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はてなキーワード: 日清戦争とは

2024-03-03

スキーム通信社

日清戦争日露戦争で、日本は順調に勝利していた

その時代に栄華を極めた大手通信社・・・それは帝国通信社であった

しかし、ドイツフランス通信社契約したところ

1929年・・・外電サービス陰謀が張り巡らされた

帝国通信社・・・英語ソースが得られなくなり破産消滅

 

その後の報道は、電通と国通(APロイター新聞聯合)が仕切ることになった

満州事変が発生し、軍事政権報道規制を計画した

電通と国通は抵抗を見せたが合併させられ・・・

1936年同盟通信社誕生!(6月1日) 盧溝橋事件発生!(7月7日

日中戦争から敗戦に向けて突っ走る!

外電をほぼ独占したロイタードル箱となった日本

 

と、軍部英米通信社が、とても上手く癒着しています陰謀論)

2024-02-29

日本凄い(うんある意味な)

例えば麻生

日本政府日露戦争で戦費を海外から借金したが英米銀行団ジェイコブへの完済は1986年。

大戦を経て80年、どれだけ時間がかかっても返した、これが信用だ、日本凄い

 

こーゆー談話や言説はよく見る

日本人は愚直で誠実で勤勉で真面目だと

 

うん、ウソです

担保徴税権、関税から踏み倒す選択がなかっただけです。

デフォルトしたら直ちに税関職員イギリス人と交代。

そりゃ払うわ

 

さなくてもいいものゴリ押しで返してません。

一つは軍票

日本戦前戦中に正貨流出抑制するため莫大な軍票を発行し外地における支払いに充てた。

記録に残るものだけでざっくりと国家予算25年分も乱発したわけだが、これ一円も償還してません。

担保はなく銃で脅して相手に受け取らせたものから

 

一円も返してないんだぜ、笑うしか無い

 

日本政府の建前としては、戦後賠償でまとめて払う、払った、なんだが。

日本が支払った戦後賠償は10億USD

国家予算0.4年分

当時の国家予算が1兆円でもっとも額の大きいフィリピンに対して1900億円

 

うん、ぜんぜん計算合わないね

 

ちなみに、日清戦争では日本は1万人の戦死者を出して、その賠償請求として中国(清)から国家予算4.5年分の賠償をもぎ取った

 

19世紀、世界植民地争奪戦を行った。

搾取してボロ儲け。

ところが日本以外の先進国では第一次世界大戦以降に雲行きが変わった。

失われた世代言論メディアウェーブに乗った。

人権意識の高まり

有色人種犬猫と同じ、動物人権付与する必要はない、という旧来のロジックはもはや維持不可能だった。混血児ガンガンまれてるし。

植民地住民にも人権付与しなければならない、社会インフラを整備し教育を施し。

ボロ儲けが一転してお荷物になった。

イギリスは20世紀初頭から植民地を切り始めた、勝手独立せぇ、連邦に残りたけりゃ残してやるが国家運営は自分たちで好きにしろ中東は続々離脱

アメリカも同じ、フィリピンから大量の人や廉価な農作物アメリカ本土侵食し始めた。

同じ国内という建前だから関税やら人の移動への制限はかけられない。

 

まらん、つーことで、1934年にフィリピンを切ることにした、アメリカ議会でフィリピン独立法成立、大統領署名

フィリピン独立政府フィリピン憲法発行したらその10年後に国家独立、延長は無し、というもの

翌年1935年にフィリピン準備政府フィリピンコモンウェルス憲法)発行、州政府発足、10年後に国家独立確定。

この州政府独立性はアメリカ合衆国の「州」よりも高い自治権が設定されている。

アメリカの州というのはほぼ国家、合衆

今でも大麻厳罰の州と完全フリーの州があるよね

 

フィリピン政府国家独立に向けて様々な政策を決めた

争いが嫌いなフィリピン人、フィリピン政府国防方針中立化と定めた。

「お互い戦争は無しな」という相互条約を結んで安全保障する。

軍事力国家リソースを割く余裕が無い後発国はこの選択しか無い。

フィリピン軍事力を最小限にした。

でも植民地でしょ?どうせ傀儡でしょ?

現在英連邦所属するカナダカナダ軍の統帥権カナダ最高司令官)はイギリス国王なんだが、

誰がこれを植民地だ、傀儡だというのか。言わねぇ

当時のフィリピンの国際収支を見てもアメリカ傀儡搾取痕跡ゼロです。

 

ってところに1941年、皇軍は「可愛そうなフィリピンを救ってあげる、大東亜」で軍事侵攻

抵抗する軍事力が無いフィリピン政府は秒で「Open City」(非武装都市宣言)の無条件白旗

当時フィリピン人口は3000万人、殺しに殺して111万人を殺し

米軍砲撃によるものだと言うアホがいるが、日本軍事侵攻しなけりゃ米軍フィリピン砲撃しねぇわバカと先に答えておく)

日本は二年間フィリピン傀儡したが、フィリピン人口統計はこの二年間だけ見事に欠落している、資料が残ってない、誰が燃やしちゃったんだろね。

国家の基礎資料すらもすべて燃やして撤収した皇軍

 

さて、111万人の死者被害に対して日本の支払った賠償は?

国家予算0.2年分

 

日清戦争は1万人で4.5年分

 

うん、全然計算合わないね

 

日清戦争戦後賠償では、中国の「払えない、待ってくれと、勘弁して」の訴えに軍艦を横付けして脅した

巨額の賠償金が払えるわけはなく清は消滅した。

日本学校ではイギリス中国人をアヘン漬けにして滅亡させた、とミスリードを誘う教育をしている。

 

第二次世界大戦賠償交渉日本は「わいら焼け野原、みてこれ、空爆されてなにも残ってない」

当時は衛星写真など無い、地上から撮影空撮しかなく選別切り取りが容易。

 

日本人は戦後焼け野原から奇跡復興日本人凄い、と誇るが

 

うん、ウソ

そもそも焼け野原になってない

焼かれたのはせいぜい下町町工場復興が容易いもの

米軍重工業を見事に攻撃から外してるの、

米軍はすでに制空権取ってるから低高度からの精密爆撃ができた。

北九州下町焼け野原になったが八幡製鉄所は無傷

釜石の高炉は古いものだけ破壊され最新の高炉は戦後すぐに復旧している。

これは経済工業統計でも明らかで日本工業力は戦争で3-4割しか毀損していない。

ちなみに日本戦後工業統計戦時被害公式に集計し発表したのは賠償の7割を占めるフィリピンとの講和条約締結後の昭和31年から

アメリカ政府意図は早期に復興させてうまい汁を吸う気だったからね、案の定

 

アメリカ戦後利権を独り占めするために焼け野原写真世界にばらまいた。

広島長崎撮影用に原爆投下されたのだ。

そりゃあの写真みればこりゃダメだと思うわね、宣材なんだよ

案の定大国は手を引いて賠償請求権を放棄した

 

日本四季があって水道水が飲めて天皇統治して国民清廉潔白高潔

 

うん、ウソです

二季しかなく、水道水放射能とPFASで汚染され天皇戦争責任を負わず居座り国民居直り

 

なんか反論ある?w

2024-02-22

富士山標高日本一の座が新高山に奪われたとき人々はどう思ったのだろう

霊峰富士日本一じゃなくなるなんて、なんか残念な気がする」と思った人がきっといたんじゃないか

それを確かめるために、日清戦争終結後に書かれた新聞とか本とかをここ数日漁っていた

Googleでもいろいろ検索ワードを変えながらぐぐっていたが思うように見つからなかった

新高山が日本一の山だったころの富士山の扱いはどうだったのでしょうか?... - Yahoo!知恵袋

回答(1件)

暗号」であれば「富士山ではバレバレ!」。

こらっ!まじめに回答しなさい

もし日本のあの山が富士山より高かったら - Chakuwiki

このサイトはなかなか面白い考察をまとめたwikiだが、今欲しい情報は載っていなかった

富士山が日本で一番高い山でなかったら人々の思いや富士山の立ち位置はどうなりますか? | Quora

自分の持つ疑問と近い内容だが、実際に新高山日本一になった際に当時の人がどう思っていたかというエビデンス提示されていないようだ

しかし、やっと一件見つけた

【1897年】富士(明治30年)▷富士より高い台湾の新高山(現・玉山) | ジャパンアーカイブズ

吾々は當時新しい名山を得たる喜びと又今迄日本一を誇つた富士に引けを取らせた口惜しさとが混合して妙な気持がしたこと子供心に覚えて居る。

これだよこれ、欲しかった情報は!

やっぱりフクザツな気分になる人もいるよね

ああ、疑問が解決してすっきりした

……敗戦後に富士山が再度日本一になった時に人々がどう思ったか資料を探すか?

