はてなキーワード: 公共圏とは
目次
1.はじめに
(1)歴史認識について
(2)対北朝鮮外交について
3.佐藤優による主張の使い分け
(1)ナショナリズム論
(2)ポピュリズム論
(3) 格差社会論
6.「人民戦線」という罠
(1)「ファシズム政権の樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤を擁護する
10.おわりに
註
1.はじめに
このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル・左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。
だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディアで排外主義そのものの主張を撒き散らしている。奇妙なのは、リベラル・左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。
佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル・左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象の意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場の記述の検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画・編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。
「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動に共鳴する特定の編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチで共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者と意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社のカラーや論壇の左右を超えて小さなリスクの共同体が生まれ、編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞の社会面を中心に、従来型の検察や官邸主導ではない記者独自の調査報道が始まる。」「この四者(注・権力―民衆―メディア―学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論の公共圏を形成していく。」
馬場の見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点である。ある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論の公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル・左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義」体制下の護憲派が、イスラエルのリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。
以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)武力行使、在日朝鮮人団体への弾圧の必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル・左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的なものである。「戦後民主主義」が、侵略と植民地支配の過去とまともに向き合わず、在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象としか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル・左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。
私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤が右派メディアで主張する排外主義を、リベラル・左派が容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在のジャーナリズム内の護憲派の問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。
馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌に寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題や文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である。佐藤自身は自ら国家主義者であることを誇っており、小谷野敦の言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本に右翼なんか一人もいない」。
佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実、ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本の知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男や魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店や朝日新聞の出版物では、排外主義的ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?
この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。
まず、佐藤の排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤の排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。
(1)歴史認識について
佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本とロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立が日清戦争、日露戦争を引き起こした。もし、日本とロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮をにらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージを金正日に送るのだ」。朝鮮の植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのものの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢で反論することは当然のことだ。」と述べている。
特に、大川周明のテクストと佐藤の解説から成る『日米開戦の真実―大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本の近現代史に関する自己の歴史認識を開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である。
「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国をアメリカ、イギリスによる植民地化支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義国である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強の植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種の棲み分けの理論である。日本人はアジアの諸民族との共存共栄を真摯に追求した。強いて言えば、現在のEUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカと日本が妥協を繰り返せば、結局、日本はアメリカの保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本の武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民地活動家の眼には、日本も列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリス、アメリカはつけ込んだ。日本こそが中国の植民地化と奴隷的支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国の政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘の南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。
右翼たる佐藤の面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代の知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。
(2)対北朝鮮外交について
佐藤は、「拉致問題の解決」を日朝交渉の大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題の解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエルの国権侵害でもある。人権と国権が侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府の方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在の北朝鮮をミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家と日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義の選択肢には戦争で問題を解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題の解決」においても、戦争が視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。
さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮の米ドル札偽造問題が、アメリカの自作自演だった可能性が高いという欧米メディアの報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカの情報源と情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証の根拠も示さずに(反証の必要性を封じた上で)、「北朝鮮の情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派の原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤は現在、右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。
佐藤は、「在日団体への法適用で拉致問題動く」として、「日本政府が朝鮮総連の経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮が逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネスで利益を得ている勢力を牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。
漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件の摘発が拉致問題を解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮に日本と交渉する気にさせるのが警察庁の仕事。そのためには北朝鮮の資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤の発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関・民族学校などへの強制捜索に理論的根拠を提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。
