はてなキーワード: 詐欺とは
動画の種類
Youtube・・・成金がひたすら金持ち自慢してるだけ 注目あつめるためだけの嘘サムネ 詐欺タイトルデカ文字 テレビの真似事
ニコニコ・・・今となっては陳腐でも、 MMD杯やMADなどその当時なりに最先端の映像技術や面白さを追求していた 映像技術では比べるべくもない
動画の種類
Youtube・・・5分10分の動画だけ 商品レビューが大半 子供が喜ぶので派手な効果音をいれまくって変顔()をしまくりましょう
ニコニコ・・・教養系や考察系など普通に30分の文字動画をいくつでも見てられる 商品レビュー() なんてなかったし あってもだれも見ない
Youtube・・・テキスト垂れ流しニュース動画が数万数十万再生される
ニコニコ・・・そんなもの見向きもされない 再生ゼロコメントゼロで終わり
Youtube・・・なにもなし 注目あつめるために犯罪やいたずらしたりとかのクズが増えただけ
ニコニコ・・・・淫夢などのネットミームの遊びのプラットフォームとして機能 数々のスラングや名言が生まれる
youtube・・・ゴミ糞 ただひたすら糞 タグに意味ない なにかを検索すると「似たような文字列を含む再生の多い動画」が表示されるゴミカス
ニコニコ・・・・事細かく設定できる、がタグで見たい種類の動画だけをピンポイントに見続けられる というかタグで巡回するだけ 文字検索なんてしない
youtube・・・検索機能が実質的に存在しない為、初投稿者やビギナーの動画は存在しないのと同じ 本田翼とか芸能人はニュースやプレスリリースで視聴者をリンク誘導してから参入
ニコニコ・・・・登録者数なんて概念がない 誰が投稿したかなんて見ないし気にもしない 誰が投稿したから伸びるとかもない 動画の面白さそれ自体しか見られない 初投稿する奴とベテランが同じ土俵で評価される 先述のタグ機能で
Youtube・・・ただひたすら無差別目的に動画を再生させてCMを再生させて金を稼ぐのが目的 動画の質よりも動画を投稿する頻度のほうが大事
ニコニコ・・・先述のタグで 自分の動画を見たい層に見せるのが目的 それ以外の層に再生されるコメントされる必要がない カネは一切絡んでないし、絡んだやつが人気になったり注目されることもない
Youtube・・・企業の宣伝、ステマ、それから報酬もらったYoutuberなどが大半 なにかを宣伝する、なにかを売る、どこまでいってもただひたすらそれだけ 人気とされる投稿者は全てそう
ニコニコ・・・なんの利害もないアマチュアが、自分の動画を、見たい層に見せるのが目的 ただそれだけ それで面白い
Youtube・・・コメントにlike/dislikeがあるが、有名人がコメントしたらlikeが多いとかそんなもの likeが多いと上に表示される 「here is an english comment your are looking for」とかいう意味不明なのに使われたりする
ニコニコ・・・ニコるというコメントを評価する機能があった 誰が言ったかなんてまったくどうでもよく コメントとしての面白さだけが追求されていた
youtube・・・投稿者が自由に設定できる 数秒きざみにCM設置して1分の動画見るのに1分以上のCM見させたりとかも可能
ニコニコ・・・・youtubeほど多くない 最初と最後にちょっとあるだけ
総括
2015年あたりまでは日本国内では圧倒的にニコニコのほうが勝っていた
Youtubeに比べてよく動画の重さシークできなさが引き合いにだされたが、それらを補って余りある魅力によって
Youtubeがタダで使えるにもかかわらず、年間6000円払う有料会員を250万人も擁する世界最大の課金動画サービスだった
特にオタク界隈ではニコニコ発のネタが殆どでYoutuberなんて空気でただのロダ扱いだった
Youtubeでニコニコの転載動画が再生数万数十万いくことはあっても
ニコニコでYoutubeの転載動画が注目集めたり話題になることはなかった
見ての通り最初に技術者が作ったサイト自体の機能性でYoutubeを突き放して何年間も人気だった
もしも、もしもだが、金を払わされた上に、意図的に操作された情報を売られたんじゃ、金返せ!って普通は言うよな。
プレミアムサービスのページにはこんなこと書いてあるが、それって嘘ってことか?
