はてなキーワード: セスとは
10年ほど前、30代半ばだった私は結婚を焦っていた。しかし当時の職場に出会いは皆無。もともと抱えていた美少女ゲーム由来の制服半脱ぎ属性をこじらせて背水の陣であったが、出会いを求めてオフ会やサークルにも顔を出していた。とはいえ生来社交的ではないので、せっかく女の子たちとお酒を飲めてもそこまで止まり。せめてもっとお近づきになれたら……と願うだけの日々だった。
そんなある日ひらめいた。「セーラー服がクローゼットに掛かっているだけでも制服美少女を身近に感じられるのでは?」
数少ない女性との交流から、平均的な身長は155〜160cmであるからセーラー服だってその程度のサイズを選べばよいということはわかっていた。SMLなら真ん中とってMでいいやと。しかし自分の身長に見合う170cmサイズが販売されている……
もしも自分が着用すればセーラー服は自由に動きだす。鏡を見ずに布地さえ見ていればそこに桃源郷が現れるはず…… 魔が差したとはこういうことをいうのだと気づいたのはもう少し後のことだった。届いた紺色の衣服は胸元を中心にホックやファスナーが複雑に使われており、構造を把握しながらそっと袖を通すと、鏡の中にはセーラー服を着たおじさんがいた。めまいがした。すぐに脱いで丁寧に畳んでしまいこんだ。
その後もたまにセーラー服を引っ張り出して着てみてはめまいを起こす日々を送っていたが、40歳になった頃に自分だけの部屋を実家からさほど遠くない場所に構える機会に恵まれた。
実はその頃にはささやかな出会いもあり、近々ここを拠点に幸せな家庭を築くのだという理想に燃えていて、セーラー服なんか実家に置いておけないから持っていった……という程度のものだったのだが、理想はあっという間に砕け散り、タイミングを同じくして職場も追われてしまった。そんな厄年だった。
幸い厄が明けてすぐに新しい仕事が決まり、そのときにはもう「自分の好きなように生きることが一番さ」と開き直るに至った。結婚をあせるのもやめた。というかあきらめた。両親には悪いと思った(今も思っている)がいくらか気楽になった。
そんなある日、面白そうな何かを探していて偶然snowというアプリを知った。それまで自分の顔に自信はなかったが、例のセーラー服を着てアプリで面白半分に加工してみればまあまあ見られるようになるではないか。目や鼻をいじくり回しても残る面影に、案外妹に似ているもんだなと少しびっくりした。兄貴目線ではあるがそこそこ可愛い妹なので、それなら自分もそこそこ可愛くなれるのではないか……という希望が湧いてきた。
おおげさだけどもうひとりの自分に出会えたような気がした。自分がそれなりに抱えて生きている浮世の憂いから完全に切り離された、たかが知れてはいるがそこそこ可愛い女の子。iPhoneのガラスの向こうから無愛想な視線を向けてくるこれが自分……??この前とは違うめまいがした。
ウィッグを買ってみた。頭が大きいので難儀したが、髪の毛だけでも雰囲気がだいぶ変わる。
メイクセットも買ってみたがまず使い方のわからない色とりどりのペンやら液体やらに戸惑った。これらは次第によく使うものと一度も使わないものに大別されていった。
お化粧を始めたら画像加工もまた楽しさが増してきたが、メイクしているうちにもう制服姿は無理だと感じてきて、次第に女子大生やOLっぽい服にシフトしてきた。それでも実年齢から考えれば相当無茶な若作りなのだが……
たいそう通販が捗った。見ているだけでも楽しいのだ。リボンやフリルいっぱいの可愛い服も着てみたい。清楚系お姉さんや若奥様風にもなってみたくなった。
ミニスカートも短ければいいってものではないし、丈が長くても可愛い服はたくさんある。
男女の骨格や構造の違いを学ぶと、肩幅を目立たせないため視線を寄せたりラインを切ったりする襟元へのワンポイントの置き方だとか、姿勢をよくするとか、できるだけ肌を露出させない…… などなど少しでも自然に女の子らしく見せる方法への理解も深まった。