3.佐藤優による主張の使い分け
排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。
佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。
一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループのサイト上での連載である〈地球を斬る〉では、「慰安婦」問題をめぐるアメリカの報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦」問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体が不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的な立場から日本政府の謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題は Permalink | 記事への反応(1) | 18:32
https://mond.how/ja/topics/8ppjwtgys23ut68/ywfh3pbdu405jwh
佐々木さんはここ数年、左派のメディアや言論人に対して、時には名指しで厳しい言葉を投げかけておられる印象で、
私も佐々木さんの意見に共感することが多いですが、一方で右派(特に日本保守党のような極右)の方々の発言や行動に対しては沈黙されている印象があります。
ただ佐々木さんの発言を聞いている限り、右派の意見に賛同されている訳ではないと思うのですが、実際はどう思われているのでしょうか。
右派左派に限らず、中道で穏健な意見には耳を傾けるべきだというのが私の姿勢です。そして議論の余地のない極端な意見には、きちんと批判していくべきだとも。
私は基本的にはリベラリズムの立場であり、同時にリベラリズムの限界を乗り越えるためにコミュニタリアニズム(共同体主義)も考えていかなければならないとも考えています。
保守主義者ではありません。なので保守・右派とは思想をまったく異にしていますが、議論の余地があるのなら議論したいとつねに思っています。
呼ばれれば誰とでも対話するようにしているのは、そのためです。
さて、おっしゃるように左派に対しては私がより厳しい姿勢となっているのはその通りです。その理由は、日本のマスコミ空間では極端な左派に寄った意見が非常に多く見受けられるため。
言い換えれば、20世紀終わりから21世紀にかけての日本のマスコミはあまりにも左に寄りすぎているという危惧があります。
その日本の状況は、欧州や米国とはまったく異なるところです。欧州ではアフリカや中東からの移民・難民の問題をきっかけに右派が台頭し、大きな政治勢力になってきているのはご存じの通りです。
また米国ではトランプがまたも今年の大統領選をうかがう状況になってきています。それに対して日本では、右派はたいした影響力を持っていません。
こういうことを言うと「日本会議が」「統一教会が」などと言う人もいますが、実態としてそれらの団体は自民政権に対してもそれほどの影響力を持っていません。
逆に近年の自民党は、LGBT理解増進法が右派から激しく攻撃されたのを見てもわかるとおり、世代交代もあってかなりリベラリズムに寄ってきているのが現状ではないでしょうか。
いっぽうでマスコミ業界では、たとえば報道による福島への風評加害が放置され何の問題にもされなかったり、安倍元首相暗殺犯を称賛する著名人になんら批判の矢が向かわなかったり、
どう考えても左にあまりにも偏りすぎている状況が放置されています。この状況を改善し、マスコミ業界が正常化されない限り、日本社会にはよき公共圏が育っていかないという危機感が私にはあります。
東浩紀氏も「Jリベラル」なる言葉を作ってリベラル左翼を馬鹿にしていたが、佐々木氏や東氏のように、右も左も駄目だと言いながら左翼叩きばかり繰り返す人々を
くくる言葉も必要ではないだろうか。ちなみにこの手の人々は国民民主党に投票している印象があり、知識人としては無責任に感じる。
多数派の日本人は、同調圧力に耐性がなく、白い目で見られないようにする=世間体。
日本人は挑戦しなさすぎだし、真面目に問題解決しようとしません。
日本人の学生は、「自分は創造性ある」と思っている人がとても少ないらしいです。
挙句の果てには、小泉政権に「B層」という言葉を使ってマーケティングのターゲットにされています。
趣味や娯楽にばかり使っていませんか?
何故なら、B層の多い日本をもっと有意義な国にできるからです。
一緒に出し合ってみましょう。
・Twitterの姉妹サイトとして、例外的に13歳未満でも親の許可があれば使える社会問題を議論する場所を用意する
・コミケに社会問題を解決するための同人誌(社会問題をテーマにした同人誌)を置くコーナーをつくる
皆さんの意見を聞かせてください。
「赤ちゃん連れはOKか?」という質問に対する、スターバックスコーヒージャパンの公式のアンサーは以下で読めます。
https://st.benesse.ne.jp/ikuji/content/?id=14438
「スターバックスのミッションは、“人々の心を豊かで活力あるものにするために一人ひとりのお客さま、一杯のコーヒー、そしてひとつのコミュニティーから”です。お客さま一人ひとりに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいと考えています。ですから、ぜひ、ママや赤ちゃんをはじめ多くのお客さまに、スターバックスで豊かな時間を過ごしていただきたいです!」
「スターバックスのブランドのコアは、“人々の心を豊かで活力のあるものにする”という考えです。スターバックスには、サービスマニュアルがありません。“お客さまがスターバックスで過ごす時間が、どのようにしたら豊かになるのか”。このブランドミッションを元に、一人ひとりのパートナー(従業員)が、自分なりのホスピタリティとは何かを考え、お客さまへのサービスにつなげています」
スターバックスのパートナーさんには、子育て中のママも少なくないとか。そのため、赤ちゃんが泣いてしまったら、あやしてくれることもあるんですね。
最近ではキッズスペース併設のスターバックスもできたりしています。
https://media.l-ma.co.jp/sns-baby-mamalife2525-1
