はてなキーワード: 私大とは
物心ついた頃から現在までのことを(ボカしやフェイクを入れつつ)時系列で書かせていただく。
N=1の話で恐縮だが、読者には少しでもADHDについて知って欲しいし、それにより社会の分断がなくなって欲しいと思う。
と、ここまで書いて思ったのだが、私は数日前よりADHDの治療薬を断薬しており、マトモに「書く」ことができないことに気がついた。数日ぶりに薬を飲むこととする。
父親について覚えているのは、しょっちゅう会社を辞めてしまうということだ。それも突然に。
何かが(主にカネ)キッカケで口論となる。
父親に包丁を突きつける母親。まだ産まれたばかりの弟を盾のように前に突き出す父親。
床にぶちまけられる牛乳。
弟が1歳の頃、「ハロワいけ!」と喋ったことを覚えている。母親の真似である。
机をくっつけて、隣の席の子にしょっちゅう見せてもらっていた。授業はまあまあ理解できていたと思う。
宿題に関しては「忘れる」というより「やろうとしても動けない」が正しい感覚。
テコでも動けなかった。
宿題の代わりに家で何をしていたかというと、デュエル・マスターズのデッキを組んだり、ミニ四駆のカスタマイズをしたり、スマブラDXをしたり…?あれ、そんなもんかな。当時何してたかな自分…あまり思い出せない。熱中すると深く深くどこまでも熱中し続ける性格だった。(過集中)
同じマンションに1つ下、1つ上の子供が何人か住んでいたので、毎日遊んだ。河原で秘密基地作ったりとかしていた。
また、男女分け隔てなく誰とでも遊ぶ子供であった。
違う。
(上で挙げたマンションの住人以外の)男の友達がどうしても出来なかった。
全く交流できないということではなかった。
同学年で話したことがない人は恐らくいない。
誰とでもそれなりの雑談ができた。
輪に入れはするが、誘われる人間ではなかった。
故に、常に疎外感を感じていた。
今になって振り返ると、原因は恐らく「自分の話ばかりして止まらない」から嫌われたのだと思う。
次第に、無理してグループにいなくてもいいと思うようになり、休み時間は教室でひとりでボーっとしていた。
見かねた心優しい女子グループが、自分を輪に入れてくれた。情報量0のどうでもいい雑談がとても楽しかった。自分が輪に誘われたことが、なんだか初めて他人に受け入れられたようで、とても嬉しかった。
通信簿の「担任からのコメント欄」には毎年「男女分け隔てなく仲良く友達がおり〜」と書かれていたので、客観的にはそう見えていたようだ。
地方なので中学受験をする人なんてひとりもおらず、当然のように地元公立に進む。
中学での成績は150/200あたりだった。
たまに一夜漬けの過集中が爆発して、50番あたりになった。
国、社、英は不得意で、理数が得意だった。
勉強をしない分の時間は何をしていたかというと、運動部の活動をするか、家のパソコンでニコニコやYouTubeを見たり、携帯を買い与えてもらえたのでモバゲーやMixiをやっていた。
高校受験は持ち前の過集中で上振れを引き、偏差値50位の公立情報系学科に滑り込んだ。
元がアホなので上振れしてもこの程度である。
なぜ情報系にしたかというと、自分専用のパソコンを親に買ってもらう為だ。
高校では朝読書の時間があったので、とつげき東北氏の「科学する麻雀」を何度も何度も読み込んだ。熱心に読みすぎて、本の小口が手垢で黒くなった。点数計算を覚えたり、チンイツの牌効率を考えたり、24時間麻雀のことを考えていた。
この頃はもう自分の行動を制御できなくなっていた。自室のPCで毎日朝までニコ生をしながら天鳳を打っていた。学校の授業は全部寝ていた。教師は注意しても無駄だと悟ったようだった。自分の人生は天鳳の段位とレーティングが全てだった。
謎の過集中で競技プログラミングが少し出来たので(当時はchokudai氏もまだ大学生で、AtCoderもない時代だった)、大会に参加して何度か受賞するなどした。
その後、持ち前の過集中により小論文と面接を突破し、AO(アホでもオッケー入試)により近所の私大に滑り込む。
麻雀への情熱は大学に入っても変わらず、1限どころか2限3限も出席できなかった。たまに講義に出ても何も分からなかった。