「ユーザーによる多様な口コミ 実際にお店に行ったユーザーのリアルな口コミを多数掲載しています。人の味覚は十人十色であり、お店の評価は賛否両論あって当然です。どちらの意見も掲載することで、よりお店選びの参考になると考えています。」
https://tabelog.com/rst/premium_service_guide?tid=ps_top_uib
「実際」とか「リアル」と言っているが、店から料金とってコントロールしていたなら、詐欺と言われてもしかたないよな。
本気で言ってて、報道が本当なら、これってかなりひどいよな。
はてな匿名ダイアリーにおいてパート2というのはアリなのでしょうか…? 文化が分かりません。もし痛々しいようでございましたら申し訳ございません。
以前投稿した記事(https://anond.hatelabo.jp/20190926105149)にて私見を交え自分の持つ症状について解説いたしました。が、「タイトルとイメージが違う」とのご指摘がありそういえば元々は自分の人生について書いてみようとしたのだということを思い出しました。前振りだけでいい具合にまとまったのでそれで良しとしてしまっていました。
というわけで本題の発達障害者である私の自分語りをさせていただきます。自閉症と多動症を持って生まれた私がいかように生活してきたのか、振り返って書き連ねていきます。詳しい症状につきましては省略いたしますので、不明点がございましたら上述の記事を参考にしながらお読みください。
出生の頃から追って話しましょう。さすがに私の記憶は流石に薄れていますが、当時から私が育てるコツのいる子であることは母には察しがついていたようです。
目を合わせて話さない。集団行動ができない。特定のモノに極めてこだわる。このような特徴が見られたようです。もちろんこれらは赤ん坊であるならば持っていても変ではない特徴も含まれますが、私の場合は幼稚園年長くらいまで続いていたらしく「他の子とは明らかに違っていた」と言います。
集団行動の苦手さを表す具体例としては、前回の記事にも書きました幼稚園から脱走していたことが主だったモノとしてあげられます。とにかく放っておくといなくなる。あまりにいなくなるものだから、見失わないように私だけ違う色の帽子を被せられていたり園長先生が抱っこして確保していたり特別な措置が取られていました。「差別的ではないか」と保護者会で話題になったとか。まぁ当の両親は正しい判断であると先生にいたく感謝をしていたようですが。
まぁ幼い子であれば”ひょうきん”だとか”手のかかる子”という表現だけで済むのです。迷惑はかけましたが面倒な問題にはなりませんでした。
ここであげておきたいことが”目を合わせて話さない”という点とそれに対する母の対策です。
子供は成長しながらコミュニケーション能力を身に着け、その一環で「目を合わせて話す」ということの重要さを学ぶものです。大人の真似をし、後々意義を理解するというのが発達の基本ですからコミュニケーション能力もそうやって身に着けるのでしょう。
ただ私はとにかく誰かが話しかけてもそちらの方を見ないし、私が誰かに話しかけるときもこちらを見ない。私には会話中に相手の顔を見るという発想がなかったらしいのです。おそらくですが、やる意味は分からなかったのでしょう。「そういうものだからそうする」とか「みんなそうしてるから」といった発想は私には薄いのです。ゆえに真似をせず、発達が遅れる。この性分が字のごとく発達への障害になっています。
今思えばこちらを見ずに話しかけるサマというのは、やや気味の悪いように見えたことは想像に難くありません。
この悪癖を放っておいたらいけない、と母が実践したことが「とにかく自分から顔を見て話す」ということ。
子は親を見て育つ、それで覚えないならもっと見せていくしかないという発想のようです。とにかくちょっとした会話でもしゃがみ込んで目線を合わせる。呼びかけられたら自分から私と目が合う位置に移動する。意図が分かりやすいよう、たまに口でも「目を合わせて話してね」と言う。母の行動は徹底していました。
そうしているうちに、私は目を合わせて話すようになったんだとか。
つまるところ、覚えが悪い子もちゃんと教え込めば理解できるようになるのです。特に口で言うことは大事です。「こっち見てくれないと誰に言っているのか分からないから」など理由もつけましょう。意義が理解できればやるようになります。言い過ぎると逆効果という例もありますから、難しいところではありますが…。
また今更なのですが、ハッキリ言って私は親に恵まれています。「うつ病ブログ見てたら”恋人が助けてくれて~”とか書いてあった」とか「食費節約の記事見てたら”米は実家から送ってもらって~”とか書いてあった」などに近い事案かもしれません。ご了承ください。うつ病患者にとっての恋人とか、米を送ってくれる実家みたいな存在に自分がなるんだという気持ちで知識をつけることにこの記事が役立ってくれるなら幸いです。
