はてなキーワード: 白人男性とは
・「最初の」云々はこちらの手落ちだね。以下そちらの文章を引用しつつ訂正する。
ニューシネマは旧来の映画とくらべて白人中心主義的な枠組みを脱してないといえば脱してないがそれは特徴とは言わない。変わってないんだから。
だからまずニューシネマの特徴といえばスターシステムから逃れて多様な価値観を提示できたというのが、まず特徴として挙がってくるのが正しいわけでそこをすっ飛ばして、ニューシネマは白人中心主義的だというのが先に来るのが論としておかしいの。
・あなたは「最初」は「白人男性中心主義がでっかく出てくるのはびっくり(おかしい)」という話をしていたのに、追って「スターシステムの崩壊より白人男性中心主義が先に来るのがおかしい」という順序の話に変えましたよね?そこは同意できるよね?「最初」ではないにしろ「先に」触れないとおかしいと。(でも特徴を語る際に他より「先に」触れる必要がある大きな特徴って、実質「最初に」触れないとおかしいと言っているのとほぼ同義だと思うけどね。まぁ言葉遊びが好きなら付き合いましょう)
・(痛いところを突かれたからだと思うけれど)「スターシステムの崩壊よりも先に白人男性中心主義に触れたのは、そもそもフェミニズムの見地から感想を述べる企画だから。故に白人男性中心主義に言及しても別におかしくない。加えて、単に白人男性中心主義に言及しただけで「これこそ特徴!」みたいな語り方はしていないよね?」の件にまったく触れないのはなぜですか?
・「前の時代と同じだと特徴だと言わない」のはなぜですか?比較対象が前の時代に固定されているのはなぜ?別に「現代の作品と比較したときに男性中心主義である」とか言えるよね?以下、自分で言ってるじゃん。
あのね、特徴ってのは他のものと比べてとりわけちがって目立つ点を言うの。
・「他のものと比べてとりわけちがって目立つ点」が特徴だとあなた自身が定義したのに、なぜさらっと比較対象を前時代に固定しているの?他のものと比べようよ
・「スターシステムの崩壊がニューシネマの特徴」について異論ないですとしているのにまだ長々とスターシステムの崩壊について語る目的が不明です。そこははじめから議論ないって。
・役者の例示の件も何が言いたいのかよくわからない。スターシステムの崩壊は女性にもメリットあったと思うよ?ただ(あなたの役者の例示が男性だけになっちゃうくらいには)男性ほどメリットなかったよねってだけで。
・やっぱり何にびっくりしている・キレているのか、北村氏を腐す必要があるのかわからないんだよな。やっぱり唐突に「学者のくせに」とか言い出すあたり学歴・アカデミアコンプなのかね
あいかわらず君はじぶんの都合のよいように、問題をすり替えてるね。
おれは「ニューシネマの『最初の』特徴として白人男性中心主義は挙げて」なんかいない。「ニューシネマの特徴として白人男性中心主義がでっかく出てくる」といってる。『最初の』と言い出したのは君だけでおれは言っていない。勝手に自己解釈で要素を付け足すな。
そして先にも言ったように白人男性中心主義はニューシネマの特徴ではない。なぜなら旧来のスタジオシステムとなんら変わってないから。
変わったのはスタジオシステムの崩壊、スターシステムの崩壊で、以前だったら主役を張れなかった俳優を主演させて多様性が出てきたというのがまさに特徴だろう。そうした多様性に言及せずスターシステムのことに触れても意味がない。スターシステムが崩壊したことにより、どのように映画(特に俳優)に変化が訪れたのかまったく触れてない。学者のくせに。
挙げてる俳優が男ばかりと言ってるが、まさかスターシステムの崩壊が男にしか恩恵がなかったといいたいのかな。
70年代に主役を張ったメリル・ストリープやゴールディ・ホーンやあるいはジーナ・ローランズだってスターシステムの下では主役はとれなかっただろう。
読解力読解力と連呼する人ほど読解力がない現象だ。こわい。コンプレックスがあるからなのか。誰のどの主張に対して反論しているのかまず自分で整理してほしい。
・主張を自分の都合のいいように途中で変えるな。「白人中心主義であるとでっかく出てくる」から「白人男性中心主義が""最初に""特徴として出てくるのはおかしい」という順序の問題にすり替わっている。
・そもそも、北村氏も俺も誰も「ニューシネマの最初の特徴として白人男性中心主義は挙げていない」。わかる?元記事読んだか?「白人」とかのワードが出てくるのはかなり後半だ。最初に特徴として挙げているとかは普通に嘘だ。
・北村氏はお前も認めた「ニューシネマは白人男性中心主義」だと言及しただけで、別に「これが一番の特徴です!」とか言っていないよね。特徴って話はどこから出てきたの?
