はてなキーワード: スタンフォード監獄実験とは
増田達を見てきて、影響された。
ポツリと呟く言葉に「ゴミ」とか「クズ」とか言いたくなってしまう。
増田を見る前まではこんなことは無かった。全て心に押し込み、呟きもしなかった。
考えてみたら、増田に影響されたようにも思う。
「増田のせいにするな!」って言い分は良く分かるが聞いてくれ。
誰もが一度は聞いたことがあると思う。
新聞広告などで集めた普通の大学生などの70人から選ばれた被験者21人の内、11人を看守役に、10人を受刑者役にグループ分けし、それぞれの役割を実際の刑務所に近い設備を作って演じさせた。その結果、時間が経つに連れ、看守役の被験者はより看守らしく、受刑者役の被験者はより受刑者らしい行動をとるようになるということが証明された。
実験中に常時着用していた女性用の衣服のせいかは不明だが、実験の日数が経過するにつれ日常行動が徐々に女性らしい行動へ変化した囚人も数人いたという。
これは興味深い。
ただ、長いこといると影響され次第に変わり
anond:20180205025330に悪の科学者がいないと書かれているが、悪の定義は難しい。
科学史の闇なら事例がたくさんある。
・ロボトミー手術
など。
科学者たちは悪いことをしてやるぜゲヘヘヘと実験をしていたわけではなく、
どうなるのか知りたい!知りたすぎる!とか人を救いたい!という純粋な思いから科学をスタートさせている。
いいか悪いかは倫理的に判断されるが渦中にいるとだんだん倫理の線引きがずるずると緩くなっていってしまうのだろう。
他にもこういう事例があったら知りたい。
フランケンシュタインの誘惑は全部見ている。
(マッドサイエンティストは狂った科学者の意で書いたけど表現が適切かはわからない。)
センターの子が完全に大人に与えられたキャラに乗っ取られて人格変わってしまってる
サイレントマジョリティとか不協和音って曲で反体制というか反権力的なメッセージを込めた楽曲の影響っぽい
不協和音の方は立憲民主の枝野が持ち出したりして選挙戦ってたからはてなでも結構知ってる人多いだろ
今年辺りからバラエティでもあまり笑わず、テレビの生ライブですら笑顔を見せずにパフォーマンスするようになった
一応みんな歌ってるって設定でやってるのでそれすらしないって前代未聞だろ
スタンフォード監獄実験で与えられた役割通りに人格が変わっていくってのが証明されたそうだがまさにそれかもしれない
大人の言うことを聞く必要はない、やりたいことをやればいい、自分を貫けみたいなものを表現することが求められてる内に
今後が心配だ
スタンフォード監獄実験とかラベリング効果というキーワードを知っているのに、なぜバーナム効果という同じくらい有名なキーワードにはたどりつけなかったのか
以下の記事に寄せられたコメント(ブコメではない)を読んだ。苦々しい思いがあふれた。
不振のAV業界で彼女たちに起こっていること | ファッション・トレンド | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
これだけ記事が丁寧かつ慎重に時代の流れを書いているにもかかわらず、
旧来の「常識」による善悪に囚われて、賤業と決めつけたい人ばかり。
彼らは逆の発想ができない。
そうやって卑しめているから、AV業界がいつまでも性的搾取だとか
日本はそういう保守的な風潮ひいては性への価値観を転換し、プラス方向へ合理化できる可能性がある国。
色々書き連ねたい気持ちはあるけども、めんどくさくなった。
以下、メモ書きだけ。重複も多いし読まなくていいよ。
禁酒法 大麻合法化 マフィアから正規へ 市場の制御下に、品質も改善
スタンフォード監獄実験 後ろめたさがある人(囚人・俳優)が(看守・業界人に)支配・搾取される構造
性への意識や価値観すら変わる未来 野放図に堕落してはいかない、また別の倫理へ オランダ
アイドルとの類似 価値観の多様化 職業に尊厳をもてるようにすることが環境の健全化につながる
表現者として 一部の尖ったエロ同人にみられる思想性に類似 表現の自由
ここにたどり着いた若い君へ
真面目で良い子なら知っておいて欲しい。
私が生きてきて、若いうちに知っておきたかったことを列挙する。