問題が徐々に起き始めるのはこの頃からです。先生から露骨に出来ない子という扱いを受け、いじめを受けたりいたします。もう”ひょうきん”で済む年齢は終わってしまったのです。
実際私は色々なことができませんでした。運動は大の苦手で、漢字テストは毎回落第し、常識はずれな行動も多く、そして正直に色々言い過ぎます。私としては何がなんだか分からないまま先生に怒られ続ける日々でした。本当に何がいけなかったのか分からないので、具体的な問題の例を挙げられません。ただ先生から見たらよほど出来の悪い子だったのでしょう。そんな私がクラスメイトに標的にされるのは自然なことでした。
いじめのトドメになったのは噛み癖があったことです。どうも私は触覚に安らぎを覚えるようで、自分のモノは噛みたくなるし顔にこすりつけたがります。鉛筆他色んな所有物をよくかじっていました。正直言って、これに関してはいじめられる側の原因と言えます。
私に触れることはアウト、私の触ったモノはアウト、しっかり拭けばセーフになる。他の生徒からはそのような扱いを受けていました。
さてまぁ壮絶な過去に見えますが、我ながらこの時期はずいぶん気丈に過ごしています。
まず絶対親にこのことを言いませんでした。というのも、大事な人が傷つくのは嫌だったのです。偉いとか優しいとかではなく、それが破ってはいけないこだわりの一つだったのです。
学校でいかように過ごしていたかと言えば、とにかくクラスメイトに話しかけました。嫌な顔をされたりするのは当然ですし、拒絶された記憶もいくつかあります。
なぜそんなことをしたかと言えば、話していい人と悪い人を判断するためです。クラスメイトが全員いじめに参加していましたが、それが全員の本心というわけでもないのです。心底私が嫌いな人、みんながやっているからいじめに参加している人、実はほぼ嫌悪感を持っていない人など色々います。なんというか、これが分かっていないと学校生活で困るのです。分からないことや授業中など、学校生活では会話は必ず必要になります。ですからこの人は話しかけていい、この人は絶対ダメという判別をする必要があったわけです。給食の配膳なども私が配るものを受け取る人受け取らない人がいるので、それも覚えていた方がスムーズでした。
それで大丈夫だったのかなんて思う人がいるかもしれませんが”私に触ることはアウト”なので殴る蹴るは絶対にされないわけで、だから私もこのような行動をとっていました。ちなみに話しかけていい人にも必ず距離を置いて話していました。これらのおかげで嫌悪感をぶつけられることも減りましたし、触らなきゃ話せる相手もできたので大成功だったと言えるでしょう。
今思うと自分でもやや呆れる行動ですが、このような割り切った行動ができるのは発達障害者の強みだと理解しています。
ちなみにダメージが無かったかと言えばまったくそんなことはなく、ストレスが振り切れて”触ったらアウト”をということを使って逆襲したりもしました。本気で泣かれたことがよりショックで私も泣きました。発達障害者も人なのです。無関心でいられるのはよかろうとも嫌悪は精神的に来ます。
はてさてそんなのが一年ほど続いて、私の噛み癖も抑えられた上にクラス替えでいじめがウヤムヤになった頃の話です(子供のいじめなんてそんなものです)。
いじめが無くなったとはいえ、私が色んな事が出来ない状況は変わりありません。未だ先生の心証は良くなかったようで、三者面談では母が怒りかけるほど小言を言われたそうです。
これではいけないと判断した母は育児について調べ初め、発達障害について知るやいなや私を児童精神科に連れていき、正式に診断を受けることになりました。診断結果を話した結果、先生の対応は一変。連絡帳を通してたくさんの配慮をしてくれるようになったそうです。
診断を受けるということは自分が症状を理解することはもちろん、相手に配慮を求めることにも役立つのです。
私の母などもそうですが、先生の態度について色々思うことがある人もいるかと思います。ただ実際にいじめを目の当たりにしてできることはあまりにも少ないですし、しつけのなっていない子が存在するのも事実です。ですからやはり自分で自覚して問題を起こさないためにも、ただ出来ない子と思われないためにも診断は大事なことなのです。診断には強い説得力があります。少なくとも小学校教師になれるほどの英才の方であれば、医師の判断の重大さは分かるはずです。
さて通院や教師の配慮を通して自分が他の子とは違うことを十分に理解し、列から抜け出さないとか家に勝手に帰らないだとか当たり前のことは覚えながら成長していました。大人の方はみなそうですが、私の問題を挙げても存在否定はいたしませんでした。今自分のことが大好きなのはこのおかげであると考えております。
