はてなキーワード: クラシックとは
ウィザードリィというゲームのクラシックコンサートに行ってきた
泣いた
泣いた
静かに、ただただ、涙が流れた
懐かしいが極まると人は泣くのか
やばかった
この二曲で大満足!!!!!
あぁ
覚えてるもんだなぁ
いやぁ
心が震えたーーーーー
ウィザードリィの中古カセットを買ったファミコンショップを思い出した
店主は一癖も二癖もあるおばさん
発売から月日が経っても値崩せず、高かった
FDDが1ドライブしかなく、ユーザーディスクを作るのがめちゃくちゃ大変だった記憶
1セクタごとにブランクディスクとゲームディスクを入れ替え入れ替え
うわわわわ
古い、記憶が、開いたなぁ〜
アンコールは1のオープニング
さっき聞いた曲なのにまた涙でた
最高ーーーーー
「手先が器用で、サイエンスな文章を理解できて、数式を理解出来て、法律文書を理解できて、クラシックな統計解析が出来て、データベース操作と簡単なプログラミングが出来て、報告書とプレゼン資料が作れれば」
タイトルは正確に
「手先が器用で、サイエンスな文章を理解できて、数式を理解出来て、法律文書を理解できて、クラシックな統計解析が出来て、データベース操作と簡単なプログラミングが出来て、報告書とプレゼン資料が作れれば嫌になったら工場にでも勤めればよい」に変えろ
工場は高卒あがりばかりで、こういっちゃアレだが、自分の学歴からするとかなり格下の会社に入ったと思う。
人事的には数年現場も経験させて管理職ってプランだったんだと思う。
ネジしめたり掃除したりする単調な日々のなか、ある時60過ぎの再雇用の人から統計の手ほどきを受けた。
専門家からしたら子供の遊びみたいな簡単なものだが、不思議とスラスラと頭に入った。
一緒に習った数人のなかで、ドロップアウトしなかったのは自分だけだった。
自分だって数学なんか好きじゃなかったが、世の中の人は数式が苦手らしい。
ネジの長さやら瓶の重さみたいな単調なデータでも、解析すれば次から次へと新しい発見があった。
自分に統計を教えてくれた人は、統計は使えても、パソコンが並の老人よりマシ程度のスキルだったので、紙の記録からせこせこエクセルに手打ちで入力して、都度せこせこと式を立ててというスタイルだったので、自分だけが機械から出力されたcsvファイルからスイスイと統計解析できた。
仮説をたてて、データぶっこぬいて、統計量をだして、分布表にあててp値を出す、それだけのことが世の中の人はなかなか出来ない。
世の中の人のほとんどは、プログラミングはおろかエクセルもろくに使えない。配列数式くらいで部署で1番になれる。
あの頃は天狗だった。
そのうち現場を離れることが多くなり、法律を読んだり役所にだすお堅い書類を作らされたりさせられた。
世の中の人の半分くらいは、法律みたいな少し堅苦しい文章になるだけで、日本語の文章を読むことすらできないようで、その手の仕事でも重宝されるようになった。
そうこうしてるうちに、かなり大きな会社に買収された。
上司は親会社からの出向組で占められ、ここから出世は難しそうだなあと思い始めた矢先、人間関係のトラブルで会社を辞めた。
しかし、今度は大卒、しかも修士とか博士ばかりで、びっくりした。
ここでは大半の人よりも自分のほうが手が早いし、数字のハンドリングも、ITスキルも役所とのやりとりも出来る。
手先が器用で、サイエンスな文章を理解できて、数式を理解出来て、法律文書を理解できて、クラシックな統計解析が出来て、データベース操作と簡単なプログラミングが出来て、報告書とプレゼン資料が作れれば、どんな会社にいても重宝されると思うのだ。
そういえば社会科見学でこの音楽聞いてる時にバスで通路挟んで隣になった巨乳女子のブラチラみれたんだなって思い出が蘇ってきた。
もう35歳。ブラチラなんかで抜けない年。でもそのブラチラは高校で彼女ができるまで毎日のおかずだった。
子供もいるし、こんな話増田にしか書けねーし、でも話したかったんだよね。
それであのブラチラの情景を思い出した瞬間に中学生の頃のように幼いが力強い脈動を感じる勃起をしたのよ。
35歳の男が、昔のおかずを思い出してだぞ。
嫁は子育てで忙しくてさせてくれない欲求不満もあったし、実際欲求不満で狂ったように巨乳物で抜いていても満たされなかった俺がブラチラ情景で勃起をしている。
「なんか、行ける気がする。」
明らかに違う。今まではギュッと力を入れて握ってやらないとなかなか発射体制にならなかったのに、擦っているだけで油断したら逝きそうになるような感覚が全身を駆け巡る。
一瞬普段と同じく乳首に手を当てるが脳が言う。「信じろ」と。それは自分の勃起した物を見ると真の言葉だった。俺は乳首に当てた手をおろし、ソファーの肘掛けを握る。
今までは無理やりハイオクを入れて走らせていた俺のバスがたった一つの思い出で暴走をした。
一瞬静寂が訪れる。終わりの静寂か?