いや、それはやめておこう、断念

実際併せて調べていたけど全然見つからなかった

日記

2024-01-26

金光翔 『<佐藤優現象批判

インパクション』第160号(2007年11月刊)掲載

目次

1.はじめに

2.佐藤優右派メディアでの主張

 (1)歴史認識について

 (2)対北朝鮮外交について

 (3)朝鮮総連への政治弾圧について

3.佐藤優による主張の使い分け

4.佐藤優へ傾倒する護憲派ジャーナリズム

5.なぜ護憲派ジャーナリズム佐藤を重用するのか?

 (1)ナショナリズム

 (2)ポピュリズム

 (3) 格差社会

 (4)「硬直した左右の二項対立図式を打破」―〈左〉の忌避

6.「人民戦線」という罠

 (1)「ファシズム政権樹立」に抗するために、人民戦線的な観点から佐藤擁護する

 (2)「論壇」での生き残りを図るために、佐藤擁護する

7.「国民戦線」としての「人民戦線

8.改憲問題と〈佐藤優現象

9.「平和基本法から佐藤優現象〉へ

10.おわりに

1.はじめに

 このところ、佐藤優という人物が「論壇」を席巻しており、リベラル左派系の雑誌から右派メディアにまで登場している。

 だが、「論壇の寵児」たる佐藤は、右派メディア排外主義のものの主張を撒き散らしている。奇妙なのはリベラル左派メディアが、こうした佐藤の振舞いを不問に付し、佐藤を重用し続けていることにある。

 佐藤による、右派メディアでの排外主義の主張の展開が、リベラル左派によって黙認されることによって成り立つ佐藤の「論壇」の席巻ぶりを、以下、便宜上、〈佐藤優現象〉と呼ぶ。この現象意味を考える手がかりとして、まずは、佐藤による「論壇」の席巻を手放しに礼賛する立場記述検討からはじめよう。例えば、『世界』の編集者として佐藤を「論壇」に引き入れ、佐藤の著書『獄中記』(岩波書店、二〇〇六年一二月)を企画編集した馬場公彦(岩波書店)は、次のように述べる。

 「今や論壇を席巻する勢いの佐藤さんは、アシスタントをおかず月産五百枚という。左右両翼の雑誌寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない。」「彼の言動共鳴する特定編集者と密接な関係を構築し、硬直した左右の二項対立図式を打破し、各誌ごとに異なったアプローチ共通の解につなげていく。」「現状が佐藤さんの見立て通りに進み、他社の編集者意見交換するなかで、佐藤さんへの信頼感が育まれる。こうして出版社カラーや論壇の左右を超えて小さなリスク共同体が生まれ編集業を通しての現状打破への心意気が育まれる。その種火はジャーナリズムにひろがり、新聞社会面を中心に、従来型の検察官邸主導ではない記者独自調査報道が始まる。」「この四者(注・権力民衆メディア学術)を巻き込んだ佐藤劇場が論壇に新風を吹き込み、化学反応を起こしつつ対抗的世論公共圏形成していく。」

 馬場見解の中で興味深いのは、〈佐藤優現象〉の下で、「硬直した左右の二項対立図式」が打破され、「論壇」が「化学反応」を起こすとしている点であるある意味で、私もこの認識を共有する。だが、「化学反応」の結果への評価は、馬場と全く異なる。私は、これを、「対抗的世論公共圏」とやらが形成されるプロセスではなく、改憲後の国家体制に適合的な形に(すなわち、改憲後も生き長らえるように)、リベラル左派が再編成されていくプロセスであると考える。比喩的に言えば、「戦後民主主義体制下の護憲派が、イスラエルリベラルのようなものに変質していくプロセスと言い替えてもよい。

 以下の叙述でも指摘するが、佐藤は対朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮武力行使在日朝鮮人団体への弾圧必要性を精力的に主張している。安倍政権下の拉致外交キャンペーンや、一連の朝鮮総連弾圧に対して、リベラル左派から批判や抗議の声はほとんど聞かれなかったのは、「化学反応」の典型的ものである。「戦後民主主義」が、侵略植民地支配過去とまともに向き合わず在日朝鮮人に対してもせいぜい「恩恵」を施す対象しか見てこなかったことの問題性が、極めて露骨に出てきていると言える。〈嫌韓流〉に対して、リベラル左派からの反撃が非常に弱いことも、こうした流れの中で考えるべきであろう。

 私は、佐藤優個人は取るにたらない「思想家」だと思うが、佐藤右派メディアで主張する排外主義を、リベラル左派容認・黙認することで成り立つ〈佐藤優現象〉は、現在ジャーナリズム内の護憲派問題点を端的に示す、極めて重要な、徴候的な現象だと考える。

 馬場は、佐藤が「左右両翼の雑誌寄稿しながら、雑誌の傾向や読者層に応じて主題文体を書き分け、しかも立論は一貫していてぶれていない」などと言うが、後に見るように、佐藤は、「右」の雑誌では本音を明け透けに語り、「左」の雑誌では強調点をずらすなどして掲載されるよう小細工しているに過ぎない。いかにも官僚らしい芸当である佐藤自身は自ら国家主義であることを誇っており、小谷野敦言葉を借りれば、「あれ(注・佐藤)で右翼でないなら、日本右翼なんか一人もいない」。

 佐藤が読者層に応じて使い分けをしているだけであることは誰にでも分かることであるし、事実ウェブ上でもブログ等でよく指摘されている。そして、小谷野の、この現象が「日本知識人層の底の浅さが浮き彫りになった」ものという嘲笑も正しい。だが、改憲派の小谷野と違い、改憲を阻止したいと考える者としては、この現象について、佐藤優に熱を上げている護憲派を単に馬鹿にするだけではなく、〈佐藤優現象〉をめぐって、誰にでも浮かぶであろう疑問にまともに答える必要がある。なぜ、『世界』『金曜日』等の護憲派ジャーナリズムや、斎藤貴男魚住昭のような一般的には「左」とされるジャーナリストが、佐藤に入れ込んでいるのか? なぜ、排外主義を煽る当の佐藤が、『世界』『金曜日』や岩波書店朝日新聞出版物では、排外主義ナショナリズムの台頭を防がなければならない、などと主張することが許されているのか?

 この〈佐藤優現象〉はなぜ起こっているのか? この現象はどのようなことを意味しているのか? どういう帰結をもたらすのか? 問われるべき問題は何か? こうした問いに答えることが、改憲を阻止したいと考える立場の者にとって、緊急の課題であると思われる。

2.佐藤優右派メディアでの主張

 まず、佐藤排外主義的主張のうち、私の目に触れた主なものを挙げ、佐藤排外主義者としての活躍振りを確認しておこう。

(1)歴史認識について

 佐藤は言う。「「北朝鮮が条件を飲まないならば、歴史をよく思いだすことだ。帝国主義化した日本ロシアによる朝鮮半島への影響力を巡る対立日清戦争日露戦争引き起こした。もし、日本ロシアが本気になって、悪い目つきで北朝鮮にらむようになったら、どういう結果になるかわかっているんだろうな」という内容のメッセージ金正日に送るのだ」。朝鮮植民地化に対する一片の反省もない帝国主義者そのもの発言である。また、アメリカ議会における慰安婦決議の件に関しても、「事実誤認に基づく反日キャンペーンについて、日本政府がき然たる姿勢反論することは当然のことだ。」と述べている。

 特に大川周明テクスト佐藤解説から成る日米開戦真実大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、二〇〇六年四月)では、極めて露骨に、日本近現代史に関する自己歴史認識開陳する。以下、引用する。佐藤が自説として展開している部分である

 「日本人は(注・太平洋戦争)開戦時、少なくとも主観的には、中国アメリカイギリスによる植民地支配から解放したいと考えていた。しかし、後発資本主義である日本には、帝国主義時代の条件下で、欧米列強植民地になるか、植民地を獲得し、帝国主義国となって生き残るかの選択肢しかなかった。」(三頁)、「「大東亜共栄圏」は一種棲み分け理論である日本人はアジア諸民族との共存共栄真摯に追求した。強いて言えば、現在EUを先取りするような構想だった。」(四頁)、「あの戦争を避けるためにアメリカ日本妥協を繰り返せば、結局、日本アメリカ保護国、準植民地となる運命を免れなかったというのが実態ではないかと筆者は考える。」(六頁)、「日本武力によって、列強による中国の分裂が阻止されたというのは、日本人の眼からすれば確かに真実である。(中略)中国人の反植民活動家の眼には、日本列強とともに中国を分割する帝国主義国の一つと映ったのである。このボタンの掛け違いにイギリスアメリカはつけ込んだ。日本こそが中国植民地化と奴隷支配を目論む悪の帝国であるとの宣伝工作を行い、それが一部の中国政治家と知的エリートの心を捉えたのである。」(二八一頁)。また、蒋介石政権については、「米英の手先となった傀儡政権」(二五七頁)としている。他方、佐藤は、汪兆銘南京国民政府は「決して対日協力の傀儡政権ではなかった」(二四九頁)とする。