・発端の映画レビュー自体「フェミニストの立場から感想を述べる」って企画なんだから男性中心主義が「でっかく」でてくるのは当然だろ。馬鹿かよ。そりゃフラットな場でいきなりすべてをすっ飛ばして「ニューシネマの特徴は白人男性中心主義です」とか言い出したら俺もおかしいと思うよ?でも今回の企画の趣旨的に男性中心主義にふれるのは自然だよね?そしてその扱いもいうほど「でっかい」か?
映画史的にはルッキズムに支配されてたスターシステムが崩壊して、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノやデニーロみたいなちびっこでも主役張れるようになった革新的な時代
・↑お前も「革新的な時代」と言う割には例として挙げている俳優は男性だけだよね?この点から見ても「男性中心主義」について言及するのは自然だと思うけど。
・前の時代から大きく変化がないことは特徴ではない、という点も意味不明。「一番の」特徴ではないという意味であれば首肯できるけれど。
総じてお前が何に怒っているのかわからない。ニューシネマの特徴としてスターシステムの崩壊を上げるのも別に否定しない。繰り返すが北村氏もスターシステムの崩壊に触れている。
「スターシステムの崩壊を差し置いて、ニューシネマの一番の特徴は白人男性中心主義であると主張した人」をまず屏風から出してくれ。
こういう否定的な文脈で書いておいて「ニューシネマが白人男性中心主義でないとは言っていない」ときますか。なるほどね。
とすると僕も「あなたがニューシネマが白人男性中心主義でないと主張している」なんて文章中のどこにも書いていないけど、何に対して反論しているの?読解力持とうぜ?
(このやり取り意味ある?指摘が刺さったときに「厳密には〇〇とは書いていない」とかイキった中学生みたいな返しするのこそ揚げ足取りでくだらないよ)
お前がびっくりしたとかは本当にクソどうでもいい。それはお前が無教養なアホであることが原因であって、北村やフェミニストは悪くないよ。
元ブログのにわかもそうだけれど、多くの映画好き・研究者がこう述べています・当時の新聞や雑誌でこう紹介されています、という歴史や事実の話をしているときに「いやそれは違う。ソースは俺の感覚。お前は嘘つき」とかいい歳して大真面目に主張する"ホンモノ"が多すぎる。
「白人男性中心主義と言われてびっくりした/嫌な気分になった」ことと「事実として白人男性中心主義であったのか」は切り分けられるようになろうね。感情と事実判断を別個に行う大人になってくれ。
白人男性中心主義だっていうのがニューシネマの特徴ってのがでっかく出てくるのがびっくりだわな。
映画史的にはルッキズムに支配されてたスターシステムが崩壊して、ダスティン・ホフマンやアル・パチーノやデニーロみたいなちびっこでも主役張れるようになった革新的な時代という認識があったが。
さえぼーもお前も「アメリカン・ニューシネマは白人男性中心主義であった」という事実認識に争いはないわけ。それで終わりだろ。何にキレてるの?「僕の大好きなアメリカン・ニューシネマを白人男性中心主義と呼ぶなんてひどい!キー!」ってこと?いや知らんがな
ブラックスプロイテーションはニューシネマとは全く異なる潮流だし。ニューシネマとブラックスプロイテーションの作品が同時期に存在していても、後者の存在を持って前者が白人男性中心主義ではありませんでしたとはならないだろ。それとも当時の映画全体でみたら白人主義と黒人主義があったからプラマイゼロでーすみたいなことが言いたいの?アホちゃう?
