はてなキーワード: 苦痛とは
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はてながchrome拡張にブックマーク専用のものを用意したんだよね
俺はこのくらいで良かった
嫌な思いをするだろうなと思ったけど、やはり嫌な思いをしたさ
なんだろうかね、みんなコメントを見たがってるのよくわからない
それを眺めることがどれだけ退屈で苦痛なことか
食わないでいることで感じる苦痛があるんだろ
我ながら痛い自覚はある。だからリアルでは誰にも言ったことがない。ダラダラ書く。内容すかすか♡
自分(女)には年の離れた兄がいる。常に自分の人生の100歩くらい先を行く兄の存在は、自分の人格形成に多大な影響を及ぼした。兄がやっていること、持っているもの全てが自分を惹き付けてやまなかった。自分が幼稚園生だった時は、良く兄の部屋からギラギラしたかっこいい龍のカード(遊戯王)や駒(ベイブレード)を盗んで怒られた。
年が離れていた影響か、かなり可愛がってもらっていたので、兄もよく自分に面白いゲームやコンテンツを貸したり見せたりしてくれた。小学校低学年位の時に初めて見せてもらったニコニコ動画は最高に面白かったので、直ぐに自分から見漁るようになった。その頃くらいから遊戯王や連ザ2といったゲームも仕込まれるようになった(とは言っても小学生の知能では、専ら兄のサンドバッグとしての役目だったが)。連ザ2は個人的に死ぬほどハマったので、アニメも全話見て、親におねだりしてガンプラも買ったりした。女の子がガンダム好きっていうのが幼心ながら何故か凄く恥ずかしかったので、おねだりに死ぬほど緊張した。
他にも、兄が小さい頃に遊んだであろうGBやGBA、64やSFCやGCも片っ端からプレイした。その中でもロックマンエグゼは特に面白かった!ダークチップがきっかけで自分は厨二病(まだ小学生だったけども)を発病した。
自分が高学年くらいになると兄がコミケに行き始めたので、薄い本も沢山買ってくるようになった。全部読んだ。青年誌もたくさん貸してくれた。エルフェンリートを初めて読んだ時はそれはもう感銘を受けて、読了暫くは自分がベクターを使う妄想に取り憑かれたりした。
他にも2chやらラノベやらアニメやらエロゲやらなんやらかんやらとの出会いもあるが、キリがないので割愛する。
小学校中学年くらいの時には既に何となくおかしい事に気づいていた。高学年頃にははっきり自覚した。
小学生の女の子というのは、ガンダムやロックマンやニコニコ動画にはまるで興味が無いみたいだった。同じ幼稚園に通った幼なじみ達は、気がつくと皆嵐やEXILEの話でもちきりだった。
自分はハブられるのが怖くて、それはもう必死に話を合わせた。親がジャニオタだったので、幸い情報の入手には事欠かなかった。なんとかついていけた。本当は興味が無いものを興味があるように話すのは少し苦痛だった。
サン宝石のチラシを見てみんなで盛り上がった。ほっぺちゃんなんて本当は1ミリも欲しく無かったので少しハブられた。
この状況は中学生になってからも続いた。嵐は時代遅れになり他のグループに話題が移った。幸い親は永遠のジャニオタだったので、ライブに連れて行ってもらったりして勉強し何とか話を繋いだ。
暫くするとボカロが台頭し始め、女子の中にもオタクが現れるようになった。少し気が楽になった。
高校生にもなると流石にハブるとか女子グループとかっていう概念は消滅し、趣味も多様化したので、以前よりは伸び伸びと生きられるようになった。この時初めてインターネットの住人の女子と仲良くなれて、凄く嬉しかった。
守備範囲は全く違うが、淫夢動画というゴミカスみたいな共通点があった。2人で810のハンドサインをしたりするのが、なんだか凄く嬉しかった。この友達が今のところ最初で最後の話が合う女友達だ。
そして大学生になり、交友の幅がグッと広まった。
ここで自分はとんでもないことに気づいた。
女子ではついぞ1人しか出会えなかった”話の合う”友達が、男だと何人も見つかる!ガンダム、ロックマン、遊戯王、ニコニコ動画、2ch、アニメ、少年誌、青年誌、同人誌、エロゲ、ラノベ、児童書etc...今まで語ることを諦めていたものが、全て手に入った。本当に嬉しかった。親友と呼びたい人が出来た。
しかし、そんな自分の前に性別の壁が立ちはだかった。どうやら大学生の男女が親友になるのは、本当に難しいようだ。男女のしがらみからはどうしても逃れられない。友人として親睦を深めたいのに、性の問題が常に絡んだ。
お互いに下心の無い純粋な友人を見つけることが出来ても、それで周りはハイソウデスカと納得してはくれない。2人でゲームをしたり遊びに行ったりすることを、お互いの恋人は許さないだろう。どれだけ仲が良くても、一緒に遊びに行ったりすることは出来ないのだ。
ああ、本当に話も気も合う友人なのに。お互い恋人第一だから下心とか無いのに。出来ることなら、生涯の友人としてブラブラと遊んだり、居酒屋行ったり、ゲーセン行ったり、だべりながらモンハンで護石クエ回したり、桃鉄でNカードマス周回して豪速球カードで手札全部叩き割ったり、ソフマップでエロゲ掘ったり、一緒にカードショップ行ったりしてみたかった。自分が男なら、もしくは友人が女なら、全部実現したのだろうか?