 右翼たる佐藤面目躍如たる文章である。ちなみに、こんな大東亜戦争肯定論の焼き直しの本を斎藤貴男は絶賛し、「大川こそあの時代知の巨人・であったとする形容にも、大川の主張そのものにも、違和感を抱くことができなかった」としている。

(2)対北朝鮮外交について

 佐藤は、「拉致問題解決」を日朝交渉大前提とし、イスラエルによるレバノン侵略戦争も「拉致問題解決」として支持している。「イスラエル領内で勤務しているイスラエル人が拉致されたことは、人権侵害であるとともにイスラエル国権侵害でもある。人権国権侵害された事案については、軍事行使も辞せずに対処するというイスラエル政府方針を筆者は基本的に正しいと考える」。さらに、現在北朝鮮ミュンヘン会談時のナチス・ドイツに準えた上で、「新帝国主義時代においても日本国家日本人が生き残っていける状況を作ることだ。帝国主義選択肢には戦争問題解決することも含まれる」としている。当然佐藤にとっては、北朝鮮の「拉致問題解決」においても、戦争視野に入っているということだ。『金曜日』での連載においても、オブラートに包んだ形ではあるが、「北朝鮮に対するカードとして、最後には戦争もありうべしということは明らかにしておいた方がいい」と述べている(10)。

 さらに、アメリカが主張してきた北朝鮮米ドル札偽造問題が、アメリカ自作自演だった可能性が高いという欧米メディア報道に対して、佐藤は「アメリカ政府として、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』の記事に正面から反論することはできない。なぜなら、証拠を突きつける形で反論するとアメリカ情報源情報収集能力が明らかになり、北朝鮮を利してしまうからだ」(11)と、いかなる反証根拠も示さずに(反証必要性を封じた上で)、「北朝鮮情報操作」と主張しているが、この主張は、保守派原田武夫にすら否定されている(12)。佐藤現在右派メディアの中でも最も「右」に位置する論客の一人であると言えよう。

(3)朝鮮総連への政治弾圧について

 佐藤は、「在日団体への法適用拉致問題動く」として、「日本政府朝鮮総連経済活動に対し「現行法の厳格な適用」で圧力を加えたことに北朝鮮逆ギレして悲鳴をあげたのだ。「敵の嫌がることを進んでやる」のはインテリジェンス工作の定石だ。/政府が「現行法の厳格な適用」により北朝鮮ビジネス利益を得ている勢力牽制することが拉致問題解決のための環境を整える」と述べている(13)。同趣旨の主張は、別のところでも述べている(14)。「国益」の論理の下、在日朝鮮人の「人権」は考慮すらされてない。

 漆間巌警察庁長官(当時)は、今年の一月一八日の会見で、「北朝鮮が困る事件摘発拉致問題解決に近づける。そのような捜査に全力を挙げる」「北朝鮮日本交渉する気にさせるのが警察庁仕事。そのためには北朝鮮資金源について事件化し、実態を明らかにするのが有効だ」と発言しているが、佐藤発言はこの論理と全く同じであり、昨年末から激化を強めている総連系の機関民族学校などへの強制捜索に理論根拠提供したように思われる。佐藤自身も、「法の適正執行なんていうのはね、この概念ができるうえで私が貢献したという説があるんです。『別冊正論』や『SAPIO』あたりで、国策捜査はそういうことのために使うんだと書きましたからね。」と、その可能性を認めている(15)。

3.佐藤優による主張の使い分け

 排外主義者としての佐藤の主張は、挙げ出せばきりがない。前節で挙げたのも一例に過ぎない。では、佐藤は、こうした主張を『世界』『金曜日』でも行っているのだろうか。

 佐藤が仮に、「左」派の雑誌では「右」ととられる主張を、「右」派の雑誌では「左」ととられる主張をすることで、「硬直した左右の二項対立図式を打破」しているならば、私も佐藤をひとかどの人物と認めよう。だが、実際に行われていることは、「左」派メディアでは読者層の価値観に直接抵触しそうな部分をぼかした形で語り、「右」派メディアでは本音を語るという下らない処世術にすぎない。「左右の二項対立図式」の「打破」は、「左」の自壊によって成り立っているのだ。佐藤が『金曜日』と右派メディアで同一のテーマを扱った文章を読み比べれば、簡単にそのことはわかる。

 一例として、米国下院での「慰安婦」決議に関する佐藤の主張を読み比べてみよう。産経新聞グループサイト上での連載である地球を斬る〉では、「慰安婦問題をめぐるアメリカ報道を「滅茶苦茶」と非難し、「慰安婦問題に関する二〇〇七年三月一日の安倍発言についても「狭義の強制性はなかった」という認識なのだから正当だとして、あたかも「慰安婦」決議案自体不正確な事実に基づいたものであるかのような印象を与えようとしている(16)。ところが、『金曜日』では、こうした自分の主張は述べず、国権論者としての原則的立場から日本政府謝罪には反対だとしている(17)。なお、『金曜日』の同文章では「歴史認識を巡る外交問題 Permalink | 記事への反応(1) | 18:32

2024-01-14

東京の人の頭にありそうな避難

栃木福島岐阜愛知もしくは三重畿央 首都移転計画議論がある

広島 日清戦争時に大本営が置かれる

瀬戸内市八女市ソウル 戦時中首都移転計画があったらしい

長野市 本土決戦に備えた地下壕がある

2023-11-23

奥さん」という呼称について

相変わらずジェンダーがどうとかつまらない話が多いので、過去の用例から奥さん」あるいは配偶者呼称についていろいろ考えたいなあ。と思って書きます

勿論、女中などに似ようはないと、夢か、うつつか、朦朧と認めた顔のかたちが、どうやらこう、目さきに、やっぱりそのうつ向き加減に、ちらつく。従って、今声を出した、奥さんは誰だか知れるか。

 それに、夢中で感覚した意味は、誰か知らず、その女性(にょしょう)が、

「開けて下さい。」

 と言ったのに応じて、ただ今、とすぐに答えたのであるが、扉(ひらき)の事だろう? その外廊下に、何の沙汰も聞えないは、待て、そこではなさそう。

「ほかに開ける処と言っては、窓だが、」

 さてはまさしく魘(うな)された? この夜更けに、男が一人寝た部屋を、庭から覗き込んで、窓を開けて、と言う婦(おんな)はあるまい。(「沼婦人泉鏡花、1908(明治41年

奥さん」は、自分配偶者というより既婚女性に対する敬称として用いられています。「女中などではなく」自分夢想する上流階級を思わせる女性奥さん)が誰か分からないが、夜更けに訪ねてきた「女性(にょしょう)」は普通の「婦(おんな)」ではないだろう……という流れですが、この呼び分けは、日本語代名詞の豊かな言語世界垣間見せてくれますね。

奥さん」という語がめちゃくちゃ出てくる小説と言えば、やはり夏目漱石こころ」(1914(大正3年))でしょう。前半では「先生」の妻である静さんの呼称として、後半では先生青年期に下宿していた、静さんの母親呼称として「奥さん」が登場します。この作品は、一人称の語り手による手記の体を(前半後半とも)取っているため、固有名詞を避ける書き方をしており、その結果であると思われます

私はすぐ玄関先を去らなかった。下女の顔を見て少し躊躇してそこに立っていた。この前名刺を取り次いだ記憶のある下女は、私を待たしておいてまたうちへはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。

奥さんらしい人」という表現から、「奥さん」が「配偶者」の意味で用いられていることが感じられます。ただ、自分配偶者を呼ぶ呼び方ではないですね。

 私の知る限り先生奥さんとは、仲のいい夫婦の一対であった。家庭の一員として暮した事のない私のことだから、深い消息は無論わからなかったけれども、座敷で私と対坐している時、先生は何かのついでに、下女を呼ばないで、奥さんを呼ぶ事があった。(奥さんの名は静(しず)といった)。先生は「おい静」といつでも襖ふすまの方を振り向いた。その呼びかたが私には優しく聞こえた。返事をして出て来る奥さんの様子もはなはだ素直であった。ときたまご馳走になって、奥さんが席へ現われる場合などには、この関係が一層明らかに二人の間に描き出されるようであった。

こころ」は新聞連載ですが、奥さんの初登場は先の連載4回目、その後奥さん先生(夫)の重要なシーンである第8回を経て、この第9回で初めて名前が登場します。この作品先生訪問してきた「私」と奥さんが共に食卓を囲むシーンなどが多くあり、この夫妻は大正当時の一般的夫婦関係よりも幾分現代に近い感じで描かれているように思います