もっとも生来ズボラなので全部を身につけたわけではないが、実際にやってみると女性のしぐさなどにもいろいろ理解が出てきた。たとえば物を拾う時に腰を曲げるか膝を曲げるか、手提げ袋を手に持つか手首に通すか…… というようなことだ。
そのうちに女性の社会進出とか夫婦別姓とか、女性を巡る社会問題にも関心が出てきた。世界の見方がちょっと変わった。なかなかおもしろいものだ。
自分は週末の趣味で女装してるだけなので汗で化粧が崩れると思えばその日はしなければそれで済むが、毎朝早起きしてこんなに手間をかけて綺麗を高めて出勤する世の中の女性たちには本当に頭が下がる。髭すらまともに剃れないような野郎ども試してみたらいい。
一応断っておくが、心と身体の性別ギャップに悩んだり、男性を恋愛対象にしたりしているわけではない。特別可愛くなくてもいいから普通の女の子になりたいだけなんだが、無意識の行動から正体がバレないために内側から女の子にできるだけなりきろうとすると思考や趣味にも影響が出てくるものらしい。
他方、街角や電車内で可愛い女の子・綺麗な女性を見かけると「教材!」とファッションチェックしたくなるし、どんなメイクしてるのかとお顔をガン見……はしないが盗み見していて不審者扱いされているかもしれない。そして自分はそこそこ可愛いと感じていたとしてもやっぱり本物には到底敵わないことにいささかの嫉妬を感じたりするのだった。
ある真冬の夜、とうとう外出をした。それは当初の目標ではなかったが、自分の内なる女の子に活躍の機会をあげてみたくなったのだ。
紺色のコートとピンクのマフラー。厚着していればだいたいどうにかなると思った。マスクがこの上なく役立ったというか、目元をしっかりメイクして口元を隠していれば暗がりならば年齢はどうにかなるだろう。コロナよありがとう。
誰にも声をかけられることはなく、すれ違う人も一向に私に関心を示す様子はなかった。うまくいったとまでは断言できないが街にまぎれこんではいたと思う。先述の「内側から女の子になりきろう」が功を奏したのかもしれないが、もちろん「こわ……近寄らんとこ」だった可能性も十分にある。
だからまだビクビクしながら外出している。友人何人かには正直に女装趣味を告白した。相手が良かったのか幸いマイルドな反応だった。少し安心したが生きて動いてる姿を見せればいろいろダメ出しがくるのではないかと思う。
完成度を上げていくごとに不安も高まる。外出するならなおさらだ。残念ながら上述の友人たちはみな近くには住んでいないから、頼み込んで出来映えをチェックしてもらうのも難しい。新幹線はよしとしても飛行機はチケットに性別欄があるから無理だろう。その前に遠出はトイレに困るし、声はどうにもならないから買い物も難しい。いくら完成度が高くても地声がテノールでも「袋いりません」の一言でアウトだ。
不安な気持ちはいつも消えないが、通行人をつかまえて「私きれい?」などと男声を響かすこともできない(ポマードなんて今の若い子は知らないかもしれないな)。さもなければ職質されるまで交番の前を行ったり来たりするしかないのか?
結局やれることを地道にやって完成度を高めるしかないのか…… そんなわけで最近は高性能コンシーラーや眉毛の描き方に関心を寄せている。
もうそろそろ、少なくとも若い娘のふりはできないから上品なミセスに切り替えていかないと…とは思っている。いつまでも可愛い服を着ていたいけれどお化粧ではごまかしきれない。ビジュアル的にダメとなったらステージを替えていくか、いっそ諦めるか。
まだ目尻の小じわは気にならない程度だがシミは次第に濃くなって、ほうれい線を消すためにほっぺを後ろに引っ張るテーピングはできないものかと画策する。
細かいところが見えるうちにつけまつげを上手につけられるようになりたいと願っていたが老眼の進行速度は予想以上だった。
たぶんあと何年かで限界が、いやもしかしたらすでに来ているのかもしれない。そもそも限界以前の問題かもしれない。それでももう少しだけ完成度を上げたい。先の友人たちに「これなら並んで歩いてもいい」と言われるのがささやかな夢だ。中身は変わってないから口を開くわけにはいかないがな。思考はもう仕方ないのでせめてアルトに聞こえるよう発声したい。できるの?