別に女に生まれたことが嫌な訳では無い。だが、かなり寂しい。イタい悩みだが、きっとインターネットには同じ悩みを持ってる人がいると思う。
それ身体壊してるだけや
とは言え、生理自体苦痛だし、どうせ苦しむならどっちがいいんだか感はある
正しい生理(多すぎず少なすぎないソレが周期的に来ること)という言葉にはいつも辟易する
正しくても苦痛なんだが?という悲しみ
ただ間違いなく言えるのは「すすんで生理になることを選んだわけじゃないのに、それなしの人生と比べて継続的に大きなデバフがかかる」ということ
(一部のスピが毎月生まれ変われるのは生理がある人だけ!とかわけわからんこと言ってることはあるけどあんなの例外にしていいよね…)
そんななかで、何らかのサポートを受けたいと思う気持ちが湧いてくるのは自然だよなと思う
貧困云々に関しては、本当に生理の貧困と言って然るべき問題提起からスタートしたところ、潜在的にあった生理ある者たちの苦痛が噴出したために、生理なき者たちからは本筋が見えづらくなっちゃったように感じる
私は生理が始まる前の体に戻りたい
罰みたいだもの、こんなの
私はすごく食べるの好き、調べ上げて月一くらいで美味しい外食行くのが楽しみ、出かける時は美味しお店を調べ上げるし、旅行はその地方ならではの料理が一番の楽しみ、適当な外食は出来るだけ避けたい、それくらいなら疲れてても刺し身やベビーリーフでも買って家で適当に食べるって食が趣味人間で、紹介された相手は食への興味無し、緊張しないチェーン店に行きたい、母親も料理しないからほぼスーパー弁当で育った人で、デートで奢ってくれてたから店選びで強くも言えず、いい加減なチェーンばかり入ってて苦痛だった。
初回は調べていたみたいだけど、結構歩いて連れて行かれると大行列で、並ぼうとしたらそれは嫌だったみたいで止めとこうとUターンし、お洒落して下ろしたての靴はいて大阪の何駅分か長時間歩かされ、足にマメできて潰れ派手に皮がズル剥けになった末にチェーン居酒屋。
足痛いから座りたいなーとかこの店どうですかーと声かけたけど、定崩れてパニクってる様子だった。
私何もないクソ田舎住み、相手は大阪だったから、二人で遊ぶ場所は大阪になり、食い倒れの街には当然行きたい店が唸るほどあるのに交通費かけて大阪まで来てこんな飯食べるなんて!!!と大変悔しかった。
結婚したら食への興味のなさが、好きな分野に口を出されず自分色に染め上げられて楽なんだけど、付き合ってたころは、チェーン嫌だったなぁ。
あるメーカーで技術職をしてるオッサンなんだけどけど聞いてくれ。
先日会社のマーケティング主導の製品企画のキックオフミーティングに呼ばれたんだけど、非エンジニアの文化にはじめて接していろいろ面食らっている。
なんていうか、普段馴染みのあるエンジニアだけで動いている会議って論点が割と明確なのよ。工業デザイナーの製品イメージがあって、筐体サイズや電力の制約があって、納期やコスト、開発リソースから実現可能性を考えてという具合に、製品の要素を実装可能な状態に落とし込むために要件を絞り込んでいく的な感じ。
一方、この前初めて参加したマーケ主体のミーティングはソフトバンクの決算で孫正義がやってるような感じのポエミーなプレゼン資料がポンポン飛んできて頭がくらくらした。「プロジェクトに対する私の思い」だとか、「製品のコードネームを決めよう!(提案者は製品コンセプトが抽象画なのでピカソ推し)」とかエンジニア目線で見るとマジでどうでもいい話ばかりで会議に出てる時間が無駄に思えてとてもストレスフルだった。
で、そんな経験がすごく苦痛だったという愚痴を昔営業の仕事をしていた嫁に話したところ、自分にとってはへーと思う答えが返ってきた。
