はてなキーワード: 凡庸とは
父親はものすごい内弁慶で、人前に出たときは借りてきた猫のように大人しいが、
アルコールが入って家族しか周囲にいなくなると、人や物事をすぐにバカにしだす。
笑えたり個性的な視点がある毒舌ならまだ興味深いが、往々にして酷くつまらない。
少ない人生経験とネットでお手軽に接した情報から導き出された凡庸な偏見だ。
障害者なら障害者らしくハンデキャップを貰って生きていれば良かったのだが、
不幸なことに一応健常者としてラベリングされ、周囲もそう認識してしまったゆえに、
ノロマで頭が悪い上に性格も悪い人と認識されてしまったようで、これまで生きてきて他人との付き合いでは往々にしてひどい目にあってきたようだ
それもあって、年を取るごとにどんどん人付き合いを切っていき、今では家族ぐらいしか会話をしたがらない。
電話が鳴っていても出たがらないし、来客が来ても出たがらない。友人はいない。
それならそれで例えば電話に出ないなら契約解除すればいいと思うのだが、それは嫌がる。
使わないけど現状が変化するのが嫌いなようだ。発達障害者らしい。
人付き合いが嫌いで、性格も悪い父なので、喋る相手が家族しかいないわけだが、
なんせ口にする話題がテレビを見て、芸能人や知らない一般人の悪口なのだから、家族としても付き合ってはいられない
適当に流して黙殺するか、我慢できなくなったときは、反論したりお前の発言は気分が悪いから黙ってろと言ってみたりするのだが一向に治る気配がない。
まあとっくに定年引退するような年まできてしまったのだから、今更治るわけもないのだが。
そんなこんなで今の今まで続いてきたが、最近気がついたのは、おそらく毒舌は父親なりの一種のコミュニケーションの努力なのかもしれないと思い始めた。
出不精でコミュ障で頭が悪く性格もネガティブな父親は普通に話をしても話に中身がなくて家族であっても死ぬほどつまらない。
そんな父が人から反応をもらえる唯一の方法は、ひどい悪口を言うことなのかもしれない。
悪口を言ってる相手は、相手を不快にさせてもかまってもらえるからだ。
そう思ったからといって、これからは優しく接してあげようなどとは微塵も思わないのではあるが。
あーめんどうくさいなー。趣味でも作ってSNSで人と繋がって外に居場所作ればいいのにな。
私は、神字書き綾城にとっての、おけけパワー中島になれなかった女だ。
この話は真田(Twitter@sanada_jp)氏の同人女シリーズについての言及と、私自身の経験についての覚書だ。
私には神の如くの才能を持った友人がいる。
いや、居たと過去形にした方が正しい。
その時から既に絵が上手く、クラス(美術系の大学だった)に一目置かれていた。
私は、それまでは親や友人に上手いと言われて天狗になっていた程度で、彼女の才能の前では凡庸も当然だった。
本当に当時はまだ、ただの友人同士だったのだ。
やがて私は一足先に某巨大ジャンルに足を突っ込み、どっぷりと同人生活を送る事となった。
幸いにも周りに親切にして貰い、同人誌の作り方、イベントの登録などを覚え、バンバン本を作って生活していた。
そのイベントに、神友人に売り子として参加して貰った。そして自然にかつ当然な流れで、彼女は「私も好きなCPの本を作ってみたい」と言った。
まずイベントにサークル登録させて退路を絶ってから、原稿用紙の作り方、ページの左右、断ち切り、印刷発行の手続き、当日持って行くもの、手取り足取り指南した。
締切ギリギリまで作業を共にして、脱稿を見守った。完成を2人で喜んだ。
初めてのサークル参加の際は売り子として同行した。
もちろん、神友人は神なので、200部があっという間に完売した。
絵をTwitterに投げれば4桁リツイートといいねは毎回の事、フォロワーはあっという間に5桁に登った。
同CP者たちも神友人を取り囲んで、連日コラボカフェや作業イプやアンソロなどに彼女を誘い、神友人を持て囃した。
イベントに参加すれば壁には大行列、手紙と差し入れの山、アフターには肉とカラオケと推し上映会。
当然である。神友人は神なので、そう扱われるのは私にとっても想定内だった。
むしろ、そうやって人に囲まれて暮らす事が、神友人の幸せだと信じていた。
神友人は私の補助がなくても、同人誌を出せるようになっていた。多い時は2ヶ月に1冊出すペースだった。
しかし。
かと思えば、神友人は私の知らない間に別のCPにハマり、フォロワー5桁のアカウントを放置して、フォロワーの少ない別のアカウントに篭っていた。
神友人は私のLINEに返信をしないのに、そのアカウントを更新している。