そういえば自分がこんなことしている間に結婚して一児の母となった妹も、若い頃に「黙っていれば可愛いのに」って言われたと憤慨していたことがあったのを思い出した。それじゃ兄はおしゃべりも可愛いを目指すかな。きっとそれは男に戻っても役に立つと思うから。可愛いは正義だよ。
演奏不可能の作品(えんそうふかのうのさくひん)とは、さまざまな理由により演奏が不可能、あるいは困難な音楽作品のことである。
クラシック音楽の世界では、演奏が不可能(または困難)な作品が多数存在する。演奏不可能な作品の中にも、仮に演奏されたとすれば傑作と評価され得るだけの芸術性を備えた作品は多く、これらは安易に無視できない存在となっている。巨大編成の作品や演奏時間の長い曲とも密接に関係があり、イギリスのソラブジの作品はその3要素が完全に組み合わさり、初演できないものも多数ある。
現代のポピュラー音楽の場合には、作曲家、作詞家、編曲家といった独立した職能も存在するものの、作品は演奏との一体性が強く、コンサート、ライブでの生演奏や、演奏を収録した媒体(CD等)という形で公表される点で、クラシック音楽とは様相が大きく異なる。このため、ポピュラー音楽においては、作品を聞くことができるという意味で、ほぼ全ての作品が演奏可能であるといえる。その一方で、媒体への収録(すなわちレコーディング)に際しては多重録音をはじめとする種々の編集が行われるとともにに、演奏においてはシーケンサー等の自動演奏が積極的に利用されるので、純粋に人のみによって演奏することが不可能あるいは困難である作品も多い。このような作品をコンサートやライブにおいて生演奏する際には、自動演奏やテープなどを用いてレコーディングされた作品を再現するか、生演奏が可能なようにアレンジを変えることがよく行われる。また、一時期のXTCのように、高度なスタジオワークを行うミュージシャンの中にはライブを行わない者もいる。
歴史は長く、J.S.バッハの諸作品、モーツァルトのオペラフィガロの結婚や魔笛、ベートーヴェンのピアノソナタ第21番、第29番、ピアノ協奏曲第1番や交響曲第7番・第9番などが古典的な例とされる。
ロマン派では、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」の第19番のアリアは良く省略され、シューベルトの魔王や交響曲第9番「ザ・グレート」、パガニーニのヴァイオリン曲、ロベルト・シューマンの交響的練習曲の第2変奏曲や2点へ以上の音域がある4本のホルンとオーケルトラの為の協奏曲作品86、リストの一連のピアノ曲、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に演奏不可能と宣告されたブルックナーの交響曲第2番、ブラームスのピアノ協奏曲第2番やヴァイオリン協奏曲またピアノソナタ第3番の冒頭部、チャイコフスキーの諸作品、マーラーの交響曲、ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番等があったが、それらは現在では演奏技術の発達により演奏不可能と見なされることはなくなった。しかし、プッチーニの「ラ・ボエーム」第一幕のエンディンクは、未だに半音下げて歌われることが多い。
近代ではストラヴィンスキーの春の祭典、シェーンベルクのピアノ協奏曲やヴァイオリン協奏曲、モーゼとアロンがあるが、「春の祭典」と「モーゼとアロン」は演奏技術の発達により現在では演奏会での一般的な曲目になっている。意図的に作曲された例としてアイヴズの歌曲「義務」があるが、今日では演奏家は内声などを省略するか、アルペジオで演奏するか、アシスタントを設けるかで解決されている。彼のピアノソナタ第2番等も同様であるが、本人は「間違った記譜もすべて正しい記譜である」と友人に説明している。プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章にも2度の音階的な走句があるが、「困難だ」と結論付けて全てアルペジオで演奏する者もいる。ラフマニノフのピアノ協奏曲第三番第三楽章の冒頭のパッセージは身長が170cmないと物理的に不可能であり、体格の小さなピアニストやテクニックに不自由したピアニストは左手の音をずらして演奏することが慣例化している。