ちょっと背伸び感のあるハイブランド、スターバックスリザーブロースタリー東京もキッズ向けスペシャルメニューやチェアなど用意しています。
https://enjoy-overseas-life.com/2021/03/28/starbucksreserveroastery-withkids/
https://chanto.jp.net/articles/-/27312
はっきりしているのは、スターバックスのブランドメッセージは決してキッズを排除しておらず、むしろ妊娠中のママや育児中のファミリーも等しくウェルカムしている、ということです。スターバックスは日本全国に1700店、アメリカ本国では13,000店以上を展開する「大衆向けのカフェ」です。一部の利用者がスタバという空間に「こうあるべき」という思い入れを持つのは構わないけど、運営企業の思惑をも無視して自分勝手な「べき論」を押しつけ、自分とは違う誰かの利用を苦々しく思うのは、カッコ悪いと思います。
そもそもカフェというのは、さまざまな立場や意見を持つ他者が集い、交雑する場所として始まりました。フランス革命はカフェでの議論から始まったし、ハーバーマスはカフェをヒントにして「市民的公共性」とか「公共圏」という概念を確立しました。たとえ言葉を交わすことはなくても、カフェのような場所は、自身にとっての「他者」のありようを目の当たりにできる良い機会だと考えてみてもいいのでは。
どうあっても自分にとって好ましからざる他者を排除した、均質で静謐な空間を求めたい人には、そういう人達向けの場所があるはずです。そういう場所が少ないとか値段が高いというなら、その人が求めている『均質で静謐な空間』にはそれだけの希少性や付加価値がある、ということでしょう。遠出して、あるいはエクストラチャージを払って、その排他的空間を利用すればいいのです。
個人や企業による人種差別や性差別主義的な言動に人々が強く反発して、起用取消しや不買運動などが起きること。近年の#MeToo運動や#BLM運動の広がりの中で隆盛し、社会変革のための重要な手段となっている。コールアウトカルチャー(call-out culture)、差別や偏見などの社会問題に目覚めた(woke)若者たちによるウォークカルチャー(woke culture)とも同義で使用されることもある。元来は、マジョリティの「公共圏」から排除された人種、民族、あるいはジェンダー的なマイノリティたちが生み出した「対抗的公共圏」の中で抵抗の手段として発展していった。他方で、マジョリティの白人文化に広まる中で、従来控えめなボイコットや無視を促すものだったキャンセルカルチャーが、発言が問題視された人を市場やメディアから締め出すようなコールアウトカルチャーへと変容した。これに対してオバマ元大統領が警鐘を鳴らし、行き過ぎたキャンセルとコールアウトカルチャーに対して、人の過ちに対する寛容や、発言の問題点を指摘しつつ敬意をもって対話を試みるコールイン(call-in)などが模索されている。日本では東京五輪開会式におけるミュージシャン小山田圭吾の過去のいじめ発言や元お笑い芸人小林賢太郎によるホロコーストをネタにしたコントがキャンセルの対象となった。
小山田圭吾と小林賢太郎はキャンセルカルチャーの範疇に入らないと思う。小山田圭吾の拒絶は人間性に対する嫌悪感、小林賢太郎は欧米に対する忖度の結果で多くの日本人にとってはどうでも良い話。
各個人が払っている通信費、サーバー代といったもの以外に、SNSで延々とやり取りに費やされる時間なども膨大だ。
ホームページと言っていた時代だと、他人の家に土足で踏み込んでいくような感覚はあったが、それも過去の話。
一部のSNS企業サービスの上が公共圏に等しくなっているのに関わらず、表現の自由の名のもとに延々と炎上している。
現実空間だと街頭演説、ビラ配り、デモ行進、屋外広告など許可が必要なものが多く、
それなりの根拠と落とし所を用意していたはずだが、Webになるとなし崩し的に広まってしまった。
間接民主制で、誰も彼もが常に政治に時間を取られることがない効率を求めていたのに、
Webは直接民主主義になり、誰もそのことに疑問を持っていないし、一部の人や企業のみ利益を享受している。
んだけど、その他に僕が憎悪している相手をリストアップして共通点を探ってみる
いわゆるネトウヨが嫌い。テキトーなこと言って自国礼賛をしているバカは生きている価値が無い。百田尚樹を愛読してるような奴。あと、歴史修正主義者や余命信者は論外。こいつらは、頭が悪いから大嫌い。
ピラホロごっことかに興じてた、ハン板にたむろってたようなネトウヨが嫌い。あれは、あまりに恥ずかしいだろ。痛々しいオタクとか見たのと同じ嫌悪感が出てくる。
あと、自称ヲチャーとか言ってるやつら。こいつらも同じで、見てて居たたまれないオタクネタとかで偉そうなこと言うからからマジで勘弁して欲しい。銀英伝とか攻殻機動隊を引用したり、身内で位階作って褒めあったりしてるの。あれを良い大人が真顔でやっているというのが、噴飯もの。とにかく存在が恥ずかしい。
もちろんビジウヨも嫌い、平民とか。ほんこんみたいなウヨ芸人はただただ見苦しい、偉そうなこと言う前に学位とれよ。
これは保守系の政治家などにも言えることだけど、さんざん道徳だの愛国心だのエラソーなこと並べ立てておいて、その実、クソみたいな行為に手を染めていたりする連中が特にクソすぎる。ネットでエラソーなこといって配信していたボウズPを名乗る者が、シャブポンプで捕まったりね。今、バッジらしいけど。アホな有権者にはお似合いだ。
まあ、顔出ししてないまとめサイト運営者とかは、まだ許容できる。単なる商売だと割り切れるだけマシ。
死刑賛成論者とか、厳罰主義者が大っ嫌い。あくまで、国家が刑罰を行うのは、その人を更生させて社会復帰させるため。被害者や大衆が、厳罰下してスッキリしても、特に何も得るものが無い。そんな単純なことにも気づかず、自分のクソくだらねぇお気持ちで国家刑罰権を扱おうって言う料簡が全く許し難い。可罰感情というのは、感情に過ぎない。
これは、いわゆる保守系の応報刑信者もそうだけど、性犯罪者に厳罰を求めるフェミ系もそう。国家は、お前らの厳罰オナニーでスッキリするためのズリネタではない。頼むから死んでくれ。
ハーバーマスが大嫌い。こいつが諸悪の根源。思考実験の積み重ねで論理を作ってきたリベラルの系譜にとどめを刺したクソ左翼。社会契約論の自然状態にせよ、ロールズの無知のヴェールにせよ、そんなものが存在しないなんてことは、百も承知。こういう架空の前提の存在を否認したあげく、じゃあお前の判断基準が何かといえば「公共圏」。おいおい、ふざけんなよ。
