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2024-05-13

anond:20240513142621

既婚者はそうだろうけど、独身者東京一人暮らししてるイメージ自炊だとかナッシュの話とかで、盛り上がってるからさ。

anond:20240513141743

シンエヴァ信者がボロクソに叩いてニワカがなんか良かったって褒めていたイメージ

anond:20240513132347

頭一つ抜けてるのは阪大イメージだわ

変なイメージだけど、旧帝の中でも東北大は頭一つ抜けてるイメージがあるわ

anond:20240513131505

急に思い出したんだけど、大学名を二文字表記するとき

東大東京大学

東北大→東大が使えないので北大

北海道大学北大が使えないので海大に

っていう略称トリクルダウンが発生してたのが面白かったな

変なイメージだけど、旧帝の中でも東北大は頭一つ抜けてるイメージがあるわ

anond:20240513114426

SAPIX余裕で行ける位の層なら1.3億で倍の広さのとこに住んでると思うわ。

俺もそのくらいのイメージ

それで最終的に中堅大にしか行けないってどういうこと???って思う。

anond:20240513112130

山の手でも場所選べば10万ちょいで住めるし

都心」という話なので山手線内側とかせいぜい杉並区世田谷区くらいをイメージしてる。

その辺でファミリー家賃10万ちょいは無理あると思う。

パパ活女子に対するお前らのイメージ

なんか大分実態とずれてる気がする

ほとんど、大多数が貧困層だよやってるの

70%くらいが片親、20%くらいが兄弟多い

10%くらいが別に貧困ではない金銭感覚のぶっ壊れた才能の塊で

5%くらいがテレビでよく見るような超絶美女モデルとかキャバ嬢とか頂いちゃう系、お前らのイメージするやつ

15%くらいが風俗嬢副業

 

っていうか風俗嬢って思ったより貧困層少なくないよね、そこまで深く話せてないからかな?

真空波動拳ってネーミングすごくね?

スト2シリーズリュウが使う必殺技

波動拳」って有名な技があるけど、あれの

強化版が「真空波動拳」なんだけど(真空竜巻旋風脚もあるけど割愛)

よくある強化版は「超」「スーパー」「大」「メガ」「ギガ」「極」「改」みたいな一言で強化版ってわかる言葉を付けるけど「真空」って本来強そうな意味無いよね。真空パックとか真空管とか、日用品イメージしかない。

でも真空波動拳は何か強そう。(当時のカプコンだし何かのパロディかと思って調べたけど出てこなかった)

しかリュウって硬派なキャラクターに合ってる。リュウが「超波動拳」「スーパー波動拳」って言うのは何か軟派な感じで合わない(ライバルケンなら合うけど)

同時期くらいに別会社で「龍虎の拳」って格ゲーがあってリュウに似たリョウってキャラ

「虎煌拳(波動拳みたいな技)」の強化版の名称

覇王翔吼拳」だったけどコレはもう漢字全てが強そうで分かり易い。

その後のストリートファイターシリーズで色んな波動拳の強化版が出てきたけど「電刃波動拳」「滅・波動拳」など分かりやすいネーミング。

いか真空波動拳のネーミングの絶妙さがわかる。

anond:20240513060703

メジャーって漫画いーっつもケガしてるか

ドアップで〜なんだよ!ってドヤ顔ばっかりなイメージ

2024-05-12

anond:20240512163259

海外は混ぜ物されてる質の悪いのが統計に乗らずに出回ってるイメージがある

そのせいで統計に乗るようなちゃんとしたやつは高くなる

保護猫の譲渡会って結局は販売会なのよね

保護猫の譲渡と言えばいいことをしてる感があるけど実際はそうでもない

譲渡なら無償で譲ればいいけど実際はかなりいい値段で売られている

保護団体の存続のために実費くらいは仕方ないとは思うけど、そんなもんじゃない値段だよね

実態としてはただのペット販売会なんだよ


何でそんなことになってるかって、ペットショップ=悪、保護猫の譲渡=善、みたいなイメージを定着させた層がいて、ペットショップとしてペット売るより、猫保護団体という体裁にした方が猫を売りやすくなったか