演奏不可能の作品という概念は現代では新しい複雑性と深く関係している。ファーニホウの諸作品は非常に高度な演奏技術を要するが、彼の音楽に要される困難は主に読譜に集中するため決して不可能な音楽ではないとされる。しかし逆説的に言えば、演奏不可能の概念は、今日例えばパソコンのシーケンサーなどに自分で四分音符をメトロノームに合わせてキーボードで打ち込んでも決して4分音符や強弱が正しく出てこないという経験から、人間が演奏する限りにおいて全ての音楽に当てはまるという事も言える。その外シュトックハウゼンの「7つの日々からNr.26(1968)」の「金の塵」が奏者に演奏の前に4日間の断食を強要していると言う点で事実上の演奏不可能の作品である。
今日最も演奏の難しい現代音楽は、クセナキスの諸作品と言われている。第1曲目のピアノ協奏曲にあたる「シナファイ」、チェロ独奏の為の「ノモス・アルファ」、ピアノ独奏曲の「エヴリアリ」、「ヘルマ」、「ミスツ」、ピアノ独奏が重要な働きを担う「エオンタ」及び「パリンプセスト」等がその例である。クセナキス自身はテレビのインタビューで、これらは演奏困難にさせることを目的として作曲された作品であると語っている。
しかしこれらの作品群も、近年の若手演奏家の技術向上やCDリリースを参照する限り、徐々に不可能とは見なされなくなる日が近づいているのは確かであるが、逆にどんな簡単な作品も人間が演奏する限り100%の完全なる再現は厳密には不可能である。
前述の通りポピュラー音楽はクラシック音楽とは事情を異にする。とは言え、カバー曲やカラオケなど、オリジナル以外の奏者による演奏がまったくないわけではない。
特筆される例としてはサザンオールスターズの「Computer Children」(作詞・作曲 桑田佳祐。アルバムKAMAKURA収録)が挙げられる。この曲は、マスター収録の後にエフェクトなどのデジタル編集を行い、その編集後の曲がオリジナルとされている。したがって、ライブ演奏は事実上不可能となっている。ソフトウェア用マスター作成においてデジタル編集を行うポピュラー音楽は近年珍しくはないが、この曲ほど大胆に使用している例は(リミックスを除けば)、稀有である。
作曲家が演奏困難な作品を書くことによって、演奏技術が向上し、それがさらに作曲技法を拡大させるいう面がある。以下の曲の多くのものは今日では演奏やレコーディングの機会も多いが、作曲当時は「演奏困難」ないし「演奏不可能」とされたものである。参考までに掲げる。
指定された速度で演奏するのはほぼ不可能であり、通常は指定よりもやや遅くして演奏される。また、曲が独奏曲にしては長大であるため、高度の精神力が要求されるという点においても彼のソナタの中では最も演奏困難である。演奏技術の発達した現在では、ロマン派以降のピアノ音楽の大家の作品群と比べれば特別難しい曲ではなくなっているが、それでもなお演奏は困難を極める。また、リストがベートーヴェンの交響曲をピアノの為に編曲したものが存在するが、それらと比べれば、このピアノソナタは比較的易しい。
超一流のヴァイオリン奏者、パガニーニが作曲したヴァイオリンの難曲として知られ、作曲当時はパガニーニ自身以外には演奏が不可能であった。しかし、この作品の持つ魅力は多くの音楽家の心を捉え、さまざまな作曲家によって主題が引用されている。この曲の存在によって、作曲技巧や演奏技巧が大きく開拓された面は否めない。現在でも超絶技巧の難曲として知られるが、一流の演奏家の中には完璧に弾きこなしている人もかなり多い。
タイトルからもわかるように、超絶技巧を要することが目的となったピアノのための練習曲である。ピアノのパガニーニを目指したリストの代表曲である。一般の演奏家にも演奏できるように難易度を少し落とした第3版が現在では普及しているが、リストが超絶技巧の極致を目指して作曲した第2版は特に演奏困難とされ、リスト以外には演奏不可能と言われた。現在ではジャニス・ウェッバーとレスリー・ハワードが録音を残している。
演奏不可能とのレッテルを貼られ、当時の第一線のヴァイオリン奏者に初演を断られた作品。しかし現在では、早熟なヴァイオリン奏者が10代で弾きこなしてしまうことも珍しくない。
は第一楽章がオクターヴの速い動きで事実上の演奏不可能の作品である。解決譜としてのOssiaで多くのチェロ奏者が弾いている。
パウル・ヴィトゲンシュタインの委嘱で書かれたが、彼は「一音も理解できない」として取り上げなかったため、作曲家の生前には一度も演奏されることは無かった。ただし実際には、様式上・技巧上ともに特に大きな困難があるわけではなく、演奏は十分可能である。菅原明朗は「この曲こそプロコフィエフの最高傑作だ」と称え、ピアノと吹奏楽の為に編曲したヴァージョンを残している。
