はてなキーワード: シンボルとは
一言突っ込むけど
という非難の仕方は失礼でしょう。童貞であろうがなかろうが女性を人間としてみれてない人はいるし、童貞自体を一つの属性シンボルとする(つまり「童貞的」と言った言い方をする)ことは、むしろ性体験を「人間と人間の関わり方の一つ」でなくある種の聖的なイニシエーションシンボル(たとえばトロフィーのような)とする考え方に容易に結びつきます。それもまた形を変えた人間性への蔑視に過ぎないし、その発想のいきつくところがMeTooのあとで随分批判にさらされた某ライターの歪み方みたいな地点だと思います。
分かりやすく言えば、「あいつ童貞臭いよね」という批判と、「肉食系・千人斬り」を自慢する思考は、表と裏で大して違いはないでしょう。性体験をしていない「から」マイナスだ、という言説は、性体験をしている「から」プラスだ、という発想を導きますが、それはどちらも間違っています。それとも増田さんの中で、後者の発言は批判対象ではないのでしょうか? 私は後者だって「女性を同じ人間と見ていない」点では大差ないと思うのですが。
揚げ足取りたいわけではありませんが、他者の言動に対して「(女性の)人間性への配慮を欠く」という趣旨の批判を行うなら、せめてわずか数行の文章に同じ人間性への蔑視がにじむようではいけないと思います。
書き方は釣りっぽいけど、今30代前半以下のPCユーザーにはフロッピーディスクを実際に見たことがない人達が多いはずで、あのアイコンが「保存のメタファー」として直感的でなくなってるのは確かだと思います。
ただ、検索を虫眼鏡アイコンで、電話を黒電話アイコンで、電気を稲妻アイコンで表象するのと同じように、ひとたびユーザーの側に「これはこういうもの」という強力な連想が確立・共有されてしまえば、ユーザーが必ずしもその表象されてる実物を知らなくても大きな問題は起きないようにも思います。
それより何より、自分が昔から気になってるのは、この保存アイコンに代表される「機能アイコン」の特殊性についてです。多くの人々が感じているように、機能アイコンには意味がわかりにくいものが多い。たとえばWordやExcelだとこんな感じ:
https://gyazo.com/c0d77ae6fd252d756b40f95da10c9cc7
https://gyazo.com/f2807738b32978daa8edb8ab9f9b8441
「これアイコンにする意味あんのかな、単体で見ても全く意味わからんな」というものがたくさんあるよね。
何で機能アイコンってわかりにくいか、考えたことありますか? デスクトップメタファーでは、コンピューターの中にあるオブジェクト(ファイルやディレクトリ)を実世界に存在する書類やフォルダに見立てて、それをアイコンとして表現することで直感的に理解・操作できるようにしているわけですが、機能アイコンはそうじゃないんですよね。機能アイコンが表現したいのは、オブジェクトではなく、アクション(行動・働きかけ・変化)なんです。
①その機能を表象するモノをそのまま使う(フロッピーや虫眼鏡や錠前など)
②その機能を表象するモノに、動作や変化を示唆するプラスやマイナスやバツや矢印を重ねる(削除行に×マークをつけたスプレッドシートなど)
③その機能を実行したときの視覚的結果を表す(中央寄せや下罫線など)
このうち①は、実世界での活動になぞらえられるような基礎的機能にしか使えない。②は、もともと小さい機能アイコンにさらに小さい意味素を付け加えることになるので、とても見にくいうえに、似たような機能アイコンを区別しにくい。③は、ごく簡単な結果であればよいけれど、複雑だったり抽象的だったりする結果を表現することはほとんどできなくなる(たとえば、上のExcel機能アイコンの「アイテムの後ろの空行を削除する」や「XPS形式の添付ファイルとして電子メールで送信」など)。①②③のいずれも、アクションをオブジェクトで表現することに本質的に無理があるからわかりにくいわけです。
じゃあ、なんでそんな「本質的に無理がある」ものがここまで普及して広く使われているのか。この問いを突き詰めると、機能アイコンはもはや直感的理解を助けるためのメタファーではないからだ、という答えにたどり着きます。