考えてみたらわかると思うけど、猫でもなんでも、流行り廃りがなく季節性もないものというのは需要はだいたい一定している

そして店はその需要を満たす程度に生産する

じゃあ需要がその数のまま、「猫買うなら譲渡会で!」が浸透したらどうなるか、考えてみたらすぐわかると思う

需要は同じなんだから生産数は変わらない

でも購入先がペットショップではなく保護団体に移る

すると結局、猫を販売する窓口が、ペットショップという名前から譲渡会という名前に変わるだけ

から実態は何も変わらないし、保護譲渡会は、そういう名前販売会に変わるだけなんだよ

ちょっと考えればわかること

保護というのが虐待捨て猫保護ではなく、ペットショップの売れ残りだったりそもそも生産から直接保護団体に移されてたりする

それ、みんながペットショップで買うなら普通にペットショップで売れてた子なんだよね


なので、本当に猫を保護したければ、猫を飼うなら譲渡会ではなくペットショップで買い、本来必要な数よりもう1匹多く飼育し、その余分な分を譲渡会で買わないといけない

それで初めて需要外の猫が引き取られる

からそもそも保護譲渡会というもの自体眉唾イベントだし、保護猫ってのは善行という付加価値がついた商品なんだよ

そんなものに騙されないでほしいなと思います

もちろんきちんとした保護団体もありますよ!

核戦争発生後

核兵器って使ったら終わりなイメージが先行しすぎてて使われちゃった後長期的な対処をどうするかってあんちゃん研究されてなくないか

発生直後から数週間くらいまではシェルターを準備して食料を備蓄してとか、その後数か月は核の冬がきて飢餓がおきてみたいなことはまあ知られてるけど。

核の冬が来たらなにを育ててどう食っていくかとか、その後汚染を避けたり減らしたりしながら数十年数百年をどう過ごすかみたいなことってどっかでちゃん研究されてんのかな?

「核なんかどうせ発明されちゃったんだからいつか絶対使われる。使われるなら最悪世界中汚染されるやろなあ」くらいの心持ち研究しといたほうがいいと思うんだけど。

それが多分できてないんやろなあってのは原発事故の時にわかったというか、事故発生直後の避難計画さえテキトーだったよな。その後の除染とかも……

原発作る段階でも、もし核兵器使用後についてのそういった研究が進んでて、国民にも広く知られてれば「さすがに、ここに建てたらあかんやろ……」みたいな認識も広がりやすかったんじゃね?

まあ、原発がある以上今後原発事故絶対発生するし、もし原発を全部撤去したところで核戦争絶対発生するんだから発生したあとどうするかを考えないとなって思う。

関西人ってストレートな印象あるけど

近畿本音と建前、遠回しオブラート文化じゃない?

京都が有名だけど大阪兵庫みたいな雑そうなイメージのある関西コミュニケーション自体変化球文化なんだよな。とにかく直球は避ける。

地域行くとみんなわりとストレート投げててビビる

反例を挙げるということが理解できないバカ

 あなたは「Aという、何の根拠もなく、なんとなく『それっぽい』というだけの理由で広く信じられている話」を否定しようとする。

 Aのような、何の根拠もないのにみんなが信じているやっかいな作り話はネット上にそれこそ雨後の筍のように溢れている。今日も今もこの瞬間も生まれ続けている。

 こういうもの否定しようとしたときに、あなたはいつも困難を感じる。

 

否定する根拠」の矛盾

 それは何故かというと、Aという「何の根拠もない話」を「否定するための根拠」を挙げなければ、人は一度信じた話を疑うということが出来ないからだ。

 相手がある程度論理的人間だったらまだマシだ。「Aだったらこういう矛盾がある」という、論理学でいう「反例」をひとつ挙げれば十分だからだ。

 実際には、それでも「無闇に信じるのではなく疑いを持って見る」という程度にしか相手を変えることができない方が多いかも知れない。

 非常に聡明人間をしても、「そもそも根拠なく信じていたこと」に「全く根拠がないのだから完全にデマだと思って見る」というほどの信条の変化を起こすのは困難なことなである

