はてなキーワード: 死刑囚とは
自分の身内も、みんな赤ん坊の頃から顔馴染みで同じ姓が多いので屋号を使う、そんな穏やかな土地で育ったが、
田舎特有の身内いじり・遠慮の無さ(配慮の無さ)に参ってしまい、統合失調を発症、増田に書けないようなことになった
田舎から出て都心部に出てからは、その身内はだいぶマシな精神状態になった模様
田舎は、幻聴じゃなくてガチで話題にあげてるからな。良くも悪くもほぼ身内だから気にかけてるからね
その気にかけが被害妄想があるとぜんぶ悪口に思えて悪循環に陥ってしまう
「鑑定人によると、被告は両親が他界した2004年ごろから、近隣住民が自分のうわさや挑発行為、嫌がらせをしているという思い込みを持つようになった。
こうした妄想を長く持ち続けており当時、妄想性障害だったと診断できる。『自分が正しい』と発想しやすい性格傾向と、周囲から孤立した環境が大きく関係し、妄想を持つようになった。
田舎を悪く言っている人・東京を妄信している人たちは、こういう系統の人かね?
見本の増田→ https://anond.hatelabo.jp/20230727214057
東京や都心部は、自宅も街も交通機関もどこもかしこも喧しいので幻聴対策は必要そうだけど、
都会は基本的に人に無関心だから、幻聴以外で噂されることは無いし、福祉も手厚い
ついに弊社にも某人事管理ツールが導入された。
「社員の顔を一目瞭然に管理する」と謳っており、システムのトップページを開くとずらりと社員の顔が並ぶ。
自分は顔色が悪く、真正面から写真を撮られると犯罪者か死刑囚のように見える。
青白い無精髭オタクの顔がボーナスの査定と紐づけられてしまっているのが気持ち悪い。
自分のような不細工の顔は仕事ができそうな誠実な人間とは程遠い気がしている。
仕事に疲れたら同僚の可愛い女性の顔を無意識にクリックしてしまう。
このシステムが導入されてからSlackでうざいことを言ってくる人間がどんな顔をしているのかをいちいち調べるという癖がついてしまった。
どれもこれも良くないことだろう。
ブランディングムービーも、ショッカーがお面を剥がして「個性が見える!」「仕事の効率が上がる!」とのことだが、顔面で測れる個性とは??全く謎である。
ルッキズムが〜とかいう話をしているのではなく、自分の幽霊みたいな証明写真をいちいち目にしなければいけないのがいちいちムカつく。
そもそも自分は営業とは違って外に出る仕事でないから、外見の云々は関係ないはずだし。
履歴書の写真添付が必要なくなってきた昨今、この「顔がわかる人事管理ツール」とは時代と逆行しているのではないか?
まず名前が「カオナビ」なのがイケてない。
「だから生き抜く。絶対に外に出て死ぬ」 仮釈放が実現しない“マル特無期” 死刑を免れた男達の“生”への執念【報道特集】
良いねが多数ついたコメントを見ると、死刑は絶対になくならないって断言できるな。多くの人が死刑囚に対しては
「人を殺した貴様らが何故、のうのうと生きてる?早く可能な限り無残に死ね」
以外の意見を持ってない。
この映像に映っている加害者は食うに困らず、健康的に運動に励んでいます。亡くなった人達は生き返ってきませんし、被害者や遺族の苦しさを思うと、これら加害者に同情する気持ちは一切湧き上がってきません
人の命を奪った苦しみなんて微塵もないんだね…
どんな理由があろうと自分勝手な理由で人を殺めた事実は消えない。
許されるわけがない
人の命を奪っといて、自分は生きたいとか塀を出たいとか何考えてんだか。
死刑囚は、彼らが殺した被害者よりも長い時間、多くのものを食べ、多くの情報に触れて、多くのことを考えて生きた。その時間は、彼らが無慈悲に奪った被害者にとって、本当に欲しかった時間だ。彼らに同情しようなんて気持ち、1mmだって湧いてこない。なぜ?お前らが生きている?としか思わない。
なんで犯罪者に優しくするの?