次は、「先生」が若いころ、その奥さんの自宅に下宿をしたとき奥さん母親を「奥さん」と読んでいたというシーンの引用です。(中略があります

 それはある軍人家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清戦争の時か何かに死んだのだと上さんがいいました。一年ばかり前までは、市ヶ谷士官学校そばかに住んでいたのだが、厩(うまや)などがあって、邸(やしき)が広過ぎるので、そこを売り払って、ここへ引っ越して来たけれども、無人で淋しくって困るから相当の人があったら世話をしてくれと頼まれていたのだそうです。私は上さんから、その家には未亡人(びぼうじん)と一人娘と下女より外にいないのだという事を確かめました。私は閑静で至極好かろうと心の中に思いました。

(略)

 私は未亡人に会って来意を告げました。未亡人は私の身元やら学校やら専門やらについて色々質問しました。そうしてこれなら大丈夫だというところをどこかに握ったのでしょう、いつでも引っ越して来て差支えないという挨拶を即坐に与えてくれました。未亡人は正しい人でした、また判然(はっきり)した人でした。私は軍人妻君というものはみんなこんなものかと思って感服しました。感服もしたが、驚きもしました。この気性でどこが淋しいのだろうと疑いもしました。

(略)

 私は未亡人の事を常に奥さんといっていましたから、これから未亡人と呼ばずに奥さんといいます奥さんは私を静かな人、大人しい男と評しました。それから勉強家だとも褒めてくれました。けれども私の不安な眼つきや、きょときょとした様子については、何事も口へ出しませんでした。

「上さん」「未亡人」「妻君」「奥さん」は全て同じ人物を指していますが、それぞれの場所ニュアンスが異なることが分かります。それぞれ「下宿屋の女主人」「(夫を亡くした)配偶者」「配偶者尊称)」「既婚女性尊称)」くらいに捉えるのが適切でしょうか。

かみさん奥さんの用例としては、

そういうわけで、私たちは家の主婦奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさん奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。(「白髪鬼」岡本綺堂、1923(昭和3年))

…「下宿屋のおかみさん奥さんと呼ぶのは少し変」という言語感覚から、「おかみさん」「奥さん」の使い分けがくっきりと見て取れて面白い用例ですね。この話は、発表は昭和ですが、岡本綺堂明治まれですし、物語時間10数年前(つまり震災前)という設定ですから言語感覚としては漱石の少し後、大正期の中頃を反映していると言った方が適切かもしれません(まあ、それを言うなら「こころ」の場合、おおむね時代明治期の想定と言えそうですが。)

昭和に入ると、「奥さん」が配偶者を指す呼称としてライトに用いられ始めたように思います。太宰はこういう言葉ちょっとしたニュアンスが本当に上手な作家で、次の用例の言葉の使い分けは非常に印象的です。

奥さま、もうすこしのご辛棒しんぼうですよ。」と大声で叱咤しったすることがある。

 お医者奥さんが、或るとき私に、そのわけを語って聞かせた。小学校先生の奥さまで、先生は、三年まえに肺をわるくし、このごろずんずんよくなった。お医者一所懸命で、その若い奥さまに、いまがだいじのところと、固く禁じた。奥さまは言いつけを守った。それでも、ときどき、なんだか、ふびんに伺うことがある。お医者は、その都度、心を鬼にして、奥さまもうすこしのご辛棒ですよ、と言外に意味をふくめて叱咤するのだそうである。(「満願太宰治、1938(昭和13年))

医者が、夫の体の静養のためにセックス禁止して…というちょっとした掌編なのですが、最初の「奥さま」は、医者患者配偶者である若い奥さんに言い聞かせるとき呼称医者の「奥さん」は医者の(やや年配の)配偶者ニュアンスで用いられていますが、地の文での「奥さま」と「奥さん」の使い分けで、雰囲気表現されているのは実にうまいです。

最後に、呼称という点で、最初に見かけてこれは書き留めておきたい(ぶっちゃけこの記事を書くきっかけになった)のがこちら。

 は水の引くように痩せて、蚊帳の中で死んでしまった。死ぬ前「今度奥さんを貰う時は、丈夫な奥さんを貰ってね」と言った。

莫迦、お前が死んだら俺は一生独身でいるよ、女房なんか貰うものか」

 彼は妻の胸に涙を落しながら言った。その涙をふいている内にふと俺は嘘を言ってるのかも知れないと思った。

 しかし、妻が死んでしまうと、彼は妻に言った言葉を守ろうと思った。死んだ人間に対しては、もう約束を守るよりほかに何一つしてやるものがないのだと思った。

(「蚊帳」織田作之助、(初出が調べられなかったのですが、上の満願より少し後の1940年前後だと思います。))

この3つの呼称の呼び分けを、代名詞豊富でない文化圏の人にどうすれば伝えられるだろうなあ、と思ったりします。

さて、蛇足ながら、このエントリを書いた理由について。呼称代名詞というのは、時代によって変遷し、人の心を映すもの。だから、いろいろな意見議論はあっていいと思いますし、そもそも言葉時代ジェンダー観を反映するというのは、取り立てていう必要もないくらい当たり前のことではありますが、そういった、人々の内心の方を変えるのが面倒だからといって、言葉の方に罪を着せるようにして言葉狩りじみたことをするのは、正直「違うんじゃないかなあ」と思います。人々の心が変化すれば、誰が強制しなくても言葉は廃れ、変化していきます。〇〇という言葉を使うな!なんて言わなくても、それが指す事象が消えたり変化したりすれば、あっという間に言葉は移り変わっていくものです。だから、変えるべきことを人々の総意に基づいて粛々と変えるよう努力するのが重要であって、「言葉狩り」みたいな遊びで何か大きな社会貢献を為したような気分になるのは、正直やめてもらいたいなあ、と思っています。そんな感じのことを感じていただけたのなら、この記事を書いた意味があったというものです。ありがとうございました。

2023-10-14

日本史勉強していても、近現代帝国軍シンガポールフィリピン英米軍を陥落させた所で止まってしまう。それ以降が勉強できない。教科書も読めない。頭が勝手拒否してしまう。

から世界史選択だったし、第二次大戦以降の日本記述があると無意識に読み飛ばししまう。他の教科で稼いだし、配点の多い箇所じゃないから実際の受験では問題なかったけど。

今でも第二次世界大戦中頃以降から日本史は読めないね。関連する映画ドキュメンタリー番組も視聴できない。

開国日清戦争日露戦争まではテンションうなぎ上りだし、そこから朝鮮併合中国理不尽要求突きつけるところとか脳汁どくどくする。だけど、アメリカ圧力艦隊保有制限されて日英同盟解消させられるところでちょっと気分悪くなる。それでもシンガポールフィリピン陥落させたところで脳が回復する。だけどその後を読もうとすると思考ストップし、山下泰文将軍刑死小倉米兵集団脱走事件パンパンに関する記事を読むと完全に脳が破壊される。

2023-08-16

いつまで「戦後」やるの?

そろそろよくね?

ほそぼそとやるのはいいよもちろん

 

 

______

 

バズったから何か書こうかな

年表でも書くか

 

2023年

|(53年)

1970年 沖縄返還

|(25年)

1945年 太平洋戦争終戦

|(4年)

1941年 太平洋戦争

1937年 日中戦争

1931年 満州事変

|(9年)

1922年 シベリア出兵終わり

1918年 シベリア出兵

1918年 第一次世界大戦終戦

|(4年)

1914年 第一次世界大戦

|(9年)

1905年 日露戦争終戦

1904年 日露戦争

色々

1895年 日清戦争終戦

1894年 日清戦争

 

20世紀前半は戦争し過ぎだな

20世紀後半はその後悔の半世紀って感じだったけど

現代もっと現代戦争を学ぶべきだと思うわ

 

比較として地震を持ってこようとして調べたんだけど

災害としての地震ってさ

1896年 明治三陸地震

1923年 関東大震災

1995年 阪神淡路大震災

2011年 東日本大震災

だいぶ飛び飛びなんだよね、昭和割りと奇跡だったんだな

あ、てか関東大震災からちょうど100年か

なんか色々イベントやるらしい、シンポジウムとか

2023-03-25

anond:20230325070220

日清戦争日露戦争のような帝国主義下の戦争で行われた必勝祈願を

現代の国際協調目的だと受け止めてくれって、ちょっと無理があるんじゃね?