十二音技法によって作曲されている。ただし、急-緩-急の3楽章から成り、両端楽章の終わり近くにカデンツァがあるなど、伝統的な協奏曲の構成に従ってはいる。作曲者はヤッシャ・ハイフェッツに初演を依頼したが、ハイフェッツはこの曲を演奏するか否か散々考えた末、結局「研究しただけ無駄だった」として辞めてしまった。結局初演はルイス・クラスナー独奏、ストコフスキー指揮フィラデルフィア管弦楽団により行われた。作曲者自身は生演奏を聴いていないとされる。
1990年代初めドナウエッシンゲン現代音楽祭がカールスルーエの作曲家フォルカー・ハインに管弦楽の曲を委嘱したが、度重なるリハーサルにもかかわらず演奏困難ということでその年の公開演奏が中止になった。次の年もう一度だけ初演が試みられたが結局不可能で、またしても初演を断念させられた。その楽譜は当時の展示即売会で一般公開され、色々な同僚作曲家の意見が聞かれた。現在に至るまで演奏されていない。ブライトコップフ社によって出版されている。
チャンスオペレーションを厳格かつ極度に徹底したヴァイオリンソロのための作品集で、「作曲するのも演奏するのもほぼ不可能に近い」音楽になることを前提に作曲された。しかし、第18曲目の演奏困難度をめぐって1-16曲目までの初演者ポール・ズーコフスキーと意見が対立し、作曲が中断された。その13年後にアーヴィン・アルディッティの助力で作曲が再開されて、無事32曲の完成に至った。現在この作品の全曲演奏が出来るヴァイオリニストはヤノシュ・ネギーシーとアルディッティの二人しかいない事から考えて、最も演奏不可能に近いヴァイオリン曲といえる。
トーストしたパンに何を付けようか考えてこないだの休日前夜の会社帰りに酔って道草したコンビニで衝動買いした買い置きのポテサラがあるのを思い出してのっけたんだが、朝イチで喰うには(;゚Д゚)エエッってくらいのスパイシーな大蒜フレーヴァーに戸惑い、スライスチーズスライスチーズと連呼連想したがもう無かった、代わりに見つけたシュレッドチーズの最後の一振りくらいに減った細く絞られた袋が発見されたのだが、
傷んだチーズって、酢酸臭とアンモニア臭のブレンド香気がするんだな…かけて焼いたら収まるかとおもったが部屋中に充満したところで口に入れるのを撤回してダストシュートイン!したけどどーにも臭いが収まらんかったので、ゴミ袋を引っ張り出して一旦まとめて縛って二重にし直し、トースターレンジの中もセスキ含有シートで拭いてなおかつ10分間カラ焼きしてやって、ようやく落ち着いた…
起きたのでケージから出してやった(以前に男の娘とわかった直後にチンチンタマタマ取られちゃった)ネコが餌に口つけず超高速で部屋の端から端を往復走行してたの、そのせいもあったんだろうか…?(o´・ω・`o)
『ジャーロ』誌(光文社)で連載中の、架空のアンソロジーや叢書を作る持ち回り企画。書籍化希望。
No. 55 (2015 Autumn-Winter) 第1回 千街晶之「戦争ミステリ傑作選」
No. 56 第2回 鷹城宏「異論理図書館(ビブリオテカ・パラロジック)」
No. 57 第3回 巽昌章「死のカードあわせ――可動式アンソロジーのすすめ」
No. 58 第4回 千野帽子「ミステリのフロンティアはここだ――K文社ミステロイド文庫・創刊!」
No. 59 第5回 蔓葉信博「ライトミステリーの源流と現在」
No. 60 第6回 法月綸太郎「パリンプセストの舟――メタハードボイルド全集(第一期)」
No. 62 第8回 小田牧央「ポスト真実と現代の本格ミステリ」
No. 63 第9回 波多野健「暗号解読――ミステリと現実」
No. 64 第10回 廣澤吉泰「昭和五十年代アンソロジー(国内編)傑作選」
No. 65 第11回 羽住典子「春を売る本格ミステリたち」
No. 66 第12回 諸岡卓真「『そして誰も』系ミステリの世界」
No. 67 第13回 横井司「墓場へ持ちこまれた謎を解く」(テーマ…未完作品)
No. 69 第15回 浦谷一弘「飛行機ミステリ全集(第一期)」
No. 70 第16回 円堂都司昭「ベスト本格ミステリ21世紀」
No. 71 第17回 大森滋樹「『人面瘡』幻想ミステリ全集」
No. 72 (2020 Summer) 第18回 佳多山大地「鉄道ミステリー選集(二巻本)」
No. 74 (2021 January) 第19回 小松史生子「ミステリの中の『忘れえぬ女(ひと)』名場面傑作集(クラシック編)」