彼等は罰を受けてるだけで何一つ償いは出来てない。
償う事なんか出来ないんです。
心の準備もできずこいつらに殺された人たちを思うと憤りを感じる。
まだ生きている被害者を、ドラム缶に詰め込んでコンクリートを流し込んだ奴が「生きたい」という。
一応断っておくが、本稿は岡田索雲によるwebアクション掲載『アンチマン』( https://comic-action.com/episode/4856001361287348513 )のネタバレ論評である。ネタバレが嫌な人は先のリンクから漫画を読んでからお進みください。
父親を介護しながら食品会社に勤務する溝口。彼は、日常で蓄積した鬱憤を“ある方法”で発散していた……。『ようきなやつら』の岡田索雲が描く、アンチの哀歌。
公式のこの紹介文のなかの“ある方法”がダブルクオーテーションで括ってあるのは、それが妄想である事の示唆となっている。その妄想と現実の境界線をどこに引くか、実はそれは本作においてあまり重要ではない。溝口のポジションが少し変わるだけだからだ。
だが、一応妄想と現実の区別を付けておこう。妄想の範囲を広く取りすぎると発散してしまうので、できる限り狭くとる方向でいく。
1回目ヘルパー、2回目同僚田山への描写が妄想である事に異論はそうないはずだ。実際に手を出すまでのマッサージ依頼や、ジャスティスブレードマグカップの部分を妄想に含めるか否かは本稿ではあまり問題にならない。個人的な感想としては、田山がジャスティスブレード好きと言うのは都合が良すぎるように思えるので、妄想だと思う。
こちらははてブ内では結構割れているようだが、どちらともとれるよう曖昧な描写に留めているようにみえる。それでも、スマホ破壊率100%やウキウキでぶつかり3連発があまり現実的描写には思えない事と、本稿の前提である「溝口に同情的に」という前提のもと、妄想であるという前提で進めていく。その方が溝口の悪質性が弱まるからだ。
この場合も、1回目の妄想対象を見つけて横目で追いかけるコマまでは妄想ではないとする。漫画では描かれていないが、対象を決めて尾行を実際に行いながらぶつかり妄想をしたとしておく。3回目で、ぶつかりターゲットのストーキング中に田山を見つけ、尾行対象を変更しているからだ。
こちらもそこそこ割れているように見えるが、正直どちらでも良い。レスバトルに完全勝利していない事から、紹介文での「鬱憤解消」には当たらない。なので、現実であってもおかしくはない。しかし、特にここが溝口の感情読み解きにかかわる事はないので、好きな方を採用してほしい。2回とも父親のうなり声で中断される所が、目覚ましで中断される強姦妄想と似ているな、とは思う。
同僚、結果的に通り魔から庇った女性、母親の3組が溝口の見舞に来るが、こちらもレスバトルと同様、溝口の感情読み解きにはかかわらないので、好きな方を採用してほしい。
まず、溝口の心に一番重くのしかかっているのが、幼少期に自分を連れずに去って行った母親である事に異論はそうないだろう。
それを埋める代償行動として、溝口は女性嫌悪、ミソジニーに嵌ってしまう。これが如実に表れるのが、2回目のレスバトルでの「女は戦えないから逃げる」(女性ヘルパーも入るかもしれない)、そして直後父親に言い放った「あんたがあの女殴って愛想つかされなかったら」というセリフのなかの「あの女」だ。「母さん」や「母親」じゃなくて「あの女」と呼んだ所にミソジニーの染みつき方が垣間見える。
母親への執着は、父親の葬式後、戸口の方を眺めるコマでも強調される。来るはずのない(恐らく連絡もしていない、そもそも知らないかも)母親を期待する視線だ。
2回目の会議後、「繊細さは女性ならではのものじゃない」という発言にお礼を言われて溝口は浮かれる。ただ、これは田山をフォローしようという意図はなく、直後に描写されるように、自分が父親の介護をしていたり、ジェンダーロールの押し付けをつらいと思っているから出てきた言葉だ。だからお礼を言われても第一声が「へ?」となる。