太田出版のWebマガジンにおける北村紗衣氏の連載に対して、須藤にわか氏という映画ブロガーが異議を唱え、それに対して北村紗衣が反論してホッテントリ入りしている。
私は須藤にわか氏のように映画を多く見ているわけではないし、北村紗衣氏のように多数の先行研究に実際にあたったわけではないが、発端となった連載と二人のやり取りをみて、話の主眼がずれていると感じた。同時に、二人とも結局、「ニュー・ハリウッド」という批評の枠組みに問題があることを浮き彫りにしているとも思った。
映画を見た後に「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人のために、フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載
①初めて見た『ダーティハリー』はサスペンスとして全然面白くなかった
②自分はアメリカン・ニュー・シネマが好きではない
③60年代後半から70年代に、アメリカン・ニュー・シネマ(英語ではニュー・ハリウッド)という潮流があった
④ニュー・ハリウッドは反体制的な要素と、あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴として挙げられる
⑤アメリカン・ニュー・シネマはかなり男性中心的な潮流
北村紗衣氏の素朴な感想は、末尾にある「名作と言われてみんなに愛されている作品でも今見て面白くなかったらけなしていい!」と結びつくが、③~⑥の知識を持っていると『「なんかよかった」「つまらなかった」という感想しか思い浮かばない人』でも理解が深まる、というのがこの連載の趣旨とみえる。
①「あからさまな暴力やセックス表現が主な特徴」という認識は実際のアメリカン・ニューシネマからズレている
②アメリカン・ニューシネマはフィルム・ノワールと同様に映画批評家らによって作られた映画分類のカテゴリー
③アメリカン・ニューシネマは「ヌーベルヴァーグ」や「ドグマ’95」のような映画運動ではない
④「アメリカン・ニューシネマ」と「ニュー・ハリウッド」は分けて考える
⑥「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーは(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリー
⑦「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそも批評的カテゴリー自体が差別的
須藤にわか氏の異議に対する北村氏の反論は、目次にわかりやすくまとまっている
①New Hollywoodの特徴のひとつにセックスと暴力があげられるのは当たり前
②New Hollywoodが男性中心的であるということは1970年代からずーっと言われている
例の著者は自分で決めた「これがニューシネマ」というカテゴリーを自分で見て「このカテゴリーには黒人映画や女性主人公の映画が入ってないから差別的」だと言っている
と述べているが、これは明らかに違っていて、
北村氏がいうように、
決めたのは私じゃなくて今までの批評家
つまり、北村氏は一般的な「New Hollywood」解釈を述べているだけなのだ。
ただし、須藤にわか氏が本当に主張したいところは上記にあるのではなく、「New Hollywood」というカテゴライズそのものに反発している。
北村氏は出典をたくさん挙げているが、須藤にわか氏の主張である「そもそも『ニュー・ハリウッド』が作為的なカテゴリー」への反証ではない。須藤氏のいう北村氏本人への批判、「知ったかぶりして、しかも知ったかぶりした上でこれは差別的だとかなんとか非難」への反証である。
(「たくさんの出典があってすごい!」的なブコメの反応は、ただマウント取りたいだけのリアクションに見える)
「ニュー・ハリウッド」もしくは「アメリカン・ニューシネマ」というカテゴリーが(白人の)批評のために作られた作為的なカテゴリーであることを度外視した上でそれを非難している。
