はてなキーワード: シンボルとは
入れ墨が「格好良い。社会的になんの問題もない。差別される社会が間違ってる」って思って入れてるやついるの?
だいたいが、「ちょっと悪いやつだと思われたい。危険なやつだと思われたい。アウトローになりたい。ヤクザっぽくて格好良い。反社会のシンボルが欲しい」
って思っていれるんだよ。だから、「入れ墨を差別するな」っていう人、「入れ墨を入れる意味はないし価値もない」って言ってるんだよね。
そして多分それは正しい。入れ墨を入れても、「ふーん」でなんの社会的意義がなくなったら「ヤクザは入れ墨を入れない」し「悪ぶりたいキッズも入れ墨を入れなくなる」と思う。
難しいなぁ。
ヤクザ、不良、愚連隊、チーマー、といった流れの中で入れ墨はそれなりの意味を持ってたわけで、それを無しにするのはできないわけで。
自分は下町の銭湯でよくヤクザの入れ墨を見てたから、ある意味脅威を感じるし、同時に見慣れてないわけではないので、そこまで拒否感はないけどね。
でも、一昔前のゲーセンでの注意人物に入れ墨の人がいたのは事実で実際被害にあった人もいるだろう。そういう人に偏見持つなとは、ちょっと言えない。
直接的な被害でなくとも、知り合いや友人が遭っていたり、ちょっとした場所で避けたりしなくてはならなかったりといった経験をした人はそれなりにいるだろう。
今の子には関係ないと言っても、そのシンボル的な意味(格好良さのうちのほんの少しの部分)はそういった流れの中にあるのもまた事実なんだよなぁ。
そんなのばかりじゃないと言われたら、そういうのと、そうじゃないのとの差を、見たことのない人がわかるのか、という問題にもなっていく。
なので、現在は過渡期としか言いようが無く、差別的行為は拙いけど、偏見はだんだんと無くなっていく方向に向けていったらいいかなぁと思ってる。
多分、4,50年はかかるんじゃないかなぁ。
おっさんずラブとかの影響なのか知らないけど、LGBTについて言及されてる機会はかなり増えたと思う。
ただ、LGBTは性愛が前提となっていて、「あらゆる性別は恋をして幸せになる権利がある!」みたいな雰囲気がある。
私は彼らを応援することができるけれど、彼らと同じ悩みや喜びをもつ仲間では無い。LGBTに当てはめるなら、全部違います。私は女性・ヘテロです。
最近、Aセクシャルという単語を目にすることが多くて、Aセクシャル;恋愛感情・性的欲求を抱かない人 みたいな定義をされているらしい。
後、「デミセクシャル」というやつ。これは、あちこちで説明されてるからさらっと書くのですが
「非常に親密になった人にのみ、恋愛感情や性的欲求を抱く」人 とのことです。
定義を読んでから、「当たり前じゃねえか」とも正直思った。知らない人に恋愛感情も性的欲求も無くない!? みたいな。
でもこれがぴったり自分に当てはまっている。一応Aセクとか性嫌悪も疑ったこともある。
でも私腐女子だしガンガン推しのエロ妄想ツイッターに書くからそれは無いかなって。
少し不思議なのは、自分自身と性愛が結び付くと途端に気味が悪い。私は俳優とかバンドマンとか大好きで、それぞれ芝居や舞台を楽しむし、対象は全部男性です。演技(演奏)と外見の雰囲気に魅力を感じて居て、そういう人と話をして居るだけで、「ああ素敵な人だなあ」と幸せになる。
ただ、イコール恋をして居るのか? と聞かれると「いいえ全く」という返答しかできない。だからワンチャン狙おうとか一ミリも思わない。
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ただ、最近容姿性格が完璧(佐々木希の容貌レベル)でなくても恋人はできることを知った。
だから「私も完全な美貌と人徳じゃなくても、相手を愛して尊重する気持ちが通じ合えたら、恋人ができるのかもしれない」と気づいて3年くらい経った。
あと究極、私で妥協してくれる人となんとなく付き合うこともできたのかもしれない。
ただそこまでに深く知り合える異性に出会うことができなかった。多分私が、自分を深く知ってもらうことを拒否して居る。
それが生育環境だったり、今抱えて居る疾患のせいなのかは不明。
今まで理想が高すぎるのかと思って居ました。あまりに理想の人を求めるがあまり、「あの人も嫌だ」「この人も嫌だ」みたいになってしまう。
あるいは自分が「恋をするに足る容姿性格ではない」という理由で恋愛性愛自体を拒否してしまったり。
でも拒否するということは、「付き合って欲しい、けど無理」ということから始まるだろう。でもそれが無い。
最初の動機の「この人と付き合いたい!好きだ!」という気持ちが無い。なんなら実は恋したことが無い。
だから最近恋愛感情・性的欲求が人よりすごく少ないのではないかと悩むようになった。
学生時代から周囲に親しい異性がいたし、彼らを好ましく思って居る。けれどそこから恋愛に発展するイメージが全く湧かない。
彼らにしてみれば側に居るだけで「こいつと付き合うなら」って思われるのは迷惑千万なんだろうけど、どこにも明かさないロールプレイとして許してもらおう。