2023-03-24

しゃもじ日清戦争でも使われてたそうじゃないか

あっでも中共清朝嫌いだからいいのか

2023-03-23

フィリピン妻と喧嘩したが完敗した

俺も妻もフルタイムで働いている。

4歳の息子がいる。

15時幼稚園引き取りと夕方までのお守りは実家の両親に任せている。

仕事終わりに俺か妻が迎えに行くのが日々のルーチン。

 

その日は実家に妹が子供を連れて帰省していた。

両親は皆で飯を食おうと提案した。

妻は人が集まるとテンションが上がりパーティーモードになる。フィリピン人あるある

俺は上ずった態度の妻を見るのが不愉快で定期的に開催されるこの催しが嫌いだ。

夕方、俺が実家に到着すると息子と妻が神経衰弱をしていた。

俺と息子でやるときも多少のズル(三枚目をめくるとか)は許すが本人の能力に任せている。

そして俺は息子に勝てたことがない。ガチ

子供短期映像記憶に長けているらしい。

俺は3枚以上覚えることができない。まぁそんな話はどうでも良い。

 

妻は全てアドバイスしていた。息子が5を開ける、「5はここよ」みたいな。アホか

神経衰弱になっていない。なんの意味があるゲームなんだ。

息子に勝たせてあげたい、喜びを与えたい意図はわかる、そしてうちの子凄いでしょを見せたいのだろうか。

頭の悪さに呆れた。

過剰サポートしている認識すらないのだろう。ごくナチュラルに全てのカードの当たりを教えているのだ。

俺はうんざりした。

過保護にも程がある。

 

ちなみに一度開けた札を全て記憶している妻は脳みそ幼児のままなのであろう。どおりでバカなわけだ。

 

妻の過保護は半端がない。

フィリピン人全般に見られる傾向で。

特に男の子スポイルする。本人は愛なだけに厄介だ。

俺が嫌われ役、世間の厳しさを教えてやらねばならない。

妻は息子に甘い甘いだけ与える。

はぁ

 

Over protectionをテーマに妻とは何度も喧嘩をした。

私はすでに5人の子(連れ子)を育てたというのが妻の自信の根拠らしいのだが

「でも全員バカじゃん」と舌の先まで出るが流石にぐっと堪えている。

実際全員バカである、上2人の娘は既に結婚子供もいるが、妻からの送金に依存して生活している。

働いていない。日々セックスしてボコボコ子供を作っている。

息子を同じようなヤリチンのアホに育てられても困る。

 

フィリピン人ハーフタレントなどの多くが学校日本人に虐められていたと恨むが、甘やかされて育った文化の違いが大きく影響していると想像している。

妻に子育てを任せたら二の舞いだろう。

 

その日の俺は機嫌が悪かった。

バカ神経衰弱を見ていると不愉快になり食事会に参加せずに一人で飲みに行った。

先に自宅に帰る、風呂の準備をしていたら息子と妻が帰ってきた。

風呂に入れて寝かしつけする。

 

子供が寝付いたのを見計らって妻に喧嘩をふっかけた。

「キミは過保護すぎる、日本人子供に厳しさも教える。それが文化であり日本の強さの根源である

妻が反撃してきた。

 

「黙れ敗戦国二等国民の分際で我々戦勝国国民説教するのか」

 

ぬぐぐぐぐぐ、ムキー

 

「いやまて、日本経済大国伝統歴史がある国だ、俺らの方が上だろJK

 

妻がニヤリとして

経済大国ねぇ、一人当たりの名目GDPは既に27位ではないかアンドラにも負けている、どこだよアンドラって(笑)、つか30年経済成長してない国がナニを言うとるんだ、ワテらも早晩抜かしたるわボケ

 

俺がハフハフして次のセリフに詰まっていると妻は畳み掛けるように

「ここ40年で経済成長率が日本を下回った年は5回しかないんですけどね、ウチら圧勝じゃん」

 

「いやまて、日本には古いお寺とかある」

俺は土俵を替えようと試みた

 

「寺がナンボのもんや、全部中国韓国劣化コピーじゃん、独自文化とか科学的発展とかありましたっけ?」

 

「でもフィリピンにはそういうのないじゃん」

 

「はぁぁぁ、あのねぇ16世紀からスペイン統治されてたのね、カトリックフィリピン国内には豪華絢爛なカトリック教会群があったの、しょぼいやつじゃなくてガチのやつね。全部ぶっ壊されたのは日本戦争に巻き込まれたからなんですけど、残ってたら第一級の世界遺産だったんですけどぉ」

 

「いやそれはアジア西洋支配から開放するための犠牲で」

 

はい日本マニラに侵攻したのいつだっけ?」

 

太平洋戦争が始まったのは1941年だ、真珠湾攻撃と同時にフィリピンに侵攻した、そんなこともしらんのかボケ

 

フィリピンは1935年にすでにコモンウエルスが発効されて平和独立済みですけど?」

 

「いやいやいや、それはフィリピン政府自治独立であって国家独立ではないでしょ?」

 

アメリカ議会立法承認されてアメリカ大統領署名済みのフィリピン独立法、通称タイディングス・マクダフィー法には政府独立から10年以内に国家独立規定されてる、つまりほっといても1945年には国家独立ですけど」

 

「でも傀儡政権アメリカに隷属されてたじゃないか

 

「チミはなにを言うとるんだ?当時のフィリピンアメリカ傀儡されていた証拠あります経済統計を見ても対アメリカ経済収支は圧倒的フィリピン優位で、黒字で、搾取とは真逆で建前上アメリカ領土内で準自国民と認めざるを得ないのでインフラ教育投資本土同等に行わなければならずその恩恵を受けいてるボーナスタイム、お陰で著しい発展してましたがなにか?

そもそも当時のフィリピン政府が隷属されてるから助けてなんてSOSは一切出してませんよね?そもそも合衆国連邦国家において自治準州扱いの地域を隷属とか植民地と捉えるのが政治学的な認識としてナンセンスだわ、カリフォルニア州アメリカ植民地とか言わないでしょ?州政府自治権は合衆国憲法保証されてて、当時のフィリピン政府州政府よりも高い独立性が規定されてたんですけど」

 

「。。。。。。」

 

「で、戦後処理、戦中に軍票強制的に米を買い占められてフィリピンは大量の餓死者を出した、しか終戦と同時に軍票一方的反故平和条約、賠償請求で全部まとめて処理するからと言うて、しか日本が払ったのはわずか5億ドルざっと2000億円、しかも泣きついてきたか金銭賠償ではなく役務賠償で勘弁してやった、当時の日本国家予算が約1兆円。あれれ?軍票国家予算25年分くらい乱発してたよね?全然計算あわなくね?日本人って算数苦手なの?アホなの?まぁ払えないと泣きついてきたからそれで勘弁してやったんだけどね、ちなみにフィリピン人は111万人殺されてるんだけどさ、私の母方のばぁちゃん日本軍に殺されたんだけど、まぁそれはいいわ、ちなみに日清戦争日本が勝って戦死わずか千人に対して清朝から国家予算4年分の金銭賠償をもぎ取って、払えないと泣きついてきたら大砲ぶっ放した下品な国が日本なんですけどぉ、文化品性を口にするのは百万年早いと思いますけどぉ?」

 

「。。。。。でも、アメリカとか欧米いじめから仕方がなく戦争しただけだもん」

 

「なんで虐められたかわかってる?イジメられる方にも問題があるとは思わない?」

 

欧米覇権主義だよ」

 

「違うよ、そんなもん第一世界大戦で終わっとるわボケロストジェネレーション世論に与えた影響を知らんの?

そもそも植民地経営は20世紀初頭に有色人種人間と認め人権付与した時点で終わったの、コロニーに対して本国同等の教育インフラ投資しなきゃ欧米人が標榜する自由だの権利だのロジックが瓦解する、だから赤字しかならなくなった。話を戻して大日本帝国人口飽和の食糧難で領土拡大しか生き残りの道がなくて周辺国にツバつけようとしてたかABCD包囲網で封止しようとした、国土、食料生産限界天然資源リソースなんも考えずにボコボコ産めよ増やせよやったツケじゃん、逆ギレじゃん」

 

「でもフィリピンアメリカ植民地支配されてたのは事実だろ」

 

カナダイギリス連邦植民地か?現在でもカナダ軍の最高司令官統帥権イギリス国王だけど、言いたいことわかる?