中学生になった頃には自閉症的な特徴がプラスな要素になることも多くなっていました。他人に無関心という点などは特に強かったですね。
なにせ中学校はけっこう面倒な社会です。どこのグループにいて、誰と誰が喧嘩して、あいつはどこに受験して、あの先輩はあんなことしてて…などなど。面倒です。そして誰もが面倒と思っているのに、多くの人はこの面倒な風評を気にしてしまいます。ただ自閉症患者としてはこれは本当にどうでもいいことなんですよね。立ち位置とか気にするの面倒なのです。知らんわ。
そういうわけで私は特定のグループにいることはなく、基本的に面白い人なら誰だろうと話しかけていました。それのおかげか誰とでも平等に話すなどと評価されることが多かったです。よく気軽に話せるなどと言われました。あとは趣味に偏見がなかったのも大きいでしょうか。バント、小説、アニメにスポーツ、変わったところではジャニーズなどの話を聞いていました。自分が知っているわけではないものも多くありましたが、楽しく話せる分には何でも歓迎でした。しがらみがない人間というのは中学校においてはとても貴重な人材だったのでしょう。ゆえに”他人に無関心”はお気に入りなのです。健常者に自閉症マウンティング取れますね。
また他人からしてみれば強烈に個性的に見えるようでけっこう人気がありました。良くも悪くも目立つ人だったのでしょう。
さてかなり上手いこと発達障害を個性にできたと書けば見栄えは良いようですが、決して楽なだけではありません。
とにもかくにも自己分析を続ける日でした。「お前は客観視ができない」と両親からひたすら言われ、客観視とはなにかから始まり自分がどういう特徴があるのかズラズラ考え続けていたものです。あるモノにどういう特徴があるか知る時の基本は、他のモノと比較することです。障害の本もいくつか読みましたが、自分は平気でやるが他人がやろうとしないことを色々見て知ることが一番客観視につながったのだと今では思います。まぁおそらくそんなことは小学生の頃にやっておくのが一般的なのでしょうが…。
意義が分からない限りやらないのが私でございます。自分を理解しないと人に迷惑をかけることになると知って、ようやくこういったことを始めたのです。
まず自分が失礼なことをたくさん言う人であると理解いたしました。ウケ狙いとかではなく、何とも思わず指摘するのだからタチが悪い。特に女性の容姿については言うべきではないと学びましたね。
それに自分は集中すると周りが見えなくなるし、やると決まったことは徹底的にやるし、陰口は言いたがらないし、ツッコミで強く手を出しやすい方だし、婉曲な言い方が理解できない。こういうことをとにかくたくさん知りました。この記事を書くこと自体も客観視の一環ですね。
しっかり向き合ってみれば結構分かるものです。ただまぁ前回の記事の通り「~~という特徴であるらしい」とか上手く自覚の出来ない特徴も多くありますが。ただ、これを知るだけでも行動は変わるものです。怒られたり驚愕されることはずいぶん減りました。
月並みではありますが、大事なのはとにかく障害に向き合うことです。なんでも知っておけば「あっこれやったらダメかも」と分かるモノです。「これはしちゃダメ!あれはしちゃダメ!これはしろ!」といったようにルールを決めるのではなく、特徴を知ってその都度対応しましょう。ルール決めが必要な時があったとしても、第一優先はそこではありません。
ここまで書いて気付きましたが、中学校でのエピソードに欠けていますね。強いて挙げるなら友人がバカにされてハチャメチャに怒ったことでしょうか。
やけに他人を見下す阿呆がいまして、彼奴が私の友人を散々に罵倒したと聞いて教室に殴りこんだことがあります。結局ロクな解決にもなりませんでしたが、他人に無関心というのは「他人がどうでもいい」のではなく「自分が好いている人以外がどうでもいい」のだと知ったキッカケです。友人は他人に入らないらしく、むしろ思い入れが強いのかもしれません。
前回の記事で発達障害者がストーカーになったなどと反応がありましたが、なるほどと少し納得いたしました。
高校時代についても書こうと考えましたが、エピソード不足でありますし少し疲れたのでここで筆をおきます。
さて前回にて「アスペで友人がいるなど詐欺だ」などという反応がございましたが、実のところ私も不思議に思っていた時期がございます。おそらくはとにかく正直で、フラットで、好きな人にはそれなりの接し方をしていたからではないかと結論付けています。20年生きてきて分かりましたが、正直は美徳と言うわりにそういった人は案外少ないものです。外面を固めるのが上手い友人が私の前では豹変したようにドサドサとキツイ言葉を吐くサマは中々愉快でございます。私が楽しいから友人といるのと同じく、彼らも私といて楽しいからいてくれるのでしょう。友人への敬意と多少のユーモアがあれば、あとは個性として楽しまれるのではないでしょうか。
