はてなキーワード: あの世とは
最後に観たのは探偵たちの鎮魂歌だから、実に12年ぶりである。
地上波はそれ以上に観ていない。
まず、キャラの演技だいぶ変わってる気がする。
特にアガサ博士と少年探偵団、灰原に違和感。まぁ10年以上も経てば変わるか。
それと、声に老けを感じてしまい、少し寂しく。そのうちドラえもんみたいに世代交代もあるのだろうか。
おっちゃんは声優も変わって演技も違うのだけど、そんなに抵抗はなかった。
ストーリーについては、「いやいやそうはならんやろw」とか「なんでやねんw」って突っ込みどころが多くて、内心突っ込みながら楽しんでいたんだけど、世間一般的には重厚なストーリーという評判らしい。マジか。
安室さんは初見だけど、29歳で(恐らく年功序列が色濃く残っているであろう)公安の秘密組織で指示を出せるくらいの地位があるという日本中の才能とコネの特異点のような存在が、IoTテロの可能性に思い至らないものだろうか。あまつさえ、スマホにこっそり盗聴アプリを仕込む知識もあるというのに。
やたらコナン上げしていたのが気になった。(まぁ原作やら他のエピソードで理由が描かれてるんだろうけど)
ついでにNW経由で操作されるだけで電子機器が爆発炎上までしちゃうあの世界の安全基準はどうなってんだ。
探査機のパスワードを打ち込む瞬間、「よろしくおねがいしまあああす!」と聞こえた気がした。そういえばあれも人工衛星をGPS誘導によって落とす話だったか。
ていうか探査機との通信に使う暗号方式って、パスワードによる共通鍵暗号方式なん?公開鍵暗号方式とか使うんでないの?そこらへん詳しくないから誰か教えて。
RX-7の頑強さとかキック力増強シューズで蹴り出されたボールの威力とかはまぁ空想科学読本あたりで検証されるだろう。今も空想科学読本が残ってるかはわからないけど。
演技の下手さとかではなく、あの世界観の中にアジア人は当初いなかったじゃん
なのにいきなりそういう人種もいましたみたいに後付け設定しているのが興ざめ
最近アイマス界隈で一番話題となったことと言えば、やはり「アイドルマスターシャイニーカラーズ」がリリースされたことでしょう。
レッスン、お仕事、オーディションからスケジュールを組み立ててアイドルを育成し、アイドルの祭典"W.I.N.G."での優勝を目指すという、
アケマスの頃のような初代のゲームシステムを踏襲しており、古参Pから全くアイマスに触れたことがないという人まで、リリース開始当初
自分もやってみましたが本当によくできてると思いました。初見ではほぼクリアできないであろう難易度はアイドル界の厳しさをその身で感
じられるし、アイドル達とのふれあいは二人三脚でトップアイドルを目指しているということを実感できる、本当に「アイドルをプロデュー
スしている」ということをその身をもって体感できるゲームになっていると思います。
そんなアイドルマスターシャイニーカラーズ、通称シャニマスは前述のとおりネット上でも(特に古参の方々から)好印象を持たれています。
「これが本当にやりたかったアイドルマスターだ」「これが本当のプロデュースだ」「最高にアイマスしてる」
そのような声であふれていました。
「じゃあ僕らが今までやってきたことはなんだったんだろう」って。
担当のカードを手に入れるためにただひたすら画面を押し続けたり、無心になって音ゲーのイベント走ったり、限られたお金を切り崩して
ガチャ引いたり、そういったことのすべてが否定されているように思えてならなかったのです。
普通に考えたらおかしな話なんですけどね。ただひたすら画面を押し続けることや音ゲーをすることが「プロデュース」だなんて。
でも今までそれをプロデュースだと信じてやってきた人たちがいる。その人たちがやってきたことっていったい何だったんでしょう?