否、これは高速道路に乗るためETCを読み取らせるための減速だ。
再びエンジンに火が灯る。大きくカーブを曲がり、タイミングを見て、高速にのる。高速に乗った瞬間に俺はハンドルを強く拘束し目を瞑る。
情景が浮かび上がる。
決して派手ではない白いブラ。それを突き破らんと蠢く2つの獣。
口ずさむ。
「もう一度僕を歩かせてくれ」
すると心から声が聞こえてくる
それを手にする力が情熱
小さく震える手にはマッチ
僕らが僕らに呼びかける 声
やっと気付いた。
燃えるような情熱がないのを妻との性生活に押し付けていたんだということを。
妻も俺に情熱の火が燻りだしたのを見抜いていたのかも知れない。
見ろ。
行為を終えた俺の心は晴れやかだった。
なんとなく「年をとったら落ち着かなきゃ」「落ち着くべき」「君はもう35歳なんだぞ」そんな言葉を投げかけられているようで35歳の自分を演じていた。
聞く音楽も大人らしくJazzだったり、クラシックだったり、そういうのばかり聞いていた。
演じていた。35歳の俺を。
「あれ?なんかスッキリしてるね。」
妻が問う。
「うん。昔好きだった音楽聞いてたら昔を思い出してね。」
AppleMusicは良いサービスだと思う。
古いから手に入りにくいかな?とか、CD買ってもどこにおいておくのか…なんて悩みはない。
もう困らない。そう、iPhoneならね。
簡単にいうと五感の接続が人とは少しズレていて、私は共感覚を恐らくもっている(恐らく、としたのはちゃんとした検査をしていないため)。
私は音や人の声が味で感じる時がある。
何を言っているのか分からないだろうが、クラシック(オーケストラ?)を聞くとココアやビターチョコレートのような味がする。そして、私は女優の天海祐希さんの声が苦手である(渋酸っぱい感じがする)。
そのため、人混み等のたくさんの物音が聞こえる場所では味がコロコロと変化するため混乱してしまったり、苦手な味を感じるとすこし落ち込むというか、滅入ってしまうのでそのような場ではイヤホンで音楽を流して過ごしている。
しかしながら、取引先など目上の方と外食をする時はイヤホンをつけっぱなしにするわけにもいかず、料理や酒の味よりも私の場合は音の味を強く感じてしまうため困っているのだが、何か良い方法はないだろうか?
家族は半信半疑ながらも理解してくれていて、家で食事をするときは皆で集まって食べていても1人だけ別室で食べることを許してくれていた。
また、田舎の出身のため友達の数も限られていて、昼飯の時はイヤホンをつけていても話せばなんとなくは理解してくれたので気楽だったのだが社会人になり、そのようなわがままを通すのも幅かられる気がしている。
結婚して2年が経ち、社会人生活も5年目を迎えた。仕事の後の平日の夜とか土日は仲間と音楽で遊んでいる。その音楽ってのがジャズなんだけど、会社関係の人にジャズやってますって言ったら「格好いいですね!」って反応される。
ジャズは格好良くないからって言っても理解されない。これが悔しい。そもそも学校で音系サークル行ってる人は運動会より陰キャだし、軽音の雰囲気に馴染めなかったような人が辿り着く音楽が(そこそこクラシックの素養があるのが前提だけど)ジャズだと思ってる。薄暗い部室で根暗オタクが汗かきながら楽器に向き合ってるのがジャズで、みんなが考えるジャズはきっとレストランで流れてるような綺麗な曲なんだろうな。
ああいうのも確かに好きだけど、何回やっても変拍子に殺されるような曲も、早過ぎて指が終わるようなビバップも、テンションにテンションを重ねて勝負するコード祭りも、暑苦しいジャズもあるんだって知って欲しい。
中学生とか高校生くらいで、ソロの演奏会開くぐらいになってるプレイヤーはそこそこいる。
ピアノかヴァイオリンが多いけど、その他の器楽とか、たまに声楽も。
こういうコンサートだと花束とかの贈りものは別に普通。毎回通ってると確実に覚えられる。
ポップスとかアイドルの世界に比べてすごく狭い世界なのと、将来プロとしてやっていける人の門の狭さもあるので、毎回聴いて応援してくれる存在というのは有難がられる。
そのうち楽屋にも出入りするようになったりとか。
ちょっと花開いてCD出したり上のステップに行ったりすると「無名の頃から応援してくれた人」の格が上がるっていう構造は同じ。