結局、公共圏なんて吊し上げ大会にしかならないし、それは学生運動で痛い程わかっているはずなのに、自分を持ち上げる学生運動を切って捨てたクソ野郎ハーバーマス。そんで、アイディンティティポリティクスへの道筋もつけた。マジで万死に値する。今の政治的対立の諸悪の根源はこいつ。
単なる多数派の独裁。無批判に伝統を受け入れるだけのゴミ以下の思想。未開の土人やカッペのジジババ、あるいは胡坐をかく無能な貴族を正当化するためだけのカス。消滅した方がいい。
ハーバーマスの最悪の部分とバーク保守主義のマシな部分を合体させたウンコ以上ゲロ以下の何か。サンデルとかありがたがってるバカは三回ぐらい死んだ方がいい。
暴力なしでなんとかできるとかいうのがおこがましい。南米の司法権が及ばないカルテル支配地域とかで暮らしてほしい。管理された暴力のありがたみがわかるだろうよ。
このへんは、まじで許し難い。
なるほど。問題意識はわかった。
つまり、制度のせいで市民一人ひとりに政治参加の実感がない。故に政治参加しない。それが問題である。
という考えなのかな。
俺にはそれは、ハーバーマスのサロン的公共圏が崩壊した……というよくある話のバリエーションに思える。
サロンという狭い世界の政治談議にハーバーマスは公共圏を見たが、政治の範囲が広くなるとサロンで全体は維持できず公共圏はなくなった。だから規模を分割縮小すれば、サロンが(市民の政治参加意識が)再び作り出せる……という話ではないか。
たまに聞く話だと思う。
たぶん関連ワードで調べたらいろいろ出てくるんじゃないかな……。
個人的には、そもそも現代の政治ってのはもはや国際規模であるべきで、しかし世界政府は無いので政治の力は制限されてしまっている。分割のし過ぎこそが今の政治の衰退に直結していると思うので、あまり賛同はできないな。
まあ、ある程度はしょうがないと思う。
茅野市民館の本の背が退色するとかで騒いでるけどさ
どうも納得行かないんだよな。
紙の本なんて消耗品やん。
あえて「日本人は」って言うけど
日本人、消耗品をめちゃくちゃ大事に大事にしまっておいて死蔵してほぼ誰も使わないみたいなムーブ好きすぎ。
いや、そういう扱いしたほうが良い本があるのはわかるよ?
でもそれより、有限の寿命の中で沢山の人間の目に届くのが役目っていうこともあるだろ?
出羽守扱いされるかもしれんけど
ヨーロッパだとペーパーバックの本とか、めちゃめちゃ扱い雑に、無造作に公共圏においてあったりする。
でもそうすることでより多くの人間が本に触れられるっていう面はある。
例えば(本を読んだ人数)=(本の耐用年数)*(本を手に取る機会)を最大化したいと思えば
国土交通省の資料(https://www.mlit.go.jp/common/001275277.pdf)のp48に転入超過都市の産業は、金融、映像・音声・文字情報制作業、通信業、不動産取引業、広告業などとなっている。
これらの産業は国内市場から利益を生み出しており、外貨を稼いでいない。悪く言えば地方から金を吸い上げている。
日本の経済成長は輸出業に牽引されてきたが、東京に本社があったとしても地方で生産・輸出を行っており、東京の交通の利便性などで稼いでいるわけではない。
東京の方が収入は多いが、差額分すべてを消費に回してるわけではないため、内需のパイ拡大への影響は大きくない
大学入学時に東京に行ったまま地方に帰らないので、大学を地方に移動させればという案は出たが、
全大学が一斉に移動しないため、地方で開講したキャンパスは定員割れで失敗した。
省庁を東京以外に移せばとよく言われるが、省庁の綿密な関係が必要な企業以外は地方に移るメリットはない。
他に、東京に本社がないと若い優秀な人材を雇用できないという企業側の論理と、
労働者側の終身雇用が壊れた現代でローンの残っているマイホームから通える距離に同業他社が集まっている場所、というのを解かなければいけない。
地方に移動するだけのインセンティブが必要なので、東京にある企業や人に対して税金を上げればよい。
地方と東京では賃金が違うので、一人当たり数百万くらい今でも負担していると言えなくもないが、現状でも集まるのだから、
やってられないくらいので地方に移るくらい税を上げなければならない。
国の運営に関わる公務員向けの都市への移行を目指してもいいかもしれない。
東京の文化発信が止まると言われそうだが、セゾン文化や渋谷文化などはなくなったに等しく、
10代などは韓国やアジア圏からの文化の方が身近で、既に衰退している。
東京が儲かれば地方も儲かるというトリクルダウンなんてものはなかったし、過去の東京がより儲かる構造は見直しが入っても仕方ないだろう。
保育園の場合、対象とできる子供の人数が限られているため保育士の給料が安いという問題がある。
子を預ける世帯の収入は多いが、保育士の給料は安くなければ成り立たず、補助金を充てる必要があるというのを解消する必要がある。
公共の保育所などは諦め、どうしても東京で人を雇いたい企業に負担していただき、個々の企業が運営する託児所に任せたほうがいいのではないか。
個々人に負担してもらう案もあるだろうが、一般的に支払う金額に対して求めるサービスの質は過剰になる傾向があり、辞めたほうがよい。
女性の社会進出が進みダブルインカムが増えているが、その世帯収入の上昇と金利の低下に合わせて不動産価格が上昇している。
例えば(https://www.mizuho-ri.co.jp/publication/research/pdf/insight/jp190208.pdf)の図表1にあるように2002年から2018年の間に2000万も平均価格が上昇している。
商業利用の投資目的であればいいが、波及して住宅まで影響を受けており、異常である。
デフレだ、物が売れないと言われているが、ローンが多いのだから消費を減らすに決まっている。
住宅補助金で受け取る分も考慮して金融と不動産が価格を決めていないか。
住宅ローンが残っているから転職先が住宅からの通勤圏内になければならないという心理も解消しないといけない。
例えば6年~8年くらいでローンが返せるくらいの価格帯になるように建築技術のイノベーションを起こせないか。
新築でもカギを受け取った瞬間に1000万ほど価値が下がるのも、容易に引っ越しできない要因になっている。
「東京より地方の方が贅沢な暮らしができる」という状況を作らなければいけない。
今後、家庭にもより機械化が進んだ場合に、狭い住宅環境では買っても置けないという状況が考えられる。
日本の家電メーカーが撤退した今日、日本の住宅環境に海外メーカーが作ってくれるのを待つのはメリットがない。
