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はてなキーワード: 共同体とは

2021-09-27

anond:20210926200038

フェミニストじゃない女性だけど

スカートの中にひっそり隠れているパンティ和服の中にどっしり隠された肉体をあーれーする方が逆に興奮するのに

なぜわかりやすすぎる表現や誇張したアウトプット広告化されるんだろうかと、00年代から疑問だった。

00年代は同時に、地域共同体崩壊を始めとして交雑の在り方も変化し始めたわけではあるが。

まあでもセクシャルコードを守ると楽しいよ、と言いたい。

2021-09-26

共同体としては同性愛を認めないほうが少子化解決しそう

中国はそれに気づいてるよね。

anond:20210925173945

右側は普段から「我々の所属する共同体のために」という主張してて、何ら手のひらかえしてないけれど

左側...普段平等弱者救済をと言っている人たちが、

普段自身は十分な余裕がある時に、

困窮しているわけではないが、十分には足りずギリギリやってる人たちに

困窮している人たちを救済するために 自分たち(お前ら)も負担すべきだと言っている人たちが、

いざ、十分には足りてない側になったときに困窮している人たちより 自分たちを優先すべきなんて言って手のひら返してる様が

リムジンリベラルの駄目さ加減が遺憾なく発揮されてるんだけれど

右側~中道~多少左寄りあたりまでの人たち大部分の日本人自身所属する共同体第一 とするのを是と考えてて

左側の手のひら返した「もっと我々日本国民のために早くとってこいや」の声も 同じ共同体の仲間たちの 声だと思ってるだろうし

左側でも普段から一貫性のなさや矛盾を指摘されても無視しているような厚顔無恥な人たちはやはり今回も気にせず手のひら返すだろうし

左側でも普段言っていることと行動の整合性を気にする一部のナイーブな人たちしか そんな議論を望んでないんじゃね


あるいは、共同体内にワクチンが十分にいきわたりリムジンリベラル側になった厚顔無恥な人が増えたら そんな議論も増えるんじゃね

anond:20210926011641

蛸壺というより、好きじゃない人を許さない感じがあった。これを好きじゃない者は共同体構成員として認めないみたいな。

特別流行したアニメが無い時は、 J-POP に詳しくないなんて人間じゃないみたいな。

流行ものを知っている総人口としてはそういう雰囲気世界の方が多いんだろうなとは思う。

そうじゃない今に流行たから鬼滅は特別なんだよなーと思う。

2021-09-25

anond:20210925131136

子どもができない共同体にそれらができるわけないけど。

もう就活生の10人に1人以上が医療福祉に取られる時代だよ?

2021-09-18

「不必要」だと語られるような親戚の集まり行事必要理由

田舎には基本的に「本家」と「分家」と呼ばれるものがあって、田舎の一個共同体として存在していたわけなのだよな

大体本家と呼ばれるものが集まり行事主催して、金銭的な諸々や援助をしていたわけだけど

近年の個人主義によってそういった行事や集まり意味がないという風潮が起き始めたわけだ。

そこで何が起きるかというと、昔行事等で「顔見知り」だった面々の次の世代で争いが発生する。

何故かと言えば「田舎」という曖昧土地柄の場所で、「同じ苗字」という一点でつながっていた一つのグループバラバラになり

当然「曖昧」にしていた事柄、口頭での土地の貸し借りやその他もろもろで戦いが生まれる。

その結果「金や権力」を持ってる奴が独り勝ちするが、負けた人間はその土地を去ることになり、一帯は他の全く関係の無い人間によって占拠されるようになる……という

2021-09-15

anond:20210915112308

でもカルト関連は、これから時代どこも辛いのよ。

カルトを信じる主なモチベーションだった正義共同体帰属への欲望は、今はSNSネットワークビジネスが全部消化してるから

内容ももはや古くて、新規信者がぜんぜんいない。

メンバーはジジババしかいないから、彼らが死んだら終わり。あと20年ぐらいか

 

それこそ統一教会と、あと創価学会あたりは、子供継続するパターンがあるからもう1世代ぐらいはもつけど、それも時間問題だな。

2021-09-11

鴻巣友季子の時評は何が問題だったのか

 『文學界2021年9月号に掲載された桜庭一樹少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。

 この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者見解掲載された。

 この記事では総括として、両者の見解検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリー仕様URL掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。

見解検討

 両者の主張は、以下のように整理できるだろう。

桜庭文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。

鴻巣文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。

 桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈自由〟を奪」うことを挙げている。

 一方で鴻巣自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。

 では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである

 鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である文学解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないである解釈批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである

 鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。

 繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ私小説フィクションからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。

 ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。

 この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授日比嘉高モデル小説研究フロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在人物モデルに』と事実立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実事実」の問題を切り分けている。

(強調は引用者。これは桜庭が声をあげた最初ツイートだ)