例えば、わかりにくい(アイコンとしての具象性が劣っている)からといって機能アイコンを取り去るとどうなるか考えてみると、「いや、やっぱちょっと困るな」となる人は多いのではないでしょうか。もしリボンUIに文字だけで機能がずらずら並んだらものすごく見にくいし、目的の機能を探しにくい。つまり機能アイコンの利点は、今では①UIの省スペース性(たくさんの機能を有限のUI領域に整然と詰め込める)と、②瞭然性(学習さえ済んでいれば、文字列の読解処理を経ずに瞬時に判別できる)の2つにあるのです。
機能アイコンはデスクトップメタファーとは違って、ユーザーの学習コストは下げてくれない(直感的理解は全く支援しない)けど、一度学習してしまえば、日々その機能を利用するときの操作コストは格段に下げてくれます(元増田も、保存アイコンがないよりは、フロッピーアイコンのままのほうがずっと楽なはずです)。これが確実にユーザーエクスペリエンスを向上してくれているわけですね。
個人的には、だから機能アイコンのことは機能シンボルって呼ぶ方が実態に則してるんじゃないかなと思ってます。アイコンは偶像だけど、シンボルは約束事、協約ですからね。
個人それぞれの「お気持ち」が傷つけられたことを別の客観的指標にすり替えて批判するから議論がややこしくなる。
だから思い切って皆が持っているお気持ちを確認しあってから議論をするべき。
例えばだよ?
「私は男女平等の理念は賛成だが、フェミニズムの思想は嫌いだ」
「特にフェミニズムの中でもブスな容姿の女が振りかざすフェミ思想が一層嫌いだ」
「女性を差別したいのではなく、美人を優遇してブスを冷遇したいだけ」
私自身がこれらのお気持ちを表明した「上」において、私から「キズナアイは性的消費なのかどうか」という議論を皆に吹っ掛けてくれば対応しやすくなるのではないか。
9月8日にシュナムル氏がツイッターでつぶやいたラノベ表紙問題、そしてそこから派生したキズナアイ問題について。約一カ月遅れではあるがこの論陣に参戦してみたいと思う。
「きょう書店で娘が心底嫌そうな顔で「お父さん、これ気持ち悪い…」と指さした光景。
自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれ、ひたすら性的消費の道具として扱われる気持ち悪さは想像できるし、それを子供の眼前に公然と並べる抑圧はほとんど暴力だよなと改めて思う。」
シュナムル氏は、最近のラノベの表紙を女性の体を性的に異様に誇張して描いている、と書いている。
はてな界隈では性的消費のワードが注目されているみたいであるが、私個人的にはこの前段の文章の方に違和感を覚えたという言うか、引っかかった。
ラノベ表紙に描かれているのは雑誌モデルのように実在の人間ではなく、物語上の非実在のキャラクターである。
非実在のキャラクターなのだから被害者が存在していない。だから性的消費云々の問題以前に一体これの何が問題なのだろうか、という反論がはてな界隈でも出ていた。
だがここで重要なことは、表紙絵のモデルや下地になっているのはリアル社会における現実の女性一般である。ロマサガ2に出てくる人外のサラマンダーのような完全な架空の生物でない以上は、現実社会の女性をモチーフにしているはずなのだ。
である以上は、ラノベ表紙に描かれている女性キャラクターは「女性一般を性的に消費する」ことになるのだ。
女性の人格を無視して性的な存在としてだけ消費しており、従って全ての女性に対する尊厳の侵害である、というフェミニストの主張は筋が通っている。
しかし、ここでシュナムル氏やフェミニストたち、はてな界隈が見落としている点がある。
問題のラノベ表紙に描かれている女性の絵は、確かに胸や露出を誇張してエロ要素を前面に出している。
しかしこのような格好をすることができるのは一部の女性(キャラクター)だけであろう。
何が言いたいかというと、ラノベ表紙(だけに限らず雑誌やテレビなどにも共通するが)に登場することができるのは、一定レベル以上の美人や可愛い容姿、スタイルを持った女性だけである。