・アニメ、ドラマ、漫画、テレビ、ネットなどはなるべく控えた方がいい。知らないうちにそれらの価値観が君の価値観に変わっている。恋愛なら、それらの登場人物は美しい容姿を持っているため理想がありもしない容姿を基準にすることになるし、他の価値観においても容姿至上主義、完璧主義になったり、都合の良いものを求めがちになってしまう。それらはありもしないものだと理解しよう。
・友情は大切にした方がいいが、友人と時間を過ごしすぎると考えが偏ることは理解しておこう。関係が無くなることに怯えてただ維持するだけの関係は友情ではないし、引越しするなどの環境を変えることができる立場であればそんな関係は無くてもあまり変わらない。彼ら彼女らと交流することでどういうメリットがあってデメリットがあるのかは把握しておいた方がいい。
・損得勘定をするのは悪いことではない。狭いコミュニティだとそれは悪いことだと思われがちだが、それはそのコミュニティが自らの短所を認めたくないと思うが故であることもある。多くの個人やコミュニティはそれらの持つ欠点を認めたがらないし、改善のために欠点を指摘したとしても攻撃されたとしかみなさない場合がほとんどだ。「嫌なら出て行け」は状況によって正誤が分かれる。
・人と同じ、自分より下がいる、という状況は君に安心感をもたらすだろう。だけどそれは危険なことだ。君はそのままでいいと思わせるからだ。君は君が考えている以上に能力も魅力も無い。
・世の中を良くすることより、自分の安全や快楽を優先する人間がほとんどである。他人に期待しないほうがいい。
・人と差ができたときに見下したり誇示する行為は社会を不穏なものにする。そうなったら下のものを引き上げ、手助けをしよう。そうでないと、自慢に飽きたとき人生や社会にうんざりすることになる。
・儒教は年配の人でも広く尊厳を保つことができるが、行きすぎると改善ができない組織を生み出して結果全体が腐ってしまうことがある。
・若い頃はなんでもバカにしてしまうが、それは主に自分が優れていると思いたいからだ。大人になっても何かを貶して自分を大きく見せようとする人間はいる。しかしながらすべての事柄にはメリット、デメリットがある。バカにする材料は何にでも存在するので、デメリットのみを指摘するのは誰でもできることだと理解しよう。
・自分のことを頭がいいと思っている君は、何を根拠にそう思っているか考えた方がいい。「頭がいい」というのは抽象的な概念だ。君の人生を大きく動かす、または世の中で必要とされる頭の良さは勉強ができることではなくて、自分の頭で物事を考えることができる力だろう。勉強で得た概念や知識はそのための補助にはなるが、後者を重点的に養おう。
・平凡な人にとって学歴のメリットは、高学歴のコネを作れる、新卒キップが手に入る、学歴至上主義の人と話すときに説得力が増す、くらいだ。大学に入ればわかるが、学歴はミクロではその人の頭の良さを保証するものでは全くない。入試は本当に学問を理解していなくても解ける。中卒でも高卒でも頭いい人はいる。高校に入ってなくても大検を取って、大学にはいることは十分すぎるほど可能だ。受験生の大半は考えずにただ暗記をしているだけだ。
・人間は所詮動物の一種だ。理屈よりも本能に支配されがち。本や漫画にでてくるような人格者はほとんどいない。また、本能に支配されているがゆえに、友達が多い人、恋人がいる人、優秀な人に嫉妬をしてしまうことは自然なことだ。自分自身がその感情を抱いてしまっていることは隠さない方がいい。悔しいと思うのであれば、それを認め、何かしら努力をする糧にしよう。それしか君の魅力を変える手段はないのだから。
・人間のキャラは見た目よりも話し方と声質に大きく影響される。それらは変えることができるし、必要があるならボイトレに通うのも良いだろう。
・人と会話するときに緊張して声がこもったり、小さくなりがちだったり、あまり響かない声質であれば、声を出すときに共鳴させる場所を上の方(少なくとも喉仏より上)に移動させてみよう。ただし、声質を変えるには年単位の時間かかる。
・人間にも知能の差がある。大人でも理屈や理論を理解できている達成度も人によって違う。