先月、グリー版アイドルマスターミリオンライブ!がサービスを終了しました。僕はこの5年間の歴史すべてに携われたわけではありません。
でも、ここでしか知れない、見られないアイドル達の一面がたくさんあって、あの劇場は、あの世界は、僕にとっても大切な場所でした。
中には本当に初期のころから熱心にプレイしていた人たちがいて、そういった人達の嘆きや悲しみも目にしました。本当に好きだった
んだなって、自分が信じたプロデュースをずっとこのゲームでやってきた人たちなんだなって。「ありがとう」という感情で満ちていた最後こそ、
そんなグリマスすらも否定されているように思えてしまうのです。ミリシタをやっているときも、自分は何をやっているんだろうという気持ちに
プロデュースってなんなんでしょうね?繪里子さんは、プロデュースの方法は人それぞれ、とおっしゃっていたのでそんなに深く考えるようなことじゃ
ないんだと思いますが。エンターテイメントなんだから楽しめなきゃ損ですもんね。
シャニマスは確かに初期のころのような、本当にアイドルをプロデュースしている感覚が味わえるゲームになっていると思います。これ「が」アイマス
だと思っている人も多くいると思います。でも、僕にとってシャニマスは、これ「も」アイマスなのです。シャニマスに関して何をどう思うかは自由ですが、
ほかのアイマスを否定するようなことはあまり言って欲しくないなと思っているのが今の僕の気持ちです。
まあ、悪気があって言ってる人はあまりいないとは思いますが(笑)。アケマスからやってたような人たちは本当にこういったものを待ちわびていたことで
しょうし、気持ちはわからんでもないです。誤解がないように言っておきますが僕は普通にシャニマス好きですよ。
いろいろと思うことを吐き出しましたが僕も多分5th行く頃には忘れてると思います(笑)。少しでも僕に共感していただける方がいたらうれしい限りですが、
しがないミリPの一人が思っていることなんであんまり気にしないでくださいね(笑)。最近何かと匿名ブログが話題になるので…。拙い文章でしたが、最後
二丁目のゲイバーで飲むことがあるんだけど、
お局様丸出しで「私はSだから」みたいなちょっと職場にいたら面倒くさい感じな方。
私自身、あの世界では異物だから、あまり出しゃばらないようにしてるんだけど、
その人は何が目的なのかわからないけどお店で結構傍若無人なふるまいをしていた。
お店の音楽を変えたり、会話の途中で割り込んで、間違った知識を披露したり、
店子さんにハグをもとめたり、あたしバイだから!と同性も抱いたことないし好きになったこともないのに言い出したり…。
少し面倒くさかった。
ああいう方を見るたび、同じ女性である自分も本当はここにいてはいけないんじゃないか?
ゲイの世界はゲイのためのものだから、行かないほうがいいんじゃないか?
そんな感じで少し悩んじゃう。
団塊の世代については、あの世代が若い頃に流行っていた学生運動では、社会を変えることが出来なかった絶望の世代だと個人的には思っている。
団塊の世代と比べると、氷河期世代の方が恵まれている気がするよ。
氷河期世代の悲劇は、日本の仕組みそのものを変えることが可能だからね。
氷河期世代は子供を作ることが出来ないから、日本の人口減少を加速させて、日本の土台そのものを破壊することが可能。不幸な世代であるように見えても、日本の未来の主導権を握っているのは、実は氷河期世代だったりする。
あれほどスーパーハカーを夢見ていたのにIT系のブラックさに恐れをなし、気づけばIT系でもない場所でSierまがいの何かを演じている。
人付き合いを嫌いすぎてオンラインゲームを遊ぶことはなく、SNSでリプライを飛ばされたらブロックする。
バイブルは「Serial experiments lain」と「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」。
どっちも美化されすぎて一秒だって二度と触れたくない、セピア色のメッキを1ミクロンも剥がしたくない。
思い出の中にひたすら生きる。
今を生きていても感覚は今も思い出の中。
ガールズアンドパンツァーを見ながら陸上防衛隊まおちゃんを思い出す。
モラトリアムもジュブナイルも落第したままいつまで経っても心が中二病を抜け出さない。
小学校の段階で既に人間らしく生きることから落ちこぼれていたのだろうか。
字の汚さが幼稚園児並みなのは、小学生になる頃には努力の仕方を見失ったからだろう。
自分は真面目に生きてきたと思いこんでいた。
違ったのだ。
あったのは恐怖だけ。
親が怖くてイジメっ子が怖くてテレビの世論や将来の不吉さも怖くてとにかく人間の不寛容さが怖かった。
それでも世界がいつか滅びるか、それとも自分が他人に頼らず生きていけるようになれると信じられたなら耐えられた。
今はもう、現実を見たくない。
生きるべきではなかった。
もう少しすれば何かが大きく変わって奇跡が起きると先延ばしにしすぎた。
そして、目先の欲に流されすぎた。
それが失敗だった。
あるとすれば人の数だけ死後の世界はある。
生物学者のユクスキュルが提唱した『環世界』という概念をご存知でしょうか?