情報系科目だけはテストだけ出て100点を取るという天才ムーブをかました(自慢)。
麻雀サークルに入った。楽しかった。今でも付き合いのある友人が数人できた。
2年次が終わった時点で16単位しか持ってなかった。中退した。
バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳が社会に放出された。
なんていうか、普通に死のうと思った。
ある日、ふと一回死んだ。
自○未遂をしたということではない。
自分は今死んだ。そして新しい自分が今生まれた。そう思うことにした。
どうせ一回死んだのだから、もう好きに生きよう。
それでなんともならなくなったら、生活保護でも受けよう。
一応、親は家に住まわせてくれた。
速やかに就職して家を出ろということだったので(言われなくてもそうするが)仕事を探し始めた。
やり方がわからなかったので、若者向けハローワーク的な所に行った。色々親身に相談に乗ってくれて、クソみたいな人売りSIerを紹介していただき、内定が出た。
自分に内定が出るということは、「バイト経験すらないない、学位すらない、麻雀廃人の二十歳に内定を出さざるを得ないクソ企業」であることが導かれるのである。
人売りのクソさを書くと主旨がブレるので割愛する。
自分が特別社会に適応できなかったのかは分からない。他にも大勢辞めていたから。
この辺で(不快になる方もおられると思うので大変恐縮なのだが)所謂理解ある彼女ちゃんが突然地面から生えてきて、家を出て2人暮らしを始めた。
会社を辞める前に人生初の精神科に行き、うつの診断書を書いてもらい、色々金に困らないような諸手続きをした。こういう手続きは自分では何もできないので、理解ある彼女ちゃんがサポートしてくれて本当に助かった。
うつの治療で通院する中で、医師よりADHDについて指摘された。
3割負担だとバカ高かった。1ヶ月分で5000円以上したのではないだろうか。当時はジェネリックがなかったと思う。無職にはとても支払えなかった。
脳の中の話なのでうまく言語化するのは難しい。
今まで自分は文をうまく読めなかった。
脳のメモリが小さいので、読んだ瞬間内容を忘れてしまい、戻り読みばかりしていた。
また書くのはもっと苦手だった。いくら考えても頭にモヤがかかり、表現が出てこなかった。
そして計算は最も苦手だった。一時的に何かを記憶しておいて、他のことを考えるのが無理だった。
プログラミングが得意だったのは、自分で計算する必要がなく脳のメモリがあまり要らないからだろう。
皆これが普通だと思っていた。
薬を飲む前は苦手だとも思っていなかった。
当然みんなもそうなんだと思っていた。
こんな「脳縛りプレイ」で学生生活を送ったら、そりゃ、こうなるわと思った。
薬を飲んでからは夜更かしが減った。
アホみたいな情熱に突き動かされることはなくなったが、その方が穏やかで心地よかった。
人生も徐々に良い方向に向かった。
長々と書いてしまった。
もし読んでくださった方がいるのだとしたら、とてもありがたいと思う。
自分はADHD当事者として、発達障害で苦しむ人の気持ちが分かる。
「○○ができないだけでしょ?」「やれないっていうかやろうとしてないだけでしょ」のような反応を見ると、心が痛む。
しかしながら、発達障害はその「できない」「うまくやれない」があらゆるライフステージで常に足枷となり、人生全体に負の影響を及ぼし続ける。
そして大人からは常に怒られ続け、自己肯定感もなくなり、「自分の可能性」を信じられなくなる。
その一瞬だけではないのだ。「常にその状態が続く」ことによる不利が、生まれた瞬間からその人にはあるんだということを、できれば理解してほしいと思う。
そして、今小さい子供を持っている親に言いたいこと。
もし子供が何かをできなくても、その全てを無条件に受け入れてあげてほしい。
そして、もし発達障害の疑いがあるなら、早い段階で医療にアクセスしてほしい。
実家太い家に生まれたなら小学校からダブルスクールでインターナショナル行きつつSAPIX行って、英語と数学先取りして、御三家から東大余裕で行けるのに、エスカレーターで慶應卒って死にたくならんのかな?