地方が東京に勝てるのは土地があることである。自然が多いというのは強みではない。
公園などの公共圏で子供が遊ぶのは禁止の流れなので、自宅内によりスペースが必要だ。
煽り運転とかされたらシバくに決まってんでしょーが(法的にも)
萌え絵とかオタク系統の絵柄が問題になるたびに思うんだけど、公共圏に見せた結果「えっ…私こんなのちょっとエッチすぎるんですけど…」っていう人が現れてその一部が文句言ったからと言って、それを「煽られた」とか「存在そのものを否定された
」と感じるオタクが一定数いるんよね。決してそういうわけではないというか、そりゃ世の中にはオタクの絶滅を願う派閥も依然としてあるかもしれないが、大事なのはそういう勢力との無駄な衝突を避けて共存していくことではないかと思うんですけどね。
最終的にオタク絵にだれも文句言わなくなるまで粛清するというのも躊躇われるというか、そんなことにはならないだろとも思うし、少なくとも今はオタクが強すぎるんじゃないかと思ってるんですけどね。まあ所詮こっちも積極的に何かするわけではない戯言なので、不快だったら無視してくだされ。
萌え絵が客観的にどうこうという議論は常に違和感あるが、不快に思う人もいるので公共圏にふさわしくない、というので十分ではないのかといつも思うんだけど。腹パンとか子宮脱とかの超ニッチなジャンル的表現ならさすがにまずいとみんな思うわけで、企業とか自治体とか的にはBLやら美少女やらはギリギリイケるやろ!ってなりつつある空気なんだろうけど、いやイケないんでは?という感覚を共有できないものか。
というか二次元で抜くタイプのオタクとしては公共圏で萌え絵とか気まずくて見たくないのよ。ああいうの決めてる人はオタクでもなくて「こういうのがウケるらしい」としか思ってないわけでしょう。こっちからしたらオカズだからねそれ。
「ご恵贈頂きました」という類いの呟きに寄せた郡さんの「呟き」は、書物を出版するという行為を人脈作りのように扱うことへの反感をこめたものだ。その底流にあるのは、書物という存在に対する畏れ、敬意、尊重するという「しぐさ」であり、それが彼の出版人としてのスタンスの根本に関わる問題であることが伺える。
一方で「その呟きを批判することが自由な言論の流通を阻害する」と批判する小林さんの意見は、これも書物を狭い公共圏の所属物にしてしまうことへの嫌悪や彼女なりの書物の未来への希望に基づく批判だと考えられる。書物はもっと自由で開かれたものであるべきだ、という思想もまた、彼女の出版人としての根本に関わるテーゼなのだろう。
両者の意見を踏まえた上で、その対立について、それから、切り取られた「クッキーでも焼いて…」という言葉について意見を述べたい。
まず、両者の意見はまさに「意見表明すること」に対する価値観を異にしているため、おそらく折り合う点がない。郡さんは「世界に向けて意見を述べるとは、反論・批判を受けて立つ覚悟に基づくべきものであり、それは神聖な行為だ」と考えているのだろう。そういう覚悟のないおしゃべりによる人と人の繋がりを一段低いものと見て、Twitterなどの道具を使ってそれをすることを否定するほど狭量ではないものの、自分が心を込めて関わっているものをそんなことの道具に使う行為に対しては嫌悪感を覚える、というスタンスだ。たとえて言うなら、陶芸家が「いまプレゼントに最適なカップ」特集とか見て、苦虫をかみつぶしているような感覚だろう。
一方の小林さんは、おそらくそういうスタンスをもつ世代の「本」作りには未来がないと踏んでいる。彼女は彼女なりに出版の未来、書物の未来を憂えていて、むしろ前世代の人が気軽な交流の場に本を持ち出すことに苦言を呈すること自体が、書物の未来を奪うものとして気に入らないのだろう。たとえて言うなら、その陶芸家の息子が、自ブランドの社長として上手にブランディング戦略をして「プレゼントに最適なカップ」特集に○○印のカップを掲載してもらっているようなものだ。
……とまとめれば分かってもらえると思うが、こんな二人の話が折れ合う地点など最初からない。
私が問題だと思うのは、こんな折れ合わない二人が触れ合い対立してしまうことを、いまのTwitterの仕組みはプラスにできず(論争が深まる余地がないので)、足を引っ張り合うこと(炎上)にしか繋げられない点だ。SNSは人と人の距離をぐっと近づけたが、ブログvsブログならまだ存在した対話の余地を、Twitterは残さない。そしてそれを煽るのがtogetterのようなまとめサイトで、まさに郡さんの思うような「編集」という行為の恣意性や恐ろしさに気付かないまま、面白おかしく「炎上しやすそうなポイント」に絞ってページ作成者は対立を煽り、社会全体の生産性を下げている。私は、この二人はそれぞれのポジションで自己のお仕事に邁進していただいたい方が、なんぼか日本と世界の、そして書物の未来のためになると思う。
今回の対立は「クッキーでも焼いてフリマで売ってろ」という郡さんの売り言葉に対して「性差別的な発言が感情的な口調」と小林さんが受けたところから本筋を逸脱した。郡さんの文脈でこの売り言葉を読めば、それはつまり「(書物の怖さを尊重せず交流の価値だけに可能性を見出すなら、書物という作るのも受け取るのも恐ろしいものに手を出さず、安全な)クッキーを焼いてフリマで売って(好きなだけ「素敵ー」とか言い合ってぬるい交流をす)ればいい」という意味であるのは明白だし、ブラック気味のジョークとして受け取れる範疇の揶揄であったと考えるが、小林さんはその文脈を外して「(自分が女性だからクッキー焼け、つまり社会に出てくるなという話になるのか、つまり)性差別」でありかつ「(性差別的な発言を不用意に侮辱的に投げかけるほどあなたは)感情的だ」というレッテル貼りを行って、話を泥沼化させた。あとは、Twitterに住む蝿がよってたかってブンブン言わせて、事態は無事小学校の学級会へと堕していった。
郡さんのそのブラック口調が不用意だったのか、あるいは(かねてから似たような目に遭ってきたと想像される)小林さんの受け取り方がよくなかったのか、そこは今更問うまい。両者がその間の事情をそれぞれ忖度すべきだったというほど、両者に重い責任を負わせようとも思わない。ただ、いずれにせよ、両者はTwitterなどという軽い軽い場で議論じみた交流をすべきでなく、ただお互いの仕事に努めた方がずっとよい。陶芸家とその息子、ハッキリ言えば話すだけ無駄だと思う。
これまで何度も繰り返されたこういう出来事(出会うべきでない二人をお節介にも出会わせて無益な対立を生み、あまつさえそれを見世物にする!)をシステム上で防ぐ仕組みができない限り、いずれTwitterは信頼も人心も失っていくだろうと思う。
辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(1962)の中で提唱した概念。ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性は人間が自由平等連帯で幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。
~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。
それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶん最大公約数的には「まあみんなで議論する場は必要だよね」というあたりで理解されている。
しかし、この「みんなで議論する場」というものが曲者である。人類の大半の歴史上、「みんなで議論する場=公共圏」には男性だったり社会的強者だったりという入場パスが必要だった(今でもそうかもしれない)。しかしそれは今日の価値観から見れば明らかに間違っていたわけで、その間違い(入場パス)と長い間仲良しだった概念を自由で幸せな社会のベースに据えていいのかという問題がある。
ハーバーマスは彼が理想とする市民的公共圏がどういうものであるかは、少なくとも『公共性の構造転換』の中では(たぶんそして今日に至るまで)ふわっとしたことしか言っていないのだが、どういうものでないかはこれ以上ないほどに詳しく論じている。一見いかにも学者らしい無駄っぽく思えるが、「こっちに行ってはいけない」というガイドブックでもなにもないよりはましである。たぶん。
本稿では、「昔の(入場パスつきの)公共圏にはこのような批判がありました」とハーバーマスが論じている部分を検討し、その批判が千田氏の立場にブッ刺さっていることを確認する。その結論として、千田氏の「市民的公共性」という用語の用法がいかに不適当ないしド適当であるかを示す。
以下ではハーバーマス(細谷貞雄・山田正行訳)『公共性の構造転換』の第四章 第一四節「公共性の弁証法によせて――ヘーゲルとマルクス」に基づいて議論を行う。
ヘーゲルは入場パスと公共圏の関係を真っ先に疑った人であった。とはいえヘーゲルも最初からブチ切れたりはしない。「公論(公共圏における論議、もしくは公共圏そのもの)っていいよね、合理的だし」というところから話を始める。でもその合理性って自由主義がベースになきゃ成立しないよね?(みんなが自由に意見を言えることが前提なので)、でもその自由主義って本当に公共圏とそこまで相性いいだろうか?とヘーゲルは問う。考えてみればこの矛盾は明らかである。司会のいない多人数の会議を考えてみればよい。地獄である。間違いなくそこに自由はある。なのに(だから?)地獄である。
このことの地獄性は会議室を超えて社会とか国家とかのスケールになるとより増す。例えば少数者差別を考えてみればよい。これはみんなに「自由に」議論させてるだけではそもそも議題にすら上がらないだろう。そうして公論はきらきらした合理性の賜物から「多数者の主観的私念」という水準へと転落する。公論は「自然に生じた不平等を止揚するどころか、むしろこれらを技能、財産、さらには知的倫理的教養の不平等まで深めていく」。入場パスを持っていない人はより不利な位置に、持っていても少数派の人もまたより不利な位置に、公論によって追いやられる。
まあとはいえ人間も頑張るもので、法治国家とか市民社会とかを作って頑張って公論して私念から理性に支配権を移そうとするのだが、ヘーゲルいわく土台が腐っているのに頑張っても泥縄だそうである。そうした頑張りはむしろ国家に主観的私念を入り込ませる結果になるとヘーゲルは言う。じゃあどうすりゃええのよって言えばヘーゲルは最初から開き直って身分制国家を作れとか言ってそれに対しマルクスがいや社会主義でしょとか言って最後にハーバーマスがいや公共圏を作んなきゃダメだよとか言うのだが、そのあたりは略する。
ともかくにもハーバーマスが描く市民的公共圏というものは、こうした批判をスルーしては論じることができない。ここで重要なのは、ハーバーマスが公共圏をどのようなもの「ではない」と考えていたかということである。以上見てきたようなヘーゲルの理論は最終的に乗り越えられる(ということになっているが詳しいことはやはり不明)のだが、であるからこそ少なくともヘーゲルが批判したそのままのことをやるのがまずいというのはわかっている。
まさにヘーゲルが批判した地獄の公論をインターネット上に出現させようとしているのである。
私自身は「表現の自由」は国家から規制されるべきものではない、とは思う。でもそう思うからこそ、国家から規制されるまえに、「市民的公共性」を発達させないといけないと思うんですよ。
あと表現って、さまざまな他者への配慮のなかでこそ磨かれていくものだと思う。フリーハンドの表現なんてない。https://twitter.com/chitaponta/status/1047451777220501504
市民的公共性の話って、ハーバーマスのつもりだったんですが…。https://twitter.com/chitaponta/status/1047789073471946752
市民的公共性は対話によるものですから、そのことを話し合うことが大切だと思います。
いままさに起きていることが、市民的公共性なのではないでしょうか?https://twitter.com/chitaponta/status/1047810256976269312
まず第一に、専門用語を「」で括って注釈なしに使うのはおよそハーバーマスの「市民的公共性」的態度ではないといえる。なぜならこれこそヘーゲルが批判した「自然に生じた不平等を(略)知的倫理的教養の不平等まで深め」る態度にほかならないからである。
そして第二に、ハーバーマスの議論は上のような「話し合えばそれが公共性」というような安易な理解を拒絶するものであるということを千田氏はまったく理解していない(か理解していても無視している)。上で見たヘーゲルによる公共圏批判からもわかるように、ハーバーマスの議論は「公共圏にはあれやこれやそれや…の批判があるけど、でも、それでも公共圏がなければ人間は幸せにはなれないんだ」というひねくれたものであり、単に「話し合いが重要だよね」と言っているのとは違う。仮に結論は一緒だとしてもやはりそれは違う。その違うものを一緒くたにして、専門外の人に「話し合い=市民的公共性」という理解(そんな人のいい理解をしている人はほとんどいないようだが仮に字面だけ虚心に読んだとして)を植え付けることが、ほんとうにハーバーマス的であるといえるだろうか?