「マーケティングや営業といったコミュ力を要求される仕事って興味の対象が人間なのよ。だから製品の良し悪しより、思いやイメージといった感情に働きかける要素を重視しているわけ。私だって、商品はクソなのに取引先のおっさんに人間性を好かれて商談まとめた経験あるし、そんな環境に何年もいる人たちが集まった会議があなた達エンジニアの世界と文化が違うのは普通じゃない?」
そうなのかとハッとした。なんていうかエンジニアはいかに良いモノを作るか、いかに技術的に面白いことができるかに神経注ぐ。だけど非エンジニアはいかに人を動かすかに注力してるのかと。
そんな目線で会議に参加したらいろいろ発見があった。非エンジニアの人はオンライン会議でも顔出ししたがるけど、理由が表情が分からないと感情の変化が読めなくて、彼らの仕事スタイルからするとやりづらいということなんだなと思ったし、面識ない人の発言でも声の感情のこもり具合だけでエンジニアか非エンジニアか判断できるようになった。
だけどだ、違和感の理由がわかったところでこの手の会議が不快なのは変わらないわけで、マーケや営業のコミュ力重視コミュニティとエンジニアの見てる世界の差は簡単には埋まらないよなと思ってしまった。なにせ会議が退屈すぎるのでサボって増田に愚痴を書いているくらいだし。溝は深い。
僕の母が似たようなとこがあったから持論を持ち出すと。。
育児に対して不安がある自分を正当化するために、いろんなところにぶつけて何とかしようとしているんではないか。
もともと子供がそんなに好きでなく、かつ、心理的にそこまで成熟していない人は、そうなると思っている。
世間から押し付けられた理想的な子育てに振り回されて、自分も理想的な母親になりたい。
まあ、自分はそんな子供好きじゃないしほどほどに世話して上げられればいいか。。
ぐらいに妥協できればいいんだけど、世間に振り回されないほどの自信が自分にはない。
子供を好きな人は保母さんにあこがれるくらい好きなわけで、向き不向きってのがある。
不向きならば、それを自覚し、向いてない分ほかの人に頼ったり、適度に人に預けたりすればいいんだけど、
母の愛は海よりも深く~みたいな世間の母親教に振り回され、苦痛な子育てを楽しまなければならないというようなおかしな状態になる。
それに対して父ができることは、保父さんのようなイクメン(歌のお兄さん的な?)になるか、
そんなに「完璧な母親になる必要はないよ」と支えてあげることだろうか。
保母さんのような母親なんて少ないのに、保父さんみたいな父親なんてもっといないのだから、
性格の話題で、血液型とか「男性脳と女性脳」で判断とようとするひととの会話の生産性のなさが苦痛だったのです。
が、最近は
「この人は血液型や男性脳や動物占いで何だったかを主張することで、他人から自分がこう見られたといいたいんだな」
と、満たされない自己承認欲求を非常にわかりやすくアピールとしていると気づきました。
そうだね、と同意してあげる簡単なトークスキルによって、相手の承認欲求を満たして気持ちよくさせられるからみんなハッピーなので、いまは割とウェルカムです。
差別辞めようって当たり前のことは周りに普及すべきだし
ヴィーガンだってどんどん周りの人を巻き込んで行うべきことだろ
正しいけど出来ないってんなら、それは自分の意識をアップデートすべきなんであって攻撃して解消すべきことじゃない
なのになんで動物を食うって発想になるのか
頭を使えば分かるだろ普通に
すげえあるあるを言うなら
何でもない、それこそ馬鹿にされていたようなバンドのふとした曲に感動してしまうことはあるあるで
それを理解してくれる人と一緒にいられることの方が苦痛がなくて良いんだけど
まぁ、御愁傷様という奴だ
娘が成人して面倒がなくなったのなら離婚して良いと思われる
1. はじめに
反出生主義は、昨今のインターネットにおいて注目を集めている思想の1つである。
この思想はしばしば誤解されがちで、「陰キャ非モテの妬み嫉みから産まれたルサンチマンの申し子」のごとく扱われる。しかし、大筋としては「現在生きている人が死ぬべきであるという主張」ではなく「産んでしまうこと自体が苦痛の押しつけである」という建付けのロジックとなっている。