と言っており、
北村氏は
という。ここは互いに噛みついていながら二人とも同じことを言っているように見えて混乱したが、批判対象の範囲が違うようだ。
須藤にわか氏はそもそも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴリーそのものが、当時の映画作品群を評価するのに適切ではないと主張している。一方の北村氏がいう「批判されて当然」の対象は、須藤氏と同様にカテゴリーそのものであると同時に、カテゴリーに含まれる作品群も含まれると私は解釈した。
須藤にわか氏の論で一番重要なのは、元の北村紗衣氏の連載にあった以下の部分への反論ではないだろうか。
60年代後半から70年代の潮流であるニュー・シネマは、それ以前にあったいろいろな制約が外れ、暴力やセックス描写ができるようになり、そしてアメリカの秩序を問うような映画がたくさん作られた時代です。
これに対して須藤氏は、
だいたいニューシネマは映画運動ではないのだから「問い直していない」って誰に対して言っているんだろうか?運動の実態がないものに運動の責任を問うたところで、まるで意味がないと思うのだが。
「アメリカン・ニューシネマ」もしくは「ニュー・ハリウッド」が差別的に見えるとすれば、それはそもそもそうした批評的カテゴリー自体が差別的
この点、北村氏も、
>>New Hollywoodを決定づける作家主義的な監督の大半が白人男性であり、白人男性を主人公にした物語が代表作として受容され、研究も白人男性の監督だけを対象としてきたことはいたるところで指摘されています<<
と述べているように、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があることは認識しているように見える。
つまり、二人とも、「ニュー・ハリウッド」というカテゴライズに問題があるという点では、共通の認識がある。そのうえで、北村氏は、「須藤氏のニューシネマ解釈は一般的ではないから、私を嘘つき呼ばわりするのではなく、自分で論を立ててね」としている。
しかし、「ニューシネマ」というカテゴリーそのものに問題があるなら、北村氏の連載における「『ダーティハリー』はニュー・シネマの影響下にある警察映画」という紹介の仕方も、「ニュー・シネマが男性中心的だ」というのも、安易に見える。元の連載において、ミステリ・サスペンス的にいまいちという北村氏の感想にはうなずけるが、「ニュー・シネマ」という潮流の紹介は片手落ちで、「研究も白人男性の監督だけを対象としてきた」ことも含めて紹介すべきだったのではないだろうか。
なお、北村氏のいう「問い直してない」というのは文系学問によくあるレトリックで、須藤にわか氏の「運動の実態がないものに運動の責任を問う」ているように見えるというのは、本質を突いていると感じた。
『ダーティハリー』含む「ニュー・シネマ」と呼ばれる作品群は、「男性・白人中心主義」的であることを「問い直せていない」からダメな作品だという、作品ファンが反発を覚えるのも無理はないだろう素人批評を容易に生み出す。(なお、これは北村氏の主張ではない。北村氏はあくまでニュー・シネマが好きではないだけだ)
文系学問(特に文学や社会学)においてありがちな、世の中の傾向や潮流を仮構して、ミクロな作品や人間を論じるスタンスは、使い方を間違えると、色々なことを損なう。その作品や人間がもつ、複雑さや豊かさが捨象されるし、俗流に応用されれば簡単に差別につながる。「この時代に生まれた人間は●●である」と決めつける世代論などを見ればわかりやすい。もちろん社会を論じるなら、そういう傾向を仮定して話を進めざるを得ないが、学者でもない人間が個々の作品や人間を評価するのであれば、マクロ的な枠組みでは拾えない面白さや豊かさにも目を向けるべきだろう。
少なくとも発端となった連載は素人が映画をより深く鑑賞する視点を提供するものだったはずだ。北村紗衣氏の視点と須藤にわか氏の視点を踏まえて、もっと映画を楽しみ人生を豊かにしたり、世の中を考え直すきっかけを得たりするのが、私のような素人にとってはいいのではないだろうか。