俺が増田なら中学で「このままじゃ私大!やばい!人生終わる!」ってなって勉強ガチって大学は外部受験して国立行くけどな。塾行くための金や参考書代ならいくらでもあるだろうし。
私大の時点で国立卒の女の子に相手にされないのに、その上文系となると私立理系の女の子にも相手にされない。私文が大卒の女の子と結婚しようと思ったら相当選択肢が減る。慶應幼稚舎行かせるって一種虐待だよな。
私大進学なんてずいぶんと裕福な家だなぁ
誰に入れんや?
アラサーの社畜男性。15歳の時、高校入学のお祝いとしてスマートフォンを買ってもらったのだが今思えばこれがまずかった。
我が家は教育熱心で小さな頃からピアノ、バイオリン、絵画、書道、工作、プログラミングと様々な物を体験させてもらった。やりたいことがあったらすぐに挑戦していたし、読みたい本も遊びたいゲームもすぐに消化していた。勉強にも部活にも支障がなかった。
スマホを手に入れてから全てが変わった。ゲームは実況を視聴。本を検索すればネタバレや書評サイト。気になることや挑戦したいこともGoogleやYouTubeで一通り調べると満足。実際にやらずに気づいたら散漫なネットサーフィン。勉強の時間もどんどんスマホのGoogleとYouTubeに飲まれていった。地頭で世界史や国語はどうにかなったが、勉強をしないので数学、英語、理系科目は壊滅。散漫な意識のまま無理やり英語だけ詰め込み、せめてネームバリューだけ手に入れようと私大文系を受験した。
散漫な意識のまま大学生活、就活を終わらせ、散漫な意識のまま仕事をして、昼休みも帰りの電車でもソシャゲとGoogleとYouTube。気づいたらアラサーになっていた。
スマホで何かをググるか動画を見ていた16歳から26歳までのあの10年間という時間を他の何かに費やしていれば、今とは違った人生になっていたかもしれない。結果が出なくても別の学びがあったかもしれない。
何か新しいことを始めることができ、熱中することができ、結果を出す可能性もある10代と20代前半までの時間を巨大テック企業の広告稼ぎに費やしてしまった。30歳を目前に控え、もう自分の人生に何かの可能性がないことを悟り絶望してしまった。顔のない消費者にされてしまった。自分の人生の可能性を自分で潰してしまった。
当方、阪大理学部を目指していたので早慶を受験したことがないでござる。上理の理系には受かった。そんでもって、何故か今更ながら早慶のことが気になってしまったのてある。仮に私大専願だったら、早稲田の政経か慶應の法経、最低でも商学部なら二浪以内に受かったのだろうか?得意科目は世界史と英語。
タイトルには「相談」と書いてあるけど、この文章で「相談」とはいったいどの部分なんだ???
理学部を目指してて私大の理系学部?に受かったけど、得意科目は理系科目じゃなくて世界史と英語、そんでもって気になるネームバリューの大学に入れるなら経済学部だの法学部だのでもいいと言ってるように見えるが、何がしたいのか全くわからない。そもそもなんで理学部?理系学部?を受けたんだ?