 

バカは反例が理解できない

 更に悪い場合相手が「反例」という概念理解できない。ある理論矛盾することを示す例が一つあれば、その理論のもの机上の空論であり、なんの信頼性もないものであるということが証明できるという、論理学常識がない。

 のみならず、自分が何の根拠もなく信じていることを否定する話にこそ、100%の、何の瑕疵もない証明が要るとすら考える。

 「Aが矛盾する」ことを示すために「Bという可能性もある」というような話をすると、「Bが正しいという証明をせよ」と迫る。こちらが言いたいことは「Bと同じ程度、あるいはそれ以下にしかAの信頼性もない」というくらいのことなのに、そういう微妙理屈バカには通じない。

 一度Aという理論を「なんとなく」の雰囲気ででも信じてしまったら、100%絶対信頼性を持ってBという別のストーリー証明しない限り、思い込み絶対に変えないことが、そういう奴らには「賢くて疑い深い」とすら自己認識されているのだ。

 

デマを信じながらデマに騙されないと意気がるバカ

 デマが広がる理由衆愚衆愚たる理由はひとえにここにあると言っても良いくらい、これは根源的で如何ともし難い愚民社会の病巣だ。

 頭が悪いということは、「反例が理解できない」ということ。「証明」という概念に対して、狭く幼いイメージしか持たないこと。

 知性というものに対して低いレベル理解しかしていないからこそ、バカ自分バカだと気づかず、いつまでもバカのままでいる。

 自分が何を信じているのかを客観視出来ないバカは、自分が何を疑えているのかも正確に理解することができない。

 デマにハマっている奴ほど相手デマ呼ばわりするというのは、つまりこういうことなである

 