・ノリが違う場合、無理に合わせなくても良い。君は君だ。無理をしているのは相手にも伝わるし、リア充へのただの憧れならやめたほうがいい。リア充は傍目からみたら羨ましいと思うが、実際はそれを維持するのにエネルギーを使いすぎてしまう。もちろん、それによるメリットもあるが虚栄心の強い人が多いので、君と生涯を共にするような人と出会うことは少ない。そういう場で交換した名刺はほとんど引き出しの隅で一度も見られる事なく眠るだろう。リア充であることは、お金と時間をかけてリア充である、イケているというステータスを維持していると考えるのが最も良いだろう。それは悪いことではない。君が「いい人間になるゲーム」が好みなように、彼らも「イケてる人間になるゲーム」が好みなだけだ。君が一般的にいいとされている、イケているものの別にやりたいことがあるのであれば、それを優先すべきだ。若い内は知らない内に「誰がいけてるかゲーム」に強制参加させられてしまうが、それに関わらなくても人生を楽しく過ごすことは可能だ。ただし、自分に合うかどうかは試してからでないとわからない。
・職や組織のグレードや規模に関係なく嫌な奴も無能な人もいる。
・人を変えることは難しい。その人に危害を加えてはいけない場合、嫌な人間と出会ったときは、自分が変わるか環境を変えるしかない。
・愛情や友情は不公平をもたらす。特定の人を優遇することでもある。
・たとえイジリや愛情でも貶しやマイナスの言葉は極力控えるべき。意外な言葉で人を傷つけることがある。若いうちは本当のことは言ってもいいと思いがちだが、それは思わぬ恨みを買うし、欠点や状況を受け入れられない人にとっては心にダメージを与えてしまう。容姿や資産などを持っている時は強い人間も、それらを失ったとたん弱くなることはあり得る。
・心の弱さは個人差があるが、立場や環境や状況によって人の心は弱くなる。弱っているときに傷つけられると、深い恨みを抱いたり、死んでしまうこともありうる。
・人は自分の経験や感覚から他者の気持ちや考えを想像する。そのため、その人が経験していないことや、その人にない概念について他者に思いやることは難しい。例えば痛みを感じない体質の人はなぜ人を叩いたらいけないのか理解できなかったという事例がある。
・人の考えは簡単に変わるし、それは環境にとても大きく影響されてしまう。スタンフォード監獄実験やミルグラムなどをしらべてみよう。悪人もおそらく環境が違えば悪人になりえなかった。君が世の中を良くしたいと考えるのであれば、悪くなってしまった人をどうするかではなく、どうすればそういう人間を生み出さなくていい環境を作ることができるかを考えよう。
・君は理屈で物事を考えることができるとしても、他者はそうではないことが多い。彼らはそういう環境で育ってきてしまったからだ。
・バカな人間を見たときに、見下してはいけない。それはその人がそういう風に育つ環境に原因がある(もちろん天性の素質もあるが)。運命が違えば、君がその人になっていたかもしれない。また、君の子供がそうなってしまうかもしれない。君がすべきことは、そういう人間を作り出さない環境を整え、世の中をかえることだ。
・「子供が可愛くない親なんていない」は嘘だ。例外は存在する。虐待されている子供にとってその言葉は毒になるし、追い詰めることのもつながる。耳馴染みのいい言葉、響きのいい言葉はまず疑ったほうがいい。ただし、それらは多くの場合には当てはまる。
・耳馴染みの悪い言葉に対して条件反射で拒絶する人は多く存在する。彼らはおそらく恵まれた環境で育ったか、世の中の危険などを自分の身近に存在することを認めるのが怖いのだ。だが、悪い面と良い面、両方を把握していないと正確な答えは導けない。
・現代において動物は人間の奴隷である。しかし、彼らにも意識は存在している。条件が少しでも違えば君は肉になっていたかもしれない、実験動物になっていたかもしれない。彼らに感謝しよう。
・若い内は自分の居場所を求める。それ故に他人と違ったキャラを自分に求める。自分に何も無い場合、理想の自分を作り出し、それが中二病をもたらす。自分が平凡であるなら素直に平凡であることを認めて、そこから何かに向けて努力しよう。それが本当の君のキャラになる。大人になると、男女ともに自分をしっかり把握して、その上で努力している人は魅力的にうつる。
・人間は自分の仲間か、自分より上か、自分にメリットはあるか、などで人を判断する。そして、それらに当てはまら無い人に対して恐ろしく残酷なことができてしまう。差別の恐ろしいところは、あらかじめ自分の仲間ではなく、自分より下と位置付けてしまうところだ。