溝口の目に目にハイライトが2つ入るのは全編で2回あるがその内の1回が本件である。なお、お礼を言われた直後は何のことかわかっていない様子で、その後も本当に分かったのかは不明瞭だが、「溝口に同情的に」ルールで、分かったという事にしておく。
その後スキップのような軽い足取りでぶつかり3連妄想に繋がる。上機嫌なのに何故、鬱憤発散行為であるぶつかりをするのか?という疑問が沸くが、自分はこれは妄想の習慣化と考える。電車事件の前段階だ。
溝口の目にハイライトが2つ入る2か所の2つ目が、ネットで情報を仕入れて実際にスマホで女性ジャスティスブレードを観た瞬間だ。ミソジニーを忘れた、女性主人公への純粋な好意の表れ。しかし、ネットの声ですぐにミソジニーが戻ってくる。
溝口は他人が居るスペースでは基本的にマスクをしている。自宅でもヘルパーを迎える時はマスクONだ。これは、社会的な望ましさに合わせようとする意図の表れで、やったらまずい事・言ったらまずい事を出さない様に自制している事の表れでもある。
社内会議1回目での、女性モデルの胸の強調をマスクON状態で「気にしすぎ」と言ったのも、溝口が考える社会的望ましさのラインを越えていないという事だ。
また、喫煙所ではマスクをあごに寄せて口を出し、眼鏡の同僚にあまり望ましくない「狙ってんの?あの女」などというセリフをはいてしまう。
溝口の考える社会的望ましさのラインは恐らく一般社会が考えるそれよりも低い。
まず、女性ヘルパーをジロジロと眺めて嫌がられ、男性に交代されてしまう。男性ヘルパーへ「急に変わるものなんですか?」と質問しているが、自分の行為によるものだという自覚があるか否かは特に描写されない。同情的ルールに基づいて、本稿では質問の時点で気づいた(それが出来るだけの知恵がある)ものとする。
また、この件の前には、電車内で女性を盗み見するコマがある。「見る」事が加害行為になりうる事は分かっていなかったのだ。
スマホ歩き女性へのストーキングも、毎回ターゲットを変えているから発覚・問題化しないだけで、少なくとも一般社会では褒められた行為ではない。これに溝口が気づいているかは明確ではないが、先ほどの盗み見と同様に、気づかれなければ問題ないと思っていたのだろう。
父親の死後、栄養ドリンクの空き瓶の山が、ハードワーク・オーバーワークの忙しさで気を紛らわせようとする溝口の心情がうかがえる。
父親は、母親を失う原因であり、憎む対象であってもおかしくないのだが、基本的には社会的望ましさに従ってか、無言で介護をする。
2回目のレスバトルで劣勢だった怒りに任せて本音をぶつけはするが、その後もすぐに介護を続ける。
微妙な関係性ではあれど、自分の言葉が父親を自殺に追いやった事は溝口にとってつらい事実だったんだろう。
結果、残業のしすぎで上司に「最近厳しくなってる」と残業を禁止される。そこで1回目の会議で「女性の体の強調」を問題視した田山と眼鏡に目をやり、ハイライトの無い目のコマの後、「そうやって男の仕事も奪っていくんだよなぁ…」「お前たちは…」というセリフ。これは父親死亡前までなら出さなかったセリフだ。上司も大丈夫か?と違和感を示している。
溝口はここではマスクをしている。先ほど示したとおり、本稿ではマスクを溝口の社会的望ましさへあわせる態度の象徴として考えるのだが、ここでのセリフはそれに合致しない。ここに歯車の狂いが見える。自分で自分を制御しきれなくなってきている描写なのだ。
その後、ぶつかり妄想の対象を公園でみつけた溝口は、その対象を尾行中にスマホを見ながらすれ違う田山に気づく。尾行対象を田山に変更するが、これはぶつかり妄想対象としてはないように思える。その後、田山が眼鏡と会い、2人で車に乗り込んで走り去るのを目撃する。