24歳くらいまでは、「いつかできるかな!」みたいな楽観視で、それは多分「妙齢になったら恋人ができる」という思い込みが原因。
今は「彼氏欲しい」と言ってみるけど、それって多分「自分を受け入れてくれる親しい人が欲しい」っていう理由に近くて、恋愛と、付随してセックスがしたいわけではないのではないかと思い始めた。後「この歳になって無い歴イコール年齢かつ処女なのはまずいのではないか」という世間体をきにする気持ち。ただそれだけで、何か恋愛性愛を求めていた訳ではなかったのでは無いかと思い始めて、そういえば思春期からずっとそうじゃんと思い始め、調べて出てきたのが「デミセクシャル」だった。この定義を見て正直言って救われた。「ああ、だから私には恋が無いのか」という。
「恋したい〜」というのはマジで切実な悩みで、それは全くしたことがないから。25過ぎて恋が無いのはやばいという気持ちがあった。でも、「デミセクシャル」に自分を当てはめたら、「なんだ当たり前なのか!」って楽になった。
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悩ましいのが、ただのブスがモテなさすぎて「そもそもジェンダーが違ったのでは?」と言い始めたのではないかとおもわれるのではないかということ。
5chでもAセクでテレビ出演した人が、美女では無いという理由で「モテない言い訳に聞こえるからやめてほしい」という意見があって、
「ああやっぱり容姿に恵まれないの人はそう言われるのか」と悲しくなってしまった。正直私もその疑いは持って居る。
拗らせすぎて「そもそも異性も同性も愛することができないのでは?」と疑うことで、彼氏できないことを正当化して居るのではないか。
なんだかんだで「好き!!」と思うひとがいたらその人を手に入れようと頑張るのかもしれない。その悩みにどうしても答えが出せなくて、今はとりあえず性自認としてデミセクシャルかクエスチョニングにしておこうと思った。LGBTじゃ無くても、ジェンダーって色々あるんだなと思った。
Aセク・Dセクのシンボルとして中指に黒い指輪をはめることがあるそうです。
とりあえず身につけて見て、私が何者なのかということを私自身が疑問に思うきっかけとして持っていたい。
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民衆的ナショナリズム(自分の生活や運命は自分で決めたい、自己決定欲求に基盤)
公定ナショナリズム(↑から「お前は我々かそうでないのか」と問われたトップによる民衆への回答)
情報ナショナリズム(「我々」はどこまで我々になり得るか、状況を共にしうるかの共有イメージ)
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この3つの「ナショナリズム」は国家(State)にとって都合のいいものばかりではない。特に民衆的ナショナリズムは時に国家を破壊しかねない。
なのでそれを制御する必要があり、公定ナショナリズムによって国体と民衆の間で握手が試みられる。
日の丸君が代だのは、その我々感覚をお互いに持っていることを確認する便利な道具として公定ナショナリズムが用意したもの
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インドネシアでは異なる言葉を話し異なる宗教を信じる人々が「同じインドネシア人」になるために、どの集団の言葉でも無い言語を新造したように
日本のように伝統から調達されることもあれば、逆に自分たちの伝統から離れたシンボルを新しく作って「我々」になることもある。
「われわれ」という感覚を「お互いに想像できること」が大切で、事実である必要は必ずしも無い。
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ナショナリズムは本質的に矛盾だらけのパッチワークだが、矛盾だらけだからこそ成り立っていて、ご都合次第で中身やメンバーを変化させうる。
そういうご都合主義の我々意識がないと、アフリカの部族間の絶滅紛争のような隣人同士の殺し合いを防げない。
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ここ数日Twitterで起きている「オタク差別問題」の話について。
関連するツイートがTLで流れてくる度にもやっとする。
何故もやっとするのかを考えてみた。
既に他にも数人、この件に関して記事を書いている人が居るが…。
先ず、言える事は主語が大きいという事。
そもそも「オタクは差別されていたかいなかったか」という言い方で話をしている人が多いが「オタクは~」という主語は、
対象とする人の範囲を広げすぎている。最近の言い方で言うなら、「主語が大きい」と言うのだろう。
そもそも「オタク」の定義…「オタクとはどういう人を指すのか」という物が明確ではない。
この問題について語りたいなら、先ずはそれぞれがそれぞれに持つ「自分の考えるオタクの定義」即ち
「自分は、オタクとはこういう人を指すと思う」という、それぞれが持つ「オタク」のイメージを明確にすべきではなかろうか?