たとえば北村紗衣氏がいうように、
というところが、「ダーティ・ハリー」を考える上でおもしろそうな部分で、北村紗衣氏は第一印象がつまらなかったため深堀りすることはないだろうが、「ダーティ・ハリー」をこれから見て逆に「面白い!」と感じた場合には、ハリーを起点に「ニューシネマの影響下に本当にあるのか」などを考えるとまたおもしろそうだ。
そういう自分の知らないものとたくさん出会えるのがニューシネマの面白さで、あえて一時代のアメリカ映画をニューシネマとして括る意味があるとすれば、それはその作品群がこうした「新しさ」を観客に与えてくれるから
ということを踏まえて、様々な作品に触れれば見えてくるものもあるだろう。
serio フェミニストはありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまうので、たまにホームランを打つことがあっても、バットでキャッチャーを殴って三塁に走り出すみたいな大外しをすることがよくある。
→元連載は「フェミニスト批評家・北村紗衣さんが、初めて見る映画の感想を話しながら注目してほしいポイントを紹介する連載」なので、北村紗衣氏が好きに「ありとあらゆる事象をフェミニスト的視点から語ってしまう」わけではなく、そういう企画趣旨に基づいて仕事としてやっている
hazlitt アメリカン・ニューシネマってカテゴリーとして昔からよくわからんなとは思っている。わりとどうでもいいが野次馬的には町山某が反応すべき話題だな
→「わりとどうでもいい」と保険かけながら野次馬根性をさらけ出しているのがキモい
jassmaz 文学理論や批評理論を知らないオタクの見当はずれな批判。この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的である。87年出版のアラン・ブルーム『アメリカン・マインドの終焉』を読もう。
→「この時代にアメリカの価値観を完膚なきまでに破壊したことは十二分に暴力的」北村紗衣氏も須藤にわか氏も言っていない新たな論点。見当はずれはこのブコメでは
tokuniimihanai あちらの記事は批判相手の職業を間違えている時点で無知あるいは礼儀知らずなので読む価値がないと判断したが、やはり読まなくてよかったな。引用部分だけでも論外とわかる
takeda25 こういうの、詳しくなければとりあえず態度を保留するのが賢明なはずだけど(現にこちらのブコメはそういうのが多い)、女性叩き側のブコメでは調子に乗って叩く人間が大量発生するのが歪み
→態度を保留するって、どういう立場?後出しジャンケンに勝ちたいだけの姿勢が見えてキモい
ponkotsupon 須藤氏の批判記事は出典やら参考文献やら先行批評への言及が何もなかったのに対し、北村氏は複数の出典と研究史を出してるので、学術的には(須藤氏が再反論で論拠となる文献を示せなければ)これで勝負ありよなぁ
→そもそも商業媒体とブログの応酬で、学術的な議論ではない。かつ、出典と研究史さえ出せば「勝ち」というのは学術的でもないだろう。
二人に対するクソブコメの数々は
権威主義的で映画そのものにも映画史にも興味がなく、自分では頭を使わずに他人が貶されるのを娯楽として消費するだけを生きがいとする、野次馬根性と異常マウント欲、ハエ以下の精神性で駆動する人工低能群
経済的困難とかが主なことだと思うんだけど
経済だけじゃなくて社会的な差別的扱いとかも含まれ多岐にわたる
それをうまく表現する言葉がなく、共通する表層が「モテない」なもんで、そこに話が集中しちゃうんだけど
それ、熱があると訴える患者に「頭に氷当てとけ」って言ってるようなもんで、熱の原因がなんであるか、どう対処するべきか(自然治癒に任せるのが一番だというならそれも可)を考えるべき
弱者男性というのはどういう理由でどういう不当な差別をされているんだろうか?って考えるとそこから途端にわかんなくなるんだよな…
(中略)
これに明確な答えを出してくれる人はいないだろうか。
