はてなキーワード: 情報量とは
不必要なメールは消すようにしていても、いつの間にかすごい量のメールが溜まっていく
たまに昔のやりとりを確認しなきゃいけないけどワードでうまく引っかからない時なんかに期間設定で検索したりする
例えば2017年の○月○日~○月○日のメールを検索、みたいなやつね
すると、もう写真だとか自分で書いてる日記とかなんかより、ずっとリアリティのある記憶が蘇るのよ
そんで当時の事とかをブワーっと思い出したりしてなんか懐かしいような切ないような涙が出ちゃう
大したメールはないよ、カードの支払いの情報、医者の予約案内、当時ハマってた関連のお店の宣伝メールとか
自分はマメじゃないので後ほど消しておこうと思ってそのままだったのがけっこう残ってて、そういうのが日時を基準にして並んでる
これが、あーそうかこの頃こんな感じの生活だったよなってすごく思い出せるのよ
仕事系はアカウント分けてるのでプライベートのほうではほぼ出て来ないし、知人友人との連絡は携帯が多いからそんなにない。
ただなぜか家族や当時の恋人なんかとの、なんでそれわざわざメールでやり取りしたの?みたいなしょうもないメールもたまに紛れてる
なんかね、それらの「残す事が目的ではなかったメールの数々」これに泣かされちゃう感じわかります?
日記もつけてるんだけど、自分の書く日記って自分が思うこととかばかり書いているので客観的な情報量が少ないんだよね
人によっては淡々と毎日の出来事とかを事務的に書く人もいると思うから、そういうのだとまた違って感じるのかなとも思うんだけど
こういうのなんていうんだろう、自分自身が残したいと思っていなかったところから不意に突かれる感じ
例えばさ、誰かを思い出す時に想像してなかった角度で思い出す時ってあるじゃん
生前おばあちゃんが読んでた小説を田舎帰った時の暇つぶしに何気なく読んでみたら、ある一文に線が引いてあって「増田ちゃんと似ている」と走り書きのメモが書かれてるのを発見しちゃった時とか
そういうのってすごく心が動かされる(これは実話)
それの自分自身版っていうか、過去の自分への思いが溢れちゃう感じなんだよね
好きだった人とのやりとりとかはもっと他の形で残してたりもするんだけど、そういうのはむしろ笑えるというか、自分こうだったなあ、、とか恥ずかしかったりもなるんだけど
ただの日常、生活の部分がこうやって記録として残ってるのを見た時、うわあ生きてるな~って感じがすごく強くて
なんかどう書けばいいのかわからなくて文章めちゃくちゃなんだが、自分、めっちゃ存在してるやん って感じてちょっと感動したんだわ
いい加減疲れた。
渾身の記事ができたと感じた瞬間に伸びる未来を期待してしまうが、実際に伸びてもやっかみからなのかくらだん反論ばかりが飛んできたりして疲れるだけだ。
ツイッターやフェイスブックで書かないほうがいいことは結局他でも書かない方がいいんだ。
ただそれでもどこかで緩く人とは繋がりたいのでミニブログぐらいは続けようと思う。
でも一度に500文字以上の文章をネットに投稿するのはもうやめようと思う。
そのためにはブログも増田も滅茶苦茶なパスワードに変えてログアウトしてしまうのが手っ取り早い。
チラシの裏に書くべきことはオフラインのストレージに包み隠さず書いている方が気が紛れるというものだ。
一番の読者は全部書き終わったあとに客観的に読み直す自分自身だろう。
そっちに集中したほうがいい。
インターネットで自分の書き込んだ内容とそれへのレスポンスにばかり注力するより、自分とは無関係の場所からのインプットを増やしていくべきでもあるし。
いい加減ブログや増田につくよく分からないコメント群とレスバしてばかりいるのでは人生に無駄が多すぎる。
ひっそりとフォローもフォロワーも絞ったTwitterアカウントにでも引きこもって、長い話がしたくなったときは日記ソフトを立ち上げることにしよう。
私は一時創作民であり、やり続けて10年くらい経ったろうか。TRPG、完全一次、キャラメイク要素ありのゲームなどいろいろやった。
若い頃は誰彼構わぬ勢いで恋人絡みのうちよそ(自分のキャラと他人のキャラを交流させるロールプレイング的な遊び)をしていたが、長年やっていれば恐ろしく合わない相手、クレーマー並の創作者等とも遭遇する。
そういう相手とのうちよそは、最終的に創作者同士の絶縁により破局する。
私は気に入っていた自分のキャラクターであっても、うちよそが駄目になると、その相手創作者との苦い思い出を想起させると言うただそれだけの理由で、そのキャラクターを見るのも辛くなる。実質、封印のようにすらなってしまう。
これが重なると、かなり辛い。もともとそのために生み出したはずのキャラではないからいろいろ活用していたり、絵を描いたりしていたはずだが、二度と釈放されなくなる。誰も幸せにならない。地獄である。
