはその女の子にアナルはあるし、Aにとってはないことになる。
アナバート・アナルシュタインは現時点で言えることはそれだけだという。
観測された女の子にアナルがある世界とない世界が並行して存在するといういわゆるパラレルワールドだ。
古書店の雑に積まれた本の中で存在感を放っていた「虚構世界の存在論」を手に取ってから20年くらいになるか。
一般向けの論理学入門でありながら理屈がハードで手応えのある二見書房の「論理パラドクス」シリーズは好評
のようだが、増田の好みではないので買ってない。
「サウンド・オブ・サンダー」として近年映画化されたブラッドベリのタイムパラドクスもの「雷のような音」を
「虚構世界の存在論」で取り上げていたこともあり、SFに強い哲学者として認識している。小説の方は合わなかった。
三浦俊彦の得意分野は、「可能世界」を用いたフィクション論、「人間原理」を用いた意識論。とサプリメント。
可能世界論、とは何かはwikipediaでも読んで欲しいが、もし暴走トロッコの先にドラッカーが居たら、とか
プロレスラー専用列車があれば、とか現実ではない仮定について、論理的に扱う仕組み。
そのハードコア一派に様相実在論というのがあり、そういう可能世界は仮定の存在や記述上の論理ではなくってな
全部実在してっから、いやマジで、と主張して、急にそんなこと言われてもいやソレはないわー、と異端視されてる。
その実在している他の可能世界と、我々が唯一認識している現実とを区別するものは、我々が居るという
真空のゆらぎからビッグバンが生じ、宇宙の各定数には様々なあり方が有り得たはずなのに、なんでこんなに人間が
存在するに都合よくできているのか。それはね、人間が見ているからだよ。
人間が宇宙を観察する時には、人間が存在できるような宇宙でなければならない。
こういう理屈は判るんだが理由を説明しきれない自己撞着的な話が人間原理。
宇宙は様々な形でありえた、また実際にある、というマルチヴァース、多世界解釈、サイクリック宇宙論、物理学の話。
それと様相実在論をつなげ虚構実在論にも踏み込み、フィクションをも真面目に哲学的に語る。
なろうもカクヨムも在るんだよ。
が気に入ってます。でもこれだと、タイムマシン作れない?いや、宇宙シミュレータがそういう仕様になっていればいいだけか。宇宙の過去データを保存していて、任意の過去から再計算できて、多世界解釈でパラドックス処理までやってしまうすごい性能のシミュレータということにしても問題ないよね。「現在」からの観測者が過去に入り込んだら、その時点から歴史が少し改変された新しい宇宙が1個始まるわけね。これだと直線ジャンプでは元の時間軸に帰れないのが困る。時間軸を横移動するには宇宙シミュレータにアクセスできないと無理か??なにせ別の宇宙だからね。多世界解釈じゃなくて、単一時間軸での歴史改変だったら、いちおう元の時間の元の場所に戻れるな。でも少なからず歴史が変わってるし、やらかした結果次第では元の場所とは言えなくなってるかもだし。Dメールでキャンセルもできないよな。どんな過去干渉も、干渉しなかった場合と同じ結果にはならない。タイムトラベルは文字通りの世捨て人になる覚悟がないとできないぞ。
私は学生でも研究者志望でもなく、SFっぽいラノベや漫画を読むときの基礎知識として興味があるだけだから。
そういうわけで、厳格なコペンハーゲン解釈派の本人に聞いてみるのはちょっと気が引けるんですよね。
何か根本的に間違ってる気がするし……。
SF(っぽい)作品のネタとして使われやすいのは多世界解釈だけど、これは珍しくコペンハーゲン解釈で面白そうな話だと思うんだ。
例えば「伝説にある人類発祥の星、地球」みたいなよくある設定で、その存在を確かめるべく宇宙の果てに向かおうとしてたのに、誰かが干渉実験を行って存在しなかったことに確定しちゃうとか。
(※ 僕個人の感想です)
E=mc^2
運動量 p=0 の時は確かに成り立つので全くの嘘ではないとは言え、なぜこんな中途半端な省略がされたのでしょうね?