件の人は専門外だからいいとしても、社会正義、平等、人権を普段から訴えている人は考える責務があると思うよ
フェミニズムは男女の能力に差がないということを強調するってことは、能力によって差がつけられることは当然のことであるって言ってるってことなんだろうか。
能力に差があるとして、「能力の差が生活の豊かさに直結したら良くない、女性にベーシックインカムを!」なら主張としてはそれでいいと思うんだけど、
フェミニストって(白人)男性と同じことをすることが成功の定義なんで、政治家、経営者になれなきゃ「失敗」なんだよね
かといって明らかな無能を政治家経営者にしろと言うのもまずいので、そうすると「女性も同じ能力がある」、と言わなきゃいけないのだろう
こういう人は出てくると思いました。しかし考えてみてください。元増田さんの主張には誤りがあります。
"物欲も性欲も抱くこと自体はコントロールできないが、そこから犯罪という手段で解決しようとすることをコントロールしている"という元増田さんの主張には同意します。
現在の社会通念上、物欲そのものが気持ち悪いとは見做されてはいません。
一方で、"気のない相手から恋愛感情を抱かれたり欲情されたりすること自体が気持ち悪い"と考えている人は多数います。
つまり、物欲を持つ内心の自由は他者の人権を侵害していませんが、性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害することはあります。
こういうことを言うと"いや、内心の自由は絶対に保護される"と言うかもしれません。しかし、憲法にそのように明記されているわけではありません。あくまでそのように解釈されているだけです。
つまり、"内心の自由は絶対に保護される"というのは"自衛隊は憲法9条に違反していない"や"死刑は憲法36条の定める残虐な刑罰に該当しない"と同様に解釈にすぎないのです。
将来、"性欲を持つ内心の自由そのものが相手の幸福追求権を侵害しているから性欲を持つ内心の自由は公共の福祉に基づき規制される"という解釈になる可能性も十分にあります。
Ⅱ.そもそも全ての人の内心の自由を保護することが人類の幸福や発展に繋がるかを思考停止せずに考えるべき
性欲そのものが理性でコントロールできないならば強制的に薬で抑えろという主張は、「『性的なことを考える』という内心の自由そのものを奪え」と主張しているのと同じであり断じて認められない。
しかし、私がⅠで書いたことが成立しないとしても、元増田さんは"内心の自由だから守らなければならない"というところで思考停止しています。
そもそも、内心の自由を含めた基本的人権は決して自明のことではありません。トマス・ジェファーソンは自明のことであると主張するかもしれませんが、そのように主張したジェファーソン自身が奴隷を所有していたことからも決して自明ではないことが明らかです。
当初は"白人男性は自由・財産・生命などの権利を持つべきである。そのように設定することが人類の幸福につながる"と考えられ、それが”女性を含む白人は”となり、やがて”全ての人は”へと発展していったのが20世紀までの人権の歴史です。
しかし、全ての人に基本的人権を設定することで人類は本当に幸福になり発展してきたのでしょうか。私にはそれは自明のことであるとは考えません。
むろん、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人がいる"という考えが差別や奴隷制や植民地支配を生んできたことは確かです。しかしながら、それは人類が"フルスペックの人権を持つ人と持たない人の区別"を自分に都合よく設定してきたからである可能性もあります。
たとえばAIに評価させることなどにより、"フルスペックの人権を持つ人と持たない人"を中立的かつ人類の幸福と発展のために区別できるようになるかもしれません。そのようなことも元増田さんには考えてみて欲しいです。
自分のことは外国人に対して差別的なことすら思わない清い人間だと思っていたが違ったわ。