・人は自分の望む情報を選択的に集めようとするし、望まない情報である場合、その情報の欠点を探し不要な情報だと思いたがる。これを確証バイアスという。多くの人が自分の考えにバイアスがかかっていると自覚してない。このバイアスを互いに自覚することができれば対話はより生産的になるが、確証バイアスがかかっているから確証バイアス自体を受け入れないという人の方が多い。
・事実であってもレッテルに騙されてはいけない。例えば痴漢をしてしまった優秀な科学者の意見はみんな軽視してしまうだろう。しかし、痴漢をしたこととその人の科学者としての知識や経験は分けて考えなくてはいけない。そのレッテルと、それの持つ有益な部分との関係を考えた上で情報の取捨選択をしよう。
・人は自分の長所で人間の価値を測ろうとする。人の評価の仕方が偏っていないか自分自身に問いかけよう。
・大人は自分が優位であるはずの立場を揺るがされるのが怖いからこそ、子供に子供らしさを求めることがある。
・理屈っぽさは悪いものである風潮に騙されてはいけない。ものごとを考える時は論理的に考えるのが一番だ。ただし、対人で理屈っぽく話すのは論外だが。
・新しい何かを考える時は必ず紙に書こう。その方が効率がいい。君は頭の中だけで何を考えていたかをまとめるほど頭はよくない。頭の中で解決できるのは経験したことがある事柄のみだ。
・不条理や理不尽は減らすことができる。でも、自分以外の人も巻き込む必要がある場合、既述の理由で多くの人はそれを面倒くさいとしか思わない。労力もかかるし、君自身に力が必要だ。それでも誰かが行動に移さない限り状況は変わらない。そのつけを払うのは後の世代だ。誰かが動くことでしか救えない人はたくさんいる。
・言い訳はしてもいいけど、それ以上に自分のダメだったところをあげよう。じゃないと君は成長できないしいつまでも変わらない。でも、本当に悪い環境だったらすぐに逃げよう。
・日記をつけよう。そして1日の中で、自分の良かったところ、悪かったところ、どう改善すればいいかを毎日書こう。特にどう改善すればいいかを考えるのに時間をかけよう。
・人間の魅力は動物的(美醜、強さ、声、体格、体臭、組織での立ち位置など)な要素と、理性的(行動、知識、思考力など)な要素がある。中でも動物的な要素の方が強力で、前者のみでも世の中やっていけるが、後者のみではなかなか生き辛い。顔やスタイルがいい人間は残念ながら得だ。また、説得力は動物的な魅力を持っている人の方が高くなる。
・自分を知ろう。なるべく画質のいいカメラで自分を日中に撮影し、ビデオで自分の話し方や立ち振る舞いを録画し、一つの単語を覚えるのに何回復習する必要があるかを試そう。カメラやビデオで自分を撮影してそれを見るのが苦痛な内は、自分で自分のことを認めれていない。ブサイクならブサイクを認め、そこからどうすれば魅力的になれるか考えよう。自分の欠点を認めれていない人間は痛々しくうつる。
・論理学と科学的思考と複眼思考を身につけよう。人の言うことは偏った意見であることが多い。
・身の回りで知らない単語が出てきたら、必ずメモしたり調べたりしよう。知らないことをゼロにするくらいの心がけのが良い。ネットで検索して出てくることを覚えるのはバカというのは極論だ。知っていると理解しているは違うし、理解していないと思考を発展させることはできない。また、記憶力は関連付けることで強化されていくので、知っている事柄を増やせば増やすほど、物事を覚えることがたやすくなる。
人間は、自分が置かれた立場によって、本来の自分以上の自分を自分で演じる事があるそうだ。byスタンフォード監獄実験
川崎の事件でも、彼ら自身の中に、そういった立場による過剰行為があったと感じた。
TPOをわきまえた服装を、も一連の考えだ。
人は服を選ぶとき、服装によって、こんな自分に見られたいこう思われたい、といった意識がある。
だが、しかし、
それは自分ではない。
本当に頭が良さそうな人間なら、服で演じなくても頭が良さそうに見える。
本当に金持ちそうに見える人間なら、服で演じなくても金持ちに見える。
本当に美形なら、服を着ていなくても美形に見える。
服を脱げ。そして、町へでよう。
at your own risk
僕は現在海外留学をしている。こちらの大学には同じような日本人留学生が結構来ていて、元々居た大学もバラバラだ。