シュナムル氏もこの点を分かった上で敢えて書いていないのか、それとも本当に見落としているのか定かではないが…。
「自分の属する性別の体が性的に異様に誇張されて描かれている」とシュナムル氏は書いているけど、それは間違いである。
ラノベ表紙に描かれているのは、一定レベル以上の容姿の女性キャラクターという記号としての普遍化されている「シンボル」である。※シンボルの部分を「アイドル」とも「偶像」の言葉に置き換えてもいい。
ラノベの表紙からはブスキャラクターは徹底的に排除されているわけであり、この時点でシュナムル氏の言う「女性一般の身体を性的に異様に誇張して描いている」という話は破綻している。
ブスは女のカテゴリーから排除する、という暗黙の了解が存在しているからだ。
性的消費されているのは女性一般ではなく、一定レベル以上の容姿の女性だけであり、ブス一般は別に性的消費されていない。
何度も言うが、「美人一般」が性的消費されているとしても、それはあくまで「美人一般」だけであって、決して女性一般は別に性的消費されていない。
わかってないなあ。
「男社会においては、女は一定レベル以上の美人や可愛い容姿を持つ者しか人権が存在していない。
キズナアイやラノベ表紙のキャラクターなどは、その思想を体現するシンボルである」
と言う大変重要な話なんですけどね。
ラグビーのWCで日本では刺青を隠すようにという指示を「日本文化への尊重だ」と肯定的に評価する人がかなりの確立で日本以外で旭日旗を用いるのに肯定的なのはなんでなんだろう?
「外国の文化でどのような意味を持とうと、日本では反社会的集団のメンバーであるシンボルと解釈される」というのは、確かになるほどとも思える。
でもそうなら、外国などで、旭日旗を使用する際も「日本ではどのような意味かは関係なく、その文化でNGとされるなら使わないべき」と言えるよね?
でも「日本ではウンタラカンタラ」とか言って正当化するのはなぜ?
政府もそうだし、「広く受け入れられている」と主語が不明確な言い方しかしないよね?WWII期に日本の植民地だった、占領された国や地域ではどうなのか?とはぜったい答えないよね?
相手が嫌がってるのにわざと使うような差別主義者は論外としてなんでなの?
もっと言うと、旧植民地や占領地の連中ごときは尊重に値しないという宗主国根性なのかな?
いや、本当に不思議なんだよね
オタクの結構な割合の人が性的シンボルをやたらと強調した絵に興奮したりしてるじゃん?そんでここ数年は「オタクが市民権を得た!」つって結構オープンにやってたじゃん。
オタクがウェイ系とかパリピとかDQNとかを雑にひとくくりに記号化してるみたいに、周りの人はキズナアイが少し足出した衣装で媚びた声出してるだけで「オタクがいつもの性的に強調したシンボルをもてはやしてる」と反応しちゃうんだよね。だってオタクはこれまでずーっとそんなんだから。
お前らが陽キャに向けてた視線が跳ね返ってきてるだけなんだよ。迷惑な一部が印象に残ってみんな同じに見えてるんだよ。ファミコンもプレステもピコピコ、みたいなもん。肌を出して甲高い声を出してるキャラクターは気持ち悪い(まあ実際不自然で気持ち悪いと思う)
キズナアイが実際に性的かどうか、は関係ないんだよね。オタクのこれまでの行いが気持ち悪いから反射的に「また気持ち悪いことしてる…」って思われてるだけなんだよ。
私は運動が苦手で走るのも遅くて運動会が苦手だった。でも絵を描くことだけは自信があったから、赤組白組でそれぞれシンボルマークを生徒が描いて投票で決めるって知ったとき徹夜して絵を描いた。
私は赤組だったから「火の鳥」を描いた。図画工作で使うような簡単な絵の具しか使わなかったけど、30作品の応募があったなかで圧倒的に大差で1位を受賞した。運動会当日には体育館の外壁に私が描いた火の鳥がでっかく貼り出されていて、本当に嬉しかった。何より親や祖父母も運動会に来てくれて私が描いたシンボルマークをいっぱいいっぱい写真に撮ってくれた。100m走はビリから数えたほうがはやいくらい悪い結果だったけど、それより何より家族が私の絵を観て褒めてくれてくれたことが嬉しかった。それから運動会は私にとって楽しみなイベントになった。せっかくなら100m走でも1位になりたいと思って、走る練習もした。そしたら翌年の100m走で初めて1位をとれた。私にとって運動会は小学校で一番好きな行事になった。