第三に、「思う」根拠が示されてない。少なくともハーバーマスは「国家の規制を前もって回避するために市民的公共圏を発達させるべきである」というような具体的な議論はしていないはずである。であるとすればこれは千田氏のオリジナルのアイディアが含まれているはずであるのだが、それがまったく説明されていないのと、先に述べたようにそもそも専門家間ですら扱い方に差がある「市民的公共性」という単語のせいで、最初のツイートの二文目は全く意味不明なものと化している。原理的に誰にも意味が伝わらないはずのもので炎上しているのはお気の毒というほかないが、であるからこそ千田氏は「市民的公共性」の意味と「思う」理由をしっかりと説明してほしいと思う。
(2021/2/7追記)書きました anond:20210207093448
twitterで、ロリコンの権利向上を訴える人に向かって、子供と大人は権力構造があるから云々と的外れな非難を浴びせ、それに反差別・リベラルを掲げる面々が賛同のリツイートしまくってたのが気味が悪くて限界だった。もうほんとおめーらのそのロリコン差別意識をどうにかしろよ。
実在の子どもとセックスするのは(たとえ子どもの「同意」があっても)犯罪。オーケー。異存はない。
実在の子どもを被写体にしたポルノは取り締まられねばならない。オーケー。別件捜査の口実になるとかそういう運用上の懸念はあるが、単純所持の禁止それ自体に異論はない。
(個人的には2回目までは廃棄命令で済ませて3回目以降はじめて送検するというスリーストライク方式でもいいんじゃないのと思うが、それは処罰のやり方への異議であり単純所持禁止そのものには賛成する)
ゆえにロリコンに冷たい目が向けられるのは仕方ない。これは差別ではない。ホワット? ちょっと何言ってるのかわからない。
ロリコンだろうがゲイだろうが成人に欲情する異性愛者だろうが、子どもとセックスしたり子どもを被写体にしたポルノを持ってはいけない。この主張は明瞭でまっとうだ。
なのに、なぜそこにロリコン差別を混ぜ込む必要があるんだろう?
子どもをレイプした男が「いや俺には同年代の妻がいるし、学生時代も同年代の人とばかり付き合ってきたから、俺はロリコンじゃないんだ!」と言ったら罪を軽くすべきとか思うの?
小児にしか欲情できない、というのは、異性にしか欲情できないとか、同性じゃないと性愛の対象として見れないとか、どんな人をも性的欲望の対象にできないとか、そういったものと同じ、単なる性指向の一種にすぎない。
その属性をまとめて蔑視し、彼らの権利向上に反対するのが差別じゃなくてなんなんだろうか。こんな主張が反差別・リベラルの側から流れてくるというのは、反差別を掲げるリベラリストとして地獄感がある。
「ゲイは対等な相手と恋愛/セックスすることが可能だけど、ロリコンはそうじゃないからゲイとは違う」という議論もある。
えっ? ゲイの人たちが求めてたのって「好きな相手と堂々と恋愛/セックスする権利」だけだったの? 違うでしょ?
ゲイであるからといって社会的に差別されない、ゲイ向けの表現をゲイ向けであるという理由で排斥されない、ってのもゲイの権利向上で、ロリコンがそれらの権利を求めることはまったくおかしくないよね。
それこそゲイの中にも非モテとか結婚する気のない人とかはいるだろうけど、だからといって彼らは同性婚には縁がないんだからゲイの権利向上を訴える理由はない、なんてわけがない。
もっと言えば、仮に実際のロリに手を出したやつだったとしても、ロリコン差別に怒っていいんだよ。男をレイプしたゲイだってゲイ差別に怒る権利があるのと同じ。
なぜなら、そいつらの罪はレイプしたことであって、ロリコンであることやゲイであることじゃないからだ。
そいつらは性犯罪者として刑務所に入れられるべきだが、誰もロリコンやゲイであることを理由に投獄されるべきじゃない。
ペドファイルの権利とゲイの権利は切り離せないんだよ。ロリコンを変態と蔑視していいなら、伝統的価値観からいえばゲイだって変態だろ。で、ゲイを差別するその伝統的価値観は間違ってるよな?
子どもを性的に見るなんてこわい、という主張をする人も見かけた。悪いが、ゲイの入団を認めたらロッカールームでケツ掘られる! とかわめいていた連中のことを想像してしまう。
中学校の頃、近所の公園はゲイのハッテン場だから気をつけろ、と言われて、夜に通るときなんかはビクビクしていたが、冷静に考えたらあれは差別だよな。
こわいと思うのは仕方ない、生理的反応だもの。それこそ、ゲイを見てうわキモッと内心で思ってしまうことまで止めることはできない。
でもそれを公共圏に持ち出して特定の集団を差別していいはずがない。
というか公共圏じゃなくても、差別的な反応は内省した方がいいし、内省しないにしてもせめて表に出さない方がいい。もうちょっと自由主義的にいうなら、出してもいいけど、出すなら差別者だと馬鹿にされることを覚悟してね。
何度も言うけど、実在の子どもへの性虐待とか、もっと広範に、立場が上の者、権力を持っている者からの虐待やハラスメントは積極的に罰していくべき、あるいは重罰を科すべき、という主張なら賛同する。