建設的な議論がしたいなら主語を共通化させる事は非常に大事なのだが、この問題に関してツイートしている人の大半は、
主語の共通化をさせずに語っている印象を受ける。
この問題に関してツイートしている人が、「議論」としてこの問題について何かを語りたいのなら、先ず「オタクとは何なのか」
という主語の共通化をさせるのが議論の筋道だろう。
しかし、それをせずにこの問題について語っている辺り、この問題について語っている人の大半は「ただ、声を上げたいだけ」なのだろう。
主語を大きくすれば大きくする程、受け取り手から見れば主張は薄っぺらくなる。
国会前で政権批判のデモを行っている人達が良く「国民は~」と言うが、あの「国民は~」と
彼らの言う、「オタクは~」が同じレベルなのだ。
「お前らそもそも『オタク』という物がどういう物なのか本当に理解しているのか?」
という疑問を抱かざるを得なくて、この問題について語っている人のツイートが無知の集合体の様な感じで見ていてもやっとするのだ。
これについては、こちらの増田の方も同様の事を感じていた様だ。
参考
「オタク差別」があるのではなく「キモい人差別」があるのだと認めろ
「被害者ぶっている」と言う言い方は良くないかも知れないが、「被害者ぶっている」と言わざるを得ない。
流れて来るツイートの大半は「オタク差別は有った」「オタクは不幸な境遇だった」という様なツイートだが…、先に述べた様に、先ず「主語が大きい」状態で、
その「大きい主語のカテゴリに含まれる者達」は皆差別されていたという様な主張が為されている。
そこに違和感がある。私だって多分オタクと言われる部類の人間だ。だが、私は差別を受けた経験は全くない。
「オタクは差別されていた」等と主張するツイートを見ていて思うのは「一緒にするな、オタクは皆差別されていたみたいに言うな」
という事だ。
実際、差別されていたオタクというのも居るのかも知れない。
だが、そうでないオタクも間違いなく存在する。少なくとも私は差別されなかったオタクだ。
その上で、…だ。差別されていたオタクは居るかも知れない。だが、今Twitterで発生している流れは、最初に「オタクは差別されていなかった」と
主張した人物に対して数で攻撃している。
これは最早、数の暴力と言っても良い。
その根底には「自分達は差別され虐げられて生きて来たのだから、自分達には他者を差別し、虐げる権利がある」という劣等感みたいな物が有る様に感じられる。
総じていえば「被害者ぶっている」と思わざるを得ない。
「嘗て自分達は差別され虐げられる側だったから、今は他者を差別し、虐げても良い」と考えているのなら、それは既に「加害者的な思考」であり、余りにも下衆い。
参考
オタク差別を批判することを、やめることにします。
長すぎたので、最後の部分を分割。 余談 とある、それなりに言動につい..