溝口にとってこれは不倫の現場で、喫煙所での眼鏡の「狙ってませんよ、結婚してますし」というセリフが嘘だったという認識になっているのだろう。
電車の中で、溝口はだらしなく寝込んでしまう。この際、マスクが片耳にかかっているだけの状態になり、それを両脇の女性が嫌がっているコマが挟まれる。
これは溝口本人がマスクを外そうとして外したものではないと考える。片耳は残っているので、寝ぼけて意図せず「外れて」しまったと考えることが出来る。
これは直後の事件と関係する。目の前でコケて四つん這いになった女性の尻を見て、襲い掛かってしまった事だ。マスクと同じく、これはきっと溝口は意図せずやってしまったのだ。いつもしている妄想だと思い込んで乗り掛かってしまったのだ。それを補強するためのストレスが父親の死、過労による疲労、同僚の密会だ。
意図せず女性に襲い掛かってしまった瞬間に通り魔に後頭部を刺されてしまう。
最初に確認したとおり、見舞客が妄想か否かは本稿では問題にならない。同僚達や庇った女性たちは、ただ淡々と見舞に来る様子だけが描かれ、溝口の感情が動く様子はみられないからだ。どうでもいいのだ。
だが、死の間際(飛び立つトンボ、落ちる最後の一葉、飛行機雲の3重の示唆がある)に母親が見舞に来て、手を添えられた時に溝口の目からは涙がこぼれる。結局溝口が欲していたのは母親だけだったという事だ。余りに単純すぎる解釈だと思うかもしれないが、であればこそ溝口の哀れさが際立つ。
ここからはIFの話だ。母親を失った悲しさで得たものは偽の名誉であり、それは溝口にとって何の意味も無かったことは言及した。
孤独は闇の感情を加速させる。孤独な以上、「ケア」される機会もない。ネットのレスバトルはネットで完結してしまい、その先に居る個、溝口を慮ることは無い。
割れたスマホとのレスバトルで、溝口は一端の真実を話してもいる。「(ぶつかり)被害者は女だけじゃない」「役割を押し付けられて辛いのは女だけじゃない」。ただ、それは加害の理由にはならないのだ。内心の自由はある?ただの妄想?私見では本作ではそれが現実に結びつく危険性が示唆されている。
一方で、割れたスマホから流れてくる溝口に敵対する意見にも論点ずらしやただの悪口になってるのも多い。
大前提として、レスバトルで人は考えを変えないのだ。カルトや悪徳商法に嵌った人は、ただ事実を突きつけられても意固地になって更に悪化する事がある。そこから抜け出させるためには、親身になって付き合ってあげる人が必要になってくる。近年の反ワクチン問題やカルト問題でもそういう記事をたくさん見た。
作品中には溝口が心を許せる相手は一人も出てこない。友達の影すらない。同僚とすら付き合いは希薄だ。助けが必要な人ほど助けて!と言いづらい構造もある。
朝日新聞の記事に、『「死刑囚の元同僚」ツイッターで実名発信 孤独な人の相談に乗る理由 (https://www.asahi.com/articles/ASR655CM1R65UTIL015.html)』というものがあった。
「最後にアクセルを踏むか迷った時に、頭に浮かぶ人になりたい」そうだ。溝口はアクセルを踏んだのではなく、うっかり道を踏み外したわけだが、彼に必要だったのはこういう人の存在だったんだろう。時には赤の他人の方が悩みを打ち明けやすい場合もある。チャンネルは多い方がよい。ただ、こんな重い事自分に出来る気は全くしない。
孤独による不幸を減らすために出来る事を考えてみよう。
外道!祖母の死を有料記事にして稼ぐクズw #炎上 #もこう #コレコレ 暴露系YouTuber必至w - 玖足手帖-アニメブログ-
自分の親族の死をコンテンツにするグダちんってやつ。端的に言って気持ち悪い
はてブから姿を消したid:nekoraさん、今度はグダちんに粘着する。
かねてよりネトウヨ的中傷コメントをあちこちで乱発していたid:nekoraさんが、通報の甲斐あって強制プライベートモード措置となり、はてなブックマーク上から姿を見なくなって幾年月。