その具体的な論法はそれなりに複雑で、論理展開自体も多くの批判を浴びてきた。それでも、未だにある種のバズワードとして、「反出生主義」はインターネットに巣食う若者の語彙に侵入している。
ただし、個人的な意見だが、思想というものはそれを実行する行動があってはじめて充足されるのだと思う。国会前で手作りのプラカードを抱えて珍走する路上の高齢者も、大人とつるんで政治的フレーズを口から出力する高校生大学生も、その点においては真摯な態度だ。TwitterでJAのイラストにケチをつける自称フェミニスト諸氏も、自らの思想との向き合いかたとしては評価できる部分もあるのだとは思う。少なくとも、2chやTwitterの匿名垢で独自理論を垂れ流しながら具体的には何の行動もしないオタクくんよりは遥かに好感を持てる。
では、反出生主義者を自負するインターネット戦士諸君に要求される「行動」とは何なのだろうか。
それは、ひとえに「女性の権利擁護」「性的マイノリティの権利擁護」「高齢者の権利擁護」の3本柱に集約される。
女性の権利擁護と表現すれば、一見するとTwitter-feministを想起させる危ないフレーズにうつる。しかし、女性の権利擁護、特に「産まない自由」や「独身を謳歌しバリバリ働く自由」を擁護することが肝心である。
これは、現代の価値観においては正しいとされる内容である。このことを口に出したところで、いわれなき批判を受ける機会はないと断言できる。だからこそ、反出生主義者にとっては格好の隠れ蓑かつ武器となる価値観であると確信している。
産まない自由を謳歌していただくことは、女性にとってもキャリアの中断(産休育休であれ、中断には変わりない)や育児コストを削減するのみならず、固定のパートナーに拘束されないことで気軽な恋愛を楽しめる期間が継続するという確固たるメリットが存在する。そして、反出生主義者にとっては言うまでもなく、思想の方向と合致する結末に繋がるルートである。そして、この自由を長く謳歌することは、生物学的束縛によって「産めない状態」へと繋がる。そこで不妊治療等を頑張ったところで、多くの場合は1人程度の子供を持つのみであるから頭数としては減らすことができる。仮に、ひたむきな努力の末に2名の子を授かることができたとしても、頭数は決して増加しない。その点でも、女性にそのプライベートやキャリアを追求していただくことは、反出生主義者にとって好都合である。
性的マイノリティ。古典的な統計としては、全人口の1割程度を占めるとも主張される存在である。そのカテゴリの人々においては(彼らとも彼女とも表現しづらいので、少なくとも合意が形成できるだろう点として人という表現を採用している:これは、自らを人以外の生物や物質であると主張する方々の権利を侵害する意図をもって行われている表現ではないということを断らせていただく)、子を為すことが現行のバイオテクノロジーによっては不可能である場合が多い。私は任意の2名が結婚という契約を結べるように社会体制を再構築することが急務であると心底確信している。個人的な思想としては、他人のカップルがどれだけセックスしようがどうでもいいし、結婚しようがどうでもいいのだ。興味がない。だからこそ、勝手にしてくれればいい(それによって私は一切困らない)。
ただ、これを反出生主義のポジションから眺めると、所謂クィア思想が普及し、子を為さないパートナーシップがますます増加していくことは、積極的に歓迎すべき事態であるといえる。社会的にこれらの思想を擁護することは、従来であれば「社会義務的に」子を為すことを強いられていた人々が、その苦痛を受けることなく、過ごすことができる。望まれて産まれてきたわけでもない子供の数を減らせるなど、喜ばしいことでしかない。虹のふもとには黄金のつぼなど存在しない。