略すならいっその事自然単位系を取って E=m でも良かったのではないでしょうか。
『あの星の光は太古の輝き。今見ているのは過去の星の姿なのよ。相対性理論ってロマンチックね』
何か僕が重大な勘違いをしているのかもしれません。
聞いてみたいのですが、聞き返すといろんなフラグをへし折る気がして質問すら出来ません。
僕の部屋が汚れるのはエントロピー増大の法則のせい
「部屋に冷たいビールを置いておくとぬるくなり、部屋の気温はちょっと下がる(熱平衡状態)。その逆は起こらない」くらいの意味です。
それがどうして部屋が散らかる理由になるのかわかりません。
そもそもエントロピー は
で定義されるのですが、部屋の散らかり具合を表すエントロピーなんて何の自由度をどう数えればいいのでしょう?
ひょっとしたら、部屋の散らかっていく様子を空気分子や水中のイオンの拡散する様子に見立てたジョークが一人歩きをしてしまったのかもしれません。
言うまでもなく、部屋が散らかるのはエントロピー増大の法則のせいではなく僕のせいです。
シュレーディンガーの猫とか多世界解釈とか
トンデモさんにも一般のひとにも大人気でものすごく触れにくい話題です。
控えめに言っても、現在の大学では学ばないし教科書にも載っていないとだけ。(コラムとか小話的に載っている事はあるけど)
念のため言っておくと、観測問題自体がトンデモという訳ではなく、それを調べる研究者もいますがそれはネット上で人気のあるものとは別物かと思います。
具体的には 人の精神が〜とか多世界解釈みたいな単語が出てきたらブラウザバックしていいと思います。
ところで、シュレーディンガーの猫はもともとは「波動関数の収束はいつおこるのか?観測装置も含めるべきか?」といった指摘だったようなのですが(知らない)、
といった具合に変質して伝わってしまったようです。重ね合わせなのは確率(状態)であって猫やパンツそれ自体ではないんですけれどね。シュレーディンガーも草葉の陰で泣いている事でしょう。関係ないですがシュレーディンガーはロリコンです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・シュレーディンガー#.E6.80.9D.E6.83.B3] (あれ、リンク貼れないな・・)
引用者注 正しいリンクを貼ります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/エルヴィン・シュレーディンガー#.E6.80.9D.E6.83.B3
注ここまで
上記のトピックが哲○ニュースとかカラパイ○などでブックマークを集めていることがあります。
コメントをよく見てみると「角運動量の合成が出来るようになってから言えよ」「井戸型ポテンシャルでも解いてろ」と言ったたぐいのブクマコメントがちらほら見られます。せっかくなのでちょっと解説しておきます。
(高さ無限大の一次元)井戸型ポテンシャルとは量子力学における最も簡単な問題で、物理学科生で解けない人はおそらくいません。
仮にいたとしても落第するでしょう。なぜならば量子力学のテストでそれ以上簡単な問題を作れないからです。
「角運動量の合成も出来ない奴」
これも上記と同様の煽り文句です。足し算も出来ない奴、九九も唱えられない奴、くらいの意味です。物理学科生をガチ切れさせるのでリアルでは使わないように。
トンデモ系サイトにこれらのコメントがつくのは「トンデモさんにはわからない、物理学科生にのみわかる煽り文句」になっているからでしょうね。
偉大なる元増田様
でもコレさすがに釣りかな。。。突っ込んだら負けかな。。。とか思いながらも突っ込まずに居られない
E=mc^2
単に質量をエネルギーに換算する式、というだけ。Eはmの質量を持つ物体の全エネルギーを表しては居ない。
お前の「相対的」ってなんだよ?
見えているものは「現時点」の姿ではない。
「相対的」って、お前は向こうにも人がいたら同じように思ってるだろ?とか言いたいの?
思ってる、とかじゃなくて、事実、そうだけどな?
テレビの中継とかで音声が遅れるの見た事ないの?それから理解できないの。。。?
いや、そうだけどさ。上の2つと意味が違いすぎるんだけど。なんで並列してるの?違いも分からないの?
といった具合に変質して伝わってしまったようです。重ね合わせなのは確率(状態)であって猫やパンツそれ自体ではないんですけれどね。シュレーディンガーも草葉の陰で泣いている事でしょう。関係ないですがシュレーディンガーはロリコンです。
2chとかで出てくるとかってお前が言ってるのは、
お前レベルのバカどもが言葉の意味もわからずに(もしくはわかったと勘違いして)使ってるだけの話だろ。
で、あんたはどこの物理学科なの?進学できんの、そんなんで?何してんの?