少し時間が経ってからあることを知った。シンボルマークの生徒からの公募を提案したのは当時の図工の先生だったそうだ。なんでも「運動会で輝けない生徒達にも活躍の場を与えて行事を楽しんでほしい」という思いがあったそうだ。
私が中学に入りその後の離任式に参加したときにその図工の先生からその話を聞いて、「私に居場所をくれてありがとう、ありがとうございます」と号泣してしまった。
それからいくつかの絵のコンクールに応募してたまに賞を取れていたりする。私が絵を好きになれたこと、努力が報われる喜びを教えてくれたのは紛れもなく図工の先生だった。
https://www.yomiuri.co.jp/national/20180828-OYT1T50125.html
この件についてだが、私は表現の自由を守る立場から、エロ本や政府批判の言論と同じく、サン・チャイルド(防護服を着た少年像。以下『少年像』)の撤去は表現の自由に対する侵害であると考える。
以下にその理由を述べる。
市長は「見たくない人が見なくて済む場所を確保するのは難しい」と言っているが、そもそも『見たくない権利』は法律上ほとんど確立していない。
「公然わいせつ罪やわいせつ図画頒布罪はどうなんだ」と思うかもしれないが、それらの刑罰が保護しているものは『最低限の性道徳』であって見たくない権利ではない。
また、「見たら不快になるものを見たくない権利」を仮に認めてしまったら、差別主義者が「同性愛を見たくない権利」「黒人を見たくない権利」「モスクを見たくない権利」
などを主張し始めるのが明らかであり、「見たくない権利」は認めるとしてもごく限られた範囲で済ますべきである。
また、『福島県の人の尊厳を傷つけている』という主張も認められない。なぜなら、『福島県の人』に人権は無いからだ。
何もこれは、「放射能に汚染された福島在住者は遺伝子が変化して人ではない別の存在になってしまったから人権は認められない」などのように言っているのではない。
単に、『福島県に住む個人』には当然として人権があるが、『福島県の人』という抽象的な集団には人権がないと主張しているだけだ。
詳しくは、表現の自由擁護の活動をしている山口貴士弁護士の見解を読んでほしい。
2.この像による風評被害があるというのならば根拠を示すべきである
風評被害や嫌悪感については林智裕氏の記事が詳しい。だが、私はこの見解に異を唱えたい。
現在の福島にとって、「サン・チャイルド」は「過去に思い描かれた架空の未来」を描いた作品になっていると言えます。
たとえ、それが作者の制作意図ではなくとも、「日常を防護服姿で踏み荒らす人々」や「力づくで押し付けられてきた放射能デマと偏見」を
そうですか、想起させるのが悪いのですか。ではレイプ物のAVは実際の性犯罪を想起させるし、『幸色のワンルーム』は実際にあった未成年誘拐事件を想起させるし、
零戦を修復して飛ばせることは軍国主義を想起させることは否定できないから悪いですね。禁止されるべきです。
仮に、あくまで「空想上のイメージ」であるとしても、このままでは作者であるヤノベ氏が本来意図したアートというカテゴリーさえも逸脱して、
「サン・チャイルド」が福島に対する負の烙印やプロパガンダのシンボルとして一人歩きし、悪用されてしまう可能性すらあります。
具体的にこのようなメカニズムによってこのようなことが起きる、という根拠を抜きにして『可能性がある』だけで禁止することは妥当ではありません。
それを言うならば、ロリエロマンガを読んだ人が実際にマンガと同じことをしたいと思って幼い子供に性犯罪をする可能性もありますし、
資本論を読んだ人が再び共産主義にかぶれて身内同士で殺し合いをしたりする可能性もありますし、
コーランを読んだ人が過激な原理主義にかぶれてテロを始める可能性もありますから禁書にするべきですね。
……と言っているのと同レベルではないだろうか? 少なくとも、少年像がどのように害を与えるかを具体的に数字などで示すことができない限り、少年像が現実に被害を与えると言える理由は無い。