ここまで述べた様に、この件(「オタク差別問題」)について語っている人の中で目立っているのは
「大きな主語を振りかざしながら被害者ぶりつつ、自分達より弱い者を攻撃している人達」だ。
それが「人数が多くて目立っている」のか、それとも「人数は少ないが、声が大きいから目立っている」のかは解らない。
ただ、そういう人達(「大きな主語を振りかざしながら被害者ぶりつつ、自分達より弱い者を攻撃している人達」)がオタクという言葉を使って
「自分達より弱い者」を攻撃している姿に「お前らそもそも『オタク』という物がどういう物なのか本当に理解しているのか?」
ともやもやするんだろう。
そういう事を考えながら増田を読んでいたら、とても良い事を書いている増田を見付けたので、最後にそれを紹介して置く。
>そもそもオタクってのは、本来は「何らかの趣味に傾倒する人」という定義だったはずだけれど
>今は「やたら被害意識だけが強く集団で自分以外の指向を持つ人間を攻撃したがる人」と言う枠組みとしても使われている。
>そういう人たちが繋がる為のシンボルとしてアニメが使われているだけで、彼らの多くは本当にアニメを好きな訳ですらないのではないか。
>今放映中の流行り物アニメをちょっと見るだけで、それを更に深く突き詰めようともせず放映終わればすぐ忘れ、
>他のマイナーな作品に手を出す事もなく、同人の世界もよく知らない、
>漫画やゲーム等アニメより手を出すのに金や手間がかかる分野には手を出そうとしない、という「自称オタク」を数多くみるとそう思える。
>あれは「何らかの趣味に傾倒する人」ではない。
>彼らは同類同士で繋がる為の「ネタ」としてアニメを利用しているに過ぎない。
>アニメが選ばれるのは、自宅にいながらタダで見る事ができて、
>テレビの一般番組やら世間一般の流行モノとは違う為に「普通じゃない自分」という中二気分も満たしてくれるコンテンツ、
>として体よく利用出来るからだろう。
引用元:オタク文化の加害者としての側面を見ないふりするか、オタクに勘定しても..
そういう(「やたら被害意識だけが強く集団で自分以外の指向を持つ人間を攻撃したがり、同類同士で繋がる為の「ネタ」としてアニメを利用している」)のが『オタク』
なのであれば、私は思う「お前らと一緒にするな」と。
ほんと行動パターン同じだな。
オタクのそういう風潮に嫌気が差してるオタクは一定数いるだろうけど、
そもそもオタクってのは、本来は「何らかの趣味に傾倒する人」という定義だったはずだけれど
今は「やたら被害意識だけが強く集団で自分以外の指向を持つ人間を攻撃したがる人」と言う枠組みとしても使われている。
そういう人たちが繋がる為のシンボルとしてアニメが使われているだけで、彼らの多くは本当にアニメを好きな訳ですらないのではないか。
今放映中の流行り物アニメをちょっと見るだけで、それを更に深く突き詰めようともせず放映終わればすぐ忘れ、
他のマイナーな作品に手を出す事もなく、同人の世界もよく知らない、
漫画やゲーム等アニメより手を出すのに金や手間がかかる分野には手を出そうとしない、という「自称オタク」を数多くみるとそう思える。
あれは「何らかの趣味に傾倒する人」ではない。
彼らは同類同士で繋がる為の「ネタ」としてアニメを利用しているに過ぎない。
アニメが選ばれるのは、自宅にいながらタダで見る事ができて、
テレビの一般番組やら世間一般の流行モノとは違う為に「普通じゃない自分」という中二気分も満たしてくれるコンテンツ、
として体よく利用出来るからだろう。
日本自動車販売協会連合会(以下、自販連)は、月別・年別の新車販売台数を統計として発表しています。自販連は車種を項目としては販売台数は発表していないため、各ブランド車(トヨタのクラウンやカローラ、SUBARUのレガシィ等)をセダンとし、2015~2017年の販売台数を見てみました。トヨタのクラウンやカローラは販売台数が減少しており、プリウス等は2016年は上昇していますが、2017年は一転減少しています販売台数トップ50のブランド車しか見れないのですが、新聞の報道等を見ていても全体として減少している傾向にあるようです。
セダンは、今後の社会においても必要なのでしょうか。過去、セダン型の車が新車販売台数のランキングで席巻していた時代もあると思います。それはおそらく、自動車の用途が、家族の外出くらいにしか考えられておらず、家族の形態も核家族がほとんどだった時代でしょう。ただ現在は、サーフィンやゴルフ等のスポーツを楽しんだり、遠出せずに近場のスーパーに行くため等、人々の自動車の用途や家族の在り方が多様になったことで、セダン型の自動車がその目的に適わなくなってきたのでしょう。