もはや「あの人は今」的なid:nekoraさんは何してたかというと、富野信者ブロガーのグダちん氏にブログで粘着してました。
id:nekoraさんと言えば有村悠にも同じような調子で一挙手一投足をネチネチネチネチと長年絡んでおり、有村に親でも殺されたのかと言わんばかりの粘着ぶりを見せていたが
グダちん氏と言えば親や同人仲間を自殺で失っている事で有名なんだが
幾らメンヘラでもそのグダちん氏に対して執拗な追い込みをかけるid:nekoraは端的に言ってヤバいんじゃないでしょうかと。
別に私が特別人望厚い訳ではなく結婚式は通常そんな感じだ。未婚中年の彼には縁のない話と思うなかれ。自称鬱の40代パラサイトシングルフリーター中年男と結婚する女性など居ないと考えるのは浅はかというもの。世の中にはイカレた変わった好みの女性は意外に居て、小学生無差別殺傷事件の犯人、宅間守ですら獄中結婚しているのである。さすがに殺人鬼の死刑囚に比べれば人糞製造機などまだまだ無害で可愛げがあると言えなくも無くも無いのではないかと思わないでもない。希望はある。
よくこんな事書けるなこいつ。
id:nekora さんははてなブログからライブドラブログに移ったけど、
あぁ、死刑囚とはこのような心持ちかとじんわりじんわり恐怖が襲ってくる。
通された病室は分娩室も兼ねていて、隣の部屋では今まさに分娩中だ。
断末魔のような、悲鳴のような、とにかく聞いたことのない女性の声が聞こえる。
かと思えば火が付いたように泣き叫ぶ赤ちゃんの声も聞こえる。
天国と地獄が同時に訪れている。怖い。ほんとうに怖い。
女性ってあんまり大きい声を出さない気がしていて、私から見ると周りの女性ってすべてきちんとしていて、そんなきちんとしている人達が断末魔をあげている。
非日常だった。次は私の番かと思うと心の底から妊娠したことを後悔していた。
果たしてどんな痛みなんだ、鼻からスイカてなんや、今頃独身の友達は「結婚したーい!」とかいいながら酒飲んでるんだろうな、くっそ羨ましい、けつが痛い、とにかくけつが痛い。いぼ痔のラスボスが来たような痛み。もしくは1駅10分くらい掛かる特急に乗ったときに訪れた急な下痢方面の腹痛。
時折助産師さんや看護補助の方が来てくれる。その都度痛い怖い痛い怖いと言ってみるがみなさんにとっては日常、わかってはいるが「大丈夫ですよ~!」としか言われない、そらそうだ!わかっている。でも不安で怖い。本来、そういう緊急性のない不安とか痛みをピィピィ言うのは夫もしくは親なのだ。助産師さんに訴えることではないのだ。でもいないのだ。コロナ禍なのだ。誰も病室に入れなかったのだ。実質一人で産むのだ。
何度もシュミレーションした。でもなんの役にも立たない。痛い。痛い。けつからダチョウの卵がでてきそう。座っていられない。この椅子が楽になりますよ!と置いていってもらったけどとにかく留まっていることができない。
かといって歩いていてもつらい。さらにめちゃくちゃ眠たくなってきた(そういう生理現象らしい、しらんかった)。とりあえず分娩台兼ベッドに寝転ぶ。痛い。
助産師さんが来て子宮口をごそごそ確認しているうちに破水した。
この後さらにひどかった。
もう叫ばずにはいられない。下手なAV女優のようにひらすら痛い痛いと叫んでいた。
だめですよ、リラックスしてくださいと言われるがもう痛みでどうにもできなかった。
骨盤が全部折れるような、けつ穴にそれこそスイカ突っ込まれるような、もう気が狂う1歩手前まで来たと思った。
それが延々。
ほんの2、3時間ではなく13時に病室に入ったのにすでに23時になっていた。
絶対に終わることはわかっている。産むしかない。なのに経験がないぶん時が永遠に思えた。
夜中ずっと痛みと戦っているとだんだん痛みに慣れてくる。とりあえず紛らわすために痛い痛いーーと言っているが徐々にもういいや…という気持ちになってくる。