同じ空間を認識していても、その認識者の認識機能の差異によって、脳や心に創り上げられる世界は千差万別で、
同じ空間を認識し・生きながらにして、全く異なる世界を認識し・生きているという考え方です。
つまり言ってしまえばこの現世だって、人の数だけ異なる世界があるのです。
まして恐らく、あの世では現世の五感とは異なる認識機能によって観測するのだろうから、現世以上に環世界の差異が大きい可能性も大。
加えて、教祖があの世で観測した世界を教義に記す能力と、教祖があの世の世界が複数あることを観測する能力はまた別ですから、
例えば「あの世には野球部があったぞー!」という教義は真実でも、その教義に従っていれば将来その野球部に入部できるのは真実だとしても、
あの世には野球部以外にサッカー部もあるという事実を認識できたか…というのはまた別の話で、だからと言って野球部の教義は嘘にはならない。
実際以上に科学で判明している事を過大評価した科学的事実云々ではなく、科学技術信仰のような人の信仰自体は自由ですので。
この世に影響を与えてないものが、人の魂(コア)を動かす、ってところ。
先の環世界的な話でもあるのだけれど、例えば、人の認識機能は3次元な訳ですが、超弦理論などでは実際には10次元だそうです。
そして、蟻の認識機能はこのうち2次元だけとも評されるように、人間の認識機能もこのうち3次元だけで、
(嘘か真か、盲目の数学である者ポントリャーギンは「5次元図形を視覚的に思い浮かべることができた」なんて話もありますし)
実はあの世というのはこの世の4次元目以降にすぐそこに存在し、別に魂が動かされるとかそんな大層な話ではなく、
脳による認識機能が失われて初めて認識できる環世界にあの世があると考えれば、何も矛盾しないのではないのでしょうか。
それこそ、その認識機能が特異的に鋭敏な人がいたら、その人が教祖としてそうやって微かに観測できた世界を教義に残した…
なんて仮定すれば、先の複数ある死後の世界を一つと錯覚した件も含めて、諸々矛盾しないことになると思います。
…因みに言うまでもないとは思いますが、私も個人的な宗教観などは貴方に近いです。が、ここはあくまで論理的な思考実験としての話ですのでw
要は「死後の世界や宗教の教義を簡単に否定できる程の認識能力や材料を私達は持ち合わせているのか」って話です。
では、その時喋った私は一体誰なんでしょうか?
面白いですね。凄く興味深いですね。
ただ、麻酔は確か飛行機の飛行原理と同じく、科学的にはその原理が解明されていない事柄ですから、断定的なことはやっぱり不明でしょうね。
単純に済ますのであれば記憶を失った酔っぱらいと同じ状態なのかもしれません。
なるほど!お付き合い頂き感謝!
これは確かにその通りだね。
ただし、あくまで「天国的なもの」と「地獄的なもの」の矛盾であって、「あの世」そのものの矛盾ではないかな。
加えて、死後の世界は大学のサークルみたいに、その魂の在り方に合わせて多様な天国や地獄の集合体みたいなものがある
「野球の方が面白いだろ!」と「サッカーの方が面白いだろ!」という人達が激突しても、
やっぱり脳が消えたら消えたままになるとおもう。
そうだね。ぶっちゃけ個人的にもその可能性の方が高いとは思う。
でも、断言はできない。科学的には「わからない」が正解で、「ない」と断言するのは「ある」と断言する信仰と同レベルだとも思う。
例えば、天体望遠鏡で観測できる遥か彼方のアンドロメダ銀河とかは、地球からはとても関与・影響はできないけれど、
人間の認識メカニズムや現状の科学が確かならば、確かに存在はすると考えられている訳だよね?
この世に関与や影響がないことに何の問題が?関与できない世界のことが何故教義として残っているのかっていう矛盾?
ふむ、私の主張としては「結局あの世が実在しようがしまいが、心の作り上げる世界には関係ないのだw」なんだけれど、
それはいったん置いておくとして、もう少し詳しく解説をお願いしたい。
・「極楽浄土があるとすると矛盾する」とは具体的にどういうこと?
単に極楽浄土という定義自体の矛盾?それとも所謂「死後の世界」という概念全般が抱える矛盾?
・「他の人は幻になってるのはやっぱりヘン」とはどういうこと?
「心は脳に依存している」というのは全くその通りで、例えば人の視覚は物体そのものを映し出している訳ではなく、
観測しているのはあくまでも光の波長で、脳がそれを元に勝手に着色作業などを行って架空の世界を作り出し認識させている訳で、
実際の世界が、その色が、私達の心に映し出された通りのものである保証など何処にも無い訳で、
それこそこの世界がゲームの中の世界でない保証など、映画『マトリックス』みたいに幻の夢を見させられていない保証など無い訳だけれど、
それを踏まえて「他の人が幻になる」のってそんなにヘンなこと?現世も似たようなものでは?