最近では、都心に住む若い人は車自体に興味を持たなくなりました。都心に住まなくても交通網が発達しているし、シェアリングカーといったサービスも増えています。普通のサラリーマンであれば週末にしか乗る必要がないので、レンタカーを借りた方が、自動車重量税といった税金を払う必要がないので、昔からその方が合理的だったかもしれません。それでも昔の人が車を求めたのは、それが一種のステータスであったからですよね。ただ、今の若い人は車に対して社会的なステータスは感じていません。カーセンサーといった中古車取引サービスが成熟しており、車自体の値段も多様化しているので、車を持っているから「裕福だ」、「すごい」という発想には至らないですよね。
それでは、今後セダンはどのように生き延びていくべきでしょうか。私は、自動車メーカーはセダンを社会的ステータスを表すシンボルにブランディングすべきだと思っています。昔は、ポルシェやフェラーリといったメーカーの車を持っている事自体がステータスでした。ただ、今度は車型だけでその所有者のステータスを表すようにしていかないといけないと思います。スポーツカーのように走りが好きでもない、4人も車に乗せる必要がない、でもコンパクトカーは嫌だという層にアプローチしていく必要があるのではないでしょうか。そうする事で、セダンの寿命を延ばしてく事ができると思います。
多くの公用車は未だにセダンが用いられています。英国の王室などを見ていても、彼らが乗っている車はセダンです。セダンが、社会的に上位のステータスを表すシンボルとしての基礎は出来上がっているので、あとはどのように強化するかが大事になります。
しかし、デビアスなど一部の会社が天然ダイヤの供給を支配し、値段を釣り上げているので、なかなか一般の若い女性が付けるのを見る機会がない。
若い女性が付けるとしたら、良い家柄に生まれるか、お金持ちのスポンサーを見つける(具体的には書かない)しかないのが現状。ハレの舞台に借りるのもおっかなびっくり。
これを打破してくれる可能性があるのが「合成ダイヤモンド」。見た目は天然と殆ど変わらないどころか、下手な天然よりも美しい。現状では専門家が鑑定しても見破れないレベルまで来ている。でも、合成ダイヤが普及されると、ダイヤに資産価値を見出している人たちが困るので、今必死に既得権益側が叩いている。
日本は結局、この既得権益側について、「ダイヤは天然じゃないとね」というイメージ広告に加担している。某質屋漫画とかね。
いま、一生懸命、合成ダイヤを作り技術を磨いているのは中国。日本で合成ダイヤを作っているところは殆ど無い。
クォーツ時計で機械式時計を駆逐し、スイス時計産業を壊滅の淵まで追いやった日本の時計産業のあのエネルギーは今の日本にはない。
機械式時計は結局、一種のステータス・シンボルとして金持ちと時計産業が結託して差別化した気になってたけど、スマホがかなりぶっ壊した。今の若者はまったく興味がないので、彼らが偉くになる20年後に機械式時計はかなり滅しているだろう。
より良い輝きの宝石が、よりよい価格で、より若い世代の手に届くことこそが正義なのだ。宝石が映える花の年齢は長くはない。彼女らに一刻も速く届くよう、合成ダイヤの認知度が高まり、手の届く価格帯まで値段が下がりますように。
フェミ界隈ではよくみかけるこういう人ね。
なんかこういう民族浄化を促す発言が野放しになってるの怖いよね
ゾーニングは臭いものに蓋をしているだけで、過激なポルノが蔓延し性犯罪を助長するので、ロリコンポルノは言うまでもなく、萌えキャラ(エロ・非エロ問わず)やAVが根絶やしになるまで闘わなくてはならない。
萌えキャラは女性性的搾取シンボルそのもの。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日
男向け性的コンテンツが存在する以上、男の性犯罪を助長してしまうので、根絶やしにするしかない。
性犯罪や性暴力、誤った性知識を持った男も大幅に減り、街の景観も美化され良いことづくめである。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日
ミソジニーの塊でポルノしか脳に無い、容姿も内面も醜い日本🍣と、人権意識を持っていて容姿も内面も優れている欧米白人男性で、日本🍣の方が性犯罪率が低いわけねーだろ。
現実見ろ。— 出目金 (@demedeme2525) 2018年3月25日