記事の中では母についてはいくつか触れましたが、父の出番はありませんでしたね。というのも父は私のことを本当に放っておいたのです。好きなことをしていればそれでいい、とそれだけは言っていましたが強く干渉することはありませんでした。実際に父も自分の好きなことをたくさんしていました。食事が大好きで今ではメタボなほどですが、誰の忠告も無視してまだ食べ歩きを続けています。子は親を見て育ちます。私が自分に正直に、好きなように生きているのは父が影響しているのでしょう。結局両親ともども私のために色々してくれたのです。
ご参考になれば幸いです。
高校を卒業してしばらくした頃、所謂ネットワークビジネスに手を染めた同級生が何人か居た。彼らはアツい仲間だの、人生逆転だの、そういった言葉をかつての仲間たちに振りまいて何人かの人生をともに陥れようとした。
本当に儲かるんだぞ、ってことの証拠に彼らがこぞってInstagramに載せるのは、ルイヴィトンとモエシャンドン、そして肉寿司だった。
俺の周りでは、こうした詐欺にのめり込んでしまう者の大半が元高校球児だった。生き甲斐を失った空虚感に餌を蒔かれたことが、簡単に想像できる。
あまりに稚拙で下品な誘いに、どういう生き方をしていたら引っかかってしまうんだと、こちらからしたら想像もつかないくらい馬鹿げたことだけど、それも仕方ないことなのかもしれない。それぐらい彼らの世界には野球しかなくて、それに人生を捧げていたわけだから。
部活に熱中し汗流す学生時代を過ごすのはとても素晴らしいことだけれども、
何も知らない大人にならない様、これから各高校では、このようなケースを未然に防ぐ教育を、被害者のOBを招いて講演をするなどして行うべきではないかと思う。
思い出づくりに世界一周旅行に出発。理由は、世界の厳しい現実をこの目で見たいから。
この時点で、途上国を上から見るパターンの勘違い大学生感がすごい。
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インドで親切な人についていったら騙されたという話をnoteに載せる。
https://note.mu/shogo622/n/n99e40d665438
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即座にpolcaで、騙された分の金の補填のために、多額のクラファン開始。自業自得でインド人に金を渡したのに、バイトもせずに人から集金する姿勢に疑問の声が集中。
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そもそもインドで詐欺にあった話自体が嘘で、クラファン詐欺ではないかという疑惑が起こる。
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振り込み履歴などの、詐欺にあった証拠の提示を求めるリプはスルー・削除。同様に、都合の悪いpolcaのコメントも削除。この時点で、嘘がほぼ確定か?
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Twitterに鍵かけて逃げる
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あいちトリエンナーレについて、補助の打ち切りは表現の自由に対する冒涜だという意見がある。
例えば、例えばね、挑発的な悪意のある作品が展示され続けたら、それがどんどん過激になっていったら、いつかどこかで規制されるのは当たり前だと思う。他者の権利を侵害してまで表現の自由を保証している国なんかどこにもない。そしていちど前例ができてしまったらなかなか覆らないだろう。そう考えると、わざわざ天皇の写真を焼くような過激な作品を、充分な準備なしに展示した行為こそが制度に対する挑戦であり、表現の自由に対する冒涜なのではないかと思う。
過去にだれかが戦って勝ち取った表現の自由という権利を、浅薄な政治批判というか個人攻撃のために失おうとしているわけだ。日本国内で一回しか使えない大技をこういう形で繰り出してしまって、結局人々に大した影響を与えることもなくお蔵入りになってしまったわけで、無駄撃ちとしか言いようがない。
美術家たちは戦う相手を間違えている。敵に踊らされて味方同士でやりあってどうするのだ。それがわからないのでは愚かと言うほかない。
そしてね、別に政治批判やあれの展示が金輪際禁じられたってわけではないのよ。文化庁が積極的に支援をしないだけで、誰にも罰を与えてないし、何も禁止されてないのよ。だいたいにおいて申請した期間開けなかった展覧会に満額の補助金を出させたら詐欺ではないのか。予定した期間開けなかったのは主催者の準備が足りなかったからだし、せっかくの展覧会を台無しにしたのは誰なのかよく考えてみよう。
と思う頓珍漢なのだった。