男=コ女=メ

昔は男はコ、女はメで表していたというバズツイートを見た。

をとこ→男

をとめ→乙女

生すこ→息子

生すめ→娘

日子→彦

日女→ひめ

帰国子女帰国した男女

と言うことらしいが、検索してもブログばかりでいい感じのソースが見つからない。

いつ頃から男を表す子が、女の名前イメージになったのだろうな、小野妹子時代は男なんだろうけど。

ネットに居場所がない

ネットには居場所がない。なぜなのか。

まずXを新規登録したところをイメージしよう。興味のあるトピックアカウントフォローして、フォロワーゼロ状態である

興味のあるアカウントといえば、専門のサイトサービスだったり、その道のプロだったりする。

ゲームで言えば、steam公式アカウントとか、FF14公式アカウントFF14プレイヤーなどである

さあXを使い始めるぞといいポストをしてみると、そのビューの数は2である

何度ポストしてもビューはせいぜい10に満たない。

当然有名アカウントしかフォローしていないのでフォローバックもされない。

ここであなたは気がつく。あなた有名人でもない限り、初期参加では誰から相手にされないのではないかと。

それであなたフォローバックを狙って手当たりしだいに様々なアカウントフォローする。

そうしてフォロワーフォロー1000づつぐらいになる。

ポストをすると、10人ぐらいかいいねが届いていい気分になる。

しかあなたがそのXアカウント運用して気がつくのは、もはやゲーム情報を追いかけるものではなく、承認欲求を満たすためのもの格下げされているのである

こんなものが「居場所」になるはずがない。

中川翔子のことまだ許してないからな

中川翔子の「保健所に連れて行くなっ」炎上10年経ったらネット上に残ってなくてびっくりした

中川翔子春名風花全然許してないよ

家で猫飼えないけど4匹の子猫を拾ってしまい、2匹の里親自力で見つけたけどもう2匹の引き取り手が見つから

譲渡会に望みを託して保健所に持ち込んだ一般人

保健所に連れて行くなっ!で吊し上げて信者攻撃させた中川翔子

保健所=猫を殺すところのイメージだけで「お前が殺した自覚を持て」で追い詰めた春名風花

なによりも2人とも保健所に連れて行くくらいなら元の場所に戻せと主張していてドン引いた

子猫を元の場所に戻したらそれこそ死ぬだろうが

生き残ったとして不幸な猫を再生産するだけじゃないか

正直どんなに頑張っても救いきれない猫はいるよ

それは猫を外で生かしている人間全体の責任

これから社会全体で減らしていかなきゃいけないことだろ

一般人高校生自分にできる最善のことをしていたよ

それを芸能人理想論で叩き潰してどうするんだよ

クソみたいな保健所偏見と共にさ

中川翔子はそのあと猫を外に出して外猫にを産ませたみたいなニュースもあった気がするけど、やっぱりな

あれから10年経って保健所獣医として働いているけど

やっぱり外猫肯定派の猫好きが1番の敵だよ

サバンナ強者って例えばライオン🦁だけど、

オスは子育てして、メスが狩りしてるイメージがあるので、

ぼくが専業主婦になるので、誰か働いてください

社員募集、アットホーム職場です

子育て中のママさん歓迎

一夫多妻マンソンファミリーを目指しましょう

みんなで働く経済共同体

そんな夢ばかり考えてるだけで死んでしまいそう…😔

詩とか俳句短歌について思うことメモ

もう人生の折り返し点をすぎて久しい。目を通す文字は、仕事書類ばかりとなった昨今。

でも小学校高学年から中学生にかけての頃に、文学少女に憧れた時期があった。

書店の奥のほうにいっては新潮文庫コーナーで、適当に数冊手に取っては解説に目を通したりしていた。

まれて初めて自分で買った詩集は、井上靖詩集だった。小学校5年生か6年生の頃だと思う。

頁を開いたとき、これは詩なの?というのが最初感想だった。普通に文章だったからだ。

調べてみると、井上靖の詩は、散文詩という形式らしい。なにが自分の知っている詩と違うのだろうというところで

「韻」という言葉もその時初めて知った。

井上靖詩集を手に取ったのは、国語教科書に載っている著者の本でなるべく読みやすそうなものを探したからだった。

というわけで、あすなろ物語のついでに手にしたのが、人生最初詩集だった。

小中学生の頃、国語の授業で、詩や短歌に少し関心をもった私は、韻を踏む、という作法が苦手だった。

季語などルールがあったり、韻で楽しめなければならない、みたいなもの短歌俳句だとすると、ちょっと縁がないなと。

特に覚えているのは、中学校の時習った在原業平短歌に、かきつばたを詠みこんだものがあるが、韻だけでなく、言葉ニュアンスにいろいろな仕掛けを作らないと詩として成立しないのかと思うと到底自分には向いてないジャンルだった。しかし、そうはいっても、短い言葉で何かを表現してみたいという思いは消えず、ひそかに詩集をつくって引き出しの奥底にいれていた。


井上靖の詩のなかに

幼少の頃、川辺の石段の下で手を洗っているとき不意に石鹸が手元を離れ、深みに落ちていったという情景の詩があった。その喪失感をその後の人生でも刻まれているという内容だった。これなら自分でも書けるかもしれない、と思った。