こんなことを何度か繰り返し、私は恋人関係のような濃いめのうちよそをやることにかなり消極的になった。
よほど話が合わない限り、少しでも違和感を覚えたら一線は越えないようにする。それがモットーだった。
だが、ある人とのABと言ううちよそがヤバかった。
私の好み丸出しで、性癖と性癖を叩き付けるようなカップルであり、あらゆる作品を描き合った。イラスト、小説、漫画、打てば響くうちよそであった。
相手の方も本当にたくさん作品をくれ、話もしてくれた。感謝しか無かった。
私は本当にこのうちよそに入れ込んでしまった。推しカプとなった。寝る前はいつもこの二人のことを考えていた。高熱を出して悶絶している時ですら、ABに置き換えて気持ちをもたせたくらいだった。
ところが、転機である。
それはもう露骨にハマった。TLはそのジャンルのRTで溢れかえり、その話しかしなくなり、新しく繋がった旬ジャンルのフォロワーの話しかしなくなった。
旬ジャンル以外の絵も描かなくなった。たぶん、理由は分かる。その人はイラストレーターを志望していた。バズには人一倍過敏であろう。
正直、いちユーザーとして客観的に見た時、絵馬ではなかった。しかし、それでも国内外で大人気の旬ジャンルであるためか異常にバズった。
私は嫌な予感がした。
ABどころか旬ジャンルの話以外は一切しなくなった。気持ちは分かる。私も何かにハマるといつでも話せる創作の話より、そのハマったジャンルの話をする。当たり前だ。
だが、私のABに関するネタや作品への反応が、ものすごく少なくなった。
正直、ショックだった。
飽きたな、と肌身で感じた。そして、おそらくフォロワーがものすごく増え、旬ジャンルの絵がバズったことで更に旬ジャンルにハマっていったその人に、やや軽蔑を覚えた。
人間の気持ちは制御不能だ、特にハマるとかハマらないとかそういうのは。
だが、その人に対して私が「飽きたな」と感じ冷ややかな目線を送るようになったこの感情も多分どうすることも出来ない。
私はその人をミュートするようになった。その人が声高に、もし私のことが気に入らないならミュートしろ、ブロックしろ、と言ったからだ。なぜそんな強い言葉を使うのだろう。フォロワーが増えたからだろうか。作品は少なく、バズった絵も情報量は極端に少ないただの棒立ち絵、書き込みも何も無いものなのに。嫉妬や見下しと言われるかもしれないが、私の目線はますます冷ややかになっていった。
私は、その人にミュートしますと言った。言わなければ、TL見逃しを不義理と言われた時言い訳出来ない。その人からはまた強い言葉を返された気がするが、私が過敏だっただけかもしれない。その人の私の作品への反応は、まったく無くなった。なんて露骨なんだろうな、と思った。
そして、それから暫くして、一言「すみません、つらくなったので」と断ってブロ解した。その人も私もフォロー外からのDMを受け付けていたから返事は書こうと思えば書けるだろう。
私は返事を待たなかった。表面的には。待たれていると思われたくなかった。その間に、今までの色々な感情を綴った文章を用意した。私の地獄のようなお気持ち表明と、言い訳と、そして感謝である。最悪、これだけは送ろうと思った。
もちろん、向こうが私をブロックしなければの話だが。なんだか、うちよそABの遺書みたいな内容で、メンヘラ染みてるなと思った。
だが相手もメンヘラなのは私も知っていた。なんなら相手はガチモンである、常に自慢していた(自慢にしか見えなかった)。
翌日。意外なほど早く、相手からは、何だかよく分からない感謝と謝罪のメッセージが来た。
何だかよく分からないと言うのは、私が書いた遺書みたいな文章そっくりだったからである。お前も遺書を書くのか…私も書いたぞ。
それに、私は前述の最後通牒みたいな遺書(遺書ではない)を投げつけた。
返事はない。そりゃそうだ。くれとは書いてない。読んだのかどうかすら不明。
でもまぁいいか。
他に相談してみたら(割りと辛辣なことも言われたが)「なんか発想がヤバくなってきてるから企画自体から距離を置け」「冷静になれ」「依存にならないよう他のことやって目に入らないようにしては」と割りと親身なアドバイスをもらった。いい人たちである。
それがなかなか出来ないから辛いのだが、それでもやらない方がつらいものだ。ABについてのしんどさが、今の私には猛烈なストレスだ。
無理に消す必要はない、忘れる必要は無いが、少しずつ思考から追いやっていけ、と言われた。嫌いになれ、ではなく依存にならないようにと。
やっぱり割りと親身な人たちである。みんな何かしらしんどい経験があるらしい。
あばよAB
お前らのことは嫌いじゃないから、今もABが仲睦まじく過ごしていることだけを祈るぜ。と言うか、時が止まったから実質そうなんだろう。よかったやん。