相対的でなくて元増田は「相対論的」だから。星の発光は光速で伝播するわけで、相対性理論では光速を時間の基準に取るからこちらで見た光と発光された光は同時刻ということかと。あってると思うが
相対的、と書いてるのは確かにおかしくて「相対論的」のつもりで書いてた。
相対論では高速を時間の基準でとるからこそ、光が放出された時間とその光が補足された時間、その2箇所の距離が0でなければ絶対に一致しない。
見た光と発光された光が「同じもの」ではあるがどう時刻ではない。
日本で始球式をすることも決まっている、話題のサンデル教授の本『これからの「正義」の話をしよう』を読んだ。
シリアスゲーム的な考え方だと思った。押し付けがましくなく、それでいて熱意がある。
ダン・アリエリーの「予想通りに不合理」では、行動経済学として人々の社会規範と市場規範に焦点を当て、さまざまな実験を通して規範の適用の仕方を検証している。
サンデル教授はこれまで社会規範の適用されてきた社会に市場規範を適用するという最近の風潮を危惧している。
それは、アメリカのみならず、諸先進国においても同様だろう。GDPでは幸福は測れないということだ。
そうした現状で、公正な正義を一人一人が認識しようとすることは社会の幸福への試金石になるかもしれない。
宮台真司の推薦文にもある通り、サンデル教授はコミュニタリアン(共同体主義者)だそうだが、一部のコミュニタリアンにとっては違和感のある呼ばれ方だそうで、その原因は「正義は個々のコミュニティが好き勝手に定義したものに過ぎないという相対主義的見方を表しているように思える」からだそうだ。
つまり、コミュニタリアンと呼ぶ側(功利主義、自由主義)がコミュタリアンの物語の探求という考え方を見落としているということだ。
NHKの白熱教室を観た方はわかると思うけれど、サンデル教授は功利主義、自由主義、そして共同体主義を実際に起きた問題や思考実験によって人の正義と自由、正義と権利、自由と権利といった問題を焦点に繰り返し問題提議、検証していく。
5章以降のカントの示した人生観やロールズの考える自由は、より具体的で、わかりやすく、刺激的だ。
人生観で特に印象的だったのは、マッキンタイアの「物語の探求としての人生を生きる」という考え方だ。
自由を追い求める考え方は目的論を独善的とみなす。しかし、現実的には人々は人生という物語を解釈している。
自由に選択できることが真の意志の尊重とするが、
物語の探求という生き方は、アドベンチャーゲーム、ロールプレイングゲームのようにマルチエンディングのような、または、SF的な多世界解釈に近いと思う。
そして、それは強烈だ。これからの諸問題との対峙する時、コミュニタリアンの正義に対する捉え方は安易な自由や平等主義よりも解決への熱意を持っている。
サンデル教授は功利主義、自由主義、共同体主義という選択肢を検証し、最終的にトゥルールートとでもいうように納得させる形で共同体主義への道筋を示した。
心理学者のミハイ・チクセントミハイによって提唱されたフロー体験というものがある。
フロー(英語:Flow )とは、人間がそのときしていることに、完全に浸り、精力的に集中している感覚に特徴づけられ、完全にのめり込んでいて、その過程が活発さにおいて成功しているような活動における、精神的な状態をいう。ZONE、ピークエクスペリエンスとも呼ばれる。その概念は、あらゆる分野に渡って広く論及されている。
チクセントミハイが見たところによれば、明確に列挙することができるフロー体験の構成要素が存在する。彼は8つ挙げている。
2. 専念と集中、注意力の限定された分野への高度な集中。(活動に従事する人が、それに深く集中し探求する機会を持つ)
4. 時間感覚のゆがみ - 時間への我々の主体的な経験の変更
5. 直接的で即座な反応(活動の過程における成功と失敗が明確で、行動が必要に応じて調節される)
6. 能力の水準と難易度とのバランス(活動が易しすぎず、難しすぎない)
フローを経験するためにこれら要素のすべてが必要というわけではない。
(フロー:wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%BC ])
目的論的な解釈や考え方はフロー体験を促しやすいのではないだろうか。
自己実現理論(じこじつげんりろん)とは心理学者・アブラハム・マズローが、「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」と仮定し、人間の欲求を5段階の階層で理論化したものである。又、これは、「マズローの欲求段階説」とも称される。