(強調は引用者)

 桜庭実存にとって「現実事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭あくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家動機ではなく、作家根拠フォーカスするべきであるこの記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。

 とはいえ桜庭見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。 

文芸時評というジャンル

 今回の一件に際して、文芸時評不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭ツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣見解において「批評」という言葉を用いている。

 だが、文芸時評批評しかないのだろうか? 文芸時評英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル特性があるのではないか

新聞というメディア

 文芸時評新聞という巨大メディア掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。

 文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷鳥取で一人暮らす実在老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実現象レベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか

 以上の論点を踏まえて、時評担当者見解検討することもできるだろう。

書いてあればよいのか

 桜庭見解は冒頭、「私の自伝的な小説少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家藤田直哉が端的に指摘しているのでツイート引用しよう。

 つまりあらすじに書いてよいのは、「作中の事実であるべきではないか 今回であれば、あくまで一人の人物視点に立って、「私の自伝的な小説少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列テクストに書いてあるとはいえ中人物の「主観的解釈なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか

 あるいは、そもそも事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分幸せだと信じ込みながらオンラインサロン主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せ生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せ事実ではなく評価からだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか

参考になりそうな文献

 最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。

https://togetter.com/li/1772323

セクシュアリティ社会的に構築されたものである」かどうかと、「セクシュアリティ人為的矯正することが許される」かどうかは、全く別の議論よな。

もう少し根本的なことを言えば、「社会的に構築されたものである」かどうかと、「人為的操作可能」かどうかは全く別の議論よな。

ホモ・サピエンス生活共同体社会と呼ぶのであれば、社会もまた自然現象しかない。不確定性原理によってラプラスの悪魔も既に死んでいる。そもそも自然現象コントロールが「物理的に可能であるかどうかと、「現実的可能」かどうかは全く別だ。自然現象を無理やりコントロールするというのであれば、それなりの「コスト」を支払う必要がある。「コスト」は、必ずしも努力根性で補える代物ではない。

フランシス・ベーコンは「実験」なるものを「自然拷問にかけること」と表現した。現代においても医学心理学など、人間対象とする実験は様々な場面で必要とされる。少々乱暴比喩だが、「人体を拷問にかける」以上、倫理的にも細心の注意を払う必要がある。実際、ほんの数世紀前を調べれば、実験の恐ろしい暗黒の歴史いくらでも見ることが出来る。人類を1歩前進させるはずの研究が、人間虐待することがあってはいけないというのは、近代以降たくさんの血を流してきた反省があってのものだ。

そのように人類が培ってきた倫理観を、どうか社会学的な知識行使する時にも応用して欲しい。


でも性欲抑制薬には賛成ですね。

2021-09-10

anond:20210910224142

自由人権公衆衛生社会共同体破壊していってる。政治が悪いというよりは、そういう道を選んだ大衆責任だと思う。

自由人権公衆衛生社会共同体破壊していってる。政治が悪いというよりは、そういう道を選んだ大衆責任だと思う。

anond:20210910002820

昭和頑固おやじ的な価値観女性なら、婦人会とかPTAかにもたくさんいるんだよね。

価値観的には保守だけど、既存共同体にも馴染めないって女性ネットで声を上げてるんだろうね。

2021-09-09

anond:20210516214352

経済では救えない弱者男性の苦しみは「性的欲求不満」と「承認の欠如」なので、他人犠牲にしないで救うには「性と承認」を限りなく引き離したうえで満たすしかない。具体的には良質なオナニー提供(実写じゃないVRかセクサロイド)と、弱者男性うしの共同体形成しか思いつかないが…

anond:20210516214352

経済では救えない弱者男性の苦しみは「性的欲求不満」と「承認の欠如」なので、他人犠牲にしないで救うには「性と承認」を限りなく引き離したうえで満たすしかない。具体的には良質なオナニー提供(実写じゃないVRかセクサロイド)と、弱者男性うしの共同体形成しか思いつかないが…

2021-09-02

anond:20210902111823

現代の高度な仕事(※注:狩猟採取や木の実の煮炊きといった原始的ものではない、という意味)を会社という共同体で朝から夜までやるという構造に、女性は向いてないんだよなあ