「どんなものが好きですか?」と聞いて「何でも食べます!」だけ返事されてもノーヒントなんだわ
「今日何食べたい?」と聞かれて「何でもいいよ」と答えるおっさんと情報量が変わらないんだわ
CM内でいくつかの選択肢を示し、その続き、オチはそのホームページに行けば見にいけるというものだった。
当時こうしたCMはいくつかあって、いつの間にかなくなっていた。
そして、こうしたCMの消失こそが実は日本文化の一つの転換期であったのだと思う。
当時「続きはウェブで」というキャッチフレーズ・構造は、インパクトがあった。
何故かといえば、それは未だネットが現実の地続きにある世界ではなく、あくまで<現実><ネット>という隔たりがあったからだ。
それ故、現実の世界とリンクしているネットの世界というのは新鮮味があり、多くの人の興味を惹いた。
しかし今現在では現実とネットはもはやイコールであり、フラットな存在となっているためこのようなCMが出てきたところで「はぁ?」となるわけだ。
ではこうした現実とネットの世界がイコールとして扱われるようになったのは、果たしていつ頃からなのだろうか?
そこで思うのが「続きはウェブで」としたCMが勢いを失い、脚光を浴びなくなったのは、
現実とネットの世界がフラットであると認識している世代が台頭してきたことにあるのではないだろうか。
彼らデジタルネイティブ世代は現実とネットの隔たりを知らず、圧倒的な情報量と生まれたときから対峙していた。
彼らが「続きはウェブで」のCMを効果的でなくし、なくなった効果こそが日本の転換期を示す。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.itmedia.co.jp/news/articles/2210/05/news181.html
「数年前なら同じシステムでもAIって言葉は使ってなかっただろ。」
とあるんだけども、槍玉に挙げて申し訳ないんだけども、これはAI技術そのものなんだよ。
というか、これをAIと言わなかったら何をAIというのか、というものなんだけども。
(強いAI弱いAIとかいうややこしい話があって、まだAIはないとかいう議論はあるけども、
とりあえず世の中のAIと言われるものの筆頭技術だよ、という意味で。)
これは、ディープラーニングの物体認識の技術を応用しているんだけども、
その精度がすごく上がって、今では人間が識別するより精度が高くなっている、というもので、
それを応用して、人間が残っていないかを識別できるようにした、という事なんだよね。
だから、バスワードだから、そうじゃないものにも勝手に当てはめてる例はあるだろうけども、
少なくともこれは、そうじゃないのね。って事で。
トップコメの人、消しちゃった。晒しちゃったからかな、ごめんねー。
でも他にも同じような事書いてる人は散見されるので。
それで、センサーとか動体検知のようなローテクでもできるんじゃねって意見はあるけども、
それより人の目でざっと見た方が正確って話もあるんだよね。それだけ視覚情報は情報量が多いんだけども。
それを人の目以上の精度で認識できるようになったから、これだけ持て囃されてるのね。
という意味です。
ブコメに返信
>機械学習とアルゴリズムとディープラーニングとAIと人工知能の違いがわからない
AIと人工知能は一緒(Artificial Intelligenceの略がAI、日本語訳が人工知能)
機械学習は関数のパラメータフィッティングの方法の事、ディープラーニングはニューラルネットワークという関数での機械学習の事
(正確には多層のNNに対してだけど、どこから多層とするかは曖昧だし実質ニューラルで機械学習すればDLって事になってる)
アルゴリズムは問題を解く方法の事で、それをプログラム言語で書いてコンピュータで実行できるようにしたのがプログラム
そしてアルゴリズムやプログラムの中で機械学習やディープラーニングを使ったりする、という関係になるかな。
これで良い?
ごめん、ミスタイプです。出かけ前に慌てて書いたので(なので2重投稿してしまってる)。
申し訳ないけど、そんな余裕なかったです。単なるミスタイプです許して。
だからゴメンて。いっぱい指摘されてかかってるの気づいたよ。
あれ? 第三世代じゃなかったっけ?
(推論と探索が第一、エキスパートシステムが第二で)
>AIという言葉にいろんな色付けをして使いまくった結果、本来の使い方をするとツッコミが入るパターン、よくある。
それは確かにそうなんだけども、言葉流行っちゃうとしょうがない部分はあるのと、AI自体が定義が定まってない用語なんでね。
>実際にAIが使われているか否かではなく、一昔前なら人体検知機能とか命名してAIを主題にもってこなかったよねってことを言いたいのでは?