朝になってようやくいきんでいいですよ!といわれた。知らない各位に説明すると、うんこしたいのにしたらだめ!っていう状態がずっと続いていた。赤ちゃん降りて来ているので出したい!いきみたい!という欲求がすごいのだが、ほんとに産まれる段階までにいきんじゃうと出にくかったり母体が体力消耗したり、とにかくいきんじゃだめなのだ。うんこしたいのにしかもなんなら便座に座ってるのにうんこすんな!という状態だったのだ。
なのでいきんでいいですよ!は待ってました!ありがてぇー!行くぜおれの括約筋!ぐらいテンションあがった。ようやく出していいんだ!と前向きになれた。
そこからは早かった。うーんウーンと何回かして、でもどうもだめですねってなって吸引する器具を持ってきてくれて赤ちゃんの頭をぎゅっと引っ張ってくれてずるんと産まれた。
何日も何日も便秘してたの。
ずーっとずーっとお腹が重かった。
それが全部一気にずるん!っと出た。
あの気持ちよさは他に類を見ない。いやあるか、超便秘後のするんとうんこか。そんなうんこないだろ。やはり類い希。
その後は胎盤が出てこなくて無理やり引っ張られてなんなら陣痛以上に痛かったけど産後のテンションでなんとかなった。
ほんとに辛かったのはこのくらいの時間だな、病室入って数時間後。
でも不思議なんだけど、また産みたいなーと思っている。ほんとに不思議なんだけど。
痴呆の父本人が嫌がっても強制的に入院させた、という増田にこんなブコメがついてる。
痴呆がすすんでも生きながらえさせなきゃダメなのか。残された家族のQOLが爆下がりするなら安楽死だって選択肢ではないのか。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4734234384946062020/comment/emt0
ここでの「安楽死」とは、命にかかわる病気ですぐ先に死が見えている状況で、生きるのに肉体的・精神的な苦痛が続き、本人が望んで死を選ぶ「尊厳死」ではなく、
「痴呆で本人の判断能力が損なわれ、自制力や生活力がなくなり、周囲(家族)に迷惑をかけるので、この世からいなくなってもらおう」という意味で、つまりのところ「お荷物人間の殺処分」てことだ。本人の意に反しても社会的に有益なら殺人を認める、そんな制度を国が法的に認めて整備したらと言ってるんだ。
違うとは言わせない。病識がなく入院すら嫌がってる状況で、自ら死を選ぶはずがないのだから。
これ、「自制力や生活力が現役時代より劣った痴呆親」どころか、もっと重度に精神的に遅滞してる精神障碍者ばかりのやまゆり園の入居者を「彼らは意思疎通すらできない、人間ではない、生きてる意味がない、殺してやるのが本人にとっても幸せだ」と大量殺人を犯し死刑判決をくらった植松死刑囚の思考と、何が違うんだろう。
俺には違いが見えない。
むしろ、こんな言い方をすると反発が来るだろうが率直に書いてしまえば、家族が医療費や生活費を負担して入院させてる痴呆老人よりも、国が生まれたときから一生の世話をすべて公費でまかなってる生来の重度精神障碍者のほうが、「社会のお荷物」度は大きい。
植松は自分が殺人者として捕まり裁かれるのをわかったうえで自ら犯行に及んだが、「国がそういう制度を作れ、誰か(「安楽死」という言い方からして医師や保健所を想定してそう?)が殺して処分できるようにな」と他人任せにしてるブコメ・賛同者のほうが、より醜く見える。
俺個人としてはどちらも「負担だからこの世から無くしてしまえ」など思わないが、でもそんな思考である「痴呆老人は周囲の迷惑だから殺せ」てブコメにこれだけの賛同スターが集まり、批判ブコメがほとんどつかない(現時点では一つだけ)状態にはてブが陥ってるのに、びっくりだ。
それとも上記ブコメに賛同する人たちは、植松の思想・犯行にも共感・賛同してるのか?