知り合いにもいた。純粋にそういう無名のプレイヤーのコンサートに行くのが趣味だったのか、それとも別の目的だったのかはわからないけど、対象は若い女の子ばっかりだったなあ。
親離れの時期かもね。あなたの人生だからあなたのやりたいことをすればいい。
クラシックやジャズをプレイヤーとして楽しめるなら、周囲の評価なんて関係なく、とことんそれをやればいい。
違うジャンルの音楽をやってみたいならそっちの方向にいけばいいし・・・
親が優秀すぎて、、、という気持ちは私にはわかるような、分からないような・・・
ただ、あなたは自分が「親の七光り」なんじゃないかと思ってるみたいだけど、音大入れるならそれなりに実力あると思うよ。
ほとんどの人は「七光り」とまでは言わないけど、ある程度は親の教養や経済力とか、社会的地位とかの恩恵にあずかっていると思う。
だから、あなたが今の境遇を自分のやりたいことのためにソレを使うのは全くズルくないし、とことん利用すればいいじゃん、って思う。
この道は違うな、と思っているなら、もう音楽をやめてしまって、保育系とか違う道に進んでもいいんじゃないかな。
私の両親は音大出身で、一応伏せるが父はとある金管楽器を、母はピアノを専攻していた。父の試験曲の伴奏を母が担当したことがきっかけで二人は出会い結婚し、やがて二人の間に産まれたのが私だ。
そういった環境だから小さい頃から家ではよくジャズやクラシックのCDがかかっていたし年末は紅白じゃなくて東急ジルベスターコンサートを観たしよく父や母が出演するライブやコンサートを見に行った。周りの大人はみんな私を可愛がってくれた。
楽器も習わせてもらった。小学校の頃から私は歌もピアノも他の楽器も人並みより出来て、友達はみんなすごいと褒めてくれた。先生もやっぱりお父さんお母さんが楽器できるからあなたもよく出来るねと多分それは純粋な褒め言葉で、私は誇らしく思った。優秀な両親の血が私にも受け継がれているんだ、私にも才能があるんとだ嬉しかった。
中学の時に入った吹奏楽部の顧問が、一度父に楽器を教わったことがありそれ以来父を非常に尊敬していると言った。勿論嬉しかったけど何だか少しモヤモヤした。顧問はよく私を褒めてくれたし吹奏楽コンクールに出場することも顧問が決めた。1年生でコンクールに出られる人数は限られているが、私はその中でも一番最初に、オーディションとかをする前に合奏中全員の前で言われた。その時にはもう私は、それって私の実力?それとも父に対しての忖度?と思うようになっていた。多分受け取り方の問題だと思う。素直に喜べばいいのに、褒められる度に「私が父の娘でなければここまで褒めてくれたりしなかっただろうな」とひねくれた思いを持った。担当した楽器を高校でも続け、この楽器で音大に行きたいと言うと両親は喜んだ。いや、喜んだかどうかは分からないが、少なくとも保育系に進みたいなと高校二年生の頭頃に言った時より嬉しそうな顔をした記憶がある。
学費など諸々考慮した結果、両親が通っていた大学に通うのが一番良いということになり、父が大学の教授に連絡を取ってくれて受験に向けての個人レッスンを受けられることになった。大学に合格し、入学した時には既に先生や先輩達の間では「○○の娘」と知られていた。私の名字が鈴木とか佐藤とかよくいる名前だったら分からなかっただろうけど、都内にはほとんど居ない名字だったからすぐに分かったのだろう。初対面の先輩に挨拶した時も大体「もしかして…」と尋ねられた。両親が在学していた時からいた教授に挨拶すると、大体決まって「楽しみにしてるよ」と言われる。それは果たして「私」に期待してくれているのか、「○○の娘」に期待しているのか分からなかった。廊下ですれ違うと大体「どう最近?親御さん元気?」と聞かれる。これは今でもそう。
それでも二年間、色々なことに絶望しながらも当たり障りのない大学生活を送ってきた。
ところが3年で、父が現在でも個人的にお世話になっているという先生の授業を受けることになった。先生は多分「○○の娘」という肩書きを抜きにして私のことを気にかけてくれたし正しい評価もくれていると思う。