自分世界表現の仕方や詩の味わい方を学べたのも井上靖の詩の影響が大きかった。

例えば、雪という詩がある。


 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

 こういう二行の少年の詩を読んだことがある。

 十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌

 みつけた詩だ。雪が降って来ると、

 私はいつもこの詩のことを思い出す。

 ああ、いま、小学校教室という教室で、

 子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

 この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。

 勤勉、真摯調和

 そんなものともどこかで関係を持っている。

井上靖詩集運河」より

中学生の私は、なるほどと思った。

詩というのは、雪が降って鉛筆の字が濃くなったという描写やその言葉なかにあるのではなくて、物語は書かれてない背景のなかにあるのだなと。

鉛筆の字という描写だけだったら、だから何?という感想しかない。しかし、鉛筆を持つ誰かの表情を想像し、その背景を想像して足してあげることで一枚の絵になる。

井上靖の次に手に取った詩集もよく覚えている。

武者小路実篤だった。やぱり散文詩だった。

当時、大好きだった先輩が「友情」を読んで感動したといっていたので、友情ともう一冊詩集を手に取った。その後しばらくして、私の失言が原因で先輩は私からフェイドアウトしていった(つまりフラれた)ので文学をダシに先輩と仲良くなろうという作戦は失敗した。しかし、武者小路実篤の詩はそんな私をなぐさめる言葉にあふれていた。

いじけて 他人にすかれるよりは 欠伸(あくび)して他人に嫌われる也 夏の日。 嫌う奴には嫌われて わかる人にはわかってもらえる 気らくさ。


ほどなくして、種田山頭火という自由律俳句というジャンルを知った。

山頭火面白い普通俳句じゃないところがいい。規律から解放されるってすばらしいことだと。

定型詩嫌いな私にとっては、ある意味で、俳句短歌エントリーポイントとなって、

新聞の俳壇や短歌欄に時々目をやるようになった。

いわばお勝手からこっそり入門したような形だ。

しか俳句は、季語の煩わしさにどうしてもなじめず、自分には遠い世界のままだった。

いつしか手にしていたのは、興津要解説する江戸川柳 誹風柳多留だった。古典落語にはまり始めた時期だった。

剣菱という酒を飲むことを江戸時代の人が剣菱る(けんびる)と言っていた、など、現代言語感覚と近い、興味深いことがいろいろと書かれていた。

エロい川柳結構好きだった。今でいうサブカルチャーだ。

その後は巴毎晩組み敷かれ

木曽義仲の元を離れ、和田義盛に見初められ身柄を預けられた巴御前、ネトラレ系の元祖ともいうべき味わい。思春期の私はこうした江戸時代川柳妄想たくましく想像し、手が動いた。五七五だったら、こっちの世界のほうが楽しい

一方、短歌のほうは、というと、当時の朝日歌壇は毎週とても楽しみにしていた。

俵万智サラダ記念日ベストセラーになったからというのとは全く関係なく、プロではなく、市井のいろいろな人が短歌を詠んでいるということが興味深かった。

例えば、こんな一首。

わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり

あさま山荘事件を起こした連合赤軍幹部坂口弘収監中の東京拘置所から毎週のように短歌朝日歌壇投稿していた頃だ。

朝日歌壇では他にも穂村弘がいた。短歌表現する世界の幅広さを朝日歌壇で知った。

そして渡辺松男太田美和が常連投稿者として名を連ねていた。

風花って知っています

さよならも言わず別れた陸橋の上

渡辺松男太田美和は実社会で互いに関係があるわけではなく、それぞれの思いを歌に込めていたのだと思うけど、なぜか不思議と互いに呼応し合うものがあった。これは当時の歌壇リアルにみていた人にしかからないことだけど。雨の森や樹々など独特の世界観を表現する渡辺松男に対して、雨の日に部屋にこもれば憂鬱発酵すると詠んだりする太田美和。

生活で恋をしていた私は太田美和の言葉自分を重ね合わせた。


でもこのころが私の文学少女期のおわりだった。

大学卒業したものの、就職できずに苦しむ時期がやってきた。就職氷河期というやつだ。

生活が一変した。

書店で立ち寄るのは、奥の文庫コーナーではなく、店の前の新刊コーナーであり、資格取得のコーナーだった。

購読紙も朝日新聞から日経新聞に代わり、東洋経済となった。

世の中からどんどんと取り残されてゆく焦りでいっぱりになっていた。

山頭火武者小路実篤もへったくりもない、そんなことより面接資格だ!という日々。

就職が決まってからは、病気になったら人生終わりだし、干されたら終わり。もう一歩先に、もう一歩とただひたすら走り、走らされる人生が始まった。

たまに思い出しては、現代短歌最近の潮流を知りたくなって、枡野浩一の本を手に取ってみたりはしたものの、ピンとこなかった。

若い頃あれほど好きだった渡辺松男も改めて著作をみると作風が変わったのかと思うほど、何一つ言葉にくすぐられることなく、不感症になっていた。変わったのは自分のほうだ。