まったく理解できないが、はてブが現在こういう状況になってるのに驚いてしまって、暗鬱としてる。
どうなってしまったんだろう。
そんな都合よく認知症になったら死ねるかどうかわからないし今のうちに死んどくといいんじゃないかな。元気なうちなら人に迷惑かけずに死にやすいだろうし
それな。
「痴呆怖い、安楽死、安楽死」つってる人たちは、元気な今のうちなら痛みなく死ねる方法を取れるから、やっとけばいいよ。
痴呆でなくても生きるのいろいろ大変だろ?他人を巻き込む制度化を求めてグダグダ言ってる暇で、さっさと自決したらいいのにね。
実際に重度精神障碍者介護の現場に入って苦労するうちに思想が変わった植松死刑囚もそうだね。
「大変だ」と苦労するところと、「だから安楽死(殺処分)」との間には大きな一線があるんだよ。
「重度精神障害の人と付き合ったことあるなら分かるだろうが見てて痛々しくなるんよ」
『安楽死が認められた世界では俺のような人間はまず間違いなく「社会的に価値がないにも関わらず安楽死を選ばない傲慢で古い価値観の人間」と断ぜられるだろう』
これ。
医療的な基準(余命、肉体的苦痛)に基づかず、「生きるのがつらい、死にたい」という本人の希望だけで「安楽死」が認められるようになったら、
元ブコメのように「社会的に負担にしかならない痴呆老人」「重度精神障碍者」から始まって、「勤労意欲のないひきこもり」「ホームレス」「生活保護受給者」など社会的生産性のない人間までが「安楽死」を選ばされる未来になるのは目に見えてる。
家族や親権者や代理人が「本人は今は意思表示できませんが、元気なころにこうなったら死にたいと言ってました」「本人も愛する家族に負担ばかりかける現状が続くより、死んだほうが幸せだと思ってるはずです」「この状況で安楽死を選ばないのはおかしいです」つってな。
なんせ制度がない今ですら「痴呆老人は負担になるから殺処分しろ」てブコメにこれだけ賛同が集まってるんだから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/T4%E4%BD%9C%E6%88%A6
極めて皮肉なことに、「病人は社会の寄生虫である」と書いた4か月後、ニーチェは脳梅毒により精神に異常をきたし以後の10年余り狂人として家族の世話になって過ごした。
守る術なき患者が遅かれ早かれ殺されるという事を予期することである。
何故なら、彼らは「生きる価値がなくなった」と担当の役所や委員会が判定しているからである。
君も私も、私たちが生産的である間だけ、生産的であると他者から認められる間だけ生きる権利があるというのであろうか?
もし「非生産的な」人間は殺してもよいという原則がたてられ使われるとすれば、年とった者、老衰した者すべては何と痛ましいことになることか!
もし非生産的人間を殺してもいいなら、生産過程において力を尽くして働いた結果、犠牲になった病弱者は何と痛ましいことか。
もし非生産的同胞を暴力で排除してよいものなら、戦争負傷者、身体不自由者、傷病兵として故郷へ帰ろうとする私たちの勇敢な兵士たちは何と痛ましいことか。
もしひとたび、人間が「非生産的な」同胞を殺す権利を持ったら、原則的にはあらゆる非生産的な人間への殺人、すなわち不治の患者、労働と戦争の負傷者の殺人、そしてもし私たちが年をとり老衰し、非生産的になる時には私たちすべての者の殺人が自由に許されることになるのだ。
82年も前の説話だぞ。