それはそうかもしれない。でも「本来AIではないものにまでAIという用語が使われている」ってニュアンスはあったよ。
(今残ってるコメントにもそういうの散見するし。意味なく名前だけ使う、とか。)
それに対して、DLの物体認識は今のAIブームのど真ん中だよって指摘したかった訳です。
>物体認識に深層学習を使ってるだけなんで「人工知能」でないことは明白なんだけど
今は深層学習(ディープラーニングの事ね)使えば人工知能って事に普通はなると思うんだけど、「明白」なんですか?
逆に何ならAIになるか、聞いてみたいです。
もともと絵が濃い所に文字量が多いので、読み終わる頃は疲労困憊になる。もう少し減らしても読者にはわかるんじゃないかと。
冒険物は結構好きなんだがONE PIECEは途中で読むのが辛くなった漫画。
それと似たように名探偵コナンも苦手。
あっちはあっさりめの絵だけど、とにかく文字量が多すぎる。
トリックの説明に話が長くなるのはわかるが、ひとコマにどんだけ詰め込んでいるんだと。
名探偵コナンも途中で疲れて読まなくなった。
どちらかというと金田一少年の事件簿の方が読みやすくて気に入っている。
漫画って絵と文字で表現するものだが、絵よりも文字が前に出過ぎるとそれはもう漫画というよりか挿絵の多い小説に見えてしまう。
情報量が多ければ多いほど偉い!と考えている貧乏性の人がいるだけなんじゃないの?
文字だけ→絵と文字→映像と音で後者になればなるほど情報のボリュームは増えていると言えるわけで
そういう意味ではアニメは漫画より進化していると言えなくもない
ソーシャルゲーム版アイドルマスターSideM(通称モバエム)のサービス縮小(実質更新停止)のお知らせが9月1日に発表された
悲しむ人、寂しがる人、もうひとつのSideMのアプリであるサイスタに怒りをぶつける人など様々な人がいたが、自分がモバエムに感じた感情は『怒り』だった。
ハッキリ言ってモバエムにおいて担当ユニットの扱いはいいとは絶対に言えなかった。
ゲーム性もあまりにも古くイベントガチャは有償しか存在しないというあまりにも時代に逆行したゲームだったモバエムにおいて、最大の長所は長年かけて積み上げてきたストーリーにあると思う。
実際ここ近年はアイドル個人にフィーチャーした話も増えていたし、ユニット間の関係の変化を丁寧に描いていたところも好きだった。
しかし自分の好きなユニットはその恩恵を受けることがあまりにも少なかった。
モバエムで1番ストーリが長いイベントは俗に言うマラソンイベと呼ばれるもので、主にドラマや映画などの演技の仕事の時に開催されることが多かった。
全25話で構成されているため全8話や全10話のイベントに比べても情報量も多かったし、ストーリーが面白いことも多かった。
しかし、自分の好きなユニットがマラソンイベをユニット単位でもらったのはアニバーサリーイベを除けば2019年2月上旬の節分イベントが最後だった上にもう1組側が掘り下げのターンだったと思う。
もちろん他の形式のイベントでも面白いストーリーだったなら良かった。
しかし肝心のストーリーもライブや撮影のアイディアを偶然思いつく→実践して成功するというワンパターンなストーリが明らかに多い時期があり、
正直サイスタよりモバエムの方がストーリーが面白いって言葉を聞く度に「面白いストーリーをもらえていればそうだろうね」と荒んだ気持ちになることも多かった。
それでも、掘り下げるための伏線自体は張られているように思えていたから他のユニットが演技の面白いイベントやアイドルの核心に触れるようなイベントに参加しているのを羨ましく思いながらも、いつか自分の好きなユニットも、コラボでもアニバでもないマラソンイベントが来るはずだと信じて待っていた。
他のユニットの演技イベントが投票企画でフルボイスになってる中投票できる候補の作品さえ作ってもらえなかったのに。
モバエム以外の媒体では正直かなり優遇されている側だと思っているし贅沢だと思われるかもしれない。
でもSideMの軸となるゲームで掘り下げがないということは他の媒体でもゲーム以上の掘り下げができないということではないのか?
長い年月を掛けてアイドルの掘り下げをするのは実在性を高めるのにいいとして掘り下げられなかったら意味が無いのではないか?
そんな中途半端な状態で突然更新を停止するなんて無責任にも程があることをしたのは他ならぬモバエムなのに、サイスタにもたくさんの問題があることをいいことに責任を押しつける人たちが納得できない。
だからといってモバエムを嫌いになるわけでもSideMが嫌いになるわけでもなくて、飲み込めなかった感情をただ吐き出したかっただけなのだ。