それから数十年、あるとき気が付くと、新しい家族が増え、家が建ち、旅行などしている。

そういえば何十年も詩や短歌を目にしていない。寺山修司の本は引っ越しのどさくさでどこかにいってしまっていた。

思春期のことを遠く思い出すようになった。実家の部屋の引き出しにはまだヘンな自作ポエム集が眠ってるはずだ・・。自分死ぬ前にはなんとしても奪取してこないといけない。

中年になっていいかげん自分限界を悟って、ふっと一息いれた、という形だ。

ふと思い出すのが、最初に買った井上靖詩集

 ―― 雪が降って来た。

 ―― 鉛筆の字が濃くなった。

この二行の子供の詩を、何十年も経って思い出す井上靖感覚がとてもよくわかるようになった。


これは人生の楽しみを食に見出して、ワインをたしなむようになってから思ったことでもある。

詩を楽しむということとワインを楽しむことには、ひとつ共通点がある。

どちらもウンチク語ってめんどくさい奴がいる、という意味じゃない。

鉛筆の字が濃くなる、という情景として、勤勉で真摯子供の姿を思い浮かべる、という

文として書かれていることと、書かれていない想像の背景の補完的な関係は、ワイン食事、一緒に食事するひととの関係によく似ている。

ワインの味や香りは、それだけで勿論、それぞれのワインに特徴があるし、品種ビンテージ気候土壌などさまざまな情報がある。

しかワインのおいしさを決めるのはそれだけではない。過去に飲んだ記憶とか、一緒に食べているもの、そしてそのとき話題、体調などに大きく左右される。

だって同じことで、喉が渇いているときの一杯と会議中にやり込められているときの一杯は全然違うはずだ。

マリアージュという言葉があるように、ワイン一種調味料として機能するため、食べ合わせ重要だ。

またワインプロファイル情報あるかないかも味を左右する。

ブラインドで呑むワインはどんな高級ワインだろうが、初見ワインしかない。ワインの特徴まではわかってもそこまでだ。

逆に偽の情報表現かに補完してしまえば、コンビニ販売しているワインを高級ワインと偽って出してもたいていの者には気が付かれないだろう。

ワインを色やら香り、余韻など物理的に因数分解した表現ができても、美味しさは客観的規律として表現することはできない。

詩も同じだと思う。規律ばかりを語るひとがあまりにも多い。本居宣長には悪いけれど、歌をつくるのは道だとしても楽しむのは道じゃないと思うんだよね。

井上靖が「小学校教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはちょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。」というとき井上靖にとってその詩に初めて出会ってからの何十年間が効いてくる。井上靖は詩は規律ではなく、詩との出会い方だと教えてくれた人だ。

その情景を自分のなかでセットできるかどうかは、鑑賞眼の問題ではない。

どちらかというと、そのような情景がセットされてしまう、長年の思いの蓄積、その詩と出会ったときメンタル、いわば偶然の力だと思う。

渡辺松男太田美和が並んで歌壇掲載されていたあの空気感にしても、あのとき限りのものだったのだろう。

失恋をして武者小路実篤の詩に慰めれられた思い出もそう。まさに一期一会

先ほど、卒業してから詩どころではなくなったと書いた。

そのとき自分が置かれれる状況やそれまでの経験によっては、詩に対して、鈍感になることだってあるのだ。


ところで、先日、Yahoo芸能ニュースをみていたら、TBSプレバトというバラエティー番組で、俳句を競う企画があって、ある芸人俳句先生から5点と酷評されたと報じていた。

