今さらルックバックの話なんだけど、ファンの人が感動しているポイントに自分はまったく感動できなくて、逆になんで感動するの?と思ったので、教えてほしい
藤野と京本が小学校の卒業式で出会い一緒に漫画を描くことになった世界(世界A)では、二人は数年一緒に活動したのち道を違えることになり、美大に進学した京本はキャンパスに侵入してきた通り魔に襲われて死ぬ
藤野は、京本が自分と出会っていなければ美大に進学することもなく、ひいては通り魔によって命を落とすこともなかったと思って自分を責める
一方卒業式で出会わなかったほうの世界(世界B)でも京本は世界Aと同じ美大に進学し、同じように通り魔に襲われるが、たまたま藤野に助けられる
藤野は小学校ぶりに漫画を描くのを再開したと京本に話し、雑誌に連載することができたらアシスタントになってくれと彼女に頼む 二人の友情がここから始まることを示唆して世界Bのほうのエピソードは終わる
藤野と京本が卒業式で出会っていようといまいと、いずれ京本は引きこもりを自発的にやめて美大に進学して通り魔に襲われていたのだから、藤野が自責の念を抱く必要はない、という結論はわかる
しかし、それと同時に、卒業式で出会っていようといまいといずれ藤野は漫画を描いていたし、二人は出会って友情を育んでいた
「藤野は漫画を描くことになった」「二人は友達になった」はどっちも藤野の人生にとってトップクラスに重要な出来事
世界Aと世界Bのどちらでもその二つの出来事は起こる ただし世界Aでは京本が死ぬ
だったら世界Bの方がよくない?
なので「じゃあ藤野ちゃんはなんで(漫画を)描いてるの?」という京本の問いかけから始まる一連のエモいシークエンス(はっきりと言葉にされるわけではないが、「京本に読んでほしかったから」という藤野の気持ちが表現されている)も萎えでしかなくない?
世界Bでは「京本に読んでほしい」というモチベーションがなくとも漫画を描いているのだから、世界Bの話を挿入することは、世界Aにおける「京本に読んでほしかったから漫画を描いてきたし、これからもそうする」という決意を感動的なものにするどころか「え、じゃあ出会ってなくてもいずれは漫画描いてたし、京本が通り魔に襲われた時点で藤野が漫画家になってなかったら京本は死んでなかったんじゃん、後味悪〜」と思わせるだけなのでは
少なくとも自分はそうだった
みんなあれの何に感動したの?
そんなロジカルに読んでないと思うよ 別に多世界解釈だと明示されたわけでもなく 白昼夢かもしれないわけで