まぁそんな話はどうでもいいわ、日本人日本が最高の国だと信じてる、そりゃ国家アイデンティティ自国を愛する気持ちはわかるんだけどね、たとえば10万人あたりの自殺者数、日本が12人に対してフィリピンは0.2人、幸福度フィリピンの方が上なんですけど、ここら説明していただけます?ちなみに10代から40代までの死因トップ自殺なのもOECD加盟国では日本だけですけどね」

 

「。。。。。。」

 

「確かに私達は甘いかもしれない、子供も甘やかして育てる。人生優先順位日本人と違うのは承知しているが、どちらが正しいか、そこ議論しなきゃしょうがなくね?私達は人生は楽しむべきものだと子供に叩き込むの、くじけても必ず誰かが助けてくれる、甘えてもいいってのを教える、そして経済成長率7%、日本は?0%30年?、WHO幸福度調査順位も年々上がってる、日本は年々下がってる、自殺大国、閉塞した社会モラルルールにがんじがらめのストレス社会、そんなもの従順適応してなんの意味があるの?結果にコミットしようよ。確かに学校に通いだしたら文化の違いで苦労するかもしれないけど、それを乗り越えられる強さを信じてる、私は徹底して守るし擁護してあげる、フィリピン人はみんなそうしてる、だからフィリピン人フィリピン二世日本大勢いるけどベトナム人中国人のように半グレ犯罪集団にならない」

 

もはや反論余地がない、完敗、撃沈か

 

「でもでもでも、日本四季があって水道水が飲めるっ!」出た出ました出しちゃいました最終兵器

 

もはや子育て論とは別の議論になっているが勝負は勝たねば負ける

 

フィリピンには美しい海や山、豊かな自然がたくさんありますけど?雪ふるのがそんなに偉いの?」

 

科学技術!これは負けてない」

 

科学はそれが目的なっちゃダメなの、手段なの、人々、国民幸せになるためのツールにすぎない」

 

「だから?」

 

「使いこなせてないでしょって話」

 

「な、なんだよ」

 

日本原発事故起こしたよね?福島。自信満々で絶対安全科学大国だぁって、どっかーん、どれだけの人生を潰したのかしら、不幸にしたのかしら。ちなみにフィリピンにも原発ある、アメリカ押し売りされて、燃料入れたら今すぐ発電できる原発がある、1976年完成のバターン原発、でも半世紀稼働させてない。今でも電力不足に悩まされてるフィリピンには貴重なエネルギー源、動かしていたら経済発展は別の形になってかもしれない。第二次産業がほぼ無いのがフィリピンだけど、それらも育っていたかもしれない、だけど動かしてない、科学的にヤバい判断して核燃料を入れなかった、一度入れたら終わりだから地熱などの自然エネルギーを大切に使った、だけど第二次産業を育てなかったのは今となっては奏功して、日本のように第二次産業収束させて第三次産業移転させる社会負担、手間とコストがなく、フィリピン世界で唯一第二次産業の発展期を経ずに第三次産業が育った、成長に時間はかかったけど超効率的理想的な成長モデル評価されている、政治経済の成果じゃない?日本第一次産業、第二次産業ゾンビをもはや殺すこともできず、生産頭打ち社会変化の拒否感が蔓延してる、科学の正しい使い方をしてるのはどちらかしらね、わかったかパサワイタラガ、あぁあとH3打ち上げ失敗おめでとうございます

 

「うるさいうるさい黙れ、もう歯磨いて寝る」

 

だれかぁ妻を論破してくれよぉ

2023-03-21

anond:20230321045834

幕府領地接収して、官僚の恩給にする計画があったからとしか

  

1 徳川は、オランダ東インド会社支援で各藩の鉱山を幕領とし(リーフデ号)、金銀銅の輸出によって体制を維持していた

2 オランダ英蘭戦争の結果、国力が衰退し、1804年には仏ナポレオン占領された(江戸幕府はそれで仏軍軍事顧問にした)

3 1814年、仏ナポレオン政権崩壊し、英独が復活

4 1840年イギリス硫黄を巡ってイタリア海上封鎖を試みて勝ったが、日本とも貿易をしたかった

6 幕府鎖国体制でいたので黒船攻撃させ、各藩の貿易規制も緩和させた

7 ただ幕府と各藩主条約したとしても、幕府が倒されて政権が変われば条約破棄もされかねない、それならいっそ、幕府が倒れても条約継続する天皇制にしてもらいたい

8 イギリス日本駐在英字新聞社を通して天皇制必要を解き、支持藩を増やした(英国策論)

9 どこかの藩が外国船を攻撃したりするので、幕府海軍増強に務めるが、米大統領リンカーン軍艦の輸入を止められてしま

10 薩長天領石高400万石を使って官吏軍人の恩給制度を作る計画をたて、公家を味方につける

11 問題天領にいる旗本会津などの佐幕派は、徳川引退しても利権を離さないに違いない、できれば根絶やしにしたい、あとロシアが近い蝦夷にも兵をおいて天皇管轄にしておきたい

12 1967年11月に大政奉還が行われたが、倒幕派はしつこく放火などで騒動をおこし、それに対し幕府薩摩藩邸焼き討ちで報復

13 新政府徳川慶喜にも難題を押し付けて蜂起させたうえ、死罪1名に付き一家3名死罪とする刑法を作った

14 幕府の軍で警察でもあった会津藩などは当然に反発し戊辰戦争が拡大するが、幕府側には仏兵、新政府側には英米兵も従軍し、はんば代理戦争となった、軍事物資もかなり輸入された

15 佐幕派は敗北し、新設の東京裁判所は首謀者らを一家死刑にして勢力を削ぎ、ゲルマン利権を確保(そのあとで刑法を穏健なもの改正

16 1874年には大久保ドイツから明治通宝印刷機を購入し、新札を元手にのちの西南戦争鎮圧

17 木戸1975年から本当に公家軍人官吏の恩給制度を作りはじめ(現代の1.5兆円ぐらいがかかった)、そのことで農民搾取されるようになった(パウルマイエット談)

18 鉱山新政府側の人間乗っ取り、新たに家督優遇相続制度が作られ、二男三男は工場労働者兵隊になり、貧しい農村の娘は売られ、地方中央格差は拡大

19 天皇ガーター勲章を与えたイギリスのために日清戦争日露戦争もしたが、現地には入院施設も準備されず、負傷者は赤十字神戸丸で佐世保海軍病院まで連れ戻されていた

 

官僚給料が高いのも、真っ黒い歴史の口止め料かなと思いますよね

2023-02-08

78年国恥、帝国は再び蘇る

1868年までの日本では、銭湯には三助という名の男娼と春を売る娼婦が溢れ、性病同性愛病などの性的倒錯蔓延特権階級は保身と自己利益のみを追求し、庶民歌舞伎落語浮世絵などありとあらゆる享楽に耽っていた。男親は責任放棄し、母親は子を持ちながら色欲に塗れていた。農村では子供が売られる。

明治の世になっても日本民衆は「働き手が減るから学校にはやりたくない。兵隊にもやりたくない。税金も納めたくない」と醜く駄々をこねた。しかし、優秀な官吏の働きや優れた教育制度によって日本民衆は徐々に「公の精神」を取り戻し、御一新から30年も経たない日清戦争の際には人々が陛下の姿に倣い国家に進んで寄進し「帝国万歳」の声が列島中に響いた。

2023年現在日本家族も子も持たず老いた親は施設に捨てる者、自分の子を育てるための金を国家に集る親、親を敬わない子供性的倒錯に耽る者が街に溢れている。コロナウイルス蔓延時には我先に予防接種を受けようと基礎疾患を恥とも思わず「俺は基礎疾患があるから先に摂取させろ」と叫ぶ恥知らずもいた。陛下パレードでお乗りになる車の費用ケチをつけるような国賊も我が物顔で通りを闊歩している。

しかし、志のある者が例え少人数でも国家を憂いて行動すれば30年もせずに帝国は再び蘇ることができる。現在、妻が長男出産を控えているが、息子が国家に誇りを持ち、友人たちと国に奉仕し、それを支えてくれる慎み深い淑女と結ばれるような国にして行きたい。

2022-10-24

anond:20221024085739

明治天皇「(よかった、日清戦争日露戦争のことは全員わすれてくれてるみたいだ)」

2022-08-18

[]

中央公論平成26年9月号に戸部良一帝京大学教授が「日本は何のために戦ったのか 戦争理念と『政治戦』」と題して、大東亜戦争について書いておられます。とてもいいと思いました。

開国来日外交英米という二つのアングロ・サクソン国との関係を基軸に、これら二国との関係を調整することを基本にして、外交政策をつくってきました。東アジアから欧米諸国駆逐し、自分東アジア盟主になるというような政策をとったことは、一度もありません。日本歴史外交史を読めば、簡単なことです。

 

では、「あの大東亜太平洋戦争は?」 となるかもしれません。「自衛戦争」と無理してこじつければ、そう言えない部分もないこともないでしょうがしかし、ろくな外交をしないでおいて、つまり戦争を避けるような外交をしないでおいて、追い込まれ、「ハイ自衛のためです」の主張には、賛成しかます。 かと言って、アメリカは完全に日本との外交交渉に誠実であったとはいえません。

極東軍事裁判判決のようなアメリカの言い分が100%正しいわけではありません。連合国側が広めたこ理屈世界に流布していて、こまります。かといって、日本が100%正しかったという主張にも、うなずけません。もし、軍部とくに陸軍があれほど政治横槍をおさなかったなら、日本外交アメリカ戦争などをしていないでしょう。中国問題をかたずけていたでしょうし、ドイツとの同盟なども結んでいなかったでしょう。陸軍自己メンツのために日本犠牲にしたのです。