月収240万。ボーナスあり(2か月)
ゴムはサガミを使っている。
まったくの未経験で入ったけど3か月の研修と現場での実務経験でそこそこちゃんとしたマットプレイできるようになった。
今の店舗はうちの会社からは私の他にもう1人いて、他の店舗の人とプロパーで合わせて8人のチームだけど、
みんな優しい。
質問すると快く答えてくれる。
店外も月にせいぜい20時間超えるかどうかってくらいだし何も不満がない。
なんでこんなことを書いたのかというと、ネットで言われてるほどSEXは悪くないって言いたかったから。
ネットでSEXはクソって聞いてたから実際にヤッてみて落差にびっくりした。
anal系でハードな働き方をして急激に成長するよりもSEXでまったり技術を身に着けていった方が向いてると自分は思うし、
未経験からプレッシャーなく成長するにはSEXもありだと思った。
もう3年くらい働いたらフリーランスになるのも良いかなと思っている。(現状不満はないけど、中抜きされているのは気に食わないから)
まったくの未経験で入ったけど3か月の研修と現場での実務経験でそこそこちゃんとしたコード書けるようになった。
今のプロジェクトはうちの会社からは俺の他にもう1人いて、他のSESの人とプロパーで合わせて8人のチームだけど、
みんな優しい。
質問すると快く答えてくれる。
残業も月にせいぜい20時間超えるかどうかってくらいだし何も不満がない。
なんでこんなことを書いたのかというと、ネットで言われてるほどSESは悪くないって言いたかったから。
ネットでSESはクソって聞いてたから実際に入ってみて落差にびっくりした。
web系でハードな働き方をして急激に成長するよりもSESでまったり技術を身に着けていった方が向いてると自分は思うし、
未経験からプレッシャーなく成長するにはSESもありだと思った。
もう3年くらい働いたらフリーランスになるのも良いかなと思っている。(現状不満はないけど、中抜きされているのは気に食わないから)
自分のポンコツ社会不適合者ぶりを冷静に見直した結果、専業主婦として男に庇護され養われることを選んだ。
半端に地頭はあったおかげで、子供時代はサボりがちだったがなんだかんだ地元公立高校→地元私大の文学部に進学できた。
しかし大学では地頭だけじゃ全然通用せず、不登校でもないのにただただ単位が取れずに留年、ファミレス等のバイトを一ヶ月足らずで連続バックレ、サークルのイベントをバックレしサークル自体もバックレなど弱者性を存分に発揮し、これは将来マトモに社会人をやれないな?とうっすら自覚した。
ゼミは噂で一番楽だと聞いた所に入った。ゼミの定期発表も当日までサボって博士課程の人にパワポを全部作ってもらうような有様だったが、夏目漱石の小説を3本読み読書感想文に毛の生えた卒論を書いてなんとか卒業した。
学生時代に告白され何回か付き合ったこともあった。が、みな数ヶ月で向こうから振って行った。多分気づかないうちに私の弱者性が出てたんだと思う。
ゼミに入ったころから専業主婦になる未来しか描いてなかったが、周りに合わせて就活はやった。当初サボってもクビにならなそうな(出世にはミリも興味なかったため)公務員に憧れていたが、参考書をパラパラめくって秒で諦め、結局実家から通える大手の孫会社のさらに下みたいな小さい企業に引っかかることできた。
仕事には正直何の興味もなく、実家で毎朝母に叩き起こしてもらえなければ半年でバックレていたと思う。この件もふくめて親には感謝しかない。
だがぶっちゃけ最初から寿退社しか頭になく、就職後すぐ自分で色々調べて県庁所在地にある結婚相談所に登録した。
相談所に登録するとき、スタッフの人に希望を聞かれ「すぐ結婚して専業主婦になりたいです。それ以外の希望はあんまりないです」と正直に答えた。
さすがに怒られるかなと思ったが「将来転勤される方や、お父様の会社を継ぐ予定の方で専業主婦をご希望の男性もいますよ」と案外具体的な提案を受け、これはもしや上手く行けちゃうのでは?と期待が膨らんだのをよく覚えている。
相談所で何回かお見合いを重ね、さすがに人としてどうなのという男性も何人かいたが5~6人目に今の夫と出会った。隣県の10歳上の33歳で、見た目はチョイブサくらいで普通にデートも奢ってくれる普通の人という印象だった。仮交際に入ってから聞いてみると、やっぱり何年後かは分からないけど転勤がありそうと。申し訳なさそうに言われたので「私は全然着いていくよ!」と答えてこっちからグイグイ押し、そのまま社会人1.5年でゴールイン。無事寿退社して夫の職場近くに引っ越した。
その後、予言通り結婚2年目に予言通り東京へ転勤、その後3年してまた別の地方の工場へ転勤。その間今までずっと専業。東京時代に子どもも生まれた。