2. 安全の欲求(safety need)
3. 所属と愛の欲求(social need/love and belonging)
4. 承認の欲求(esteem)
5. 自己実現の欲求(self actualization)
の5段階に分類した。
自己超越
マズローは晩年、5段階の欲求階層の上に、さらにもう一つの段階があると発表した。それが、「自己超越」(self-transcendence)の段階である。 自己超越者(transcenders)の特徴は
1. 「在ること」(Being)の世界について、よく知っている
5. 深い洞察を得た経験が、今までにある
6. 他者の不幸に罪悪感を抱く
9. 聡明である
10. 多視点的な思考ができる
11. 外見は普通である(very normal on the outside)
マズローによると、このレベルに達している人は人口の2%ほどであり、子供でこの段階に達することは不可能である。 マズローは、自身が超越者だと考えた12人について調査し、この研究を深めた。
(自己実現理論 :wikipedia [ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E5%B7%B1%E5%AE%9F%E7%8F%BE%E7%90%86%E8%AB%96 ])
フロー体験や自己超越といった段階は、ただ安易な自由や平等を考える以上に、個々人が社会で生きる目的を認識することが重要であることを示しているように思える。
「愛してんだよ俺は」男の口癖であった。
「多世界解釈ってあんだろ。あるゆる現在が二通りの未来に分岐し、増殖し、目も眩むような網の目ができあがるっていうあれだ。あれを聞いたとき雷に打たれたかと思ったよ。だってそうだろ?今ここにある世界はその無限の世界の中でたった一つきりってことなんだぜ?すごいと思わねえか?」
「確かにそう考えることもできますね」主人はグラスを磨きながら返事をした。
「でも愛してるならどうして殺すんです?」
「かー、わからないかね。この愛が。だからてめえはグズなんだよ」男は心底不快そうな顔をして不味そうに酒を呷った。
「いいか?俺が殺したやつらは他の世界じゃ友人だったり兄弟だったり、もしかしたら恋人なのかもしれねえだろ?素敵じゃねえか。確かに今この世界でそうするのも悪くない。悪くはないがベストではない」
「あたしはベストだと思うんですけどね」男にグズ呼ばわりされても主人は気にした様子がなかった。常日頃から自分は人殺しだと吹聴していた男を、主人は頭のおかしな客だと考えて本気で相手などしていなかった。今日の会話も、珍しく他の客がいない退屈を紛らわすための気まぐれであった。
「じゃ、なにがベストなんです?」
「だから殺すことだよ」男は右頬だけを上げて歪な笑みを浮かべた。
「俺がこの世界でそいつらと楽しくやっちまったら他のどっかの世界で殺されちまうってことだろ?そんなの悲しいじゃねえか。安心して楽しめねえだろ?だからこそ今この世界で殺してやんだよ。そうすればそいつらは他の全ての世界で楽しくやれんだろ?だから殺すんだよ。愛してんだよ俺は」
「それじゃ何ですかい」主人は面白そうな顔を浮かべ男に言った。
「あたしも殺されちまうんですかい?」
「自惚れてんじゃねえぞ親爺」男は苛立たしげに吐き捨てた。
「誰がてめえなんかを愛してるもんか。言っておくぞ、親爺。俺はお前が大嫌いなんだよ。見てるだけで虫唾が走るほどにな」
「これは面白い」主人はにやにやしながら男に聞いた。
「それじゃ何でわざわざ虫唾が走るほどに嫌いな親爺の店で飲んでるんです?教えてくださいよ」
「だからこそだ」男は酒が入ったコップを手に取った。
「てめえみたいに虫唾が走るほどに嫌いな親爺の店で、酒なんて糞みてえにまずいものを呷る。そうすれば他の世界の俺はこんな不愉快な思いをしなくて済むだろ?」そして男は一気に酒を飲み干した。
「愛してんだよ俺は」
主人がその男のことを思い出したのは3年後のことであった。酒場という場所柄、頭のおかしな客は数え切れないほどいるが、酒に酔った様子もなく、素面で頭のおかしなことを言う客は珍しい。その中でもあの男は飛びっきりだった。だから連続殺人の容疑で逃亡生活を送り、先日、白昼堂々街中で通り魔を犯し、その後、警察に射殺された犯人の顔写真が載った記事を見て、3年という年月を感じさせない早さで思い出したのは当然とも言えた。記事の小見出しには男の最後の言葉が載っていた。
「愛されてんな俺は」