 故リチャード・ストーリという有名なイギリス日本史家は、「日本外交明治以後優秀であり、軍部が口出ししていなかったら、あんなことにはなっていない」と言っています。こうした国際的規模の大きな誤解のもとは、ナチドイツ日本を同じものとして考えるからです。

まったく異なった二国の外交説明させて下さい。

 日本中国戦争をする意思はなく、また昭和12年に偶発し拡大する中国との争いをやめ、中国から兵を引きあげたかったのです。ましてや、アメリカとの戦争などは、ぜひとも避けたかったのです。アメリカドイツとは戦争がしたく、それゆえ当初は日本との戦争を避けたかったのです。

 日本は大いなる野望ともち、まず中国との戦争からはじめていき、やがてその野望達成の必要ナチドイツ同盟を結び、ドイツ欧州を、日本東アジア全部を支配するため戦争をした。日本については間違いの解釈をしていますアメリカ正義保安官で、町の秩序をみだす日本という悪漢二丁拳銃で打倒したという西部劇です。

専制全体主義国家暴力脅迫と大虚偽宣伝にみちあふれていました。日本は違います。)

 日本の「鬼畜米英」は戦争が始まってから言い出された言葉で、最初鬼畜米英の考えがあって、その考えにしたがって政策目標が作られ実行されたわけではありません。国民の間には英米への強い好意がありました。東アジアでは、日本もっと英米への好意が強かった国でしたし、今でもそうではないかとと思います

 

 昭和12年(1937年7月7日盧溝橋での偶発些細な事件では、日本中国も拡大する意図はなく、そのまま停戦して終わりにしたかったのです。しかし、日中双方の停戦意図にもかかわらず、拡大し、大げんかになり、ついにアメリカとの戦争になりました。

アメリカとの戦争になるまで、つまり昭和16年12月まで、4年と5か月もありますアメリカ戦争したければ、もっと早く、対中戦争で体力を消耗するまでに始めています。なぜそんなに待つ必要があったでしょうか。また、もしそうならば、対米衝突を避けるために、日本が提議して日米交渉などする必要もありません。日本中国全土を占領しようとか、東アジアから英米勢力駆逐するというような、大それた考えや予定などもっていませんでした。東南アジア植民地解放しようという崇高な考えで戦争をしたのではありません。対米関係悪化し、アメリカから経済的に締めつけられ、南方天然資源のほうに眼が向いていったのです。最終的に南方天然資源確保のために英米仏蘭と戦い、これらの地域から英、仏、蘭を追い払いました。その結果、戦後これらの国々がふたたびその植民地支配者として帰ろうとしましたが、東アジアの人々の激しい抵抗あい不可能になりました。

 もし、こうしたことがなかったなら、アジアの国々の解放は、フィリピンは別かもしれませんが、ずっと遅れていたのは間違いありません。

ライシャワーも「ザ・ジャパニーズ」で書いていますが、日本東アジアにあって他の国々と違う国なのです。理由歴史的経験の違いです。東南アジアの国々と、歴史上たえず専制国家であった中国とそれを手本とした朝鮮韓国と、封建制度を発達させた分権的な、しかしながら、統一された社会としての日本という経験の違いがあります。また西洋帝国主義の挑戦にいちはやくうまく応じて独立を維持した日本という違いがあります。また明治以後日本だけ豊かになり、敗戦後もいちはや日本だけいちはや復興しそのうえ豊かになった日本という違いがあります。また戦後一時的占領のぞくと、西洋諸国植民地になったという経験ももちません。ヴェトナムインドネシアビルマなど、植民地になった国々と人々がどんなにみじめな政治生活を強いられたかという、経験したことがありません。

 日米交渉において、アメリカから経済的に締めつけられと書きましたが、こう書くと、「じゃあ、悪いのはアメリカだ」という意味でもありません。そこには交渉過程における相互のやり取りというものがありますアメリカとしては、そうでなかったら取りにくかっただろう強硬な手をうつことができたからです。

イギリスフランスオランダとしては、日本に負かされ、かつ植民地を失い、大変不愉快だったでしょう。

 

なお、日本南方天然資源確保・・・といいましたが、ナチ東欧ソ連一方的に襲いかかりました。日本はそんなことしていません。万一アメリカから資源買いつけに支障が出た場合にそなえて、事前にオランダ商業ベースでの購入をのぞみ交渉をしています。この交渉はまとまりませんでした。

 万が一のインドネシアへの進出のため、また英米中国援助の道を封鎖するため、フランスとはヴェトナムへの進駐を考えて交渉します。この交渉には軍事的圧力をちらつかせ貫徹しますが、これにたいしアメリカ石油輸出禁止在米資産の凍結という厳しい手段でこたえます。このアメリカの予想外の反応に近衛はびっくり仰天。そこでルーズベルト大統領との直接会談提案します。それは軍部が対米交渉障害になっているから、軍部の頭越しに話し合い、交渉をまとめよう考えたからです。この直接首脳会談には、アメリカハル国務長官などが強く反対し、この提案拒否します。

なんで日本が好んで戦争をしたと言えるでしょう。

 

 さて日中戦争ですが、これが中国で拡大し、英米との雲行きがあやしくなり、対決を避けようとして、対米交渉を提議し、日米交渉ワシントンで開始します。その交渉がまとまらなかったのは、日本にも大きな責任がありますしかし、「それは日本だけの責任だ。アメリカは悪くない」と一般に考えれていますが、これは大間違いです。ハル国務長官の態度にもみられるように、アメリカにも大きな責任がありますハル国務長官には、アメリカ学者にも同じ意見がありますが、「だいたい戦争を避けるため、日本との交渉をまとめるつもりがあるのですか」と言ってもいいぐらいのところがありました。

 日本昭和はいると、右翼的国粋主義の風潮も強くはなりますが、ドイツとは違い、多くの組織が併存しており、どの一つの組織も他の組織を圧倒するとか、ましてや他の組織を滅ぼしていくということはありませんでした。そのときそのとき事情や都合で、ある組織あるいは政治勢力意見が強まったりまったりしていました。日本場合は、偶発戦が拡大していくにつれ、その戦争遂行戦時体制ができ、陸軍要望が聞き入れられていき、陸軍が威張ったのです。決して陸軍は他の組織を吸収したわけではありません。一部の軍事費のぞくと、法案予算案もすべて国会を通過しなくてはなりませんでした。そういう意味国会機能していたのです。意外だと思われるかもしれませんが、軍部議会世論を気にしていたのです。

 

陸軍に反対したからといって、消されるとか、強制収容所おくりになるということはありませんでした。強制収容所もないし、ゲシュタポなどの恐ろしい暴力警察もありませんでした。日常生活については、もっと具体的なものを当時の新聞とか記録とか小説などで、実際の日本人の日常暮らしを知る必要があると思います。(たとえば田辺聖子小説や思い出。向田邦子小説芹沢光治良の「人間運命」も面白い本です。)

 日米交渉の難点の一つは、中国から撤兵問題でした。陸軍も東条も中国から撤退はするが、それには二、三年は必要だと言い張ったのです。ナチと違って、中国全土を占領するとか、中国国民奴隷化するというような主張は、100%ありません。アメリカは二、三年の期間は不満で、二、三か月の以内の撤兵を主張しました。ここに陸軍の横暴があるのです。すぐ撤退しては、陸軍の印象が悪いのです。負けたようで格好よくないというわけです。

 大東亜共栄圏思想ですが、日本中国全土を占領するとか、中国人を奴隷化するというような考えではなく、日中戦争が拡大したから、その説明の一つとして喧伝されたのであり、日中国民平和友好といったムードがその本質であり、具体性のないものでした。当時もやはり、日本人は根底日本人の中国にたいする「シナ中国コンプレックス」をもっていたのです。

 東条は陸軍の「行進」の先頭で旗をもっていましたが、「俺についてこい」と陸軍を引っ張っていたのでなく、陸軍というおみこし担ぎ運動で、その集団行動行進で、たまたま旗手をつとめていたにすぎません。もちろん、それで得意になっていたわけですが。といって、東条に責任がないわけではありません。

日本場合いくら東条などでもある一定以上の文化教養があったわけです。それを、ナチ日本も一緒にしてもらっては困ります

 この教養の差は、例えば敗戦の受けいれかたにも、大きな違いとなって表われます日本場合は、これ以上の負担国民に強いるのはいけないという、コンセンサスがありました。ポツダム宣言受託については、その内容の具体的な確認とか、「これでは国体が守れないではないか」といった意見の違いで、受諾がおくれただけであり、基本線は敗北やむなしでした。