お題は「文房具」で彼女が読んだのは

消しゴムが 白き水面に ボウフラを

というもの。作者は「頑張って勉強して、消しゴムを何回も消すと、消しカスがたくさん出る。それが白いノートにたくさん積もっていると、ボウフラのように見えるという句です」と意味説明したものの、腹が立つ、とまで評者先生にののしられている。

ちょっと間抜けた感じはするものの、正直、なんでそこまで素人俳句酷評されなければならないか理解できなかった。だが、番組演出脚本としてはそれがオチなのだろう。

演出もさることながら、これは、他の出演者俳句が以下のようなものだったことも影響しているように思えた。

迎え梅雨 紙端に滲む 友の文字

虹の下 クレヨンの箱 踊り出す

天王山 黒ずむ袖に 薄暑光

薫風や 隣の君と 教科書

こんなふうに優等生を気取った俳句がずらりと来たら、それは「お約束」として、こき下ろすしかないのかもしれない。

バラエティー番組のなかで俳句を味わうということはつまり、こういうことなのだ。その芸人に対するイメージ作品クオリティが補完されてしまうのだ。

しかし、この句が仮にお笑い芸人ではなく、どこかの学校児童生徒が作ったものであったとしたらどうだろう。

消しゴムをかける姿は、情景としては授業中であることを示唆している。5月番組文房具からまだ気持ちフレッシュだ。だけどがんばろうという気持ちは長続きしない時期でもある。

ぼうふらにみえるほど消しゴムをかけるくらいだから、授業中、何度も消していて、その間、ノートをとる手が止まることになっただろう。

それでも授業はお構いなしに進んでいく。溜まってゆく消しごむのカスからは、授業についていく焦りとともに、生徒のひたむきさ、間違って消すことが多い生徒のどんくささも垣間見られる。

いかげん疲れたかもしれない。めんどくさいと思ったかもしれない。

一方で白い水面(ノート隠喩)は、清潔さや純粋さを象徴している。

ふと手を止めた瞬間に、そこにボウフラがいるようにみえた、というのは、一瞬立ち止まってボウフラ?などとくだらないことを想像してしまった自分の不純さや切れた集中力で抜けてしまった気力(投げ槍感)との鋭い対比となっている。

と、このように解釈すれば、俳句としてむしろ「ボウフラを」で間抜けた形で止めた意味が出てくる。そこから先は、苦笑いなのだ

ボウフラを季語と認めるかどうかはわからない。しかし、純粋に詩としてみれば、消しゴムとボウフラという組み合わせは非常にユニークだ。

また、どんくさいもの弱者がボウフラというノート上のより小さい存在視線フォーカスする、という手法小林一茶方法とも通じるところがある。

番組の評者は、この芸人俳句酷評したうえ、次のような添削をしたという。

しかすはボウフラみたい夏休み

夏休みかよ。口論の途中で勝手に話の前提を変えられたときのような不快感を覚える添削だった。消しかすって文房具じゃないし。

しかし、誰しも詩に対して鈍感になる、そういうことはある。端的にあれバラエティ番組からね。

ただ、私の場合、やっぱり俳句には縁遠いのだろうと思った。俳句がメインのカルチャーであろうとする、優等生を選ぼうとする、そのいやらしさも嫌だ。上品そうな季語を競うかのような世界一種ルッキズムだ。夏休みかいって勝手おめかしさせようとするんじゃねーよ。

そういうところがまさに、かつて私が川柳などのサブカルに引き寄せられるひとつ動機だった。ボウフラにシンパシーを感じる感受性は恐らくはかつて親しんでいた落語川柳で身につけたものだろうからゆりやん一句を悪くないと思うのは邪心かもしれない。そもそも番組ADがテキトーにつくりましたってオチかもしれないんだけどね。

300円でおいしく飲めるワインもあれば、駄作でも楽しめる作品もある。そういうことだと思う。

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