先日その授業で、抜き打ちで試験があった。まだ答案は返ってきていないけれど、自分の点数が本当に悪いということを試験中から自覚している。中学とか高校の数学だったり化学だったりの所謂普通の授業だったらきっと私は笑って流していただろう。けれど今回は震えた。父と先生が話す時絶対言われる。父はよくその先生のことを私に話したし、「先生がお前のこと頑張ってるって褒めてたよ」というのを聞いたから尚更やばい。「お前の娘、知識は全然ないな」と言われるのが目に見えてる。怖い。ああこれが私が全く先生とは関わりがない親の娘だったらここまで戦慄しなかっただろう。いや今回の試験に関しては100%私が良くないのだけれど。「○○の娘」として沢山の先生から期待をかけられていて、気に入られなきゃ、好かれなきゃ、優秀な両親の娘だから私も優秀でいなきゃとずっと考えていた。昔は誇らしかったものが今では足枷に変わりつつある。きっとこれからも「○○の娘」としての周りからの期待は続くだろうし、卒業した後も音楽を続けるのであれば尚更だ。
正直あいちトリエンナーレ関係のニュースは補助金関連の辺りから食傷気味であえて距離を取っていた。
Chim↑Pomが炎上してるってのをネットで見ても、「まぁ元々ある程度炎上商法的な立ち位置だしな…」と思ってしまったのも事実だし、「被曝最高!」「放射能最高!」の文字列が並ぶニュース記事を見て、「あぁこれだけ見れば物言いたくなる人がいて当然だな」とまず思った。
昨晩のTBSラジオ「session22」のOPにリーダーの卯城さんが出演し、作品の意図と、「気合100連発」の音声がO.A.されていた。
https://twitter.com/session_22/status/1182282259946041345?s=21
帰りの車中でこれを聞いてて初めて詳細を知ったんだけど、自分は正直なところ、分別のつく人ならこれを福島ヘイトと捉えるわけがないと思った。
悪意のある誤読や切り取りか、ニュースの見出しだけ見て判断してしまったのでない限り、作品を鑑賞した上でそのような感想を持つことは考えにくい。
…と思っていたんだが、卯城さんが表現の自由について至極真っ当な「正論」を話しているのを聞いていると、この数年来感じていた違和感が思い起こされてしまった。
あえて手垢のついた言葉を使うが、その正論はどこまでいっても「リベラル」な正論なのだ。
ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』とダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』の議論を下敷きにすれば、保守はシステム1に、リベラルはシステム2に主に訴えかける主張だ。
リベラルな言論空間は、徹頭徹尾システム2で考え抜いた言葉が要求される。
要するに、面倒臭いのだ。
フェイクニュースの流行やトランプ以降の世界は、「ネット空間で誰もが発言できバズを狙えるようになったことで、個人の承認欲求がこの『面倒臭さ』を圧倒してしまった」ということで、かなりの部分説明できると個人的には思っている。
ただ、アートを含めた文化全般の価値を信じ抜きたい人間としては、その面倒臭さ(=作品の文脈や、各カルチャーの歴史を調べた上で作品に接する態度)を軽視する風潮にはどこまでも抵抗していきたいと強く思う。
文脈を一切排除した現代アートは語義矛盾だ。20世紀以降の芸術はそれまでのスタンダードを破壊することに拘泥しすぎたきらいはあるが、作品の意図を読み解くためには、19世紀までの西洋美術の功罪を知ることが必須だ。
これはクラシック音楽のスタンダードからの脱却を図った現代音楽を聴く際にも求められる態度だ(クラシックの素養なしにサティやストラヴィンスキーやシュトックハウゼンを十分楽しめる人はまずいないだろう。)。
またそれは、パンクの登場が世間に与えた衝撃を知るためにはロックの誕生からプログレ・商業ロックに至るロック史を知る必要があり、エルヴィスが世間に与えた影響を知るためには19世紀末以降のアメリカのポピュラー音楽史を知る必要があるのと同じことだ。
それはとても面倒臭くて時間がかかる作業だ。しかしその作業なしに、過去を顧みることなしに、創造は有り得ない。
ポピュラー文化は人口に膾炙してこそ文字通りポピュラーになるわけで、文脈を知らない人を巻き込んでいく必要性のためにこの桎梏を抱えざるを得ないわけだが、情報が溢れる現代においてはその困難さの質が極めて短期間で変容してしまうように思う。
ただ、文化が社会の発展に寄与した功績を理解できる人ならば、こうした時間のかかる作業がマネタイズできない時代においてこそ、その価値が保全される必要性をひしひしと感じているのではないだろうか。