女性としての参加を無視したことでなんとか成立しているということもできるけども

そもそも明日の代わりがいないのも変だし数日単位で休めないのも変なんだよな

2021-08-30

anond:20210830230645

まり自然主義誤謬だよね。

受け入れるのではなく、対策を考えるのが共同体の役目なんだけど。

共同体戦略としては女の教育制限するか、自由恋愛制限するか、少子化対策を諦めるか、しかない。

2021-08-28

anond:20210828075307

ドキュメンタリーって問題を映し出すみたいなとこあるし

充実してたら問題いかドキュメンタリーの題材にならないよね

でも俺の周りは年寄りでも独身の方が充実してそうな奴多いけど

「家庭築く=幸せ」って固定観念やっぱどうしても拭えんけども

子持ち家庭は冷めてても離婚しにくいか

単なる共同体になるし

うちの親も二人で旅行とか行くくらい仲良く見えるけど

愛というより熟年離婚したら老い心配からってのの方が大きいとおも

カーチャンから好きな人できたって言われたし

結局周りと比べても意味ないって月並み結論だけども

anond:20210828015835

でもそうやって共同体不文律より本能に従う女は社会から淘汰されるよね

2021-08-22

「家父長制」という言葉への違和感

やっぱフェミニストのよく用いる「家父長制」って言葉

日本(…に限らず先進国?)の現状には合ってないように思うんだよな。

「家父長制」っていうとあくま家族内部での力関係としての男尊女卑に絞られ、あくまでそこに属する女性達は虐げられた被害者として語られているように思う。

それって皆婚社会である事が前提の話だと思うから

でも先進国現実もっと複雑で、妻や娘としてその「家父長(?)」の傘の下に入る事で女性は確実に力を得て、

そういう共同体に入れない女性男性を抑圧する側に回っているんだと思うんだよ。

地位ある男性の妻や娘に対し、単純に虐げられた弱者として同情するのはおかしいと思う。彼女達は共同体外部の人間にとっては加害者の面も確実にある。

それに家父長制って言葉じゃいわゆるパワーカップルのような現象批判できないと思う。

強いのは男だけじゃない、女は単純な弱者じゃない。

高収入金持ち男と結婚できた女も、実家が太い女も強者だよ。

あくまで内向きの概念だと思うんだよな、「家父長制」。家族という共同体から外れた人間に対する人権侵害スポットを当てた概念になってない。

なんかもっといい表現はないのかな

2021-08-21

https://anond.hatelabo.jp/20210821000434

JGPジョブギャランティプログラム)に関しては、方向性は間違ってないような気もする。しかしながら、平時にせよ不況時にせよ、どんな産業事業投資するか、必要労働力として誰を割り当てるかを、どんな仕組みで決めるかは難しい。何かブレイクスルー必要だと思う。

・”何を仕事にするかって話は難しくて”その通りと思う。人間は全知全能とは程遠く利己心もある。そんな人間計画経済をするのは上手く行かない。これはソ連その他の失敗を見ればわかる。

計画経済よりは市場経済のほうがマシだが、全て市場に任せておけば丸く収まるかというとそうでもないだろう。

政治資源配分機能に頼る部分もあってよいと思うが、政治家のお手盛り差配されないような制度設計必要

MMTは何をするかも言ってるよ

それがJGPジョブギャランティプログラム

要は今までの経済政策だと数字いかけて、需要が拡大したとき(物が不足した時)に投資が加熱して投機になって過剰なインフレが起こったり、それを抑えようとして失業者を調整弁にして不景気が起こったりを繰り返してきたわけ

から、この物価の安定と完全雇用の両立が課題なわけ

それをなるべく実現しようってのがJGP市場原理の自由市場は残したまま、失業者を国が予算出して全員雇うというもの

そうすれば、景気が良いときJGP参加者が減るため、財政支出が抑えられ、景気が悪いときJGP参加者が増えて財政支出を増やすという事が自然と調整されるようになる

要はラグがなくなるって事よ

また、JGPで設定した賃金民間賃金の底になる事で、賃金自然と上がるようにもできるっていう期待もある

JGPで何を仕事にするかって話は難しくて、地域ごとに必要とされる事ってのは違うんじゃないかってのがある

から国が一元的に決めるってのは良くなくて、元の提案者の話だと地域非営利団体管理者側にするとか何とか

日本なら労組とかその辺がやれば良いのでは?とか言ってる人もいる

その辺の詳細は正直、俺も良くわかってない

ただ、JGPってのは要は地域共同体を復活させて、その地域に根ざした活動仕事としようって感じかな。JGP参加者側が自分でこういう事したいみたいな提案もできるみたい

からJGPとか見てるとリベラルこそ、こういう地方創生的な観点から制度設計考えていけば良いんじゃね?って思うけどね

既存ハローワークとか職業訓練とかなんていうか社会に人を合わせるんじゃなくて、JGP参加者一人一人に合わせて地域社会を作っていくみたいな感じでさ

市場原理の場しかなかったら、そういうもんができないんだよ。利益追求するから

財政を何に使うかにしてもそう。結局、数字とか利益とか、そんなものいかけてるから本当に必要ものを考えようとしないわけ

2021-08-20

anond:20210820004511

共同体をうまく回す必要あるからじゃないの?

イスラム教の前の千夜一夜物語って不倫ばっかりで国が乱れてたんでしょ

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