東条でさえ対米交渉の妥結を希望をしていました。彼は10月中旬近衛に代わって総理大臣になりますが、東郷という、軍部の考えに抵抗した、超ハト派の、言葉をかえれば「強硬ハト派」の人間外務大臣にして、交渉継続します。(東郷昭和20年4月成立の鈴木内閣という敗戦終戦のための内閣で、外務大臣として、敗戦終戦のために尽力します。彼は東京裁判では有罪禁固二十年の判決。)

東条は反英米主義者でもありませんでした。中国との戦争で泥沼にはいってしまい、戦線を縮小する勇気、そこから撤退する勇気、をもたなかったのです。これがため、大事になってしまいました。昭和7年から大平戦争勃発までの駐日アメリカ大使のジョセフ・グルーという人は、知日家親日家でしたが、日記で「日本人は何か困難があると、(それを解決しようとしないで)回れ右をしてしまう」と書いています

 日本は「勝った、勝った。悪いシナを懲らしめた」という形にもっていけなかったわけです。戦線を大幅に縮小する勇気必要でした。

 中国も内部に大問題をかかえており、また、日本一方的大陸から追い出すほどの力をもっていませんでしたし、また、英米もそこまで中国を援助する必要は感じていなかったのです。中国協定を守らないので困っているという点では、英米日本と同舟でした。

陸軍英米大平方面で戦うための軍隊ではなく、大陸での権益を守るため、(ということは、間違いなく、日本帝国主義政策関係しますが)、の軍隊であり、その対象は一貫してソ連でした。

また、よく誤解されることは、「日本日清戦争とか、日露戦争とか、あるいは満州事変のあとから、大規模な軍隊中国大陸駐屯させていただろう」ということです。これもよくある誤解で、昭和12年の日本中国偶発事件が拡大するまでは、中国大陸に少しの軍隊駐留させていただけです。

 日本人は賢かった、勇ましかったなどとは言えません。愚かなことをしてしまったものです。

2022-06-21

anond:20220621180753

日本に対するスタンス

ビゴーの身長は160cmと欧米人としては低く、当時の日本人成人男性の平均とほぼ同じであった。清水勲は、このことで威圧感を与えずに日本人の中に入り込むことができたこと、また日本人の目線と変わらない絵の構図を獲得できたことを推定している[48]。

ビゴーの描いた風刺画のうち、鹿鳴館日清戦争を扱ったもの小学校中学校高校などの社会科歴史教科書にしばしば教材として掲載されてなじみが深い。これらの絵では日本に対して辛辣な描き方がされている。これについて清水勲は、ビゴーは条約改正を尚早と考える点では居留地外国人と同じスタンスに立っており、日本人の非近代的な側面を強調することでそれをアピールしようとした際に、貧相な容姿と非近代性をこじつけることが読者の理解を得やすいと考えたからだとしている[49][注釈 7]。

ただし、ビゴーが批判したのは日本国家の皮相的な欧化主義であり、日本の伝統的な文化庶民の営みには敬意と共感を抱いていた。子守の少女鉢巻きを巻いた姿で遊ぶのを目にして「鉢巻きは赤ん坊の顔に髪が触れないための工夫で、少女が遊ぶことで赤ん坊も楽しめるという点で日本の子守は悧巧である」と感服したという日本人の証言が残されている[注釈 8]。女性については『トバエ』の中で「日本で一番いいもの、それは女性だ。(中略)日本女性に生まれたのだから、どうぞ日本女性のままでいてもらいたい」と記し[52]、絵においても上流階級の人々は別として、風刺の少ない絵を描いた。後には日本女性結婚している。この背景として、日本女性がビゴーの求める日本的なもの江戸情緒を伝える存在だったからだと清水勲は記している[53]。

1898年頃と推定される詩画集『横浜バラード』には、日本への幻滅(糞尿を運ぶ荷車の悪臭や、外国人には高額をふっかける日本商売人)が歌われ[54]、離日直前に刊行した画集1899年5月』では条約改正後の日本に対する外国人不安ストレート表現されていた。しかし、フランス帰国後も亡くなるまで日本に対して愛着を抱き続けた。また、日本軍をよく知っていたビゴーは、日露戦争当時のフランスで「ロシア圧勝」という世論同調しない数少ないフランス人でもあった[55]。

欧米における日本描写ステレオタイプとなった「つり目で出っ歯」という姿はビゴーの風刺画にも登場するが、その点について清水勲は「当時の日本人は現在に比べて国民全体の栄養状態が悪く、小柄で出っ歯の人が多かった。そうした日本人の姿が1867年パリ万博で直に欧米人の目に触れたことと、ワーグマン、ビゴーなどの来日外国人の絵や当時の写真などの影響とによって広まり欧米人日本人観の一要因となったのではないか」といった意見を述べている[56]。

一方、同じくステレオタイプとしてよく登場する眼鏡については、ビゴーは「一般的に言って、日本人の視力はたいへん悪い。日本では様々な形をした、また様々な色をした眼鏡をかけている人に出会う」と記している[57]。清水勲は当時の日本人が「栄養状態が悪かったせいか、また家屋の作りから来る照明状態の悪さから視力がよくなかった」ことと明治以降印刷物を読む機会が増えたことで、眼鏡を多くの人が使うようになったのではないか推定している[57]。ただし、ビゴーの絵に眼鏡をかけた人物は必ずしも多くない。清水も、昭和期以降の欧米での日本人像に眼鏡が多く出る理由には昭和天皇や東条英機といった眼鏡をかけた要人がいた影響を指摘している[58]。ビゴーが庶民スケッチした絵では男女を問わず様々な人相・年齢・職業人物を描き分けている。

清水勲は「ビゴーは反日家なのか親日家かと聞かれることがあるが、答えはもちろん親日である」と述べている[59]。

及川茂は、帰国後のビゴーは、当時フランスで見られたインドシナなど他の風俗と混交したようなでたらめな日本描写を快くは思わなかったが、それに立ち上がって抗議するような形での感情日本に抱いていなかったとしている[39]。及川はビゴーが「日本をエキゾチストではなく、生活の一部として生きてきた人間」であり、「日本と対決したり競い合ったり摩擦を感じたりするのではなく、あればあるがままに、なければなしでもやっていけた」という[39]。滞日当時の日本は「そこで生活していれば批判対象であり、揶揄の種であった」が、それはビゴーが初めて知った日本とは別物であったとする[39]。帰国後のビゴーにとって日本は「いつも優しくそこにある国」で、素朴で自然暖かい日本自分の心の中にしまっておきたいという感情故に、ジャーナリズム挿絵画家という職を捨てざるを得なかったと指摘している[39]。

2022-04-15

ウクライナ戦争日露戦争というより日清戦争に似てきた?

張り子の虎であることが世界中に明らかに

核兵器がなく20世紀前半なら敗戦後に列強から食い物にされるコースに見える

そして20世紀前半メンタル現代国際社会にも存在し得ることを先に出したのはプーチンなのだ

2022-02-27

anond:20220227102733

戦時公債」「戦時国債」ともいう。

紛争・事変や戦争に伴って発生する巨額の財政支出の財源に充てるため、政府が発行する債券有価証券)の総称

通常の債務と全く変わらない国の「借金」であり、後日に税収などから購入者へ償還しなければならない。

日本では明治中期の「日清戦争」を皮切りに、戦争を行う度に大々的な戦時債券の発行が行われた。

例えば、日露戦争では国内で6億円、海外で7億円もの債券を発行した(当時の資産価値で)。

この戦争による戦時債券の償還には1930年代頃までかかった。

その後、1930年代1940年代になると「満州事変」「支那事変」「太平洋戦争」と立て続けに長期の戦争が発生。

財政が逼迫した政府は直接の国債のみならず、政府系金融機関を通じて国民に半強制的債券購入を強いた。

個人向けの無記名債券が大量に発行されて自治体に割り当てられ、労働者への給与も一部が債券で支払われた。

また、債券の償還に際しても、支払を現金の代わりに新たに発行された債券で行うような有様であった。

1945年8月太平洋戦争終戦に伴い、多くの国民が貯蓄の取り崩し、債権の回収にかかった。

また同時に、政府から軍需関連企業に向けて一斉に巨額の支払いが行われている。

この膨大な金の流れがハイパーインフレ引き起こし日本国内物価戦前の300~400倍にまで跳ね上がった。

結果、国民が買わされた戦時債券ほとんど無価値になってしまっている。

2022-02-06

anond:20220205145543

勝利条件の設定による

チベットウイグルみたいに国をまるごと制圧されて併合されるってのはさすがに考え難い

大敗して尖閣石垣宮古をとられるってシナリオはあるかもしれない

沖縄本島米軍がいる限り無理

日本勝利条件は台湾独立を認めさせるくらいか

日清戦争で勝って朝鮮独立を認めさせたのを思い出させるが、なんだかなー

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