・「脳が消えればそれもなくなるから無くなる」は確かに一理あると思います。
例えば、視力を失った人はそれを補うように聴覚などが鋭敏になるもの。
同様に、脳という五感の認識機能を失ったからこそ、大量の電気信号による情報の波に圧し潰されていた第六感的なものが顕在化する可能性は?
それでも我慢してきたあの世代の女性は本当に大変だったと思う。
ノロケとして「私が病気の時に浮気しないでいてくれたのよ」とか言われても、
それ、人として当たり前の事だよね…それだけで「だから私の夫は特別な良い人!」認識なのか…としか思えないんだけど
男にはそういう話をしないんだろうね。
エリアル、母親のマキアをネタにオナニーしちゃって強烈な罪悪感に襲われたことがあると思うんだよね絶対。
それこそアスカで抜いちゃったシンジなんか比べ物にならないレベルで激しく後悔したと思う。
でもマキアはエリアルをいつまでも子どもだと思ってるからエリアルが悶々としてることに気づかないで一緒のベッドで寝たがるし、もしかすると一緒に風呂にも入ろうとしたかもしれない(あの世界のお風呂事情はよくわかんないけど)
エリアルの抱いている思いは限りなく恋愛感情に近いものなのに、自分が幼い頃に織ったヒビオルを大切にしているマキアを見ると、この人は絶対に自分を恋愛対象としては見てくれないのだということを嫌でも思い知らされる。かと言って他の誰かとくっつくのかと思えばそんなこともなくて、徹頭徹尾自分の母親であろうとする。もう自分のほうが背格好も上だし、見た目だって年上にしか見えないというのに……。
こう考えるとどうあってもエリアルはマキアから離れざるをえない。あんな生殺し地獄のような女といつまでも一緒にいたら、そのうち何かのはずみで衝動的に一線を越えて、一生悔いるハメになるかもしれないし。
レイリアが娘のことを「忘れる」「ヒビオルには織らない」と言っていたのに対してマキアがエリアルのことを「覚えている」「私のヒビオルの一部」と言ってたのは対象的だった。さよならの朝とはマキアとエリアルの別れの場面だけではなくて、レイリアと娘の別れの場面も指しているのではないか。ならば、そこに飾られる約束の花とは「あなたのことを覚えている/忘れる」という約束のことなのかもしれない。知らんけど。
物語中盤以降のレイリアは、あの花でいうとイレーヌさんみたいな雰囲気のキャラだけど(ここさけの順の母親とも近いかも? クーデリアの母親はどうだろうか?)、あの辺のキャラって舞台装置以上の役割が与えられていないというか、脚本家がそこを描こうとしていないというか、ぶっちゃけ興味が無いんじゃないかという気がちょっとだけする。
レイリアにとって「飛べること」は自らの意思で置かれた環境から抜け出せること、新しくやり直せることを指しているんじゃないかな。レイリアの最後の大ジャンプは自殺でもあり、あの城での出来事を全てなかったことにすることでもあったのかもしれない。元気な娘の姿を見たことで、レイリアにとってあの城で思い残すことは何一つなくなって、昔のレイリアに戻る踏ん切りがついたということなのかも。
(これは一応 anond:20180307093757 へ向けたトラバ)
髪を染めてた頃のマキアはなんとか人間であろうと努力していたように見えるけど、金髪に戻ってしまってからは、もう自らが人間社会にとってのアウトサイダーであることを当然のこととして受け入れているようなフシがあったっけね。ラストでも、あの家族の曾祖母としてではなく、あくまでもかつてエリアルの育ての親だったものとしてあの家を訪問しているように見受けられたし。そういえば、最後に贈られたタンポポにはどんな含意があったんだろ。
イオルフの村、石灰質っぽい山に囲まれた盆地っぽい場所なので、あの山は武甲山でヒビオルは秩父銘仙なのでは。
岡田麿里にとっての花(もしくは華)って一体全体なんなんだ
彼(彼女?)の絵を見るたびに、彼が去年の夏頃描いた漫画を思い出す。
少女と父親が花火をした後、「ゼンイ」でゴミを拾い、翌日見て見るとほとんど元の状況に戻っている。少女は父に「私たちのゼンイは無駄だったの?」と涙ながらに問い、父はそれに答えられない。
といったようなね。
まあ善意があっさりと踏みにじられるという展開は非常によくある寓話ですわ。
この漫画を初めて読んだ時から反感をものすごく覚えるんだよな。
この作者が一体どのような目論見でこの漫画を描いたのかは知らんので漫画内の父娘に対しての話になるんだけれども
そもそもボランティアのゴミ拾いは何かのイベント後とかで突発的に大量のゴミが発生した場合を除き、定期的に行われる。
そうでなければ当然再びゴミが溜まる。
じゃあそのたびにボランティアの人たちの労力は無駄になっているのか?