もちろん私は…なぜ返信をしてくれないのかと、彼女に再三詰め寄った。
怖いもの見たさで彼女のアカウントを覗きにいけば、「作業でぃすこ募集!」である。
そしてそれに「今からいけるー!」と返信しているのが…私達の学生時代共通の友人、Bである。
鬼のように同人誌を出すようになった神友人から同人誌の作り方を学び、フォロワー2桁のなか、ボチボチとやっているオタクである。
………
お察しの通りだが、私はこのBがずっと昔から苦手だった。
何を考えているかわからないというか、何も考えていないというか、妙にアホっぽくて話が合わないと思っていて、学生時代当時からあまり絡む事は無かった。見るかぎり、向こうは私の事を特に嫌ってはいない、むしろ分け隔てなく親切にしてくれたが、しかしどうもそういう所も苦手だった。
神友人は綾城であり、Bはいわゆるおけパであろう。
神友人はBとばかり一緒にいる。
私には連絡もよこさないで。
このコロナ禍の中、私は神友人に安否確認のLINEを何度も飛ばしたが、私には一度も連絡してくれないのに、だ。
何故。
何故私がそのBのいる席に収まっていないのか。
何故私が神友人にとっての一番の友人でないのか。
どうして優先順位が低いのか。私を思い出してくれないのか。
私はこんなに、神友人に尽くし、好きで、そばにいたのに。支えたのに。役に立ったのに。
理由はわかっている。
「そういう所」だ。
綾城がおけパを好きなのは、恐らく「気兼ねない」からであろう。
おけパは綾城を神と思っていても、「唯一神」ではない。おけパにとって綾城は、沢山の友人のうちの1人なのではないだろうか。
人は、自分と相手が、「神と小市民」になった時、神に力を求める。
「神よどうかその力を、私の為に奮ってくれ」と願う。
これは神と人の関係性であって、決して友人同士の間柄なんかではない。
なのに私は、私達は、神と友人でいようとする。
神と崇められる人達は、自分を神と称える者共が、最終的に「自分にとって危険な人間」になりうる事を、本能的に知っているのであろう。
恨みながら、怒りながら、Twitterを覗き、LINEを飛ばしてくる。
こんなもの、危険人物以外の何者でもない。距離を取られるのも当然だ。
私は嫌な奴である。
大切な親友だった神友人を恨み、本人を責め、善良で何も悪くないBをアホっぽいなどと貶め、こうしてそれを文章に起こし、ネットの海に放り投げて共感を得ようと期待している。
わかっている。こういう所だと。
それが積み重なって、こうして距離を取られるのだろう。
頭では理解できても、それでも「何故だ」と内心は叫ぶ。
どうして、私を捨て置いていくのか、と。
神友人のおけパになりたかった。
私がおけパになれるはずだった。
だがそれももう叶わぬ夢であろう。
恐らく、B、おけパ本人はこんな思いなど知る由もない。
発想が凡庸なんだよなぁ。
発想が凡庸なんだよなぁ。
仕事柄、いろいろな標語の選定委員を何回か務めたことがあるのだが、自分の感覚で「センスがいい」と思ったりしたような標語はほとんど選ばれなかった。選ばれるのは「目の付け所が凡庸で、分かりやすい、5・7・5」の標語。なぜなら関わる委員の大半は真面目に標語のあるべき姿について考察したことなんてなくて、そして一番重要なことは「誰も責任取りたくないから多数による無記名投票式」で選ぶから。つまり、「素人凡人による多数決」の結果だから、とがった名作など選ばれるはずがないのだ。575にこだわらず難しい言葉をキラリと光るセンスで捕まえて一読息が止まるような名作――まあそんな作品はほとんどないのだが――なんて残念ながら選ばれない。そもそも応募作に名作が少ないのは、応募側でもそういう事情をある程度理解しているからだろう、と思うと、深い絶望感にとらわれる。(実際、いい大人でそういう凡庸作を投稿してくる人は、明らかにそれを理解して狙っているとしか思えない。)
本来は、それなりの力量をもった専門委員を選び、その専門委員が選出理由をきちんとレポートにして作成した上で責任をもって(一存で)選出するのがよいはずだ。だがそうすれば、問題が発生したとき委員個人が責を負うことになる。公に近い機関であるほど、それを避けたがる。
「作品」を選ぶのに民主主義は関係ないし、従って投票というシステムもそもそも無意味だ。だが、責任を負いたくない人々のおかげで、今日も残念な標語コンテストは開催され、新たな増田をウンザリさせ続ける。
台湾のオードリー・タン(a.k.a鳳たん)大臣に関するニュースを最近よく目にする。