通勤退勤するとき、どうしても観光スポットを通らざるを得ない。
歩いて帰っているとTシャツ短パンのTHE・観光客が4人真横に並んで正面から歩いてくる。もちろん俺が避けて通るわけだがすれ違いざまに端のクソ白人が俺に足をかける仕草をしやがった。
その瞬間は何も思わず通り過ぎたが、ぜってーこいつは俺のこと見下してたわ、つーかアジア人見下してるだろこいつと考えたらカーっと怒りが湧いてくるわけ。クソ白人がどの面下げてこの場所来てんだクソがよ、ヘコヘコしながら歩けカス。申し訳無さそうにうつむいて歩けやボケ。
俺はもう短パンTシャツの少し太り気味、短髪の白人男性に対してはあからさまに嫌な態度を取り続けるわ。たとえ違う人間でもな。どうせあいつらがアジア人の顔を判別できねえように俺も白人の顔わからねえからよ
まあどうせ明日には忘れてるだろうからいいです。みなさんもふとしたきっかけで人種やら性別やら属性やらなんやら嫌うようになるわけですね。腑に落ちました。
男が女になりたがるとき、その「女」とは買い手が付く程度の若くてきれいな女を想定しているし、フェミがの想定する「海外生活」はカースト上位の強い女として生活することを想定している。
ドリーマーMtF にしてもゆるふわ海外移住者にしてもみんな苦労してるし自殺したり殺されたりしてる。
後者「自分は無理だけど娘は海外脱出できるように育てる」って言ってる女多いけど、どうしたら海外で強キャラになれるかのイメージがないから、せいぜい英語を勉強させるぐらいのことしか考えてないよね。そもそも「黄色人種の女」って時点でデバフがかかり劣位スタートになることがわかってない。
富裕層が海外に子女を送り出すのは、お金でデバフが解消できることが前提だよ。
それを庶民が真似してもデバフ解消要素がないんだから、世間から見たらフィリピン人メイドと同じ扱いだよ。
っていうか、円安で出稼ぎする日本人風俗嬢も増えてるから、ますます日本人女性=セックスOKってイメージは強くなってるよ。下手したら日本で暮らすよりひどい差別が待ってるよ。
白人男性と結婚したら白人男性だけが人間扱いされて嫁は付属品だよ。
ジェンダー平等社会はたいてい人種差別が苛烈だよ。人種差別がないと従来女がやってた無償労働をする奴隷が確保できないから女が活躍できないよ。
GTAはGTAVというポリコレ汚染クソゲーのせいで一度は潰れかけた
3人いる主人公のうちの一人で 黒 人 だ
ポリコレが流行り始めていたあの時期に無理矢理主人公枠に黒人がねじこまれた
犯罪者を主人公とするなんでもありゲーだから実際に犯罪者の多い黒人が主人公になってもおかしくはないが、
フランクリンはポリコレゴリ押し枠のため、なんかやたらと「貧しさのせいでこうなった」「根はいい奴」「自頭が良い」みたいな持ち上げが激しい
ゲームコンセプトとして好き勝手ヒャッハーできるのに、シナリオではやたらとフランクリンは善良な好青年扱いされる
違和感が激しすぎる
ポリコレゴリ押しで主人公にしたはいいが、黒人様への配慮とゲーム性とが噛み合ってない
ハイ、 L G B T 枠 なわけ
3人いる主人公のうち残り一人はごくまともなノンケの白人男性マイケルなのだが、トレバーがマイケル好き好き状態でホモヤンデレするのをプレイヤーは強制的に見せつけられる
黒人無双やホモの恋愛ストーリーが見たくてGTAやってんじゃねえぞ!ふざけんな!
GTAVとは、生き別れ状態になりお互いを死んだと思っていたとレバーとマイケルが偶然に巡り合い復縁するという壮大なBLストーリーだ
ゲイ向けというよりも腐女子向けで、マイケルの容姿は特に腐女子に媚びている
だが割り切ったホモゲーにもなりきれず、おっさん二人の痴話喧嘩に若者黒人フランクリンもちょこまかと絡む
LGBTホモストーリーの中でゴリ押し黒人はただひたすらにノイズで、ゴリ押しとゴリ押しが不協和音になった悪夢のようなゲームに仕上がった
そんなわけでGTAVはゴミカスゲームすぎて、今まで数年ごとに出ていたGTAシリーズの評判は地に落ちて2011年の発売から長らく沈黙が続いていた