先日授業で隣になった日本人の女の子と話をしていて、自分の大学(早慶一橋レベル)を言うと「凄い!頭の良い学校の人と話してみたかった!」と少し興奮して返ってきた。その子いわく「頭のいい大学の学生ってどんな風に何を考えてるのかな、って凄い気になる」のだそう。
僕自身は決して頭が悪いとか頭が良いとかは思わない。多分同じレベルの大学に通ってる学生はみんなそんな感じだと思う。それゆえ彼女の反応には非常に驚いた(持ち上げられることに弱い人間なので少し照れつつ)。たかが紙の大学入試で判断できることなんてそうそう多くない。それでもその子と自分の間には妙な溝があった。結局2人とも同じ学年で同じ国の同じ大学に留学しているというのに。
留学先の大学では彼女は上手く立ち回れていないかといえばそうでもない。たどたどしい外国語ででも現地の学生(その多くはおそらく日本語学科)と友達になり、休暇には旅行に行ったり適度に楽しんでいる。僕は彼女よりは現地語を使いまわせている、でも正直言って友達の数では負けているのではないだろうか。
もちろん、友達の数=コミュニケーション能力・頭の良さという風に早合点してはいけない。
それにしてもやはり、彼女に言われて改めて気付いたことに学歴の違いがどうやら何かしらの差を生んでいるみたいだ。それは見えにくい。
アメリカで行われたという心理学の実験をご存知だろうか。まとめブログなどで面白がって取り上げられることが少なくない、スタンフォード監獄実験のことだ。囚人の役、看守の役を割り振られた人が時間が経つに連れてそれぞれの役に没頭し、暴力にまで発展してしまった挙句の果てに中止された実験である。
すなわち、役を割り振られた者はその役に没頭する、このことが学歴から来る意識の違いにも当てはまるのではないかということだ。
実際に見たことはないが、東大に入った学生は入学式の時に「日本の未来は君たちが担っている」とでも言われるのではないだろうか、入学式以外ででもそんな風に言われることはあるだろう。
こんな風にもてはやされた人間はどういう意識を持つようになるだろうか?「自分たちが世界のリーダーになる!」とでも考えてしまうのではと僕は考える。勿論東大生の全員が全員そういう意識を持つだろうとは言わない。
僕は今の大学に入ってから「なんだ、日本の有名大学って所詮こんなものか」と思うようになった。僕は勉強が好きで一ヶ月に数冊は本を読む、外国語もそこそこやっている。それに比べて周りの奴らからは授業は寝るサボる、本には無縁、プレゼン発表の内容も高校生か?という印象を受ける。(勿論僕が見てないサークルやバイトで頑張っていることは分かっているが敢えてそれを考慮しない)
でもそんな自分と彼らとの間に何か共通点らしきものがあるとするなら、それはベタな言い方だが「チャレンジ精神」というものだろう。僕の場合は学問的意識の高さから、彼らは職業的意識の高さからそれは来ている。
「本を大量に読んでるから国際学会に遊びに行くぜ」という形か、または「たくさんの人脈とコミュ力あるからテレビに出るぜ」という形か。
リーダーになる、というのではないがそれに遠からずな意識を少なくとも僕は持っている。だからと言って賢いわけではない。留学中の今なお不十分な外国語で半端ない苦労をしているし、読書力もまだまだ足りない。
高学歴と低学歴とで何が違うか、高学歴の人間は高学歴の人間が大したことないことを知っている、低学歴の人間はそれを知らない。
そしてどれくらい自分に自信を持てるかという程度が違ってくる、そこからどんな難題に自分を放り込めるかどんな責任を自分が負えるかについての自意識が決まってくるのだと思う。
彼女のように高学歴の学生を過剰視している人は実際そんなにいない。けれどもある程度はやっぱりいるんだと思う。影ではなくイデアに至るべしとギリシャの哲人は説いたけど、そういう意味で真理は追い求めないといけないんじゃないかな。特に影が巨大で化け物のように見える時は。
最後に、少々変だが車の運転に例えてみよう。
低学歴の人間の多くは高速道路で時速80kmまでしか出さないのに対し高学歴の人間はほとんど高速道路で200km以上出す、しかし別に低学歴の人間が240kmで走っても高学歴が60kmで走っても良いのだ。人の意識は環境に左右されるものだが、誰にも拘束されない、されてはいけないものである。