台湾が優れた人材や組織によって優れた施策を迅速に展開できるのには当然様々な理由があろうが、最も直接的で大きい要因は、国としての危機感ではなかろうか。
ご存知の通り台湾はその成り立ちから常に中国からの脅威に晒されている、九州程度の大きさの「小国」だ。
ここで自然と思い出されるのがシンガポールで、近年何かといい意味の脚光を浴びる彼の国もマレーシアから追放された州が母体で、建国の父リー・クアンユーが追放の夜に泣きながら国民に団結を訴えた放送は有名だ。
東京23区程度の広さの資源も産業もない島を土産に住民ごと追放された絶望感と、危機に立ち向かう強い意志が感じられる素晴らしいスピーチなので機会があれば聞いてみてほしい。
私はシンガポールに住んでいたが、徴兵制が敷かれ軍事パレードや戦闘機によるデモンストレーションも盛んで、国防は国民全員の、日常レベルでの喫緊の課題である。
両国に強く共通するのは、常に存亡の危機に瀕している小国、という点。
ゆえに、卓越するか死か、という選択肢がリアリティをもって全国民に日常的に突き付けられている。
翻って我が国もかつて存亡の危機に立たされ、(敢えて言うと)残念ながら一旦「滅亡」した。
滅亡しなかった別シナリオを描いたのが村上龍の代表作の一つ、「五分後の世界」だ。
大昔若かりし頃に読んだきりなので詳細は忘れたが、描かれていたのは第二次大戦で降伏せず、人口が数十万人に減りながらも全員で地下に潜って世界から尊敬されながら抗戦を続ける日本の姿が描かれていた。
大人になって思うのは、あそこで描かれていたのは細かい点を大胆に切り捨てて言えば、今の台湾やシンガポールだった。
存亡の危機と隣り合い、全てに卓越せざるを得ない状況で優れた技術や統治機構、精神性を生み出し、世界から羨望のまなざしを受け尊敬されながら、誇り高く危機と戦う国。
現在の「存亡の危機と隣り合わせでない」日本をつくった先人達を大いに尊敬し感謝する事は大前提で述べるが、「危機感に裏打ちされた卓越」には美しさがある。
現在の日本にはそのような美しさは無いが、その代わりに存亡の危機も(当面は)無い。
某大衆的人気を得ている作家の新作は、過去の大ヒット作を下敷きにし、現代ネタを大量に仕込んだ作風だ。
自分のネタと言っても唯一独自のものでもないだろうし、パクられたと言うようなものではない。
すでに大衆的人気を得ている作家には技術やスタッフがあり、彼の手でわかりやすくポップに加工されることで価値がでるのだ。
彼は高度な教育を受け社会的地位がある人間で、創作活動にかける想いに青葉のような切羽詰まったものはない。
凡庸でも人として認めてもらえたり、1%の良い部分から教育など次のチャンスがもらえたりプロデューサーや同好の志との出会いにつながっていくのが恵まれた人間だ。
当方キャリア10年以上のWebエンジニアだけど、自分の職業について物申す
エンジニアはなんか特殊な技能がある風でエラソーな顔をしてるけど
最初にコンピューター作った人とかRubyとかRailsを思いついて作った人は
すごいけど、我々はGoogleと賢い人の巨人の肩の上に乗っかって作ってるだけである
それは自転車を作ったやつはすごいけど、乗ってる人は別にすごくないのと同じである
乗ってる人のことを技術力がある、すごいとは誰も言わない
乗ってる人の中でも競輪とか、ロードレースで優勝した人はすごいけど、
生活のために乗ってる人とか、ウーバーイーツで宅配するために乗ってる人は
大してすごくない
誰でもできるのだけど、多少しんどいことを
そして多少なりとも経験の蓄積による、付加価値も出せるかもしれない
何が言いたいかというと
無意味な宗教戦争に巻き込まれ無いこと、そのような本質的でないことにこだわらないことが大切
こだわるべきは
最後まで愚直にやりきる意志を持って、しんどくても真摯に向かい合ってやりきっていくこと
常に情報を仕入れて、巨人の肩にうまく乗って、工夫していくこと
若くて、心がまっすぐで、地頭いいやつが強いです(白目)
大多数の凡庸な読解力では、主人公の気持ちになって考えてみましょうとか、ある意味洗脳ととれる解法を実践することによって回答にたどり着いているのが現状。
国語の授業でそんな事はやらん。
授業では主人公の気持ちは文章内のどこに書いてあるか解説して、
試験はそれを問うか、それを更に指定文字以内で要約させるとかそういうもんだろ。
んで教科書の文章ならどう教えるかも決まってるんだから、マニュアル無視して勝手な授業やる教師でもない限り普通はその通りにやるだけ。
模試や入試なんかで初見の文章解かせる場合も、答えは全部出題文の中に書いてある。
道徳の授業とごっちゃになってんのかね?