当然違う。ゴミ拾いが行われた後は間違いなくその場は綺麗になっているし、拾った何袋分かのゴミはその場に舞い戻ってきたりしない。
間違いなく"拾った分"はゴミが無くなっている。
この父娘はまずそこを見誤ったのだろう。「今この一瞬この場を綺麗にすればその状況は永続するだろう」というぼんやりした期待を持っていたのだろう。
ただ、「ゴミを拾った」という行為自体を無駄だと考えるのは間違いだ。
それは言ってみれば池の向こうに届かせたいと思って投げた最初の石が沈んでしまったから無駄だと断じるようなものである。
石を投げ続ければ池が埋まって向こうに転がるかもしれない。
「向こう岸に届ける」という目的を見つめ続けるならば、最初の一投は無駄になったりはしない。
勿論諦めてもいい。
「池の向こうに届かせなくてもいいや」と考えたって、やはり最初に投げたことは変わらない。
「ゼンイだからただゴミを拾う」ではきっとあの世界のゴミは永遠に溜まり続けるのだろう。
立て札を立てたり、定期的にゴミ拾いをしたり、人を集めたり。
とにかく「あの場を永続的に美しく保つ」という希望を目的に据え、計画的に努力するという行為に考えが至らなかったのだ。
それもまたよくあることだと思う。最善の希望を目的に据えなければ最善の希望は実現できないのは当然だが、それは最善ゆえに困難が多いだろう。
ここで諦めたっていいのだ。それでもこの父娘が拾った幾らかのゴミは無かったことにはならないのだから。
ところが彼らはどうやら自分たちのした事を無駄にしたいらしい。無かったこととして認めたいらしい。
彼らと同量のゴミを、同じように拾い、同じようにその場に再びゴミを投棄された人にも彼らは哀れみの視線を向けそうなところが非常にムカつくのである。
ここまでだいぶ長くなった気がしたが、まだもう一つの主題が残っているのである。
「ゼンイ」の話だ。
この話の中でたしか父は「ゼンイ」だからという理由でゴミを拾っていたのではないだろうか。
素晴らしいことである。実際その「ゼンイ」によって幾らかその場所は不法投棄という犯罪行為が拭われたわけだしね。
しかし、前述の通り、この父娘は自分たちの行為を無為だと認識した。「ゼンイ」は無駄だったと判断したのである。
ふざけた話だ。そもそも「ゼンイ」が無駄にならないという希望を、顔も見えない相手になすりつけるのはお門違いでは?
「ゼンイ」とかいう何となく偉そうな行為を何となくして、何となく裏切られた気がして、何となく失望しているのだ。
まあ娘は仕方ないかもしれないな、子供だし。この作者の描く人物はあまり年齢による区別がないからあやふやだが、多分小学校の中学年とかだろう。
「ゼンイ」が無駄になってしまったのかと泣いてる娘に対して何だその態度は。お前の頭も小学生女児か。
せめて昨日の行為は消えたりしないことは分かるだろ。慰めることもできないのか。親として子どもの心を守ることもできないのに他人に対して「ゼンイ」振りまいてる場合か。いやそれはまあ人によるだろうけどさ!!
そもそも「ゼンイ」が必ずしも良いことみてえな言い方自体が俺は非論理的だと思うんだけどさ。
人に感謝してもらおうとしてする「ゼンイ」は感謝を求めない「ゼンイ」と比べて劣っていやしない。
しかし、「ゼンイ」に限らず、目に見えないものが認識され、更には感謝されるのは非常に難しい。
だから人目にさらされなかった娘の「ゼンイ」がもし父にだけ見えているなら、父が娘にしてあげられることはあるはずだ。
それもしね〜で(以下繰り返し)
まあ、漫画の中の話に何マジになってんのと思う人もいるだろう。気持ちわかるよ。
でも、ある表現の中の仮想的な話に批判をすることは無意味ではないと思うんだ。
実際この漫画すごい拡散されただろう?いろんな人が関心を持ったのは間違いない。俺は俺の関心の持ち方をこんな形で表現したんだよ
この作者のイラストだの何だのがTwitterで流れてくるたびにこれを思い出してイライラしてたからその整理ってのもある。この人が作ったイラストとか動画で好きなのあるし、それ見るたびにフラストレーション溜めてちゃ世話ないしね。
自分が本当にしたいことは何なのか確認しながら行動をしたほうがぼんやりした失敗や失望をせずに済むということと
「ゼンイ」を目的に据えるということは他者に目的決定権を委ねる原因になること