高齢者とは、日本社会における最多数派であり、常に最大派閥の世代として生き永らえてきた階層である。彼らの医療・福祉に多額の金が流れ込んでいることは明らかであり、一方で次世代の教育への国家的投資がないがしろにされてきたという指摘は昔からよく為されていた。
労働者から徴収される諸々の金額総計は近年著しく増大している。消費税増税でガタガタ騒ぐ世間は、この部分についてはあまり取り上げないという印象が強い。また、既存の控除等が廃止することも注目されず、こうして現役世代からの集金システムは年々強化されてきている。
全サラリーマンの平均年収が400万円前後である一方で、都市部なら家賃含む生活費、地方部なら車の維持コストなどがベースとして重くのしかかる。子供を作れば一層の負担が追加される。出生に対し、経済的に大きなアドバンテージを与えられることもない。
若者が子供を持たない理由として一番挙げられているのは、経済的不安である。これは統計的事実として存在しており、逆にいえばこの不安が解消されることがある程度出生率の改善に寄与するだろうことは推察されうるわけだが、そうした抜本的な変革は未だ行われない。それは社会全体として出生をサポートする気がないし、高齢者の延命や生活環境の方が大事であるという強烈なメッセージ以外の何物でもない。
この事実は、出生をしたくてたまらないが大して金のない若者にとっては悲惨な現実である。しかし、反出生主義者にとっては、自らの望む結末を実現する上でこの上ない支援である。国家が自分たちの思想(から望まれる結末)をバックアップしてくれるなんて、滅多にありえないことである。
まだ産まれてきていない人のことより、もう産まれた人の権利を優先するというのはある程度理解できる。また、すでに産まれてしまったのポジショントークとしても、自分が老人になったときに優先されるのだ(実際はどうなるか全くわからないが)から、比較的取りやすいポジションだと思われる。別に子供など産まなければいいのだから......
そうして、出生数は減少し、反出生主義者の望む結末が得られる。
5. おわりに
反出生主義者は、そのことを表明するたびに、様々な誹謗中傷を受け取ることとなる。
ときには単なる逆張りとして、ときには嫉妬の表現として、嘲笑の下に処理されることも多い。
しかし、時代の流れとしては、反出生主義者の望む結末へと漸近しつつある。
そんな中で、反出生主義者らが取るべき行動とは、この方向性を後押しすることである。女性の権利擁護につとめ、性的マイノリティの人々の自由を願い、高齢者の方々が充実された余生を過ごせるよう陰ながら見守ることが求められている。その先に、必ずや人口の致命的な減少という結末が訪れると信じて、日々の無味乾燥とした生き地獄を生き抜いてほしい。(別に生きることを推奨しているわけではないので、自由にすればいいが)
水が臭くて、出てくる料理は冷食のチンで、これはコンビニで冷食買ったほうがましだわ、ってイメージの最下層ファミレスだった
水が臭すぎてその後体調崩して印象は最悪になった
あれでもう、何があっても二度と行かないな、と思っていた
あれから15年がたとうとしている
いつの間にかネットではサイゼは安くて美味しい店の代名詞みたいになっているし、サイゼで喜ぶ女がネットミーム化している
そんなにか?そんなになのか?
15年前苦痛を味わったあの店が、この15年でそこまでパワーアップしたのか?
まあ、15年もあればすべてが変わってもおかしくないのだろうなとは思う
正直なところを、15年前の汚染ピザ騒動以前のサイゼから今のサイゼまでをずっと知る人に、教えて欲しいと思う
そんなにいいなら、かつての苦い気持ちを忘れて、行ってみてもいいかな、って思っている
一風堂の創業者も、一度の嫌な経験で永久に失う客がいるのが飲食で、そんな経験を客にさせるのは不覚だった、という話をしている